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歴史と文化の魅力が溢れるまち 
情熱、蔵出し。半田市。
 
名古屋税関豊橋税関支署衣浦出張所長 駒瀬  敏彦
 
1 はじめに
名古屋税関豊橋税関支署衣浦出張所は、愛知県にある知多半島中央部の三河湾に面した半田市に所在しており、同市をはじめ碧南市、大府市、高浜市、西尾市、知多郡(東浦町、阿久比町、武豊町、美浜町、南知多町)の5市5町を管轄しています。
当出張所は、明治32(1899)年8月に大阪税関武豊税関支署として設置された愛知県内で一番歴史のある税関官署です。設置後、昭和12(1937)年に名古屋税関が開設されたことにより名古屋税関武豊税関支署となり、更に昭和32(1957)年の武豊港から衣浦港への港名変更に伴い、昭和34(1959)年5月に名古屋税関衣浦税関支署に改称されました。その後、機構改正により平成11(1999)年7月には名古屋税関衣浦出張所に、2年後の平成13(2001)年7月には名古屋税関豊橋税関支署衣浦出張所となり、現在に至っています。
 
 
2 衣浦港の歴史
尾張と三河に囲まれ、三河湾の奥部に位置する「衣ヶ浦」には、その地形が天然の良湾で海も穏やかであったことから武豊、半田などいくつもの港が点在していました。江戸時代には江戸へ尾張藩の物資、お酒、お酢、塩などが運ばれ、江戸からは肥料、大豆などが運ばれてきて湾岸一帯は大いに繁盛していました。明治に入り東海道本線が建設されることになり、その建設資材は船で運ぶ以外の手段がなかったことから、名古屋に近い武豊港が陸揚げ港として利用され、また、武豊~熱田間の鉄道の開通などにより海陸連結地となった武豊港の発展が期待されました。明治32(1899)年、武豊港は開港場に指定されたものの、港湾設備が不十分で大型船舶への対応ができなかったことから港の整備へ期待が寄せられましたが、県の築港計画が熱田港(名古屋港)の築港に全力が傾けられ、港湾整備は十分に進みませんでした。その後、昭和32(1957)年には湾内の武豊、半田、新川、平坂等8港を統合し港湾法に基づく重要港湾に指定され、このとき「衣浦港」と名付けられました。
一方、昭和10年代から外国貿易船の入港隻数が減少し、開港閉鎖の危機が続いていました。危機感を持った地元関係者の努力もあり、昭和36(1961)年の港湾整備10か年計画において3,000メートル防波堤や中央ふ頭の建設、臨海工業用地の造成などが盛り込まれ、工事が進むにつれ電力、鉄鋼、木材、穀物関係の企業が進出し、徐々に外国貿易船の入港が回復していきました。
現在の主要輸出入品目は、輸出では鉄鋼、航空機類、金属鉱及びくず、輸入では石炭、とうもろこし、液化石油ガスとなっています。古くからこの地域の人々に支えられ、また、人々の生活を支えてきた衣浦港は、今日も地域産業の発展に重要な役割を果たしています。
 
写真 【衣浦港全景】
 
 
3 新しいまちづくり
半田市は人口約12万人、古くから醸造業や運河を生かした海運業が盛んであり、知多地域の中心都市として栄えてきました。令和4年10月1日には市制施行85周年を迎え、翌年3月まで市内各所で記念事業が行われます。新しいまちづくりも注目されており、今年4月には「はんだプライド~辿る足跡、挑む未来~」をコンセプトにJR武豊線半田駅周辺の整備方針が公表されました。武豊線は、東海道本線の名古屋への早期開通を目指して建設資材運搬のために敷設され、明治19(1886)年に開業した県内最古の路線です。武豊線で運行されていた蒸気機関車、現存する日本最古の跨線橋であった半田駅跨線橋、油庫などの鉄道遺産と半田市の特色である蔵の風景を生かしたまちづくりが進められています。
 
写真 【半田駅イメージ】
 
 
4 半田市の見どころ
(1)徳川家康ゆかりのお寺
令和5年に徳川家康の生涯を描くNHK大河ドラマが放映されます。市内には家康公と深いゆかりのある常楽寺があります。常楽寺は、文明16(1484)年に開かれた知多半島で一番大きなお寺です。第8世の住職が家康公の従兄弟であったことから、永禄3(1560)年の桶狭間の戦い後に三河に戻るときなど、生涯3度訪れたと言われており、家康公から拝領した鐙と鞍、茶碗等が今でも大切に保管されています。また、お寺のご本尊阿弥陀如来立像は、弘長3(1263)年円覚作とされ国の重要文化財に指定されています。
 
