財務総合政策研究所(以下「財務総研」)では、2025年10月から2026年4月にかけて「日本の所得分配・再分配に関する研究会」(以下「研究会」)を開催しました。研究会では、マクロ経済学、ミクロ実証分析、経済史、公共経済学など幅広い分野の有識者をお招きし、多くのゲストスピーカーからの発表等も踏まえて、所得格差や再分配の現状について検討を行いました。特に、税務データ・統計データ・家計調査等を活用しながら、日本社会における所得分配の実態と課題について議論を行い、中長期的な観点から今後の政策課題について検討を行いました。研究会での発表内容や、それらを踏まえて取りまとめられた報告書は、財務総研のウェブサイトに掲載されています*1。また、6月には、報告書の内容を紹介するとともに、有識者の方々にコメントをいただくセミナーを開催しました。
今回のPRI Open Campusでは、このセミナーにおいて紹介された報告書の内容と有識者のコメントを、「ファイナンス」の読者の皆様にご紹介します。
1.研究会の目的
研究会は、特定の政策的立場を示すことではなく、利用可能なデータや先行研究を整理し、中長期的な視点から日本社会の政策上の課題を議論することを目的としています。
こうした研究会を開催した背景には、近年、米国などにおいて、格差や分配を巡る問題への懸念が指摘されていることがあります。公正な分配が実現されているかどうか、また、そのことが社会の構成員の間で共有されているかについては、十分な注意を払う必要があり、分配の公正性に対する認識が損なわれると、社会の安定や制度に対する信頼にも影響を及ぼす可能性があります。こうした観点から、分配のあり方は社会の安定化に関わる重要な課題です。また、経済学の視点からは、個人では抱えきれないリスクや、市場において十分な保険機能が働かないリスクに対して、適切な再分配政策が講じられることが望ましいとされています。さらに、日本では「成長と分配の好循環」の実現が、マクロ経済政策の方針として掲げられており、分配政策と経済成長との関係についても関心が高まっています。
以上から、現在の日本において、所得分配・再分配がどのように機能しているのかを改めて確認することは重要です。また、近年はデータの利活用が進展する中で、税務データの活用や、各種統計データをより丁寧に利用した分析が進められ、所得分配の実態をより詳細に分析できるようになっています。研究会では、こうした新たなデータの活用可能性も踏まえながら、日本の所得分配・再分配の実態を把握し、その現状と課題についての整理を行いました。
2.研究会から得られた主な知見
研究会を通じて共有されるべき認識として、いくつかの重要な点が挙げられます。
(1)所得格差の現状
格差を測る代表的な指標は、所得に関するジニ係数です。北尾早霧委員(アジア開発銀行研究所シニアエコノミスト)の報告で示されていた勤労世帯の所得ジニ係数を見ると、日本では2000年代以降はおおむね横ばいで推移しており、大幅な所得格差の拡大は確認されていません(図表1)。これは「経済財政白書」においても繰り返し指摘されている点であり、世帯所得の格差については、それほど大きく拡大していないことがこれまでも確認されております。また、前田佐恵子氏(東京大学大学院経済学研究科特任研究員/内閣府経済社会総合研究所特別研究員)による所得・消費に関する5分位分析においても、おおむね同様の傾向が示されています(図表2)。
図表1 世帯所得格差(ジニ係数)の推移

図表2 可処分所得分位別の所得・消費

このように、所得格差は大きく拡大しているわけではありませんが、一方で所得の水準自体が伸びているわけでもありません。例えば、給与所得の平均値や中央値は長期的に停滞しており(図表3)、実質平均賃金についても十分な伸びが確認されていない状況です(図表4)。
図表3 給与所得者(勤続年数1年以上)の所得分布のジニ係数と平均給与伸び率の推移

