第38回 「岡山県岡山市」
水辺と街路の1kmスクエアまちづくり
岡山駅から駅前通り「桃太郎大通り」を岡山城に向かって歩くと、市街を南北に貫く西川緑道公園の緑が目に入る(図1. 西川緑道公園)。慶長年間に開削された農業用水の両岸を公園化したものだ。この水路が城下町の外縁である。さらに進むと「柳川ロータリー」にあたる。交差する幅36m道路は岡山城の外堀があった道だ。明治時代に堀を埋め立て水路にしたが、その両岸の道に柳並木があったことにちなみ柳川筋という。今は水路の代わりに路面電車の線路が走る。岡山城は旭川を背にして片側に構築された梯郭(ていかく)式の城郭で、要するに柳川筋と旭川に囲まれた部分が岡山城の総体である。城内を西国街道が貫き、その沿道には商家が軒を並べていた。
京橋の舟運と西大寺町
街道と舟運の時代、城下町の玄関口は京橋だった。京橋のたもとに川湊があって旭川舟運の高瀬舟が行き交っていた。岡山の内港が京橋とすれば外港は京橋から8kmほど下流の三蟠(さんばん)港である。明治36年(1903)年以降、明治43年(1910)に宇高連絡船が開通するまではこちらが高松行き連絡船の発着港だった。水深の制約はあるが京橋発着の航路もあった。
京橋の北側河岸には魚市場もあった。その他様々な物資の集積地だった京橋を中心に経済が発展した。鉄道が開通する前、明治18年(1885)の岡山県統計書によれば最高地価の場所は「西大寺町」である。西大寺町とは、西国街道を区切って付けられた町名の1つで、京橋を渡って橋本町の次の両側町である。西大寺町の次が栄町で下之町、中之町、上之町と続く。大正15年(1926)の大蔵省土地賃貸価格調査事業報告書においても最高価格は西大寺町だったことから、明治大正を通じて街の中心だったと見受けられる。
岡山で初めての銀行は京橋の河岸にでき、その後西大寺町に移転した。旧岡山藩士が中心となって旗揚げした第二十二国立銀行である。明治10年(1877)11月、その名の通り船着場で栄えた船着町で開業した。国立銀行制度の満了後に二十二銀行となる。西大寺町には明治36年(1903)に移転した。二十二銀行は地元初かつ県下最大の銀行で岡山県の金庫(指定金融機関制度の前身)も務めていた。ところが日清戦争後の不況で経営悪化し、明治34年(1901)、今のみずほ銀行の統合前3行のうち富士銀行の前身である安田銀行の傘下に入る。大正12年(1923)には安田銀行に吸収合併された。なお県外進出行で最も早いものは大阪に本店があった加島銀行である。明治26年(1893)の進出で岡山市の金庫を務めていた。後に三菱銀行岡山支店となる。
現在、岡山県を地盤とする地方銀行は中国銀行である。戦前の一県一行主義を背景とした銀行で昭和5年(1930)の設立。数ある前身行で最も古いものは、現在の高梁市で明治11年(1878)12月に設立された第八十六国立銀行である。
中国銀行の母体は大正8年(1919)9月に倉敷銀行、鴨方倉庫銀行、倉敷商業銀行、茶屋町銀行、天満屋銀行および日笠銀行の6行が合併して新設した第一合同銀行である。6行はいずれも岡山市以外に本店があったが、県域の銀行を志向していたことから合併後の本店は岡山市に置いた。初代頭取は倉敷銀行の2代頭取で、倉敷紡績や大原美術館のオーナーで知られる大原孫三郎だ。全国に比べ一足早い広域統合には、二十二銀行が安田系列になり地元資本の大手行が無くなってしまった背景があった。大阪に本店を構える進出行の攻勢も目立っていた。こうした進出行は岡山で集めた預金を大阪はじめ大都市で運用していた。
大正10年(1921)に岡山県、大正13年(1924)に岡山市の金庫を二十二銀行および加島銀行に代わって受託する。大正12年には預金量で二十二銀行を追い越しており、名実ともに岡山県および県都の地域一番行となった。大正9年(1920)に八十六銀行を吸収。さらに昭和5年(1930)12月には津山市に本店を構え県北の美作地域を地盤としていた山陽銀行と合併して中国銀行となった。本店は昭和2年(1927)に新築した第一合同銀行の本店を引き継ぎ、新銀行の初代頭取も大原孫三郎が務めた。
