九十九橋と足羽川舟運
福井の街の源流は天正3年(1575)に柴田勝家が本拠を構えた北庄である。足羽川の水運と北陸道の陸上交通が交わる場所にあった。北陸道(北国街道)が足羽川を渡る地点には九十九橋が架かり、橋の北詰に船着場があった。足羽川の川舟は、上流は九十九橋から約10km、一乗谷の入口にあたる宿布付近まで往来し、下流は日野川、九頭竜川を経て河口の三国湊に通じた。三国湊は福井藩の外港で、北前船の寄港地でもあった。
勝家は朝倉氏の本拠地の一乗谷から商工業者を移住させた。その名残が「一乗町」という町名である。慶長6年(1601)には結城秀康が新しい北庄城の築城を始め、城下町を整えた。寛永元年(1624)、3代藩主松平忠昌が「北庄」を「福居」と改め、のちに表記は「福井」となった。街の中心は、北陸道沿いの京町、呉服町と、北陸道から東に折れて大手門に向かう本町だった。明治に入ると、里程元標が九十九橋の北詰に置かれた。明治7年(1874)には市街地の町名が刷新され、城下町時代の京町と、足羽川北岸の木町および八幡町を含む区画が照手上町となった。福井県統計書に載る宅地の最高地価地点は、初出の明治15年(1882)には照手上町だった。
輸出羽二重を支えた織物金融
福井の経済を支えたのは純白の絹織物、羽二重である。羽二重は欧米で染色や加工を施される半製品で、福井ではもっぱら輸出向けに生産された。明治20年(1887)3月、桐生から技術者の高力直寛を招き、福井の織工会社で3週間の羽二重製織の講習が行われた。飛び杼機構を備えたバッタン機がある程度普及しており、傘地やハンカチーフを織る技術の蓄積もあったため、技術は短期間で根付き、生産は急速に広がった。明治25年(1892)には羽二重の検査制度が整い、明治27年(1894)には全国の生産額の6割を占め、先行した桐生・足利を追い越して首位に立った。もっとも、この頃は家内工業が中心で、職工10人以上の機業場が生産の4割を占め、マニュファクチュア(工場制手工業)の段階に入るのは、生糸・羽二重価格が暴落した明治33年(1900)の恐慌以降である。明治36年(1903)には絹織物全体の生産額でも全国首位となる。
図1 羽二重類の県内生産額

急成長を支えたのが金融である。羽二重の販売額の8割以上を原料生糸代が占め、生糸の仕入資金の手当てが生産を左右した。福井市内で初めての銀行は、明治11年(1878)10月に設立された第九十一国立銀行と第九十二国立銀行で、ともに旧福井藩士の金禄公債を元手とした士族授産の銀行である。国立銀行制度の満了に伴い第九十一銀行、第九十二銀行となった。主力は第九十二銀行で、武生を含む嶺北地方の国庫金の出納事務も担っていた。織物金融でも中心的な存在で、横浜から荷為替付きで届いた生糸を行内の倉庫に保管し、荷為替の取立てと引換えに生糸商へ引き渡した。代金未済の生糸を担保にした貸出や、羽二重商の注文による荷為替も扱い、その様子は「銀行内ニ生糸市場ヲ毎日開クガ如キ観」と評された。
羽二重産業の成長は、県外の有力銀行を引き寄せた。明治28年(1895)6月、大阪の第百三十国立銀行(のちの百三十銀行)が福井支店を開いた。京都北部にも地盤を持ち、西陣や長浜など絹織物産地へ支店網を広げていた銀行である。明治30年(1897)には敦賀が本店の大和田銀行も福井へ進出して機業への金融を始め、明治32年(1899)10月には富山の十二銀行が福井支店を開いた。地元でも、同年12月に嶺北地方の地主が出資して福井銀行が設立された。
金融の転機も明治33年の恐慌だった。大きな損失を被った第九十二銀行は織物金融から後退し、代わって百三十銀行と十二銀行の支店が主役となった。両行が大手の生糸商や中規模以上の機業家と大口取引をする一方、福井銀行は生糸などの商品担保融資を中心に、小規模な機業家や地元の絹織物商へ直接信用を供与した。明治37年(1904)6月には百三十銀行が休業し、福井の金融界も動揺したが安田善次郎の救済で深刻な金融難は避けられた。日露戦争の戦後恐慌の渦中、明治40年(1907)11月には第九十二銀行が休業する。地元の主力行を失い、翌年から嶺北地方の国庫金は大和田銀行が担うことになった。福井銀行は大正3年(1914)に県の本金庫事務を請け負った。
鉄道開通と金融再編
