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路線価でひもとく街の歴史

第35回 「群馬県前橋市」
 
民間主体で再びめぶくシルクロード始点の街
 
 
「つ:つる舞う形の群馬県」、群馬県の名所旧跡や偉人を札にした「上毛かるた」に「ま:繭と生糸は日本一」と読まれる札がある。群馬県は言わずと知れた養蚕・製糸業の産地である。「け:県都前橋生糸(いと)の市(まち)」の札で登場する前橋市は特に生糸の集散地として栄えた。商都高崎に対し前橋は行政機関が集中する政治都市のイメージがあるが、むしろ由来は商業だ。歴史を遡れば城下町で、前橋城が現在の県庁の場所にあったが、利根川を背にする前橋城が度々水害を被るため藩庁が川越に移された。前橋城は明和6年(1769)に廃城となるが、その約100年後、大政奉還のあった慶応3年(1867)に再建され藩庁も前橋に帰ってきた。背景には貿易で富を成した生糸商人らを中心とする帰還運動と寄付があった。
 
生糸でつながる前橋と横浜
前橋の街の中心軸が本町通りである。城下町の町割りに似つかわず緩やかにカーブを描いている。これは本町通りが河岸段丘の上に沿って走っているからだ(図1. 段丘に沿った本町通り)。本町通りに対し、その1筋北の馬場川通りから北は一段低くなっている。本町は生糸の集散地だった。文久元年(1861)、本町通りの複合施設「前橋プラザ元気21」の場所に藩営の生糸改所(あらためしょ)が設立された。上質の証として前橋ブランドを付す施設だ。周辺の農家あるいは町場、今風にいえば在宅ワークで取られた生糸はここで検査を受けなければならなかった。生糸改所は廃藩後も続き、明治11年(1878)に白亜の洋風建築に建て替えられた。
生糸は前橋の荷主(産地問屋)が集荷し、横浜に出荷された。横浜を終点に日本の「シルクロード」と呼ばれる生糸の流通路がいくつかあるが、前橋は始点の1つである。鉄道以前の時代は利根川舟運で運んでいたが、開通後は現在の高崎線に乗せ、赤羽駅から埼京線~山手線に沿って東京都心を迂回。品川から京浜東北線を経由して今の桜木町駅である初代横浜駅まで運んだ。日本鉄道の路線が高崎駅から北進し前橋に到達したのは明治17年(1884)。開業当初の前橋駅は利根川の手前にあった。
このような経緯で前橋は横浜とのつながりが深い。昨年、横浜銀行前橋支店が店舗内店舗の形で高崎支店内に移ったが、それまでは本町にあった。これは源流を辿ると第二国立銀行の前橋支店に行き着く。第二国立銀行に限らず、生糸改所がある本町通りで開業する銀行が多かった。前橋の産地問屋(荷主)が荷為替を組み、前貸金融を受けるためである。前橋と横浜のモノとカネは貿易と同じ仕組みで流れていた。横浜が本店の第二国立銀行は前橋で初めて開業した銀行である。明治2年(1869)に設立された横浜為替会社が前身で、明治7年(1874)銀行に改組。明治9年(1876)に前橋支店を出した。
群馬県史にある横浜為替会社の資料によれば、明治6年(1873)当時、生糸融資の大口が荷主最大手の下村善太郎だった。下村は初代前橋市長でもある。移出先は横浜の輸出商社(売込商)の茂木惣兵衛だった。第二国立銀行は売込商の茂木惣兵衛や原善三郎が設立した銀行で、生糸貿易が元々背景にあった。
その後、第二国立銀行は国立銀行制度の満了とともに第二銀行となり、昭和3年(1928)横浜銀行の前身の横浜興信銀行に営業譲渡された。
地元の国立銀行は、第二国立銀行が前橋支店を出した2年後の明治11年(1878)創業である。第三十九国立銀行といい、県内一番行である群馬銀行の源流である。本店は生糸改所の交差点向かい側にあった。その後、昭和初期の一県一行主義を背景に県の主導で立ち上げた群馬大同銀行に一体化する。昭和27年(1952)、生糸改所の場所に本店を新築。昭和30年(1955)に群馬銀行に改称した。昭和47年(1972)に本店を郊外に移した後は「前橋支店」となった。現在、群馬銀行前橋支店は「前橋プラザ元気21」の向かいにある。ここは明治31年(1898)に群馬県農工銀行ができた場所だ。その後営業が引き継がれて日本勧業銀行になった。
同じ並びのみずほ銀行前橋支店の前身は群馬商業銀行である。織物産地の伊勢崎市が本店の銀行で、明治33年(1900)創業。前橋支店はその翌年に開店した。同行は大正12年(1923)に安田銀行に統合される。戦後は富士銀行に改称した。元々地元行だった経緯から、「富士銀行80年史」の昭和35年(1960)時点でも前橋、高崎、伊勢崎、桐生に支店があった。
県境を接する栃木県の一番行、足利銀行は両毛地域を地盤とし、昭和42年(1967)に宇都宮市に移すまでは足利市に本店があった。桐生支店が最初の支店で今も桐生市の指定金融機関を務めている。同行が前橋に進出したのは大正11年(1922)で、宇都宮支店の出店より2年早い。
 