写真 【常楽寺】
 
(2)「ごんぎつね」を訪ねて
童話「ごんぎつね」は、半田市出身で児童文学作家の新美南吉が書いた代表的な作品です。南吉の作品は教科書に採用されるなど多くの方々に親しまれています。そんな南吉や作品に触れ合うことができる場所が市内にたくさんあります。まずは南吉の生家*1、渡辺家です。ここでは父が畳屋、継母が下駄屋を営んでおり、当時の生活や仕事の様子が再現されています。生家の近くには童話「ひよりげた」などに登場する「常福院」というお寺があります。ここでは南吉もよく盆踊りを踊っていたそうです。
「新美南吉記念館」*2では、南吉直筆の原稿、日記、手紙などの展示や南吉の全集や絵本などを読むことができます。また、「ごんぎつね」など代表作のジオラマやビデオシアターで南吉や作品をより身近に感じることができます。
「新美南吉記念館」の近くには南吉がよく散歩をしていたといわれる矢勝川が流れています。この川の堤防には300万本の彼岸花が東西約1.5kmにわたって植えられており、9月下旬から10月上旬に真赤な花が咲き誇ります。この彼岸花は「ごんぎつね」の一節を再現するため、地域住民が協力しあい植栽したとのことです。また、この矢勝川河畔には「ごん」が佇むベンチがあり、撮影スポットとしても人気です。「ごん」に思いを馳せながら、散策してみてはいかがでしょうか。
 
写真 【新美南吉記念館内風景】
写真 【「ごん」が佇むベンチ】
 
 
5 すしのまち
半田市は古くから醸造業が盛んで、近くに豊かな漁場があり新鮮な魚が手に入りやすかったため、たくさんのお寿司屋さんがあります。それぞれのお店では独自の趣向を凝らした創作すしや大将おまかせのすしが味わえます。なかでもおすすめは江戸時代の握りずしを現代版にアレンジした「尾州早すし」です。もともと、おすしは魚を塩と米で発酵した「なれずし」でしたが、江戸の町では熟成不要ですぐに食べられる「早すし(握りずし)」が流行しました。当時は高価な米酢が使用されていましたが、半田では酒造りが盛んで酒粕が豊富にあったことから、お手頃ですし飯に合う風味と旨みを持つ粕酢が造られ、庶民にも広く親しまれるようになりました。ここだけでしか味わえない「尾州早すし」は、粕酢と仕込みタネを使用し、一貫はふつうの握りずしのおよそ2.5倍の大きさが特徴です。ぜひ、味わってみてください。
 
写真 【左が尾州早すし】
 
 
6 おわりに
「情熱、蔵出し。半田市。」は半田市のキャッチフレーズです。
半田市では今回紹介したところのほか、お酢、日本酒、ビール醸造のミュージアムや知多牛など地元食材を使った食が楽しめ、親子で遊べる公園も充実しています。
また、令和5年10月28日~29日には市制85周年プラスONE事業として、5年に一度市内の山車31輌が勢ぞろいする「第九回はんだ山車まつり」が開催されます。
歴史と文化の魅力が溢れる半田市にいちどお出かけください。
資料・写真協力 半田市役所、愛知県衣浦港務所
 
*1) 「南吉の生家」はリニューアル工事のため令和4年10月24日~令和5年1月3日まで休館
*2) 「新美南吉記念館」はリニューアル工事のため令和4年11月7日~令和5年1月3日まで休館
 
 
 
 
世界自然遺産の島 奄美大島
 
長崎税関鹿児島税関支署 名瀬監視署長 宮坂  空
 
1 はじめに
世界に誇る自然豊かな奄美大島は、令和3年7月に徳之島や沖縄本島北部及び西表島とともに世界自然遺産に登録されました。これは、アマミノクロウサギなどの希少な固有種を含む多様な生物が生息・生育していることが評価されたものです。
名瀬監視署は、奄美大島の中央部に位置する奄美市名瀬に所在する税関の官署です。奄美群島(奄美大島、加計呂麻島、請島、与路島、喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島)を担当区域とし、警察、海上保安庁等の関係取締機関との連携に当たる他、地元の地方港、漁協などを訪問して情報収集などの業務に当たり、日々密輸の取締を行っています。
本稿では、世界自然遺産登録によって注目されている奄美大島の自然や文化などを名瀬監視署の沿革とともにご紹介します。
 
