G7サミット開催地として脚光を浴びる広島をご覧あれ
神戸税関広島税関支署 次長 渡越 剛
1.はじめに
広島港は、現在の広島市の南端に位置し、明治以前は市内を流れる太田川の堆積土砂により遠浅の海で船舶が接岸できなかったため、1884(明治17)年に近代的設備を備える港として着工し、5年の歳月をかけて1889(明治22)年に「宇品港(うじなこう)」の名称で築港されました。その後、1894(明治27)年には陸軍の軍港となり日清戦争の兵站供給拠点として使われ、以降、日露戦争、そして太平洋戦争と長い間、軍事拠点としての役割を担ってきました。
このような背景から、他地域の貿易港とは異なり1899(明治32)年4月に「宇品税関監視署」という小さな官署が設置されました。1921(大正10)年11月には尾道糸崎税関支署「広島出張所」に改称された後、港域拡大に伴い港名が「広島港」に改称されるとともに、1939(昭和14)年3月には広島税関支署に昇格し現在に至っています。
太平洋戦争が終結した後、広島港は他地域の貿易港と同様に県経済を支える拠点として姿を変え、現在では輸出額全国第11位、輸入額全国第36位と重要な港湾として位置付けられています。
写真:広島港
2.管内の特色
広島について何を思い浮かべるかといえば、見どころとして宮島の厳島神社、原爆ドームと世界遺産が2つあり、特に原爆ドームにあっては「負の遺産」と呼ばれ、景勝地と負の遺産が存在する他に類を見ない地域です。
広島ではスポーツも盛んで、プロスポーツにおいてもその一端が垣間見えます。プロ野球では広島東洋カープ、Jリーグ(プロサッカー)ではサンフレッチェ広島、Bリーグ(プロバスケ)では広島ドラゴンフライズ、Vリーグ(プロバレー)ではJTサンダースと各競技チームの本拠地となっています。
「食」においては、生産量日本一とされる牡蠣や、ソースをたっぷりかけたお好み焼き、甘いものではもみじ饅頭が有名ですが、隠れた逸品として「小イワシ」の刺身や天ぷらがあります。普段の総菜では手軽なところで「がんす」という魚のすり身にパン粉をまぶして油で揚げたものが、安価ながら美味しく頂けます。広島、呉地域は波穏やかな瀬戸内海に面しており、温暖な気候が美味しい農産物、海産物を生み出しています。柑橘類などの旬には各地の観光農園に家族連れ等大勢の人が集まります。
当地は呑兵衛にとっても最適な地域であり、隣接する東広島市の西条エリアを含め酒造りが盛んで、JR西条駅周辺には有名どころの酒蔵が集まっています。駅舎から出て小道を歩いていくと、酒蔵の名前が表示された背の高い煙突に出会います。
また、当地では全国一の営業距離を誇り、今年で創業110周年を迎える広島電鉄の路面電車が走っています。これまでは津々浦々で走っていた路面電車も車社会の波に押され徐々にその姿を消してきていますが、広島では市民の足として健在です。広島電鉄は昭和20年8月6日の原爆投下から僅か3日後に一部区間で運行を再開するという驚異的な復活を遂げ、その時の遺産でもある被爆車両が今も現役で走っているほか、京都市電などの他地域で活躍していた移籍車両、ドイツから輸入した低床連結車両、そして純国産の低床車両と、さながら「チンチン電車の大博物館」とでも呼べるような賑やかで、どこか懐かしい感じがする風景を作り出しています。なお、全国的に道路の中央に線路が敷かれている地域は少なくなってきていますので、広島市内でご自身が初めて自動車を運転するときは、電停で乗降する乗客の近さや右折の難しさに戸惑うかもしれません。
