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瀬戸内海今昔~神話の時代から瀬戸内国際芸術祭2022まで~(上)

 
元国際交流基金 吾郷  俊樹
 
 
1瀬戸内海の今~ベネッセアートサイト直島と瀬戸内国際芸術祭
3年ごとに開催され、前回2019年には117万8千人の来場者を迎えた瀬戸内国際芸術祭が本年4月から開幕。8月からの夏の部も終わり、秋の部は9月29日から開始。
環境省のWebsiteによると、瀬戸内国際芸術祭の舞台、瀬戸内海地域は、「昔から我が国の政治・経済・社会・文化のいろいろな分野にわたって、いつも先進的な歩みを進めてき」た「瀬戸内海地域は文化の大動脈として、絶えずこの橋渡しの役割を果たしてき」たという。
山陽新幹線も山陽自動車道もない時代、大陸との交流は九州から都まで瀬戸内海を海路によるという。本州と四国を結ぶ瀬戸大橋(昭和63年)、明石海峡大橋(平成10年)、しまなみ海道(平成11年)の3本のルートが開通して久しいが、700あるという瀬戸内海の島々の多くは今も船で結ばれている。
1934年に雲仙、霧島とともに日本で最初の国立公園となった瀬戸内海国立公園は「備讃瀬戸を中心に紀淡・鳴門・関門・豊予の4つの海峡に囲まれた地域のうち、広い海域とそこに点在する島々、それを望む陸地の展望地」が公園区域として指定されている。
日本の港湾や内海、海峡など多数の船が行き交い、また地形や水路が複雑で気象や潮流の状況が厳しい危険な水域では、水先案内人(水先人。;大昔から“パイロット”と呼ばれる。)が大型船に乗り込み、安全且つ効率的に船を導く。水先人は1級から3級までの国家資格で、1級水先人は外航船船長とほぼ同等の報酬という。日本にある34の水先区(水先人が業務を提供する水域)のうち瀬戸内海が水域の内海水先区は面積が最大。
今回は、神話の時代から現在までの瀬戸内海を巡る今昔のお話。まずは現在。長年にわたるベネッセアートサイト直島(BASN)のアート活動と5回目となる瀬戸内国際芸術祭(主催:瀬戸内国際芸術祭実行委員会、会長:池田豊人 香川県知事、総合プロデューサー:福武總一郎 公益財団法人福武財団理事長、総合ディレクター:北川フラム アートディレクター)。瀬戸内国際芸術祭2022の作品としても紹介されているが、瀬戸内国際芸術祭前から直島、犬島、豊島などで展開されているBASNについてのご紹介から。
写真.どこまでが瀬戸内海か? 「瀬戸内海環境保全特別措置法」の定義によると瀬戸内海は「一 和歌山県紀伊日の御岬灯台から徳島県伊島及び前島を経て蒲生田岬に至る直線、二 愛媛県佐田岬から大分県関崎灯台に至る直線…に至る直線及び陸岸によって囲まれた海面」。出典:中国地方整備局ホームページ瀬戸内海の定義(mlit.go.jp)
 
(1)直島
岡山駅から南へ約1時間の宇野港からフェリーで20分、最近は日本人にも知られてきた直島へ。高松からだと1時間程かかるがここは香川県。港に近づくと出迎えてくれるのは直島のシンボル的作品の一つ、「赤かぼちゃ」。1950年代にニューヨークに渡り、反復する水玉や網の目の表現で知られる、現在、おそらく世界でもっとも有名な日本人現代アーティスト、草間彌生の作品。フェリーが到着する「海の駅直島」は、金沢21世紀美術館の設計者、建築界のノーベル賞と言われるプリツカ―建築賞受賞者で、今年、国際理解の礎となる文化芸術の発展に貢献した世界の芸術家に感謝と敬意を捧げ、その業績を称える高松宮殿下記念世界文化賞を受賞したSANAA(Sejima and Nishizawa and Associates妹島和世・西沢立衛)の開放感溢れるガラス張りのターミナル。ここが瀬戸内海の小さな島、現代アート作品や著名建築家の建築、家屋や寺社などを改修し、空間そのものを作品化した「家プロジェクト」が島の各地に散らばり、世界でも知られる直島ワールドの入り口。
 
