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路線価でひもとく街の歴史
第75回 特別編
日銀代理店でみるご当地メインバンク 西日本

前月に引き続き、河川や港湾、街道が交わる伝統的な街の中心に、その当時の地域一番行が立地している、という観点で街をみていく。今月は西日本編である。

鳥取・島根と第三銀行

鳥取は、L字に流れる袋川に囲まれるように旧市街が形成されており、駅はその外側にある。旧市街の南北軸が智頭街道で、袋川にかかる鋳物師橋に通じる二階町の通りが東西軸となる。元魚町は二階町の1筋南の両側町で、最高地価だった元魚町三丁目は智頭街道との交点にある。二階町四丁目は鋳物師橋寄りの場所にあった。

地元の国庫金を扱っていた第八十二国立銀行はこの二階町四丁目にあった。明治11年(1878)11月の設立。明治25年(1892)、不良債権が嵩み安田善次郎に救済を申し入れる。その翌年、本店が東京の安田銀行本店の場所に移され、鳥取の店舗は支店となった。再建は果たされたが、明治30年(1897)6月には第三銀行に合併された。第三銀行の旧称は第三国立銀行で、安田善次郎が安田銀行とともに経営していた。大正12年(1923)11月の安田系11銀行の大合同で名実ともに安田銀行になる。

宍道湖に面する松江の中心街は湖に流れ込む大橋川の南北両岸にある。最高地価の八軒屋と白潟本町は川の南岸、末次本町は北岸にあたる。第三銀行の松江支店は末次本町にあった。第三銀行は鳥取、島根両県を地盤としていたが、最も早い松江支店は明治17年(1884)の進出である。白潟本町には山陰合同銀行(合銀)の前身行の1つの松江銀行の本店があった。松江には旧松江藩士の出資で設立された第七十九国立銀行があり、当初は米子の国庫金を扱っていたが、業績ふるわず営業停止に至った。地元銀行が待望される中、地元実業家によって明治22年(1889)8月に設立されたのが松江銀行だ。明治36年(1903)、現在の合銀本店の場所に本店を新築した。浜田に目を転じると、第五十三国立銀行が国庫金を扱っている。同行は合銀の最も古い前身行で、明治11年12月の設立である。国庫金業務はいったん第三銀行に移った後、大正11年から復託店として和栗、雲陽実業銀行が担っている。再編後山陰合同銀行となり、昭和17年には日銀松江支店の直扱を除く島根県内の代理店を担っている。

表 日銀代理店の受託銀行の変遷(西日本)

表 日銀代理店の受託銀行の変遷(西日本)

岡山県の川と街と銀行

明治初期から中期にかけて、岡山の里程元標は旭川にかかる京橋の西詰にある橋本町に置かれていた。最高地価の西大寺町は西国街道に沿って橋本町に隣接する。橋本町の川に沿って南側が船着町で、明治10年(1877)10月に設立された第二十二国立銀行(営業満期後は二十二銀行)の本店があった。旭川西岸が商業や金融の中枢だったことがうかがえる。明治36年(1903)、二十二銀行は西大寺町へ本店を移転した。同行は日清戦争後の不況で経営悪化し、西大寺町に移転する頃には安田銀行の傘下に入っていた。その後、大正12年の大合同で安田銀行の支店となった。

現在の中国銀行は、岡山県南の6行が合併して大正8年(1919)9月に発足した第一合同銀行を母体とする。倉敷紡績社長を兼任する倉敷銀行頭取の大原孫三郎が牽引役だった。源流行で最も古いのは明治11年12月に備中松山藩士の出資で設立された高梁の第八十六国立銀行(後の八十六銀行)だ。八十六銀行は、第一合同銀行発足の翌年1月に合流した。昭和5年(1930)12月、津山銀行を軸に県北で再編を進めてきた山陽銀行と合併し中国銀行となる。八十六、津山銀行ともに本拠地で国庫金を担当していた有力行だ。

岡山と同じく高梁、津山も川との関係が深い。高梁の最高地価の本町、下町ともに高梁川に並走する松山往来沿いの町である。八十六銀行は下町にあった。津山の里程元標は旧市街の南辺を形成する吉井川から街なかに入り込む宮川にかかる大橋の西詰にある。大橋から出雲街道に沿って材木町、伏見町、京町、元魚町と続く。最高地価地点は京町だった。津山銀行は伏見町で明治12年(1879)に設立された。その後京町に、中国銀行に転じた後には元魚町に移転した。