商業中心地の桑町
他方、明治から昭和にかけて前橋で最も地価が高かった場所は桑町だった。明治期の群馬県統計書、大正15年(1926)の大蔵省土地賃貸価格調査事業報告書でも最高地価は桑町とある。戦後も変わらず、昭和38年(1963)の最高路線価は「桑町2丁目鈴半かばん店前中央商店街通」だった。鈴半かばん店と同じ交差点に麻屋百貨店があった。昭和9年(1934)に開店した前橋初の百貨店である。アール・デコ様式を取り入れた近代建築で平成19年(2007)には国の登録有名文化財に指定された。平成23年(2011)に解体され現存しない。現在は周辺を含め更地(前橋中央イベント広場・駐車場)になっている。
麻屋百貨店は昭和39年(1964)に閉店し、入れ替わりで前三(まえさん)百貨店が開店した。街おこしの一環で市と商工会議所が主導して立ち上げた百貨店だ。とはいえ百貨店の運営ノウハウがなかったため、同業最大手の三越に指導・協力をあおいだ。背景には、前橋商工会議所の伊藤正直会頭と三越の松田伊三雄(いさお)常務(後の社長)が香川県の旧制三豊中学で軍事教練をともにし、慶応大学の同窓だった縁があった。
大図軍之丞(編)「前三百貨店誕生の記」(1971)によれば、当初は「丸越」という屋号を考えていた。マルに越の字が入る三越の商標を読んだものだが肝心の三越に断られ「丸三(まるみつ)」にした。しかしそれでは当時仙台にあった百貨店の「丸光」と同じ音になる。後日のトラブルを避けて「前三」にした経緯がある。前三は開店当初から「三越グループ」を前面に出し、初代社長も三越OBだった。
前橋に都市型百貨店がないことから始まった百貨店プロジェクトだったが、前三開店に合わせたように出店ラッシュが始まった。商工会議所内にデパート設置準備委員会が立ち上がった昭和36年(1961)に十字屋が開店。その翌年、地元のスズラン百貨店が本館を新築し、前三が開店した昭和39年(1964)には長崎屋が進出した。昭和43年(1968)に丸井、昭和47年(1972)にニチイが開店するなど競争環境は一気に厳しくなる。
その後、昭和50年(1975)に西友ストアーができた。後の前橋西武である。この年の決算で1億9千万円の欠損が生じた前三は三越との提携強化を図る。三越からの仕入を増やし、自社従業員を三越に送り販売実習させるなどした。昭和54年(1979)には三越が前三百貨店の株式の過半数を買い取り子会社化。その後、1階から4階フロアに営業面積を縮小するが経営悪化に歯止めがかからず昭和60年(1985)に閉店した。
 
地元百貨店の破たんと車社会化
地元百貨店の破たんに同業や市民は衝撃を受けた。前三閉店に前後して昭和59年(1984)に長崎屋、昭和61年(1986)に丸井が撤退している。前三の破たんには駐車場や規模、営業力の問題が取りざたされたが、ふりかえれば前橋の中心商業自体が縮小傾向にあったようにも思われる。前橋の場合、車社会の到来が他の地方都市より10年早く生じていた。昭和55年(1980)年、群馬県の世帯当たり乗用車保有台数は47都道府県で最も早く1台を超えていた。1台超えとなった都道府県がようやく10を数えたのは10年後の平成2年(1990)。車社会化が進んだのは90年代で、さらに10年後の平成12年(2000)で39県となった。群馬県の乗用車普及率は昭和45年(1970)から平成10年(1998)まで47都道府県中1位だった。現在は福井、富山、山形に次ぐ4位で、世帯当たり台数は1997年以来1.6台である。
郊外大型店の状況をふりかえると平成5年(1993)、グンゼ前橋工場敷地にグンゼ開発がショッピングモール「前橋リリカ」を開発。中心市街地にあったニチイが入居し前橋サティとなった。これをさきがけに郊外大型店の出店が続き、かつ大型化していった。
 