ベネッセハウス
ベネッセアートサイト直島代表の福武總一郎が「過度の近代化や都会に対する明確なレジスタンスとして、単なる箱物」ではなく理念ある文化村を作りたいという思いから、「大都市が象徴するお金や物質的な文明」の最たる都市、東京を反面教師にしようと大阪出身の安藤忠雄に依頼。1992年に完成したベネッセハウスは美術館の中にレストランもホテルもあり、自然とアートに包まれ食事をし、泊まることもできる当時は世界中どこにも類のない場所。「自分自身を忘れさせる都会と違い、自分自身を取り戻す場、考えさせる場所」と福武は語る。アートと建築と自然環境が一つになって呼応しあっているというベネッセハウス。最初の広い円筒形のギャラリーに一つだけ展示されている、ブルース・ナウマン「100生きて死ね」。100本のネオン管のそれぞれに様々な動詞や形容詞が結び付き点滅する作品。1995年に福武書店がベネッセコーポレーションと社名変更、その「Benesse=よく生きる」という概念を導入するにあたり、それにふさわしい象徴的な作品としてどうしても欲しかったという福武が一度シカゴの資産家が落札したのを1年後に執念で買い戻したものだという。
安田侃「天秘」。ベネッセハウス地下一階のギャラリーの一番奥のテラス、幅・奥行・高さ9mのコンクリ-トの壁、空に解放された空間に平たく丸い大理石の彫刻。このコンクリートの壁で囲まれた空間、「これはと思う何人かのアーティストに作品プランを依頼したが、…結局だれも空間をうまく使うことができなかった。…考えあぐねているときに安藤忠雄から安田侃の名前が挙が」ったという。美術館から「このスペースに入りたくなるものを。」とのリクエスト。安田侃は、「石そのものを見せるのではなく、その上の空間を感じさせ、天とつながるものにする」作品、「天秘」で応える。「手のひらが何かを受け止めるような形」で自由に触れるこの作品、寝転んで頭上の空を見上げたくなる。
屋外作品、中国産の太湖石に囲まれた屋外ジェットバスは、2008年北京五輪の開会式の花火を演出した蔡國強の作品「文化大混浴 直島のためのプロジェクト」。様々な人種や文化の混交をコンセプトとして、風水の思想に基づき、直島の中で最も強い気の流れる海岸に設置。異なる文化を持つ様々な人々が世界から直島に集い、対話することを意図して設置された作品ゆえ、現下の状況でどうなっているのかと思ったが、2020年から他人との対話ではなく、「自然を眺めながら、ゆったりと湯に浸かり内省を深める場」としてコンセプトを見直し。毎週日曜日、ベネッセハウス宿泊者一組限定で貸し切り入浴を体験できる。
1992年に最初に完成した「ミュージアム」、1995年に丘の頂上に完成した楕円形の「オーバル」、2006年に完成した「パーク」と「ビーチ」の4つからなるベネッセハウス。客室にもアート作品のあるここに泊まれば、23時まで作品を見たり、ナイトツアーにも参加でき、宿泊者用のバスで公共交通機関の少ない島の主要なスポットを回れる。
今年3月、ベネッセハウス パークに、写真、彫刻など幅広い分野で活躍し、フランス芸術文化勲章オフィシエ叙勲の杉本博司ギャラリー 時の回廊がオープン。直島の家プロジェクト「護王神社」で、神社を改築し、地下の石室を透明な階段で本殿と結んだ杉本は、「時の回廊」では、池の上の長い透明な通路の先に〈硝子の茶室《聞鳥庵(もんどりあん)》〉を設ける。2014年ヴェネツィア建築ビエンナーレに出品され、ヴェルサイユ宮殿の現代美術プロジェクトではヴェルサイユ宮殿の池に、2020年には京都の京セラ美術館のリニューアルオープンで美術館の庭の池に設置された透明な茶室。ヴェルサイユ宮殿に設置した茶室で杉本と話をした福武から、「あの茶室はどうするんだ?」と聞かれ、「カタールを始め世界中から引き合いがあったのですが、メンテナンスが大変なので美術館のように管理できる場所が望ましいということで、最終的に直島が終の棲家となりました」と杉本は語る。ベネッセハウスの宿泊者は予約なしで鑑賞できる。
写真.ベネッセハウスのオーバル。ミュージアムからモノレールで移動した丘の上のわずか6室のための空間。室内の床から天井までの大開口部からは瀬戸内海が一望でき、一部客室の壁にはアーティストがドローイングを制作。オーバル宿泊客以外の立ち入りができない特別な空間。ベネッセハウス オーバル 写真:渡邉修:ベネッセアートサイト直島(benesse-artsite.jp)
写真.「杉本博司ギャラリー 時の回廊」の「硝子の茶室『聞鳥庵』」Hiroshi Sugimoto, Glass Tea House “Mondrian”, 2014(c)Hiroshi Sugimoto, Photo:Sugimoto Studio The work originally created for LE STANZE DEL VETRO, Venice by Pentagram Stiftung:ベネッセアートサイト直島(benesse-artsite.jp)
 
