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我々の「必修科目」

日本赤十字社医療センター化学療法科部長 國頭 英夫


私は肺癌治療が専門ですが、医学系出版社からは、生物統計学やコミュニケーション論に関する本を出してきました。いわば「素人芸」ですが、それは必須の「芸」なのです。
医者が患者さんを診るにあたって、いくつか「必修科目」があります。一つは生物統計(科学的推論)で、我々の医療行為の根拠となるデータは科学的に適切なのか、を知らずして正しい診療は不可能です。例えば3年前にパンデミックが発生した時に、「アビガン」という薬について、有効性を示すまともなデータはないのに、「どこかの誰かが飲んで、効いたそうだ」なんて噂話レベルを基に、日本中が「早期承認すべし」の大合唱でした。今やあの薬は話題にもなりません。
また、癌に限らず、患者さんは一定の割合で必ず亡くなります。私は、自らが治療した患者さんの人生の終わりを見届け、不要な苦痛がないように取り計らうのは当然の義務だと考えています。その際、患者さんやご家族と「話」ができないと、それこそ話になりません。ですからコミュニケーションもまた「必修科目」です。
このような「必修科目」を、現代の医療は「専門科目」にしてしまって、一般の医者は「自分たちの仕事ではない」と「専門家」に丸投げしているのではないか、というのが私の抱く危機意識です。その結果、医学は、もしくは医療はどんどん断片化して、我々は人間を相手にするのではなくデータの切れっ端と悪戦苦闘しているようです。
そして私は今年、次なる「素人芸」として、医療経済に関する著書を出します。これこそ、臨床医が「自分たちには関係ない;専門家に任せておくべきだ」と、ずっと忌避していた領域です。確かに、薬の値段は指数関数的に高くなっても、高額療養費制度によって、患者さんの負担は変わりません。ならば我々は、今までと同じように、眼前の患者にだけ注目し、「命は地球よりも重い」のだから、「金の話なんて、卑しいことは言うな」ですませていればいいのでしょうか?
私にはどうしてもそうとは思えません。我々が今、その費用を負担していないとすれば、いずれいつかどこかで誰かが(間違いなく我々の子や孫が)、必ずそのツケを払うのです。まさか皆さん、「借金はいずれどこかに消えてくれる」などとお考えではないはずです。パンデミックの初期、当時のトランプ米大統領は「暖かくなればウィルスは奇跡的に消え去る」と主張していましたが、その後「パニックを起こしたくないから、事態を軽く見せたかった」と告白しています。我々も同様に現実から目を背けて希望的観測のみを語るのでしょうか。
一般社会では「お金のこと」を考えられず、ただひたすら使いまくる人間は、阿呆とみなされます。どうして我々医者だけがその例外でいられるのでしょう。我々は、金のことを考え、それを心配し、無駄を削らなければなりません。この「無駄」とは、国会議員の数を減らせなんて「他人の無駄」ではなく、我々自身の無駄です。そのためにも、何が無駄で何が必要かを知らねばなりません。「全部必要だ、みんな欲しい」なんて駄々っ子のようなことを言っている場合ではないのです。
私は科学的推論や対人コミュニケーション学、そして「カネの話」を、専門外の「素人芸」ながら自分のために勉強してきました。これらは我々みんなが知り、考えるべき「必修科目」だと思うからです。そしてこの「我々」とは、医者に限定されるものでもなさそうです。

プロフィール
國頭 英夫1961年鳥取県米子市生まれ
日本赤十字社医療センター化学療法科部長
1986年東京大学医学部卒業。大学病院内科および都立病院救命救急センターなどでの研修を経て、1990年から呼吸器内科・肺癌診療に従事。2001年東大医学博士。国立がんセンター中央病院内科、三井記念病院呼吸器内科を経て、現職。2003年・2019年テレビドラマ「白い巨塔」のアドバイザリーも務める。
著書は、『見送ル ある臨床医の告白』(2013年・新潮社)、『死にゆく患者(ひと)と、どう話すか』(2016年・医学書院)など多数。最新作は『「人生百年」という不幸』(2020年・新潮新書)。新潮社の書籍:「新潮社ホームページ」 https://www.shinchosha.co.jp

