講師 清家 篤 氏(日本赤十字社社長・慶應義塾学事顧問)
演題 支え手を増やす社会保障制度に
令和5年1月16日(月)開催
1.社会保障制度改革の背景
(1)世界に類を見ない高齢化
清家でございます。よろしくお願いいたします。
現在、日本で進められている社会保障制度改革の背景にあるのは、日本の経験しつつある世界に類を見ない高齢化です。
日本の高齢人口比率は既に世界で最も高く、直近ですと人口比で29%ほどになっています。2040年になると35%を超え、2060年には40%程度にまで高齢化は進むと予測されております。この「高齢化の水準の高さ」が、日本の高齢化の一つ目の特徴です。
二つ目の特徴は「高齢化のスピードの速さ」です。高齢人口比率が7%から14%になるまでに日本は1970年から1994年まで24年間でした。しかしフランスでは114年かかっています。フランスなどに比べると日本の高齢化のスピードは4倍から5倍の速さです。
三つ目の特徴は「高齢者の中でもより高齢な人の割合の増加」です。65歳以上の人口の中で比較的若い65歳から74歳の人口を1とした時、より高齢の75歳以上の人口の比率を見ると、2015年にはほぼ1:1だったのが、団塊の世代がすべて75歳以上になる2025年には1:1.5、2060年には1:2と、とてもトップヘビーな構造になっていきます。
(2)二つの団塊世代問題
日本の人口構造上、特に顕著な特徴として、二つの団塊の世代の問題が挙げられます。
一つは「2025年問題」です。先ほど申し上げましたように、2025年には1940年代後半に生まれた団塊の世代の人たちがすべて75歳以上になり、75歳以上の人口比率は急上昇します。75歳を越えますと、有病率や要介護率が高まり、それによって社会保障給付も急増する、という問題です。
もう一つが「2040年問題」です。これは団塊ジュニア世代、すなわち1970年代前半に生まれた人たちが2040年には次々と65歳以上の高齢者になっていくということです。
また2040年過ぎは、高齢者の絶対数が4,000万人弱の水準でピークに達する時点でもあります。しかも団塊ジュニア世代の就職時期はいわゆる「就職氷河期」と呼ばれるほど厳しい時期であったことから、40歳代となった現在も非正規雇用の人たちが比較的多く、団塊世代よりも貧しい状態で高齢期に入る人も多くなるのではないかと予想されております。
(3)21世紀に入って本格化した改革
こうしたことを踏まえて、高齢化の下で日本の社会保障制度を持続可能なものにしていくために、これまでも社会保障改革を考えるいくつかの政府の会議体がつくられました。
今世紀に入ってからのものをご紹介しますと、2002年に小渕内閣の下で貝塚啓明先生が座長となって「社会保障構造の在り方について考える有識者会議」が開かれました。私もその末席におりましたが、そのころから政府は相当本気で社会保障構造の在り方について考え始めたのではないか、と思います。
2008年には福田康夫内閣の下で吉川洋先生が座長となって「社会保障国民会議」ができました。私はその会議の中で所得確保・保障(雇用・年金)分科会の担当しました。このときおそらく初めて具体的に社会保障の問題を給付と負担の両面から考えていく、という考え方をするようになったと思います。
2011年に民主党菅直人内閣の下で「社会保障改革に関する集中検討会議」が開かれて、与謝野馨大臣が社会保障・税一体改革大臣としてこの会議を主宰されました。社会保障に関する改革を政治家の責任で議論しようとした会議だったようにも思います。
そしてこの会議のいわば延長線上にできたのが、野田内閣の下で2012年につくられた「社会保障制度改革国民会議」だったと思います。いわゆる三党合意、すなわち当時の民主党、自民党、公明党の三党での社会保障と税の一体改革に関する合意(2012年6月)を受けて立ち上がったものです。のちに政権が交代して安倍内閣になってから2013年8月に提言を提出しました。私はこの会議の会長を仰せつかっておりました。
