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路線価でひもとく街の歴史
第78回 京都府京都市
分散した中心に現れる京の都の歴史の地層

街の中心は、その時代に支配的な交通手段によって決まる。舟運と徒歩の時代なら、河岸と街道の結節点である。城下町ではそこが大手筋と重なり、呉服問屋街や魚市場が配置され、明治になると銀行街ができた。東京の場合、東海道の起点でもある日本橋に魚河岸も呉服問屋街も銀行街もあった。しかし京都は街の中心がはっきりしない。

三条大橋と三条通

正確にいえば、中心の要素が1か所に重なっていない。まず、街道の拠点が三条大橋である。鴨川を渡った西詰には幕政期に高札場があり、明治には里程元標も設置された。ここは街の中心の第一候補である。

三条大橋から続く三条通は旧市街の東西軸となっている。東海道の事実上の終着点は、三条大橋より西の三条東洞院のあたりだった。東洞院通は三条通に直交する南北の道で、南へ下って京の七口の1つの竹田口を出ると竹田街道となり伏見に通じた。三条通と東洞院通が交差する三条東洞院には中京郵便局がある。明治4年(1871)に開設された西京郵便役所を前身とする。また、三条東洞院の1筋西の三条烏丸の南東角には大正9年(1920)旧道路法による道路元標が立つ。

東西軸の三条通には明治以来の近代建築が多く残り、一帯は京都市の「界わい景観整備地区」に指定されている。中でも有名なのが赤レンガ造の3棟で、明治35年(1902)築の中京郵便局、明治39年(1906)築の旧日本銀行京都支店(現・京都文化博物館)、同築年の旧第一銀行京都支店である。

図1 三条東洞院(奥行が三条通)

図1 三条東洞院(奥行が三条通)

一方、舟運の拠点は、鴨川に並走して掘削された高瀬川である。京都と伏見を結ぶ運河で、角倉了以・素庵父子によって慶長19年(1614)に完成した。二条大橋付近で鴨川の水を取り入れ、木屋町通に沿って南下し、伏見から宇治川、淀川を経て大阪へ通じていた。最上流の一之船入は荷の積み下ろしと船回しの場で、角倉家はこの近くに邸宅を構え、高瀬舟の運航を管理した。船入は一之船入から四条通までの間に最も多い時期で9つあり、一帯は京都の移出入を担う川湊だった。運河といっても現在の感覚でいえば水上の車道である。物資を運ぶ道が水面であり、その両側に荷扱いと人の往来のための道が付く。

地価の一等地は先斗町

河岸と街道の結節点が街の中心とすると、京都は三条木屋町が街の中心となりそうだが、少なくとも地価の面ではそうではなかった。京都府統計書にみえる明治期の最高地価地点は「三条下ル松本町」や「下京六区松本町」とある。ここは現在の先斗町だ。明治36年(1903)の京都税務監督局の統計書で「四条大和大路西入ル中ノ町」が登場。年次によって「十五組中之町」と表記は揺れるが南座の前で、祇園花街の入口でもある。要するに明治の京都の最高地価地点は花街だった。他の中心が分散し各々突出しなかったことに加え、花街それ自体のブランド力もあったためと思われる。

城下町であれば中心街の主役となる魚市場と呉服問屋街も、京都では離れている。魚市場は四条通の1筋北の錦小路にあった。現在の錦市場で、江戸時代初期に公認された魚市場を起源とする。呉服問屋街は、そこから烏丸通を越えてさらに西側の室町通にある。

祇園祭に映る室町時代以来の街

このように、京都では中心となる要素が1か所に固まっていない。多くの都市のように城下町を源流とせず、近世以前の歴史を持つからだろう。京都人にとって「先の大戦」とは太平洋戦争ではなく応仁の乱をさす、といわれる。伝統を鼻にかけることを意味するジョークだが、史実でも的を射ているように思える。京都の旧市街には「元学区」と呼ばれるコミュニティ単位があるが、その起源をたどると応仁の乱、天文法華の乱の戦乱の後にできた自治組織「町組」に行き着く。

京都の夏といえば祇園祭だが、平成26年(2014)から古式に則って前後2部構成に戻った。後祭の宵山は7月21日から23日、山鉾巡行は7月24日に行われる。後祭を代表する北観音山は、新町通六角下ル六角町に属する曳山である。町内には三井両替店や、いとう呉服店(現在の松坂屋)があった。この一帯は、応仁の乱で京都が荒廃して上京・下京に分かれた頃の下京にあたる。下京は商業地だった。市街図(図2)に示した山鉾の分布が下京に重なる。分布の中心が四条室町で、「山鉾の辻」と呼ばれる。下京の中心は四条新町の「四条町の辻」で室町幕府の高札場があった。新町通、室町通ともに平安京の時代からあった道だ。翻って祇園祭は室町時代の旧市街の輪郭を反映している。