広島市から海岸線を東へ約30km行くと、軍港として発展した呉市に到着します。近代以前はほとんど目立つことのなかった呉市でしたが、明治に入り第二海軍区軍港と鎮守府が置かれることとなり、一気に軍港としての地位を確立し、当時置かれた呉海軍工廠は日本一といわれていました。呉海軍工廠で初めて建造された艦船は「宮古(沖縄県南西諸島の宮古島にちなんで命名)」で、以降、戦艦長門や戦艦大和など数多くの戦艦、駆逐艦等を建造した港として広く知られています。太平洋戦争終結後、これらの諸施設は連合国軍の管理下を経て民間の手に渡り、当時の技術を継承した造船業や鉄鋼業が盛んな街として発展してきました。ちなみに、JR呉駅から歩いて数分のところには、呉市海事歴史科学館「大和ミュージアム」があり、10分の1スケールの戦艦大和(模型)が鎮座しており、その姿には圧倒されます。同館では、呉市の歴史や船舶・航空機の技術発展についても学ぶことができます。また、かつては軍港として栄えた背景から、船乗りの曜日感覚を維持するために金曜日の夕食として必ず出されたカレーが、今では「海軍カレー」と称し市内の多くの飲食店で提供されています。海上自衛隊の護衛艦ごとに作り出された秘伝のレシピが継承され、1店1レシピとして再現されており、お店によって特色がある味付けとなっていますので、海軍カレーを巡っての市内散策もお勧めです。
広島市からみて東側を紹介しましたが、反対に広島市から海岸線を西へ約30km進むと石油化学コンビナートのプラントが集積する大竹市に到着します。大竹市は山口県岩国市との県境に隣接し、臨海工業地帯として多数の工場が林立しています。
写真:西条エリアの酒蔵
写真:並走する電車とクルマ
写真:大竹港
3.管内の産業
農林水産業から重化学工業に至る幅広い範囲において、モノづくりにおけるナンバーワン又はオンリーワン企業が数多くあります。特に、人気のある自動車メーカーを有していることから、自動車生産における裾野産業としての自動車の内装やボディ、足回り等々多数の部品メーカーが活躍しています。また、軽工業においては熊野筆(画筆・化粧筆)、広島仏壇、丸盆などの宮島細工が国の伝統的工芸品に指定されており、日本一のヤスリ、各種針(手縫い針・待ち針)の生産地でもあります。森林資源も豊富で、木材の集積地でもあることから、椅子や木工製品、けん玉などの木製玩具も多く生産されています。
4.広島お好み焼き
人も歩けばお好み焼き屋に当たるといった広島ならではの食、ソウルフードであるお好み焼きですが、広く一般化したのは先の大戦後の食料不足の時代で、僅かな小麦粉を水で溶いて、庭で採れたネギを載せて鉄板の上で焼いたものが原型のようです。広島にルーツを持たない筆者の感覚では、広島のお好み焼きは関西で食べるそれとはかなり違います。根本的に違うところは、作り手が誰かという点です。関西の場合は一般的に、お好み焼きの材料が全部一緒に混ぜられて器に入った状態で出され、お客自身はそれを鉄板の上に均等に広げて、用意された器具(コテ)を使って焼いて食べます。しかし、広島のお好み焼きの場合は、関西とは作り方も異なり、材料を積層して仕上げます。まずは小麦粉を水で溶いたものを鉄板の上に薄く広げます。その上に鰹節粉や煮干粉を振りかけて、千切りにしたキャベツを満載にし、更にその上にもやし、肉、魚介を載せ、溶いた残りをかけて裏返します。その傍らでは焼きそば用の麺を焼きます。麺がカリッとしたら、その上に隣から生地を移動させ、載せます。同じように隣で卵を広げて焼き、作成中の生地を焼いた卵焼きに載せて手際よく裏返し、お好み焼きソースを卵焼きの上からかけて完成となります。また、家で作ることが少ないため、お店からの出前も日常的です。コロナ禍においては、巣ごもり消費が増えてデリバリーフードが脚光を浴びましたが、広島のお好み焼きは既にそれを先取りしていました。