そのあと安倍内閣の下でこの「社会保障制度改革国民会議」の提言をもとにした改革が社会保障制度改革プログラム法として次々と実現していくことになりました。このプログラム法に基づく改革をモニタリングするという意味もあって、2014年に「社会保障制度改革推進会議」が安倍内閣の下で設けられました。
2019年には安倍内閣の下で「全世代型社会保障検討会議」が立ち上がり、これが菅内閣にも引き継がれていきました。「全世代型」という用語は、先程申し上げた「社会保障制度改革国民会議」の中で提起された概念でもあります。
そして2021年の秋に「全世代型社会保障構築会議」が岸田内閣の下で立ち上がり、2022年の暮れに報告書が提出されたところです。
私はこの「全世代型社会保障構築会議」の座長を仰せつかった時に改めて今世紀に入ってからの社会保障改革に関する会議体の議論をあらためて復習してみたのですけれども、実はその前に一つ大切な提言をまとめた報告書がありました。1995年に社会保障制度審議会の発表した平成7年勧告です。タイトルは「安心して暮らせる21世紀社会を目指して」でした。21世紀に入ってからあらゆる会議で検討された項目が、その中ですでに、ほぼ網羅されているとも言える、とても先見性に富んだ報告書だったと思います。
2.2025年問題に向けて
(1)社会保障と税の一体改革
先ほど申し上げた「2025年問題」に対処するための社会保障制度改革を進めようとしたのがいわゆる三党合意に基づく「社会保障と税の一体改革」だったわけです。これは以下の点から、画期的なことであったと思います。
一つは消費税を上げるという形で明確に給付と負担を一体で考えたこと、もう一つは将来世代の負担を出来るだけ穏やかなものにするために、消費税増税分も約半分は将来世代の負担を軽減するために使おうという将来世代への配慮を強く示したこと、そしてもう一つが、社会保障制度については、責任ある政党間ではそれを政争の具にはしないで、持続可能で国民の生活をしっかり守れるような建設的な改革を行っていく、という政治合意がなされたこと、です。
こうした流れの中で「社会保障制度改革国民会議」では議論を行って、提言をまとめました。
(2)「社会保障制度改革国民会議」報告
この報告のいくつかのポイントを申し上げます。
(a)少子化対策、子育て支援
「社会保障制度改革国民会議」は社会保障制度の年金・医療・介護・子育て支援(当時の言葉では少子化対策)の4つの分野について検討するというミッションを与えられていましたが、報告書ではあえて「少子化対策、子育て支援が社会保障制度改革の一丁目一番地である」と書きました。そのために消費税の増税分のうち少なくとも0.7兆円を少子化対策、子育て支援の充実のために充当し、さらにこのほか0.3兆円について別途財源を確保して、合計1兆円規模で少子化対策の充実を図る、という提言をしました。
(b)年金
年金については、基礎年金の2分の1を公費負担にするということ、これは以前からそのようにすべしと言われていたことですが、ここは消費税増税分を使って賄うことを提言いたしました。
もう一つはマクロ経済スライド制が2004年の改革で導入されましたが、これをデフレ下においても実施されるようにすることを提言いたしました。
(c)医療・介護
それから医療と介護を一体と考えて、医療・介護の提供体制の改革として、いわゆる病院完結型の医療から地域完結型の医療に転換していくという提言をしております。
特に医療保険制度について、国民健康保険の保険者を従来の市町村から、病床をコントロールする権限を持っている都道府県に変更することとし、これによって都道府県に医療提供体制改革の主役を担ってもらうこととしました。
それから、医療費の財源については、保険料の総報酬割、すなわち被用者保険の保険料の算出に当たっていわゆる総報酬に対して保険料を課すことに改めるという提言をいたしました。
(3)年金◎、子育て支援○少子化対策△、
医療財源○提供体制△
これらの提言の実現具合を、まだ進行中のものもありますが、振り返ってみます。
年金については基礎年金の財源の2分の1公費負担は実現しましたし、まだ必ずしも十分ではないですが、マクロ経済スライドもきちんと実行されるようになってきたことから、年金についての提言はかなり実現したのではないかと思います。
