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路線価でひもとく街の歴史

 
第32回 「三重県四日市市」
大黒柱に車をつけた街の未来
 
 
東海道の辻と浜町・蔵町ビジネス街
四日市は東海道43番目の宿で桑名の次である。桑名の1つ前が宮宿(熱田)で宮と桑名の間は海路だった。木曽川、長良川、揖斐川のいわゆる木曽三川が陸路を阻んでいたからだ。海路は「七里の渡し」と称されるが、宮宿から四日市宿にバイパスする海路もありこちらは「十里の渡し」と呼ばれていた。
要するに四日市は陸海両路の拠点だった。これを反映し、東海道沿いの宿場町、伊勢湾に面した港町、そして宿場町と港町をつなぐ浜往還沿いに市街地が発展した。東海道と浜往還の交差点を「辻」といった。ここが街の中心で、陣屋(幕府の代官所)も近くにあった。大正15年(1926)の土地賃貸価格調査事業報告書によれば四日市の最高地価地点は「北町・南町の辻」だった。大正末期に至って辻は街の中心であり続けた。
四日市港は明治期を通じて伊勢湾最大の港で、名古屋港を上回る取扱量だった。明治17年(1884)に近代港が完成。横浜港の象の鼻防波堤と同じく、片方がJの字に湾曲している大小2本の波止場が特徴だ。築港に貢献した稲葉三右衛門を顕彰し地名は稲葉町となった。明治22年(1889)には特別輸出港に指定された。後背地の蔵町は文字通り倉庫が軒を連ねており、その先の浜町にわたって銀行も集積していた。
名古屋の外港としての背景から荷為替需要が高かった四日市の銀行の歴史は古く、明治10年(1877)には三井銀行が出張店を置いている。明治25年(1892)、支店に昇格し明治38年(1905)まであった。第一国立銀行は名古屋より4年早い明治17年(1884)に出店。出店時に出張所だった名古屋に対し四日市ははじめから支店だった。明治34年(1901)に愛知銀行が出店。後の東海銀行、現在の三菱UFJ銀行である。横浜が本店の左右田銀行が明治37年(1904)、津市に本店を構える百五銀行は大正12年(1923)の進出だ。
四日市に本店を構えた銀行が明治28年(1895)創業の四日市銀行である。明治43年(1910)に新たな本店を蔵町に構えた。昭和恐慌の余波で休業したが再建を果たし昭和14年(1939)に三重銀行に改称した。昨年の経営統合で三十三銀行となった
波止場の遺構(「潮吹き防波堤」)から蔵町、浜町を歩いてみても今は閑散としており明治のビジネス街の面影はない。その先の、東海道と交わる「辻」に至る浜往還そして旧東海道は住宅地だ。明治時代、菰野道は「中町銀座」と称されるほど賑わっていた。もっとも、通りに沿って和菓子の老舗が点在するところに名残を感じる。旧東海道の北町の老舗、四日市みやげの定番「なが餅」の笹井屋は天文19年(1550)創業だ。
 
 
関西鉄道と四日市駅
四日市は東海道の宿駅にもかかわらず官営鉄道の東西幹線から外れてしまった。鉄道の「東海道本線」が名古屋から岐阜に北上し中山道のルートを辿ることになったからである。旧東海道を辿る路線は四日市発祥の私鉄が整備した。社名を関西鉄道といい、明治21年(1888)に設立された。東海道本線に合流する滋賀県の草津から3度目の延伸で四日市に到達。明治23年(1890)の開業だった。名古屋までの全線開通は5年後の明治28年(1895)まで待たねばならなかった。鉄道敷設においても木曽三川の架橋がボトルネックとなっており、創業年に着手した架橋工事が全線開通まで続いていた。明治40年(1907)に国有化され、その後名古屋駅から柘植駅までが関西本線、柘植駅から草津駅までが草津線となった。ちなみに亀山から分岐して伊勢方面に向かう現在の紀勢本線のうち、津までは関西鉄道の支線として敷設されている。
 