図表4 実質平均賃金の推移

したがって、日本の所得分配の状況については、「格差が拡大した」というよりも、むしろ「格差は大きく拡大しなかったものの、全体として停滞していた」と捉えることができます。
(2)所得格差の国際比較
前述の「所得」とは、毎年新たに生産された付加価値がどのように分配されたかを示す概念で、その大部分は賃金や事業所得、あるいは企業利益として分配されるものであり、株式や土地の値上がりによって生じるキャピタルゲインは含まれません。
所得については、その不平等度を国際的に比較する取組が行われており、World Inequality Databaseでは、各国における上位所得シェア(所得上位1%や0.1%の人々が所得全体のうちどの程度のシェアを占めているか)に関するデータが示されています。図表5は所得上位1%のシェア、図表6は所得上位0.1%のシェアを示しており、例えば、米国では、所得上位1%のシェアは1980年頃と比較して大きく上昇しており、2020年頃にはその水準が約10%高まっています。このことから、米国では所得格差が近年急速に拡大してきたことが確認できます。
図表5 所得上位1%の所得シェア、国民純所得ベース

図表6 所得上位0.1%の所得シェア、国民純所得ベース

では、日本のトップ所得層の所得シェアはどのようになっているのでしょうか。World Inequality Databaseでは日本の推計値も公表されていますが、コミュニケーションをとってみると、必ずしも十分なデータに基づく推計ではないことが分かりました。そこで、森口千晶委員(一橋大学経済研究所教授)にご協力いただき、財務総研で利用可能な税務データ及び統計データを用いて、同様の考え方に基づく推計を実施し、その結果を図表5及び図表6で示しています。
利用可能なデータの制約から、分析対象の年は2014年と2019年に限られますが、所得上位1%及び0.1%の所得シェアの値は、他の先進国と比較して相対的に低い水準にあることが確認されました。また、アジアの国の中で比較しても、韓国や中国よりも低い水準にあります。
以上の結果から、日本では、所得について、米国でみられるような急激な格差の拡大や、極端な富裕層への所得集中は、少なくとも現時点で確認できるデータからは観察されていないと言えます。
(3)企業の利益分配に相当する資本所得・資産の偏在
ただし、毎年生み出されるフローの所得だけではなく、資産というストックについて考えると、先ほどの結果とはやや異なる姿が見えてきます。
研究会の野口幸司氏(株式会社野村総合研究所金融コンサルティング部シニアプリンシパル)からの報告で示されているように、近年、純金融資産5億円以上の超富裕層、1億円以上5億円未満の富裕層、さらには5千万円以上1億円未満の準富裕層に該当する世帯数が増加しています(図表7)。一方で、金融資産を保有していない、あるいは金融資産残高がゼロであると回答する世帯についても増加がみられます(図表8)。
図表7 準富裕層以上の世帯数増加率(2005年=100)

図表8 金融資産がゼロの世帯の割合(%)

このように、所得では大きな格差拡大が確認されていない一方で、資産に着目すると、資産を多く保有する世帯と資産をほとんど保有しない世帯の双方が増加している状況がみられます。したがって、格差の実態を把握するためには、所得だけでなく資産の分布についてもあわせて検討することが重要と考えられます。
(4)資産・金融所得の偏在
金融資産や土地などのリスク資産の価格は大きく変動します。これはバブル期にもみられましたし、足元においても同様の状況がみられます。こうした資産価格の上昇によってキャピタルゲインが発生し、その資産を売却した場合には譲渡益として実現されます。
そこで、通常の所得である賃金や事業所得、企業利益に加えて、こうしたキャピタルゲインも含めて所得を捉えた場合に、所得分布がどのように変化するかを確認した結果が図表9及び図表10です。具体的には、所得上位1%及び0.1%の所得シェアについて、キャピタルゲインを含めない場合と含める場合を比較しています。
図表9 所得上位1%の所得シェア、所得税データ

図表10 所得上位0.1%の所得シェア、所得税データ

その結果、キャピタルゲインを含めた場合には、近年、上位層の所得シェアが拡大していることが確認されます。これは、株式や不動産などの譲渡所得が一部の高所得者層に偏って発生する傾向があるためです。したがって、通常の所得のみを対象とした場合には大きな格差拡大は確認されないものの、キャピタルゲインを含めて考えると、上位層への所得集中が一定程度進んでいることがうかがわれます。
また、企業が稼いだ利益の分配構造にも変化がみられます。かつては、企業が獲得した営業利益は、銀行への利払い、従業員への賃金、株主への配当などの形で分配されていました。しかしながら、金利が低下する中で、賃金の伸びは必ずしも十分ではなかった一方、株主への分配である配当については増加する傾向がみられます(図表11)。
図表11 付加価値の分配状況:付加価値に対する割合(%)

