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ものづくりのまち燕三条~金属加工とラーメンとパワースポットと~

燕三条

新潟税関支署三条燕政令派出所 上席監視官 坂上 正紀

1.はじめに
東京税関新潟税関支署三条燕政令派出所は、新潟県をはじめ、地元の三条市及び燕市から税関官署設置の要請陳情を受け、平成5年3月、新潟市中心部から約40キロ離れた内陸部にある(財)新潟県県央地域地場産業振興センター(現名称「(公財)燕三条地場産業振興センター」)内に開設されました。
当派出所は、新潟税関支署が管轄する区域のうち三条市、燕市、見附市及び弥彦村の3市1村を分担区域としており、内陸部の通関拠点(インランド・デポ)として、燕三条地域の代表的産業である金属洋食器、作業工具や測定機器、木工製品、アウトドア用品を中心とする輸出入貨物の通関手続及び同区域に所在する保税蔵置場にかかる保税取締業務等を担当しています。

2.燕三条と三条燕
三条市内と燕市内を走る上越新幹線の停車駅名は「燕三条」、北陸自動車道のIC(インターチェンジ)名は「三条燕」。名称によって「燕三条」であり、「三条燕」であるのは一体なぜでしょうか?
昭和40年代に建設された上越新幹線。新潟駅と長岡駅を建設することが先に決定され、その中間である燕市か三条市にもう一つ駅を建設することとなり、両市の間で誘致合戦が繰り広げられました。その結果、燕市と三条市の境界線上に設置することが決まったのですが、今度は駅の名称で問題が発生。燕と三条を駅名に入れることは決まったもののどちらの地名を先にするかということで、最終的には新潟県出身の当時の首相田中角栄が仲裁に入り、駅名は「燕三条」(但し、駅長室は三条市に設置)に決定したそうです。また、同時期に建設されたのが北陸自動車道のIC。ICの名前は「三条燕」(但し、ICの出入り口は燕市に所在)で決定。これは新幹線の駅名が、燕の地名が先になった代わりにICは三条の地名が先になったから、とのことです。燕三条と三条燕、これらの名称にはこんな背景があったと言われています。この背景から垣間見えるように両市はライバル関係のようであり、その関係の始まりは江戸時代まで遡り、その当時燕が「職人の街」、三条が「商業の街」と呼ばれ、三条商人が、燕の職人が作った商品を三条の職人が作る商品よりも安く買い取って販売していた、ということが理由の一つとなっているようです。
現在、当派出所が入居する地場産業振興センターも現名称に変更する際には、地元議会の議論の過程で対立があり、こちらもなかなかすんなりと決定しなかったそうです。

写真:派出所付近の交差点の青看板も「三条燕」と「燕三条」が混同している
写真:(公財)燕三条地場産業振興センター

3.燕三条地場産業振興センター
昭和63年5月に竣工された同センターは、「燕三条」の魅力を発信する観光拠点としての機能を担う「メッセピア」と、燕三条地域の活性の原点となる「ものづくり」を支援する拠点「リサーチコア」からなっています。
同センターには、会議室や研修室だけでなく、大きなイベントが開催可能な多目的ホールもあり、年間を通して、地元企業の商品展示会や見本市など様々なイベントが開催されています。
平成26年3月には「メッセピア」を拠点とし、新潟県内で38番目の道の駅として指定され、現在では、インフォメーションコーナーや休憩スペース、トイレの他に物産館やイタリアンレストランが併設されています。
物産館には、燕三条地域で製造された洋食器や刃物の他、キッチン用品、鍋、工具など約10,000点が展示され、その場で購入することができます。また、イタリアンレストランでは、地元の食材を使用するだけでなく、燕三条の企業からナイフやフォークなどの洋食器や箸などの提供を受けており、また調理器具、テーブルや椅子などの備品についても燕三条地域で製造されたものが使用されています。

写真:(公財)燕三条地場産業振興センター内物産館

4.燕三条地域の産業
燕三条地域は、新潟県随一の金属加工技術の集積地であり、「ものづくりのまち」として日本のみならず世界的にも有名な地域であり、作られた製品は輸出され、海外でも使用されています。
この地域における金属加工の始まりについては、江戸時代初期に農村の副業として和釘の製造を始めたこととされていますが、資料として残っている訳ではなく、また、三条地域については、江戸時代前に鋳物師集団が存在していた記録はあるものの、現在まではっきりしたことはわかっていません。ですが、燕及び三条の両地域ともに金属を熱するために必要な材木などの材料を調達するのに大変恵まれた地域であったことも、江戸時代を通じて和釘作りが盛んに行われるようになった要因のひとつと言えます。金属を加工する技術は脈々と受け継がれ、そして発展させてきた結果、現在に至っています。
同地域には、実際に製品を作っている様子を見学出来る工場(オープンファクトリー)があり、また和釘作りやスプーン磨きなどを自ら体験することが出来る施設もあります。