明治45年(1912)、岡山駅前と京橋の間に路面電車が開通。明治後期以降の銀行の行舎は、鉄路と水路のターミナルの中間点を中心に電車通りに集まった。例えば大阪本店の鴻池銀行が明治34年(1901)、山口銀行は明治43年(1910)に岡山支店を出店した。両行は合併して三和銀行となる。二十二銀行は大正8年(1919)に移転してきた。
建物が現存する旧日本銀行岡山支店は大正11年(1922)竣工(図3. 旧日本銀行岡山支店(現・ルネスホール))。正面4本のコリント式オーダーと三角ペディメントが特長の古典主義建築で、本店別館はじめ日銀行舎を多数手掛けた長野宇平治(うへいじ)の設計だ。日銀が同じ通りの現在地に移転した昭和62年(1987)に改修され、「ルネスホール」となった。
下之町の賑わい
大正期までは西大寺町が岡山の中心地だったが、昭和に入ると駅に向かって中心が動いてゆく。
岡山駅の開業は明治24年(1891)3月である。神戸駅から西は私鉄「山陽鉄道」が整備していた。国鉄に移管されたのは明治39年(1906)である。
開通の次に鉄道優位のきっかけとなったのは明治43年(1910)の宇高連絡船の開通である。高松駅に向かう岡山側の連絡が三蟠港から宇野港に移った。京橋を玄関とする舟運の地位が相対的に低くなるにつれ駅前の中心性が高まった。
筆者の手元資料のうち、昭和で最も古い地価の記録は昭和35年(1960)である。当時の最高路線価地点は「下之町かめや食品店東側通」だった。下之町には地域一番店の天満屋百貨店の本店がある。天満屋は文政12年(1829)に伊原木茂兵衛が現在の岡山市東区西大寺に旗揚げした小間物店が源流だ。大正元年(1912)に岡山市に支店を開設。場所は現在地(下之町)の北側の中之町だった。大正14年(1925)、現在地に洋風木造3階建の百貨店を新築し、本店を移した。隣接するバスターミナルは昭和24年(1949)の開業。現在は本店の東隣だが、当初は増築前の本店の北隣つまり現店舗の北側にあった。大阪の阪急百貨店のように鉄道駅に百貨店を併設するケースはあったが、百貨店にバスターミナルを併設するケースは本邦初だ。
下之町を中心に上之町、中之町から栄町、その南の千日前まで南北1kmに渡って岡山を代表する商店街として賑わった。西大寺町を含め「表町」と称される。
新幹線の開通と駅前の発展
さて、下之町が最高路線価地点だったのは昭和36年までで、その翌年の昭和37年(1962)には「上石井岡山会館駅側通」に移った。
岡山会館は戦後復興の駅前開発の一環として、岡山県や岡山市も出資する第三セクターの株式会社岡山会館が整備したビルである。昭和36年(1961)の竣工なのでその翌年に最高路線価地点が駅前に移動したことになる。当時は西日本随一のマンモスビルと呼ばれた。最高路線価地点は昭和44年(1969)に「駅前町1丁目花月堂前通り」となる。岡山会館の1筋裏手の岡山駅前商店街の入り口があるところだ。
駅前の商業拠点性が高まったのは、昭和47年(1972)の山陽新幹線の新大阪-岡山間の開通がきっかけである。その翌年5月に岡山高島屋、2年後の8月に駅前地下街の岡山一番街が開業した。そして昭和50年(1975)、最高路線価地点が桃太郎通りを挟んで北側から高島屋のある南側、「本町土井原ビル駅前通り」に移った。昭和53年(1978)11月には岡山会館の東に地上7階建の再開発ビル「ドレミの街」が竣工。核店舗としてダイエー岡山店が開店した。平成17年(2005)に撤退し現在はICOTNICOT(イコットニコット)になっている。ダイエーは柳川店、駅前店に続く岡山市内3店舗目だった。昭和54年(1979)には、ニチイおよびビブレの岡山店が開店した。いずれも同じ会社の別業態であり、その後岡山ビブレのA館とB館になる。ビブレ開店の翌年にはダイエー駅前店が若者向けのZAP(ザップ)に業態転換。その後OPAに転換するなど駅前は次第に若者向けの街のようになってきた。
以来、現在に至るまで駅前が最高路線価地点であるが、この10年で岡山の商業勢力図は大きく変わった。最大の要因が平成26年(2014)12月にオープンしたイオンモール岡山である(図4. イオンモール岡山)。地上8階、地下2階の都市型モールで、それまでは主に郊外に出店していたイオンモールにとって初めての駅前立地だった。商業施設面積92,000m2の巨艦店で市街図(図1)のシルエットからもその大きさが見て取れる。一時代を築いたダイエー、ビブレ、OPAは既になく、駅前の顔触れが変わった。人の流れもイオンモールに吸引される形で大きく変わった。それまでも駅前が一大商業集積地だったが、その傾向が一層強まった。