かねてより医療経済や財政についてのご関心が高く、ペンネーム『里見清一』で週刊新潮に連載中のコラム『医の中の蛙』の中から、今号では特別に2つ(連載142回「非常時の思考回路」、連載271回「不人気な金の番人」)の転載を許可していただいたので、以下紹介したいと思います。

医の中の蛙 里見清一
連載142「非常時の思考回路」

「その後」がどうなるか
武漢肺炎が猖獗を極めている現在は「非常時」もしくは「戦時」であり、欧米では「第三次世界大戦」と同様の事態と考えられている。いつかご紹介した、人工呼吸器などの医療資源をいかに配分するかにあたって、「患者が医療従事者である場合は優先する」という方針は、戦争中に「戦闘機パイロットが優先」であったのと同じである。
最も被害が大きいアメリカでは、流行拡大の当初にトランプ大統領の認識の甘さが対応の遅れを招いて感染の爆発的増加を招いたのだが、今やそのトランプは「戦時大統領」としてのイメージ戦略をとり、自身の初動ミスを誤魔化して、秋の大統領選挙に向けリーダーシップを強調している。東京都の小池知事がやたらと前面に出て、政府の動きよりも速く「方針」を次々と打ち出しているのも全く同様である。オリンピック延期決定の前にもっと対策を立てておけば良かったのだが、そんなことは噯にもださず「果断」の連続である。東京都知事選も今年ある。
さてこの非常時を乗り切ることが最優先なのはもちろんだが、こういう時にはえてして「後先のこと」を考える人間が白眼視される。日米戦争の時に対米講和だの戦後処理をどうするか、なんて話はうっかりできなかった。そんなのを聞かれたら憲兵が飛んできて「非国民」としょっ引かれた。だからといって全く「その後」の準備ができていないと困るだろう。戦争に負けても、文字通り一億玉砕ではなく、みんなその先も生きていく。だから国中が全身全霊を挙げてドンパチやっている最中でも、誰かが戦争を止める方法を考え、戦後のことを検討しているのが国家組織の正しいあり方である。同様に、平和の時も誰かが戦争のことを考えていないと「(脳内)お花畑」と言われてしまう。
現在、この非常時の「その後」を考えているのは、たとえば財務省であろう。市民活動の制限による経済の大打撃に対して、休業補償だの消費税減税だの一人一律10万円給付だの各世帯マスク2枚配布だのという椀飯振舞(最後はちょっと違うか)が取沙汰されるが、いつも必ず「財務省が反対する」という話になる。だが財務省にすれば、1100兆円の借金を抱える財政を担っているのだから、そんなに金を使って「その後」がどうなるかを考えるのは当然だろう。これをケチだのなんだのと罵倒するのは、昔の憲兵と同じ思考回路ではないか。というわけで、もちろん一番大変なのはこの「非常時」において収入が絶たれ、路頭に迷う人たちなのだが、それを承知の上で、あえて以下、人から嫌われる議論を立てることにする。

