
はじめに
皆さん、こんにちは。生物学者の福岡伸一と申します。
このような形で財務省の幹部の皆様と交流する機会をいただきまして、大変光栄に思います。天下国家を論じている皆さんに、どれぐらい有意義なお話ができるか、あまり自信がありませんけれども、少しでも何かヒントになるようなことを伝えられれば幸いです。
EXPO2025大阪・関西万博「いのち動的平衡館」
1.いのち動的平衡館
去年、大阪で開催されたEXPO2025大阪・関西万博において、「いのち動的平衡館」というパビリオンで「いのちとはどういうものか」というメッセージを発信いたしました。万博のテーマが「いのち輝く未来社会のデザイン」ということだったので、いのちというのは一体何なのかを生物学の視点から見つめ直しました。
今、世界が分断したり、格差が広がったり、様々な文化や国と国との衝突、あるいは宗教の衝突がある中で、基盤となる考え方をどこに求めればいいのかという問いがあります。そこで、「生命現象が本来的に持っているあり方に学ぶ」すなわち、「いのちに学ぶ」ということが一つのスタンダードになるのではないかと考えて、このパビリオンを作りました。
パビリオンの外観はふわりとした一枚の膜が大地に降り立ったような形をしていて、直径は約30mあります。内部には一本も柱がなく、自分の力で立ち上がっているという、細胞膜のような生命的な建築を目指しました。
中に入ると、暗がりが広がっていて、ドーナツ状の直径10mほどの立体LEDシアターになっています。その周りを100人程が焚き火を取り囲むようにして、生命38億年のドラマを見ていただく、という仕掛けになっています。生命とは何か、生きることの意味を、世界初公開の光のインスタレーションで皆さんに体感していただきました。
万博は半年ほど開催されたのですけれども、およそ50万人の方が来場されました。
2.パビリオンのキーワード「動的平衡」
パビリオンのキーワードになっている「動的平衡」が、私の生命哲学のキーワードになっています。
もともと私は、分子生物学という、細胞をすり潰して、その中からDNAを取り出して、その遺伝子配列を調べるといった、非常にミクロな部分の研究者として生物学をスタートさせました。それを10年、20年と一生懸命研究していたのですが、結局、生命をどんどん分けていって、要素還元論的に非常にミクロなレベルに追求していったとしても、精妙なメカニズムは判明するのですけれども、生命全体のことは何もわからないじゃないか、という地点に達しました。もう少し生命全体を捉え直す必要があるな、と考えて、この実験生物学から理論生物学へ、すなわち、メタ視点に立つような観点から生命を研究しようと思ったわけです。
その時に、生命が持っている一番大事なポイントは何かというと、「絶えず動きながらも、変わらないでいられる、そういう状態が生命を生命たらしめている」ということであると考えました。こうして「動的平衡」という四文字熟語を編み出し、これを中心に考えていこうということになったわけです。
環境から物質やエネルギーや情報が、我々の体に流れ込んできます。しかし、我々の体は、固体というよりは流体のようなもので、流れ込んできた様々な物質を使って、一瞬のエフェクトとして、生命を立ち上げているわけです。そして、それはまた環境へと流れ出て、環境の大きな流れの中に入っていく。さらにそこで終わりではなく、また別の生命体のところへと受け渡されて、そこで新しい動的平衡を立ち上げて、生命現象をつくる。それが地球上でぐるぐる回っている。これが動的平衡のコンセプトです。
ルドルフ・シェーンハイマーの研究
1.動的平衡は古くから連綿と流れてきた生命観
この動的平衡というのは、私がゼロから作り出した概念ではなく、生物学の中に古くから連綿と流れてきた一つの生命観です。もちろん、近代科学における生命観は、機械論的に生命をメカニズムとして解析して、そのミクロなパーツである遺伝子やタンパク質を調べていくというアプローチが主流です。しかし、そうではなくて、流れとして生命を見よう、という考え方も続いていたわけです。その一人がルドルフ・シェーンハイマー(Rudolph Schoenheimer)という人でした。
今から100年ぐらい前に研究していた科学者ですが、今ではすっかり忘れ去られてしまった存在です。教科書に名前が載っているような研究者ではありませんし、ノーベル賞を受賞したとか、大きな学派を築いて多くの弟子を抱えたというような、いわゆる著名な学者でもありません。それどころか、43歳という若さで謎の自殺を遂げています。こうした事情もあって、現在ではその名前はすっかり忘れ去られ、研究成果も膨大な学術雑誌のバックナンバーの中に埋もれてしまっています。