折からの郊外化とあいまって下之町を中心とする表町の商業集積は劣勢を余儀なくされる。アーケードの南側や西大寺町はシャッターを閉めたままの店も増えてきた。ハイクラス需要はともかく若者やファミリー層の流出が目立ち、昨年(令和4年)は天満屋向かいの岡山LOTS(ロッツ)が閉店した。昭和44年(1969)に開店したイズミ岡山店が前身で、昭和50年(1975)の移転に伴いファッションビルのfitz(フィッツ)になった。平成12年(2000)に天満屋が出資しロッツとなっていた。
人と緑の都心1kmスクエア構想
他方で再生の兆しもある。その基盤となるのが居住人口の増加だ。中心市街地「重点エリア」の人口は、平成12年(2000)を底に増加に転じ、令和2年10月で29,204人となった。マンション住民を中心に20年で4割増えたことになる。新旧の住民が「住まう街」として再生が進んだ。歩いて楽しい街として着眼されたのは街路だ。まずは冒頭紹介した西川緑道公園が縦軸となる。これに交差する横軸が「ハレまち通り」だ。令和4年3月、県庁通りのうち市役所筋から柳川筋までの約600mの区間につけられた愛称である。元々2車線だったが社会実験を経て1車線に減幅され、代わりに歩道が拡がった。駅前のイオンモールとクレド岡山を玄関口とする表町エリアを結ぶ導線の意味を持つ。
表町は南北1kmのアーケードの南端に拠点施設を構え、南北の両端に集客装置を置く布陣とした。北は平成3年(1991)に竣工した再開発ビル「岡山シンフォニービル」である。ここには2,000席の大ホールを擁する岡山シンフォニーホールがある。南の再開発ビルが「ハレミライ千日前」である。ホール棟と高層棟が並びその間は大屋根で覆われた千日前スクエアで繋がれる。市民会館の後継となるホールは岡山芸術創造劇場「ハレノワ」といい、1,753席を備えた「大劇場」の他3つの劇場を擁する。シンフォニーホールがクラシックコンサートに強みを持つのに対し、ハレノワは舞台芸術やミュージカルでの活用が想定されている。今年2月に竣工済みで9月にグランドオープンの予定だ。20階建の高層棟は7階までオフィス床、8階以上が分譲マンションとなる。
岡山のまちづくりの原点に立ち返ると、平成7年(1995)に岡山商工会議所が出版した「人と緑の都心1kmスクエア構想」に行き着く。桃太郎大通り、市役所筋、城下筋、岡山児島線に囲まれた地域を1km四方の正方形に見立て、4つの角に拠点を設け賑わいの核とするとともに、この内側の居住機能を充実させる構想だ。その後何度か提言が出され直近は令和3年の『日本一住みたい「ウェルビーイングな都市(まち)」おかやまへ』だが、1kmスクエアの基本は一貫している。
地元百貨店がまちづくりに一役買っていることも目を見張る。天満屋はアーケード商店街の空き店舗を自店に組み込み、百貨店の別館として再生するなど賑わいの維持に尽力している。令和4年3月時点の岡山市の大規模小売店舗一覧表をみると、店舗面積ベースで天満屋グループが約半分。店舗面積の上位10店のうち、5位と9位に天満屋グループのGMSのハピータウンがある。郊外大型店の進出が地方百貨店の経営に影響を及ぼすケースが多々見られるが、天満屋の場合は早い時期から郊外大型店への多角化を進めてきた。
平成30年(2018)、かつて川湊だった京橋のたもとに舟運が復活した。運航会社の岡山京橋クルーズは天満屋と岡山市表町商店街連盟の共同出資で設立したものだ。瀬戸内国際芸術祭の開催期間には定期便を周航して話題となった。50余年ぶりに京橋港が復活した形だ。岡山城を求心点とした舟運と街道の時代の街の風景が、水辺と街路の再建とともに蘇りつつある。
プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。近著に「公民連携パークマネジメント:人を集め都市の価値を高める仕組み」(学芸出版社)
