どうして川のそばに銀行があったのか
盛岡城跡の岩手公園に宮沢賢治の詩碑がある。その一節に「川と銀行 木のみどり まちはしづかにたそがるる」とある。城跡の石垣の上から見下ろした都市景観を詠んだものと伝わる。ここでいう川は中津川、みどりは公園および河岸に連なる並木、銀行は当時の盛岡銀行、現在の岩手銀行赤レンガ館を指すと考えられる。現在でも同地は中心街の一部ではあるが、最高路線価地点は戦後、公園西側の「大通り」に移っている。
盛岡は歴史的景観が良好に残る街だが、地方都市の旧市街には似た風景が多い。公園化された城跡の緑と川のせせらぎ、かつて高札場が置かれた橋、その橋に連なる旧街道、そして街道沿いに建つレンガ造の銀行建築という構図である。昭和期に見られた街の喧騒は消えて久しく、現在は静謐な佇まいを呈している。
令和8年2月号の連載から、港や河岸の背後の街道に一等地があり、その時々の最有力行がその場所に立地し、周囲に銀行街を形成してきたことを示してきた。近代以降、街の中心とは商業中心地だった。特に本連載では地価ないし賃料相場が最も高い地点を中心地としてきたため、中心地とは収益力が最も高い場所であり、換言すれば商業競争力に優れた立地である。
では、なぜそのような商業中心地が川の背後に形成されたのか。これまでも折に触れ書いてきた通り、主要交通手段が舟運であったためである。大阪の淀川と、船場の縦横に巡る堀川のように舟運にも幹線水運と都市内水運の区別があるが、いずれにしても物流の中核を担っていた点に変わりはない。
明治期の商業は物流と商流が明確に分離しておらず、そのため商業活動は川と不可分の関係にあった。もっとも、商業の内容は時代とともに変化しており、現在のようにレジャー感覚で買物に訪れる一般消費に向けて集客力を競う、小売店舗主体の形態ではなかった。一等地に関していえば、明治時代における「商業地」は川湊や港の背後、あるいはそれにつながる街道沿いに形成された「問屋街」だった。もっとも米、魚、青物(青果)など市場制度が早くから整った業種は別として、小売と卸売が未分化な業種も多く、商業地に卸売と小売が混在していたというのが実態だ。問屋に代表される大手業者が一等地に集まっていた。
図 盛岡市街図

銀行業務の本旨としての「荷為替」
ではどうして商業の中心に銀行が存在したのか。銀行が本拠地として狙いを定めたのも、まさにこの物流と商流の結節点であった。戦前の銀行は商業との関わりが深かった。まず、市中の銀行を業態で分けると大きく3つある。商業銀行、貯蓄銀行、不動産銀行である。貯蓄銀行は戦前の銀行条例でも明確に分けられており、小口の貯金を広く集めて運用する業態である。運用側にあるのが不動産銀行だ。全国にあった農工銀行や日本勧業銀行がその典型である。債券で資金調達し農業や工業を対象に不動産抵当で長期資金を融資していた。当時、単に銀行といった場合の銀行といえば商業銀行のことだった。農業や工業ではなく商業が対象で取引も大口に限られていたため、商業取引先の多くは問屋である。為替を中心に、それに付随する商流の融資を営んでいた。
典型的な流れは次の通りである。荷主(売り手)は商品を倉庫に預け、これに対応する倉荷証券を取得する。この証券は商品を代表する権利証であり、これを担保として銀行に差し入れることで、為替手形の割引という形で売上代金を前倒しで回収することができる。
明治期の銀行立地を規定したのは、当時の銀行実務の中核であった「荷為替取引」である。明治11年(1878)1月25日、弘前藩の旧藩士の大道寺繁禎らが発起して大蔵卿に国立銀行の創立願を提出。3月12日に許可され、「第五十九国立銀行」の名称が下された(現在の青森みちのく銀行)。これを受け、かねて指導を求めていた第一国立銀行の頭取の渋沢栄一が、発起人に「青森国立銀行創立ニ付開業前心得書」と題して12条の教訓を送っている。中でも次の2か条に目が留まる。
第10 銀行開業せば直ちに地券または製作所または他の物品を以て借用金を望むもの多々なるべし しかれども創業の際これに応ずる時はその練熟せざるより必ず後累を引起すべし
第11 ゆえにこの銀行の実務は専ら地方出米の荷為替を以てし かつかたわら通常為替および定期当座の預り金をなし而して貸金は公債証書抵当または米穀抵当の外は先ず取扱わざるものとすべし
(筆者注))読みやすくするため原文の漢字の一部とカタカナをひらがなにした。
