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路線価でひもとく街の歴史
第74回 特別編
日銀代理店でみるご当地メインバンク 東海・近畿

前月号に続き、国庫金の出納業務を担った銀行(「日銀代理店」)の変遷を探る。今月は東海(愛知、三重)と近畿地方(徳島含む)を扱うが、文脈の都合で小倉と鹿児島を加える。図表1に拠点別の明治前半の里程元標、最高地価地点、受託銀行および所在地、そして明治39年(1906)以降の受託銀行の変遷をまとめた。

本町通・伝馬町と名古屋三大銀行

名古屋の街は8km北西の清洲にあった城下町を熱田台地へ高台移転したプロジェクト「清洲越し」に始まる。以来、名古屋の中心街は南北軸の本町通、東西軸の伝馬町からなる碁盤の目状の区域である。両軸が交差する地点は札ノ辻と呼ばれた。グリッドの南辺が広小路で、本町通との交差点に里程元標が置かれていた。本町通の札ノ辻から里程元標にかけての両側町が玉屋町で、明治15年(1882)から昭和4年(1929)にかけて県内の最高地価地点だった。戦前、当地の有力銀行を指して名古屋三大銀行と呼ばれたが、そのうち愛知銀行が玉屋町にあった。伝馬町には名古屋銀行と明治銀行があった。三大銀行の開業以前、国庫金の出納事務を扱っていた三井銀行も伝馬町に店を構えていた。後年、第一銀行が支店を出したのも伝馬町だ。

名古屋三大銀行について解説する。まず、名古屋の国立銀行で最も早いのは明治10年(1877)5月、いとう呉服店(現・松坂屋)の伊藤次郎左衛門ら尾張藩御用達商人の出資で茶屋町に設立された第十一国立銀行である。翌年の明治11年(1878)12月には、尾張徳川家や旧家老らの発起で第百三十四国立銀行が設立された。第百三十四国立銀行は岡崎で国庫金の出納事務を担うことになった。国立銀行の営業満期を迎えるにあたって、明治29年(1896)3月、尾張徳川家第18代当主徳川義礼を筆頭に、清洲越し以来の御用達商人が発起人として名を連ね、愛知銀行を設立(戦後の「愛知銀行」とは無関係)。開業後、第十一、第百三十四国立銀行ともに資産負債を愛知銀行に移した。初代頭取は岡谷惣助(9代目)である。家業は金物商「笹屋」で現代の岡谷鋼機である。

名古屋銀行は、明治15年(1882)、清洲越し以降の商人らの出資で設立された(戦後の「名古屋銀行」とは無関係)。初代頭取の瀧兵右衛門(4代目)の家業は呉服商「絹屋」だった。現在のタキヒヨーである。古知野(現・愛知県江南市)が発祥で、名古屋に出店したのは江戸後期である。最後は明治銀行である。明治29年(1896)8月の設立で、後に日本車両や東邦ガスその他多数の創業に関わる奥田正香が仕掛人だった。

愛知、名古屋、明治の各行が名古屋三大銀行と呼ばれる背景には名古屋財界の3つの系統を反映していたこともあった。愛知銀行は、清洲越し以来の歴史を持つ伝統的な御用達商人を祖とするグループで「土着派」の代表と目された。名古屋銀行は瀧家をはじめ名古屋近在を出身とするグループ、「近在派」の代表。これらに対し、明治銀行は外来の経営者が立ち上げた新興企業のグループで「外様派」とされた。明治銀行は昭和7年(1932)に休業してしまう。愛知銀行と名古屋銀行は昭和16年(1941)、伊藤銀行を加えた3行で合併して東海銀行となった。伊藤銀行は、第十一国立銀行の設立に参画した伊藤家が別途設立した名古屋初の私立銀行である。