他方で、日本では個人による株式保有の割合は必ずしも高くなく、むしろ長期的には低下している面もみられます(図表12)。そのため、企業の収益力向上や利益拡大が実現したとしても、その成果が家計全体や個人所得の増加として一様に還元されるとは限らない状況にあります。すなわち、企業が生み出した利益の増加は、配当を通じて一部の資産保有者により多く帰属する可能性があり、家計への波及には一定の偏りが生じている可能性があります。
図表12 国内上場企業の所有構造の時系列変化

(5)ひとり親世帯の貧困・男女賃金格差の持続
さらに、所得格差について、より広い視点から注目すべき点もあります。例えば、ひとり親世帯の相対的貧困率は引き続き高い水準にあります(図表13)。また、男女間の賃金格差についても依然として大きい状況が続いており、さらに、いわゆる「チャイルドペナルティ」と呼ばれる、出産後に女性の平均的な賃金が低下する傾向も顕著です(図表14)。
図表13 子どもの貧困率(%)

図表14 出産前後の給与所得の変化率

このように、全体としての所得格差が大きく拡大していないとしても、特定の属性やライフイベントに着目すると、依然として大きな格差や経済的に不利な状況が存在していることに留意する必要があります。
(6)世帯構造の変化が分配の姿を変えている
また、日本全体の分配状況を捉える際には、世帯構造そのものが大きく変化していることに注意する必要があります。総世帯全体をみると、現在では世帯主が65歳以上の高齢者世帯が全体の3割以上を占めています(図表15)。また、そのうちのおよそ半数は単身世帯です。このため、日本の分配状況を考える際には、勤労世代の動向だけでは全体像を十分に把握することはできません。さらに、専業主婦世帯が減少し、共働き世帯が増加している(図表16)ことなどを踏まえると、世帯所得の格差が拡大しているか否かという指標だけでは、人々の生活実態や行動の変化を十分に捉えられない可能性があります。仮に格差指標が大きく変化していない場合であっても、その背景にある世帯構造や就業構造は大きく変化している可能性があります。
図表15 世帯構成の変化

図表16 専業主婦世帯数と共働き世帯数

また、高齢者世帯については、所得や資産の分布に大きなばらつきが存在すると考えられます。平均的には現役世代より所得水準が低い一方で、貯蓄額の平均値は高いことが知られています。このため、高齢者世帯を一括りに捉えるのではなく、その内部の多様性にも着目しながら実態を把握することが重要です。研究会においても、高齢者世帯の所得や資産の状況について、より丁寧な分析や情報提供を行うことの重要性が指摘されました。
3.制度設計上の主な論点
(1)女性の就業調整
様々な多様性の一つとして、研究会では、近藤絢子委員(東京大学社会科学研究所教授)から、配偶者を持つ女性の就業行動に関する分析について報告が行われました。特に、年収103万円や130万円付近で就業調整が集中していることが確認されています。130万円は、配偶者に社会保険料が課される閾値であり、その金額が労働供給に大きな影響を与えていることが示されていますが、130万円よりも103万円の壁で強い反応が見られています(図表17)。このことは、人々が現行の制度を十分理解していない可能性や、制度そのものが複雑すぎる可能性を示唆していることが指摘されました。
図表17 有配偶女性の給与収入分布(正の給与収入のある25~60歳)

