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遠州の岬から~今日も風が吹いています~ 御前崎

名古屋税関清水税関支署御前崎出張所長 森田 善乃

1. はじめに
御前崎出張所は、静岡県全域を管轄する名古屋税関清水税関支署管内の出張所で、御前崎市、掛川市、菊川市及び牧之原市を管轄し、北東に駿河湾、南西に遠州灘を望む岬の先端北岸に位置しています。場所柄、年間を通して風が強く、冬には「遠州のからっ風」と言われる強風が吹きます。近隣では、サーフィンやウインドサーフィンなどのマリンスポーツが盛んで、全国からサーファーが良い波と良い風を求めて集い、全国大会や国際大会が開催されます。
また、風力発電の施設が多く、御前崎港の西側、遠州灘の海岸線に一列に高さ80メートル程の風車が林立する様は圧巻です。風に関係する文化として凧があり、県内では「浜松まつり」の凧揚げが有名ですが、当地域でも横須賀凧、相良凧など特徴ある凧の制作や祭りが大切に継承されています。
写真: 【はためく税関旗:御前崎出張所前にて】


2. 御前崎出張所と御前崎港
当出張所の歴史は、昭和26年に清水税関支署の監視署として設置され、一旦は廃止されて同支署焼津出張所の管轄となりましたが、昭和46年の御前崎港の開港指定に合わせ出張所として設置されました。
令和3年には、御前崎港開港50周年、税関は御前崎の地で監視署の設置から70年目を迎え、さらに歴史を刻んでいます。
当出張所のある御前崎港は、陸路ではJR東海道本線金谷駅から車で45分、最寄りバス停からは徒歩20分(下ること高低差45メートル超)の「地方港」ですが、地図をご覧になればお分かりのとおり、駿河湾の湾口部にあることから、海上では駿河湾内の港へは迅速にアクセスすることができます。また、太平洋外洋航路へのアクセスも良く、国際コンテナターミナルを有する静岡県の重要港湾の一つであることから、自動車関連の輸出が盛んであり、同港の輸出額は3,270億円(令和4年速報値)と輸入額の約10倍となっており、入港船舶はコンテナ船よりもPCC(自動車運搬船)が多いといった特徴があります。
写真: 【御前崎出張所管轄区域】
写真: 【PCC船と富士山】


3. 管内の名所
(1)なぶら市場
当出張所の近くには「なぶら市場」という新鮮な海の幸を食べたり買ったりできる観光施設があります。「なぶら」とは、漁をする際に海面近くに浮上した魚の群れの様子を指し、御前崎ではかつおが有名で、毎年5月下旬に開催される「御前崎みなとかつお祭り」には鮮度の良い地魚を求めて多くの観光客で賑わいます。また、海岸線沿いには魚を売る魚屋や地魚が食べられる食事処があり、出張でお越しの際は勿論、プライベートでも是非足を延ばしてお立ち寄りください。