地中美術館
「自然とアート、建築の共生」という考えをさらに推し進めたのが、2004年に開館した地中美術館。建物が地中に埋まっている。鑑賞者は建築の形が分からないまま、迷宮のような地下空間をめぐる。すべて対岸の岡山県からフェリーで運ばれてきたという打ちっぱなしのコンクリート。施工した鹿島建設のWebsiteによると建築の「最大の見どころは,三角コートと呼ばれる中庭の大壁面」、「庭を囲む高さ12.8mの巨大な三面壁には,安藤建築の真骨頂である美しい肌理を見ることができる」という。建物のほとんどを地中に埋め、さらに各ギャラリーは自然光のみで採光するという建築界の常識を破る建物。福武によると「クロード・モネ、ウォルター・デ・マリア、ジェームズ・タレルという三人のアーティストの作品とゆっくり向き合い、自ら「よく生きる」を考える。そのようなスピリチュアルな空間」だという。
福武が1993年にボストン美術館でのモネの回顧展に2作品を貸し出し、同時に展示されていた大きなモネの作品の前に立った時、そばに置いてくれと「その絵が私を呼んだ」と言い、これを購入。この「モネの《睡蓮》を、宗教的なものを超える概念の曼荼羅のような象徴にしたい。大きいモネをご本尊さまに見立て、曼荼羅にしようとすると両サイドに脇侍が必要でーキリスト教の祭壇画だとペテロ&パウロのような使徒…ー、それなら、ウォルター・デ・マリアとジェームズ・タレルに作品を作ってもらい、置いてはどうか、と」福武は安藤に話したという。
そのウォルター・デ・マリア。ランド・アート(屋外で土や砂などの自然の物質を用い、土木工事に匹敵する大規模な制作プロセスを経た美術作品)の代表的作品、《ライトニング・フィールド》、ニューメキシコの砂漠に直径2インチ、高さ平均20フィート7.5インチのステンレス・スティール製のポール400本が東西1マイル、南北1キロメートルの範囲に格子状に立ち並ぶ。ニューヨークの《ブロークン・キロメーター》、「長さ1キロ」(「重さ1kg」ではなく、「長さ1km!」重さは18.5t)、直径5センチの真鍮の棒を二メートルごとに切って、床の上に百本ずつ、五列に整然と並べる。地中美術館では、地中にある巨大な空間、階段の途中に直径2.2メートルの球体。この作品は天窓からの光により表情を変える。
光と空間を用い、知覚に訴える作品を発表するジェームズ・タレル。イタリアミラノ近郊の貴族の屋敷には、スイッチを押すと半円形の鉄板が開き、空が見え、夜はその星空の下でワインを飲んだり、或いは部屋の天井が四角に開き、まるで額縁の中に青一色の絵が入っているように空が見えるスカイルームという作品があるという。「空の印象を強めるために,開口部のエッジが画用紙を切り抜いたように極限まで薄く仕上げられている」地中美術館の大理石張りのスカイルームからも直島の青い空が見える。階段を上って額縁の中の青い光の中に入ると距離感がなくなるような不思議な感覚を味わえるのは(オープンフィールド)。
クロード・モネ・スペースには5枚の「睡蓮」。フランス大使も「こんなに大きな「睡蓮」が日本にあるのかと驚いたという中央の巨大な絵がこの美術館を作ったきっかけ。「白さにこだわった」モネの部屋、空間で壁面は漆喰で仕上げられ,スリッパに履き替えて入るこの部屋の床は、ミケランジェロと同じ採石場でとれた2cm四方の立方体に切り分けられた70万個の白い大理石を,地元住民も参加し,手作業で一つひとつ埋め込む。
南寺。「家プロジェクト」という古い家屋などを改修して家の空間そのものをアート作品にするというプロジェクトの第2弾の作品で、地中美術館にもあるタレルの作品を展示している。古い建物を改装してタレルの作品を埋め込んだように見えるが、中古物件ではなく直島の町並みに馴染むように設計された新築物件。「以前に《Backside of the Moon》という作品を買っていて、どう展示したらよいか、ずっと考えてい」た福武が安藤に依頼。1999年、地中美術館に先立って建設。制作にあたり、タレルは、内部空間に入った瞬間、空間の寸法には一切目を向けず、「どんどん暗くしろ、どんどん暗くしろ」と照度を調整したという。この作品を鑑賞するには、真っ暗な室内で目が慣れるまで10分以上、じっと耐えると、観覧者は暗闇の中で不思議な体験ができる。
ANDO MUSEUM。外見は変哲もない築約100年の古い民家。中に入ると打ち放しコンクリートの安藤忠雄の世界が広がる。トップライトからの光が館内を照らす安藤建築を体感する空間。
李禹煥美術館。自然や人工の素材を節制の姿勢で組み合わせ提示するスタイルを「もの派」というらしい。現在ヨーロッパを中心に活動するアーティスト李禹煥。半地下構造となるこれも安藤忠雄設計のなだらかな谷あいに立つこの美術館は、「安藤忠雄設計の自然の地形を生かした建物と、正面に建つ李氏の作品とが響きあい、縦と横の緊張感を生み出」すという。
ベネッセハウス ミュージアムの開館30周年となる今年、瀬戸内国際芸術祭開会前の3月に安藤忠雄設計の「ヴァレーギャラリー」が李禹煥美術館向かいの山間にオープン。祠をイメージした半屋外建築とその周辺の整備により、「自然の中に点在するベネッセハウスの各棟や美術館施設が繋がり、エリア全体のランドスケープの体感を促」すという。草間彌生の《ナルシスの庭》(1966/2022)は、草間が「1966年のヴェネチア・ビエンナーレでパビリオン外の芝生に大量のミラーボールを敷き詰め、世界的注目を集めるようになったモニュメンタルな作品」。ここでは約1,700個のミラーボールが建築の屋内外に並ぶ。
宿が少ない直島に今春、本格旅館「直島旅館 ろ霞」がオープン。水と火をコンセプトとして、「日本の絶景宿」でも紹介されるこの宿、犬島「家プロジェクト」や昨年、銀座SIXの吹き抜けに浮かぶ彫刻作品「Metamorphosis Garden(変容の庭)」を展示した名和晃平ら若手アーティストの作品が各所に展示。全11室の客室内の作品も茶室の掛け軸のように展示替えされ、宿泊客が購入できるという、いわば泊まれるギャラリー。「自然を感じながら現代アートに触れる」宿だという。
写真.「白さにこだわった」クロード・モネの部屋。「白」の基準もまた鑑賞を損なわない配慮が込められ、壁面は漆喰で仕上げ、床には70万個もの大理石のピース。部屋全体が天井からの間接光をやわらかく拡散させている。クロード・モネ室 写真:畠山直哉:ベネッセアートサイト直島(benesse-artsite.jp)
 