 
街の中心は諏訪新道へ
明治40年(1907)、諏訪神社の門前に諏訪新道が整備される。50余年後には四日市のメインストリートになるが、開通当初は市街地の外側にあった。大正に入ると諏訪新道のさらに外側に郊外鉄道が敷設された。
まずは三重鉄道線である。大正2年(1913)時点で西郊の八王子村から諏訪神社の裏手の諏訪前駅まで開通していたが、大正4年(1915)に市街の南側を迂回するルートで四日市駅まで延びた。後の近鉄八王子線、現在の四日市あすなろう鉄道である。一般的な電車に比べ車幅が狭い「ナローゲージ」で知られている。社名「あすなろう」の由来でもある。次は四日市鉄道である。大正2年に湯ノ山駅から諏訪町まで開通していたが、大正5年(1916)に三重鉄道と同じルートで四日市駅まで延びた。後の近鉄湯の山線である。
最後は伊勢鉄道である。当時、津に行くには関西本線亀山駅で乗り換える“く”の字のルートを辿らざるをえなかった。これを短絡し四日市と津を結ぶ目的で大正4年に創業。路線は大正11年(1922)に完成した。大正14年(1925)に熊澤一衛が社長に就任。桑名から伊勢神宮まで縦断する拡大路線に転じ、翌年「伊勢電気鉄道」と改称した。とはいえ四日市駅から北に線路を延ばすには市街地を迂回する必要がある。そこで四日市駅から諏訪駅までの路線を、子会社化した三重鉄道から譲り受けることにした。昭和4年(1929)に四日市駅から桑名駅まで延伸を果たしたが、四日市駅と諏訪駅の近辺で大きくクランクする線形になった。市内2か所の急カーブは目印となった施設にちなみ善光寺カーブ、天理教カーブと呼ばれた。
なお伊勢電気鉄道は昭和5年(1930)に大神宮前(伊勢神宮の外宮の前面)まで延伸し当初の目標を果たす。次の目標として名古屋延伸を目指したが設備投資が重荷となって経営難に陥り、昭和11年(1936)、伊勢神宮に向け志摩半島を並走していた競合の参宮急行電鉄に統合された。悲願だった名古屋延伸は、昭和13年(1938)に(現在の)近鉄系の関西急行電鉄によって果たされることとなる。戦後、江戸橋駅(津市北郊)以南の並走区間は廃止され、江戸橋駅以北が現在の近鉄名古屋線として残った。
鉄道路線に引き寄せられるように四日市の中心街は徐々に南下。戦災そして復興事業を経て、街の中心は諏訪新道に移った。道沿いに銀行も集まってきた。諏訪新道は諏訪神社を上手に諏訪町、沖ノ島町、本町の3町に区分されるが、まずは諏訪町に三井、三菱銀行が進出。東海銀行が蔵町から移転してきた。沖ノ島町には百五銀行が昭和26年(1951)に移転。昭和27年(1952)、その並びに三重銀行が本店を構えた。蔵町の旧本店は空襲で焼失していた。現在の三十三銀行新道支店である。本町には第一銀行が昭和21年(1946)に移転。交差点のはす向かいに三重県農工銀行を前身とする日本勧業銀行があった。
昭和35年(1960)の最高路線価地点は、「四日市市新田町三重交通案内所北側通」だった。三重交通案内所は国道1号と交差する側の諏訪新道にあった。ただし諏訪新道が最高路線価地点だった時代は長くない。昭和40年前後には近鉄四日市駅前にその座を譲ることになる。その要因が近鉄四日市駅の登場と、近鉄四日市駅前から国鉄四日市駅まで東西1.9kmを結ぶ中央通りの開通である。道路の軸線と重ねて両駅をシンボリックに配置したシンボル中央通りはその幅員から70m道路とも呼ばれた。その広大さから、供用前の昭和27年(1952)には「講和記念全日本農機具・新日本産業大博覧会」の会場になった。今もうっそうとしたクスノキ並木が印象的な公園道路だ。道路整備とあわせて旧諏訪駅と旧四日市駅の間の線路を撤去。旧四日市駅から西にクランクしていた線形を直線化し、旧諏訪駅の背後に近鉄四日市駅を新設した。開業は昭和31年(1956)である。当時の中央通りは近鉄四日市駅で行き止まりで、駅前広場にUターン用のロータリーが設けられていた。昭和35年(1960)には駅ビルに近鉄百貨店が開業した。
 
