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路線価でひもとく街の歴史
第79回 群馬県桐生市
産業革命が進めた地銀再編

「西の西陣、東の桐生」

上毛かるたは桐生を「桐生は日本のはたどころ」と詠む。桐生と絹の縁は古い。『続日本紀』には約1300年前に当地の絹が朝廷に献じられた記録があり、機織りを伝えた白瀧姫の伝説も語り継がれてきた。京都・西陣から高機の技術を受け入れて高級絹織物の産地となり、やがて「西の西陣、東の桐生」と並び称された。

桐生の街の原型は天正19年(1591)から慶長11年(1606)にかけてつくられた。徳川家康の命を受けた代官・大久保長安の手代、大野八右衛門が天満宮を遷座し、そこを起点に南へ町立てを始めた。その後、北から南へ段階的に整備された街が桐生新町である。桐生新町は北の天満宮から一丁目、二丁目と区分され、六丁目の南のしもとろ堀(後の新川・現コロンバス通り)まである。現在の本町通りに重なっており、間口を揃えた短冊状の敷地割が今も残る。

サプライチェーンの要の買次商

明治期の桐生の織物業には糸商・元機屋・買次商の3者が登場する。糸商は前橋をはじめとする産地から上州座繰糸等を仕入れ、撚糸にして元機屋に売る。元機屋は織物製造業者であり、桐生物産同業組合員数ベースで明治半ばに700~800の業者を数えた。統計上、「工場」と小規模な「家内工業」、そして主に外注する「織元」と受注する「賃織業」の4つに分類される。機台数でみると明治期に最も多い業態は賃織業だった。自前の工場に職人を集めたマニュファクチュアと、元機屋が賃織に糸を前貸しして織らせる問屋制家内工業とが併存していた。英国人のジョン・ケイが1733年に発明した飛びを組み込むバッタン機は明治16年(1883)頃桐生に導入された。以降明治期を通じて織物生産量が伸びていく。

買次商とは、元機屋が生産した織物を買い集める産地問屋である。買次商は、国内向けは三大都市や京都の問屋に、輸出向けなら横浜の外国商館に販売した。明治前期の三大買次商といえば、きちもん商店、ざともん商店、かきあげぶんもん商店だった。最大手の佐羽商店は最盛期に桐生織物の過半を扱っていたが明治29年(1896)に破産し、その後は書上商店が最大手の買次商となる。買次商は、消費地問屋や呉服店の求めに応じて買い次ぐのが本業だが、絹市で自らの見込みで仕入れ、値上がりを取って全国へ送り出すこともあった。また、消費地問屋や呉服店のバイヤーが産地に出張仕入れする際にサポートする「買宿」をする業者もあった。

本町二丁目に三越サテライト桐生があるが、元をたどれば三井呉服店の桐生出張所だった。三越の前身の越後屋は、明和8年(1771)に桐生織物の直接仕入れを始めている。その後、買次商・玉上利右衛門を買宿に指定しバイヤーを派遣していたが、明治6年(1873)に自社の出張所を構え、三井呉服店自体が桐生の買次商となった。出張所には買い付け以外にも、産地情報の収集、目利きの育成、機業家指導の役割があった。三井呉服店は桐生の他に京都と八王子に仕入店を置いていた。ちなみに、時代は下るが松坂屋も桐生に仕入店を出している。昭和3年(1928)8月、本町四丁目に両毛出張所を開いた。桐生や足利の市を回って織物を仕入れ、扱いは秩父から越後にまで及んだ。

図1 桐生新町(本町通り・三越サテライト桐生から北向き)

図1 桐生新町(本町通り・三越サテライト桐生から北向き)

手形の流れと銀行の役割

糸商から元機屋、買次商に至るモノとカネの流れに金融機関が介在する。桐生の場合、銀行以前の金融機関として、書上家や佐羽家など有力買次商や元機屋の出資による第八生産会社があった。

桐生で初めての銀行は、明治12年(1879)12月に開店した第四十国立銀行の支店である。本店は群馬県館林にあった。明治11年(1878)9月、旧館林藩士の出資で立ち上げられた士族授産の銀行である。

桐生の佐羽家、小野里家も少数ながら出資しており、桐生支店は佐羽家の隣地に置かれ、小野里は明治14年(1881)から取締役に加わっていた。その後、同行は明治21年(1888)までに上田、足利そして東京に支店を出す。途中、桐生の第八生産会社と一体化したこと、業況拡大に伴う増資で桐生の出資者が増えたこともあって、経営の主力が桐生に移ってきた。