図2 市街図
水辺と街路の1kmスクエアまちづくり
岡山駅から駅前通り「桃太郎大通り」を岡山城に向かって歩くと、市街を南北に貫く西川緑道公園の緑が目に入る(図1. 西川緑道公園)。慶長年間に開削された農業用水の両岸を公園化したものだ。この水路が城下町の外縁である。さらに進むと「柳川ロータリー」にあたる。交差する幅36m道路は岡山城の外堀があった道だ。明治時代に堀を埋め立て水路にしたが、その両岸の道に柳並木があったことにちなみ柳川筋という。今は水路の代わりに路面電車の線路が走る。岡山城は旭川を背にして片側に構築された梯郭(ていかく)式の城郭で、要するに柳川筋と旭川に囲まれた部分が岡山城の総体である。城内を西国街道が貫き、その沿道には商家が軒を並べていた。
京橋の舟運と西大寺町
街道と舟運の時代、城下町の玄関口は京橋だった。京橋のたもとに川湊があって旭川舟運の高瀬舟が行き交っていた。岡山の内港が京橋とすれば外港は京橋から8kmほど下流の三蟠(さんばん)港である。明治36年(1903)年以降、明治43年(1910)に宇高連絡船が開通するまではこちらが高松行き連絡船の発着港だった。水深の制約はあるが京橋発着の航路もあった。
京橋の北側河岸には魚市場もあった。その他様々な物資の集積地だった京橋を中心に経済が発展した。鉄道が開通する前、明治18年(1885)の岡山県統計書によれば最高地価の場所は「西大寺町」である。西大寺町とは、西国街道を区切って付けられた町名の1つで、京橋を渡って橋本町の次の両側町である。西大寺町の次が栄町で下之町、中之町、上之町と続く。大正15年(1926)の大蔵省土地賃貸価格調査事業報告書においても最高価格は西大寺町だったことから、明治大正を通じて街の中心だったと見受けられる。
岡山で初めての銀行は京橋の河岸にでき、その後西大寺町に移転した。旧岡山藩士が中心となって旗揚げした第二十二国立銀行である。明治10年(1877)11月、その名の通り船着場で栄えた船着町で開業した。国立銀行制度の満了後に二十二銀行となる。西大寺町には明治36年(1903)に移転した。二十二銀行は地元初かつ県下最大の銀行で岡山県の金庫(指定金融機関制度の前身)も務めていた。ところが日清戦争後の不況で経営悪化し、明治34年(1901)、今のみずほ銀行の統合前3行のうち富士銀行の前身である安田銀行の傘下に入る。大正12年(1923)には安田銀行に吸収合併された。なお県外進出行で最も早いものは大阪に本店があった加島銀行である。明治26年(1893)の進出で岡山市の金庫を務めていた。後に三菱銀行岡山支店となる。
現在、岡山県を地盤とする地方銀行は中国銀行である。戦前の一県一行主義を背景とした銀行で昭和5年(1930)の設立。数ある前身行で最も古いものは、現在の高梁市で明治11年(1878)12月に設立された第八十六国立銀行である。
中国銀行の母体は大正8年(1919)9月に倉敷銀行、鴨方倉庫銀行、倉敷商業銀行、茶屋町銀行、天満屋銀行および日笠銀行の6行が合併して新設した第一合同銀行である。6行はいずれも岡山市以外に本店があったが、県域の銀行を志向していたことから合併後の本店は岡山市に置いた。初代頭取は倉敷銀行の2代頭取で、倉敷紡績や大原美術館のオーナーで知られる大原孫三郎だ。全国に比べ一足早い広域統合には、二十二銀行が安田系列になり地元資本の大手行が無くなってしまった背景があった。大阪に本店を構える進出行の攻勢も目立っていた。こうした進出行は岡山で集めた預金を大阪はじめ大都市で運用していた。
大正10年(1921)に岡山県、大正13年(1924)に岡山市の金庫を二十二銀行および加島銀行に代わって受託する。大正12年には預金量で二十二銀行を追い越しており、名実ともに岡山県および県都の地域一番行となった。大正9年(1920)に八十六銀行を吸収。さらに昭和5年(1930)12月には津山市に本店を構え県北の美作地域を地盤としていた山陽銀行と合併して中国銀行となった。本店は昭和2年(1927)に新築した第一合同銀行の本店を引き継ぎ、新銀行の初代頭取も大原孫三郎が務めた。