しかし、私にとっては、彼こそが、動的平衡というコンセプトに気づかせてくれたヒーロー、偉大なる人物なのです。
2.食べるとはどういうことか
では、シェーンハイマーは一体何をどう研究したのかについて駆け足でお話ししたいと思います。
彼の問いは非常にシンプルです。ネズミにしろ、人間にしろ、日々何かを食べていかなければいけませんよね。この「食べ物を食べる」というのは、一体どういうことなのか、ということを根本的に問い直したのです。
彼が生きた、今から100年前の時代も、メカニズム思考、あるいは機械論的な生命観というのはもう主流になっていて、「食べ物を食べるという行為は、単純に自動車とガソリンの関係、すなわち内燃機関とエネルギー源の関係だ」と、理解されていました。
自動車を動かすためには必ずガソリンが必要で、ガソリンはエンジンの中で燃やされ、そのことによって発生する熱エネルギーが機械エネルギーに変換されて、自動車は動く。仕事をするとエネルギーは消費されてしまうので、また新たなガソリンを補給して、自動車は動き続ける、というわけです。
それと同じように、食べ物は生命体にとってエネルギー源であり、これを食べると、ガソリンのように爆発的ではないにせよ、細胞の中でゆっくり燃焼、つまり酸化されて、そこから熱が発生する。その熱は体温になったり、あるいは運動の機械的なエネルギーになったり、また一部は化学エネルギーに変換されて代謝のために使われる。それは消費されてしまうと消えてしまうし、燃えかすは二酸化炭素となって体外に排出されるので、また新たな食べ物が必要になる、というふうに考えられていました。
3.体内へのinと体外へのoutが一致するのか
シェーンハイマーは「それは確かにそうかもしれないけれども、もしそうだったら、収支がきちんと合っている必要がある。」と考えました。つまり、食べ物を食べると、その食べ物に含まれている炭素原子は過不足なく燃やされるはずであり、燃やされるということは炭素が酸素と結びつくことですから、100粒の炭素がもし体の中に入っていけば、100粒の二酸化炭素となって、燃えかすが外に出ていかなければいけない。そのinとoutの収支をきちんと見極めない限り、食べたものがエネルギーとして生命活動を支えていることを言明できないのではないかと考えたわけです。
近代科学は生命をどんどん細かく分けてきて、我々の体は細胞からできており、細胞は分子からできていて、分子は炭素・窒素・水素・酸素といった原子からできている、いわば「粒々の集まり」である、ということは皆が知っていました。一方で、食べ物も、植物性であれ動物性であれ、他の生物の体の一部をいただいてきたものですから、これもまた原子の集合体ということになります。
ですから、仮に100粒の炭素原子を食べると、それが体の中で燃やされて、100粒の二酸化炭素となって出ていくはずであり、そのinとoutの収支が合っているかどうかを調べる必要があるわけです。
このinとoutの収支が合っているかどうかということを調べるためには、一つ非常に困難な問題がありました。それは今、食べられようとしている食べ物の炭素原子や窒素原子に「何らかの印」を付けておく必要があるということです。体の中の原子と食べ物の原子は本質的に同じものですから、両者が混じり合うと、どの粒子が食べたもので、どの粒子がもともと体にあったものかがわからなくなり、収支が取れなくなってしまうのです。
ですから、この実験をするためには、何らかの方法で食べる方の原子に標識を付けておかないと追跡できないわけです。しかし、今から100年前の科学的状況では、原子の一粒一粒に標識を付けて追跡していくというようなことは、誰一人思いもよらなかったのです。
4.同位体を利用して食物構成原子に標識を付ける
ところが、シェーンハイマーは、原子には同位体があり、これを利用すると標識を付けることができるというアイデアを思いついたのです。
例えば、炭素は、我々の体を作っている炭素や吐いた息に含まれている二酸化炭素など地球上にいろんな形で存在しています。その炭素の99.99%は「炭素12」という炭素固有の質量数が12という数で表される炭素なのです。