(2)生涯可処分リソースという視点
また、宇南山卓委員(京都大学経済研究所教授)からは、所得という概念そのものについても重要な問題提起がなされました。一般に、所得とは一定期間、例えば1年間にどれだけの所得を得たかを示す指標ですが、それだけでは個人や世帯が実際にどの程度の経済的資源を利用できるのか、すなわちどの程度の経済力を有しているのかを十分に表しているとは言えません。
もともと個人や世帯の経済力には差がありますが、再分配政策や負担能力に応じた税・社会保険料の負担を考える際に、所得や課税所得のみを基準とすることが適切であるとは限りません。本来は、生涯を通じてどれだけの経済的資源を獲得し、利用できるかという「生涯可処分リソース」やそれを残余寿命で除した「恒常所得」の概念に基づいて負担能力を捉えることが重要であることが指摘されました。また、恒常所得は消費と密接な関係にあることから、長期的な経済力を反映するという観点では、所得を基準とするよりも、消費に着目して負担を考える方が、個人や世帯の実質的な負担能力をより適切に反映する可能性があることも指摘されました。
4.今後の政策課題
研究会では、今後の政策課題として様々な論点が共有されました。具体的には、多様な就業形態に中立的な税制・社会保障制度の構築、就業インセンティブを維持した低所得者支援、資本所得の恩恵を幅広い家計へ波及させる仕組み、機会の平等を確保する制度設計、高齢化・未婚化・単身化に対応した制度改革などが挙げられます。とりわけ、従来の「夫婦と子ども」を前提とした制度設計を見直し、多様な世帯構成に対応した制度を整備することの重要性が指摘されました。
5.各委員のコメント
セミナーにおいては、研究会に参加いただいた委員の方々から、報告書のポイントや研究会全体を通じての感想などについて、以下のコメントをいただきました。
楡井 誠 東京大学大学院経済学研究科教授/財務総研特別研究官
研究会で取り上げた所得分配・再分配は、経済成長と並び、経済学における最も重要な研究テーマの一つです。日本ではこの20年余り、「所得分配」は「格差」という言葉で語られることが多くなり、格差が拡大しているという認識が、家計や有権者、労働者の日常的な感覚とも結び付きながら、政策にも大きな影響を与えてきました。そのような状況の中で、研究会では予断を持つことなく、事実に基づいて、日本の所得分配・再分配の現状とその推移を把握することを出発点としました。その成果を最も象徴するものが、森口委員と財務総研の上田副所長による、日本の税務データを用いた所得分配の再推計です。両氏は、利用可能な税務データを用いて所得分布を推計し、トマ・ピケティらのデータベースとの整合性を確保した形で統計を整備しました。その結果は、日本における所得上位1%または10%への所得集中は、ピケティらが示したアメリカの状況とは大きく異なっており、超富裕層への所得集中が急速に進展していることを示すものではありませんでした。これは、研究会における最も頑健な研究成果の一つであると考えています。
もちろん、研究会では「格差が全く拡大していない」という結論を導いたわけではありません。例えば、キャピタルゲインを含めた所得上位1%の所得シェアについては、近年やや上昇する傾向が確認されました。また、世帯所得のジニ係数についても、2000年代前半のような急激な上昇ではないものの、高止まりまたは緩やかな上昇が見られることが報告されています。さらに、低所得層についても、世帯構造の変化を背景として、経済的困難がひとり親世帯などの特定の世帯類型に集中する傾向が確認されました。
こうした議論をさらに発展させていくためには、何よりも統計基盤の充実が不可欠です。そのためのデータ、分析能力、人材、そして必要な権限を政府の中に蓄積していく必要があります。今回、所得上位層の所得シェアに関する研究成果を取りまとめることができた背景には、長年にわたる国際的な研究の蓄積があります。2013年に「21世紀の資本」が刊行され、世界的に大きな反響を呼びましたが、それ以前からピケティを中心とする研究グループは、各国の税務統計を丹念に収集・分析し、所得分配に関する国際比較研究を進めていました。その過程において、森口委員は日本のデータ整備を担当し、日本については2008年頃までの推計が国際データベースへ反映されていました。しかし、その後は日本の推計を継続的に更新する体制が十分に整備されず、後継となる分析体制も構築されませんでした。これは、日本における所得分配分析を担う研究者や、政府内の統計分析体制が十分とは言えない現状を示しているものと考えられます。
その結果、国際データベースに掲載された日本の推計値をそのまま見ると、日本でも所得集中が大きく進んでいるかのような結果が示される状況となっていました。私自身もその結果を見て違和感を覚え、日本の実態はそれほど不平等化していないのではないかと考えました。その実態を検証するためには、利用可能な税務データなどを用いて改めて推計を行い、日本の所得分配の実態を統計的に確認することが不可欠でした。