子育て支援については、待機児童ゼロであるとか幼児教育無償化といった点ではかなり進んだと思います。一方で少子化対策という観点からはどうだったかというと、もともと目標が当時の希望出生率1.8を回復するというところにあったわけですが、そこには全然届いておりませんし、むしろこの3年ほどのパンデミックの影響で出生率が低下してしまっていることもあり、少子化対策は残念ながらまだ十分に結果をだしておらず、これからの最大の緊急課題として進めていかなければいけないと思います。
医療の財源については、保険料の総報酬割は実現し、また高齢者医療の窓口負担の引き上げも菅政権の下で一昨年にある程度前進しました。
医療の提供体制について、病院中心型の医療から地域中心型の医療への転換はまだ道半ばです。むしろこの3年ほどの間にそれの進んでいないことによる問題もずいぶん顕在化してしまったというようなこともありました。
(4)当面の課題
当面の課題、つまり「2025年問題」に対する当面の課題としては、少子化対策をさらに進めることと医療・介護の提供体制改革をさらに進めていく、特に地域包括ケアの実現をしっかりと図っていくということです。子育て支援、少子化対策はこの10年ぐらいが最後のチャンスであると考えて取り組む必要があると思います。この3年ほどの間に問題の顕在化した医療・介護の提供体制の見直しについても、しっかりと進めていかなければならないと思います。
3.2040年問題に向けて
(1)社会保障給付の増加
次に「2040年問題」への対応です。2040年には先ほども申し上げたように、これからの75歳以上の人口比率の増加もあり、社会保障給付は大幅に増えていくと見込まれております。
この図 社会保障給付費の将来見通し(資料出所:厚生労働省)はしばらく前の厚生労働省の推計です。社会保障給付の名目値が記載されておりますが、社会保障給付を考える場合、実質で考えるべきなので、対GDP比で見ると2018年度には21.5%と、GDPの5分の1強だったものが、2040年度には対GDP比24%と、GDPの4分の1弱にまで増えていくと予測されています。
2040年度以降は高齢者の絶対数そのものが次第に減っていきますので、その増加はよりマイルドになっていくことも予想されるわけですけれども、少なくとも2040年あたりまで考えるとかなり厳しい状況となると思います。
(2)アンバランスな給付
ただ、社会保障給付は全体として伸びると言っても、必ずしも一様ではありません。
まずあらためて指摘しておきたいのは子育て支援にかかわる給付がいずれにしてもとても少ないということです。GDP比で2018年度でも子育て支援の給付は1.4%程度、2040年度でも、これから改革が進めばもっと増えるかもしれませんが、1.7%程度にとどまっております。これに対して、年金、医療、介護といういわゆる高齢3経費は圧倒的に多いわけです。
同時に年金、医療、介護の間でも伸び方は大きく異なります。つまり、年金と医療・介護は全く別だということです。年金は確かに名目額では増えますが、対GDP比でみると2018年度に10.1%だったのが、マクロ経済スライドがきちんと機能すれば、2040年度には9.3%と、微減すると予測されています。これに対して医療・介護はずっと増えていきまして、医療はGDP比で2018年度の7%ほどから2040年度には8.7%に、介護に至っては2018年度の1.9%から3.3%へと大きく増えていくわけです。
これは75歳以上という有病率、要介護率の高い人たちの比重増加、それから医療については質の高い、より良い薬や医療機器が開発されるということで、これは良いことではありますけれども質の向上によっても医療費は高くなっていくことは避けられません。
(3)負担増だけで凌げるか
人口が減っていく中で、こうした社会保障給付の増加をどのようにファイナンスしていくのかが問題になってくるわけです。