(1)三条地域の産業
三条地域では、明治時代以降、釘鍛冶職人の伝統を受け継ぐ打刃物や利器工匠具の生産が盛んになり、様々な高品質の金属加工品が作り出されました。戦争中には、その技術が買われ、国からの命令を受け、軍用品の生産も請け負っていたそうです。戦後以降は、ニッパーなどの作業工具、自動車関係の部品、包丁などの打刃物が三条地域の産業の中心をなしており、さらに現在は金属加工の技術を生かし、樹脂加工への進出も行われています。同地域で作られた打刃物は「越後三条打刃物」と呼ばれ、平成21年4月には経済産業大臣から、伝統的工芸品の指定を受けています。
また、三条は商人の街でもあったことから、燕三条地域で作られた製品を三条商人が全国へ行商して歩き、その際に販売先から商品の要望を聞いたり、遠方の商品を持ち帰ってきたりすることで地元の鍛冶屋が新たな商品の開発や需要の情報を掴むきっかけにもなり、三条商人は、燕三条地域の産業を支え、また発展させる存在でもありました。
同地域からは、今や世界的に有名なアウトドア製品を扱う会社や全国展開するホームセンターの会社も創業しています。

写真:三条地域で作られている製品

(2)燕地域の産業
燕地域では、1700年代から弥彦山の麓に開かれた間瀬銅山で採取された銅を原料とした「鎚起銅器」、「ヤスリ」や「煙管」などの製造が発展し、明治後期から金属洋食器の製造が始まり、第一次世界大戦を契機に、外国から金属洋食器の注文が寄せられるようになりました。長い間培った高度な金属加工技術をもとに、金属洋食器の大量生産化に成功して、第二次世界大戦後は、ステンレス加工技術の発達などにより、金属ハウスウェア産業が誕生し、現在では、ありとあらゆる金属製品を生産しています。
新潟県は、金属洋食器の出荷額が全国1位(平成30年時点)であり、その約9割がここ燕地域で製造されています。毎年行われるノーベル賞授賞式後の晩餐会で使用される金属洋食器は同地域で製造されたものです。昨年開催された東京オリンピック・パラリンピックの選手村の食堂にも提供されました。また新型コロナウイルスワクチン用の運搬・保冷庫や昨年マスターズゴルフで優勝した松山英樹選手が使用するゴルフクラブ(アイアン)のヘッドを製造しているのもこの地域の工場です。

写真:ノーベルカトラリー

5.燕三条地域のグルメ
(1)ラーメン
ラーメン王国とも呼ばれている新潟県。燕三条地域では新潟5大ラーメン※のうち、「背脂ラーメン」と「カレーラーメン」の2種類を食べることが出来ます。諸説ありますが、この2つのラーメンは、燕三条地域を国内での発祥の地、あるいは普及の地とする意見があり、数多くの店舗が軒を連ね、そしてその背景には地場産業が深く関わっています。
背脂ラーメンは、この地域で夜遅くまで働く工場の職人のために誕生したとされています。汗をかき、塩分を欲する体に染み渡るよう、少ししょっぱいスープがベースであり、その上に背脂をふんだんにかけることでスープを冷めにくくさせ、出前をしても伸びづらく、腹持ちの良い太麺となっています。背脂の量や見た目のインパクトに反してとても食べやすいです。
カレーラーメンも職人が出前をよく頼んでいたものであり、70年以上の歴史があるとされています。地元のソウルフードとしてお酒を飲んだ後のシメとしても親しまれており、スープタイプ、冷やしタイプ、つけ麺タイプ等種類があり、具材も各店舗によって大きく異なり、工夫がされています。
※新潟5大ラーメン
新潟あっさり醤油(新潟市)、新潟濃厚味噌(新潟市)、燕三条背脂(燕市)、三条カレー(三条市)、長岡生姜醤油(長岡市)
現在、はっきりとした定義はないが、この5つを指し新潟5大ラーメンと呼ばれることが多い。

(2)釜めし
出前で頼まれることが多かったラーメンが「仕事中」の食べ物ならば、釜めしはお店で食べる「仕事後」の食べ物と言っても良いでしょう。この地域の会社では大きな仕事が終わると、労いの気持ちを込めて宴会の席で釜めしを社員に振舞うそうであり、その宴会のお土産として折詰に入れた釜めしが子供に喜ばれ、またお祝い事等の際に家族で食べに行くことで広く浸透していきました。釜めしは注文してから少し時間がかかりますが、その待ち時間もスパイスの1つ。釜炊きならではの熱さがあり、モチモチした食感が香ばしく、多くの店舗でお持ち帰りにも対応しており、冷めても美味しいということで好評を得ています。
ラーメンと釜めしはそれぞれ専用のグルメマップがあるほどですが、その他にも新潟の美味しい郷土料理等を味わえるお店が燕三条地域には数多く点在しており、今日もものづくりに励む地元の人間の胃袋を満たしています。