 
2 奄美大島の自然
(1)地理と気候
奄美大島は、鹿児島県本土と沖縄県のほぼ中間にある島であり、鹿児島県の奄美群島に属しています。面積は約712平方キロメートルで、本州など本土を除くと佐渡島に次いで日本で5番目に大きな島です(択捉島>国後島>沖縄本島>佐渡島>奄美大島)。
島内には、奄美市、大和村、宇検村、瀬戸内町、龍郷町の5つの市町村があり、人口は約6万人です。島の北の方では平坦な地形を利用してサトウキビ栽培が行われています。一方、島の中心部から南部にかけてはほとんどが森林で、亜熱帯照葉樹林が広がっています。
周囲を海に囲まれた奄美大島は、亜熱帯海洋性気候と言われます。年間平均気温は約22度であり、鹿児島市の19度と比べて3度、東京都の16度と比べて6度暖かい気候です。降水量は年間2935.7mmで、日本でも有数の多雨地帯となっています。夏から秋にかけては台風の通り道になることが多く、冬は低気圧の影響で北西風が強く、曇り空が続く厳しい環境のため、島に生活物資を運ぶ定期船が荒天で欠航すると、スーパーでは牛乳や野菜等の生鮮食品やパン、比較的日持ちする食品(缶詰、カップラーメン等)が品薄になってしまう現象も珍しくありません。
 
写真 名瀬港に停泊する定期船
 
(2)豊かな海
奄美の海には、美しいサンゴ礁や白い砂浜がいたる所にあり、サーフィン、スタンドアップパドル、ウェイクボード、ダイビング、シュノーケル、フィッシング、シーカヤック、パラグライダー、セーリングなど、マリンスポーツを楽しむ方がたくさんいます。
また、1月から4月にかけては、ザトウクジラが繁殖や子育てのため奄美近海に来遊します。ホエールウォッチングツアーではかなりの確率でクジラと遭遇できるようです。
奄美大島と隣島の加計呂麻島にはマングローブ群落があり、マングローブ群落としては日本の北限に位置し、中でも奄美大島住用地区のマングローブ群落は、西表島(沖縄)に次いで国内では2番目となる広大な面積を誇っており、カヌーでマングローブ群落を通り抜ける体験もできるため、人気の観光スポットとなっています。
 
写真 土盛海岸
写真 マングローブ(写真提供:奄美市)
 
(3)貴重な動植物
奄美大島やその周辺の島には、ここにしかいない固有種と言われる動植物が多く息づいています。猛毒で知られるハブや、天然記念物として保護されているアマミノクロウサギ、オオトラツグミ、ルリカケス、アカヒゲ、オカヤドカリ、アマミイシカワガエルなどの他、絶滅危惧種のリュウキュウアユ、アマミヤマシギ、アマミマルバネクワガタや、奄美大島の固有種であるアマミセイシカ、アマミエビネなど、貴重な動植物が多く生育・生息しています。
奄美大島の中央部に位置する「金作原原生林」は太古からの植物や希少な動物が生息しており、認定エコツアーガイドに同行してもらうことで散策ができます。アマミノクロウサギなど、夜にしか会えない動物もいますが、夜の森のガイド付きツアーもありますので、参加してみてはいかがでしょうか。
 
写真 ルリカケス
写真 アマミノクロウサギ
 
 
3 奄美大島の歴史と特産品
(1)明治維新と奄美の黒糖
奄美の特産品と言えば、サトウキビを原料とした黒糖が有名ですが、奄美で黒糖が製造されるようになったのは、江戸時代以降のことです。
江戸時代より前の奄美群島は琉球王国の支配下にありましたが、17世紀に入り江戸幕府が開かれると、奄美群島(及び琉球王国)は薩摩藩の侵攻を受け、結果、奄美群島は同藩直轄地となりました。
サトウキビの栽培と製糖が奄美大島で始まったのは、17世紀と考えられており、中国福建省から伝わったとする説、琉球から伝わったとする説があり、はっきりとは分かっていません。伝来以降、藩の奨励によりサトウキビの栽培が本格的に始まります。
18世紀になると、黒糖の専売によって利潤を得るため、藩によるサトウキビの強制割り当て栽培と買い上げ政策が始まりました。この制度が始まった頃は農民がサトウキビを自由に販売することもできましたが、次第に栽培が強制されるようになっていきます。1947年には換糖上納となり、米で納めていた税を黒糖に換算して納付することが始まると、稲作(水田)からサトウキビ栽培(畑作)への転換が強いられました。最も過酷な時期は「黒糖地獄」とも呼ばれ、サトウキビの刈り残しが多いだけでも厳しい罰が下されたと言われます。
薩摩藩は大阪で黒糖を高値で販売し大きな利益を得ます。明治維新で重要な役割を果たした同藩ですが、その財政を支えたのが奄美の黒糖でした。
写真 黒糖を製造する様子(奄美市立奄美博物館所蔵「南島雑話」)
 
