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路線価でひもとく街の歴史

第37回 「兵庫県神戸市」

開港地の気風を受け継ぐ、人が主役の街づくり


開港地神戸の歴史は大政奉還の後に始まった。
瀬戸内航路の寄港地として古来あった港町は神戸ではなく、神戸からみて湊川を渡った西側の「兵庫」である。神戸は海外貿易を始めるにあたって開発された街だ。開港は慶応3年12月7日(1868年1月1日)。安政6年(1859)6月の横浜開港から既に9年が経っていた。この2か月前、徳川慶喜は京都二条城で政権を返上している。慶喜政権がダッチロールを繰り返す中、政権基盤を強化するため今でいえば解散総選挙に打って出たようなものだろうが信任を得られず、そればかりか、徳川不在の会議で新政権の骨格と人事が決められる事態に陥った。いわゆる王政復古のクーデターだが、これは神戸開港の2日後の出来事である。

在日ビジネス基地たる居留地の存在
開港にあわせ、欧米商社の駐在拠点として外国人居留地が設けられた。今でも地図をみればそれとわかる碁盤の目の整然な区画で、西の鯉川、東の生田川、北の西国街道に囲まれていた。川は後に暗渠となり、跡地が鯉川筋(メリケンロード)、フラワーロードになった。元の横浜正金銀行である神戸市博物館や、わが国最古の西洋式ホテルのオリエンタルホテルが面する京町筋が中心軸だ。幕末、勝海舟が幕府軍艦奉行の時代に整備された海軍操練所の施設を転用して居留地の波止場が整備され、敷地内には税関が置かれた。
開港当時、わが国に海外貿易を担う事業者がおらず、例えば製品を輸出しようと思えば売込商を通じて居留地に駐在する欧米商社の日本駐在に持ち込む必要があった。いわゆる居留地貿易である。居留地は治外法権で、法を犯した外国人を日本の法律で取り締まれなかった。裁判はおろか捜査や逮捕、拘留もできなかったのが特徴だ。居留民から選出された代表を含めた「居留地会議」が警察を含む自治行政を行っていた。まさに日本の中の外国である。ちなみに北野の異人館街や南京町中華街は居留地ではない。これらは「雑居地」といい居留地の外側に設けられた居住可能区域だ。

波止場と栄町銀行街
明治のビジネス街は居留地の門前にできた。地価が最も高い場所は波止場の前だった。明治17年(1884)の兵庫県統計書によれば神戸市街の最高地価は海岸通3丁目にあった。
主な波止場は4つあり税関に隣接する居留地東端が第一波止場。第二から第四波止場は居留地の西側にあり、複数の突堤でひとまとまりの港湾を形成していた。海岸通は波止場に面し1丁目から6丁目まであった。その真ん中が3丁目である。ここには税関の出張所もあった。今でいえばポートタワーの最寄りである。
貿易関連で栄えた海岸通に対し、その後背地の栄町通は銀行街になった。進出が最も早い銀行は三井銀行である。明治4年(1871)には三井組の神戸分店があった。明治9年(1876)、栄町通に移転し三井銀行となった。大正5年(1916)、銀行街のランドマークにふさわしくイオニア式の柱頭を持つ重厚な行舎を建てた。日銀本支店を多く手掛けた長野宇平治(うへいじ)の設計だ。戦後は第一勧業銀行が長く使用していたが阪神大震災で倒壊。今は柱頭のイメージを下層ファザードに残した高層マンションになっている。
明治6年(1873)、わが国初の国立銀行である第一国立が本店と同時に神戸支店を開設した。栄町通4丁目に移転したのは営業満期に伴い第一銀行に改称した明治29年(1896)である。明治41年(1908)に赤レンガ行舎を新築。東京駅と同じ辰野金吾の設計である。銀行自体は戦中に移転し、建物は銀行として使われなくなる。その後阪神大震災で被災したが、地下鉄みなと元町駅に外壁が復元された(図1.旧第一銀行(現・地下鉄みなと元町駅))。
貿易金融といえば外国為替専門銀行の横浜正金銀行が創業翌年の明治13年(1880)、栄町通3丁目に神戸支店を出した。今の神戸市立博物館の建物に移転したのは昭和10年(1935)の話だ。栄町通には安田銀行、住友銀行など多くの銀行が支店を出した。残っていれば観光資源になったであろう名建築もあったが、その多くは阪神大震災で被災してしまった。
ちなみに、再編統合を経て現在の三井住友銀行に至るが、昭和初期の一県一行主義に基づく地元銀行は神戸銀行である。昭和11年(1936)、県内7つの地域銀行が合併して発足した。前身7行は神戸岡崎銀行(本店:神戸市)、三十八銀行(姫路市)、第五十六銀行(明石市)、西宮銀行(西宮市)、灘商業銀行(御影町=現在の神戸市東灘区)、姫路銀行(姫路市)、高砂銀行(高砂市)である。合併行の経営の主軸は神戸岡崎銀行と三十八銀行だった。神戸岡崎銀行は大正6年(1917)の設立で、その本店が7行統合後に神戸銀行の本店になった。現在は三井住友銀行神戸本部だが、建物は太陽神戸銀行の時代に本店として建てたものだ。
三十八銀行は店舗網や預金、貸出金において合併当時の県内最大手だった。前身は第三十八国立銀行で明治11年(1878)の開業。翌年には神戸支店を出している。最初は元町通にあったが、明治16年(1883)に栄町通3丁目に移転した。神戸支店は兵庫県金庫と神戸市金庫を受託していた。今でいう指定金融機関である。三十八銀行は姫路と神戸を営業エリアとしていたが、他の前身行は本店が属する比較的狭いエリアを地盤としていた。現代にたとえれば、県域上位行どうしの合併というよりむしろ地域に根を張る信用金庫が広域合併するような統合パターンだった。もっとも戦後の神戸銀行は支店網を全国に展開し、長じて都市銀行の一角を占めるようになる。

