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長崎大学経済学部創立120周年に寄せて~「一出向者」の視点~

長崎大学経済学部 教授 岡崎 洋太郎

はじめに

筆者は昨夏より国立大学法人長崎大学に出向し、人生初の大学教員として“キャンパスライフ”を過ごしている。筆者の研究室は、財務省から代々出向してこられた方々の資料や書籍で書棚が埋まっており、“にわか教員の職場”も不思議とそうでなく見える。大学といえば、もっぱら学生の身分でしか在籍したことのなかった筆者が、今はこうして教壇に立つ身となり、曲がりなりにも授業や学生指導を行えているのは、かつて同じ立場にあった諸先輩が軌道を敷かれたからこそと、講義の準備などでつくづく思う。

さて、筆者が籍を置く長崎大学経済学部は、昨年、創立120周年を迎え、12月には記念行事が催された。財務大臣からは祝電を頂戴し、同窓会組織をはじめ、各方面から多人数のご参加を得て、祝賀会を含む全日程は滞りなく進行し、盛会のうちに幕を閉じた。そこで、この大きな節目に、「一出向者」の視点から、本誌を通じ、本学部に今も残る伝統に触れつつ、“現地リポート”ができればと、筆を執らせていただいた。*1

1.長崎大学経済学部の「いま・むかし」

(1)「かたふち

地元では「ちょうだい」の呼び名で親しまれる長崎大学は、第二次世界大戦後、幕末期のオランダ海軍医による医学伝習の開始(1857(安政4)年)に源流を持つ長崎医科大学をはじめ、長崎県内にあったいくつもの高等教育機関を束ねる形で発足した。今日の長崎大学は、文理を跨ぐ多数の学部や大学院を擁し、熱帯医学研究所、核兵器廃絶研究センターなどの研究機関の活動でも知られる総合大学である。その一部をなす経済学部は、他学部にはない単独のキャンパスを有し、有形無形の固有の伝統を保ちながら、独自の発展を遂げてきた。

教職員や学生が出入りする経済学部本館の玄関内側には、「長崎大学経済学部の沿革」というプレートが壁に据え付けられており、そこにこう記してある。

「長崎大学経済学部は、その前身である長崎高等商業学校が、東京高商(一橋大)、神戸高商(神戸大)に次ぐ第三高商として明治38年3月に長崎県西彼杵にしそのぎかみながさきかたふち郷(現長崎市片淵)の地に設立しました。長崎高等商業学校は、第二次世界大戦中の昭和19年4月に長崎経済専門学校と改称されました。なお、その際、長崎工業経営専門学校が併設されましたが、同校は終戦後間もない昭和21年4月にその使命を終えて廃止されました。長崎経済専門学校は、昭和24年4月に、経済学科と商学科の2学科を有する新制長崎大学経済学部として新たに発足しました。」(ルビ筆者)

すなわち、戦後の新制大学である長崎大学が開学する以前より、経済学部としては、長崎高等商業学校の開校時(1905(明治38)年)からの歴史を刻んでいる。開校の4年前、長崎県内の政財界は、時の桂内閣が九州に医科大学と高等商業学校を設置したいとの意向であることを察知し、早々に動き出したものの、二兎を追うことの困難さを知るにつけ、後者に的を絞った誘致運動に切り替えた。この戦術が奏功し、近隣県に競り勝つことができたわけである。そして、開校以来、一貫して同じ土地に根を張り続け、今日に至っている。(なお、医科大学の設置については、1923(大正12)年に実現をみている。)

長崎大学のキャンパスのうち、長崎市の片淵という地区にあるのが経済学部の「片淵キャンパス」で、大学の本部が置かれる「文教キャンパス」(長崎市文教町)や、医歯薬の各学部や大学病院などが入る「坂本キャンパス」(同市坂本)とは、山を隔てて数キロメートル離れた位置関係にある。片淵キャンパスは現在も経済学部とその関連施設のみで占められ、一見すると独立の単科大学のようでもある。

長崎高等商業学校の用地に「片淵」が選ばれた理由は定かではない。ただ、現在でも、長崎市内には平坦な土地が少なく、中学校や高校、観光旅館やホテル、シニア層向け集合住宅などの大型の建物が、坂道を上りきった先の山の中腹や頂上付近に立地していることから、当時はなおのこと、交通の便のよい中心部付近には、大規模な学校は建てられなかったのではないか。実は、当時(学校建設前)の片淵には、長崎監獄(後に払い下げられて諫早に移転)という近代的建造物がすでにあり、塀で囲まれた敷地は現在の片淵キャンパスの南側一帯を占めていた。対照的に、その後背地には建物がなく、田畑が広がっていたことから、学校建設に適していると判断されたようである。

この片淵の地に誕生した学校は、現在のJR長崎駅から直線距離で2キロメートル弱(山を挟み込むような位置関係にあり、実際の移動距離はもう少し長い)、長崎くんち(毎年10月に開催)の舞台となる諏訪神社の最寄りの電停(路面電車の停留所)から800メートル程度と、市街中心部からは、坂の上ではあるが、かろうじて徒歩圏内ともいえる。江戸時代には、出島や唐人屋敷の周りで商いが活発に行われており、富を築いた町人が余生を楽しむ別荘地が片淵であったとされる。現在の片淵は、高台に広がる閑静な住宅街、といえば聞こえはよいが、その実、人通りはまばらで、高齢化の進展とともに空き家が増えていると聞く。