図2からわかるように、明治期の銀行は、北陸道から東へ入った佐久良下町に集まっていた。城下町時代の本町の西半分と浜町からなる区画である。官設鉄道の北陸線が敦賀から延伸し福井駅が開業したのは明治29年(1896)7月。三国湊を経由していた米などの物資は、鉄道で運ばれるようになった。明治44年(1911)12月には金津駅から分岐して三国港へ向かう三国線が開通し、交通の主役は舟運から鉄道に代わった。中心街も九十九橋から駅に向かって拡大し、明治45年(1912)には最高地価地点が佐久良下町に移る。
図2 市街図

明治末期には、水力発電による電力供給を背景に力織機の導入が始まった。第一次世界大戦の大戦景気がこの流れを加速させ、羽二重業は機械制大工業へ移る。先行する県外の百三十銀行と十二銀行を県内勢の大和田銀行と福井銀行が追い上げ、特に福井銀行の伸びが著しかった。大正9年(1920)の戦後恐慌以降は、名古屋銀行や明治銀行など名古屋の大手行も進出した。絹織物の価格が急落するなか、大正10年(1921)には人絹綿交織の輸出が始まった。大正末期から昭和にかけて、輸出商品の主力が人絹に移っていく。
その後の慢性不況期には銀行の再編が進んだ。百三十銀行は大正12年(1923)の安田系銀行の大合同で安田銀行となった(戦後は富士銀行に改称)。十二銀行は第九十一銀行を昭和3年(1928)に買収。戦時中に他3行と合併して北陸銀行となった。大和田銀行は昭和11年(1936)3月、第二十五国立銀行(本店小浜)時代から嶺南地方の国庫金出納事務を担ってきた敦賀二十五銀行を合併し、県下の国庫金を一手に担うようになった。福井銀行と覇を競ったが、昭和20年(1945)10月に三和銀行へ合併された。ほとんどの店舗は福井銀行が引き継いだ。
図3 広域図

百貨店と市電が変えた駅前
力織機の普及を後押しした電力業が電車を経営し、電車の登場で駅の引力は強まった。現在のえちぜん鉄道三国芦原線の前身、三国芦原電気鉄道は京都電燈の経営で、のちに同社の鉄道部門を継ぐ京福電気鉄道へ合併された。昭和4年(1929)1月に三国まで開通し、同年10月に福井駅へ乗り入れると、金津回りだった三国と福井駅が直結した。
もともと、福井駅前の一帯は県庁や裁判所が並ぶ官庁街だった。手狭になった県庁が大正12年(1923)に福井城址へ移ると一帯はさびれた。跡地処分への協力を求められた坪川信一は小学校の教員から福井商業会議所の書記長を経て県会議員になった人物で、自ら百貨店を開くことにした。こうして昭和3年(1928)7月、県内初の百貨店「だるま屋」が開店する。木造2階建の店で、地元商店と競合しないよう貸店舗「だるま屋マーケット」を併設し、20前後の店を収めた。「教育の商業化」を掲げ、子ども向けに別館「コドモの国」を開設し、坪川が好んだ松竹少女歌劇団にならって北陸初の少女歌劇も立ち上げた。公会堂がなかった市内で店のホールは総会や展覧会にも使われ、人々は遊園地のように訪れた。電車と百貨店で駅の引力が強まり、昭和7年(1932)には最高賃貸価格地点が佐佳枝上町に移る。街の中心が福井城の外堀跡と片町通りを越えて駅側へ移ったことになる。
駅前には市電も乗り入れた。福井鉄道福武線の前身、福武電気鉄道は大正13年(1924)2月に武生側で郊外線を開業し、昭和8年(1933)に軌道線を延ばして福井駅前に達した。駅前は鉄道と市電、百貨店が重なる場所になる。昭和11年(1936)には、だるま屋の並びに鉄筋コンクリート造7階建の福屋百貨店が開業した。金沢の宮市大丸が福井銀行の所有地に建て、県外資本を伏せて「福屋」の名で開いた店である。翌年9月に宮市大丸福井店、昭和18年(1943)12月に大和福井店となった。
戦災・震災からの復興
昭和20年(1945)7月19日、福井市は空襲を受け、市街地の大半を焼失した。さらに昭和23年(1948)6月28日、福井地震が発生し、復興途上の市街地は再び大きな被害を受けた。大和福井店も半壊し、再建されないまま福井から撤退した。店の跡地には、いま北陸銀行福井支店が建つ。福井市は、戦災復興として始まっていた街路整備や土地区画整理を震災後も続けた。
