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路線価でひもとく街の歴史

第39回 「佐賀県佐賀市」

掘割巡る水の街で映える余白の美 紺屋川、長崎街道と柳町


街なかに掘割が巡る街といえば福岡県の柳川が有名だが、同じく有明海に面した佐賀の街も多くの掘割が残っている。県庁所在地にしては静かな街で、旧城下町はJR佐賀駅から1.5kmほど南にある。
城下町の東西軸が長崎街道である。近代以降、この街道に沿って中心地は東から西へ動いてきた。舟運の時代を反映し、明治中期の中心地は川湊の後背地にあった。佐賀県統計書によれば、明治29年(1896)の宅地地価の最高地点は「柳町」である。柳町の東側に流れる紺屋(こんや)川は感潮河川で、有明海の潮の満ち引きで上り下りが変わるのが特徴だ。紺屋川の先で佐賀江川に合流し、筑後川河口の諸富(もろどみ)港で有明海とつながっていた。平成31年(2019)、紺屋川に架かる思案橋のたもとで荷揚げ場の遺構が発掘された。遺構は昨年公園化され「柳町思案橋広場」になった。今年の3月には市の史跡に指定され「思案橋荷揚げ場跡」となった。
往時をしのぶスポットが佐賀市歴史民俗館だ。近代の和洋建築群の総称で旧古賀銀行、旧古賀家、旧牛島家、旧三省銀行、旧福田家、旧森永家、旧久富家の7棟からなる。ひときわ目立つのが旧古賀銀行だ(図1. 旧古賀銀行(現・佐賀市歴史民俗館))。古賀銀行の設立は明治18年(1885)で、元は旧古賀銀行の斜め向かいの土蔵造「旧中村家」にあった。旧古賀銀行の行舎は明治39年(1906)の竣工で、大正5年(1916)に増築された。元々漆喰壁だったが増築に伴って煉瓦タイル張りになった。その後も増築されたが、資料館に改修するにあたって大正期の姿に復元された。平成4年(1992)に市の所有となり、平成7年(1995)には佐賀市重要文化財に指定された。
古賀銀行は九州5大銀行と称されるほどの地元大手行だったが、第一次世界大戦の戦後恐慌で経営不振となり、大正15年(1926)に休業を余儀なくされた。その後復調することなく昭和8年(1933)に解散した。

