大正15年とその10年後の一等地
次の表に、「土地賃貸価格調査事業報告書」による大正15年(1926)と、その10年後の昭和11年(1936)の賃貸価格を都市別に整理した。
表 人口10万以上都市の最高賃貸価格

この資料の由来を簡単に説明すると、まず、明治6年(1873)の地租改正以来、土地の課税標準は法定の「地価」とされていた。明治43年(1910)に宅地のみ賃貸価格の10倍を地価とする措置がとられたものの、全般的な都市化の進展や経済事情の変化による地価高騰には追いつかず、都市と農村の間、また都市間でも税負担の不均衡が大きく広がっていた。そこで、事業利益を含まない土地の純益を直接反映し、負担力に応じた課税の目標として最も適当であり、かつ実例調査も比較的容易な「賃貸価格」を採用する方針が打ち出される。これを受けて大正15年3月31日に公布された「土地賃貸価格調査法」により、全国の土地一筆ごとの賃貸価格を実地調査する一大事業が動き出した。完了したのは昭和2年(1927)だった。
この成果を受けて、昭和6年(1931)には地租条例が廃止されて新たに「地租法」が制定され、課税標準は正式に地価から「賃貸価格」へと改められた。地租法第9条は賃貸価格を10年ごとに改訂すると定め、第1回改訂を昭和13年(1938)に行うこととしていた。これを具体化したのが、昭和11年6月1日に公布された「土地賃貸価格改訂法」である。改訂賃貸価格は、同年4月1日における土地の状況を基準として算定することとされた。本表の昭和11年の最高賃貸価格のデータは、本格的な改訂調査に入る前段階で6月の全国局長会議に配付された資料、すなわち国税庁租税史料叢書に収録された「人口十万以上都市の宅地最高見込賃貸価格等調」(昭和11年3月13日現在)に基づくものである。昭和11年時点で対象となった都市は35を数える。人口10万人以上という基準が、当時の都市の規模感を映している。
六大都市を除く3分の1は九州の都市
この表の35都市の序列からは昭和戦前の都市構造が見えてくる。上位6都市は東京、大阪、京都、神戸、名古屋、横浜といわゆる六大都市がそのまま並ぶ。東京110円と大阪100円が頭一つ抜けている。大正15年時点では東京と大阪が並んでいたのが興味深い。
地域別にみると、9都市がランクインする九州の比重が高い。まず、六大都市に次ぐのは福岡だ。次いで9位の長崎、12位の門司、14位は小倉である。30位が八幡で、門司、小倉とともに現在の北九州市を構成する3都市がランクインしている。福岡県では35位に大牟田がある。鹿児島は小倉と同じ14位で、熊本はそれに次ぐ16位だった。30位に佐世保がある。
中国地方で最も地価が高いのは8位の下関である。関釜連絡船の発着点で重要拠点だった。これに次ぐのが9位の広島だが、人口は下関を上回っていた。広島県には24位の呉もある。岡山は12位だ。
北海道は9位に函館、16位に札幌、18位に小樽と計3都市がランクインしている。明治期以来、道内の中心都市は函館であったが、大正期に札幌の外港として小樽が台頭し、大正15年時点では函館と並ぶ水準に達していた。しかしその後は行政中心地の札幌が伸びる一方小樽が後退し、昭和11年には再び函館が地価で上回る状況となっている。
北信越は金沢が20位、新潟が24位である。東北地方に目を転じると、仙台は東北の雄といえども21位で和歌山や静岡と並ぶ水準だった。東北で仙台に次ぐのが34位の青森だが、青森は昭和10年(1935)の国勢調査で93,414人にとどまっていた。四国は27位の高知のみだった。複数の(当時にしては)大都市を抱える道府県がある一方、ランキング表に登場しない県は25ある。
軍港、重工業、連絡航路が時代を反映
上位35都市の顔ぶれから昭和初期ならではの背景がうかがえる。地域の中枢都市を除けば、そこには大きく3つの類型が認められる。第一に軍港である。帝国海軍の拠点だった呉、佐世保のほかに27位の横須賀がある。第二に重工業の拠点である。八幡は製鉄所、長崎は造船、川崎は京浜工業地帯の中核として発展していた。第三に明治以来の連絡航路の結節点である。北海道の玄関口だった小樽、連絡船の街である函館と青森、下関と門司の組み合わせがそれにあたる。