 
(2)犬島「アートで島を再生したいー犬島精錬所美術館」
地中美術館の後、BASNの活動を瀬戸内海の他の島々にも拡張。直島から小型船で1時間弱の犬島に2008年オープンの巨大な煙突がそびえる煉瓦造りの「犬島精錬所美術館」。1909年から10年間だけ稼働した銅の製錬所が廃墟となっていた。そこを産業廃棄物の投棄場にするという話があったのを福武が用地を買い取り「ここをあまりにも多くの課題を抱えた日本が回帰する場所にしたいと思った」という。三島由紀夫の解体した旧居を所有していた福武が、大阪万博や三島が自殺した1970年まで回帰するとの考えで、犬島に住んだこともある柳幸典に「三島邸をモチーフにした作品をどうにかして作ってほしい」と依頼。ここでも妥協を許さずできたのが犬島精錬所美術館だという。ベネッセハウス ミュージアムに多数のバンザイするウルトラマン、ウルトラセブンの人形を並べた「バンザイコーナー1996」が展示される柳。ここでは三島の部屋を宙に浮かせたソーラー・ロックなど建物と一体化した6作品「ヒーロー乾電池」を提案。
建築家は、当時まだ大きな建築を手掛けた経験のない、空調に風・太陽・水などの自然エネルギーを使って設計する三分一博志に思い切って頼んだという。三分一は瀬戸内海地域の気候や島の地形も建築の一部として捉え、もともと在るものを建築に生かすために緻密なリサーチを重ね、太陽、空気、風、水を「動く素材」として建築に組み込む。製錬所の象徴的な煙突を美術館の動力として建築の中心とする空間プラン。電力による空調は使わずに地中熱による冷却、地中に熱を逃がすために曲がりくねった長い回廊アースギャラリー。鑑賞者が回廊を進むと、空間を自然光で照らすため、鏡に映った太陽がどこまでも追いかけてくる。夏は涼しく冬は暖かい、年間を通じて気温が安定した地下空間の特徴を最大限に利用した構造。結果、三分一は日本建築家大賞(2010年)と日本建築学会賞(作品賞、2011年)とをダブル受賞。二つの賞を同時受賞した唯一の建築家となる。三分一は2022年の芸術祭では、直島でThe Naoshima Plan「住」として、伝統工法と現代技術を組み合わせた「工法」で地域の自然を最大限に取り入れた長屋を秋の完成を目指し建設中。
古い民家をアートスペースに改修した犬島「家プロジェクト」。アーティスティックディレクター、長谷川祐子(2021年から金沢21世紀美術館館長)、建築家は金沢21世紀美術館の設計者SANAAの妹島和世。鑑賞者は島の風景を見ながら集落に点在するギャラリーでさまざまなアーティストの作品をめぐる仕立て。妹島は「できるだけそこにあるものを使おうと考えました。その上で新しいものが必要なところには、アクリルやアルミなどの現代的な要素を取り入れて、既存の集落の風景とアート、そしてそこにある島の生活が交じり合った、新しい風景を作れないかと考えました。」という。
 
 
(3)豊島―島民とともに作った豊島美術館
犬島の後2010年にできた豊島美術館。直島から犬島行のフェリーで20分余りの豊島には1975年から13年間にわたり、産業廃棄物が不法投棄。その豊島で公害調停が成立したのは2000年。「それで、よし、何とかしようというので、豊島にも美術館を作ることになった」、「島の求心力として、一つの美術館を寺院や教会のようなシンボリックなものにしようと思った」と福武は語る。
空を飛ぶのが趣味だという福武がヘリコプターで見て回って、今の場所を見つけ、島の方からの理解と、話し合ったうえで島の人たちの合意を得て進める、そのためのプロセスを大切に建設。
「最終的に建築家は西沢立衛さん、アーティストは内藤礼さんにお願いしました。いいのをつくってくれよ、と。プロセスも全部二人に任せました」と福武は言う。
その建築。2010年にSANAAとしてプリツカー建築賞を受賞し、「社会や他者に開かれた建築を作りたい」という西沢は、「デザインは理論的な部分と感覚的な部分」があり、「建築は感覚的な部分も非常に大事」だという。「「わかりやすさ」ということ」重視しているという西沢は、福武に「建築単体だけを作るのではなく、アートと建築、自然が一体化したものをつくれないか」と言われ、「アート、建築、自然の調和・連続ということは、かねてから僕が興味を持っていた課題でもあったので、非常に共感するところを覚えて、設計の作業を始めた」という。結果、海を近くに臨む小高い丘の中腹に瀬戸内海の島々の中でもひときわ緑が多く、豊富な湧き水を持った豊島の環境とよく連続し、内藤礼の作品と共存し調和する「水滴のような形の、自由曲線による建築」を提案。最高高4.5m、躯体の厚さは25cm。そして、採光のための開口部が2か所、天井床平面の大きさは40m×60m。構造を支えるための柱は空間の中に1本もないコンクリ―トの薄いシェルにより内部に大きく有機的なワンルームの空間。「開かれた開口を通して、光や雨、美しい自然の気配が取り込まれ、もしくは蝶や鳥が通り過ぎ」る半分屋内のような屋外のような空間。継ぎ目なく滑らかに打つために,晴れた冬の日にひと息に打設。「土で形をつくり、モルタルで固め、…ひたすらミキサー車120台分のコンクリートを打ち続け、そののち5週間の時間をおいて、6週間かけて中の土を掘り出した」という。施工した鹿島建設のWebsiteによると「この様子をひと目見ようと島中からギャラリーが集ま」る中、「朝9時からはじまった作業は,2台のポンプ車を使って…落ち葉に気を配りながら,左官職人の手が肌理を仕上げていく。夜を徹しての作業となったが,ギャラリーは絶えなかった。すべての作業が完了すると,現場からは自然と拍手が湧いたという。打設開始から26時間が経過した12日の朝11時のことである」。西沢立衛も豊島美術館で日本建築学会賞(作品賞、2012年)を受賞。
そのアート。1993年のヴェネツィア・トリエンナーレの日本館で一度に一人の鑑賞者しか入れない作品空間で長蛇の列を作った内藤礼。西沢のアートスペースの模型と図面をベースに、「その場所でしか体験することができない」、しかし豊島では「一度に何人もが体験することが可能な」作品を依頼され、開口部をガラスやアクリルで塞がず、建築物はコンクリートのみを用いて作り、他の材料は使わない、という西沢の希望にも沿って、泉が生まれる風景をつくり出す「母型」で応える。床には多数の小さな孔が穿たれ,どういう仕組みなのか、水が不規則に湧き出て、「1日かけて『泉』をつくり出す」。「現代美術の極北と言っていいかもしれない。」という独特の世界。
今回の瀬戸内国際芸術祭2022の新作、古民家1棟を使った「かげたちのみる夢(Remains of Shadowings)」。アーティスト、冨安由真は「小泉八雲の短編小説『和解』を題材にしたもので、最初にこの家を見た時に思い浮かんだ。『和解』は、主人公の男が別れた妻の家を訪れ、妻と再会する夢から目覚めるようなシーンが描かれる。作品では、…物語のように徐々に夢の世界へ入り込んでいく感覚を味わってもらう」、「現実と非現実の境目がわからなくなる」体験ができる没入型インスタレーションだという。
豊島には宇野港から直接フェリーも出ていて、瀬戸内国際芸術祭期間中は増便される。
 