呉服町の賑わい
明治44年(1911)、最高地価の場所が柳町から呉服町(ごふくまち)に移った。大蔵省の土地賃貸価格調査事業報告書では、大正15年(1926)時点の最高賃貸価格の場所として呉服町、元町(もとまち)、白山町(しらやままち)が列記されていた。これら3町は長崎街道に沿って隣接している。いずれも戦後にわたる中心商業地で高度成長期にはアーケードが架けられた。今でも白山町にアーケードが残る。
戦中をまたぎ、呉服町の時代は昭和42年(1967)まで続いた。昭和34年(1959)の最高路線価は「呉服町三笠屋呉服店東側通」である。三笠屋は呉服町と元町が交差する角にあった。昭和41年(1966)の地点名「呉服町キンタイ洋服店前通」に登場する洋服店は今も同じ場所にある。
呉服町は佐賀で初めて百貨店が出店した場所でもある。大正9年(1920)10月に開店した4階建の丸木屋である。金融恐慌の煽りで昭和2年(1927)に閉店し、しばらく空き店舗になっていたが、昭和8年(1933)、玉屋百貨店が買収して支店を構えた。百貨店としては佐世保、福岡に次ぐ3店目の出店だった。玉屋は文化3年(1806)、長崎街道で佐賀の次の宿駅だった牛津で創業した荒物店、田中丸商店を祖とする。
街の賑わいが柳町から呉服町に移った背景には舟運の衰退があった。呉服町が最高地価となる20年前、明治24年(1891)8月に佐賀駅が開業。当時は九州鉄道の駅で現在地より200m南にあった。佐賀駅が開業した時点では路線の東端が門司駅(現在の門司港駅)で、博多駅を経由し、熊本駅が南端だった。佐賀駅は鳥栖から分岐した路線の西端だった。佐賀駅が現在地に移転したのは昭和51年(1976)である。移転と同時に高架化した。
呉服町が銀行街だった時代もあった。まずは明治29年(1896)、裏十間川のたもとに佐賀貯蓄銀行が本店を構える。明治42年(1909)には不動貯金銀行が佐賀支店を開設した。東京に本店を構える大手銀行が佐賀に進出した初めての例だった。戦後は協和銀行となり、昭和56年(1981)に撤退した。
大正6年(1917)、肥前銀行が呉服町に出店。後に本店となった。肥前銀行は大正13年(1924)9月に佐賀百六銀行に合併され、肥前銀行の本店行舎は佐賀百六銀行の本店となった。佐賀百六銀行の歴史は明治12年(1879)2月に設立された第百六国立銀行に遡る。国立銀行制度の満了に伴い明治31年(1898)4月から佐賀百六銀行になった。元々は佐賀城内堀の外側、佐嘉神社の東南角にあった。地元最古の銀行で市内大手行の1つだったが、昭和3年(1928)に住友銀行の傘下に入る。昭和16年(1941)9月に営業譲渡し、旧本店が住友銀行の支店となった。
佐賀貯蓄銀行は大正13年に破たん。翌年8月、跡地に唐津銀行が行舎を新築して佐賀支店を構えた。唐津銀行は明治18年(1885)10月の設立で、昭和6年(1931)8月、同じく唐津を本拠とする西海商業銀行と合併して佐賀中央銀行となった。現在の地域一番行、佐賀銀行の前身行の1つである。昭和9年(1934)に行舎を改修して現在の外観となった(図3. 旧唐津銀行・旧佐賀中央銀行)。正面に4本並ぶドーリア式の列柱が特長だ。昭和21年(1946)に佐賀中央銀行の本店となり、佐賀銀行が発足してからは同行の呉服町支店となった。その後、平成11年(1999)に移転するまで同じ建物で営業していた。
昭和30年(1955)7月に2行が合併して発足した佐賀銀行のもう1つの前身が佐賀興業銀行である。明治15年(1882)3月に創業した県内初の私立銀行である伊万里銀行の他、武雄銀行、有田銀行、洪益銀行の3行が合併して設立された。設立は昭和14年(1939)8月で、武雄市に本店を構え佐賀県の南西部を地盤としていた。4行合併を機に佐賀支店を新設。呉服町の隣の東魚町にあった。その2年後に佐賀百六銀行の旧5支店を継承し県域銀行の足場を固める。昭和19年(1944)10月には佐賀市唐人町、現在の佐賀銀行本店の場所に行舎を新築し本店を移した。佐賀百六銀行が住友銀行の傘下となり、古賀銀行が休業・解散して以来、久々の地元本店行の誕生だった。

中央大通りの開通
昭和43年(1968)、最高路線価地点が中央大通りに移った。地点名は「松原町玉屋百貨店東側通」である。元々、佐賀駅と佐賀城址の県庁を結ぶ南北軸は県庁前通りだった。内堀の外に出ると大通りに沿って左側に佐賀市役所があり、その先の右側には明治31年(1898)から佐賀県農工銀行が店を構えていた。大正10年(1921)に日本勧業銀行に吸収され、再編を経て現在のみずほ銀行に至る。
昭和40年(1965)8月、土橋(中央橋)から直進する形で中央大通りが開通。1筋西の県庁前通りに代わって南北のメインストリートになった。あわせて都市の主要な機能が集まってきた。まずは開通年の12月に佐賀玉屋が百貨店を新築し呉服町から移転。昭和42年(1967)、日本勧業銀行も玉屋の向かいに行舎を新築した。その隣には2年後に福岡銀行が支店を開設。その次の年には住友銀行が呉服町から移ってきた。
昭和47年(1972)10月、白山町にダイエーが進出した。他方、中心の座を譲ったとはいえ、呉服町界隈の賑わいが衰えたわけではなかった。佐賀玉屋が移転した店舗には入れ替わりでミヤコが入居した。昭和48年(1973)住友銀行跡に西沢本店が呉服店を新築。その翌年、佐賀銀行呉服町支店の向かいに南里本店が開業した。昭和54年(1979)には、地元酒蔵の分家筋のス―パー「窓乃梅」が地上4階建の店舗を新築し、九州最大手チェーン店の寿屋が上階に入った。

