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ファイナンスライブラリー

評者 米澤 潤一

丸山 純一 著
セルビア紀行 日本人が知らない東欧の親日国
かまくら春秋社 2022年11月 定価 本体1,800円+税


前セルビア駐在日本大使による任国の紹介であるが、観察が透徹的、記述が簡明・洒脱で楽しい。サブタイトルにもある通り、日本人には、世界史の教科書でセルビアの青年がサラエヴォでオーストリアの皇太子を暗殺したのが第1次世界大戦の発端となったと学ぶ程度で馴染みが薄いセルビア、ひいてはバルカン半島の歴史と現状を知る上でも貴重な入門書である。
同国の現状と歴史を概観する第1章に続き、第2章から第7章までの観光、料理、言語、日常生活の紹介は、通常の観光ガイドブックとは趣を異にし、著者自らの体験からの生の印象によっている上、エスプリが効いて読者を惹き付ける。世界遺産ストゥデニツァ修道院に代表される修道院建築をはじめとする優れた文化遺産や第1次世界大戦の一因となった名産豚肉の料理などの臨場感豊かな紹介に混ざって、首都ベオグラードに「空爆通り」や「空爆ビル」があるとか、公園の土産物屋で1990年代初頭のハイパー・インフレーション時の5000億ディナール紙幣の本物を売っている、などのエピソードは、第8章以下で書かれている同国の不幸な歴史の紹介の布石にもなっている。
特記すべきは第6章のセルビア語の話で、「日常会話レベルすら身につかなかった」と謙遜しているが、どうしてどうして、Lj、Dzなどの特殊文字がある「セルビア語のラテン・アルファベット文字」のこととか、名詞の格変化が7格もあり、動詞の変化はさらに複雑であるなど、実に深く精緻に分析してあり、語学の達人としての著者の面目躍如たるものがある。
これだけでも十分面白いが、本書の真骨頂は第8章以下の歴史・政治にあり、日本人には理解しにくい複雑怪奇なあの地域の事情が明解に整理されていて、判り易く頭に入る。
今でもセルビア人の心の誇りとなっている中世セルビア王国は12世紀後半に成立、13世紀から14世紀にかけて繁栄、バルカンの一大帝国であった。しかしながら1398年のコソヴォの戦いでオスマン・トルコに大敗してから急速に衰退した後1459年に滅亡、オスマン・トルコの支配下に入り、16世紀あたりからハプスブルグ帝国とオスマン・トルコの戦いの場、やっと19世紀に独立を獲得したが、列強間の争いに翻弄され、20世紀オーストリアとの対立で、第1次世界大戦のきっかけサラエヴォ事件、第2次大戦後はチトーのもとでユーゴスラビア連邦が成立、共産圏の中では独自路線を貫いていたが、チトー死後ユーゴ連邦崩壊、再び民族紛争の坩堝となる。こうした何世紀にもわたる苦難が今日なお続いている悲劇の民族であることが同情を滲ませながら紹介されている。
その上で、(1)NATOメンバーのいずれの国の領土も侵略されていないのに(2)何等の国連決議もないまま行われた、正当性を欠く1999年のNATO空爆が示す西側による「セルビア悪者」との印象操作を分析し、根底には第1次大戦前の「ヨーロッパの火薬庫」時代のバルカン半島のイメージを引きずっている面もあるが、複雑に入り乱れた多民族国家の間で「民族自決」が正義だといっても、それぞれに言い分があり簡単でなく、独立される側の正当性は国際世論から支持されにくいバイアスがあると指摘した上で、西側メディアが、このような複雑な背景を無視して、アメリカの戦争広告代理店の一方的な宣伝に無責任に追随、いたずらに憎悪・対立を煽っていることについて義憤を込めて批判している。やはりそうだったのかと腑に落ちる。現在親ロシアであることも影響しているのだろう。
西側の通俗的世論に惑わされず、自分の目でセルビアを観察、広く市民と接し、公平に歴史を学び、優れた文化遺産を鑑賞して、本にした、こういう日本大使を迎えた親日国セルビア国民の喜びが目に浮かぶ様だ。