何十年もBASN(ベネッセアートサイト直島)の活動ができるのも、「経済は文化の僕」だという福武の提唱する「公益資本主義」の考えに基づき、福武財団がベネッセの大株主(直近の有価証券報告書で8.04%)となり、配当を資金としているからだという。
写真.豊島美術館 広さ約40×60m、最高高さ4.3mの空間に柱が1本もなく、天井にある2箇所の開口部から、周囲の風、音、光が直接取り込まれ、一日を通して「泉」が誕生。入った瞬間、「!!!」という空間。写真:鈴木研一Teshima Art Museum:ベネッセアートサイト直島(benesse-artsite.jp)
 
 
(4)瀬戸内国際芸術祭
豊島美術館ができた2010年に第一回瀬戸内国際芸術祭。福武は「BASNの活動では、アーティストを指名して、その場にしかない作品を長い時間をかけて作り、そのなかで『よく生きる』ということを重層的に考えてきました。これを『直島メソッド』呼んでいます。これとは違う形で、備讃瀬戸という広域でアートによって地域を変えることを目指したのが、瀬戸内国際芸術祭です。」と語る。
開催のいきさつについて総合ディレクターの北川フラムによると、2000年から雪深い新潟で開催されている『大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ』で2006年の第三回芸術祭の総合プロデューサーをつとめた福武から「第三回が終了したところで、…『自分は直島でやってきたけれど、瀬戸内の島は厳しいよ。これを大地の芸術祭のように、自治体と組んで広域で展開することができたらどんなにいいか。フラムさんがやってくれないか』と」頼まれたという。
2006年から早速準備を始め、2008年には、2010年に第一回芸術祭の開催が正式決定。北川は、「そもそも海は、太古から多くの人たちが移動する自由な交通路であり、海に囲まれた日本は海を介してさまざまな地域、国々とつながってきました。…しかし、近代になってすべてが陸地において発展していくようになると、海と島の大切さが忘れられ、ないがしろにされるようになりました。…瀬戸内海で芸術祭を行うならば、第一に考えなければならないのが本来の海のあり方であり、…第一回瀬戸内国際芸術祭の開催に当たって、そのテーマを『海の復権』とすることにしました。…島のお年寄りに元気になってもらいたい、地域に誇りを持つことから島の展望を作りたいという目的。それと地球環境への意識を重ね合わせるものとして『海の復権』をテーマに掲げたのです。」と語る。
第5回となる今回は、国内外から直島のThe Naoshima Plan「住」」、豊島の「かげたちのみる夢」等の新作74点を含む214作品、直島、犬島、豊島、小豆島など12の島と2つの港が舞台で4月から11月にかけて春、夏、秋に分けて開催。この芸術祭、恒久展示されている過去の作品も見られるので、回を重ねるごとに充実する仕組み。
1988年5月、雨の中初めて直島を訪れた安藤忠雄は、「初めてこの直島を訪ねたときは、大変美しい環境に驚いたと同時に緊張もしました。ここにいかに緊張感のある建築を作れるか、また、ここに展示されるであろう美術作品と建築、そして自然が上手く対話できるような環境にいかにするか、ということを実現するのは大変難しいと思われたからです。…ここへ船でアプローチしたときにこの島全体が美術館になっていく、と感じたことを大切に、そしてあらゆるところに美術館と自然が対話できるような可能性を残しておくことが必要だと感じました。」と語る。長年、直島の建築にかかわってきた安藤は、2010年の最初の瀬戸内国際芸術祭につき「開催される前はうまくいくのか疑問だった。島から島への移動手段は船に限られるし、点在する島々が一体となって芸術祭を行う姿が想像できなかった」が「多くの人が集まったのには驚いた。」という。「人間が生きるために本当に必要な力を生み出すのは経済ではなく、芸術・文化なのだ。芸術こそが人生の道標となり、人々の心を豊かにする。」という福武の考えを最初は理解できなかったという安藤は「私は福武さんの気迫と精神力に賭けてみたいと思うに至った。荒廃した島を豊かにし、現代美術の場にするという勇気が人々を引き付ける原動力になると確信し」、福武はウォルター・デ・マリア、リチャード・ロング、草間彌生といった最先端の現代美術家たちに協力を呼び掛け。彼らも福武の情熱に押されて、参加。島民も島に人が訪れるようになるにつれて自発的に民宿や喫茶店、レストランを営むようになり、次第に自分の島に誇りを持つようになったという。また、「建設会社の努力も忘れてはならない。22年もの間直島での工事を担当した鹿島建設の現場監督が、プライドの高い職人をまとめあげ、緊張感のある建築が生まれた。」という安藤は「人の思いは、文字通り岩を穿ち、山をも動かす。」と語る。
現在、自然とアートと建築が共生する瀬戸内海の島々。ここで、古来、美しい自然に恵まれていた瀬戸内海の過去に遡る。
 