今回の成果は、国際的な研究コミュニティと対話できる研究者と、行政が保有するデータや分析資源が連携することによって初めて実現したものです。しかし、このような成果を特定の研究者や行政担当者の個人的な努力に依存して実現する体制は、持続可能とは言えません。本来であれば、政府の中に継続的なデータ基盤と分析能力が整備され、国際的な研究コミュニティとの対話を通じて、所得分配に関する統計が継続的に作成・発信される体制が構築されることが望まれます。研究会を通じて、そのような統計基盤の整備が今後ますます重要になることを強く実感しました。
宇南山 卓 京都大学経済研究所教授
研究会のタイトルである「日本の所得分配・再分配に関する研究会」という点に少しこだわりながら、研究会を通じて感じたことを申し上げたいと思います。
経済学では、「誰にどのような経済資源を使ってもらうか」ということが、大きなテーマの一つとなっています。ただし、このテーマについては、実際には二つの異なる視点から議論が行われています。一つは、「資源配分」という視点です。経済学では、設備や資本、労働といった経済資源を誰が利用すれば、経済全体として最も効率的な資源配分が実現できるのかという点を重視します。もう一つは、「所得分配」の視点です。こちらは、経済資源から生み出された所得を誰にどのように分配するかという問題であり、公平性の観点から議論されます。研究会でも、上田副所長から説明いただいたような所得格差や、所得上位層のシェアなどが、この分野の代表的なテーマです。
このように、資源配分と所得分配は、いずれも「誰に経済資源を使ってもらうか」という共通の問題を扱いながら、一方は効率性、もう一方は公平性を重視するという異なるテーマを議論しているのです。その観点で、研究会を通じて見えてきたことは、日本は公平性という観点からみると、世界的にみても、また過去と比較しても、極端に悪い状況にあるわけではないということです。所得格差についても、米国のような急激な所得集中は確認されませんでした。しかし、それが資源配分という効率性の観点からは、必ずしも望ましい状態ではないことが示されたと思います。賃金の伸び悩みや、女性が十分に能力を発揮しても、それに見合った所得を得られていない状況など、様々な課題が残されています。
さらに、配分の問題は個人間だけではありません。企業と家計との間で、企業が生み出した付加価値をどのように配分するかという問題もあります。この点についても、研究会では、現役世代、とりわけ勤労世代への資源配分が十分ではない可能性が示唆されたように感じています。資源配分のあり方をより適切なものとしていくためには、研究会のタイトルにあえて異論を唱えるような言い方になるかもしれませんが、「所得分配」という公平性を重視する視点だけではなく、誰がどのような経済資源を保有し、それがどのような経済活動や付加価値の創出につながっているのかという「資源配分」の観点からアプローチしていく必要があるのではないかと感じました。
北尾 早霧 アジア開発銀行研究所シニアエコノミスト
格差の問題は、経済学のあらゆる分野に関わるテーマであると考えています。その実態を把握するためには、データに基づくミクロ実証研究が不可欠であり、その結果を解釈するためのミクロ経済理論も必要です。また、格差がどのように形成され、今後どのように変化していくのかを考えるためには、歴史的な背景への理解も求められます。さらに、格差が小さいことだけで十分とはいえず、経済全体として成長を実現するという観点からは、マクロ経済学の視点やモデルを用いた分析も欠かせません。
このように多様な専門分野が関わるテーマであるだけに、研究会の構成は容易ではなかったと思いますが、それぞれの分野を代表する研究者が集まり、学術的にも非常に質の高い議論が行われました。研究会の報告書は、アカデミアの立場から見ても高い水準にあると感じています。
マクロの観点からは、格差の分析において、ジニ係数などの集計指標だけでは十分ではありません。例えば、格差の背景が高齢化による人口構成の変化なのか、それとも現役世代における所得格差の拡大なのかによって、政策的な意味合いは大きく異なります。さらに、所得に差があったとしても、消費水準が維持されているのであれば、再分配政策や世帯内での資源配分が一定程度機能している可能性も考えられます。このように、何が問題であり、どのような政策介入が必要なのかを適切に判断するためには、ミクロデータを詳細に分析することが重要です。そのためには、個人を継続的に追跡できるパネルデータの整備が不可欠です。例えば、東京大学政策評価研究教育センター(CREPE)では、多くの人的・財政的資源を投入し、地方自治体の税務データを活用した研究が進められています。こうしたデータを用いることで、個人がどのような所得変動や所得リスクに直面しているのかを把握することが可能となり、どのような人に、どのような政策支援が必要であるかをより的確に分析できるようになります。