豊橋の第八国立銀行は名古屋より早く明治10年2月に設立された。旧吉田藩士で、のちに横浜正金銀行の初代頭取を務める中村道太が設立に貢献した。同行は豊橋の国庫金を担っていたが、経営不振に陥り、名古屋の第百三十四国立銀行の救済を仰ぐ。第百三十四国立銀行は明治18年(1885)6月に八町に支店を出し、第八国立銀行に代わって国庫金の取扱を受託することになった。豊橋の最高地価地点は旧東海道の札木町だ。隣接する本町、呉服町と一体で商業拠点となっており、名古屋三大銀行も支店を構えていた。

次に、三重県は当時から名古屋との関わりが深かった。四日市港の取扱量は名古屋港を上回っていた。第1回銀行総覧によれば、明治29年(1896)の時点で、三井銀行の22の営業店のうち三重県内に四日市、津、桑名、松阪の4か所あった。その後撤退し、拠点は愛知銀行が譲り受けた。明治末期、日銀代理店は四日市が愛知、桑名は名古屋銀行が継承している。他方、伊勢志摩以南の国庫金は第百五国立銀行が明治初期から出納事務を扱っていた。同行は、津藩家老の藤堂高泰ら旧藩士によって明治11年11月に設立された。

図表1 日銀代理店の受託銀行の変遷(名古屋~徳島、小倉、鹿児島)

図表1 日銀代理店の受託銀行の変遷(名古屋~徳島、小倉、鹿児島)

琵琶湖水運と銀行街

琵琶湖の大津港は開港地に並ぶ重要拠点だった。明治初年、銀行の前身として設立された為替会社の拠点が東京、大阪、京都の三都に開港地の横浜、神戸、新潟、それ以外では大津と敦賀に設置された。瀬戸内海から琵琶湖を経て日本海に抜けるルート上の拠点である。三井銀行はこの為替会社を引き継いだ。里程元標のある上京町、三井銀行があった上小唐崎町は旧東海道にあり、最高地価地点の柳町はその一筋琵琶湖側にあった。三井銀行は明治20年(1887)に湖岸の橋本町に移転し、後にこの通りが銀行街になる。

大津初の本店銀行は第六十四国立銀行だ。明治11年6月の設立だが、翌年2月に彦根支店が分離独立して第百卅三国立銀行となった。国庫金は第六十四国立銀行が八幡(現・近江八幡市)、第百卅三国立銀行は彦根と長浜を担当した。三井銀行の大津撤退後、大津の国庫金は百卅三、八幡は近江商業銀行、長浜は第二十一国立銀行が扱うことになった。近江商業銀行は明治29年(1896)6月設立の彦根の銀行で、大正14年(1925)4月に名古屋の明治銀行に吸収される。明治銀行の休業後は地元の八幡銀行が代理店を引き継いだ。八幡銀行は明治14年(1881)12月に地元の近江商人が立ち上げた銀行だ。昭和8年(1933)11月に百卅三銀行と統合して滋賀銀行となる。第二十一国立銀行は明治10年10月に長浜で設立され、営業満期後の二十一銀行を経て昭和4年(1929)から湖北銀行となる。昭和17年(1942)8月に滋賀銀行に買収されるまでは湖北を代表する銀行だった。

京都北部に展開した大阪の百三十銀行

京都の里程元標は東海道の終点となる三条大橋にあった。中心地は三条通の先で、元標も大正期に三条烏丸に移った。三条通は第一銀行、日本銀行も出店した明治の銀行街である。三井銀行は新町通六角下ルにあった。三条通の1筋南、呉服問屋街の室町通の1筋西である。祇園祭には北観音山が出る京都の中心といえる。最高地価地点は先斗町の通りの松木町だった。

現在、京都府の地域一番行は京都銀行だが、戦前は京都市内が本店ではなかった。前身は、昭和16年(1941)、京都府北部にあった両丹、宮津、丹後商工、丹後産業の4行が合併した「丹和銀行」で、本店は福知山にあった。終戦直後は、三和銀行をはじめとした都市銀行のシェアが大きかった。京都銀行に改称したのは昭和26年(1951)、京都市内に本店が移転したのは昭和28年(1953)だった。京都府内の日銀代理店がすべて京都銀行となったのは昭和31年(1956)だ。