 
 
2瀬戸内海の過去へ
(1)古事記、日本書紀、万葉集、遣唐使
古事記や日本書紀ではイザナミとイザナギは最初に淡路、次に四国、次になぜか隠岐、九州、壱岐、対馬、本州…を生んだというから、淡路、四国、九州、本州の間は瀬戸内海。神武天皇も、高千穂を発ち瀬戸内海を東上し、大和に至り、即位。万葉集でも、斉明天皇が661年に新羅遠征のために西に向かい、熟田津(今の道後温泉あたり)でしばらくとどまり、出発するときに額田王が「塾田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかないぬ 今は漕ぎいでな」と詠むなど瀬戸内海の各地にちなんだ歌。遣隋使や、空海、最澄、日経新聞の朝刊小説「ふりさけみれば」の主人公、安倍仲麿ら遣唐使も瀬戸内海を通って、大陸に渡ったという。
 
 
(2)土佐日記(935年)
その安倍仲麿の時代、環境省のWebisteでも「867年 伊予の海賊、宮崎付近に集まって掠奪を行う」とあり、人や物が往来する大動脈、瀬戸内海は古くから海賊が跳梁。古今和歌集の選者、紀貫之の「土佐日記」では、鳴門の渦潮を見ても特段の感想もなくスルーし、ドナルド・キーンも「名だたる鳴門の海を渡っていながら、所感一つも出ないのであろうか」、「海上での彼の関心は海賊の襲来に限られている」と語るように、土佐守として海賊の取り締まりに当たっていた貫之も海賊を恐れたという。実際、土佐日記の完成する前年には海賊が瀬戸内海などに横行したため、朝廷が追捕海賊使を任命し、939年には藤原純友が海賊と共に反乱を起こしている。
現在、鳴門には、1,000点以上にのぼる西洋名画を原寸大で陶板に複製・展示する「大塚国際美術館」がTripadviserの「行ってよかった美術館&博物館ランキング2011」で美術館の1位。1985年には、渦潮の上に中央支間長876mの吊橋、大鳴門橋が完成。橋梁工学のテキストによると、「橋は安心して使え、使いやすく、美しく、長寿命であり、しかも経済的にできていなければならない。…橋は…それを見る人たちに気持ちよさを与えなければならない。単に使用して便利であるというだけでは、公共の場所を占拠する価値はない。」という。橋には、群衆、自動車、列車の重量、橋自身の重量、台風による風圧など様々な荷重が作用するが、吊橋は、「張り渡されたケーブルにより、おもに交通路を吊る構造となっている形式の橋」で特に長径間の橋梁としてきわめて適した形式だという。本州と四国を結ぶ三つの連絡ルートには、長大吊橋を多く建設。大鳴門橋の車道下に設置された海上遊歩道「渦の道」の展望室からは約45mの高さから渦潮を覗ける。鳴門大橋を渡れば淡路島。
なお、ラーメンのトッピング「なると巻き」の渦巻きの由来は、鳴門の渦潮に似ているからともいわれるが、鳴門の名物ではなく、全国生産量の9割が静岡県焼津市。
写真.鳴門の渦潮の45m上にかかる大鳴門橋。渦潮に影響を与えないように、塔基部は多柱式の下部構造で支える。出典:鳴門の渦潮(鳴門海峡) - 徳島県観光情報サイト阿波ナビ(awanavi.jp)
 
