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ファイナンスライブラリー


評者 読売新聞大阪本社経済部長 中村 宏之
太田 肇 著
何もしないほうが得な日本 社会に広がる「消極的利己主義」の構造
PHP研究所 2022年11月 定価 本体990円+税


本書の著者である同志社大学の太田肇教授は組織論の研究者であるとともに、現代日本社会を形成する要素の一つに「承認欲求」があるという考え方を広めたことで知られる。綿密なリサーチで日本の組織が持つ特徴や課題、生きづらさなどを解明した。様々な承認欲求が組織や社会に影響を与え、人々の行動をいかに左右してきたかの分析である。少し前に社会問題になった回転寿司など外食チェーンをめぐる迷惑動画などはまさにその一つである。
現在、社会はコロナ禍からの正常化に向けて回復の途上にあるが、自己利益と保身のために、現状を変えようとしないほうが得だという意識が日本社会に蔓延しているのではないか、という強烈な問題意識が著者にはある。本書は大規模なウエブ調査をもとに、どこに問題が潜んでいるのかを解明した。
例えばコロナを理由にしたイベントの中止などはその典型だ。コロナの環境下では、何もしないことによる安全の確保という動きが相次いだ。具体的には花火大会や小中学校の水泳授業の中止などである。コロナ下でのイベント開催など「百害あって一利なし」という考え方が各方面に広がった。何もしないことによって安全な場所にいられるので、あえてリスクを冒さないという姿勢である。そこには「出る杭になって打たれたくない」という心理が作用している。何も積極的にやらないことが最善という行動原理であり、こうした風潮が蔓延することでいわゆる「中止ドミノ」が加速したのは記憶に新しい。
本書ではこうした動きを「計算ずく」の確信的な不作為と表現する。その背景には、文化を形成する社会の仕組みやシステム作りの原点に根本的な欠陥が存在していると著者は指摘する。
根本的な欠陥とは何か。それは失敗を許容しない「トーナメント型キャリア」であり、挑戦を阻む組織内の人間関係などである。
さらに日本社会が一種の共同体に近い性質を備えていることも要因として挙げる。これは承認欲求にも共通するが、閉鎖的で同質的組織では「ゼロサム」で限られたパイを奪い合う。さらにメンバー間で大きな差をつけない平等主義が内在しているがゆえに、人間関係が固定化され、集団の濃い空気が組織運営に反映される特徴があるからだという。この結果、前向きな発想が生まれず、何もしないほうが無難という消極的利己主義が生まれると指摘する。
こうした風潮をどのように打開したらよいのか。この点について著者は「するほうが得」な組織・社会に変えていくことが課題だと訴える。「何もしないほうが得」という意識や風潮の先には、社会に明るい展望は望めず、結果として自分の利益にならないからである。著者はその変革のイメージを谷を渡ることになぞらえて四つの対策を講じるべきだと主張する。
まずは自分や他人が何かをする場合に、それぞれの利益にしわ寄せが来ないように集団から個人を分ける「防波堤」をつくる。そして、既存の組織や制度の枠外に別の制度を作る。いわば「新しい橋」を架けるのである。さらに、その橋を渡らせるために各種インセンティブを用意して人々を誘導し、先導役としての異質な人材を活用することがカギになるという。
著者は近年、日本の組織を分析する本を連続して出版している。これらに共通するのは日本社会に根付く共同体意識の強さと閉鎖性である。一連の分析結果を知るには前著である「日本人の承認欲求 テレワークがさらした深層」(新潮社)や「同調圧力の正体」(PHP研究所)などを併読すると参考になるだろう。
行政機関などで仕事の押し付け合いを意味する「消極的権限争い」という言葉があるが、企業や個人のレベルでもそうしたことは起こりうる。コロナ下で顕在化した消極的利己主義は、アフターコロナに向かうタイミングで棚卸しをして、新たな見直しを図る必要があるだろう。本書はそのヒントになる多くの視座を提供してくれる。