もちろん人口が減っても税率や社会保険料率を引き上げるという形で財源を確保することは可能なわけですけれども、それらをあまり高めていけば、支え手となる人たちの生活水準が低下してしまうので、これには限度があるわけです。
4.2040年に向けての最大の課題は労働力
(1)大幅な労働人口減
そのように考えると、人口が減っていく中で、できるだけ社会保障制度を支える支え手の労働力を確保していくことが重要になってくるわけです。
人口が減っても支え手は減らないような工夫を可能な限りしていくことで、社会保障の持続可能性を高めていくということです。
厚生労働省雇用政策研究会推計の労働力人口の見通しによると、これから労働力人口を増やす手立てを何も講じない場合、今の労働力参加率を前提にすると、2017年には6,720万人いた労働力人口は、2040年には5,460万人へ、すなわち5,500万人を割り込んでしまうところまで減ってしまうことになります。
労働力人口が減ると、一つには生産が減る可能性があります。国内の生産=国内でモノやサービスを生産する労働者の数×労働者一人当たりの労働時間×労働時間1時間当たりの付加価値生産性と定義されますが、労働時間はもう増やせない、むしろもっと減らしていかなければいけない。そうなると、労働力人口が減る分を埋め合わせるだけ時間当たりの付加価値生産性を相当に引き上げない限り生産が減ってしまう、つまりマクロ経済の供給面で成長が制約されることになります。
もう一つは労働者の数が減ると、一人当たりの賃金がそれを埋め合わせるだけ上昇しない限り、雇用者所得の総額も減っていく。それに伴って消費性向が変わらなければ消費の総額も減っていく。すなわちマクロ経済の需要面でも成長が制約されることになるのです。
そして社会保障制度の中核をなしている社会保険、特に被用者保険については、働いている人とその雇い主が折半して社会保険料を負担しているわけですから、労働者の数が減ると、保険料率一定なら社会保障の財源も細ってしまうことになります。
「2025年問題」は、消費税を10%に引き上げ、それを前提として改革を進めていくことによって何とか乗り切れるかもしれません。しかし「2040年問題」は今申し上げたような労働力人口の減少を前提とすると、社会保障制度を財源面で持続させることは難しくなります。さらにそれは医療や介護のサービスの提供という面でも持続可能性を低下させてしまうかもしれないという問題もあるわけです。
(2)労働力人口増の余地:女性、高齢者の就労
そこで考えられるのが、かりに人口が減ったとしても労働力率、すなわち働く意志のある人たちの比率を高めることができれば労働力人口はそんなに減らさないで済むのではないかというシナリオです。労働力人口=15歳以上の人口×労働力率で定義されますので、労働力率を高めていくことで、人口が減っても労働力人口をある程度維持することはできるのです。そのためには現在まだ労働力率が100%ちかくまでにはなっていない女性と高齢者の労働力率を高めることが課題になってきます。
30代の女性の場合、労働力率は今75%くらいですが、これを2040年には90%前後まで高めていく。そして高齢者、例えば男性の60代前半というのは高齢者になる直前ですが、労働力率は80%くらいですが、これを90%くらいまで高める。あるいは60代後半の男性でも労働力率を今50%台半ばくらいから、70%くらいにまで高める。そのように女性、高齢層の労働力率を高める方策を講じることによって、何もしなければ2040年に5,500万人を割ってしまうおそれのある労働力人口を2040年に6,195万人、ほぼ6,200万人規模で維持することも可能だというシナリオです。もちろんそれはたやすいことではありませんが、このくらいの労働力人口を維持できれば、着実に付加価値生産性を高めていくことによって、生産も維持できるかもしれないし、さらに付加価値生産性の向上分をきちんと賃金上昇分に振り分けることができれば、雇用者所得も維持できるかもしれない。したがって、社会保障制度の持続可能性を維持することができるかもしれないわけです。