(2)車窓から
当出張所の管轄区域には見どころがたくさんあります。その中でも、私のお気に入りのドライブコース、ではなく、通勤経路でのマイカーからの車窓風景とともにご紹介します。まずは、自宅から管轄区域の北側に隣り合う島田市と牧之原市の境には、平成21年開港の「富士山静岡空港」があり、令和5年夏ダイヤ(令和5年3月26日現在)では、国内8路線と韓国への運航があり、その他、ベトナムを繋ぐ国際線のチャーター便があります。ちなみに、同空港の税関業務は清水税関支署静岡空港出張所が担当しています。
通勤では、空港を横目に運転していますが、付近の東名牧之原インター周辺は一面茶畑が広がっています。当出張所管轄の4市はお茶の生産が盛んで国内でも有数な「茶どころ」です。どの市も特徴ある茶葉の品種や製法でブランド化を図り流通量を高めています。新緑が眩しい新茶の季節には、専用機械でお茶刈りをする農家の姿が見られる風景が広がり、茶摘み体験、直売イベント、新茶祭りが開かれ、一年で一番活気づく時期を迎えます。また、「ふじのくに茶の都ミュージアム」(島田市)では、お茶の歴史、手揉みや製茶機械の紹介、お茶診断等、お茶に纏わる様々な展示や企画で「茶」の魅力を発信しています。
ところで、牧之原台地に広がる茶畑には、何台もの扇風機らしきものを目にします。これは防霜ファンと言い、茶の木が新芽を出す初春の頃、遅霜(おそじも)によって新芽が凍ってダメにならないように空気を動かす役目で、今年もおいしい一番茶を摘むために活躍しています。
そして、牧之原台地を過ぎて御前崎へ向かうバイパスを進むと、辺りは自然豊かで草木の緑がずっと続くのどかな景色に、自身がどの辺りを走っているのかわからない感覚に陥ることもしばしばです。多くの輸出自動車を運ぶキャリアカーが往来し、「今日は全体的にスピードが遅いな~」という日もありますが、それはさておき、御前崎港の輸出の主力である自動車輸送に欠かせない道路が、利便性よく整備されたことに感謝し、少々の渋滞も仕方ありません。
さらに南下していくと、左手の山の切れ目から御前崎港のガントリークレーンが駿河湾から太平洋までの碧さと共に目に映る頃、道路脇の丘陵地には風力発電の風車がそびえ立つ様が見られます。
御前崎港エリアに入ると、埠頭に佇む巨大なプラント、そして、本年7月の稼働を目指すバイオマス発電所が現れてきたころ、御前崎出張所に到着です。港の西側、遠州灘に面した海岸には浜岡原子力発電所もあり、様々な発電施設が集中している地域とも言えます。
写真: 【富士山静岡空港から飛び立つ飛行機と富士山】
写真: 【茶畑と富士山】
写真: 【風力発電の風車】

(3)静岡県のお茶
静岡県のお茶:2022年、荒茶(茶畑でとれたままのお茶のこと)生産量が日本一になりました。
御前崎茶:日照量、温暖な気候に恵まれた御前崎茶は、茶どころ静岡の中でも最も早く新茶の摘み取りが可能で、香りの良さと爽やかな味が特徴です。早生品種の「つゆひかり」の普及に取り組んでおり、渋みが少ないさっぱりとした味わいと色あざやかな水色のお茶をいただけます。
掛川茶:穏やかな気候と適度な雨量で育まれる掛川茶。「深蒸し茶」(刈り取った茶葉を製茶する工程にある「蒸し」の時間を2、3倍長くすることで、通常の煎茶に比べてコクや旨みが十分に引き出される製法)が有名で、最高級の深蒸し茶「天葉(あまね)」は、芳醇な香りとまろやかで上質な甘み、初夏の新緑を思わせる鮮やかな水色が特徴のお茶です。
菊川茶:明治の頃に栽培が本格化し、今では大規模な茶園となって安定して生産されています。熱心な生産者たちにより「深蒸し菊川茶」も開発され、遠州のからっ風と恵まれた太陽の光をあびて育まれた茶葉は葉肉が厚く、まろやかで深みのある一杯をいただけます。
牧之原茶:茶園面積は県内1位で、主には「やぶきた」(国内茶葉の主流品種)を栽培。今ではお馴染みの「深蒸し茶」は、牧之原地域で明治時代に考案されたもの。濃い緑でまろやかな味わいのお茶をいただけます。
写真: 【お茶くらべ】