 
(3)源氏物語(平安時代中期)
紫式部の源氏物語、平安時代の貴族を描いた物語は、殆ど京都を舞台。全54巻中第12巻「須磨」と第13巻「明石」では、京都を離れた光源氏の物語は須磨(今の神戸)、明石で展開する。全編女性との逢瀬ばかりの物語の中で、宮廷での立場が危うくなり、自ら引きこもった源氏を描く「須磨」には女性との逢瀬がない。谷崎潤一郎、与謝野晶子、瀬戸内寂聴など源氏物語の現代語訳は多いが、ここでは、名訳Tale of Genjiにより、源氏物語を世界に紹介し、ニューヨークタイムズでも絶賛されたアーサー・ウェイリー本の日本語訳による。須磨の人には大変失礼だが須磨までの60マイルの旅が「源氏には、中国の詩人たちが昔からよく口にする『三千里』を旅してきたのだと思えた」という。須磨は美しいところだったようで、有名人の滞在は、太宰大弐の一行が都に戻る途中「どこよりも美しい入り江と言われていた」須磨に立ち寄るつもりでいたところ、スーパースターの源氏がそこにいると聞いて「若い人たちは興奮して大騒ぎになった」という。今の須磨は神戸市須磨区で光源氏も楽しんだのかわからないが、潮干狩りができる海岸。
現在、洋菓子で知られる神戸。明治時代、開港された外国人居留地で外国人向けのパン屋やホテルができ、デザートなどが出されたのが神戸の洋菓子の始まりという。ある「神戸でおすすめの洋菓子ランキング」によると1位は昭和6年創業、バレンタインデーのチョコレートギフトの仕掛け人、老舗モロゾフのお店。昔、大阪の人に「どこの大阪の家庭にもあるものはモロゾフのプリンの容器とタコ焼き器」と聞いた。モロゾフのサイトをみるとQ&Aに「モロゾフのプリンのガラス容器がたくさんたまっています。捨てるのはもったいないような気がするのですが。」という質問があるくらいだから、実際使われていそうだが、「召しあがったあとのガラス容器はよく洗って資源ゴミとしてお出しくださるようにお願いします。」とつれない返事。
源氏物語「明石」。万葉集で柿本人麻呂が「天離る 鄙の長道ゆ 恋ひ来れば 明石の門より 大和島見ゆ」(二五五)と詠んだ明石。当時、明石より西は畿外。西方から瀬戸内海を来て明石海峡にさしかかると、都人にとっては家に帰ってきたと実感したという。須磨に源氏がいると知った元国守は「娘にとってなんと素晴らしいチャンスではないか」と嵐の翌日、源氏を明石に招く。須磨と比べて、「明石は明らかにまるで違った種類の場所だった。実際、最初の印象は、どうかすると、ここでは十分に人里から離れた場所を探すのは難しいのではないかというものだった」と描かれる。田舎者の自分に高貴な身分の男が振り向いてくれるわけはないと思う元国主の娘と光源氏とのやり取りは、スマホもLINEなく、歌のやり取りが繰り返される時代。最初に光源氏からもらった手紙に娘はビビッて困り果てて父親が代書するなどずいぶんじれったいが、やがて娘は妊娠。と思ったら、間もなく、お上は光源氏を都に呼び戻すことを決める。別れにあたり、光源氏は娘に「ささやかな曲を一曲演奏してくれないだろうか、君を思い出すために。それを頭の中に入れて運び去れるように」と言い、琴を弾かせる。以下、都に戻れば光源氏もエンジン全開である。
日本標準時子午線が通る明石市は平成10年に淡路島への全長3,911m、世界最長の吊り橋、明石海峡大橋が完成。パールブリッジの愛称を持つ美しい佇まい。海面上約300mの主塔から360度パノラマ体験ができる。1995年1月、両方の主塔が立ち上がって、メインケーブルの架設作業中に阪神淡路大震災発生。地震後、直ちに詳細な点検を行った結果、橋自体に深刻な構造上の損傷は見当たらず、その後の測量等の結果、地盤が動いたことにより橋の長さが変化していることが確認。構造への影響はわずかであり、主塔と主塔の間の距離が変わったため、未製作の桁のパネルの長さを調整することで対応したという。
農林水産省のWebsiteの「うちの郷土料理」掲載の「明石焼き」。たこ焼き器で作るこの料理。たこ焼きはソースをかけて食べるが、かつおや昆布のだし汁につけて食べる。光源氏の時代にはきっとタコ焼き器は無かったろうが、明石焼は今も神戸の5つ星ホテルの朝のビュッフェにも出てくる。
写真.源氏物語絵巻.[3] - 国立国会図書館デジタルコレクション(ndl.go.jp)
写真.明石海峡大橋。98階(海上約300m)まで約2分で到着する主塔からの景色は絶景というよりは絶叫系。天気が良いとあべのハルカスまで見えるという。本州四国連絡高速道路(株)提供:明石海峡大橋ブリッジワールド:世界最大級の吊橋を体験しよう!-JB本四高速-(jb-honshi.co.jp)
 
 
(4)尾道(1169年 尾道が倉敷地に)
平清盛が太政大臣の時代、嘉応元年(1169年)、備後大田荘公認の倉敷地(荘園米の積み出し港)となって以来、自然の良港を持つ尾道は、中世・近世を通じて「瀬戸内随一の良港として繁栄し、人・もの・財が集積」、「限られた生活空間に多くの寺社や庭園、住宅が造られ、それらを結ぶ入り組んだ路地・坂道とともに中世から近代の趣を今に残す箱庭的都市が生み出された」という。テレビで見たが、坂のまち尾道では、車が通れない坂道は宅配のお兄さんも背負子で運ぶという。
千光寺。標高140m、尾道港を一望する大宝山の中腹にあり、(大同元年・806年)遣唐使として唐に渡った弘法大師、空海の開基。かつて山頂には長く市民に愛された丸い展望台。今年3月、ゆるやかな螺旋階段を上る東西63mの空中展望台「PEAK」がオープン。当初、古い展望台を残す案も耐震補強して存続するのは困難だったため、今の形に。ここから尾道水道としまなみ海道が一望。京セラ美術館やルイ・ヴィトンの店舗などを手がける建築設計事務所「AS」の設計のこの展望台、土曜日の日経新聞NIKKEIプラス1の「『多島美』めでる展望台』10の8位。山頂から八合目あたりを巡る「文学のこみち」は、尾道の風光を愛でた文人墨客の作品を岩に刻んだ遊歩道。尾道で志賀直哉は「暗夜行路」の草稿を書き、林芙美子は女学校に通うなど、多くの文人の足跡。小津安二郎監督、原節子主演の「東京物語」など度々映画の舞台に。
瀬戸内海で、地元の漁師たちが仕掛ける網の中に、時折、紛れている青色の小さなカニ。味噌汁や鍋に入れると美味しい出汁がとれるという。そんな滋味深いカニのことを、地元の人たちは、親しみを込めて「ガンツウ」と呼ぶ。このカニのように「地元の人にも永く愛される存在となるように」という思いを込めて名付けられた尾道を母港とする「せとうちの海に浮かぶ、ちいさな宿」、ガンツウ。2017年に竣航、3,000tの船体に全室テラス付きの客室僅か19室。電気推進システムが使われているためほとんどエンジン音がせず「動き出したことに気づかない静かさ」というこの船、建築家堀部安嗣設計の木の香りに包まれた日本旅館がそのまま船に乗ったような優美な客船。2泊3日か3泊4日で直島、宮島、大三島、鞆の浦、小豆島などをゆるりと巡る心の贅沢を楽しむいくつかの航路。
次回は、今年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の前半のヤマ場、源平合戦から。
写真.3,000tの船に客室19室のガンツウのゆったりしたユニバーサルな和のデザインのラウンジ 出典:|guntû|ガンツウ公式サイト(guntu.jp)
 