図表.図2.市街図

百貨店の源流が集まった元町通
明治32年(1899)、外国人居留地の施政権が返還される。大正時代にわが国の銀行や商社が旧居留地に拠点を構えるようになり、神戸のオフィス街は東側に拡大した。それにつれ中心軸も東に移っていく。最高地価の変遷を辿ると、まずは同じ海岸通で三丁目から一丁目に移っている。大正8年(1919)の兵庫県統計書で海岸通一丁目。大正15年(1926)の大蔵省土地賃貸価格調査事業報告書による最高地価も同じ場所である。ここはメリケン波止場のたもとにあたる。アメリカ領事館があったことから「メリケン」波止場と呼ばれた。領事館が移転した跡地には日本郵船神戸支店が建った。曾禰達蔵、中條精一郎の設計で大正7年(1918)の竣工。現在は神戸メリケンビルと呼ばれる(図3. 旧日本郵船(現・神戸メリケンビル))。
開港以来の商業中心地が元町通だ。神戸の東西軸は海に面した海岸通、銀行街の栄町通、元の西国街道の元町通の3本ある。海岸通、栄町通と同じく元町通も1丁目から6丁目まであり、大丸が4丁目、そごうが5丁目、三越が6丁目にあった。大正時代は百貨店の源流となる呉服店がそろい踏みした。
元町通で最も古いのは明治34年(1901)のそごうである。大阪心斎橋を本拠とし、進出当時は十合(そごう)呉服店といった。大丸は大正2年(1913)の開業。当時は大丸呉服店の神戸出張所だった。最後が三越である。大正14年(1925)、元町通の西端に「元町デパート」が開店した。デパートとはいえ百貨店ではなく、様々な商店がテナントに入る形式の共同店舗だった。ところが開店まもなく資金繰りが厳しくなり競売の危機に陥る。オーナーとの交渉の末、三越が継承することになった。大正15年(1926)三越呉服店大阪支店の分店として開業。昭和3年(1928)6月1日に神戸支店に昇格した。この日、法人の商号を三越呉服店から「三越」に変更。これを弾みに全国に支店網を広げる。