一方、ごくわずかだけ、自然界に重い炭素が存在します。その炭素は13とか14という質量数を持っています。炭素が少し重いだけなので、それは目にも見えませんし、味や匂い、栄養価にも影響を及ぼさない。ですから、ネズミや人間が見ても普通の食べ物にしか見えないわけです。ところが、質量分析計という特別な装置を使うと、普通の炭素12と重い炭素13は識別することができる。そこで、その重い炭素を使って、食べ物の方の炭素原子に目印をつけて、これを食べさせれば、本当に体の中で酸素と結びついて二酸化炭素となって排出されるのかどうかを追跡できるわけです。
これを使って彼は、食べ物が食べられたらどうなるか、本当にガソリンと同じように燃やされるのかどうか、ネズミを使って調べてみました。
そうすると、非常に意外な結果が分かりました。食べ物の原子、すなわち標識した原子の半分以上は燃やされずに、ネズミの体のしっぽの中や、筋肉の中、骨の中など、いろいろなところに散らばり、ネズミの体と一体化してしまったのです。ネズミの体に溶け込んでいってしまいました。これは、ガソリンと自動車の例えで言うと、ガソリンの成分が車の中に入ると、タイヤの一部になったり、ハンドルの一部になったり、座席の一部になったりしている、ということになります。
しかし、そんなことは自動車とガソリンの関係では起こっていないわけですから、食べ物は燃やされるのではなく、ネズミの体の一部に成り代わってしまった、ということになります。
彼はこの実験を非常に厳密に行っておりまして、標識物を食べさせる前のネズミの体重を測り、その後、標識物を食べて、それが体の中に蓄積されていく過程をずっと追跡していきました。新しい原子が体の中に蓄積されるので、当然体重が増えていくはずなのですけれども、体重は1gも増えていませんでした。さらに、このネズミから出てくるあらゆるものを密封状態で回収して、この標識物がどこへ行くのかを調べていきました。糞や尿といった排泄物、それから毛や皮膚の剝落物、さらには呼気、つまり吐いた息の中の二酸化炭素についても、標識物が含まれているかどうかを調べました。
彼は「ネズミの体重は変わってないのに、体の中に標識物が増えている」という不思議な現象を目の当たりにしたわけです。
5.合成・分解の流れを止めないために食べる
そこで、彼はこの結果を次のように考察しました。
食べ物を食べるという行為は、自動車がガソリンを得て燃焼させるようなものではなくて、「自分自身の体を入れ替えている、取り替えている」ということである。
体重が変わらないのは、この時点でネズミの体をつくっていた原子や分子が燃焼されたり、分解されたりして捨てられたためである。
つまり、食べ物を食べるという行為は、自分の体を入れ替えていて、自分の体は絶えず合成と分解を繰り返していて、その流れを止めないために食べ物を食べる。そして、食べ物の原子や分子は、直ちに自分の細胞や組織の一部に入れ替わっていっている。こういう流れが、常に「生きている」ということの中を通過している。
これは、絶えず環境から食べ物という形で様々な分子が生物体の中に流れてきて、一瞬ネズミの形、あるいは人間の形がつくり出されるのですが、それは流れの中に現れている一瞬のエフェクトであり、やがてそれは流れ出ていってしまう、ということです。
日本の古典「方丈記」の冒頭にある「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」と同じように、流れの中にしか生命現象は存在しないということを、彼は明らかにしてくれたのです。
6.私たちの体はどんどん入れ替わっている
シェーンハイマーは、どの部位がどれぐらいの速度で食べ物の原子や分子と入れ替わっているのかを個別に調べていきました。
自分の体がどんどん入れ替わっているというのは、例えば毛が生え変わるとか、爪が伸びるとかいう形で実感できると思いますけれども、実は体のあらゆるところが、ものすごい速度で、食べ物の原子と入れ替わっております。
昨日の私と今日の私は、物質レベルではすでにその間に食べたものと交換されていますし、数ヶ月も経つとかなり変わってしまっている。一年も経つと、一年前の私を作っていた物質的な基盤というのは、現在の私を作っている物質的な基盤とすっかり入れ替わってしまっていて、もう別人になっていると言っても過言ではないわけです。
彼の実験によると、一番早く入れ替わっているのは、消化管の上皮細胞、消化管の表面の細胞です。消化管の細胞はだいたい2日~3日で捨てられていきます。でも、その2日~3日で食べた食べ物から新しく作られた細胞が再配備されて並んでいます。
ですから、実は、ウンチの主成分というのは食べかすが出ているのではないのです。自分自身の細胞が捨てられて、出ていっているわけです。
動的平衡
1.動的平衡とは