写真:お好み焼き 始まり
写真:お好み焼き 出来上がり
5.管内の見どころ
厳島神社、原爆ドームは世界的に有名な世界遺産であることから本稿では省略します。その代わりに、筆者が行ってみて良かった身近なスポットを紹介します。
(1)宇品島
当支署から島の中心部まではおよそ2km。島の一番高い地点は52m、東西500m、南北1.3km、町を一周すると3.2kmの小島です。瀬戸内海国立公園の中に位置し、島の東側は民家、工場、倉庫、小学校や病院などがあり生活環境は充実しています。一方で、島の西側は広葉樹の原生林に覆われており、国有林として管理されています。宇品島は古くは干拓により本土と地続きになったものの、船が通れないとのクレームにより、本土から切り離して橋を架けて島に戻りました。
島の周囲は遊歩道が整備されており、天気のいい日は散策にはもってこいの一押しの場所です。遊歩道から一歩降りると砂浜が点々とあり、瀬戸内海の島々を眺めながら持参したコーヒーなどを口に含めば時間がゆっくり過ぎていく感じがします。遊歩道の途中には表面が碁盤状の岩があり、その規則的な割れ目については「マグマが冷えて固まると岩石が収縮して規則的な割れ目ができる」と解説されており、太古の昔はこんな近くで火山活動があったことにびっくりです。
更に遊歩道を歩いていくと、かつては陸軍の信号所であった宇品灯台への行先案内があり、しばらく登れば樹齢300年を超えるというクスノキの大木が現れます。
写真:宇品島
写真:宇品島の岩
写真:宇品灯台と楠
(2)江田島砲台跡
江田島はどちらかといえば広島というより呉の沖合にある島ですが、橋が架かっているのでクルマでも行くことができます。ルートとしては、呉市を出発して音戸大橋を渡り、倉橋島を経由して北西に進み、沖美町に入ると三高山(砲台山)に通じる道があります。砲台跡の近くには駐車場があり、そこから歩いてすぐのところに日露戦争開戦に至る前に建設された軍部の砲台跡があります。ロシアのバルチック艦隊の入港を食い止める目的から、総面積およそ6万坪(198,000m2)の西日本最大規模の砲台として、2年をかけて建設されましたが、日本がロシアに勝利したことから、大砲を発射するという役割はなくなり、現在は日本土木遺産に認定されています。落ち葉を踏みしめて散策すると、明治の時代にタイムスリップしたような気になる場所です。
写真:江田島砲台跡
(3)とびしま海道
呉市から安芸灘大橋で下蒲刈島(しもかまがりじま)に接続しており、そこから東に足を延ばせば、順に上蒲刈島(かみかまがりじま)、豊島(とよしま)、大崎下島(おおさきしもじま)、岡村島(おかむらじま)と5つの島が橋で繋がっているので、瀬戸内海国立公園ならではの爽快な風景に多く出会うことができます。下蒲刈島は朝鮮通信使の寄港地として、2017年にユネスコ「世界の記憶」に登録されています。ドライブ途中でお腹がすいたときは、揚げたての「じゃこ天(雑魚天)」がピカ一です(ビールが欲しくなりますが運転中は我慢です。)。
6.終わりに
広島市は新聞やテレビで報道されているとおり、令和5年5月19日から3日間、G7サミットの開催地として、各国から首脳方々及び関係方々がお越しになります。当地においては開催に先立って官民挙げて、広島の魅力をPRしています。当支署は、輸出入貨物や外国貿易船に対する取締りを通じてG7サミットが成功裏に終わるよう、支署職員一丸となって頑張りますので応援頂ければと思います。
写真:下蒲刈島
写真協力:広島市、東広島市、大竹市、江田島市、呉市
「北のウォール街」から「斜陽のまち」、そして観光都市としての再生