(4)「どうする家康」ゆかりの地
今、静岡県ではNHKの大河ドラマ「どうする家康」に沸いています。私もキャストに推しがいるという理由だけでなく、この地で起こった古の出来事、地元ゆかりの人物登場や馴染みの地名など、様々な角度から楽しみ盛り上がっています。県内の至る所には家康に関係する寺や名所、またその時代の出来事の跡が点在します。
御前崎市には、武田軍に追い詰められた家康が白羽(現御前崎市白羽地区)の安西与左衛門宅の大きなミカンの木の中に隠れ、その際に食べたミカンの味が忘れられなかったため白羽神社の神主に命じて将軍家へ献上させたと伝えられる白羽柑子があります。
また、掛川市では何といっても掛川城。武田信玄に追われ掛川城に逃げ込んだ今川氏真を家康が攻め、半年に渡る激しい攻防戦の末に手に入れた城です。今では城跡ですが、家康と武田家が遠州地方の覇権をかけて攻防を繰り広げたのは高天神城、そして高天神城を攻略するために家康によって築かれた横須賀城。その高天神城を包囲攻撃するために家康が築いた砦とされる獅子ヶ鼻砦の跡が菊川市にあります。
そして、牧之原市には、かつて徳川家に仕える旗本だった大鐘家の遠州最古とされる古民家があり、庭のあじさいや酔芙蓉などは花の名所にもなっています。牧之原という地名は、かつて諏訪原と呼ばれていた頃に武田信玄の命を受けて築城された諏訪原城を、家康が落城した際にこの一帯を牧野ヶ原と改めたことに由来しているといった一説もあります。
静岡空港近くにある石雲院は、戦国時代に武田家の兵火によって焼失したものを、地元の人々や家康の支援により復興を遂げた遠州の大寺です。
戦国の時代を生き天下統一を成し遂げた家康の歩みを辿りたくなった方は、「徳川家康」×「○○市」と検索してみてください。各市のHP、観光マップ、イベントや展示の案内など各種情報が掲載され、きっとあなたもこの地を訪れてみたくなるはずです。
写真: 【掛川城としだれ桜】


4. おわりに
派手ではありませんが、御前崎出張所管轄の各市の魅力をお伝えすることができたでしょうか。
まだまだ紹介しきれない魅力いっぱいの街「御前崎」。お近くにお越しの際は是非お立ち寄りください。
(写真提供)静岡県広聴広報課、掛川市、株式会社フジドリームエアラインズ




歴史に根差した国際交流の街 下関

門司税関下関税関支署 総務課長 田原 賢治


はじめに
下関は、本州の最西端に位置し、海を挟んで真正面に九州の玄関口である福岡県北九州市があり、関門橋や関門トンネル(国道、人道、在来線及び新幹線)等、本州と九州を結ぶ交通網が集中しているほか、下関と北九州市を隔てる関門海峡は、国内物流はもとより、京阪神地区から中国や韓国に向かう海上交通の大動脈でもあり、古来、交通の要衝でありました。
下関に所在する門司税関下関税関支署は、明治8年(1875年)に長崎税関下ノ関税関監吏出張所として設置されました。以来、147年の長きに渡り地域の税関行政を担い、地元の要請を受けて我が国初の365日通関を行う等、貿易の発展に貢献し、現在は宇部、萩両出張所を有し山口県の西部、下関市、萩市、長門市、宇部市、山口市、美祢市、山陽小野田市及び阿武郡の7市1郡を管轄しています。(税関管轄区域制定により、明治23年11月に神戸税関、明治32年4月に長崎税関の管轄になりました。)

歴史
〔壇ノ浦の戦い〕
下関が歴史的に全国区となった最初の出来事は、やはり壇ノ浦の合戦でしょうか。
一ノ谷の合戦、屋島の合戦と、立て続けに源氏に敗れた平家は、長門国彦島(彦島は下関市の一部です。)に拠点を置いて再起を図っていたところ、寿永4年(1185年)3月24日に源義経率いる源氏の平家追討軍が迫り、長門国赤間関の壇ノ浦で合戦となりました。
主戦場は現在の本州と九州を繋ぐ「関門橋」東側の海域で、合戦の推移は多くの時代劇でも取り上げられ、ご存じの方も多いと思いますが、合戦当初は潮に乗って、平家軍が源氏軍を押していたものの、やがて潮の流れが反転し、潮にのった源氏軍が次第に平家軍を圧倒し、平家が滅亡した戦いでした。
義経の八艘飛び、二位尼と安徳天皇の入水など、数々のエピソードがありますが、現在の関門海峡は、一日に何百隻もの船舶が往来する海上交通の要衝で、ひっきりなしに船舶が往来する風景から当時をしのぶことは難しい状況ですが、周辺には安徳天皇を祀る赤間神宮、平家一門を祀る七盛塚、耳なし芳一の芳一堂など、関連する史跡も残っています。
写真: 壇ノ浦(関門海峡)を望む源義経(左)と平知盛(右)の銅像