では、「どうしてこんなに入れ替わっているにもかかわらず、私は私でいられるのか」という疑問が湧いてくると思うのですけれども、その前にこの動的平衡という概念をここで整理しておきます。
シェーンハイマーの論文では「動的平衡」という言葉は使われておらず、生きているというのは「Dynamic state」、つまり動的な状態にある、と表現していました。
私はそれを一歩進めて、単なる状態ではなくて、絶えずそのバランスが取り直され、作り直されているという意味で、「Dynamic equilibrium(動的平衡)」という言葉をここに当てはめました。equilibriumというのは、イコール、つまり等しいという意味と、リブラ、天秤という意味から来ている言葉です。
動的平衡というのは、作ることよりも壊すことを一生懸命やっていて、壊しながら作り変えて、その材料を絶えず食べ物から得ている、ということです。
2.変わらないために小さく変わり続ける
どうしてこのように一生懸命に自分自身を作り変えているのかというと、それは「変わらないために変わり続けている」と言えると思うのです。これはちょっと禅問答のように聞こえるかもしれませんが、激変してしまったり、死んでしまったりしないように、「絶えず小さく変わり続けている」ということです。
大きく変わらないために小さく変わり続けている。そして、分解と合成の絶え間ない均衡の上に、生命現象というのは常に動的な状態としてバランスをとっているわけです。
だからこそ、生きているということは、代替可能性があるわけです。何かが欠落したり、欠損したりしても、それを補うようなピンチヒッターが絶えず供給されます。どこか代謝経路が寸断されても、バイパスができて、なんとか保つことができる。環境が変わっても柔軟に適応できますし、栄養状態が変わっても可変的に代謝を変えることができる。病気になっても回復するし、怪我をしても修復できる。これらはすべて、体が動的平衡状態を保っているからであり、生命が持っているある種の柔らかさというか、レジリエンスというのは、すべてこの動的平衡が支えているのです。
3.相補性
では、どうしてそんなに入れ替わっているのにもかかわらず、ある種の自己同一性が保たれ、自分は自分でいられるのでしょうか。脳細胞も中身はすごい速度で入れ替わっている、動的平衡しているわけですけれども、どうして記憶が保たれているのでしょうか。
これについても動的平衡の観点から説明することができます。
それは、体の中にある細胞と細胞、あるいは細胞の中のタンパク質とタンパク質の関係というのは、部品がそこに差し込まれているだけではなくて、常に相補的な関係の上に成り立っています。つまり細胞と細胞は、絶えずコミュニケーションしながら、前後左右上下の細胞と相補的な、互いに他を支え合う関係にあります。それはちょうどジグソーパズルのピースのようなものだと考えると分かりやすいと思います。仮に、真ん中のピースが捨てられたとしても、周りにある八つのピースが残っていれば、真ん中のピースの形と場所が保存されますので、新しく作られたピースはそこにはまることができます。この関係性は、すべてのピースの周辺にローカルに張り巡らされています。
私たちの体というのは一枚の非常に大きなジグソーパズルの壁画のようなものであり、この相補性を保ちながら、絶えず小さく取り替えられているのです。ピースは常に更新されながらも、全体の絵柄がそんなに変わらないというのが、生命の動的平衡ということなのです。このパーツの相補性が、動的平衡の全体のバランスを支えているということになります。
4.相補性=利他性
この相補性は、細胞内や細胞同士だけに言えることではなくて、生態系全体にも言えることです。地球上のいろいろな生物は、それぞれが相補的に他の生物を支えながら自分も支えられています。それは、ある時は、食う、食われるというような、食物連鎖網の結節点にいるわけですけれども、それは、決して支配と被支配の関係ではなく、相補的な関係なのです。
狼と羊の関係をみると、狼がいないと、羊が増えすぎて羊が食べる草を根絶やしにしてしまいます。だから、一定の捕食者がいることは、羊のポピュレーションのバランスを保っていることになるわけです。狼の方も羊を食べ尽くしてしまうと、自分たちが自滅してしまうので、ある一定の捕食量というのが決まっているわけです。
こういう相補的なネットワークが生態系全体を包んでいるので、相補性とは利他性であるということになるのです。すなわち、他の生命のために存在している状態で絶えずつながれているということが、生命現象であると言えるわけです。