 
 
(主な参考文献)
福武總一郎+北川フラム、「直島から瀬戸内国際芸術祭へー美術が地域を変えた」、2016年、現代企画室
ベネッセアートサイト直島(benesse-artsite.jp)
瀬戸内国際芸術祭2022(setouchi-artfest.jp)
環境省_せとうちネット(env.go.jp)
環境省_瀬戸内海国立公園(env.go.jp)
日本水先人会連合会|トップページ(pilot.or.jp)
November 2014:特集「せとうちアート建設ツーリズム」|KAJIMAダイジェスト|鹿島建設株式会社
安藤忠雄、「仕事を作る」、2012年、日本経済出版社
南條史生、「アートを生きる」、2012年、角川書店
「直島コンテンポラリーアートミュージアムコレクションカタログ Remain in Naoshima 」、2003年、株式会社 ベネッセコーポレーション コーポレートコミュニケーション室
「ヴァレーギャラリー」「杉本博司ギャラリー 時の回廊」《ベネッセアートサイト直島》に安藤忠雄と杉本博司の新ギャラリー誕生!|Discover Japan|ディスカバー・ジャパン(discoverjapan-web.com)
《硝子の茶室「聞鳥庵」》がついに直島へ。〈杉本博司ギャラリー 時の回廊〉オープン!|カーサ ブルータス Casa BRUTUS
「地中ハンドブック」、2016年、公益財団法人福武財団 地中美術館
国立新美術館開館15周年記念 李禹煥|企画展|展覧会|国立新美術館 THE NATIONAL ART CENTER, TOKYO(nact.jp)
「文芸春秋2022年9月特別号」、2022年、文芸春秋
直島で味わう自然とアートの共生。「ヴァレーギャラリー」と「杉本博司ギャラリー 時の回廊」が新たにオープン|美術手帖(bijutsutecho.com)
「Casa BRUTUS 2022年7月号 日本の絶景の宿」、2022年、マガジンハウス
名和晃平|美術手帖(bijutsutecho.com)
「犬島精錬所美術館ハンドブック」、2014年、公益財団法人福武財団
ローランド・ハーゲンバーグ、「なりたいのは建築家」、2011年、柏書房
西沢立衛、「続・建築についてはなしてみよう」、2012年、王国社
「豊島美術館ハンドブック」、2015年、公益財団法人 福武財団
豊島 かげたちのみる夢 冨安由真|特集 瀬戸内国際芸術祭|四国新聞社(shikoku-np.co.jp)
「瀬戸内国際芸術祭」、2022年8月16日 朝日新聞朝刊
古事記.上 - 国立国会図書館デジタルコレクション(ndl.go.jp)
稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 古事記 現代語譯 古事記(aozora.gr.jp)
瀬戸内・海の路ネットワーク推進協議会|瀬戸内海を学ぶ(uminet.jp)
ビギナーズ・クラシックス日本の古典 万葉集、2002年、角川書店編
片桐洋一、「原文&現代語訳シリーズ 古今和歌集」、2005年、笠間書店
ドナルド・キーン、「百代の過客 上」、1984年、朝日選書
美術館&博物館口コミランキング、トップはともに8割以上が星5つ|リセマム(resemom.jp)
JB本四高速 -本州四国連絡高速道路株式会社-(jb-honshi.co.jp)
鹿島の軌跡|鹿島建設株式会社(kajima.co.jp)
倉西茂・中村俊一共著「最新橋構造 第三版」、2018年、森北出版
黒はんぺん・なると巻き|焼津の特産品|焼津市魚仲水産加工業協同組合(yaizu-uonaka.or.jp)
紫式部、アーサー・ウェリー英語訳、佐藤秀樹日本語訳「ウェイリー版 源氏物語、2008年、平凡社、
神戸でおすすめの洋菓子ランキングTOP15!あの有名店も神戸発祥だった!|TapTrip
洋菓子のモロゾフ:チョコレート・プリン・チーズケーキ|モロゾフ株式会社公式サイト(morozoff.co.jp)
源氏物語絵巻.[3] - 国立国会図書館デジタルコレクション(ndl.go.jp)
明石焼/玉子焼 兵庫県|うちの郷土料理:農林水産省(maff.go.jp)
尾道水道が紡いだ中世からの箱庭的都市|日本遺産ポータルサイト(bunka.go.jp)
千光寺頂上展望台「PEAK」 リニューアルオープン:カメラさんぽ(367) - 尾道市ホームページ(city.onomichi.hiroshima.jp))
2022年8月27日 日本経済新聞朝刊、NIKKEIプラス1
guntû|ガンツウ公式サイト(guntu.jp)