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路線価でひもとく街の歴史

第26回 「茨城県土浦市」

水路から道路へ。近代化に向けた挑戦はつづく

鉄道が普及する前の時代、都市間輸送は主に河川が担っていた。市内には運河が引き込まれ、水路が街中に張り巡らされていた。鉄道開通後もしばらくは舟運が併用されていたが、舟運の衰退とともに埋め立てられる水路が増えてきた。今月紹介する土浦の街の近代史は水路の埋め立てと関係が深い。

街道と水路の結節点だった桜橋
茨城県土浦市は人口約14万人。茨城県南の拠点で、県庁所在地の水戸に対し独自の経済圏を擁している。車のナンバーは、笠間や水戸以北が「水戸」なのに対し「土浦」である。水戸街道と霞ヶ浦水運が交差する場所でもある。慶長9年(1604)、水戸街道が開通し土浦に宿駅が置かれた。街道に沿って町が組織され、南門から田宿(たじゅく)町、中城(なかじょう)町、桜橋を渡って本町(ほんまち)、仲町(なかまち)と続く。本陣は本町にあった。
享保12年(1727)に川口河岸が整備されて以降は港町でもあった。河岸を出航した高瀬舟は横利根川を通って千葉県の佐原に着く。佐原から利根川を遡上し千葉県野田市の関宿(せきやど)で江戸川に乗り換え、流山、松戸、行徳を経由し江戸の市街に入った。だいぶ遠回りだが水戸街道を徒歩で運ぶのに比べれば効率的かつ低コストだった。鉄道が開通してもコストメリットはあったため、高瀬舟から蒸気船に進化しつつ、少なくとも明治期は鉄道と舟運が併用されていた。
常磐線土浦駅は明治28年(1895)の開業。国有化前は日本鉄道土浦線の駅だった。まずは土浦駅から友部駅までの下り区間が先行し、東京の田端駅に至る上り区間は翌年開通した。後に大塚経由で池袋に支線が延び、今の山手線のルートを辿って横浜に乗り入れた。
城下町の時代の土浦市街は、図1 市街図でわかるように堀を兼ねた水路が張り巡らされていた。中でも重要な幹線が霞ヶ浦に通じる川口川である。幕藩体制が瓦解し城の堀を兼ねた多くの水路が埋め立てられたがこのルートは残された。水戸街道を通し川口川に架かる橋が桜橋だ。城に通じる水路と街道筋が交わるという点では東京の日本橋と重なる。桜橋も土浦の街の中心だった。ここは旧土浦町の道路起点でもあり橋のたもとに道路元標がある。その脇では天ぷら店「保立(ほたて)本店」が明治2年創業時の町家のまま今も営業している。

図1.市街図

中城町の銀行街
桜橋から川口川に沿って川口河岸の港町が、街道に沿って商業地が発展した。中でも街道筋の中城町が賑わい銀行も集まっていた。土浦最初の銀行は第五十国立銀行である。明治11年(1878)の創業で、茨城県内の4つの国立銀行の中でも最も早かった。明治30年(1897)に土浦五十銀行、大正12年(1923)に五十銀行に改称。大手地銀の常陽銀行の祖である。
常陽銀行は昭和10年(1935)を創立年としている。当時勢力を2分した五十銀行と常磐(ときわ)銀行が合併した年だ。常磐銀行は水戸が本店で、第五十国立銀行の2ヵ月後に創業した第六十二国立銀行が源流である。五十、常磐両行の合併で中城町の五十銀行は常陽銀行の土浦支店となった。昭和46年(1971)に旧国道6号沿いに移転。赤レンガの建物は日本信託銀行の支店に使われたこともあったが、その後取り壊され駐車場になった。町家を改修した観光施設「土浦まちかど蔵 野村」の隣である(図4 水戸街道中城町(写真右側が土浦まちかど蔵 野村))。中城町には茨城貯蓄銀行の支店もあった。大正15年(1926)に開設され、営業譲渡で常陽銀行の土浦西支店となった。昭和38年(1963)に移転し現況駐車場である。その斜め向かいに茨城農工銀行から昭和19年(1944)に転じた日本勧業銀行の支店があった。昭和27年(1952)に撤退し、跡地に土浦信金の本店が来た。桜橋の先の仲町には土浦農商銀行があった。明治29年(1896)の設立で、大正14年(1925)に常磐銀行に買収された。
川口河岸には常磐銀行の支店と土浦三津輪(みつわ)銀行があった。常磐銀行は大正6年(1917)築の近代建築で、統合後も平成15年(2003)まで建物が残っていた。土浦三津輪銀行は代々土浦藩主を務めていた土屋家が設立した銀行で明治34年(1901)に開業。昭和14年(1939)に常陽銀行が買収し土浦東支店となった。現在は同行の「クイックステーション」が残る。