 
大黒柱に車をつけよ
四日市は全国でショッピングモール等を展開するイオングループの発祥地である。改称前の“ジャスコ”の前身3社の1つが四日市で創業した岡田屋呉服店である。岡田屋は「大黒柱に車をつけよ」という家訓で知られる。実際、店の大黒柱がどのように動いてきたか「ジャスコ三十年史」(2000、ジャスコ株式会社)をひもといてみよう。四日市の街の中心の歴史と重なるはずだ。図1 市街図に、岡田屋~ジャスコの本店の場所の変遷を丸数字で示した。
創業地は西町に直交する「久六町」だった。宝暦8年(1758)に初代岡田惣左衛門が「篠原屋」を旗揚げした。当時は行商、今風にいえば無店舗販売が主で太物(綿・麻生地)、小間物(和雑貨)を扱っていた。明治20年(1887)、5代惣右衛門の代に「辻」へ移転。ここに店の大黒柱が立ち岡田屋の店名が登場する。住所は南町一番屋敷で堅町通に面していた。手狭になったため明治30年(1897)に同じ辻界隈で移転。住所は北町一番屋敷で辻から西町通に入った場所だった。
7代目当主、イオングループ名誉会長の岡田卓也氏が昭和21年(1946)に社長に就任。辻の店と地所を諏訪新道の地上権と交換し、昭和24年(1949)に新店を開いた。予想を上回る盛況で10年足らずで売場面積5倍、売上10倍になった。一方、近鉄四日市駅周辺の変貌から将来の発展を見越し旗艦店の出店を決断。昭和33年(1958)に駅前オカダヤが開店した。このとき岡田屋からカタカナ表記に変えている。昭和34年(1959)、駅前オカダヤは百貨店法の営業認可を受け百貨店となり、あわせて本店を移した。
その後岡田屋、兵庫県姫路市のフタギ、大阪府吹田市のシロの3社が提携。昭和44年(1969)にジャスコ株式会社を設立した。ジャスコはJapan United Stores Companyの頭文字で社内公募を通じて選ばれた。まずは3社共同出資の本社機構を設立し、後に集約統合する経緯を辿った。
当時の最高路線価地点は「諏訪栄町堀木屋菓子店前通り」だった。中央通りの駅側である。オカダヤ改めジャスコオカダヤ四日市店は堀木屋菓子店の2軒隣にあった。この年に既存店を改装し、向かい側に新館を新築している。このように、岡田屋~ジャスコの本店は辻から諏訪新道、近鉄四日市駅前と移り変わってきた。たしかに街の中心の変遷と一致している。
その後も駅前周辺はジャスコ四日市店と近鉄百貨店がけん引する形で発展する。昭和48年(1973)には近鉄四日市駅が高架化。高架化に伴う再開発が進み、昭和63年(1988)に近鉄系のファッションビル「スターアイランド」が完成した。平成3年(1991)には駅の西側の工業高校跡地に、都市公園を中心に博物館、ホテル、百貨店等からなる複合施設「アムスクエア」が完成、松坂屋が進出した。もっとも最高路線価のピークはその翌年の平成4年(1992)だった。
 
 
ウォーカブル視点の「ニワミチ」再生
90年代に本格化した商業の郊外化も四日市においてはジャスコが主役だった。昭和51年(1976)、日永カヨーSCに日永店が出店。平成5年(1993)に建て替え大規模化した。同じ国道1号沿いに平成7年(1995)、中部初のディスカウント業態のパワーシティー四日市が出店した。平成10年(1998)、四日市ICに至る国道477号沿いにジャスコ四日市尾平店が開店した。そして平成13年(2001)、ジャスコ四日市北店がオープン。海を除く3方から郊外店に囲まれる形となった四日市の駅前中心街だが、その年のうちに松坂屋が撤退。翌年の平成14年(2002)にジャスコ四日市店が閉店した。
かつて本店だったジャスコ四日市店の閉店から20年経ち、商店街には空き店舗が見られるものの住まう街として再生の兆しがうかがえる。諏訪新道などかつての中心街にマンションが建ち、住民も増えてきている。ジャスコ四日市店の跡は旧本館が平成20年(2008)に18階建、旧新館が平成29年(2017)に15階建のマンションになった。
最高路線価地点は平成23年(2011)から「安島1丁目ふれあいモール通り」になった。近鉄四日市駅の北側の高架下とその東西の公道を街路状に一体整備したオープンモールである。通りの突きあたりにトナリエ四日市がある。元のアムスクエアで平成17年(2005)の改装後「ララスクエア」になり、昨年から今の名前になった。シネコンや総合スーパーが入る。
四日市はリニア新幹線が開業する令和9年度(2027)を目途に中央通りの再編を計画している。近鉄とJRの四日市駅の間の車道を南側に寄せて車線を減らす。幅70mの空いた部分はどうするか。近鉄四日市駅に近い方にバスターミナル「バスタ四日市」を整備。その先JR四日市駅までの区間は中央緑地とまとめて公園化する。クスノキ並木の豊かな緑が織りなす街の「ニワ」、歩いて楽しい「ミチ」を合わせた言葉の「ニワミチよっかいち」が中央通り再編のコンセプトだ。9月22日から10月16日まで再編後の中央通りを体験するための社会実験「はじまりのいち」が開催された。中央緑地帯にスケートボードパークが登場し、飲食や物販の出店が連なる。自動運転バスや小型カートが運行されるなど次世代モビリティ実証実験も兼ねている。
ふりかえれば四日市の街の大黒柱も車をつけて動いてきた。街の場合、その中心がこれまで動いてきたという意味に加え、時代に応じて中心街の機能が変わるという意味がある。過去の賑わいを求めるタイプの活性化にとらわれることなく、次世代の街の機能を見据えた活性化像と、まちづくりにかかる柔軟な発想が求められよう。「ニワミチ」の取組みはその1つだ。
 
 
プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。専門は地域経済・金融。単著に「自治体の財政診断入門」(学芸出版社、2022年)
 
 
図2.広域図
図3.再編後の中央通りイメージ