所在地/受託銀行

河口港と小倉・福岡

河口港の街という点で福岡と小倉は共通している。福岡の最高地価地点だった橋口町は、那珂川にかかる西中島橋の西詰に続く街で、橋のたもとに里程元標が置かれていた。明治10年11月に開業し国庫金の出納事務を扱っていた第十七国立銀行(後の十七銀行)も橋口町にあった。その後、最高地価は西中島橋の東側の中島町、次いで東中洲町に移る。十七銀行は本店を橋の東側の博多橋口町に移したが、跡地に日本生命保険九州支店が建った。明治42年(1909)の建築で現在は赤煉瓦文化館として観光スポットになっている。その後、昭和13年(1938)に十七銀行は新川端町、現在の川端商店街の明治通りに面する北端に本店を新築した。地下鉄の駅名が「中洲川端」であるように博多川の両岸で一体となった中心街である。

小倉の旧市街は紫川を境に東西に分かれる。小倉城があるのは西側だ。両岸を結ぶのが常盤橋で、里程元標はその西詰にあった。長崎街道、中津街道、秋月街道、唐津街道そして門司往還からなる「小倉の五街道」の基点だった。常磐橋から西側に続く道の両側町が室町である。逆に、常盤橋から東側に続く両側町が京町で、京町の道に直交する南北の町が最高地価の魚町だった。現在の京町商店街、魚町商店街に重なる。

小倉の国庫金を担っていた第八十七国立銀行(後の第八十七銀行)は室町にあった。当初小倉にあったのは支店で、本店は大橋(現・福岡県行橋)にあった。明治11年11月に設立され、明治13年(1880)に小倉に支店を出した。そして、明治20年(1887)には小倉支店を本店とした。同行は石炭業や鉄道業などへの積極的な融資を行ったが、明治30年代の恐慌で債権回収が滞り苦境に陥った。救済合併の先として選んだのは大阪の百三十銀行だった。明治35年(1902)12月に百三十銀行と合併して同行の支店となる。大正3年(1914)1月に京町に行舎を新築し移転した。

ちなみに、百三十銀行も積極的な融資が裏目に出て苦境に陥る。同行が救済を求めたのは安田銀行だった。大正12年の大合同で安田銀行となり、百三十銀行に代わって当地の有力行となった。戦後、日銀代理店は福岡銀行が担っているが、百三十銀行の後身にあたるみずほ銀行は、現在も北九州市の指定金融機関を地元3行との輪番で務めている。

「筑邦」の消滅と復活

同じく福岡県だが、県南の筑後地域は経済圏が分かれていると戦前から認識されていた。その中心都市が久留米である。久留米の街の南北軸である柳川往還の起点に里程元標が置かれ、往還沿いのはじめの両側町が三本松町だった。久留米の最高地価地点である。明治11年11月に旧久留米藩の士族らの出資により設立された第六十一国立銀行(後の六十一銀行)は片原町にあった。里程元標の西側の両側町だった。柳川(柳河)では、明治11年11月に第九十六国立銀行(後の柳河銀行)が設立されていた。久留米と柳河の国庫金業務は、第六十一国立銀行と第九十六国立銀行が共同で担っていた。

その後、六十一銀行は業績不振に陥り、大正元年(1912)10月に住友銀行に営業譲渡し解散する。六十一銀行の店舗は住友銀行の支店となった。地元に本店を置く銀行が無くなった。その後、一県一行主義で再編が進められていた中、昭和16年(1941)9月、柳河銀行をはじめ筑後エリアの18行が合併し筑邦銀行(現在の同名行とは異なる)が新立された。久留米に本店を置く銀行が復活した形だ。しかし、戦争末期に至り1県に1行の要請が強まり、昭和20年(1945)3月、十七銀行その他3行との合併を余儀なくされた。戦後、地元本店行を待望する声が高まり、一県一行主義の見直しの機運も手伝って、昭和27年(1952)12月、商工会議所等の主導で新銀行を立ち上げた。行名は終戦前に統合された「筑邦銀行」と同じものにした。