開業の報を聞きつけ、地券(土地)や工場、あるいはその他の物品を担保にして融資を希望する者が多数現れるだろうと説く。しかし、審査実務に習熟しないうちに受け付けると不良債権となって後悔することになる。銀行の実務は地方からの米の積み出しに伴う荷為替取引を中心に行うべきであるという。あわせて送金・取立などの為替や当座預金業務を行い、定期預金を受け入れ、貸付業務については公債証書や米穀を担保とするもの以外は、当面取り扱わないほうがよい、とアドバイスしている。さらに渋沢は、翌日付の書簡において本店の立地についても明確な指針を示している。要点は、本店は弘前ではなく港のある青森に置くべきという点にある。銀行業務の本旨は米穀荷為替である以上、港のない弘前では業務に差し支えるというのが理由である。港があり運送の便がよく、県庁も所在する青森がよいということだ。結局、旧弘前藩士が主な出資者であることから弘前を本店とする意向は変えず、代わりに支店を青森に置くことにした。
第一国立銀行自身も、明治6年(1873)の創立後、横浜、大阪、神戸、京都に続き、地方で最初に拠点を設けたのは石巻と仙台であった。いずれも米の集散地であり、特に石巻は米穀の移送ルートである河川と海運の結節点であり、明治12年(1879)の石巻出店は、物流拠点への進出を優先した典型例といえる。
同様の構図は、第十七国立銀行(現在の福岡銀行)にも見られる。同行は明治10年(1877)11月の開業と同時に大阪支店を設置している。福岡銀行二十年史によれば、「博多港から大阪港への生白蠟・米穀・樟脳などの大量の物資輸送」に着目したものであり、主要取引先は荷受問屋であった。明治16年(1883)上半季の考課状には「当銀行ノ得意先タルヤ多クハ荷受問屋ニシテ」とある。さらに明治13年(1880)9月には本店を福岡から大阪に移し、福岡の本店を支店としている。博多港と大阪港間の商流拡大を期待してのことだった。明治16年8月に本店を福岡に戻している。
また、明治12年(1879)10月に鹿児島で開業した第百四十七国立銀行(現在の鹿児島銀行)がその4か月後に大阪支店を出した背景には、藩政期に「薩州問屋」と呼ばれた大阪の荷受問屋との取引関係がある。為替取引や産地前貸の肩代わり融資が念頭にあった。
この関係をより端的に表現した当時の証言として、十二銀行(現在の北陸銀行)の常務取締役であった馬瀬清三郎の言葉がある。北陸銀行の「創業百年史」に、馬瀬清三郎が明治45年(1912)1月10日付富山日報に寄せた言葉が掲載されている。物流と銀行の関係をよく言い表しているのでここに引用したい。
銀行の仕事としては、第一に地方の荷物が動かざれば駄目なり。本県の如きは、銅器、漆器、織物などと称するも、何れも微々たるものなれば資金の運用上には何程の事もなし。ただ僅かに米穀ある位に過ぎず、此点に至りては北海道の小樽などは甚だ盛んなるものなり。昨年の如きは小樽支店自身の預金100万円と本店より廻付したる 150万円を合せ、尚需要に応じ兼ぬる位なりしが昨今はしきりに回収しつつあり・・(略)
かく資金廻転の烈しきは荷物の活動するためにして、荷物の活動するは商業取引の盛んに行なわるればなり。銀行としての利益も、従って多く、今期の如きは同支店にて約1万7,000円許りの利益を挙げたり
資金の流れでみる物流と銀行
荷物が動くところに銀行ビジネスの機会がある。ならば実際どのような資金の流れがあったのか。荷為替取引の初期の実態を示す統計として、明治14年(1881)下半季および明治15年(1882)上半季の荷為替手形のデータを取り上げ、これをもとに仕向・被仕向のクロス表を作成した。統計上の「貸出」を仕向、「取立」を被仕向と解釈する。もっとも時期的に、荷為替システムの普及の地域差があったことに留意する必要はある。
これをみると、地方で生産された商品が、東京・大阪といった大消費地、あるいは横浜を中心とする輸出港へと集約される構造が浮かび上がる。とりわけ生糸は当時の主要輸出品であり、福島県、群馬県、長野県などの内陸産地から横浜へ向かう流れが形成されていた。東北地方から東京に向けて国庫金納付に関する米穀為替と考えられる資金移動が確認される。福井県含む西日本は大阪への移出が多い。
こうした為替に付随する融資が商流に組み込まれていた。商流の融資は最終的に売上が回収原資となるので、在庫あるいは売掛金が担保となる。生糸や米穀は季節性の強い商品であり、仕入支払期と売上回収期の収支ズレが大きい。まずは、産地の仕入資金である。問屋は生糸や米穀を産地で買い付ける際、代金を先行して支払う必要があり、その資金を銀行からの借入で調達するのが一般的であった。次は出荷に伴う資金供給である。銀行は、荷主が振り出す荷為替手形を割り引き、出荷代金の一定割合を前払いした。最後は荷物の到着地の金融である。荷受人が、荷為替手形に付随した倉荷証券を受け取るには、荷為替手形の引受人欄に記名捺印しなければならない。そこで生じるのが、手形決済資金である。横浜などの到着地では、荷受業者が手形決済資金を必要とし、これに対して銀行は同一貨物をあらためて担保に取った上で、短期貸付で応じていた。