小樽税関支署 管理課長 阿部 史典
1.はじめに
小樽税関支署は、明治11年に函館税関小樽出張所として設置され、明治30年に小樽税関支署として改称され今に至ります。管轄は北海道の2市13町6村です。支署のある小樽市は、北海道西海岸のほぼ中央に位置し、東西に長く広がっています。東西約36キロメートル、南北約20キロメートルで、市街地の一方が日本海に面し、他の三方を山々に囲まれた坂の多い町です。小樽の語源はアイヌ語のオタ・オル・ナイでオタは砂浜、オルは中、ナイは川又は沢と訳され「砂浜の中の川」という意味になります。もともとがアイヌ語なので穂足内、尾樽内、小垂内などと書かれたこともあったそうです。明治になり蝦夷が北海道となったときに小樽内から内がとれて小樽となりました。
2.小樽市の沿革
○明治期~小樽港の近代化
元々鰊の漁場として知られる小樽が近代化へと進む契機となったのが北海道の内陸部から運ばれる石炭の輸送のため、明治13年に北海道初の鉄道である「官営幌内鉄道」が敷設されたことです。小樽港は北海道の拠点である札幌から近く、天然の良港という地の利を生かし鉄道敷設の起点となりました。石炭は小樽港から国内各地だけでなく、海外に向けて輸送され、近代産業の勃興に貢献しました。小樽に税関が設置されたのもこの時期で、明治22年には小樽港は石炭のみを輸出品目とする「特別輸出港」に指定されました。明治後期には北海道の資源の物流拠点として、港湾の発展は隆盛を極めました。
○大正期~北のウォール街
大正時代に入っても小樽の好景気は続きました。小樽からアメリカ・ヨーロッパへの定期航路もでき、国際的な港湾都市として成長も遂げ、日本銀行を始め多数の銀行、商社、海運業者が進出し「北のウォール街」と呼ばれるようになりました。大正9年の第1回国勢調査では北海道では函館に次いで札幌を上回る第2位で全国でも13位の人口規模を誇りました。日本を代表するプロレタリア文学作家の小林多喜二は著作「故里の顔」で北日本随一の都市となった小樽について「北海道の心臓である」と表現しました。
○昭和初期~斜陽のまち
昭和初期から戦後になると小樽は衰退の兆しが見え始めます。敗戦による樺太の喪失、特産品である鰊の商品価値の減退と不漁だけでなく、石炭から石油へのエネルギー転換による港での石炭取扱い量の急速な減少などにより港勢は失速しました。さらには札幌への内地の商社の出店ラッシュも始まり、小樽からも銀行、商社、海運業者などの商業機能の札幌への移転が相次ぎました。主要産業を失い昭和40年代には小樽は「斜陽のまち」と呼ばれました。
○昭和末期から令和~観光都市へ
現在の観光都市となった契機は、昭和末期に埋め立てが計画された小樽運河の保存運動でした。当時小樽運河は、艀による物資運搬の役割を終えて実用的な役割を失いヘドロがたまり荒廃が進んでいました。そこで、車社会への対応などのために、運河を埋め立てて道路にする計画が持ち上がったのですが、市民の間から運河の歴史的価値を見直し、貴重な文化遺産として保存を求める運動がおこりました。10年にも及ぶ保存運動が功を奏し、運河の一部は埋めたてられたものの、残された部分は石畳の散策路として整備され周辺に立ち並ぶ石造りの歴史的建造物とともに、重要な観光資源となりました。長く続いた保存運動が報道されたことで注目も集まり、小樽運河だけでなく市内に残された歴史的建造物などの観光資源を元に全国から観光客を呼び込むことに成功し、観光は小樽の基幹産業にまでなりました。平成20年ころになると、国内だけでなく中国、台湾、韓国などアジア諸国からの観光客も多く小樽を訪れるようになりました。令和2年頃からのコロナ禍により、国内外の観光客は激減しました。国内から訪れる観光客の数は回復しつつありますが、コロナ禍前の水準にまで戻ってはいません。