川口川1次埋め立てと祇園町
大正6年(1917)、桜橋から若干下った河岸沿いに土浦繭糸市場が開設された。百貨店を兼業しており繭取引のシーズンオフ期に営業していた。店名を豊島(とよしま)百貨店といい土浦初の百貨店とされる。
大正期には土浦の街の歴史を語るのに欠かせない出来事があった。大正11年(1922)、隣の阿見町に海軍航空隊ができた。土浦の市街図をみると、城下町の入り組んだ区画の南側に、八間道路を横軸に整然としたグリッド状の区画がある。海軍航空隊の生活需要に応えるべく湿地帯を造成して新しい市街地を整備した区画だ。現在の桜町で、市中に散在していた飲食店が集団移転させられた。現在も八間道路の南側は関東有数の歓楽街だ。
土浦の街は水路の埋め立てが歴史の変曲点になった。藩政の瓦解に伴い埋められた堀を別にすれば、その第1弾は昭和10年(1935)である。駅前通りに分岐する地点まで川口川が埋め立てられた。川跡には商業地が造成され「祇園町」と名付けられた。これがひとつのきっかけとなり、街の賑わいが街道から祇園町に移っていった。奇しくも翌年、土浦繭糸市場が閉鎖され施設は百貨店専業となった。
手元の路線価図でもっとも古いものは昭和34年(1959)である。当時の最高路線価地点を図1に示した。桜橋から祇園町に沿って高価格帯が分布している。豊島百貨店の場所が最高路線価地点となった。図中の“京成跡”の場所である。豊島百貨店は戦後に経営者が変わり霞百貨店となる。その後昭和39年(1964)に京成電鉄の傘下に入り、京成霞百貨店の時代を経て、昭和48年(1973)に土浦京成百貨店となった。また、確認できる限り最も古い最高路線価地点名は昭和44年(1969)の「本町902-5丸彦家具店」だった。この路線には地元有力店の伊勢屋と小網屋も店を構えていた。伊勢屋は交差点に店舗を新築し、高島屋を誘致した。小網屋は大正元年(1912)の創業で、昭和26年(1951)、川口町に百貨店を出店した。

2次埋め立てと駅前集積
京成百貨店を擁する祇園町界隈に対して駅前は新興勢力だった。後の大型店で最も早かったのは昭和33年(1958)開店の西武ストアー、後の西友である。
伝統的商業核から駅前に街の中心が移っていくのだが、土浦の場合そのきっかけは2度目の水路埋め立てだった。川口川の戦後残った水面が埋め立てられ、昭和42年(1967)に川跡が市営駐車場になった。同年、駅前に丸井が進出。昭和45年(1970)に西友が元の河川沿いに大型店を新築し移転した。昭和48年(1973)にはWALK館を新設するなど若年層へのアピールを強めていく。同年、川跡に面してイトーヨーカドーも進出した。駅からのアクセスに加え、前面に駐車場があったことが強みとなった。
駅前の出店ラッシュの間に最高路線価地点は「大和町山本電気商会前土浦駅前通り」に移転した。昭和45年(1970)のことだ。その後、昭和58年(1983)に駅ビル「ウイング」が開店。昭和60年(1985)には川跡の市営駐車場が廃され商業施設「モール 505」が整備された。勢いを増す駅前のあおりを受け、伝統的商業核は苦戦を余儀なくされる。高島屋の後に入っていた「アクト亀宗」が昭和63年(1988)に撤退。翌年、土浦初の百貨店の京成百貨店が閉店した。