写真:背脂ラーメン(左)と釜めし(右)

6.弥彦神社
当派出所より車で約20分、弥彦山の麓に弥彦神社があります。同神社は万葉集にも登場するほど歴史が古く、「おやひこさま」として今も昔も人々に慕われており、初詣には例年約30万人もの方が訪れる新潟県で一二を争うほどの初詣スポットです。弥彦神社が鎮座する弥彦山は山全体がパワースポットとして有名であり、境内は樹木に覆われていて、どこか厳かな雰囲気を感じさせる場所です。
また、同神社は「縁結びの神様」として有名であり、恋愛成就のために訪れる方も多数いるそうです。

写真:弥彦神社

7.おわりに
新潟県といえば、「お米」、「日本酒」、「スキー」といった食べ物や観光が頭に浮かぶかと思いますが、燕三条地域でもこのように観光したり、食を楽しんだりすることが出来ますし、また少し車を運転すれば、寺泊魚の市場(魚のアメ横)、自然が豊かな下田郷や桜並木が綺麗な大河津分水、と県内でも有名な観光地へ行くことが十分にできる距離にあります。
もし、新潟県を訪れる機会がありましたら、燕三条地域へも足を運んでみてはいかがでしょうか?

【参考文献】
日本全国因縁のライバル対決44(浅井建爾・著/主婦の友社・刊)

【写真協力】
(公財)燕三条地場産業振興センター
三条市役所経済部営業戦略室
燕市役所観光振興課
弥彦観光協会



軍港だけじゃない!食・文化豊かな街 横須賀

横須賀税関支署長 佐久間 直久

1.はじめに
横須賀税関支署は、大正5年9月、横須賀税関監視署として設置され、昭和18年11月、70年の歴史を閉じて税関が閉鎖された後、約2年半の空白を経て、昭和21年6月1日、横須賀税関支署として再開されました。
当支署は、神奈川県の三浦半島東側に位置する横須賀市、西側に位置する逗子市及び葉山町を管轄し、南端に位置する三浦市を当支署三崎監視署が管轄しています。

2.横須賀港の沿革
1853年7月8日、ペリー率いる米国海軍東インド艦隊の黒船4隻が横須賀の浦賀沖に来航し、400人ほどの海兵隊員とともに久里浜に上陸しました。ペリーは携えてきたフィルモア大統領の開国を求める親書を幕府に渡し、これをきっかけに、翌年、日米和親条約(神奈川条約)が締結されるに至りました。1858年、日米修好通商条約が締結され、1860年、批准書交換のため米艦船に乗船し米国に向かった日本の使節を護衛する名目で派遣された咸臨丸が浦賀港から出港しました。このような開国の歴史の舞台となった横須賀港ですが、その開港の起源は、1865年(慶応元年)、徳川幕府の勘定奉行であった小栗上野介忠順とフランス人技師ヴェルニーが横須賀村に製鉄所(のちの造船所)を建設したこととされており、1884年(明治17年)12月、横浜にあった東海鎮守府が横須賀に移り、横須賀鎮守府が設置されてからは海軍最大の基地となり、軍港として発展していきました。
現在、在日米海軍基地及び海上自衛隊横須賀地方総監部をはじめとする自衛隊施設が港の各所に所在していますが、貿易港として乗用自動車、冷凍マグロ等の輸出入が行われています。

写真:久里浜にはペリー記念館や上陸記念碑があります
写真:ペリー提督胸像

3.管内の名所・話題
【YOKOSUKA軍港めぐり】
JR横須賀線・横須賀駅の改札口を出ると、すぐ目の前に横須賀港が広がっており、米海軍横須賀基地と自衛隊横須賀基地に係留されている艦船が目に入ってきます。これらの艦船は軍港めぐりクルージングに参加すれば、案内人の詳しい解説付きで海上から間近に見ることができます。ちなみに明治時代に作られた港の案内地図を見ると、港内に小舟が浮かんでいる様子が描かれており、すでにこの時代から最先端エリアを海上から眺める「明治版軍港めぐり」を楽しんでいたことが窺えます。