明治期に福知山や宮津の国庫金を扱った第百三十国立銀行は大阪が本店の銀行だった。明治11年12月の設立。創業者の松本重太郎は丹後地方の出身で、銀行を立ち上げるにあたって、福知山や宮津の旧藩士に出資を募った経緯があった。第百三十国立銀行、営業満期後の百三十銀行は担保の有無にかかわらない人物本位の融資方針が特長で、本店所在地の大阪を拠点に南海電鉄など様々な起業に関わった。当時にしては広域に展開しており、北九州地域にも拠点を持っていた。大阪港に移入される筑豊炭に着眼し、小倉に本店があった第八十七国立銀行を合併したからだ。

百三十銀行は積極策が仇となり明治37年(1904)6月に休業。安田銀行の傘下で再生を図り、後に合併される。百三十銀行に代わって日銀代理店を担った百三十七銀行は丹波篠山が本店で、支店網は兵庫県と京都府にまたがっていた。昭和17年(1942)に京都府内の店舗を丹和銀行に移管のうえ神戸銀行と合併した。

鹿児島と神戸と浪速銀行

堺の国庫金を担っていた第三十二国立銀行は、大阪の両替商「千草屋」平瀨亀之輔が創業した銀行だ。明治11年1月の設立で、明治31年(1898)1月の営業満期後は浪速銀行へ転換した。同年9月には第五銀行を吸収している。第五銀行の前身は、旧薩摩藩主島津家の出資で設立された第五国立銀行である。大阪で創業し、東京に本店を置いたが、地盤は旧領国の鹿児島にあった。合併の背景には旧薩摩藩が千草屋の得意先だった縁がある。明治33年(1900)、島津家家令で旧第五銀行取締役だった野元たけしが頭取に就任。以降、浪速銀行は鹿児島色を強めていく。大正9年(1920)に東京の十五銀行と合併するが、昭和2年(1927)に取り付け騒ぎを起こして休業に至る。十五銀行の前身の第十五国立銀行は、岩倉具視の呼びかけで旧大名が出資し、毛利元徳が初代頭取を務めた銀行で、「華族銀行」と呼ばれていた。図表1において、第五・第三十二国立銀行から浪速~十五銀行への変遷は堺以外にも西ノ宮、神戸、洲本、鹿児島で確認できる。

堺に話を戻すと、当地の里程元標は大道ノ辻にあった。環濠都市を南北に貫く紀州街道の別名大道筋と、東西軸の大小路筋が交差する地点である。最高地価地点は甲斐町東一丁で、現在の堺山之口商店街と重なる。明治11年2月、第三十二国立銀行は大道ノ辻の北西角、熊野町に支店を出した。浪速~十五銀行と変遷し、戦後は三井銀行の堺支店となった。現在は同じ場所に関西みらい銀行堺支店がある。十五銀行の破綻に伴って、日銀代理店は三十四銀行が引き継いだ。同行は明治11年3月に大阪高麗橋で設立された第三十四国立銀行を起源とし、昭和8年(1933)12月に鴻池、山口銀行と合併して三和銀行となった。堺には、当地を本店とする大西銀行を買収して設けた堺支店があった。

さて、神戸の里程元標は元町六丁目、現在の元町商店街の西端にある。最高地価地点は海岸通三丁目だった。今は神戸ポートタワーが立つ中突堤に続く場所である。神戸の国庫金を担っていたのは三井銀行で、店舗は海岸通の1筋山側の栄町通にあった。のちに銀行街を形成し、浪速銀行神戸支店も栄町通にあった。神戸は、鹿児島出身の川崎正蔵が起こした神戸川崎財閥の本拠地である。中核の川崎造船所が株式会社化したのが明治29年(1896)で初代社長は明治の元勲、松方正義の三男の松方幸次郎だった。国庫金の出納事務は明治32年(1899)の住友銀行を経て、明治36年(1903)から浪速銀行が担うことになった。鹿児島色を強めていった浪速銀行の頭取は大正2年(1913)に松方正義四男の松方正雄となった。7年後の十五銀行との合併時、十五銀行の頭取は松方正義長男の松方巌だった。銀行破綻の一因となった神戸川崎財閥向け融資の背後には、薩州財閥、さらには松方コンツェルンとも称される人的関係があった。