明治45年(1912)、岡山駅前と京橋の間に路面電車が開通。明治後期以降の銀行の行舎は、鉄路と水路のターミナルの中間点を中心に電車通りに集まった。例えば大阪本店の鴻池銀行が明治34年(1901)、山口銀行は明治43年(1910)に岡山支店を出店した。両行は合併して三和銀行となる。二十二銀行は大正8年(1919)に移転してきた。
建物が現存する旧日本銀行岡山支店は大正11年(1922)竣工(図3. 旧日本銀行岡山支店(現・ルネスホール))。正面4本のコリント式オーダーと三角ペディメントが特長の古典主義建築で、本店別館はじめ日銀行舎を多数手掛けた長野宇平治(うへいじ)の設計だ。日銀が同じ通りの現在地に移転した昭和62年(1987)に改修され、「ルネスホール」となった。
下之町の賑わい
大正期までは西大寺町が岡山の中心地だったが、昭和に入ると駅に向かって中心が動いてゆく。
岡山駅の開業は明治24年(1891)3月である。神戸駅から西は私鉄「山陽鉄道」が整備していた。国鉄に移管されたのは明治39年(1906)である。
開通の次に鉄道優位のきっかけとなったのは明治43年(1910)の宇高連絡船の開通である。高松駅に向かう岡山側の連絡が三蟠港から宇野港に移った。京橋を玄関とする舟運の地位が相対的に低くなるにつれ駅前の中心性が高まった。
筆者の手元資料のうち、昭和で最も古い地価の記録は昭和35年(1960)である。当時の最高路線価地点は「下之町かめや食品店東側通」だった。下之町には地域一番店の天満屋百貨店の本店がある。天満屋は文政12年(1829)に伊原木茂兵衛が現在の岡山市東区西大寺に旗揚げした小間物店が源流だ。大正元年(1912)に岡山市に支店を開設。場所は現在地(下之町)の北側の中之町だった。大正14年(1925)、現在地に洋風木造3階建の百貨店を新築し、本店を移した。隣接するバスターミナルは昭和24年(1949)の開業。現在は本店の東隣だが、当初は増築前の本店の北隣つまり現店舗の北側にあった。大阪の阪急百貨店のように鉄道駅に百貨店を併設するケースはあったが、百貨店にバスターミナルを併設するケースは本邦初だ。
下之町を中心に上之町、中之町から栄町、その南の千日前まで南北1kmに渡って岡山を代表する商店街として賑わった。西大寺町を含め「表町」と称される。
新幹線の開通と駅前の発展
さて、下之町が最高路線価地点だったのは昭和36年までで、その翌年の昭和37年(1962)には「上石井岡山会館駅側通」に移った。
岡山会館は戦後復興の駅前開発の一環として、岡山県や岡山市も出資する第三セクターの株式会社岡山会館が整備したビルである。昭和36年(1961)の竣工なのでその翌年に最高路線価地点が駅前に移動したことになる。当時は西日本随一のマンモスビルと呼ばれた。最高路線価地点は昭和44年(1969)に「駅前町1丁目花月堂前通り」となる。岡山会館の1筋裏手の岡山駅前商店街の入り口があるところだ。
駅前の商業拠点性が高まったのは、昭和47年(1972)の山陽新幹線の新大阪-岡山間の開通がきっかけである。その翌年5月に岡山高島屋、2年後の8月に駅前地下街の岡山一番街が開業した。そして昭和50年(1975)、最高路線価地点が桃太郎通りを挟んで北側から高島屋のある南側、「本町土井原ビル駅前通り」に移った。昭和53年(1978)11月には岡山会館の東に地上7階建の再開発ビル「ドレミの街」が竣工。核店舗としてダイエー岡山店が開店した。平成17年(2005)に撤退し現在はICOTNICOT(イコットニコット)になっている。ダイエーは柳川店、駅前店に続く岡山市内3店舗目だった。昭和54年(1979)には、ニチイおよびビブレの岡山店が開店した。いずれも同じ会社の別業態であり、その後岡山ビブレのA館とB館になる。ビブレ開店の翌年にはダイエー駅前店が若者向けのZAP(ザップ)に業態転換。その後OPAに転換するなど駅前は次第に若者向けの街のようになってきた。
以来、現在に至るまで駅前が最高路線価地点であるが、この10年で岡山の商業勢力図は大きく変わった。最大の要因が平成26年(2014)12月にオープンしたイオンモール岡山である(図4. イオンモール岡山)。地上8階、地下2階の都市型モールで、それまでは主に郊外に出店していたイオンモールにとって初めての駅前立地だった。商業施設面積92,000m2の巨艦店で市街図(図1)のシルエットからもその大きさが見て取れる。一時代を築いたダイエー、ビブレ、OPAは既になく、駅前の顔触れが変わった。人の流れもイオンモールに吸引される形で大きく変わった。それまでも駅前が一大商業集積地だったが、その傾向が一層強まった。