それでも、片淵から真南に下ると、しんだいまちという町名の商業地区が賑わいを見せる。この町は、7年に一度、奉納踊りの当番が巡ってくる長崎くんちのおどりちょう(全58カ町)の一つで、どことなく下町の趣がある。今は近隣でひときわ目立つ超高層マンションが町のランドマークと化しているが、かつてこの地は、シーボルト(出島オランダ商館付医師)の江戸参府でも知られ、九州・豊前の小倉へと延びる長崎街道の出発点であった。同街道に沿って佐賀県鳥栖市までを結ぶ国道34号線は、江戸期に長崎中心部を貫いていた大通りを引き継ぐように、ここから出島付近の江戸町交差点(終点)へと続いている。突き当りの長崎県庁舎跡地(更地)は、鎖国下で貿易管理の最前線にあった長崎奉行所西役所が置かれていた場所で、現在もその石垣の遺構などが残っていることから、県が国の史跡指定(年内)を目指している。

旧校舎の側面全景。長崎高等商業学校第八回卒業記念写真帖(1915(大正4)年)より。前方の石橋は1903(明治36)年に架設された拱橋(こまねきばし)(南西の方角から撮影)。学校の前にあって美観を損ねないよう、鉄骨トラス橋ではなく、アーチ橋が適当とされた。

旧校舎の側面全景。長崎高等商業学校第八回卒業記念写真帖(1915(大正4)年)より。前方の石橋は1903(明治36)年に架設された拱橋(こまねきばし)(南西の方角から撮影)。学校の前にあって美観を損ねないよう、鉄骨トラス橋ではなく、アーチ橋が適当とされた。

写真上は、ほぼ旧校舎の位置にある現在の校舎(経済学部本館)。1971(昭和46)年落成。手前には、「長崎高等商業学校」と刻まれた石碑が立つ。前掲写真と同方向から筆者撮影。写真下は、現在の拱橋(筆者撮影)。キャンパス内に3点ある国登録有形文化財の一つ。

写真上は、ほぼ旧校舎の位置にある現在の校舎(経済学部本館)。1971(昭和46)年落成。手前には、「長崎高等商業学校」と刻まれた石碑が立つ。前掲写真と同方向から筆者撮影。写真下は、現在の拱橋(筆者撮影)。キャンパス内に3点ある国登録有形文化財の一つ。

各キャンパスの位置関係(国土地理院「地理院地図(電子国土WEB)」より筆者加工):「文教」・「坂本」と「片淵」とは、自動車(北回り)で15分前後(約6キロメートル)の距離。

各キャンパスの位置関係(国土地理院「地理院地図(電子国土WEB)」より筆者加工):「文教」・「坂本」と「片淵」とは、自動車(北回り)で15分前後(約6キロメートル)の距離。

昨年の長崎くんち(諏訪神社境内)の様子。中央の演(だ)し物は、当番としてトリを務めた新大工町の曳壇尻(ひきだんじり)。10月でも日差しは強く、頭に手拭いを被って見物した。筆者撮影。

昨年の長崎くんち(諏訪神社境内)の様子。中央のし物は、当番としてトリを務めた新大工町の曳壇尻ひきだんじり。10月でも日差しは強く、頭に手拭いを被って見物した。筆者撮影。

新大工町からほど近い桜馬場(さくらばば)天満神社(筆者撮影)。ちょうど200年前(1826(文政9)年)に初めて、出島オランダ商館長を筆頭に江戸に向かうシーボルト一行は、ここで見送り人と別れの盃を交わし、旅の安全を祈願した。

新大工町からほど近いさくら天満神社(筆者撮影)。ちょうど200年前(1826(文政9)年)に初めて、出島オランダ商館長を筆頭に江戸に向かうシーボルト一行は、ここで見送り人と別れの盃を交わし、旅の安全を祈願した。

(2)旧制学校時代の教育

片淵の地に誕生した長崎高等商業学校は、修業年限を3年とする官立(文部省直轄)の高等教育機関(旧制専門学校)で、今日(第二次大戦後の新制大学)の大学生とほぼ同年代の(あるいは幾分若い)学生を対象に、現代風にいえば、ビジネスの世界で活躍できる高度人材の養成を目的とした実学重視の専門教育を行っており、語学教育にも力を入れていた(開校当初より、1年次から3年次まで、週35コマ中、英語10コマ、第二外国語3コマ)。主な授業科目(語学等を除く)としては、開校4年にして最初の見直しが図られた後(1909(明治42)年)を例に挙げれば、「書法及商業文」、「経済学・財政学」、「法学通論・民法商法」、「工業大意」、「簿記・計算学」、「商業算術」、「産業地理及商品学」、「商業学・商業実践」とある(すべて必修)。さすがに、こうした学問領域を3年かけてしっかり学べば、ビジネスエリートとしての素養が身に着き、実務で即戦力になれるのかもしれない。ただし、記録によれば、授業は季節を問わず朝8時に始まり、毎日6時間びっしりの時間割が組まれ、一期生として入学した113人中、第一回卒業生(1908(明治41)年)は78人と、厳格な教育方針であったことは想像に難くない。