ここで注意していただきたいのは、いま「労働力人口」という概念を繰り返し申し上げていることです。よく「生産年齢人口」という言葉が使われます。これは15歳から64歳までの人口を生産年齢人口と言って、この人口を日本の経済社会を支える人口だと考え、そしてその人たち何人で65歳以上の人口何人を支えるのか、という説明をされたりするのですが、労働経済学の視点から言うと、生産年齢人口という用語はそろそろ使わないようにしていただきたいと思います。というのは、直近でも65歳以上で労働力として社会を支えている人は900万人以上います。つまり65歳以上の人たちでも900万人以上が日本の経済社会の支え手になっているのです。
一方で15歳から20歳くらいまでの人口はほとんど学校に通っており、アルバイトはしている人はいても経済社会の支え手と言うのは無理です。そういう意味で正確な支え手の指標は生産年齢人口ではなく、労働力人口だということになるのです。
この労働力人口を維持していくためには、女性と高齢者の労働力率を高めていく必要があります。
(3)女性の就労促進
先ず女性については、女性が子育てをしながら仕事を続けることのできるような仕組み、環境を整備していくことが必要です。実はそういう環境は徐々に整備されつつありまして、いわゆる女性の労働力率のM字カーブ、つまり30代になると労働力率が75%くらいに下がるのですが、実はこの75%というのも少しずつ上がってきた結果でして、M字カーブの底はだんだん埋まってきてはいるのです。これをさらに引き上げていく。そのために、待機児童ゼロというような子育て支援をもっと強化していく。同時に、子育てと両立できるような働き方という意味では長時間労働を是正していく、あるいは柔軟な働き方を可能にするような、子育てと両立する働き方改革を進めていくことも大切になります。
また女性の介護離職を防ぐためにも介護サービスを充実していくことは大切です。
(4)高齢者の就労促進
次に高齢者の就労についてです。日本の高齢者の就労意欲は、国際的に見てもともと高いのですが、それを更に高めていくような方向に社会保障制度改革を進めていくことです。
高齢者の就労、雇用を促進するときにネックとなっているのは何か、あるいはどこを改善すればよいのかということについて、私と慶應義塾大学経済学部の山田篤裕教授とで行いました共同研究の結果を簡単に述べさせていただきます。60代の男性の働くか働かないかを、規定する要因について分析したものです。高齢者の就労行動に決定的な影響を与えている変数はいくつかあります。
最も影響の大きなものは健康です。健康に何か問題のある場合は、60代の男性で働き続ける可能性が30%ポイント程度低下します。
もうひとつが定年退職制度です。定年を経験すると働き続ける確率が18%ポイント程度低下いたします。
それから年金の受給資格を得ることによって働き続ける確率が13%ポイント程度低下することも分かりました。
この分析を踏まえて、高齢者の就労を促進するために大切なことは何かというと、一つは健康寿命を延ばすことです。生活習慣病の予防であるとか、あるいは様々な予防接種等によって、特に60代後半、場合によっては70代前半まできちんと普通に働ける健康状態を維持できるような医療政策を講じることが大切になります。
それから在職老齢年金制度(年金月額と月給の合計額が一定水準を超えると年金が減額される)といったような高齢者の就労意欲を挫くような年金制度はやはり見直す必要があると思います。
同時に、これは財務省の管轄でもあるのですが、税制においては公的年等控除という制度があって、働いて勤労収入を得るよりも引退して年金をもらう方が税制上は、これは状況によっていろいろ違ってはきますが、ざっくり言うなら有利になるような仕組みもありますので、この公的年金等控除の見直しと合わせて在職老齢年金制度を見直していくというようなことが、高齢者の就労を促進するという面では大切なことになると思います。
他方で年金制度には実は就労を促進するような面もあります。繰り下げ受給といわれるものです。繰り下げ受給により給付増となりますが、在職老齢年金制度はこの繰り下げ受給の効果も減殺してしまうので、この面からも見直していく必要があると思います。
