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コラム 海外経済の潮流139

その時、「自国通貨」は選ばれるのか?―トルコで進む「ドル化」の教訓

大臣官房総合政策課政策調整室長 兼 国際経済室長 川本 敦/
大臣官房総合政策課調査統計官(前 在トルコ日本国大使館二等書記官) 高木 秀起

1.はじめに
アジアと欧州の間に位置する内海(うちうみ)が黒海である。古来多くの民族が行き交い、東西の文明が交わり、世界史上の大帝国である東ローマ・オスマン・ドイツ・ロシアもこの海面でその興亡を示してきた。黒海の北岸ウクライナにおける戦乱。21世紀の現在にあってなお、黒海沿岸の地域はその複雑な歴史に新たな章を加えようとしている。
本稿で取り上げるのは、黒海南岸の新興国トルコにおける経済の混乱である。昨年秋以降、トルコでは4割を超える通貨の下落、前年比5割を超える物価上昇を記録する経済危機の状況にある。多くの日本国民にとって馴染みが深いとは言い難いトルコであるが、家族、伝統、礼節を重んじる国民性など日本人との共通点も多く、親日的であるとも言われる。経済の構造の面では、資源輸入国であり、一次産品の価格変動で貿易収支に大きな影響が及ぶことにおいて日本と共通する点がある。
トルコ経済の混乱からどのような教訓が得られるのか考えてみたい。

2.経済危機と当局の対応
トルコが経済危機を経験するのは過去30年で4度目となる。今回の経済危機を特徴付けるのは、通貨や物価の大幅な変動、そして、中央銀行による特異な対応である。

(1)為替
近年、トルコリラは下落傾向にあったが、その背景として、(1)資源輸入国である中で経常赤字が慢性的に継続していること、(2)エルドアン大統領による中銀総裁の度重なる更迭に起因する金融政策の独立性に対する市場の懸念、(3)対米関係の悪化といった要因があった。
昨年9月以降の利下げサイクルは大統領の意を汲んだものと解釈され、中銀の金融政策に対する市場の不信が再燃し、リラは更なる下落局面に入った。
FRBなどの主要中銀の金融政策正常化観測も新興国通貨であるリラの下落に拍車をかけ、12月20日の取引時間中には1ドル18リラの史上最安値を付けるなど、2021年中の対ドルでのリラの下落率は40%超となった。12月末には中銀の為替介入があったとされており、大きく値を戻したが、足元でも歴史的なリラ安の水準で推移している。

【図表1 トルコリラの対ドルレート(中銀公表値)】

(2)物価
エルドアン大統領による中銀総裁解任後の金融緩和路線へのシフトを背景に消費者物価上昇率は2019年後半から前年同月比10%台から徐々に上昇してきたが、昨秋以降の通貨安や世界的なエネルギー価格の上昇による輸入価格の上昇もあって、2021年12月から急上昇し、2022年2月には同54.4%と約20年ぶりの水準を記録した。

【図表2 消費者物価上昇率】

電気料金は前年同月比125%、ガス料金は50-60%程度上昇しており、市民が実感するインフレ率は公式統計よりもずっと高いという*1。エルドアン大統領の支持率は低下傾向にあるが、インフレ率の昂進はその一因とされている。

【図表3 エルドアン大統領の支持率】

(3)金融政策
インフレが昂進する中、トルコ中銀は昨年9月以降、4か月連続で計5%の利下げを実施し、今年に入ってからは3か月連続で政策金利を据え置いた。
トルコは中東地域でありながら、世俗主義、政教分離を国是としてきたが、現在のエルドアン大統領は敬虔なイスラム教徒として知られている。エルドアン大統領は、イスラム教の信仰から、金利を悪と捉える考えを持っていると言われている。大統領は「金利を下げれば、インフレ率は低下する」という、経済学の通説からすると特異と言える主張を繰り返し、自身の信念に反する財務大臣や中銀総裁の更迭、利下げを促す発言等で金融政策に介入してきた。
大統領の信念を支える経済的なロジックとして、利息が高いと、企業の銀行からの借り入れ費用が高くなり、その費用が価格に転嫁される。そのため、利息を下げれば、借入費用が安くなり、価格が下がるという発想があると言われている。大統領は低金利下での投資・生産・輸出拡大で成長を促進する成長モデルを掲げている。
米国や欧州の先進国中銀で利上げに向けた動きが見られる中、ブラジルやメキシコなどの新興国は利上げサイクルに入っている。トルコは、物価上昇局面で利下げしたため、実質金利のマイナス化が進行し、海外投資家の対トルコ投資からの逃避を招いた。*2

3.経済の「ドル化」―通貨の信認に何が起きているのか
トルコは過去にも通貨危機に見舞われ、ハイパーインフレに苦しんだ経験もあるため、国民のリラに対する信認は低い。自国通貨への信認の低さは、経済のどのような面で表れているのだろうか。