大正期には、とくに第一次世界大戦後、海外の需要増などから商品輸出が拡大するとともに、国内では工業生産が飛躍的に増大し、都市化が急速に進展するなど、好況と産業の発展により経済社会に構造的な変化が起こり、企業は海外進出に乗り出すようになった。こうした時代背景のなか、長崎高等商業学校にあっては、卒業生の就職状況はすこぶる良好で、その影響もあってか、「実業教育」への期待と需要は高まり、入学志願者は増加の一途をたどり、開校当初は360人であった総定員(1学年120人)が、1919(大正8)年には600人となっている。また、その4年後には、学科課程(カリキュラム)の画期的な改変が行われている。例えば、数自体が少なかった既存の授業科目をそれぞれ細分化したり、自由で主体的な学びを重んじて科目選択制を導入したり、演習(ゼミ)形式での研究指導を取り入れ、外国書の精読を通じて深い学問知識を身に着けさせたりと、後の時代の「大学教育」につながる一大改革であった。

こうして新たに開講された科目のリストには、「貨幣及銀行」、「外国為替」、「取引所」(以上、金融・証券関係)、「海運」、「鉄道」、「税関及倉庫」、「保険概論」、「海上保険」、「共同海損」(以上、海事・物流関係)、「国際公法」、「商事関係法」、「国際私法」(以上、法務・商事関係)などが並ぶ。これらから見て取れるように、実学科目の充実により、学ぶ側のニーズや関心に応え、専門教育を強化しようとの意図が伝わってくる。ここで、当時、長崎税関に勤務しながら、前記「税関及倉庫」の担当教官でもあったたにぐちつね氏に触れておきたい。

時代は下って、東京が大空襲に見舞われた1945(昭和20)年5月24日の晩、日本銀行で副総裁の職にあった谷口氏は、渋谷の自宅から青山大通りに避難したものの、たちまち火の手に囲まれて進退に窮し、その場で何かにつまずき、転んだ拍子に近眼鏡を落としたことまでが、同行者談として分かっている。結局、谷口氏は帰らぬ人となるが、こうした経緯については、日銀総裁として同氏の働きに大いに助けられ、第二次大戦直後には蔵相(幣原内閣)も務めた渋沢敬三(祖父は実業家の渋沢栄一)が、自身の回顧録(『犬歩当棒録』・九州大学蔵書)に詳しく書き残している(「谷口恒二氏を偲ぶ」)。

この谷口氏は、経済学部に今も残る大正期・昭和初期の資料によれば、1923(大正12)年から4年間、長崎高等商業学校で講師を務めていたことが分かっており、在任中に同氏が著した『「税関」ニ関する講義案』(教本として使用されたかどうかは不明)は、税関の組織や所掌から、貨物の輸出入、動植物の防疫、旅客の検疫、船員の交通、船舶の入出港、倉庫の利用など、税関が行う業務や手続きに至るまでを網羅的に解説している。しかも本著書は、単に当時の制度や法規を体系的にまとめたのみならず、来るべき「航空税関」の時代を見据え、海上貨物輸送が前提の関税の概念をどう応用すべきかを論じ、さらに、国際連盟が主導した税関手続に関する条約への日本の批准を強く推奨しつつ、今日でいう貿易円滑化を志向した「国際税関」の絵姿を示している。まさに谷口講師は、長崎の地にあって、新時代を先取りし、世界の趨勢にキャッチアップすることの意義を説いていたわけである。

大正期の特筆すべき改革の例として、先に述べた学科課程の改変に加え、順序が前後するが、第一次大戦中の1917(大正6)年に、修業年限を1年とする「海外貿易科」が新設されていることを挙げたい。当時、日本の対外貿易は未曾有の拡大期に入り、貿易業務に従事する人材の育成が急務となり、高等商業学校卒業者を対象に、とくに国際通商・商事分野で高度な専門教育を施すため、今日の「大学院教育」(専門職業人養成)にも通じるような新課程の導入が決まった。その特徴は、海外での企業経営や事業展開に必要な知識を習得させる専門科目の開設と、外国語の幅広い選択肢にあった。ちなみに、第二次大戦後の昭和期において、経済学部に「貿易学科」が新設されることになるが、その基礎となったのがこの海外貿易科である。日本の経済事情を踏まえ、時代の要請に応えようとする姿勢は、戦前から続く経済学部の伝統といえるかもしれない。

昭和期に入ると、定員はさらに増え(全校で800人以上)、全国の高等商業学校で最大規模となるも、手狭になった施設を増築し、敷地を拡張(買収)するなどの対応がとられ、教育・研究の面では、東アジアや南洋諸島への進出を念頭に、海外貿易科の重点をこれら地域に置くなどの見直しが行われている。やがて日本は戦時体制に入り、数年を経て、長崎高等商業学校は長崎経済専門学校と改称され、同時に、長崎工業経営専門学校が併設される。戦争遂行の必要上、“商業から工業へ”の転換が高等教育に反映されたものとみることができる。

「商品学」の教育・研究に必須であった商品見本は、国内外から鋭意収集・購入され、明治40(1907)年に竣工した商品館に収められた。写真は見本が展示された同館の階上。長崎高商第13回卒業アルバム(1920(大正9)年)より。