(2)奄美群島の特産品
黒糖は奄美大島を代表する生産品ですが、他にも有名なものとして「大島紬」、「奄美黒糖焼酎」があります。
大島紬は絹100%であり、30以上もの工程を経て作られる生地は、出来上がるまでに半年から1年以上かかります。その歴史はおよそ1,300年といわれており、ペルシャ絨毯、フランスのゴブラン織りとともに世界三大織物に数えられています。全作業工程の見学や、一部工程の体験ができる施設、着付けが体験できる施設もありますので、紬の魅力を是非味わってください。
奄美黒糖焼酎は黒糖が原料で、すっきりとした甘みが特徴です。日本では酒税法上、奄美群島だけでしか作ることが認められていない焼酎で、多くの島民に愛されています。工場見学、試飲ができる蔵元もありますので、お気に入りの銘柄を探してみてはいかがでしょうか。
 
写真 本場奄美大島紬(写真提供:奄美市)
写真 黒糖焼酎(写真提供:奄美市)
 
 
4 名瀬監視署の沿革について
奄美大島に税関が設置されたのは、昭和28年12月に奄美群島が本土復帰(奄美群島は沖縄県と同様に戦後米国軍政府に統治されていました)したのに伴い、現在の奄美市名瀬に「名瀬税関支署」が設置されたのが始まりです。名瀬税関支署の下部組織として、奄美大島の古仁屋、徳之島の亀津、与論島、沖永良部島の和泊、喜界島の早町にそれぞれ監視署(昭和30年に全て出張所に昇格)が設置されました。
昭和31年には沖永良部島に知名監視署、昭和35年には徳之島に平土野監視署、昭和41年には奄美大島に奄美空港出張所及び名瀬外郵出張所が設置されました。なお、上記名瀬税関支署等の業務のほとんどは当時外国であった沖縄との貿易によるものでした。
昭和47年沖縄の本土復帰に伴い、名瀬税関支署も鹿児島税関支署名瀬出張所となり、また、7つの出張所のうち古仁屋と与論が監視署として残り、知名監視署と合わせて、奄美大島の官署は1出張所と3監視署となりました。
奄美群島の本土復帰に伴い開港(貨物の輸出入、外国貿易船の入出港が政令によって許されている港)指定を受けた名瀬港も、昭和49年閉港(開港ではなくなった)となり、昭和50年名瀬出張所も監視署に改称、残っていた監視署も次々と廃止となり、ついに昭和60年名瀬監視署も廃止され、奄美群島の税関官署すべてが廃止となりました。
しかし、平成6年に奄美大島において覚醒剤の大量密輸入事件が発生し、南西諸島周辺海域における多くの不審船舶情報等から、南西諸島における社会悪物品密輸入の危険性は極めて高いと認識し、平成7年長崎税関に「南西諸島取締対策室」が設置され、その下部組織として奄美大島に名瀬事務所が開所されました。
当初は、正式の機構としては認められなかったため、交代制で職員3名が常に勤務する長期出張形態で、離島地域の監視取締り、不開港の実態調査、情報収集活動に加え、警察、海上保安庁合同の密輸防止キャンペーンの実施、けん銃・麻薬等水際対策関係機関連絡会議の開催、けん銃等水際対策合同訓練等を行いました。
その後、平成9年に正式の機構として認められ、長崎税関鹿児島支署名瀬監視署が復活したのです。
現在私を含め3名の職員で、南北約216kmにおよぶ担当区域における監視取締り及び情報収集を担当し、日々、関係取締機関との不正薬物やけん銃などの密輸入に発展する可能性のある情報交換や情報収集、港における不審な行動をとる船舶などに対する監視取締りに力を注いでおり、奄美大島を中心に群島内における関税法違反事件の事前情報入手、発見、摘発をすべく日々の業務に当たっています。
 
写真 旧名瀬税関支署
 
 
5 終わりに
世界自然遺産登録によりその豊かな自然が注目されている奄美大島ですが、自然以外にも文化や食べ物など魅力的なものがたくさんあります。
例えば、奄美の宴や祭りに欠かせない島唄です。裏声を用いる独特の歌唱法が特徴で、主に用いる楽器はサンシン(三線)です。生の島唄を聞くことのできる郷土料理のお店もあるので、是非聞いてみてください。
また、奄美の郷土料理として「鶏飯」という料理があります。茶碗に盛った米飯に、ほぐした鶏肉、錦糸卵、シイタケ、パパイヤ漬け等の具材と葱、きざみ海苔、刻んだタンカンの皮、白ごま等の薬味を載せ、丸鶏を煮て取ったスープをかけて食べる料理で、鹿児島県では給食の定番メニューです。
奄美大島は豊かな海や、希少な生き物を育む熱帯雨林、琉球と薩摩が混じりあう特異な文化を持つ地域です。是非一度お越しいただきその素晴らしさを知っていただければ幸いです。
 
写真 鶏飯(写真提供:奄美市)
 
 
(画像提供)
・奄美市
(参考資料)
・もっとわかる奄美大島(奄美市発行)
・令和3年度奄美群島の概況(鹿児島県大島支庁発行)
・長崎税関のあゆみ 50年史