〔巌流島の決闘〕
巌流島の決闘と聞いて、多くの方は宮本武蔵と佐々木小次郎、プロレスファンの方はアントニオ猪木とマサ斎藤を思い浮かべると思いますが、その巌流島がどこにあるのか?
これは案外知らない方が多いのではと思いますが、巌流島は下関にあります。
表題を歴史としているところ、プロレスの話はさておき、武蔵と小次郎について述べさせて頂きます。
武蔵と小次郎の巌流島の決闘については、資料が乏しく諸説あるようですが、一般的なところでは、慶長17年(1612年)の春、下関沖合の舟島(舟島は巌流島の正式名、巌流島と呼ばれるようになったのは、小次郎の流派「巌流」から、そう呼ばれるようになったとのこと。)で、先に舟島に到着した小次郎は、遅参した武蔵に苛立ちを募らせ戦った結果、武蔵に敗れたというもので、これも数多の時代劇や、人気コミックのテーマにも取り上げられていることから、多くの方がご存じの内容でしょう。
現在の巌流島は、下関や対岸の門司港からも観光船に乗って上陸することができ、現地には武蔵と小次郎の決闘をモチーフとした銅像があります。
写真: 巌流島の武蔵と小次郎の銅像

〔幕末・明治維新〕
明治維新の中心地の一つである山口県の中でもここ下関は、「奇兵隊」を結成し、幕末期に活躍した高杉晋作に関係する史跡が多くあります。
高杉晋作は、文久3年(1863年)6月、廻船問屋白石正一郎の後ろ盾を得て当地において奇兵隊を結成し、その後長州藩の藩論を討幕の方向に進めたほか、四境戦争(第2次長州征伐)においては奇兵隊を含む長州藩の諸隊を率い、幕府軍との戦いに勝利するなど、明治維新に向けて大きな功績をあげた人ですが、肺結核に倒れ、下関市内で療養生活を送るも、慶応3年(1867年)4月13日に27歳の若さで世を去りました。
下関市内には、奇兵隊結成の地、晋作の療養の地や終焉の地などの史跡のほか、晋作の発議により国のために亡くなった人たちを祀る桜山招魂場があります。
戦死した兵士を一人一人「神」として祀る「招魂場」の発想は、後に東京の靖国神社へと受け継がれていったとのことで、幕末に興味がある方は、訪れてみてはいかがでしょうか。
写真: 高杉晋作の銅像
写真: 桜山招魂場 中央に吉田松陰、その左右に高杉晋作と久坂玄瑞の霊標

グルメと観光
〔グルメ〕
歴史の話を一旦離れ、下関のグルメについても紹介させて頂きます。
下関の鉄板グルメ、「ふぐ」の話は、これまでも多くの方が紹介されていますので、今回は「くじら」と「あんこう」を紹介させて頂きます。
山口県では明治維新の前から近海捕鯨を行い鯨食文化があったところ、欧米諸国が日本近海でも近代捕鯨を始めたのを見て、日本にも近代捕鯨が導入され、下関を基地として捕鯨が発展したところですが、1986年に商業捕鯨が禁止されたことから、捕鯨産業に大きな痛手となりました。
しかし、令和元年7月から商業捕鯨が再開され、その商業捕鯨を担う母船式捕鯨船団の基地が下関に置かれていることなどもあり、鯨は下関市民にとって身近な食べ物で、スーパーの店頭に並んだり、学校給食にも出されるほか、下関市内には多くのクジラ料理店があって、名物となっているところです。
また、下関は「あんこう」の水揚げ量も日本一を誇ります。
現在、山口県が「下関沖合底びき網漁業ブランド化協議会」を設立し、あんこうのブランド化に取り組んでいるところですが、あんこうは、ほとんど捨てるところのない魚で、「身、皮、肝、胃、エラ、卵巣、トモ(ヒレ)」をあんこうの七つ道具と呼び、部位によって違う味と食感が楽しめる魚です。
しかもコラーゲンたっぷりなのに低カロリー。特に肝(アンキモ)はビタミンA、B12、D、DHAなど豊富な栄養を含んでおり、見た目と食感から「海のフォアグラ」ともいわれており、これも市内の飲食店で食べることができます。
もし下関に来られることがありましたら、「ふぐ」、「くじら」、「あんこう」をお召し上がりになってはいかがでしょうか。
写真: 見た目も美しい「ふぐ刺し」
写真: 色鮮やかな「くじらの刺身」
写真: 定番の「あんこう鍋」