「商品学」の教育・研究に必須であった商品見本は、国内外から鋭意収集・購入され、明治40(1907)年に竣工した商品館に収められた。写真は見本が展示された同館の階上。長崎高商第13回卒業アルバム(1920(大正9)年)より。

写真左:長崎大学附属図書館経済学部分館の展示室には、かつて商品館で使われた陳列ケース(和ガラス)が置かれ、長崎高商で教授を務めた武藤長蔵(ちょうぞう)博士(1881-1942)(写真右)が個人で蒐集・寄贈した文物が並ぶ。筆者撮影。

写真左:長崎大学附属図書館経済学部分館の展示室には、かつて商品館で使われた陳列ケース(和ガラス)が置かれ、長崎高商で教授を務めた武藤ちょうぞう博士(1881-1942)(写真右)が個人で蒐集・寄贈した文物が並ぶ。筆者撮影。

今日では読解が困難な『「税関」入門』(長崎大学経済学部東南アジア研究所所蔵・筆者撮影)。長崎税関長の序文には、「本書ハ当関監視部長兼港務部長税関事務官谷口恒二君カ公務余暇ヲ利用シテ著述スル所ニ係リ専ラ関税行政ノ大局ヲ説明センコトヲ目的トシタリ」とあり、職員が「入門者ノ心境ニ立チ返リ」学べるよう本書を頒布すると記されている。

今日では読解が困難な『「税関」入門』(長崎大学経済学部東南アジア研究所所蔵・筆者撮影)。長崎税関長の序文には、「本書ハ当関監視部長兼港務部長税関事務官谷口恒二君カ公務余暇ヲ利用シテ著述スル所ニ係リ専ラ関税行政ノ大局ヲ説明センコトヲ目的トシタリ」とあり、職員が「入門者ノ心境ニ立チ返リ」学べるよう本書を頒布すると記されている。

長崎大学経済学部東南アジア研究所では、最近、表紙に「税関書式」とあるアルバム形式の資料が見つかり、1918(大正7)年頃に長崎税関が扱った書類一式の現物が良好な状態で綴じられていた。写真上は、「携帯品積戻切符」と「船用品積込申告書・同許可書」、写真下は、長崎拠点の英国商社「ホーム・リンガー商会」による倉庫保管料の納付書。筆者撮影。

長崎大学経済学部東南アジア研究所では、最近、表紙に「税関書式」とあるアルバム形式の資料が見つかり、1918(大正7)年頃に長崎税関が扱った書類一式の現物が良好な状態で綴じられていた。写真上は、「携帯品積戻切符」と「船用品積込申告書・同許可書」、写真下は、長崎拠点の英国商社「ホーム・リンガー商会」による倉庫保管料の納付書。筆者撮影。

(3)原爆投下と敗戦

被爆から80年目にあたる昨年、長崎市は被爆100年を見据え、被爆の実相を伝え続けていくため、被爆者の体験を語り継ぐ次世代の継承者の育成、被爆資料の収集や保存の強化、資料の持つストーリーを紹介しながらの活用、といった取組みを推進し、また、市民団体等がさまざまな記念事業を実施した。8月9日の長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典では、長崎市出身の福山雅治氏が作詞・作曲した「クスノキ」の児童合唱が行われた。*280年前のこの日、この片淵の地にいた人々の目には、山を隔てた上空に立ち昇る原子雲(きのこ雲)がどう映ったのか、キャンパス内にいるとつい思いを巡らしてしまう。

原爆落下中心地(浦上地区)からおおむね南東の方角にある片淵キャンパスは、直線距離で約2.8キロメートル離れている。爆心地から南へ約2.5キロメートルの距離にある長崎駅や周辺の市街地は、原爆投下によりほぼ壊滅状態となったが、片淵の地区一帯では、爆心地から同程度の距離間隔ながら、ちょうど近傍のこんさんが遮蔽になり、被害が相対的に小さく済んだ。それでも、長崎経済専門学校(当時)の校舎の損傷はひどく、窓ガラスの大半は爆風で砕け、図書館の蔵書は床に散乱していたという。当時、学生たちは学徒勤労動員の対象で、原爆投下時も、軍需工場での生産活動などに従事していた。やがて学校に続々と戻ってくる学生たちは、多くが生気を失っており、重傷者は校内の地下壕に避難し、水を与えられ、包帯を取り換えたそうだ。動員されていた学生のなかでは、現在の文教キャンパスの位置にあった三菱重工業長崎兵器製作所大橋工場で多数の死傷者が出た。原爆による死亡者は、学生と一緒に工場に行って被爆した教官が1名、学生が計26名で、学生らの遺体は校内の運動場でに付された。

8月15日に「玉音放送」が流れると、それでも納得がいかずに“抗戦”の意思を示す学生もいたそうだが、ともかく、敗戦の翌日には勤労動員が解除され、21日には文部省から、9月中旬に授業を開始するよう指示があった。9月17日に再開された学校では、復員してきた学生たちが互いの無事を喜び、久しく離れていた授業が始まると、熱心に講義を聞いたという。