前橋・高崎エリアの「駅前」の高崎駅
最高路線価地点は平成2年(1990)、「本町2丁目前橋東邦生命ビル前本町通り」に移る。前橋の場合、他の地方都市とは違って最高路線価地点が駅前ではない。駅前には昭和62年(1987)にイトーヨーカドーが出店。平成22年(2010)に閉店しEKITA前橋になった。とはいえ特に賑わっているふうでもない。駅前とはいえ前橋駅には新幹線が通らない。
ここで県庁所在地の最高路線価ランキングを見てみる。図4. 県庁所在地の最高路線価ランキングのうち群馬県に群馬県の順位の変遷を示した。まずは80年代の下落に目が留まる。全国に先駆けて群馬県の乗用車普及率が高まった時期に重なる。90年前半の地価高騰期にいったん持ち直したが、90年代後半に再び下落し、今度は最下位まで落ち込んだ。直近は45位である。前橋市は確かに他の地方都市に比べ車社会の到来が10年程度早かった。とはいえ車社会化に伴う空洞化は他の地方都市も同じ経過を辿ったはずだ。これは前橋に「駅前」がないことが反映しているのではないか。前橋の「駅前」のポジションは高崎が担っていると考えられる。
平成9年(1997)、順位を下げる直前の前橋市の最高路線価は125万円/m2。新幹線の停車駅である高崎駅を擁する高崎市は188万円/m2で、前橋市の1.5倍だった。令和4年、前橋市の13万円/m2に対し高崎市は46万円/m2と3倍超に差が広がっている。仮に、前橋市に代え高崎市を県代表として最高路線価ランキングを見た場合、群馬県は平成9年に22位、令和4年に25位となる。高崎市の水準を群馬県の最高路線価と考えれば他の都市に比べ大きく順位を下げたわけではない。いいかえれば、前橋・高崎をまとめたエリア単位で街の中心が街道由来の旧市街から駅前に移ったのだ。
 
次世代の街がめぶく
前橋西武は平成17年(2005)に撤退。店舗は平成19年(2007)に前橋プラザ元気21になった。中心街に今も残る大型店はスズラン百貨店だけである。周辺の商店街はシャッター化が進んだ。
そのような中、最近は少しずつ再生の兆しがうかがえる。きっかけとなったのが平成28年(2016)に前橋市が策定した前橋ビジョン「めぶく。」である。このコンセプトを受け、令和元年(2019)、前橋市アーバンデザインが策定された。「都市の便利さと自然と暮らす居心地の良さを兼ね揃えたまちづくり」という方向性に基づき、まちなか居住、水辺や道路空間の活用などを含む8つの指針が定められている。こうしたビジョンの官民共有を前提に、推し進めるのは民間主体であることが特長だ。
官民連携で目を引くのは「ソーシャル・インパクト・ボンド」(SIB)の取り組みだ。馬場川通りを対象に様々な利活用実験やリノベーション事業を民間委託。成功指標として歩行者通行量を設定し、その達成度合いに応じて委託料が変動するプログラムである。
取り組みが奏功し馬場川通りは変わりつつある。そのシンボルが白井屋ホテルのリノベーションである。元は創業300年の老舗旅館でホテルに転換後廃業。本町通りと馬場川通りの高低差を活かした個性的な建物になった。本町通りから見れば地階となる馬場川通りの部分は緑で覆われ、ベーカリーやカフェ「ブルーボトルコーヒー」が入った。周辺には個性的なショップやレストランが集まって来て、その賑わいは桑町通りの一部に及んでいる。思えば明治のまちづくりの中心は機を捉え果敢に挑戦した生糸ベンチャーをはじめとする経営者集団、「前橋二十五人衆」だった。令和の現代、地元起業家を中心とする民間主体の地元愛と資金が原動力だ。これら原動力の下、かつてのシャッター街に次世代の街のビジョンがめぶく様子が見てとれる。
 
プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。近著に「公民連携パークマネジメント:人を集め都市の価値を高める仕組み」(学芸出版社)
 
図2. 市街図
図3. 広域図
図5. 馬場川通り(上)と旧桑町(下)の街なみ