あの時死んでいた方が
だいたい、非常時の思考回路は単純で、ある意味気楽である。「今はこれをやらねばならない」というのが、いつの間にか「それをやっていればいい」となる。この変換は意図的にされることもあり、「家にいろ」だと反発されるが、「家にいればいい」「家にいるだけでヒーローだ」と言われれば守りやすい。そして往々にして「それを(ただ)やっていればいい」となると、思考停止に陥る。誰かさんの「自宅で寛ぐ」お気楽動画は好例である。
重症患者を治療している際の研修医は、肉体的にはキツくても、面倒なことを考えずに「これをやっていればいい」、気楽な立場にある。救命救急の現場でも、心臓マッサージや気管内挿管そのほかの蘇生処置を、実に生き生きとやっている。その後ろで指導医は、この患者が助かったとして、意識は回復するか、リハビリは、社会復帰は、などと「その後」のことを考えねばならず、実に頭が痛い。場合によっては植物状態になり、家族からも見捨てられ、「あの時死んでいた方がマシだった」なんて話になる可能性があるのを、指導医は知っているのだ。どちらかというと私はそういう「後先のこと」を他人よりも早く考えすぎて、治療にブレーキをかけるきらいが、ないとはいえない。この傾向があるせいか、私は世間の人よりも財務省にシンパシーをもつ。大変だろうな、と同情してしまうのである。
ちょっと前に、MMT(現代貨幣理論)という、自前の通貨を発行する限り財政破綻は心配しなくていい、という話が出た。今はMMTなんて理屈すら要らないからカネをばらまけの大合唱になっている。ドイツも大規模な財政出動を打ち出しているが、ドイツはもともと基本法(憲法)によって政府の財政収支を均衡させる、つまり「借金をしない」ことが決まっていた。だから財政面からすると、普段は酒を節制している人が月に一度やけ酒する(ドイツ)のと、毎晩呑んだくれている人が今日くらいパーッと飲ませろと喚く(日本)くらいの違いがあるらしい。
だがしかし、今は「そんなこと言ってられるか」が支配的である。それが理性的判断に裏打ちされていればいいが、大衆心理と化していないかを私は恐れる。そういう大衆心理もしくは「時代の空気」に太刀打ちできるのはリーダーシップしかないはずだが、どうもそれを期待するのは無理そうなので、二重に心配をしてしまう。
これが「大衆心理」になってはいないかという根拠の一つは、たとえば「我々は税金を払っているのだから、ケチケチするな」式の財務省批判である。この「税金」の払いが少ないから財務省は赤字で苦しんでいる。それを国賊呼ばわりして、どこかから金が湧いてくるなら、私もそうするが、そうではあるまい。財務省は借金(国債)に借金を重ねて財政出動する。そこが気前良くなったらおかしいだろう。
どうせなら「税金払ってるんだから」ではなくて、「後でがんばって金稼いで税金払う(から、今は助けてくれ)」の方が正しくて、かつ気持ちも良いではないか。落語「芝浜」で魚屋の勝は、「明日から商売に出るから今晩だけは飲ませてくれ」と女房に頼み込み、(渋々ながらも)翌朝早く、魚河岸に出かけていった。
それにしても「税金払ってるんだから」というのは良い台詞ではない。私らもよく患者に、「俺は医療費を払っている。お前らはそれで食ってるんだろう」と言われるが、これは保険医療制度からしても間違っているし、口に出されて非常に嫌な言葉である。聞くところによると、「金を払ってるんだから」と言う客が、風俗嬢に最も嫌われるそうだ。
週刊新潮(2020年6月4日号)掲載


医の中の蛙 里見清一
連載271「不人気な金の番人」

極右から極左まで
私は無駄を省いて医療費を削減しようと研究を進めているが、なかなか医者仲間からの理解を得るのが難しい。例えば、同じ病気を治療するのに、同系統で複数の薬剤が存在する場合も多い。その「使い分け」は、という話になるが、薬の効き方(作用機序)が同じであれば、効果も副作用も似たようなものになる。なのに薬の値段だけは倍半分以上違う、なんてこともしばしばである。そんなの安い方を使えばいい、効果も副作用も同じで値段だけ高い薬を使うのは無駄だ、と考えるのが普通のはずだが、なぜかそうはならない。
日本では高額療養費制度というのがあって、一定以上の高額治療を行う場合、上限を超える部分は自己負担から免除され、公費等の負担となる。癌治療などは「安い方」の薬でも十分コストが高く、この制度の対象になるので、「高い方」の薬で値段が倍しようが三倍しようが、患者負担は同じになる。そしてどちらかというと、高い薬を使う方が病院の収益が増すことが多い。そうすると、苦労して「無駄を省く」努力をしても、患者のためにも病院のためにもならない、という話になる。
では「誰のため」かというと、私は保険医療制度の持続可能性のため、すなわち「次の世代のため」と主張するのだが、これがなかなかピンとこないらしい。保険財政や国家財政の健全化なんて言葉を出すと、財務省の台詞と同じだと思われ、途端に拒否反応を示される。日本の常識として「財務省は悪い奴」なのである。ある同僚からは「君の意図はわかるが、財務省に利用されてしまわないかと心配だ」と忠告された。
かくのごとく財務省は世間からバッシングされている。私は以前から『木っ端役人』なんて不適切用語を頻繁に使うくらいで、基本的には「お役人」と性が合わないが、それでも最近の財務省非難は異常だと思う。何につけてもよからぬことは全て「財務省の陰謀だ」で片付けられる。古代ローマの政治家大カトーはカルタゴ嫌いで知られ、カルタゴと全然関係のない議題でも、どんな演説をする際にも必ず「カルタゴ滅ぼさざるべからず」という一句で締めたというが、それと似ている。
アメリカではトランプ支持派が、「ディープ・ステート」なる影の組織が国家を操っている、なんて三流映画みたいな話を真面目に信じているそうだが、それと同じレベルの陰謀論に聞こえる。アメリカではトランプ派と反トランプ派は分断されていて、日本も最近はいろいろな「分断」が目立つようだが、我が国では極右から極左まで、財務省の悪口だけは誰もが競って口にする。