現在、経済学部にある図書館などの施設には、高等商業学校時代に収集された歴史的・文化的価値のある資料や文物が多数残っている。それはほかでもなく、空襲(記録によれば、長崎市では原爆投下を含めて6度あった)の標的からたまたま外れ、原爆による壊滅をかろうじて免れた片淵の地にあったからである。*3当時の蔵書は今も良好な状態で保管されており、片淵キャンパスの大学附属図書館(経済学部分館)には、戦後の占領政策を担った連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令により禁書扱いとなった書籍が展示されている。

1907(明治40)年に竣工した赤レンガの倉庫(筆者が片淵キャンパス内で北西に向かって撮影)。国登録有形文化財。長崎高等商業学校の創立当時のもので現存する唯一の建物。裏手に見えるのが金比羅山。片淵にあって被爆した建物群の一つではあるが、原形を完全に保ちながら、現在も敷地内で静かにたたずむ。

1907(明治40)年に竣工した赤レンガの倉庫(筆者が片淵キャンパス内で北西に向かって撮影)。国登録有形文化財。長崎高等商業学校の創立当時のもので現存する唯一の建物。裏手に見えるのが金比羅山。片淵にあって被爆した建物群の一つではあるが、原形を完全に保ちながら、現在も敷地内で静かにたたずむ。

近くの山中で被爆(当時12歳)した浦川大次郎さん(現在は長崎市片淵)の絵。西日本新聞2025(令和7)年3月3日「『火葬の絵は描けたが、生きている人の苦しみは…』尊厳への葛藤 学びの場で眺めた光景」より転載。現片淵キャンパスのグラウンドは、原爆で死亡した人たちが焼かれる臨時火葬場となった。

近くの山中で被爆(当時12歳)した浦川大次郎さん(現在は長崎市片淵)の絵。西日本新聞2025(令和7)年3月3日「『火葬の絵は描けたが、生きている人の苦しみは…』尊厳への葛藤 学びの場で眺めた光景」より転載。現片淵キャンパスのグラウンドは、原爆で死亡した人たちが焼かれる臨時火葬場となった。

2.長崎大学経済学部の「120周年」

(1)「けいりん

雪を被った光り輝く林を意味する「瓊林」は、その林を形作る木々がすべて「ぎょく」である、との故事があるそうだ。そして、長崎が古くは「たまうら」(「瓊ノ浦」とも)と称されており、「瓊」の字が長崎にふさわしいという理由から、1909(明治42)年に結成された同窓会組織(「長崎高商同窓会」)の新たな呼び名として、1936(昭和11)年に社団法人の認可を受けた「瓊林会」が出発した。2013(平成25)年4月1日からは、公益社団法人へと移行し、学生へのキャリア教育・就職支援活動、無料職業紹介事業の展開、国際化対応の人材育成と留学支援活動などの公益事業活動を通じ、母校・長崎大学経済学部の発展に尽力している。また、東京、名古屋、大阪のほか、中国地方から九州にかけて多くの支部を設け、全国的な会員ネットワークを築いており、卒業生や学校関係者の間での交流を活発化させながら現在に至っている。(「公益社団法人 瓊林会」公式ホームページ(https://www.keirinkai.or.jp/)参照)

片淵キャンパス内には、正門から入ると誰もがその先に、「瓊林会館」というレンガ積みの近代建築物を見つけることができる。同キャンパスの「こまねきばし」、「経済学部倉庫(旧長崎高商倉庫)」とともに、2007(平成19)年10月に、文化財保護法の規定により文化財登録原簿に登録されたこの洋館は、かつては瓊林会事務局として機能していた(熊本地震の影響により耐震性に問題が生じ、同事務局は経済学部の別の建物に移転)。外観が印象的で、往時の長崎を偲ばせる貴重な文化財として、訪れる人の目を引く。一般開放こそされていないものの、許可を得れば内部を見学することもできる。

瓊林会館(筆者撮影)。海運で財を成した橋本喜蔵氏(佐世保市)の寄付金6万5千円により設立。1919(大正8)年に落成したこの建物は、当初は「研究館」と称され、海外貿易科の拠点となったほか、教官の研究室が置かれた。

瓊林会館(筆者撮影)。海運で財を成した橋本喜蔵氏(佐世保市)の寄付金6万5千円により設立。1919(大正8)年に落成したこの建物は、当初は「研究館」と称され、海外貿易科の拠点となったほか、教官の研究室が置かれた。

瓊林会館内に飾ってある瓊林会歴代会長の写真(全体の一部を筆者撮影)。歴代会長が社長(頭取)・会長を務めていた企業として、直近6代では、大和証券、田崎真珠、アサヒビール、十八銀行、岡三証券、TOTOといった社名が並ぶ。

瓊林会館内に飾ってある瓊林会歴代会長の写真(全体の一部を筆者撮影)。歴代会長が社長(頭取)・会長を務めていた企業として、直近6代では、大和証券、田崎真珠、アサヒビール、十八銀行、岡三証券、TOTOといった社名が並ぶ。

(2)創立120周年記念行事

昨年、長崎大学経済学部は長崎高等商業学校の創立から120周年を迎え、12月6日にはそのハイライトとなる記念行事が挙行された。従前より、瓊林会(経済学部OB・OG会)が10年ごとに開催してきたものだが、120周年ともなれば大きな節目ということで、今回は経済学部(教職員)と瓊林会の双方が実行委員会を構成し、記念行事の準備と運営を共同で担った。また、かつては来賓であった学長が、今回は主催者側の立場で挨拶を行い、長崎大学(全学)としても重要な行事と位置付けていることを示した。