三ノ宮駅の移転
俯瞰すると、神戸の中心街は波止場のあった海岸通三丁目から旧市電ルートに沿って東遷してきた。引力となったのは鉄道駅である。もっとも明治・大正時代の三ノ宮駅は現在の800m西、今のJR元町駅の場所にあった。開業は明治7年(1874)で、新橋-横浜間に次ぐ全国2番目の路線(大阪‐神戸)の駅である。終点・神戸駅の1つ手前で開通当初からあった駅だ。ちなみに神戸駅は現在も東海道本線の終点である。
さて、昭和34年(1959)の最高路線価地点は、「三宮町二丁目ドンク喫茶店前三宮センター街側通」だった。老舗ベーカリーのドンク本店は今も同じ場所にある。大丸神戸店からトアロードを北上したところで、現在のターミナルである三ノ宮駅よりむしろ元町駅(旧三ノ宮駅)が最寄である。つまり戦前戦後にかけて街の中心が旧三ノ宮駅に近づいた。
最高地価の場所は東にも2区画分移動しており、600m東の(現)三ノ宮駅の求心力も相当高かったことがうかがえる。神戸の街ができた頃、鯉川筋の東、居留地の北に位置する(現)三ノ宮駅前は市街地の外だった。徐々に市街化が始まり、明治38年(1905)、阪神電気鉄道(阪神電車)の開通に伴い終点「神戸駅」ができた。その後神戸市電に連絡するため滝道駅まで延伸する。専用軌道は2駅(約2.5km)手前の岩屋駅までで、そこから先は路面電車線だった。
阪神急行電鉄(阪急)神戸線の開通は大正9年(1920)である。終点の駅名こそ「神戸駅」だったが、当時は現在の神戸三宮駅から2駅分手前、2.5km離れた王子公園(当時は関西学院原田キャンパス)の西側にあった。隣接して神戸市電布引線の終点「上筒井駅」があり、中心街に行くには市電に乗り換える必要があった。
開業時、阪神の岩屋駅も阪急の神戸駅も神戸市境にあった。要するに私鉄2社は地上の専用軌道で神戸市内に入ることが許されなかった。昭和6年(1931)、国鉄の三ノ宮駅が現在地に移転し、旧三ノ宮駅を元町駅と改称した。都心直結を渇望していた私鉄2社は移転後の三ノ宮駅を目指し、阪神は地下線、阪急は高架線で乗り入れを図った。阪神電車は昭和8年(1933)6月、岩屋駅から神戸駅(現・神戸三宮駅)までの地下化を果たす。昭和11年(1936)3月には国鉄の旧三ノ宮駅の場所に延伸し元町駅を設置。元の神戸駅を三宮駅に改称した。その年の4月、阪急電車も高架方式で三宮駅(現・神戸三宮駅)に延伸した。これで国鉄、阪急そして阪神の三ノ宮(三宮)駅が集結する位置関係が完成する。その後地下鉄を含め6つの「三宮駅」を擁する一大ターミナルとなるが元々は郊外だった。余談だが6駅の住所はすべて三宮の外にある。JR線の南、フラワーロードから西側が三宮町だからだ。
阪神電車は地下線の整備に伴って駅ビル「三宮阪神ビル」を建設。そごうが入居した。昭和2年(1927)に居留地エリアの現在地に移転した大丸に続きそごうも元町通から移転したことになる。
昭和45年(1970)には、それまでと同じ三宮センター街でも駅により近い場所(三宮町一丁目)に最高路線価地点が移る。昭和30年以降は三宮駅前の求心力の高まりに拍車がかかった。昭和32年(1957)に神戸市役所が現在地に移転。商業中心地としての発展で目を見張るのはその翌年に三宮に出店したダイエーである。昭和36年(1961)の増床で日本最大のスーパーとなり、昭和38年には5階建のデパート業態を出店。もっとも外見はデパートでも5階建の3階以上が専門店街だったので百貨店法の規制に入らず、後の法改正のきっかけとなった。三宮センター街は一見ふつうのアーケード商店街だが、実際は道の両側に配置された大規模共同店舗の集合体である。道を挟んで北側は神戸市施行の再開発事業で、さんプラザ、センタープラザ、同・西館の3棟。同じく南側が民間施行の再開発事業で、第1から第5までの「防災ビル」、グレースビルの6棟からなる。昭和45年(1970)竣工のさんプラザから足かけ10年弱の事業だった。
その10年後の平成元年(1989)、最高路線価地点は三宮センター街のフラワーロード側、「野村證券神戸支店前」に移転する。他方で明治以来の商業地である元町、特に大正時代に百貨店が軒を並べた西側エリアの地盤沈下が目立った。昭和59年(1984)の三越閉店は象徴的な出来事として受けとめられた。
図表.図4.ハーバーウォークの先に旧神戸港信号所を臨む

居心地重視の徒歩空間へ都市改造
90年代初め、鉄道開通以来の神戸駅、その後湊川貨物駅として使われた広大地の再開発が進められた。今のハーバーランドである。平成4年(1992)の街びらきにあわせダイエー、阪急、西武などが出店したが、バブル崩壊の余波や震災もあって集客は振るわなかった。30年経った現在、周囲に高層マンションが建ち始め「住まう街」の要素が加わり、非日常と日常が混じりあう街になった。
平成27年(2015)、「人が主役のまち・居心地の良いまち」をコンセプトに「神戸都市ビジョン」が公表された。その3年後に打ち出されたのが「えき=まち空間」基本計画だ。三宮の6つの駅をひとつの大きな駅に見立て、駅前市街地と一体の「えきまち空間」とする構想だ。目玉は三宮交差点を中心とした南北400mを、人と公共交通優先の空間「三宮クロススクエア」とする取り組みである。まずは最大10車線の幹線道路を最小3車線に減幅のうえ右折車線を無くして徒歩で回遊しやすくする。沿道にバスターミナルが新たに整備されるなどターミナル機能も強化される。JR三ノ宮駅をはじめ老朽ビルの建て替え計画が周辺に相次ぎ、街の景観が大きく変わる予定だ。
主に旧居留地に残る近代建築や港湾インフラは、開港地独特の街の気風とセットで街の記憶を確かなものにしている。旧居留地の一角は高級ブランド街になった。店構えからは見分けがつかないが、大丸が35年前から少しずつ近代建築を借り上げ、ブランドを誘致してきたものだ。神戸の街は歴史の遺産を資源とし、外には観光都市、内には人が住み、働いて快適な街として再生が進んでいる。

プロフィール

大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。近著に「公民連携パークマネジメント:人を集め都市の価値を高める仕組み」(学芸出版社)