生命38億年 三つの「利他的」革命
1.20世紀における利己的遺伝子論
生態系全体が利他性のネットワークによって支えられていることは、進化の歴史を見ても言えることです。これは私の万博パビリオンの一つの大きなテーマとなっています。
20世紀においては「利己的遺伝子論」というものがありました。イギリスのリチャード・ドーキンス(Clinton Richard Dawkins)という人が書いた「利己的な遺伝子」という書物がベストセラーになりました。
つまり生命というのは、DNAの乗り物であって、DNAは自分が増えることだけを考えている非常に利己的な存在である、という考え方です。自分自身がコピーできる、最適化できるように、生命もコントロールされているし、あらゆることがDNAファーストになっている、というのが利己的遺伝子論だったわけです。
でも、この考え方は非常に一面的であると思います。利己的であるはずの遺伝子の実態をよく見ると、世代交代すると遺伝子はどんどん拡散し、希釈されていきますから、本当に利己的な主体というのは、どこにあるか見えなくなってしまうのです。
むしろ生命は利己的であるよりも利他的であると見たほうが、より生命現象の進化の実態に即していると私は考えています。
2.進化の過程における三つの「利他的」革命
進化の中で非常に大きなイベントが3回程起こりました。その時どうしてその変化が起きたのかというと、DNAの突然変異で起きたわけではなく、もう少し上の細胞のレベルの利他的な協力によって大きな進化が起こったのです。
第1の進化は、原核細胞が真核細胞になったことです。これは今から20億年ぐらい前に起こりました。非常に単純な大腸菌のような細胞膜の中に裸のDNAがあるというのが原核細胞なのですけれども、それが急に複雑化した細胞、真核細胞というものに変化したのです。
複雑化した細胞では、細胞の中にミトコンドリアができたり、葉緑体ができたり、細胞核ができたりするようになります。細胞の中に分業体制、コンパートメントができて、別々の反応を効率よく行う仕組みができたのです。でも、これは急に突然変異でできたわけではなくて、大きな原核細胞と小さな原核細胞が協力して共生することによって、真核細胞ができたのです。
現在、私たちの細胞の中にあるミトコンドリアも、もともとは独立した小さな細菌でした。エネルギーを作る能力に優れていたため、大きな細胞の中に入り込んだときに、エネルギーの余剰を提供する代わりに守られるという共生関係が成立した結果、ミトコンドリアが生まれたわけです。実際、ミトコンドリアの中には今でも独自のDNAが残っていて、それは単独生活していた時代の名残だと考えられています。
同様に、クロレラのような単独で光合成ができる小さな微生物、原核細胞は、大きな原核細胞の中に取り込まれることによって、細胞の中で守られながら光合成をして、光合成産物を大きな細胞に与えるという協力関係ができて、植物細胞の基礎ができました。
このように真核細胞ができた理由は、遺伝子が利己的に振る舞った結果ではなくて、利他的な協力関係が生まれたからできたのです。その時、非常に進化が大きくジャンプして、現在の多様性の基礎をつくりました。
第2の変化は単細胞から多細胞への進化です。バラバラだった単細胞が増えながら一箇所にとどまって、その細胞の塊の中で役割分担が生まれました。例えば、表面にある酸素をたくさん得やすい細胞は皮膚の細胞になり、内側の細胞は内臓や血液、骨の細胞になったりするという分業体制が生まれたことによって、多細胞生物が生まれ、生物が大型化したわけです。
これもまた、細胞が個別に利己的に振る舞うのではなくて、利他的に振る舞うことによって起きた大きな進化のジャンプです。
第3の変化として、無性生殖から有性生殖ができたというのも利他的な革命です。単に細胞が分裂しながら増えているのではなく、雄と雌という性がつくられ、両者が出会って協力しないと次の世代ができないという「面倒くさいやり方」をわざわざ生み出したわけです。でも、この仕組みができたおかげで、遺伝子がシャッフルされるようになって、多様性がより早く生み出されることになり、進化が大きく推進されたのです。
38億年の生命の進化を眺め渡してみると、利己的な遺伝子の振る舞いよりも、利他的な生物の協力があった時ほど、大きな進化があることが見て取れるわけです。
このように「生命は利己的ではなく利他的だ」というメッセージが生まれ、これが万博の私のパビリオンのメッセージでもありました。
なぜ壊しつづけるのか