熊本の河岸の銀行街

熊本の旧市街は街なかを流れる坪井川を中心に発展した。坪井川に並行して唐人町通がある。この一部が最高地価地点の古川町である。唐人町通と、これに直交する米屋町の通りからなる界隈に銀行が集積した。まず、当地の国庫金を担っていた第九国立銀行(後の第九銀行)が米屋町一丁目にあった。

第六国立銀行の店舗もあったが、こちらは旧熊本藩主細川家がオーナーの銀行で本店は東京に置かれていた。元々福島で設立されたが、明治24年(1891)に営業停止となったものを細川家が買収した。満期継続後は肥後銀行に改称している(現在の肥後銀行とは別)。明治33年(1900)暮れ、業績悪化していた第九銀行に取り付け騒ぎが起きる。同行は肥後、安田銀行に救済を求め、翌年5月の営業再開に至った。また、この救済劇を機に肥後銀行は安田銀行の傘下に入る。その後、肥後銀行は第九銀行を合併し、さらに大正12年の大合同で安田銀行となった。その結果、安田銀行が熊本県内に12店(統合時点)を擁する有力行となった。

それに対して、現在の地域一番行である肥後銀行は明治12年1月に宇土で設立された第百三十五国立銀行を源流とする。営業満期を機に九州商業銀行となり、熊本には支店を設けた。場所は唐人町である。明治31年(1898)7月、紺屋町に移転し本店とする。大正7年(1918)10月に熊本銀行に改称。大正14年(1925)7月に他2行と合併し肥後協同銀行が設立され、昭和3年(1928)3月に肥後銀行となった。

大正12年の安田系大合同の構成11行の本店所在地のうち熊本が南端である。鳥取の八十二銀行、岡山の二十二銀行、小倉の百三十銀行と同じように、地域銀行の救済を端緒に店舗網が広がった事例だ。結果的に、各地の地域銀行を一体化して全国銀行となった戦前の安田銀行は、今でいう「スーパーリージョナルバンク」をほうふつとさせる。他方、地域の小規模銀行が再編集約を経て大規模化し、有力行に成長していく流れも明らかだ。地元に本店を置く銀行が地域から切望されるエピソードも興味深い。戦後の日銀代理店は地元本店行が担うケースがほとんどだ。戦後の都市銀行も本店所在地では地域に密着している。規模にかかわらず、銀行にとっての地域経済の重要性がうかがえる。

隣県に活路を見出した地域銀行

鹿児島には士族の出資で明治12年8月に設立された第百四十七国立銀行があった。現在の鹿児島銀行である。一方、島津家の第五国立銀行が奄美大島を含む旧薩摩藩領の鹿児島の国庫金業務を担っていたため、第百四十七国立銀行(後の百四十七銀行)は、当時鹿児島県に編入されていた宮崎県と、藩政時代に支配していた旧琉球王国を出自とする沖縄県へ活路を求めた。

まず、宮崎は大淀川の北岸に街の中心があった。かみ町に里程元標があった。ここは現在のメインストリートの橘通の1筋西側で、大淀川を臨む現在の宮崎市役所付近にあたる。第百四十七国立銀行は上野町から下流側の川原町にあった。後に橘通一丁目に移転するが、大淀川の北岸には変わりない。

那覇は国場川北岸の港に面して中心街が形成されていた。現在の那覇ふ頭一帯である。東町交差点付近に里程元標と警察署があった。琉球王国時代には役所である「親見世おやみせ」があった場所で、ここと港をつなぐ約300mの道が戦前のメインストリート「見世の前(ミーシヌメー)」となった。道は西村と東村、大正15年の東町一丁目と西本町五丁目の境でもある。第百四十七国立銀行もこの通りに面して店舗を構えていた。

地域の有力行のその後の変遷史をたどると、宮崎も沖縄も地元発の銀行が地域一番行に成長している。戦後占領期があるため沖縄県は分析の対象から外れるが、宮崎は、宮崎県の主導で設立された日向興業銀行が日銀代理店となっている。現在の宮崎銀行である。百四十七銀行の後身の鹿児島銀行も鹿児島県の一番行だ。

鈴木文彦

プロフィール

大和総研主任研究員 鈴木 文彦

仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。主著に「自治体の財政診断入門」(学芸出版社)、「公民連携パークマネジメント」(同)