さて、昭和11年の調査では、興味深いことに、最高賃貸価格を見積もるにあたって参考にした賃貸実例の建物が示されている。例えば小樽の賃貸実例は色内町の北海道拓殖銀行である。明治から昭和初期にかけての最盛期には25もの金融機関が集まり、「北のウォール街」と呼ばれた小樽の象徴的な建物だ。大正12年(1923)に建てられた旧北海道拓殖銀行小樽支店は、2階まで吹き抜けの銀行ホールに6本の古典的な円柱がカウンターに沿って並ぶ、道内屈指の近代建築だった。銀行が賃貸実例に登場する都市は、小樽のほか豊橋(大野銀行豊橋支店)と八幡(十七銀行)である。明治以来、街の近代建築といえば銀行の行舎であり、それがそのまま一等地の象徴となっていた。
青森の最高賃貸価格地点の新安方町は、安方町の北側、海岸に面して明治初年に分立した町である。大正4年(1915)には青森築港第1期工事が始まり、大正13年(1924)に完成した。砂浜が広がる遠浅の海岸しかなかった青森港に、大型船が接岸できる岸壁が初めて整備されたのだ。大正14年(1925)には、この築港の完成を受けて青函連絡船の貨車航送が始まり、新安方町の海岸線に連絡船桟橋が築かれた。青森港は鉄道と船の結節点としての機能を本格的に担うことになる。新安方町はまさにその駅と港を結ぶ動線の上に位置していた。賃貸実例の利用状況は「魚問屋8 砕氷場1」とあり、北洋漁業の拠点として水揚げと倉庫が集積する一帯となった。
門司の本町一丁目の桟橋通の賃貸実例には日本郵船株式会社が登場する。日本郵船は明治25年(1892)に下関の赤間関支店の出張所として門司港に進出した。明治36年(1903)には支店に昇格。門司港は筑豊炭田の石炭積出港として急速に発展し、朝鮮・台湾・大連・中国大陸への航路の一大拠点となった。
最高賃貸価格地点の場所
六大都市の一等地の賃貸実例の利用状況をみてみよう。東京は丸ノ内ビルディングである。ちなみに「人口十万以上都市の宅地最高見込賃貸価格等調」には2番目に高い地点も記載されている。東京の場合、次点は銀座四丁目の三越百貨店、服部時計店だった。なお、明治初期の東京の一等地は日本橋魚河岸だった。その後、市電通りに沿って三越本店の前の室町一丁目、次いで永代通りとの交差点である通一丁目に移転。現在のコレド日本橋の場所に白木屋百貨店があった。
大阪は北浜二丁目の北浜ビルである。当該ビルは東西の北浜通(現・土佐堀通)、南北の堺筋の交差点の北東角にあった。同じ交差点の南東角には大阪証券取引所ビルがある。北浜通から堺筋に折れる動線が御堂筋完成前のメインストリートだった。ちなみに大阪の次点は道頓堀の西櫓町である。
京都の一等地の中之町は新京極通りの錦通から四条通までの区間である。賃貸実例となった玉垣眼鏡店は、錦通りと交差する地点の南寄りにあった。神戸は明石町の大丸神戸店の場所が一等地だった。大丸前交差点は東西の元町通と南北の鯉川筋が交わる結節点で、市電もここを通っていた。昭和2年(1927)に地上7階建の新店舗を新築し元町から移転していた。なお大正15年(1926)の調査では海岸通一丁目が最高賃貸価格地点だったが、市電と百貨店の組み合わせがその座を奪った格好である。
名古屋は栄町五丁目のデパート栄屋である。これは明治43年(1910)に現在の松坂屋、当時のいとう呉服店が広小路通りに初めて出店した百貨店業態である。大正14年(1925)に南大津町の現在地に移転後、旧店舗は「栄屋」として営業していた。市電が交差する栄町交差点の南西角にあった。横浜の一等地は伊勢佐木町一丁目で賃貸実例は万太果物店とある。万太果物店は吉田橋を渡って向かい側、伊勢佐木町の北端に店を構えていた。橋際には昭和5年(1930)10月に松屋呉服店(当時)が7階建の百貨店を新築していた。
市電と百貨店の時代
以上のように、当時の一等地は市電と百貨店に結びついていた。これは交通結節点に人流が集中し、商業集積が形成された結果である。先月号でみた明治期の中心街の景観が「川と銀行」だとすれば、大正末から昭和10年代初頭にかけて、すなわち戦時統制が本格化する直前の時期には「市電と百貨店」といえよう。この構図は戦時をまたいで高度成長期まで続き、「駅と総合スーパー(GMS)」に置き換わるのはオイルショック後である。
路面電車のピークは昭和7年(1932)で、65都市で82事業者が運行し、路線延長は現在の約7倍の1,500kmに達した。市電は旧街道にそのまま敷設される場合もあれば、沿道からの拡幅反対などにより並行する別路線に敷設される場合もあった。後者では明治以来のメインストリートが市電通りに移動することになる。百貨店の多くはそうした市電の結節点に立地した。一等地の賃貸実例に三越、大丸、松坂屋といった名が並ぶのは、百貨店がそれだけ街の象徴だったことを物語る。