今後、財政制約が一層厳しくなる中では、単に財政支出を拡大するのではなく、データ基盤への投資を進め、エビデンスに基づいて政策資源を効率的に配分していくことが重要になると考えます。また、研究会でも議論されたように、制度による歪みが確認された場合には、その制度改革が個人の所得や就業行動、さらには人的資本の蓄積や経済全体へどのような影響を及ぼすのかについて、ミクロ経済学とマクロ経済学の双方の視点から分析を深めていくことが求められます。
その意味でも、研究会を通じて、これまで必ずしも交流の機会が多くなかった研究分野の間で活発な議論を行うことができたことは、大変有意義でした。今後もこうした連携を継続し、所得分配・再分配に関する研究のさらなる発展につなげていきたいと考えております。
近藤 絢子 東京大学社会科学研究所教授
私は主としてミクロ経済学の立場から、個票データを用いた実証分析に取り組んでおります。そのため、普段はマクロ経済学や歴史的な視点から所得分配を議論する機会は多くありません。研究会では、それぞれ異なる専門分野の研究者との議論を通じて、多角的な視点から所得分配を考えることができ、大変有意義でした。
私が担当した章では、103万円、130万円の「年収の壁」について取り上げました。分析の結果、103万円及び130万円付近で就業調整が行われていることが確認され、特に103万円付近で調整する人が多いことが明らかになりました。
結婚や出産を契機として一時的に労働供給を減らすこと自体は、仕事以外の時間の価値が変化した結果の合理的な行動と考えられます。しかし、本来であれば子どもの成長に伴って労働供給を徐々に増やし、人的資本を蓄積しながらキャリアを形成していくべき時期に、年収の壁によって就業拡大が抑制されている点は、大きな課題であると考えます。こうした就業調整は、長期的な所得形成や人的資本の蓄積を阻害する可能性があります。
また、103万円付近で就業調整を行う人が非常に多いという事実は、人々が税制・社会保障制度を必ずしも十分に理解していない可能性も示唆しています。制度上は130万円付近の方が就業調整を行う経済的な理由が大きいにもかかわらず、103万円付近で調整する人が多いことから、人々が制度を完全に理解し、合理的に行動しているとは限らないことがうかがえます。このことは、研究会全体のテーマである公平な制度設計にも重要な示唆を与えます。制度が複雑になりすぎれば、本来期待した政策効果が十分に得られない可能性があるため、制度を設計する際には、人々が制度を十分理解し、合理的に反応することを前提とするのではなく、制度そのものをできるだけ分かりやすく設計することが重要であると考えます。
報告書全体についても、政策対応として示された論点はいずれも重要であると考えます。特に、世帯内の就業形態の多様化に対応した税制・社会保障制度の構築は、今後ますます重要な課題になるでしょう。その際には、多様な働き方に対応しようとして制度を過度に複雑化させるのではなく、分かりやすさを維持しながら、多様な世帯や就業形態に対応できる制度とすることが求められます。また、未婚者の増加など家族形態の変化を踏まえると、夫婦と子どもから成る世帯を前提とした制度設計を見直していく必要もあると考えます。
さらに、今後の課題として示されたデータ整備についても全面的に賛同します。様々なデータの整備が必要ではありますが、その出発点として、国が個人の所得をより正確に把握できる仕組みを整備することが極めて重要であり、今後の政策立案の基盤となるものと考えます。
森口 千晶 一橋大学経済研究所教授
私自身、このような研究会に参加する機会はこれまであまりありませんでしたが、研究会では委員の専門分野の構成が非常にバランスよく組み合わされていたと感じています。マクロ経済学、ミクロ経済学のそれぞれの理論・実証研究者に加え、私のような経済史を専門とする研究者や、制度設計を専門とする研究者などが参加したことで、多角的かつ厚みのある議論が行われ、質の高い報告書につながったのではないかと思います。
私自身は、経済史の立場から長期的な視点や制度の歴史的変化を重視して研究を行っています。今回の研究会では、財務総研の上田副所長とともに上位所得層への所得集中に関する推計を行いました。2026年6月には、パリで開催されたトマ・ピケティらが主催する国際会議において、研究会で取りまとめた日本の最新の推計結果を報告する機会がありました。各国の研究者との議論を通じて強く感じたのは、日本の所得分配の状況は欧米諸国とはかなり異なるということです。会議では、富裕層や超富裕層への所得・資産の集中だけでなく、それに伴う政治的権力やメディアへの影響力の集中について、多くの国で実証研究が報告されていました。そのような中で、日本について報告すると、「本当にそこまで所得集中が小さいのか」、「なぜ日本ではそのような状況になっているのか」といった質問が数多く寄せられました。
研究会の分析結果が示すように、日本では現時点において、所得格差が極端に拡大し、超富裕層への所得集中が経済や社会に深刻な影響を及ぼしている状況は確認されず、また、この結論は正しいと考えています。一方、その裏返しとして、なぜ日本では億万長者やイノベーションの担い手が生まれていないのかという視点も重要です。所得格差が小さいことだけでなく、経済成長の源泉となる新たな価値創造や、効率的な資源配分が実現されているのかという観点についても、今後さらに検討する必要があると感じました。これは、長期にわたる賃金停滞の要因を考える上でも重要な論点であると思います。