四方を囲むバイパス道路と郊外流出
呉服町界隈の賑わいに陰りが出てきたのは90年代後半である。平成4年(1992)、佐賀県の世帯当たり乗用車が九州7県で最も早く1台を超えた。80年頃から現在に至るまで普及率は7県で最も高い。市街の東西南北を環状に囲むようにバイパス道路が整備され、ロードサイド店が増えてきた。郊外勢に押される形で平成10年(1998)に白山町のダイエーが閉店した。その翌年、呉服町の南里本店が閉店。寿屋も撤退した。2000年代に入ると、佐賀玉屋の倍をさらに上回る規模の巨艦店の開店が相次ぐ。平成12年(2000)のイオンモール佐賀大和、平成15年(2003)のモラージュ佐賀である。
対して中心商店街が再興を期した次の一手が第三セクターの再開発ビルである。平成10年(1998)、3階建の商業層、5階以上の住居層からなる12階建「エスプラッツ」が竣工した。しかし集客に苦戦し平成13年(2001)に破たん。平成15年には商業スペースの閉鎖に至る。空洞化が進み、呉服町に最後まで残っていた窓乃梅も平成17年(2005)に閉店した。

“空き”を逆手に再生進む呉服町
平成18年(2006)、県下最大の店舗面積を擁するゆめタウン佐賀が開店。最高路線価地点が「駅前中央1丁目駅前中央通り」に移転した。令和4年のm2当たり路線価をみると、ゆめタウンの南側が74,000円、モラージュ佐賀近くの環状東通りが55,000円。これに対し呉服町は48,000円と郊外商業地を下回る。福岡銀行や三井住友銀行が大通りから移転するなど駅前のビジネス機能が高まった側面もあるが、むしろかつての中心地に従来あった商業機能が弱まった影響が大きい。
平成20年(2008)には呉服町のアーケードが撤去された。商業再興の文脈では後退にみえるが、「住まう街」の視点でふりかえれば再生の兆しだった。平成23年(2011)、市は「街なか再生計画」を公表。エスプラッツ、佐賀玉屋、佐嘉神社地区、呉服町・柳町を4つの集客拠点とし、4点を十字で結ぶエリアに人が歩く仕掛けを整備し、その後周辺に波及させるコンセプト(4核構想)が土台にあった。公民連携組織の「街なか再生会議」が策定に関わっている。連携において市側で取り組んだのは公共施設の誘致である。例えば窓乃梅の跡地には国保会館を誘致した。ダイエーがあった場所には商工会議所のビルが建った。その近隣にはハローワークを呼び寄せた。エスプラッツの商業スペースは市が買い取ってリニューアルした。1階にスーパーやドラッグストア、2階は診療所や保育園、カルチャーセンターが中心の構成になった。市営の佐賀バルーンミュージアムは元々ニチユー本店だった店舗を改装したものだ。
民間側の仕掛け人が「街なか再生会議」の座長、地元出身の建築家西村浩氏と事務局のNPO「まちづくり機構ユマニテさが」である。初期の取り組みで目を見張るのが「わいわい!!コンテナ」だ。街なかの青空駐車場や遊休地を“原っぱ”に置き換えるコンセプトの下、佐賀銀行の旧呉服町支店の向かい側の空き地に芝生を敷き、3台のコンテナを置いた。コンテナはそれぞれミニ図書館、チャレンジショップ、ワークショップに使える交流スペースになっている。
住友銀行の移転後に建った呉服店のビルだが、当の呉服店も平成19年(2007)に撤退し空きビルになっていた。その後、改装され現在はコワーキングスペース等が入るON THE ROOFになっている。他にも通りに新しい建物が増え、少なくとも通りに面する青空駐車場が無くなった。また、NPO主体で新規出店者と空き店舗のマッチングが進められ、シャッター街の空き店舗が少しずつ埋まってきた。今では図5. 最近の呉服町(住居表示は呉服元町)のような風景になっている。
商業機能が衰退する一方で跡地にマンションが建ち、街なかに住む人は元々増加傾向にあった。他方、週末は車で郊外に買い物に出るのが常態であり、買い物以外の日常生活を楽しむ面では課題があった。これに応えるのが、空洞化を逆手にとり、空き地を意識的にデザインされた街の余白とすることで、エリアの価値を高める発想だ。街なかを縦横に巡る掘割が、住まう街の風情ひいてはステータスをさらに高めている。

プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。近著に「公民連携パークマネジメント:人を集め都市の価値を高める仕組み」(学芸出版社)


図2. 市街図
図4. 広域図