百貨店はこのころすでに、呉服にとどまらず洋品、食料品、家具まで扱う総合店舗であった。鉄筋コンクリート造の店舗やエスカレーターは明治末から大正期に登場していたが、関東大震災後には大衆化がさらに進み、下足預かりを廃止して土足のまま入れるようにする百貨店が相次いだ。上階には劇場や大食堂、屋上には遊園地が設けられ、老若男女が一日を過ごせる娯楽の場となった。昭和12年(1937)8月に百貨店法によって新規出店、店舗面積の拡張、営業時間が規制されたこと自体、裏を返せば百貨店の勢いを示している。
地方都市の状況をみてみよう。札幌の南一条の賃貸実例に三越百貨店とある。南一条通が開拓以来の東西のメインストリートだった。大正7年(1918)、札幌駅に続く西四丁目通と南一条通に市電が敷設され、両線が交差する南一条西四丁目が札幌の中心となった。交差点の南東角には昭和7年(1932)5月、三越札幌店が開店した。仙台の大町四丁目・五丁目の賃貸実例には藤崎百貨店がある。文政年間に開業した太物商の得可主屋が源流の百貨店である。昭和7年、鉄筋コンクリート造3階建の西館が完成、本格的な百貨店としてスタートした。市電は、藤崎百貨店の近くの芭蕉の辻まで乗り入れていた。
金沢の最高賃貸価格地点には上近江町、下近江町、青草町、下堤町、袋町と5か所の町名が挙げられている。袋町と下堤町が北国街道の曲がり角を形成し、下堤町の東面と青草町、下近江町、上近江町が近江町市場と重なっている。賃貸実例の田守呉服店は、近江町市場と街道を挟んで西側にあった。田守呉服店は昭和31年(1956)に閉店。一帯は再開発され、戦前に武蔵ヶ辻へ進出した三越金沢店の流れをくむ丸越百貨店が昭和48年(1973)に入った(現在の金沢エムザ)。市電は大正8年(1919)に開業しており、武蔵ヶ辻は金沢駅へ延びる枝線と金沢城を周回する環状線の結節点だった。
岐阜の柳ヶ瀬町四丁目・神田町三丁目にあった「弁天堂餅菓子店」は大正元年の創業で現在も同じ通りで営業を続けている。かつて市電が走っていた南北のメインストリート、現在の神田町通と柳ヶ瀬商店街の交差点の南西角にあった。同じ角地に、弁天堂を囲むように丸物岐阜店(後の京都近鉄百貨店)の店舗があった。現在は岐阜中日ビルになっている。
和歌山は最高賃貸価格地点の本町一丁目および二丁目の賃貸実例に「丸正百貨店」とある。前身は明治24年(1891)に創業した松尾呉服店で、昭和7年(1932)に丸正百貨店を開店した。藩政期からのメインストリートで市電も敷設された本町通と、商家の軒先にぶら下がる看板に由来する戦前屈指の繁華街、ぶらくり丁との交差点の角にあった。丸正百貨店は平成13年(2001)に閉店している。
長崎の最高賃貸価格地点は東浜町および下本町で、賃貸実例に岡政百貨店がある。安政年間に徳島屋として創業した老舗で、昭和9年(1934)に百貨店化した。後に大丸の傘下に入り、昭和63年(1988)に長崎大丸となった。平成23年(2011)7月に閉店し現在は複合施設「ハマクロス411」となっている。横須賀の一等地の大滝町の賃貸実例に雑賀屋百貨店とあるが、これは現在のさいか屋である。明治5年(1872)創業の呉服店が源流で、関東大震災後、昭和3年(1928)に鉄筋コンクリート3階建の百貨店を開業した。
最高賃貸価格の次点に範囲を広げると、福岡の東中洲の賃貸実例には玉屋百貨店の博多店が登場する。大正14年(1925)、川端商店街の北端に開店した福岡初の百貨店だ。平成11年(1999)に閉店した。青森の次点は新安方町および新町で、賃貸実例に松木屋百貨店が登場する。大正10年(1921)に開店した青森で最も早い百貨店だったが、平成15年(2003)に閉店した。静岡の次点は駅前の栄町一丁目で、賃貸実例には旅館清鶴楼と松坂屋支店があった。川崎の次点は最高賃貸価格地点と同じく砂子町だが賃貸実例は昭和2年(1927)に開店した小美屋百貨店となっている。

プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。主著に「自治体の財政診断入門」(学芸出版社)、「公民連携パークマネジメント」(同)