また、近年は株価上昇などを背景にキャピタルゲインが増加しており、新しい少額投資非課税制度(NISA)の普及によって、中間所得層にもその恩恵が広がる可能性があります。しかし、キャピタルゲインがどのような人々に帰属し、世代間を通じてどのように継承されているのか、また社会的移動がどの程度確保されているのかについては、日本では十分なデータが整備されていません。この点は今後の重要な研究課題であると考えます。
最後に、研究者とメディアとの関係についても感じたことがあります。研究者は厳密な分析を重視するため、データの整備や分析に長い時間を要することが少なくありません。一方、メディアでは速報性が求められます。今後は、速報性を重視した分析と、時間をかけた精緻な分析を適切に組み合わせながら、それぞれの成果を社会へ発信していくことが重要ではないかと考えています。
安田 洋祐 政策研究大学院大学教授
私はミクロ経済理論やゲーム理論を専門にしており、マクロ経済学、労働経済学、所得分配研究など、他の委員の専門分野は、いずれも自分の研究分野と近接しながらも異なる領域であり、多くの刺激を受けました。それぞれの専門家が活発に議論している様子を、少し離れた立場から大変興味深く拝見しておりました。私からは特に二つの観点について申し上げたいと思います。
一つ目は、「結果の平等」と「機会の平等」についてです。研究会では、給与所得を中心にみた所得格差について、日本では諸外国のような大幅な格差拡大は確認されないことが示されました。一方で、金融所得や資産を含めたより広い意味での経済力については、今後さらに詳細なデータ分析が必要であることも明らかになりました。また、日本では格差が拡大しているという認識を持つ人が少なくない一方で、所得指標からみた結果の平等は比較的維持されているという状況があります。この認識と実態との間のギャップがどのように生じるのかを明らかにすることも、今後の重要な研究課題であると考えます。
「機会の平等」という観点から見ると、研究会でも様々な課題が指摘されました。例えば、ひとり親世帯の貧困、出産・育児後の女性の賃金低下、世代間での資産(特に金融資産)格差の固定化などは、結果の平等とは別に、機会の平等が十分に確保されていない可能性を示しています。また、研究会では直接扱われませんでしたが、地域間格差についても同様の視点から検討する余地があると考えます。
このように、ジニ係数などの集計指標だけでは、機会の平等がどの程度確保されているのかは十分に把握できません。こうした問題は、今後の経済成長や人々のインセンティブにも大きく関わるため、より重視していく必要があると思います。
二つ目は、研究者の役割についてです。研究会では、大学研究者が多く参加していたこともあり、現状を客観的に分析する、いわゆる実証的な分析が中心でした。一方で、「今後どのような制度が望ましいのか」という規範的な議論は比較的少なかったように感じています。その中で印象的だったのが、第5回研究会におけるスズキトモ氏(早稲田大学商学学術院商学部教授)と河野龍太郎氏(BNPパリバ証券株式会社経済調査本部長/チーフエコノミスト)の企業内の分配に関する講演でした。企業収益の配分について、株主還元や賃金配分のあり方まで踏み込んだ問題提起がなされ、現状分析だけでなく、政策や制度の方向性についても議論が展開されました。研究者は、客観的な分析結果を提示し、その先の判断は社会や政策担当者に委ねるという姿勢をとることが多いのかと思います。それは学術的には重要な姿勢ですが、所得分配や格差のように社会的関心の高いテーマでは、専門家として一定の規範的な示唆も期待されているのではないかと第5回研究会の講演を通じて感じました。
また、研究会を通じて、生産性の伸びに比べて賃金が十分に上昇していないという指摘は、私自身にとっても大変印象的でした。この事実をさらに検証するとともに、その背景や政策的含意についても、様々な研究分野が連携しながら議論を深めていくことが重要であると思います。
最後に、近藤委員のご報告にあった「年収の壁」の分析は、制度が人々の行動に大きな影響を及ぼすことを改めて示したものと受け止めています。実際の行動は、制度が想定する経済的インセンティブだけでは十分に説明できず、制度への理解不足や認知の偏りといった要因も影響している可能性があります。今後は、行動経済学の視点も取り入れながら、制度設計や情報提供のあり方について、さらに研究を深めていくことが期待されます。
「財務総合政策研究所」、研究会の情報はこちらからご覧いただけます。
https://www.mof.go.jp/pri/index.htm
https://www.mof.go.jp/pri/research/conference/fy2025/bunpai.html