戦後の最高路線価は、福井銀行が角に建つ大名町交差点から福井駅正面までの電車通りに付けられた。最高地価が駅正面まで伸びたかたちである。戦後初出となる昭和33年(1958)の地点名は「日の出元町小川農機具店北」だった。小川農機具店は現在のガレリア元町商店街の入口にあった。この商店街の前身は大正13年(1924)に開設された日の出公設市場で、戦後の闇市の時代を経てアーケード商店街となった。戦後はだるま屋百貨店を核に、駅へ延びる電車通りが商業の中心となり、昭和38年(1963)からは地点名も「だるまや百貨店前電車通」となる。
地元主導の郊外店
昭和45年(1970)、だるま屋百貨店は西武百貨店と業務提携。昭和55年(1980)5月には本館を建て替えて「だるまや西武」と改称した。その直前の4月には、福井市南部の花堂南、フェニックス通り沿いにショッピングシティ・ベルが開業している。地元商業者の協同組合が平和堂を核店舗に受け入れた、当時県内最大規模の郊外大型店である。このように地元商業者が組合をつくり、自ら郊外店を開発、運営する手法は「福井方式」と呼ばれる。昭和52年(1977)には、ジャスコを核店舗とするショッピングタウン・ピアが開業していた。平成元年(1989)11月には国道8号福井バイパス沿いに地元資本のヤスサキを核店舗とするイーストモール・パリオ(現パリオCITY)が開業。商業集積は幹線道路沿いへ広がっていった。
その後、郊外の商業は大和田地区に集まっていく。平成12年(2000)には、福井北ICに近い福井バイパス沿いに、ユニーのアピタを核店舗とするフェアモール福井が開業した。専門店街を地元商業者の協同組合が運営する福井方式のモールで、ベルを上回り県内最大となった。周辺には平成9年(1997)に開業したヤスサキのワイプラザなどもあり、大和田一帯は広域から自動車で集客する商業拠点へ成長した。
平成19年(2007)の福井市中心市街地活性化基本計画によれば、中心市街地の売場面積は、平成9年(1997)から平成16年(2004)までに15%減った。同じ期間に市全体では17%増えている。休日の歩行者・自転車通行量も平成12年から6年で36%減少した。だるまや西武はのちに西武百貨店の直営となって西武福井店と改称し、令和3年(2021)2月に新館を閉じた。令和6年(2024)7月には、大和田にも近い西開発にイオンスタイルを核店舗とする「そよら福井開発」が開業し耳目を集めた。平成15年(2003)にショッピングタウン・ピアが閉店して以来、福井は「イオン空白県」だったからだ。
新幹線開業で進む駅前再生
他方、駅前では再生の動きが出てきた。福井市の最高路線価は平成29年(2017)に上昇へ転じ、令和8年(2026)はm2当たり41万円と、平成28年比で1.5倍となった。背景には、令和6年(2024)3月16日の北陸新幹線福井駅開業と、これを見据えた駅前の再開発がある。西口では早くから再開発ビル、屋根付き広場、交通広場を一体的に設計する方針が定まっていた。平成28年(2016)3月、福武線が西口広場まで延伸し、リング状のバスターミナルも開業。鉄道・路面電車・バスを雨にぬれずに乗り継げるようになった。翌月には複合施設「ハピリン」が開業。前面の屋根付き広場「ハピテラス」は駅から電車通りへ抜ける全天候型の動線となり、週末は催しで賑わう。
駅前では、福井駅前電車通り北地区A街区の再開発が令和6年(2024)5月に完了した。完成した「FUKUMACHI BLOCK」の1階のフードホールは電車通り側の歩道に並ぶテラス席とひと続きで、路面と一体のにぎわいを生み出している。休日には駅前電車通りに沿ってキッチンカーや販売ブース、テーブルや椅子が並ぶ(図4)。令和8年(2026)3月には隣のB街区「marunouchi FUKULA」も開業した。電車通りから一筋入った新栄商店街は戦後の闇市に始まり、長屋を含む間口の狭い店が軒を連ねる。近年は小規模連鎖型の再生が進み、カフェやバー、居酒屋などの飲食店や古着店が増えている。福井城址や足羽川など歴史資源を生かしつつ、歩いて巡る魅力的な街への転換が進んでいる。
図4 駅前電車通りとキッチンカー


プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。主著に「自治体の財政診断入門」(学芸出版社)、「公民連携パークマネジメント」(同)