不可分だった商業銀行と倉庫業
荷為替取引において、倉荷証券は商品を代表する権利証であり、銀行にとっての担保の根拠であった。
この関係は明治期に始まったものではない。江戸時代の両替屋はすでに商品担保金融を営んでおり、大坂では並合と称し、米切手や預り札への金融のほか、手持倉庫に物品を蔵置して貸し付ける方法や、貨主の在庫品に錠前を預けさせて貸し付ける方法があった。江戸ではこれを「手錠前」と称した。
明治期の銀行にもその仕組みは引き継がれ、第一国立銀行や三井銀行など初期の銀行は、米穀や商品を担保とした荷物引当の貸付を行っていた。農家の納税資金や商取引に伴う資金需要に対応するため、商品を裏付けとした貸付は不可欠であった。
商業銀行は倉庫と縁が深い。まずは銀行自体が倉庫だった。火災から債権書類や現金を守るため、行舎は両替商以来の土蔵造を基本としていた。行舎の裏手に土蔵造の倉庫を備え、質蔵と同じく、担保となる商品や証券を保管するケースも多かった。さらに、銀行が倉庫業を兼営する動きも広く見られた。住友家は銀行業を始める前に大阪で倉庫を所有し並合業を始め神戸・尾道にも拡張した。銀行業の開始は明治28年(1895)で倉庫金融が先行する。三井銀行の倉庫業務は明治32年(1899)に深川・神戸で組織的な体制に移行した。三菱為替店は蔵敷と称する保管兼倉庫賃貸業を営み、独立性の高い事業部門としていた。一体性が強かった銀行業と倉庫業はその後分化していく。住友は明治32年に倉庫業を分離して住友倉庫とし、三井は明治42年(1909)に東神倉庫(現・三井倉庫ホールディングス)として独立させた。地方にも、銀行業をルーツとする倉庫業が何例か見られる。
表 荷為替取引

鉄道・バスとGMSの時代
かつての銀行街が中心性を失ったのはなぜか。その端緒は、集客型小売業の登場と関係がある。大正時代に入ると都市中間層が急増した。これを象徴したのが百貨店である。旧来の座売りを廃し陳列販売を導入した。昭和に入ると消費者が土足で自由に店内を歩き回り、複数の品物を見比べる買い回りという行動様式が定着した。街なかには市電が敷設され新しい人の流れができ、商業拠点の様相が主に商人が集まる問屋街から、一般市民が集まる小売店舗街になった。いわば、河岸と銀行の時代から、市電と百貨店の時代になった。
街の中心が大きく動いたのは戦後の高度成長期である。このとき、駅前とバスとGMS(総合スーパー)の時代となる。元々、駅前は街の玄関口ではあったが中心地ではなかった。幹線鉄道の駅は都市の外縁に設置され、駅前は運送業や旅館が集まっていた。舟運から鉄道へ、時代の転換を進めたのは自動車、トラックとバスだった。トラック運送の普及につれて舟運は衰退。運河網は埋め立てられて広幅道路になった。運河網がない街でも戦災復興に伴う区画整理で広幅道路が整備された。バス路線は駅前を起終点とする放射型ネットワークを形成し、駅前は郊外から人々を吸い寄せる節点となった。
その集客力に目を付けたのが鉄道系百貨店やダイエーに代表されるGMSである。通行量が多く、かつての郊外で閑散としていた駅前に多層階の店舗を構えた。駅に併設される民衆駅、いわゆる駅ビルもこの流れに位置づけられる。市電と百貨店の時代の商業拠点と、駅前に登場した新興の商業拠点の2拠点体制となり、以来一等地の座を巡って激しく競争した。百貨店に象徴される大衆消費の前と後で都市商業の主役が問屋、百貨店、そして駅前GMSへと移り変わった。一等地の変遷は商業の質の変化そのものであった。問屋が主役だった時代の商業中心地の核が銀行だった。集客型小売の時代が到来し、集客力が立地の価値を決めるようになり、銀行街は中心性を失った。
街は再び河岸と銀行の時代へ
さて、2000年代以降ロードサイド巨艦店が登場するも足元ではネット通販の攻勢激しく、集客型小売が主流だった商業のあり方自体が地殻変動を起こしている。買い回り商業も旧市街から去って久しい。だが、本来の役目を失ったかわりに新たな役割が生まれつつある。かつての銀行建築は歴史的街なみの核となり、物流を担った川は親水空間として街の魅力を高め、河岸の木のみどりは住む人、歩く人のための景観となった。宮沢賢治が詠んだ川と銀行と木のみどりは観光と居住の資源として再生し、そこに人が訪れ人が住む、黄昏時の風景が美しい静かな街が戻ってきた。

プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。主著に「自治体の財政診断入門」(学芸出版社)、「公民連携パークマネジメント」(同)