折からの郊外化とあいまって下之町を中心とする表町の商業集積は劣勢を余儀なくされる。アーケードの南側や西大寺町はシャッターを閉めたままの店も増えてきた。ハイクラス需要はともかく若者やファミリー層の流出が目立ち、昨年(令和4年)は天満屋向かいの岡山LOTS(ロッツ)が閉店した。昭和44年(1969)に開店したイズミ岡山店が前身で、昭和50年(1975)の移転に伴いファッションビルのfitz(フィッツ)になった。平成12年(2000)に天満屋が出資しロッツとなっていた。
人と緑の都心1kmスクエア構想
他方で再生の兆しもある。その基盤となるのが居住人口の増加だ。中心市街地「重点エリア」の人口は、平成12年(2000)を底に増加に転じ、令和2年10月で29,204人となった。マンション住民を中心に20年で4割増えたことになる。新旧の住民が「住まう街」として再生が進んだ。歩いて楽しい街として着眼されたのは街路だ。まずは冒頭紹介した西川緑道公園が縦軸となる。これに交差する横軸が「ハレまち通り」だ。令和4年3月、県庁通りのうち市役所筋から柳川筋までの約600mの区間につけられた愛称である。元々2車線だったが社会実験を経て1車線に減幅され、代わりに歩道が拡がった。駅前のイオンモールとクレド岡山を玄関口とする表町エリアを結ぶ導線の意味を持つ。
表町は南北1kmのアーケードの南端に拠点施設を構え、南北の両端に集客装置を置く布陣とした。北は平成3年(1991)に竣工した再開発ビル「岡山シンフォニービル」である。ここには2,000席の大ホールを擁する岡山シンフォニーホールがある。南の再開発ビルが「ハレミライ千日前」である。ホール棟と高層棟が並びその間は大屋根で覆われた千日前スクエアで繋がれる。市民会館の後継となるホールは岡山芸術創造劇場「ハレノワ」といい、1,753席を備えた「大劇場」の他3つの劇場を擁する。シンフォニーホールがクラシックコンサートに強みを持つのに対し、ハレノワは舞台芸術やミュージカルでの活用が想定されている。今年2月に竣工済みで9月にグランドオープンの予定だ。20階建の高層棟は7階までオフィス床、8階以上が分譲マンションとなる。
岡山のまちづくりの原点に立ち返ると、平成7年(1995)に岡山商工会議所が出版した「人と緑の都心1kmスクエア構想」に行き着く。桃太郎大通り、市役所筋、城下筋、岡山児島線に囲まれた地域を1km四方の正方形に見立て、4つの角に拠点を設け賑わいの核とするとともに、この内側の居住機能を充実させる構想だ。その後何度か提言が出され直近は令和3年の『日本一住みたい「ウェルビーイングな都市(まち)」おかやまへ』だが、1kmスクエアの基本は一貫している。
地元百貨店がまちづくりに一役買っていることも目を見張る。天満屋はアーケード商店街の空き店舗を自店に組み込み、百貨店の別館として再生するなど賑わいの維持に尽力している。令和4年3月時点の岡山市の大規模小売店舗一覧表をみると、店舗面積ベースで天満屋グループが約半分。店舗面積の上位10店のうち、5位と9位に天満屋グループのGMSのハピータウンがある。郊外大型店の進出が地方百貨店の経営に影響を及ぼすケースが多々見られるが、天満屋の場合は早い時期から郊外大型店への多角化を進めてきた。
平成30年(2018)、かつて川湊だった京橋のたもとに舟運が復活した。運航会社の岡山京橋クルーズは天満屋と岡山市表町商店街連盟の共同出資で設立したものだ。瀬戸内国際芸術祭の開催期間には定期便を周航して話題となった。50余年ぶりに京橋港が復活した形だ。岡山城を求心点とした舟運と街道の時代の街の風景が、水辺と街路の再建とともに蘇りつつある。
プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。近著に「公民連携パークマネジメント:人を集め都市の価値を高める仕組み」(学芸出版社)
図2 市街図