図2 市街図

図2 市街図

その室町通には、のちに百貨店となる呉服店も仕入店を構えた。西陣などの産地に発注して反物を仕入れ、江戸をはじめ全国へ販売した。三井の越後屋が京都に仕入店を開いたのは延宝元年(1673)、室町蛸薬師の地であった。京都に仕入の拠点を置き、江戸で店を持つことが一流の呉服商の証とされた。そうした商人はたなもちきょうあきんどと呼ばれた。

都市軸を変えた市電開通

明治時代の京都には、三条通と高瀬川の他に、南北の東洞院通、烏丸通、室町通、新町通、東西には錦小路や四条通という具合に複数の軸があった。

その後、南北軸は烏丸通に、東西軸は四条通に集約されていく。その推進力となったのが路面電車である。明治28年(1895)2月1日に最初に開通した路面電車は、京都駅の南側から伏見の下油掛までを結ぶ伏見線で、京都電気鉄道の経営だった。日本初の営業用電車で、琵琶湖疏水の水力発電を活用している。同年4月1日、第4回内国勧業博覧会の開幕に合わせて、京都駅の北側と、現在の岡崎公園・平安神宮にあたる博覧会場を結ぶ路線が開業する。電車は木屋町通を走り、木屋町二条から東に折れた。伏見港へ向かう伏見線が路面電車とはいえ事実上の郊外電車だったのに対し、こちらは市街地を走る市内電車であった。

街を大きく変える契機となったのは、明治末から大正はじめにかけて実施された京都市三大事業である。第二琵琶湖疏水の開削、上水道整備に対し3つ目が道路拡築および市電敷設、これによって京都駅正面から延びる大通でもある烏丸通が27m(十五間)、四条通が21.8m(十二間)に拡げられ、明治45年(1912)6月に京都市営の市電が開通した。

人の流れの変化とともに東西軸の重心は三条通から四条通へ移り、南北軸は烏丸通への集約が進んだ。中でも周辺に散在していた銀行が烏丸通に集まり、老舗の呉服店が四条通に百貨店を開店した。最高地価地点も明治45年(1912)から新京極となった。統計書には「元六組中之町」、「新京極四条上ル中之町」とある。四条上ル、すなわち市電の通る四条通のすぐ北だ。新京極は、もともと縁日で賑わっていた寺の前の境内地を、明治初年に区画整理してできた道である。昭和11年(1936)の「人口十万以上都市の最高見込賃貸価格等調」の賃貸実例に登場する玉垣眼鏡店は、新京極と錦小路との交差点の南寄りにあった。このあたりが新京極の中心だったと考えられる。

烏丸の銀行街・四条の百貨店

多くの都市では、地域で最も有力な銀行が街の中心に店舗を構えている。京都の場合、有力行が担う国庫金の出納を扱ったのは三井銀行だった。前述の新町通六角下ルにあった三井両替店が前身で、明治9年(1876)に銀行の支店にした。国立銀行で最も早く京都に拠点を置いたのは第一国立銀行(営業満期後の第一銀行)だった。明治6年(1873)の設立で、翌年2月、両替町二条に西京出張所を開設した。大阪勢で古いのは鴻池家の第十三国立銀行(後の鴻池銀行)である。明治12年(1879)、四条烏丸に京都支店を設けた。

烏丸通に銀行が増えたのは明治後期以降である。明治39年(1906)、第一銀行が三条烏丸に赤レンガ行舎を新築。三井銀行は大正3年(1914)、四条烏丸にイオニア式オーダーの行舎を新築した。翌年、四条通を挟んで向かいに三菱銀行が出店する。元からあった鴻池銀行を含め、四条烏丸交差点に3つの有力行が集結した。他には、明治34年(1901)進出の住友銀行が昭和13年(1938)に東洞院から烏丸に移転した。

