タイトルからは堅苦しい戦略書を想像しがちだが、本書は「日本語」という切り口から歴史・文化・宗教、教育、雇用、組織のあり方まで幅広いテーマを取り上げ、これからの日本が世界とどう関わるべきか、いかに貢献できるかを問う、今を生きる世代の指針ともなるべき好著である。
本書の根底にあるのは日本の緩やかな衰退を当然視する見方に対する強い違和感である。これは、ジャパン・アズ・ナンバーワンの時代に大蔵省の若手課長補佐であった著者から直接指導を受けた私自身も共有する感覚である。著者は日本の長期的衰退を当然の流れだとはみていない。むしろ、関税や領土を巡って対立し、「帝国主義に先祖返りする世界」の方こそ今や曲がり角に差しかかり、行き詰まりつつあると喝破する。
主語を前面に立て自己主張する英語や中国語に対し、主語を省略して相手との関係を重視する日本語は、相手を打ち負かすためというより合意を形成するために設計された言語である。国際協調が難しくなる時代にこそ、日本語は対話を継続させる装置となり得る。主張すべきは主張し、必要な場面では正面から反論することは当然である。しかし同時に、日本語が本来持つ調整能力、すなわち相手を追い込まず合意へと導く力が多国間のルール形成で力を発揮しうるという著者の主張は、TPP交渉といった国際交渉の最前線で培われた経験に裏打ちされたものであり、きわめて説得力がある。
巻末に掲載された100冊近い内外の参考文献が示すように、本書の魅力はこうした主張が様々な分野の研究・分析を踏まえて展開されている点である。「源氏物語」にはおよそ主語が出てこないこと、主語の概念自体が明治時代に西欧語の文法にならって日本語文法を創り上げた際に無理に導入されたものであること、中国の漢字は名詞や動詞の区別がなく語順もかなり自由で、そのことが言葉の異なる民族間のコミュニケーションを円滑にし、グローバルな中華文明を生み出す素地となったことなどは意外と知られていない事実である。
著者の議論は単に言語学の領域に留まらない。訓読みの導入により日本語化された漢字には極めて多くの同音異義語が生まれた。その結果、日本人は柔軟な思考を得意とするようになり、「ほら話」「掛け合い」「言葉遊び」といった文化が育まれ、落語や漫才、さらには現代のマンガの発展にまでつながったといった文化論にまで議論は広がっていく。日本語は曖昧さや行間・余白を許容しながら共同体を運営してきた経験を言語の形で保存してきた。AIの時代においても、計算・検索・情報処理が機械にますます委ねられるほど、想像の飛躍や比喩を得意とする日本語はその潜在力を発揮して人類の進化に大いに貢献するとの著者の主張は、AIの将来像がなお見通しにくい今日において明るい希望を抱かせてくれる。
本書は西欧のみならず、中国・韓国といった近隣諸国との向き合い方についても示唆に富む主張を展開する。中国の「証拠より論」の思考、閉ざされた言語空間の中での中国共産党による教条主義的な「天命思想」に基づく伝統文化の否定、さらには韓国にみられる事実を十分検証することなく前王朝を否定し現王朝を正当化する「易姓革命」の思想などは、今日の複雑化する日中、日韓関係を理解するうえで有益な視点を与えてくれる。
さらに議論は雇用や組織のあり方にも及ぶ。メンバーシップ型雇用が本来有するところの多様な力を持つ従業員の潜在的な能力を引き出す仕組みを再認識すべきだという主張は、まさに今日重視される人的資本経営そのものである。他方、海外ではジョブ型が不可欠であり、国内外での使い分けが要るという指摘には、国際通貨基金(IMF)のマネージメントに携わった者として深く頷かされる。
本書において著者は「日本語」を語りながら、実は「日本人の働き方」と「世界との向き合い方」を語っている。長年霞が関で組織・制度を動かしてきた現場感覚と深い洞察力に裏打ちされた主張がウイットに富んだ語り口で展開されるため、読者は思わず引き込まれてしまう。日本社会がかつてのような自信を失いかけている今日、読み終えた後に、ふと元気が湧いてくる一冊である。ぜひご一読をお勧めしたい。