当日は好天に恵まれ、会場の経済学部講堂は、本学部卒業生をはじめ、現職・元職の学校関係者や在学生など、多数の出席者(約400名)で埋まった。会場の外では、冬晴れの青空の下、地場企業との協働を実践している複数のゼミの学生が、環境負荷を抑えた製品や長崎県産のみかんなどの販売促進に精を出しており、足を止めた来場者は、ゼミの活動や販売品について、学生から熱心な説明を受けながら、財布の紐を緩めていた。

なお、同日午前には、経済学部講堂の傍らで、瓊林会有縁物故者の「慰霊祭」が執り行われている。高等商業学校・経済専門学校時代の卒業生を中心に、物故者は9,100余名に及んでいるとのことである。

ア.記念式典

午後に始まった記念式典では、はじめに、井田洋子経済学部長が式辞を述べた。井田学部長は式辞のなかで、まず、旧制長崎高等商業学校が設立された20世紀初頭の日本は、農業中心から工業中心へと産業構造が移行する転換期にあって、交通網の発達や都市の近代化が加速する時期でもあり、第一次世界大戦後には好景気と連動とした経済発展が産業界に人材需要をもたらし、そうした要請に応える高度の教育が求められる社会的背景があったことに触れた。次に、長崎高等商業学校は長崎経済専門学校に改称され、新制長崎大学経済学部としての再出発を経て、現在に至っているとし、その間、1995(平成7)年の大学院修士課程(後の博士前期課程)設置、2004(平成16)年の大学院博士後期課程設置などにより、教育・研究の充実を図ってきたことを紹介した。そして、明治、大正、昭和、平成、令和の5代、120年と続くこの学び舎から、累計約28,000名の卒業生を、大学院(博士前期・後期)では約400名の修了生を、社会に送り出していることに言及のうえ、こうした有為な人材の輩出により、これまでの日本の産業発展を人的側面から支えてきたといってもよいと述べ、これまでの歩みを振り返った。

続いて、来賓祝辞では、文部科学省高等教育局長(高等教育局国立大学法人支援課長代読)から、経済学部が地域産業の中核となる人材の育成に寄与していること、グローバルな視点からの実践的な課題解決に資する教育プログラムを展開していることなどに言及があり、今後の取組みへの期待が寄せられた。また、長崎県知事(副知事代読)から、経済学部出身者による地域経済への貢献は大であり、経済学部には今後とも、地元の企業や行政と協力し、ともに社会課題の解決に取り組んでいってもらいたいとの言葉があった。

最後に、永安武長崎大学長と瓊林会の山下秋史会長(西部ガスホールディングス顧問)からそれぞれ挨拶があった。

永安学長の挨拶では、長崎大学が重点を置く地球規模課題への取組みに言及があった。具体的には、長崎大学がその使命に掲げる「プラネタリーヘルス」への貢献──人類の健康と地球環境の健全性を、ともに守り続ける──として、グローバルヘルス、グローバルエコロジー、これらに影響を及ぼすグローバルリスク(筆者注:核の使用リスクや地球環境破壊、パンデミックなど)の3領域を設定し、学内の総力を結集して取組みを進めていることが紹介された。そのうえで、すでに経済学部は、前年に発足したグローバルリスクセンターにある研究ユニットへの参画など、社会課題の解決に直結する実践的な研究を積極的に展開しており、長崎大学の新たな挑戦を力強く牽引してくれているとの認識が示された。さらに、「120年の伝統に裏打ちされた確かな教育と、時代を見据えた研究の実践」や、「地域に寄り添い、世界に視野を広げるしなやかな姿勢」こそが、経済学部が培ってきた精神であり、今後の長崎大学が目指すべき姿を明確に示していると感じていることが強調された。そして、長崎大学としてはこれからも、学際的連携と超領域型融合研究を軸に、新たな知の創造に挑み続けるとともに、産官学の各方面と力を合わせ、地域と世界の双方に貢献すべく、持続可能な未来を担う人材の育成に一層尽力していくとの決意が述べられた。

また、山下会長の挨拶では、社会のさまざまなシステムが一変する時代にあって、大学においても環境変化への対応が求められており、経済学部には、歴史と伝統を誇りとしつつ、「実践的エコノミストの育成」という一貫した教育理念を礎に、残すべきものは残し、変えるべきものは変え、時代をリードし続ける存在であってほしいとの言葉があった。そして、瓊林会としては引き続き、「グローバル人材育成への支援」、「キャリア教育・就職への支援」、「地域振興・文化振興への支援」などの公益事業を展開していくなかで、母校への支援と社会貢献を一層推進していく方針であることが示された。

その後、片山さつき財務大臣兼金融担当大臣をはじめ、長崎県や九州・西日本を拠点とする金融機関や大学、近隣自治体などから寄せられた多数の祝電が順次紹介され、記念式典は厳かに幕を閉じた。