年金については、制度の財政的な持続可能性はマクロ経済スライド制による実質給付額の抑制によって実現していく一方で、個人の生活の持続可能性は繰り下げ受給による給付増で実現するという二面で持続可能性を担保するシナリオが良いのかなと思います。
もう一つ定年の影響ですが、これがやはり定年の年齢を少なくとも65歳には引き上げていく。さらに言えば、65歳以上も様々な形で雇用を継続できるようにする。それと同時に年功賃金についても、より傾斜を緩やかにしていくことを一体的に改革していくことになると思います。
5.成長の基盤としての社会保障給付
(1)給付は消費下支え
このように社会保障給付は、その制度の支え手を増やすことに役立ちます。同時に、そもそも年金所得などは高齢期の消費の下支えともなります。また医療や介護あるいは保育というのはそれ自体公的なサービスの消費となるわけですから、マクロ経済の上では需要面での消費の下支えにもなるわけです。
(2)給付は投資
一方で、マクロ経済の供給力、生産面でいえば、子育て支援や健康増進あるいは介護の充実といったものは、女性や高齢者といった、支え手の側で労働力率を引き上げる余地のある人口グループの労働力化を進めることにも寄与しうるわけです。
さらに勤労者皆保険化を全世代型社会保障改革で進めようとしています。これは、すべての人が、特に被用者が被用者保険に加入できるようになることで、将来に不安なく就労生活を送るようになれば、消費の増加にもつながるでしょう。
6.社会保障制度改革への思い
(1)想定内の予測である高齢化
最後に、社会保障制度改革について、私自身は今どんな思いを抱いているのか、ということを申し上げたいと思います。
冒頭に申しましたように社会保障制度改革を進めなければならない最大の背景要因は少子高齢化です。もちろん少子高齢化も完全に予測することはできませんけれども、他の経済変数に比べればずっと予測可能です。従って、それに対応して準備も可能だということです。将来世代への責任として、しっかりと予測可能な高齢化に対応して必要となる社会保障制度改革を今の世代で進めることは大切なことだと思います。
(2)均衡点を見つける
最近よくEBPM(Evidence-Based Policy Making:証拠に基づく政策立案)のことが言われますが、まさに社会保障制度改革というものはいろいろな面でシミュレーション可能な分野です。社会保障の現状を説明する経済モデルというのは既に相当蓄積されており、それを前提に例えば人口予測といった変数を入れてシミュレーションすることは可能です。そういう面ではEBPMをしやすい分野です。
それから解決策の範囲は比較的明快です。年金についても、例えば積立方式はもう難しいだろうということはようやく、大方の合意を得られつつあります。そういう面では賦課方式の年金制度の下でいかに公的年金の持続可能性を高めていくのか、という範囲の中で改革を進めなければならない、といった意味で、進めやすい改革だと思います。
その時に難しいのは、様々なトレードオフの均衡点を見つけていくことだと思います。例えば給付と負担のバランスは、つねに基本的な問題となるわけです。「支え、支えられる」というこの給付と負担のバランスをどのように考えるかです。
また制度には二面性があります。例えば社会保険の「社会」と「保険」の両面です。「社会」ですから負担はやはり応能負担、所得に応じて負担してもらう。しかし同時に、これは「保険」でもあるので、リスクの生じた場合には同じ給付が受けられなければおかしいわけです。応能負担、同一給付ということです。リスク発生時に、たまたま所得が高かったから給付が少ないとなると、保険という制度からするとおかしいわけです。社会保険に象徴的に現れる制度の二面性をどう考えるかです。