三十四銀行と徳島

経済・文化圏として徳島は近畿と近しい。銀行の店舗展開にもそれが表れており、三十四銀行が創業期から地盤としていたのが徳島だ。徳島は西横町の新町橋北詰に里程元標があった。明治12年(1879)6月、第三十四国立銀行の最初の支店として名東支店を出店した。当時、徳島は高知県の一部で徳島市街は名東郡に属していた。社史には、副頭取が高知に出張したとき、官公金の取り扱いを依頼された出店経緯がある。大阪商工会議所の初代会頭の五代友厚が製藍所を整備したが、徳島の藍は大阪の繊維産業に欠かせなかったはずだ。木綿問屋の岡橋治助が起こした第三十四国立銀行は繊維産業との関わりが深い。サプライチェーン上の密接な繋がりがあったと推測される。

対して、淡路島洲本の国庫金を受託している久次米銀行の発祥が徳島である。久次米銀行は明治24年(1891)に休業し、東西2分割のうえ再興を図ることになる。西半分の継承銀行を阿波銀行といったが、現在の阿波銀行とは別で、これを母体に阿波商業銀行を立ち上げた明治29年(1896)6月を現在の阿波銀行の創業としている。

第三十四国立銀行が出店したのは通町だった。藩政期に街道の起点となった徳島橋から続く商人地で当時の中心地だった。最高地価地点は不明だが、当時の一等地だったに違いない。阿波商業銀行が開業したのは新町川沿いの船場町で、第三十四国立銀行が移転したのはその1筋背後の西新町だった。明治中期以降の銀行はこの近辺に集積した。その後、藍産業の衰退とともに中心街は西新町から東新町に移っていく。

堺から徳島に至る途中の和歌山の最高地価地点は本町一丁目。南北のメインストリートの本町通の、市堀川に架かる京橋北詰に里程元標があった。三井銀行の撤退後、当地で創業した第四十三国立銀行が当地の国庫金を担っていた。営業満期後の四十三銀行は昭和5年(1930)に破綻。主な店舗は三十四銀行が継承した。その後、昭和28年(1953)9月末時点で三和銀行は和歌山県に9店舗を擁していた。現在の地域一番行の紀陽銀行は明治28年(1895)設立の紀陽貯蓄銀行を祖とする。大正元年(1912)に本店を本町一丁目の現在地に移し、大正11年(1922)に普通銀行に転換して紀陽銀行となった。和歌山県金庫も三和銀行が担っていたが、昭和35年(1960)に紀陽銀行が引き継いだ。

最後に、兵庫県播磨地域と奈良県について触れておく。姫路は第三十八国立銀行とその承継行が当初から戦前を通して日銀代理店を担っていた。拠点の本町は西国街道の1筋北側である。里程元標の福中町、最高地価地点の俵町ともに西国街道の両側町だ。明石も姫路と同様に当初から戦前にかけて同じ銀行、すなわち第五十六国立銀行とその承継行が国庫金の出納事務を担っていた。いずれも神戸銀行の前身行の1つである。本店があった西本町は淡路島にわたる港の前にあり、明石の最高地価地点だった。

奈良は第六十八国立銀行、営業満期後の六十八銀行から一県一行の再編を経て南都銀行に至る同系統の銀行が国庫金を担っている。銀行所在地の角振町、里程元標の橋本町ともに当地のメインストリート、三条通にある。最高地価地点の樽井町は三条通の一筋南にある。第六十八国立銀行は大和郡山で創業し、明治21年(1888)に奈良支店を出店した。奈良支店が本店となったのは昭和3年(1928)である。

鈴木文彦

プロフィール

大和総研主任研究員 鈴木 文彦

仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員 (2004-06年) 出向等を経て2008年から大和総研。主著に「自治体の財政診断入門」(学芸出版社)、「公民連携パークマネジメント」(同)