記念行事当日。キャンパス(経済学部・大学院経済学研究科)正門より筆者撮影。

記念行事当日。キャンパス(経済学部・大学院経済学研究科)正門より筆者撮影。

記念式典の様子(式辞を述べる井田学部長)。

記念式典の様子(式辞を述べる井田学部長)。

会場で披露された片山大臣の祝電。筆者撮影。

会場で披露された片山大臣の祝電。筆者撮影。

会場外での学部ゼミ生による出店。筆者撮影。

会場外での学部ゼミ生による出店。筆者撮影。

イ.記念シンポジウム

記念式典が終了すると、休憩を挟み、記念シンポジウムが行われた。シンポジウム前半では、「長崎が描く地域社会の未来と経済学部の役割」という共通テーマのもと、スポーツビジネス、芸術・文化、行政の各分野から、株式会社リージョナルクリエーション長崎の岩下英樹代表取締役社長、長崎県美術館の小坂智子館長、長崎市の鈴木史朗市長がそれぞれ講演した。シンポジウム後半では、経済学部の教員2名(井田学部長、山口純哉准教授(進行・ファシリテーション))を交えたパネルディスカッションが行われ、前半の講演を踏まえつつ、とくに人材育成に焦点を当てながら、経済学部での教育に何を期待するかなど、活発な議論が交わされた。なお、実業界から唯一登壇した岩下氏は、かつては、株式会社ジャパネットホールディングス(以下「ジャパネット」)が経営するプロサッカーチーム「Vヴィ・ファーレン長崎」の代表取締役社長を務め、現在は、約2万人を収容するサッカースタジアムを中心に、アリーナ、ホテル、商業施設、オフィス等からなる複合型の地域拠点である「長崎スタジアムシティ」(2024(令和6)年4月開業)の運営を通じ、ジャパネットが通販事業と並ぶ柱と位置付けるスポーツ・地域創生事業で舵を取っている。(なお、直近では、長崎大学(全学)の「令和7年度卒業証書・学位記授与式」と「令和8年度入学式」が、この長崎スタジアムシティ内で挙行された。)

以下、上記3名による講演の要点を記しておきたい。

はじめに、岩下社長(演題:「ジャパネットグループの地域創生事業の取り組み~感動とビジネスが両立する長崎スタジアムシティ~」)から、ジャパネットが「多角化」しているとよくいわれるが、同社にそうした意図はなく、「価値あるもの」を見つけ、磨いていくという同社の方針に合ったものをビジネスとしているとの前置きがあったうえで、長崎スタジアムシティの経営について、単にスタジアムやアリーナを貸し出すのではなく、主催者の(長崎での興行に対する)コスト面での不安を払拭してイベント招致につなげる「自主興行」により、施設の稼働率を上げ、集客を図っていることが紹介された。結びに、長崎で成功すれば、そのビジネスモデルを他の事業者が模倣し、ひいては全国に広がっていくことが期待されるが、自分たちは情報提供を惜しまず、協力もしていくつもりであり、今後とも、収益性等を優先するのではなく、「感動」を届けることを軸に事業展開を進めていきたい、との抱負が語られた。

続いて、小坂館長(演題:「長崎県美術館の20年とこれから─地域社会とともに─」)から、長崎県美術館の運営においては、従来のような「物」(展示物)主体ではなく、「人」主体の美術館を目指しているとの発言があり、自身の立場では、長崎のために何ができるかを念頭に、美術館の社会的役割として、芸術の持つ創造性からイノベーションの推進に寄与することができるのではと考えている、といった展望が語られた。

最後に、鈴木市長(演題:「100年に一度のその先へ」)から、長崎市では、人口ピラミッドにおいて若い世代が他の世代と比べてくびれのように少なく、人口減少(流出)という「ピンチ」に直面しているが、一方で、今は「チャンス」でもあり、自身が主導する「100年に一度のまちづくり」では、長崎スタジアムシティに代表される「舞台装置」の上で、どう「演じていく」かが課題である、との見方が示された。そのうえで、インバウンドを含め、交流人口の拡大を図っていくなか、さまざまな文化活動を通じて平和について考えてもらう機会をつくるとともに、(2026年からJ1リーグに昇格した)V・ファーレン長崎を応援し、J1で首位となるよう期するなど、市民が長崎に誇りを持ち、住んでよかったと思える街にしていけるよう、産官学が結集し、「オール長崎」でスポーツ振興や街の活性化に取り組んでいくことへの期待が語られた。

記念行事の最後を飾る祝賀会での「龍踊(じゃおどり)」の様子。長崎大学龍踊部による演舞。筆者撮影。

記念行事の最後を飾る祝賀会での「じゃおどり」の様子。長崎大学龍踊部による演舞。筆者撮影。

祝賀会の後、長崎高商校歌「暁星淡く」を合唱する参加者。親族がOBの鈴木市長(左から2番目)も輪に加わる。

祝賀会の後、長崎高商校歌「暁星淡く」を合唱する参加者。親族がOBの鈴木市長(左から2番目)も輪に加わる。

3.長崎大学経済学部の「これから」

戦後、新制長崎大学に包摂される形で出発した経済学部は、当初は経済学科と商学科の2学科制であったが、時代が下るにつれ、後者は「経営学科」となり、「貿易学科」が加わって3学科制となり、貿易学科は「ファイナンス学科」となる。2000(平成12)年には、これらの学科が統合されて「総合経済学科」となり、併せて複数の選択コースが設けられ、その後のコース再編を経て今日に至る。収容定員(1~4年次)は2025(令和7)年度で1,175人となっている。本学部は現在、単一の学科の下、「経済」と「経営」の2コース制をとり、さらに、「国際ビジネス」、「地域デザイン」、「社会イノベーション」の3領域を設け、学生が系統立てて科目選択を行い、応用的な知識や実践的な思考力を身に着けることができるようにしている。このようにして、本学部の教育目標である、「現代経済社会の諸問題を解決し、社会の調和的発展に貢献する人材の育成」に努めているところである。