このことは包摂性と再分配ということのトレード・オフでもあります。つまり社会保険制度にできるだけ多くの人に入ってもらうという包摂性の原則から考えると、貧しい人も豊かな人も皆参加してもらうべきです。しかし一方では社会保険制度にも再分配機能というのはあるわけで、豊かな人から貧しい人に所得移転する。これを応能負担という部分でそれを実現するのは良いことなのですが、しかし給付も所得水準に応じてということになると、所得の高い人にとってはそういう制度に参加するメリットはあまりないことになります。ですから所得の高い人にも低い人にもみんなに歓迎してもらえるよう、制度の包摂性と再分配機能のバランスをどうとるのか、ということも大きな課題になるのです。
もちろんバランスという面でいえば、世代間のバランスをどうとるかも大きな論点となります。そして「全世代型社会保障構築会議」の報告書の中で書かせていただきましたが、「全世代」には、当然ですが「将来世代」も含みます。将来世代も含めて世代間の公平性をどう考えていくか。
そのように考えると、やはり社会保障制度改革というのは、社会保障と税の一体改革でなければ本当の改革にはならないのではないか、とも思います。
(3)福澤諭吉からの示唆
最後に社会保障制度改革を考える際に私の母校である慶應義塾の創設者、福澤諭吉の言葉はなかなか味わい深いと思いますので、ご紹介させていただきます。
(a)「主客」
福澤は「学問のすゝめ」第七編で「国民というのは国の法律を守って国の中でその仕組みの中で生活する、という国の客としての役割もある一方で、同時に国民はその法律も含め国の仕組みをどうするかを決める主体であり、そういう面では国の主人でもある」ということを言っております。
福澤の「主客」という観点、国民は社会保障の客でもあり、主人でもあるのだということを国民一人一人自覚することはとても大切だと思います。
(b)公智
また福澤は「文明論之概略」の中で「智」というものを、ものごとを正確に理解できるという意味の「私智」と、大切なものは何かを分別することのできるという意味の「公智」の二つに分け、両方とも大事だけれども何よりも大事なのは「公智」であると言っています。社会保障制度改革を考える際にも、より大切なものは何かを判断する「公智」はとても大切です。
(c)奴雁
社会保障制度は人生の長い期間にわたって人の生活に影響を与えるものですから、将来時点、例えば少なくとも2040年あたりから逆算してあるべき姿を考えなければならないものでして、そのことを福澤の言葉で表すと「奴雁」となります。
雁の群れが一心に餌をついばんでいる時に一羽だけ首を上げて、不意の難に備えて番をする雁がいて、これを「奴雁」と言うそうです。福澤は「学者は国の奴雁なり」と言っております。それはいわゆる「学者」だけでなく、およそ政策を考えるような者は奴雁の役割を果たすべきだという意味だと思います。世の中がその時々のことに夢中になっている時に、過去の歴史を顧み、今の状況をよく分析したうえで将来を予測し、将来のために今何をしなければいけないのかを考える、という役割です。それは熱狂を排して醒めた目で物事を見るということの大切さでもあります。
(d)実学
そしてその際の思考のベースになるのが実証分析です。福澤はそれを「実学」といっております。
空理空論ではなくて、実証に基づいた学問によって長期的な視野に立ってより大切なものは何かを示し、それを最終的には国民の判断で決めていきましょう、ということ。社会保障制度改革においては大切なのはこれではないでしょうか。
ご清聴ありがとうございました。
(以上)
講師略歴
清家 篤(せいけ あつし)
日本赤十字社社長・慶應義塾学事顧問
1978年慶應義塾大学経済学部卒業、1980年慶應義塾大学商学部助手、1985年同助教授を経て、1992年より同教授。2007年より商学部長、2009年5月から2017年5月まで慶應義塾長(慶應義塾理事長、慶應義塾大学学長)、2017年慶應義塾学事顧問、2020年慶應義塾大学名誉教授。2018年4月から2022年6月まで日本私立学校振興・共済事業団理事長。2022年7月より現職。
政府や学会、国際機関等において社会保障制度改革国民会議会長、日本私立大学連盟会長、日本労務学会会長、ILO仕事の未来世界委員会委員などを歴任。現在、全国社会福祉協議会会長、内閣府経済社会総合研究所名誉所長、労働政策審議会会長、全世代型社会保障構築会議座長などを兼務している。