
この10年ほどで、学校での学びの景色が変わってきた。DX革命で、教育をデジタル化しようという動きである。企業や組織ではさらにAI導入によるDX化のスピードは速く、各社はそれに生き残りをかけていると聞く。その目的はもちろん「効率化」である。作業の効率化ならわかる。しかし教育と学びになぜ効率化がそれほど大事なのかという議論はほとんどされていない。
この問題を考えるために、AIにもっとも代替されない人たち、つまり各分野で超一流と目される達人たちのことを考えてみよう。彼らは効率的な学習をしたから超一流になれたのだろうか?熟達者の前提条件はその分野で必要な技量に秀でていることだ。しかし技術が高いだけでは一流にはなれない。一流の人は創造性に富み、その人にしかない独自のスタイルを持っている。それは効率的な学びと教育から生まれるのだろうか?
先日「カルテットという名の青春」というドキュメンタリー映画を観た。主人公は4人の若き弦楽器奏者たち。幼いころから才能を注目された4人の神童たちがカルテットを組み、世界に打って出た。しかし意気揚々と挑んだ国際コンクールでは第一次の録音審査を通過することさえできなかった。4人はその後、ヨーロッパに修行に出かける。かの地の指導者たちはそろって指摘する。技術的には申し分ない。できていないのは自分のすべてをさらけ出して、自由に演奏することだと。当初、楽譜に忠実にミスなく完璧な調和を演奏に求めていたリーダーは、長い葛藤の末に気づく。名曲はすでに美しい。そのままで美しい曲を最も美しく演奏することが大事なのではなく、どうしたら自分たちにしかできない演奏をするかが求められるのだ。彼らはカルテットとしても個人の音楽家としても努力を重ねていったが、結局卒業演奏を最後にカルテットの活動を休止し、現在はそれぞれソリストとして活躍している。才能あふれる若者たちが挫折を味わい、葛藤しながらもゆっくりと確実に成長し、それぞれの目指す道を歩んでいく姿に、真の熟達者になるために必要な道筋を見せてもらった。そこには「効率化」ということばはでてこない。
翻って、熟達者の対極にある乳幼児の言語習得について考えてみたい。子どもの言語学習は非常に効率的であり、生物学的にプログラムされている。こう書くと「言語学習遺伝子」があって、子ども自身の学習は必要ないと思われるかもしれないが、そうではない。環境からの情報を自ら処理して言語の知識システムを構築していく学習の過程が最適化されているのだ。言語習得の軌跡は、一次関数的な累増ではなく、指数関数的である。停滞期があり、そのあとにスパートする。その停滞期に子どもは言語インプットを分析し、仮説を創り、その仮説を試しながら知識の再編成をしている。その試行錯誤の期間をすぎると、語彙は急激に増えていく。言語発達は、常に「時短」をもとめる「効率化」ではなく、最終的にもっともよく学ぶための「最適化」によって可能になっており、停滞期は習得のために必須の過程なのである。
AIによる教育の「効率化」は、人に何をもたらすのか。効率化を最重要と決めつける前に、人が学び、熟達者に成長していく仕組みの観点からは「最適な学びの道筋」とは、時間軸のすべての点で効率化を測ることではないことを知ってほしい。