地元銀行が定着しなかったのも京都の特徴である。地元発祥の国立銀行は3つあった。明治11年(1878)5月に第四十九、同年11月に第百十一、そして日本最後の国立銀行でもある第百五十三国立銀行が明治12年(1879)12月に設立されたが、いずれも明治期までに消滅している。明治19年(1886)10月に東洞院で開業した京都商工銀行は商工組合の親銀行として設立され、京都市の公金も扱っていたことから有力行の一角として期待が高まっていたが、大正5年(1916)に第一銀行に吸収された。明治27年(1894)7月には、現在の京都銀行とは別の(旧)京都銀行が設立されたが、恐慌で明治34年(1901)に安田傘下に入り、大正12年(1923)に同行の支店となった。

京都の場合、歴史をたどれば準地元ともいえる三井銀行があり、第一銀行の進出も早かった。東西の大銀行の攻勢が激しく、その一環で地元行が吸収された。昭和8年(1933)には京都に支店網を拡大していた鴻池銀行、山口銀行、三十四銀行の合併で三和銀行が発足。市内最大手となり、京都市の公金業務を第一銀行から引き継いだ。そのようなわけで、現在の地域一番行の京都銀行が地元に根を下ろしたのは戦後である。同行の前身は昭和16年(1941)に両丹、宮津、丹後商工、丹後産業の4行が合併して府北部の福知山に発足した丹和銀行だ。昭和18年(1943)に京都支店を出店し、昭和26年(1951)現行名に改称。本店を京都市へ移したのは昭和28年(1953)8月だ。

さて、四条通には百貨店の開店が相次いだ。市電が開通した明治45年(1912)、藤井大丸が四条寺町(現在地)に3階建レンガ造の洋館を建設(百貨店に建て替えたのは昭和10年(1935))。同年10月、四条高倉(現在地)に大丸がインドサラセン様式3階建の百貨店を開店した。大丸の源流は享保2年(1717)に伏見で創業した大文字屋だ。押小路東洞院に総本店があった。高島屋は、明治45年(1912)6月に烏丸通に土蔵造の意匠の鉄筋コンクリート3階建店舗を開店した。高島屋は天保2年(1831)創業の古着木綿商を発祥とする。新店舗の場所が創業地で、昭和25年(1950)10月、四条河原町の現在地に移転した。跡地は京都銀行の本店となった。現在、京都銀行の本店の前には高島屋と共同で設置したモニュメントがある。

最高路線価は新京極から四条河原町へ

戦後、川沿いの南北軸も木屋町通から河原町通に移った。舟運の衰退と道路の拡築に伴う市電の付け替えが伏線にある。明治43年(1910)4月、京阪電気鉄道が京都の五条から大阪の天満橋まで開通した。京阪間を結ぶ舟運のルートと重なる路線である。淀川筋の舟運は旅客、次いで貨物輸送の役割を終えた。高瀬川の舟運は大正9年(1920)に終了する。さらに河原町通も拡築される。大正13年(1924)に今出川から丸太町まで、大正15年(1926)に四条、五条へと延び、昭和2年(1927)には七条まで、21.8m(十二間)の幅で南へ順に通じた。これに伴い、木屋町通の市電も河原町通へ順次コースを変えていった。

図3 高瀬川と木屋町通

図3 高瀬川と木屋町通

四条河原町に高島屋が出店して5年後、昭和30年(1955)の最高路線価地点は「四条河原町御旅町の富士銀行河原町支店」であった。四条河原町は大阪行き鉄道のターミナル立地でもあった。四条大橋の向こう側に京阪電車の四条駅があり、昭和38年(1963)には阪急電車も四条河原町に乗り入れた。都大路を縦横に巡るバス網の起終点が集結し、結節点機能が高まった。

ふりかえれば、街の中心軸は室町・三条・高瀬川から烏丸・四条・河原町へ移ったが、古い中心も存在感を失わず、街の歴史的な地層を形成している。街の中心が歴史的かつ地理的に分散していることが京都の魅力ともいえる。室町・新町は祇園祭の山鉾町として、三条通は赤レンガの近代建築が集まる道筋として残る。木屋町沿いの高瀬川には護岸改修が施され令和7年に完成。水辺の景観が維持された。四条通も、平成27年(2015)に烏丸通から川端通まで片側2車線を1車線に減らし歩道を広げた。全国に広がるウォーカブルシティの走りである。インバウンド拡大の後押しもあり、こうした街の魅力は路線価にも現れている。明治後期の一等地、「東山区四条通大和大路西入中之町」の今年の路線価は10年前に比べ4.3倍となった。10年前比上昇率では全国524税務署中2位である。

鈴木文彦

プロフィール

大和総研主任研究員 鈴木 文彦

仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。主著に「自治体の財政診断入門」(学芸出版社)、「公民連携パークマネジメント」(同)