〔観光〕
下関で観光といえば、温泉があります。
山口県で温泉のイメージは、あまりないかと思いますが、下関の周辺には川棚温泉や一の俣温泉、萩出張所の管轄である長門市では、長門湯本温泉や俵山温泉といった古くからの湯治場の流れを汲む温泉地があります。
下関税関支署最寄りの川棚温泉は、その歴史が800年以上とされ、泉質はナトリウム・カルシウム塩化合物泉で、弱アルカリ性の泉質は古い角質の新陳代謝を促し、すべすべのお肌に導くことから「美人の湯」と呼ばれており、乾燥肌、抹消循環障害・冷え性が気になる方にもお薦めです。
また、下関のソウルフード「瓦そば」も川棚温泉の名物料理です。
もう一つ観光の有名どころとしては、「角島(つのしま)大橋」でしょうか。
平成12年に総工費149億円、7年の工期を費やして完成した橋は、全長1,780メートルの大部分がエメラルドグリーンの海上に架橋されており、テレビコマーシャル等にもよく出ておりますし、映える写真が撮れるポイントとして観光客にも人気です。
前述の川棚の温泉、瓦そばと角島大橋をセットで回れば、よいドライブコースになります。
写真: 熱した瓦に盛られた名物「瓦そば」
写真: 角島大橋の眺望

終わりに
~交流が生まれ、現在から未来へ
幕末から明治維新を経て、明治38年(1905年)9月11日、日本の山陽線と韓国の京釜線の間をつなぐため、関釜連絡船が下関に誕生しました。
関釜連絡船の第1船、「壹岐丸」は、総トン数1,680トン、速力14.9ノットで、わが国初の大型連絡船として世にデビューしたそうです。
関釜連絡船はその後も発展を続け、船も大きく、隻数も増えていきましたが、第2次世界大戦の戦火に晒され、大きな被害を受けました。
戦後は、外地からの引揚げ輸送に活用されていましたが、韓国との国交が断絶していたことから、関釜連絡船は、一度姿を消すこととなりました。
その後しばらくは、日本と韓国を往来する定期船が無い状況が続きましたが、日韓の国交正常化が進むにつれて、航路開設の機運が高まっていき、下関、釜山両市の度重なる折衝の結果、昭和45年6月に、我が国初の国際カーフェリーとして「フェリー関釜」が就航し、関釜連絡船の閉航から25年ぶりに下関と釜山を結ぶ定期航路が復活しました。
復活した関釜フェリーも代替わりし、今は関釜フェリー株式会社の「はまゆう」と釜関フェリー株式会社の「星希(ソンヒ)」の2隻体制で、毎日、日本と韓国をつないでいます。
現在は、下関と中国太倉港を結ぶRORO船「UTOPIA(ユートピア)」も就航しているほか、平成21年には、下関市の玄界灘側の沖合に国際物流拠点となる人工島「長州出島」が整備され、コロナ禍以前は長州出島にも大型クルーズ船が入港するなど、韓国との間で始まった国際交流は、さらに広がりを見せています。
間もなく「コロナ禍」と言われる状況も落ち着いてくるのではと思うところ、今後も下関を起点とする国際交流が、未来に向けてさらに発展していくことでしょう。
私たち下関税関支署も、当地における貿易・経済の発展の一助となるべく、地域に根ざした組織として役割をはたしてまいります。
写真: 関釜フェリー「はまゆう」
写真: ●長州出島に接岸するクルーズ船
(●印写真提供:下関市)