郊外そしてつくば新市街との競合
他方、対立の構図は伝統的商業核と駅前の間だけではなかった。ひとつはロードサイド商業核との競合である。昭和57年(1982)、市街北側、国体道路の沿線に土浦ピアタウンがオープン。霞百貨店から独立した地元の大手スーパー、カスミが核テナントになった。その後も郊外店が集まり一大商業拠点を形成した。
もうひとつはつくば新市街との競合である。郊外に一から作った人工都市で元々車社会が前提の街だった。昭和60年(1985)、つくば万博が開かれた年に西武百貨店、ジャスコと専門店からなるハイブリッド商業施設「クレオ」がオープンした。ロードサイド商業核とつくば新市街の攻勢を前に土浦市街地の商業集積は体力を落としていく。
平成9年(1997)、対抗策のひとつとして進められてきた駅前再開発ビル「ウララ」が完成した。旧川口川沿いからイトーヨーカドーが移り核店舗となった。活性化の切り札だった一方、これが引き金となって街中大型店の撤退が相次いだことも否めない。平成10年(1998)西友が撤退、翌年には小網屋が百貨店を閉店した。丸井も平成16年(2004)に撤退する。
平成17年(2005)、土浦税務署管内の最高路線価が土浦市からつくば市に移った。つくばエクスプレスが開業した年である。その10年後の平成27年(2015)には県都水戸市も追い越した。今やつくば市の最高路線価は県内で最も高い。この間に県南拠点の移転も相次いだ。筑波銀行は再編をきっかけに本部機能をつくば市に置くことにした。同行は昭和27年(1952)に創業した関東銀行が源流だ。五十銀行の統合以来17年ぶりに登場した土浦本店の地方銀行だった。
平成21年(2009)に4万8302m2のイオンモール土浦が開店。街中に最後まで残った大型店のイトーヨーカドーが平成25年(2013)に撤退した。
市の中心市街地活性化基本計画をみると、平成9年(1997)から平成26年(2014)までの市内の売場面積は21万m2前後で推移した。ただし中心市街地に限ると6万6978m2から1万4754m2と5分の1になった。かつて市街を賑わした大型店はすべてなくなった。街中のアーケードも撤去された。
近代化に向けた挑戦はつづく
今、川口川の跡を辿ると、昭和10年に造成した祇園町の商業エリアは更地である。図3 川口川跡のモール505と土浦ニューウェイは昭和42年以降の埋め立て地の写真だが、モール505の2~3階は空きが多い。頭上には高架道路が走っている。万博にあわせて整備された自動車専用道「土浦ニューウェイ」で、川口川と外堀の跡を辿って土浦学園線に抜ける。旧水路を埋め立て高架道路を通した点は東京都心に似ているが首都高速と違うのは走る車が少ないことだ。
こうした結果をみて、川口川をはじめ街中に張り巡らされた水路を残していればと思う向きもあろう。実際、川口川の埋め立てにあたっては戦前・戦後の2回とも歴史遺産の保全か近代化の促進かを巡り侃々諤々の議論があったようだ。昭和60年に記されたモール505の竣工碑の文面からもうかがえる。議論を尽くし、その上で近代化を選択した。背景には洪水や伝染病、交通渋滞の問題もあった。特に霞ヶ浦の水面が膨れ上がり川を伝って市内に押し寄せる「逆水」に悩まされた土地の記憶は重い。
休日に県南一円から人が集まった頃と比べ街の風景は大きく変わった。大型店はなくなったが、以前とは違う形で再生の兆しがうかがえる。かつての商業地は住宅街に生まれ変わりつつある。駅周辺にはマンションが増えた。西友や小網屋の跡地にはそれぞれマンションが建った。
都市機能も駅に集まってきた。イトーヨーカドーの撤退で空いたビルには土浦市役所が入った。ビルの地階にはカスミがあり日常の買い物に不便はない。駅の隣には4階建の再開発ビル「アルカス土浦」ができた。2階以上が図書館で県立図書館に次ぐ規模だ。駅ビルはリニューアルされPLAYatre(プレイアトレ)となった。「日本最大級のサイクリングリゾート」がコンセプトで、1階には公民連携で始まったサイクリング拠点施設「りんりんスクエア土浦」がある。琵琶湖一周ツーリング(ビワイチ)と同じく霞ヶ浦一周も定着するだろう。
こうした変化も次代を見据えた近代化のひとつといえよう。上野東京ラインが開通し、丸の内・大手町や品川まで乗り換えなしで通勤できるようになった。テレワークが普及し日々通勤しなくてもよい社会になれば移住先としての魅力も高まる。日用の都市機能が充実し、たまの通勤にも便利な駅チカに住み、休日には車で郊外に乗りつけ買い物やアウトドアを楽しむ。土浦のまちづくりの先にあるものを想像すると、いわゆるコロナ後のライフスタイルが目に浮かぶ。都心、駅チカ、郊外ライフのベストミックスである。
藩政期以来の一等地の水戸街道に目をやると町家の修景が進んでいる(図4)。更地となった祇園町エリアは昨年公園化され、土浦城へのアプローチを構成する大通りのようになった。亀城モールという。水路や建築物はともかく、旧城下町の町割りが比較的残っているのが救いだ。残った歴史的遺産の工夫で屋敷町のブランドを高めている。

図2.広域図

プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。専門は地域経済・金融。昨年12月に「自治体の財政診断入門」(学芸出版社)出版