1.生命には物質の下る坂を登ろうとする努力がある
どうして私たちはそんなに一生懸命、自分自身を壊しながら作り変えているのでしょうか。
もっと頑丈に、堅牢に作っておけば長持ちするのではないか、よりサステナブルじゃないか、と思われるかもしれませんが、実は、絶えず壊しながら作り変えていることこそ、サステナブルであることの一番大事なポイントなのです。それが38億年間、一度も生命現象が途切れることがなかった大きな理由なのです。
「壊す」ということは一体どういう意味を持っているのでしょうか。今から100年程前に、フランスの哲学者でアンリ・ベルクソン(Henri-Louis Bergson)という人がおりました。彼は、生命現象の最も大事なことは何か、哲学的に考えた果てに、「生命には、物質の下る坂を登ろうとする努力がある」と言っています。「物質」つまり非生命体がゴロゴロと転がり落ちてしまう坂を、生命だけが一生懸命に登り返そうとしている。その努力が生命を生命たらしめているのだ、と言ったわけです。
この表現は非常に素晴らしいと私は感じております。現代科学の言葉で言い直すと、「生命はエントロピー増大の法則に抗している」になると思います。エントロピー増大の法則というのが「物質の下る坂」のことです。エントロピーというのは、乱雑さという言葉で訳される物理量で、形あるものは形が崩れる方向にしか動かない、秩序あるものは秩序が崩れていく方向にしか動かない、というものです。
例えば、どんなにきれいに掃除した部屋でも、少し放っておくとすぐに散らかってしまう。どんなに壮麗なピラミッドのような建築物も長い年月を経ると、風化して砂に戻っていってしまう。熱いコーヒーも、油断すると熱が拡散していき、冷めてしまう。これらはすべてエントロピー増大の法則に沿ったことなのです。時間もエントロピーが増大する方向にしか流れないというのが宇宙の大原則です。しかし、生命現象だけは、その秩序が非常に高い状態をなんとか保っているわけです。細胞も常にエントロピー増大の法則が矢のように降り注いできています。細胞膜は絶えず酸化されようとしていますし、細胞の中には老廃物のタンパク質が溜まっていこうとしていますし、二酸化炭素の濃度が上がっていきますし、タンパク質は変性していこうとしていますし、いろいろなエントロピー増大がどんどん起ころうとしているわけです。それをなんとか食い止めているのが生命現象なわけです。
2.絶えず壊しながら、作る
では、どうやって食い止めているのかというと、それが「絶えず壊しながら、作る」ということです。絶えず壊しながら、エントロピーを捨て続けながら、作っている、ということなのです。
生命現象は作ることよりも壊すことを実は優先しているのです。エントロピーが増大していくよりも先回りして、率先して壊しているわけです。
これが「新陳代謝」と「動的平衡」の違いです。「古いものが捨てられて、新しいものに置き換わる」のが、新陳代謝ですが、動的平衡は、古いものでも新しいものでも、どんどん率先して壊す。まだ使えるのに、できたてほやほやのものでも壊して、エントロピーが溜まるのを防いでいるわけです。
そして、その都度作り直しながら、全体として新しい状態を保っている、というのが動的平衡の状態です。
3.壊されることを予定されて作られている
そのために生命現象においては、あらゆるものが、あらかじめ壊されることを予定して作られているのです。タンパク質は非常に柔軟なポリマーですけれども、どこからでも切断、分解して、アミノ酸に戻せるようになっています。アミノ酸はまたつなげ直すと、新しいタンパク質になる。DNAやRNAのような核酸も、ヌクレオチドというユニットにたやすく分解してまた作り直すことができる。細胞膜のような成分もそうです。なので、それは壊せるように、すぐにエントロピーを排出できるように作られていて、いつでも壊して作り直すようにできているわけです。
人間だけが、この生命原則を忘れてしまって、なかなか壊せないものを作ってしまったわけです。プラスチックのような合成高分子が最たる例ですし、コンクリートとか鉄のようなものもなかなか壊せないわけです。それがだんだん環境中に溜まって、環境に負荷をかけてきています。
人間は利己的な考え方から少し利他的な考え方にシフトすべきだし、動的平衡に沿って物事を考えると、あらかじめ壊すということを想定して、ものを作らなければいけないということが生命に学べるわけです。
4.利他性は過剰さの上に成り立っている