明治29年(1896)、第四十国立銀行の出資者かつ大口債務者だった佐羽商店が経営破綻。金融ひっ迫の危機の中、翌年11月に足利銀行桐生支店が出店した。こうした背景もあって、第四十国立銀行は、明治31年(1898)7月、四十銀行に改組すると同時に本店を桐生に移す。佐羽商店の跡、現在東和銀行桐生支店がある場所を新店舗とし、2年後に桐生の森宗作が頭取となった。森家は糸商から買次まで手掛けていたが、主力は金融会社だった。当時、銀行取引は信用力ある大手の機屋に限られており、零細機屋は森宗作の森商店、後の森合資会社などから借入していた銀行と頭取がホールセールとリテールの関係にあった。

図2 森合資会社店蔵・事務所

図2 森合資会社店蔵・事務所

桐生織物界のもうひとつのメインバンクが足利銀行だった。明治28年(1895)に足利町の繊維業者が中心となって創業した銀行だ。桐生支店は第1号支店だった。第2号支店が明治40年(1907)に出店した館林支店である。足利銀行は両毛機業地を重視し、県境をまたいで展開した。そのため営業エリアは四十銀行と重なっていた。

第三の有力行が第二国立銀行の桐生支店である。明治7年(1874)、原善三郎・茂木惣兵衛ら横浜の生糸貿易商が立ち上げた銀行で、生糸集散地の前橋や高崎に支店を置いていた。現在の横浜銀行の源流である。桐生支店の出店は明治27年(1894)だったが、それ以前から桐生の国庫金業務を担っていた。明治36年(1903)に閉店している。現在の横浜銀行桐生支店は昭和22年(1947)に出店したものだ。

糸商、元機屋、買次商の3者が企業間信用で結ばれる中、四十銀行、足利銀行がそれぞれの段階で手形を割り引いた。両行の資金運用は割引手形が中心だった。買次商は消費地問屋から、元機屋は買次商から、糸商は元機屋から売上代金として回収した手形を銀行に持ち込んだ。

図3 市街図

図3 市街図

本町通りに沿って南下する一等地

鉄道以前の織物の輸送路は2つあり、すなわち太田を経て熊谷から中山道に入る陸路と、渡良瀬川舟運の上限である足利のきたやえん河岸から渡良瀬川・利根川で江戸に至る水路があった。江戸期の桐生新町には、全国組織の飛脚問屋の支店が置かれていた。郵便局と運送会社を兼ねた存在で、地元買次商と江戸や京・大坂の問屋を取り次ぎ、織物の運搬と代金の受渡しを担った。明治に入ると飛脚屋は通運会社へ改組される。

このような背景から、桐生の街の重心は街道沿いにあった。群馬県統計書によれば明治37年(1904)の桐生の最高地価地点は四十銀行本店の一丁南、「桐生町大字桐生新町四丁目」だった。この年が最高地価地点の初出だが、桐生駅の開業から15年経っており、買次商や銀行の立地から類推するに、鉄道以前の中心はなお北にあったと思われる。

桐生駅の開業は明治21年(1888)11月。JR両毛線の前身の両毛鉄道が同年5月に小山から足利まで開通しており、11月に桐生まで延伸された。翌22年(1889)11月には前橋に到達し全通している。駅の開業以降、人や物の流れが街道から鉄路へ移るに従って、街の重心は本町通りに沿って駅の側へと下り始めた。前述の明治37年から22年後の大正15年(1926)、大蔵省の土地賃貸価格調査事業報告書によれば、桐生市の最高賃貸価格地点は「桐生五丁目」(本町五丁目)となっていた。一等地は駅側へ一丁分下がっている。

産業革命が進めた地銀再編

英国人のカートライトが1785年に発明した力織機が桐生でも使われるようになったのは明治末期、明治40年(1907)に渡良瀬水力電気の発電所が竣工した頃だ。第一次世界大戦に伴い大正4年(1915)に始まる大戦景気を機に導入する機業家が増え、大正9年(1920)4月以降の戦後恐慌で普及に拍車がかかった。人絹の登場もあり、昭和初期にかけて力織機に置き換わっていく。電力で起動する力織機を備えたノコギリ屋根の工場が、桐生の裏通りや郊外に増えるのもこの時期である。変わったのは街の景観だけではない。織物生産の拡大は機業家の資金需要を急増させ、銀行にも規模の拡大を迫った。その結果、越境合併や大手行との統合が進むことになる。

大正4年、四十銀行は本町五丁目、本町通りと末広通りの交差点の南西角に赤レンガの行舎を新築した。同年7月には伊勢崎に本店を置く群馬商業銀行が桐生に進出している。元々、安田善次郎が創業に関与していた銀行で、進出翌年には同じく安田系で東京に支店網を持つ明治商業銀行に合併された。

大正7年(1918)6月、さらなる成長を目指し四十銀行は栃木の四十一銀行と越境合併して八十一銀行となった。本店は東京へ移した。大正10年(1921)7月、八十一銀行は東京の準大手行の東海銀行に合併されることになった。名古屋にあった同名行とは別の、明治22年(1889)に設立された銀行である。大正10年まで第二銀行が国庫金出納事務を受託していたが、合併に伴って、大正11年(1922)に東海銀行が日銀の復託代理店として国庫金を担うことになった。