どこから調達する
財務省は人気がないだけではなく、世の中から信用もされていないらしい。財務次官だった矢野さんという方が選挙前の各政党政策論争を「バラマキ合戦」と批判し、国家財政破綻の可能性について「タイタニック号が氷山に向かって突進しているようなもの」という表現まで使って警鐘を鳴らしたが、政治家さんたちに響くどころか、市場も反応しなかった。金を握っているはずの財務省事務方トップが「日本には金がない、破綻する」と明言しているのに株式市場も国債市場も円相場もパニックにならないとは、考えてみれば変な話である。
ここまで悪く言われると、若い人が官僚になりたがらなくなるのも当然で、かつての「東大法学部から大蔵省」の立身出世コースも変わりつつある。数年前に、東大入試では、文一(法学部)よりも文二(経済学部)の方が合格平均点も最低点も上回った。今や最上位の受験秀才の典型コースは、経済学部を出て外資系コンサルティング会社に勤めて高給を得ることらしい。安月給で夜中までハードワークをこなし、その上「国民の敵」扱いを受ける「高級」官僚を、目端の利く若者が目指し続けるはずはない。「国家の運営」にやりがいがあるとしても、彼らだって霞を食っては生きていけないのである。だが「ベスト・アンド・ブライテスト」が霞が関から外資系コンサルティング会社に大挙して移って、国家がやっていけるのだろうか。
こっちが欲しい金を出してくれず、一方で税金をふんだくる財務省(みつぎとり)のことを、我々がよく思わないのは当然ではあろうが、考えてみれば財務省の役人は、歳入を増やし歳出をカットして国債発行を減らしたところで、特別ボーナスがもらえるわけではなかろう。「奴らは増税を目論んでいる」とか非難されるが、社会保障費は際限なく増大し、巨大災害対策費を捻出し、防衛予算を倍にしよう、なんてことについては誰も反対せず、歳出がどんどん増えているのだ。
おまけにこのパンデミックである。オミクロン株になってウィルスは弱毒化したが、相変わらず「この病気だけ」の特別扱いは続いている。「咳や鼻水などの症状を、8日間から7日間に短縮する」という「画期的な薬」ゾコーバがなぜか緊急承認された。4日目の時点でプラセボに比べてウィルスを30分の1に減らすそうだが、それが感染の拡大防止に役立つのか、また後遺症を防げるのか、データはない。
今のデータだけからでは、私には「大して効かない風邪薬」程度としか思えないが、相当な薬価がつき、シオノギは年間売上1000億円を超す大型薬(ブロックバスター)になると期待しているそうだ。今のところ全額公費負担であり、皆気前よく使ってくれるだろう。週刊新潮も「本人負担はないから安心せよ」と提灯記事を書いていた。
それなのに誰も「どこからその金を調達するか」を言ってくれない。財務省の「仕事」として、増税を考えるのは当然ではないだろうか。それに代わって人々が口にするのは「景気が良くなれば」なんてことばかりだが、どうやったって景気が良くならないから金が足りないのではないか。それができない政治家や、まともな政策を提言できない評論家たちが「財務省が悪い」と譏るのは本末転倒だろうと思う。
個人と同じく、国家も霞を食っては生きていけない。どうしてそんなことが分からないのかと、財務省のお役人たちはさぞ歯噛みしているだろうと推察する。私は彼らが全て正しいとは思わない。だが彼らに「一理」もないはずがなかろう。ウクライナ問題においてすら、「ロシアの立場になって考えるべきだ」という擁護論があるではないか。
週刊新潮(2023年1月19日号)掲載