利他性というのは、100しかないところから、強制的に10を寄付しなさい、と言っているのではありません。生命現象というのは必ず運、不運があって、いい時もあれば悪い時もある。いい時には、自分に必要なリソースが100なのに、110とか120とか得られることがあるわけです。その時余剰分の10とか20を誰かに渡す。そうすると、また別の時に誰かから10とか20がやってくる、というのが利他性の原理です。
例えば、洞窟に住むある種のコウモリは夜、洞窟から出て行って、家畜などを吸血して明け方に帰ってくる。集団の中では、たらふく血を吸うことができたコウモリと運悪くあまり獲物に出会えず、お腹を空かせたまま帰ってくるコウモリがいます。そのとき、たくさん食べたコウモリは過剰な血を吐き戻して、お腹が空いている仲間に分け与えます。分けてもらったコウモリは、別の時にたくさん食べることができたら、今度は自分の余剰分をあげるのです。このように、利他性というのは過剰さの上に成り立っているわけです。
環境の中で一番利他的に振る舞ってくれているのは植物です。植物がもし利己的に振る舞って、自分に必要なだけしか光合成をしなければ、動物や他の生物が存立する余地は全くなかったわけです。植物が過剰に光合成して、葉や実を虫や鳥に分け与えてくれるおかげで、他の生物が存在する余地が生まれ、それがまた食物連鎖で多様性をつくり出したのです。
基本的には生物は利他的に振る舞っています。というのも、過剰に持つと、不利になるからです。過剰に何かを溜め込みすぎると腐ってしまうし、移動の時にも不利になるし、他の生物に狙われやすくなる。だから、過剰なものは常に外に渡される。
ストックするよりも、絶えずフローに回して、そのフローが全体として動的平衡を保っている、というのが生命の現実なのです。
死は最大の利他的行為である
動的平衡というのは、絶えず自分自身を壊し続けて、エントロピーに抗い続けています。しかし、エントロピー増大の法則は宇宙の大法則ですから、一時的に抗うことはできても、完全に打ち勝つことはできません。徐々にエントロピー増大の法則に負けていかざるを得ない。それが老化ということですし、最後にはその法則に打ち負かされて、死を迎える。生命の有限性はそこにあるわけです。
では、死とは一体どういうことなのか。万博のパビリオンではもう一つの物語として次のようにお示ししました。
「光の粒子が描く38億年の生命が絶えず移ろいゆく流れの中で、利己ではなく、利他によってつながれてきたいのち、その流れの中に私たちのいのちもまたあるのです。一方で、この宇宙には、あらゆるものは壊れ、崩れていくというエントロピー増大の法則があります。でも、生命は生きている間、一定の秩序やバランスを保っているように見えます。とても不思議なことです。
私は動的平衡によってそれが説明できることに気がつきました。
坂を転がり落ちる円の一部を開いて、一方の端を壊し続け、もう一方の端を作り続けます。そして、合成よりも分解を少しだけ多くすると、輪は下るはずの坂を登り返していくのです。これが動的平衡の状態です。しかも、合成よりも分解が少しだけ多いので、輪は徐々に短くなり、やがては消えてしまいます。それはつまり、生命がいつか必ず死を迎えることを意味しています。
いのちは有限であるからこそ輝きます。死は怖いことでも虚しいことでもありません。死があるから新しい生があり、進化が生まれます。死もまたいのちをつなぐ利他なのです。私たちのいのちは利他によって紡がれてきた38億年の生命の流れの中にあるのです。」
このように、パビリオンのエピローグは、死というものを肯定的に捉えようというメッセージが込められています。
生命の有限性というものは、動的平衡の帰結としてあるということ、そして死は最大の利他的な行為であるということです。これが連綿と紡がれてきて、今日の私たちがあり、これからも引き継がれていくはずの生命の物語なのです。
ご清聴ありがとうございました。

講師略歴
福岡 伸一(ふくおか しんいち)
生物学者・作家
京都大学卒。米国ハーバード大学医学部博士研究員、京都大学助教授などを経て青山学院大学教授、米国ロックフェラー大学客員教授。大阪・関西万博(EXPO2025)テーマ事業「いのちを知る」プロデューサー。サントリー学芸賞を受賞し、90万部を超えるベストセラーとなった『生物と無生物のあいだ』や『動的平衡』シリーズなど、“生命とは何か”を動的平衡論から問い直した著作を数多く発表。大のフェルメール好きとしても知られ、世界中に散らばるフェルメールの全作品を巡った旅の紀行『フェルメール 光の王国』『フェルメール 隠された次元』を上梓。