今後とも、卒業生が経済学部での学修や体験を通じて培った能力や感性を、それぞれの進路において存分に発揮できるよう、最善のプログラムを提供していく責務が本学部にはある。その実現には、社会が大学に育成を求める人材像に対して鋭敏であるとともに、最適な教育はどのようなものか、本学部ならではの付加価値は何か、といった検討を不断に重ねていく必要がある。前記(2.(2)ア.)の記念式典では、長崎大学長から「120年の伝統に裏打ちされた確かな教育」と評されるだけあって、“明治生まれ”の長崎高等商業学校が実践してきた実業界の要請に応える教育の伝統は、“令和を生きる”本学部の教育方針の土台をなしているともいえるが、同式典で瓊林会会長がまさに指摘しているように、一貫した教育理念を保持しつつも、社会の変化に対応し、時代をリードする学び舎であるためには、“残すべきものと変えるべきもの”をしっかりと見極めていく姿勢が肝要といえよう。

おわりに

本稿で長崎大学経済学部を取り上げるにあたり、筆者が「片淵」から書き起こした理由は、「伝統」という一語では言い表せないようなすべての事象が、この「土地」で生起し、現在も有形無形の記録や記憶として、現役の教職員や在学生が折に触れて見聞きする「機会」を与え続けているからである。片淵キャンパス内にあって、ほぼ日常の光景のなかに溶け込んでいる国指定文化財も、確かにそうした要素の一つではあるが、戦後間もなくのころには、単科大学の実現を目指す大学昇格運動が起こり(1県1国立大学の原則により実現せず)、昭和の時代から今日まで、キャンパス移転・統合の話題が出ては消え、都度、大きな関心事となるなど、こうしたサイドストーリーもまた、経済学部と「片淵」が分かち難い関係にあることを如実に表している。ちなみに、地元の人たちの間では、「長崎大学」を冠せず、単に「経済」という呼び名が通用している。

この3月には、筆者が担当するゼミの学生が、この地で学び、この地を知る者として、この地から巣立っていった。筆者個人としては、“第1期生”を送り出したような感慨を持つとともに、勝手ながら、片淵の歴史に新たな年輪を刻むお手伝いができたようにも感じている。

最後になるが、本稿の準備に際しては、本学部において、地域事情や地歴に明るい諸先生をはじめ、本稿に掲載したような史料の収集・整理・保管、同窓会関係や広報を担当されている職員の方々、図書館で手際よく対応してくださる司書の方々から、惜しみない協力を得ることができた。このことに深く感謝するとともに、本稿は筆者個人の見方や感想を記したものであり、事実関係を含め、記述内容の誤り等については、すべて筆者個人の責任に帰するものであることを付記しておく。

(以上)

〈参考文献〉

谷口恒二(1925(大正14))『「税關」ニ關スル講義案』

谷口恒二(1925(大正14))『「税關」入門』

長崎高等商業学校編(1935(昭和10))『長崎高等商業学校三十年史』

澁澤敬三(1961(昭和36))『犬歩当棒録』(角川書店)

読売新聞長崎支局編(1985(昭和60))『長崎高商物語』

長崎大学五十年史刊行委員会編(1999(平成11))『長崎大学五十年史』

長崎新聞2010(平成22)年9月23日掲載「私の被爆ノート」(浦川大次郎「横たわる無数の死体」)

西日本新聞2025(令和7)年3月3日記事「『火葬の絵は描けたが、生きている人の苦しみは…』尊厳への葛藤 学びの場で眺めた光景」

公益社団法人 瓊林会(2026(令和8))『瓊林』No. 147(経済学部創立120周年記念号)

*1)本稿では、引用した資料・文献等で用いられている漢字が旧字体の場合、便宜的に、新字体(常用漢字)に置き換えて記載している。

*2)爆心地から約800メートルの距離にある山王神社の大楠(被爆クスノキ)は、同社のホームページでは、「原爆被災により一時落葉し枯れ木同然になったにも係わらず、2年程度の後、奇跡的に再び新芽を芽吹き、次第に樹勢を盛り返し今日に至っています」と紹介されている(https://sannou-jinjya.jp/pages/17/)。福山氏の楽曲「クスノキ」は、焼け野原から蘇り、今も訪れる人々に勇気を与え続けるこの巨樹を題材としたもの。

*3)原爆投下により、爆心地近辺(浦上)では、長崎医科大学の校舎と同附属病院の病棟が壊滅状態となり(892名が犠牲)、長崎師範学校男子部も完全に破壊された(54名が犠牲)。その結果、長崎に存在する官立学校は長崎経済専門学校を残すのみとなった。