なお、本報告書の内容や意見はすべて筆者個人の見解であり、財務省あるいは財務総合政策研究所の公式見解を示すものではありません。
■研究会 担当者
財務省 財務総合政策研究所 総務研究部
前総括主任研究官 伊藤 秀則
元研究員 伊藤 菜々子
研究員 伊佐 義隆
研究員 岸本 翔太
元研究員 福室 成彦
研究員 松隈 拓人
研究会報告書
(報告書目次)※役職は2026年6月時点
はじめに 楡井 誠 東京大学大学院経済学研究科教授/財務総合政策研究所特別研究官
第1章 日本の分配・再分配をめぐる実態と課題
上田 淳二 財務省財務総合政策研究所副所長
第2章 世帯単位の所得分布の長期的な推移
北尾 早霧 アジア開発銀行研究所シニアエコノミスト
山田 知明 明治大学商学部専任教授
第3章 民間給与実態統計調査を用いた日本の賃金動向分析及び再就職市場における賃金の変化
川田 恵介 東京大学社会科学研究所准教授
第4章 労働市場からみた所得分配の状況と政策的含意
山田 久 法政大学経営大学院イノベーション・マネジメント研究科教授/法政大学人間環境学部教授
第5章 年収の壁と既婚女性の就業調整の分析
近藤 絢子 東京大学社会科学研究所教授
第6章 NRI富裕層推計2023 ~富裕層増加のトレンドと注目セグメント~
野口 幸司 株式会社野村総合研究所金融コンサルティング部シニアプリンシパル
第7章 巨大企業と高所得者はどう生まれるのか
荒田 禎之 独立行政法人経済産業研究所研究員
第8章 日本企業の株式所有構造の進化
宮島 英昭 早稲田大学常任理事/名誉教授
第9章 レント・シェアリングの定着を─社会契約と整合的な「埋め込まれた自由主義」の復活─
河野 龍太郎 BNPパリバ証券株式会社経済調査本部長/チーフエコノミスト/東京大学先端科学技術研究センター客員教授
第10章 “When Matured”─成熟経済社会において成長投資を促進する付加価値の適正分配・投資経営
スズキ トモ 早稲田大学商学学術院商学部教授
第11章 家計行動の把握と分配
宇南山 卓 京都大学経済研究所教授/財務総合政策研究所特別研究官
第12章 給付付き税額控除と所得税・住民税・社会保険料の「三位一体改革」
佐藤 主光 一橋大学大学院経済学研究科教授