写真:横須賀支署から見える、YOKOSUKA軍港めぐりの船と自衛隊の潜水艦

【ドブ板通り】
米海軍横須賀基地前の商店街です。ここは日本と米国の雰囲気が融合した独特の情緒が感じられ、ネイビーバーガー、海軍カレー等ご当地グルメを提供する店をはじめとして様々な業種の店が軒を連ねています。またスカジャンの発祥地としても有名です。ちなみにドブ板通りと呼ばれるようになったのは、大正時代、幅1m半位の下水が流れていて、その上に厚い板の蓋がしてあったことに由来します。

写真:ドブ板通り(カタカナが正式名称)

【東京九州フェリー】
2021年7月1日、横須賀と北九州・新門司との間に「東京九州フェリー」が就航しました。日曜日を除く週6便運航されており、両港を約21時間で結んでいます。上りも下りも深夜0時前に出港し、翌日の夜9時頃到着するスケジュールとなっています。就航した2隻の船舶は、それぞれ横須賀市の花、「はまゆう」と北九州市の花、ひまわりから「それいゆ」と名付けられています。大海原を目の前にして、船上の露天風呂で癒されてみてはいかがでしょうか。

写真:東京九州フェリー

4.ご当地三大グルメ
【よこすか海軍カレー】
明治41年に発行された「海軍割烹術参考書」に記載されたレシピをもとに現代に復元したカレーで、基本レシピに各店のアレンジを加えて提供されていますが、提供のルールとして、認定店のみ、横須賀市内でしか提供できないこと、栄養バランスを考慮して必ずサラダと牛乳を添えること等5項目が定められています。最近では自衛隊各艦の料理長のレシピを忠実に再現した「横須賀海上自衛隊カレー」も提供されています。

写真:よこすか海軍カレー(写真提供:横須賀市)

【ヨコスカネイビーバーガー】
ハンバーガーは当初、米海軍において艦船の見張り要員の食事として提供され始め、各艦船の料理人が隠し味に工夫を凝らすなどして、軍隊食として発展していきました。2008年、米海軍横須賀基地から米海軍の伝統的なハンバーガーの調理法が提供され、このレシピを元に誕生したのが、ヨコスカネイビーバーガーです。100%ビーフパテを170g以上のビッグサイズで焼き上げ、シンプルな味付けに調理された本場アメリカの伝統的なハンバーガーです。ちなみに、日本の一般市民が初めて食べたハンバーガーは、1940年代後半、横須賀の米海軍下士官兵集会所(EMクラブ)において、ビッグバンドジャズが演奏された時に供されたものだそうです。

写真:ヨコスカネイビーバーガー(写真提供:横須賀市)

【ヨコスカチェリーチーズケーキ】
2009年、約2万人の米国人が暮らす米海軍横須賀基地から日米友好の象徴として提供されたレシピをもとに誕生したニューヨークスタイルチーズケーキです。上質なクリームチーズをふんだんに使って濃厚でクリーミーなテイストに仕上げ、とろみがつくまでじっくりと煮込んだチェリー(桜=日本を象徴)を添えるのがヨコスカチェリーチーズケーキの特徴です。市内のお店をいくつか回って食べ比べをしてみるのも楽しいかもしれません。

写真:ヨコスカチェリーチーズケーキ(写真提供:横須賀市)

5.催し
日露戦争時、連合艦隊旗艦として活躍した戦艦「三笠」が世界三大記念艦として永久保存されている「三笠公園」において、例年5月中旬、「よこすかカレーフェスティバル」が開催されます。ここ2年間は開催中止となりましたが、直近の開催(2019年)では土日2日間で約65,000人が来場し、出展ブース数は120を超えるという盛況振りでした。「よこすか海軍カレー」をはじめ、全国のご当地カレー、カレーバイキング、カレーパンやその他さまざまなカレーが味わえます。

写真:三笠公園(銅像は東郷平八郎)

6.おわりに
今回、紹介できたのは横須賀の歴史、グルメに係るほんの一部分に過ぎません。管轄する三浦半島各市町は、気候温暖で自然も豊かです。感動必至の絶景スポットも数多くあり、ハイキング、サイクリング等にも絶好の場所です。漁港直送の鮮度抜群の魚、旬の三浦野菜(大根、キャベツ、スイカ等)もおすすめです。是非一度お越しください。
横須賀はじめて物語
・日本最初のクレーンは横須賀製鉄所で使われたが、当時は人力で動かしていた。
・日本で最初に名刺交換をしたのはペリーと浦賀奉行所である。
・日本で最初にフランス式簿記を導入したのは、横須賀製鉄所の土木少佑・稲垣喜多造である。
・バービー人形は、アメリカのマテル社と横須賀メリヤス工業が共同開発したものである。
・日本最初の時計台は、横須賀製鉄所内のれんが造りの時計台である。
・日本最初のディスコは、汐入駅周辺の防空壕の中にあった。