3.管内の名所・話題
○小樽運河
小樽の観光の象徴ともいえるのが小樽運河です。運河の全長は約1キロで、運河沿いには散策路と63基のガス灯が設置されています。運河沿いには大正後期に建築された石造倉庫群がそのままの姿で残され、レストランなどの商業施設として様々な形で活用されています。運河は直線ではなく緩やかに湾曲しているのが特徴です。小樽運河にはクルーズ船も運航しており、川面から石造倉庫群を眺めることもできます。夕暮れ時にはガス灯のあかりとライトアップされた石造倉庫群を楽しむこともできます。毎年11月から1月までは1万個の青色LEDで彩られる「青の運河」というイベントも開催しており、幻想的な小樽運河を楽しむ事ができます。
写真:【小樽運河】
○手宮鉄道跡地
北海道初の鉄道「官営幌内鉄道」の手宮線が廃止された後、跡地は線路や踏切が残されたまま散策路として整備されました。散策路は寿司屋通から小樽総合博物館までの約1,600mで、各種イベント会場にも利用されています。2018年には北海道遺産「小樽の鉄道遺産」にも選定されました。手宮線で使われていた蒸気機関車(しづか号)は小樽総合博物館に展示してあり、今もその姿を見ることができます。
写真:【手宮鉄道跡地】
○天狗山
天狗山は小樽のシンボル的な山として市民から親しまれています。ロープウェイが設置され山頂までは約4分で到着します。天狗山の名称の由来は、その昔、山の斜面に青白い火が見えたので天狗が焚火をしているという言い伝えや山が天狗の面に似ているなど諸説あります。山頂には天狗が祀られた天狗神社や全国各地から天狗に由来する品を約700点以上も集めた天狗の館、パワースポットとしても有名な鼻に触れると願いが叶うといわれる「鼻なで天狗さん」など天狗にちなんだものが多くあります。山頂展望台からは、小樽の市街地から日本海までが一望できます。北海道三大夜景といわれる夜景のスポットとしても有名です。天狗山は、大正12年に第1回全日本スキー選手権が開催され、昭和27年には北海道で初めてリフトが設置されたことなどから、北海道におけるスキー発祥の地ともいわれています。
写真:【天狗山】
写真:【天狗の館】
○潮まつり
毎年7月に開催され小樽の夏を代表する一大イベントとして多くの観光客を集めています。小樽の歴史や文化を次世代に伝承し、小樽の発展を祈念する契機として始まったお祭りです。新型コロナウイルスの影響で開催できない年がありましたが、令和4年は3年ぶりに開催され多くの人で賑わいました。小樽の街を練り歩く「潮ふれこみ」や「潮ねりこみ」では、約2,800人が参加し「潮音頭」や「潮踊り唄」に合わせてメインステージまで1時間かけて踊り歩きました。祭りのメインイベントである大花火大会は、多くの市民や観光客でにぎわいを見せ、小樽港に打ち上げられる花火は迫力満点です。ちなみに、潮音頭は日本を代表する演歌歌手三波春夫が歌っています。
写真:【潮まつり】
○雪あかりの路
毎年2月、小樽の街並みを述べ12万本ものスノーキャンドルで照らすイベントで、小樽の冬の風物詩となっています。一本一本のろうそくのあかりは、市民ボランティア、町内会、各種団体だけでなく海外ボランティアの努力によって火が消えるたびに一つ一つ手で灯されます。メイン会場の小樽運河や手宮線跡地だけでなく、期間中は市民が自発的に自宅前や店舗の前に灯したろうそくのあかりを目にすることがきます。平成30年には国土交通省主催の「手づくり郷土賞」を受賞しグランプリにも選定されています。イベント名は小樽を代表する小説家伊藤整の書いた詩「雪あかりの路」にちなんで命名されました。