越境再編の次は大手行との統合である。明治商業銀行は大正12年(1923)11月の安田系銀行11行の大合同の一環で安田銀行となった。戦後の富士銀行である。昭和2年(1927)4月、金融恐慌のあおりで東海銀行は第一銀行に合併された。第一銀行からみれば両毛に拠点を得たことになる。『第一銀行史』の営業店一覧をみると京浜、東海、京阪神、中国・四国、東北・北海道の各地区と並ぶ両毛地区が目に留まる。

拡大策を取っていた元の四十銀行が戦後恐慌の痛手を負い、群馬商業銀行ともども東京本店の大手行に組み込まれていった一方、地域一番行の地位を得たのが足利銀行だった。恐慌前年の大正8年(1919)9月、足利銀行は増資を機に川崎銀行の傘下に入った。川崎銀行の本店は東京だが茨城県や千葉県に地盤があった。足利銀行との提携時に川崎銀行から派遣されたのが、後に常陽銀行の初代頭取となる亀山じんである。

東海銀行に代わり、桐生管轄の日銀代理店は昭和2年(1927)5月から足利銀行となる。昭和9年(1934)3月には足利銀行が桐生市金庫事務を取り扱うことになった。以降、令和6年(2024)3月末まで同行が指定金融機関だった。なお、群馬大同銀行、現在の群馬銀行の桐生支店は昭和15年(1940)の開店である。戦後は同行が日銀代理店を担った。

桐生、そして桐生を含む両毛地区は安田、第一、川崎銀行など大手行の競争の場でもあった。元の地域銀行は越境再編をこころみ、東京に本店を移し、大手行と合併した。桐生に本店を置いた四十銀行は、八十一銀行、東海銀行、第一銀行、第一勧業銀行を経て現在のみずほ銀行に連なるが、桐生の店舗は平成15年(2003)に閉店している。館林の旧本店はみずほ銀行館林支店となっていたが、今年2月に閉店した。

足利銀行の戦前の親銀行だった川崎銀行はその後第百銀行、三菱銀行と合併し消滅。傘下の銀行は一県一行の再編を経て戦後の地域一番行となった。現在の足利銀行、常陽銀行、千葉銀行である。

桐生の産業遺産

戦後も一等地は本町五丁目のままだった。昭和48年(1973)の最高路線価地点は「本町五丁目とりせん前本町通り」だった。本町通りと東西の末広町通りが交差する場所である。本町五丁目には、桐生で初めての百貨店、矢野呉服店が昭和2年(1927)10月に開店している。大型店といえば、昭和7年(1932)4月には本町四丁目に高島屋十銭ストアが開店した。戦後は高島屋ストアとなり、街を代表する店舗になった。

高島屋ストアは昭和57年(1982)2月に閉店し、同年3月に長崎屋桐生店が本町通りの西側に大型店を出店。その後の地域一番店となった。現在はMEGAドン・キホーテとなっている。他方、国道50号桐生バイパスの開通などで商業拠点はロードサイドに移り、本町通りは閑散としていった。最高路線価地点は平成12年(2000)に「末広町・末広町通り」となる。

その末広町通りも、令和6年(2024)には群馬県に9か所ある税務署管内で藤岡市に抜かれ最下位となった。そして令和8年分は地点そのものが桐生駅南口の「桐生市巴町2丁目市道10206号線」となった。路線価も順位も前年と変わらない。

メインストリートは閑散としたが、商業から観光と生活に街の評価軸が移る中、それがかえって街の魅力を高めている。買次商の町家、裏手の工場など桐生の織物産業史の遺産が地域資源となった。平成24年(2012)7月、本町一丁目、二丁目を含む一帯が「桐生新町重要伝統的建造物群保存地区」として国の選定を受けた。町立て当初の敷地割の上に、江戸後期から昭和初期の主屋93棟、蔵54棟、工場6棟などが残る。三越サテライト桐生のある本町二丁目近辺は、駅の引力を受けて南下する前のかつての一等地だった。冒頭の図1のように、無電柱化や石畳舗装が進められ、往時をうかがわせるような修景が進む。また、産業革命期の桐生を印象づけるのが街なかに点在するノコギリ屋根の工場だ。ベーカリーカフェ、パティスリー、美容室、ワイン貯蔵庫など様々な用途へのリノベーションが施されている。

図4 旧株式会社金芳織物工場(ベーカリーカフェ レンガ)

図4 旧株式会社金芳織物工場(ベーカリーカフェ レンガ)

鈴木文彦

プロフィール

大和総研主任研究員 鈴木 文彦

仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。主著に「自治体の財政診断入門」(学芸出版社)、「公民連携パークマネジメント」(同)