写真:【雪あかりの路】
○オタモイ遊園地
かつてオタモイ海岸にオタモイ遊園地と呼ばれるレジャー施設がありました。遊園地は高級料亭龍宮閣、演芸場や海水浴場などがあり、かつては多いときで一日数千人が訪れるなど多くの観光客でにぎわいました。なかでも龍宮閣は、断崖絶壁の上に京都清水寺にも用いられた建築工法を取り入れた三層造りの御殿で、訪れた小樽市民はその威容に度肝を抜かれたといわれています。ところが、昭和27年に中核となる龍宮閣が火事で全焼し閉園状態となりました。閉園後も遊歩道が設けられ跡地には自由に出入りができましたが、平成18年に大規模な崩落があり、現在は立ち入りが禁止となっています。オタモイ遊園地は断崖絶壁に建設された当時としては斬新な建物だったことや当時の資料が少なく開園時期がはっきりしないことなどから、一部で伝説的な遊園地などともいわれていました。令和4年になり、小樽商工会議所を中心として跡地の再開発構想が立ち上がりました。かつての龍宮閣の跡地に床面がガラス張りの展望テラスの建設などの計画が公表されています。私自身、崩落前に遊歩道を散策してオタモイ海岸の絶景を楽しんだことがあり、立ち入り禁止について残念に思っていたので、オタモイ遊園地の復活を心待ちにしています。
写真:【オタモイ遊園地(龍宮閣)】
4.ご当地グルメ
○寿司
小樽でグルメの代名詞といえば、寿司です。市内には130店以上の寿司店が腕を競っています。小樽の寿司店は古くは明治時代からありましたが、当時は専門店の数は少なく、和食や洋食などと共に出されることが多かったそうです。昭和61年ころから小樽を訪れる観光客から、小樽らしい食べ物をという声が高まりました。そこで当時既に多くの店舗が存在した小樽の寿司をアピールするため、老舗の寿司店が集まり国道5号線から小樽運河へ向かう200mを「小樽寿司屋通り」と命名しました。いまでは小樽寿司屋通は観光客が多く訪れる20店舗以上が軒を連ねる激戦区となっています。寿司ネタは前浜でとれるバフンウニやシャコが、特にお勧めです。
写真:【小樽寿司屋通り】
○あんかけ焼きそば
小樽市民に愛されるB級グルメにあんかけ焼きそばがあります。小樽であんかけ焼きそばと言えば、五目あんかけ焼きそばのことをいいます。多くの店舗で見られる特徴としては、よく焼いた麺と固め・多めのあんがありますが、明確な定義はありません。小樽のあんかけ焼きそばのルーツは昭和30年代に小樽駅前にあった中華料理店が発祥と言われています。中心街で買い物した市民があんかけ焼きそばを食べることが流行し、これが市内の食堂などに広がったと言われています。2019年には兵庫県明石市で開催されるご当地グルメでまちおこしの祭典「B-1グランプリin明石」で4位に入賞するなど、その知名度も上昇中です。
写真:【あんかけ焼きそば】
5.おわりに
小樽には紹介した以外にも明治や大正の当時を偲ばせるレトロな街並みや硝子やオルゴールなど、まだまだ魅力的なものが沢山あります。小樽市内まで新千歳空港からは、車で約1時間ほどの距離ですが、2030年には北海道新幹線新小樽駅の開業も控えておりアクセスも益々良くなります。北海道にお越しの際は、是非小樽にも一度お立ち寄りください。
○参考文献
小樽100年史、小樽市史、おたる案内人、小樽の地名、図説小樽・後志の歴史、北海道の「心臓」と呼ばれたまち小樽とっておきの解説集、小樽のスポット探訪、小樽市役所ホームページ、小樽観光協会ホームページ、小樽天狗山ロープウエイ・スキー場ホームページ、小樽あんかけ焼きそば親衛隊ホームページ
○写真提供
小樽市役所、小樽総合博物館