(1)ドル建預金の増加
通貨価値が不安定な国において、資産防衛の観点から米ドルで貯蓄を行うことは合理的な経済活動になる。こうした外貨への逃避は「非公式なドル化」と分類されている。対ドルレートの固定化を「公式なドル化」と呼ぶのに対して、「非公式なドル化」は政府や中銀の意図とは無関係に、企業・家計が自発的に米ドルなど主要先進国の通貨を用いて経済活動を行うことをいう。
トルコ国内の全預金に占める外貨預金の比率は、ここ10年間で30%台から約60%にまで上昇している。この傾向は、米国・トルコの間で外交的な衝突があったとしても、強まることはあれ、弱まることは無かった。

【図表4 全預金に占める外貨預金の比率】

外貨建てで預金を受け入れるトルコの銀行は、資産・負債の間の通貨のミスマッチを防ぐ観点もあり、貸出も4割が外貨建で実行されている(2021年末)。国内で外国通貨による資金循環が生じていることになる。

【図表5 トルコの銀行部門のバランスシート(2021年末時点)】

(2)金の輸入と経常収支
トルコ国民による資産防衛の帰結は経常収支にも表れている。そもそも、資源輸入国であるトルコの経常収支は慢性的に赤字であり、潜在的な通貨安圧力となっていた。近年の経常収支の内訳を見ると、経常赤字の大きな部分、2020年については半分超について、金の収支赤字が占めている。通貨安やインフレへの懸念から、国民が現物資産である金を選好していることを背景に、金の輸入が増加し、経常収支赤字を継続させる構図となっている。

【図表6 経常収支と金の収支】

経常収支赤字が継続していることから、トルコは対外純債務国であり、IMFによれば、2020年の純債務残高は3850億ドルで、米国、スペイン、フランス、インド、ブラジルらと共に純債務国の世界TOP10に名を連ねている。純債務残高の対GDP比は56%となっており、多大な対外債務残高は慢性的な経常赤字、高インフレと並んでトルコ経済の構造的課題となっている。

(3)財政収支と対外債務
トルコでは経常赤字に加え、財政赤字も継続している。財政赤字の対GDP比は増加傾向にあるが、債務残高の水準自体は、2021年末の中央政府の債務残高の対GDP比は38%であり「他国と比して低水準」(IMF4条協議報告書)と評価されている。【図表7 財政収支の対GDP比】
問題になるのは、債務残高に占める外貨建て債務の割合である。過去10年で外貨建て債務の割合は約30%から2021年末で約60%超まで上昇しており、通貨安により利払い負担が増加することになる。【図表8 中央政府債務残高の通貨構成比】

4.小括
「大切なものは、目に見えないんだよ」(サン・ディグジュベリ『星の王子さま』)―日本で生活している限り、国民が自国の通貨を使うことは自明に思える。何らの対価を支払うことがなくとも、国民が「円」を使うことは永遠に続くようにも思える。その背後にある国民の通貨への信認は目に見えず、それが失われたときにはじめて、国民と通貨の間が「信認」で結ばれていたことに気づくことになる。
通貨の信認が失われると何が起きるのか。それは通常の預金の外貨預金へのシフトであり、金投資による資産防衛であり、ドル建てでの融資であった。「ドル化」した経済は、自国の内部でありながら、ドルで経済が回るいわば「ドル経済圏」であって、そこには通常の金利操作による金融政策の効果が直接及ぶことはない。自国通貨建てを大層としていた政府債務も、現在は過半が外貨建てとなった。
マクロ経済政策の成否は、国民の生活に対して広範かつ直接的な影響を与える。自国を政策の「実験場」とすることについては慎重であるべきだろう。ことに通貨の信認は、失われれば取り返すことが容易でない可能性が高く、他者の経験から教訓を導く意義が大きい。
トルコの経済危機は、通貨の信認が失われた一国経済の姿を可視化している。日本が失ってはならない「大切なもの」が何かを教えてくれていると筆者たちは考えている。

(注)本稿を執筆するにあたり、トルコ中銀、トルコ財務省、IMF、土田陽介『ドル化とは何か』(ちくま新書)、IIFレポート、JCIFレポート等を参照した。三菱UFJリサーチ&コンサルティング 土田陽介氏、国際金融協会(IIF)Ugras Ulku氏、国際金融情報センター(JCIF)山口正章中東部長、同平野奈津江研究員からお話を伺った。貴重な機会をいただいたことに厚く御礼申し上げたい。あり得べき誤りは筆者たちの責に帰するものであり、文中、意見に係る部分は筆者たちの私見である。

*1)ワシントンのシンクタンクIIF(国際金融協会)でトルコを担当するUgras Ulku氏からのヒアリングによる。
*2)昨年末以降、政府は利上げ以外の政策により通貨防衛と物価抑制を図っている。その一つに、リラ建て預金保護制度がある。
リラが史上最安値を記録した2021年12月20日、大統領は為替下落による損失を財政補填するリラ建て預金保護制度を発表した。対象は3、6、9、12か月満期のリラ建て定期預金で、リラのドルに対する下落率が預金金利を上回れば、満期時に政府が銀行を通じて差額を上乗せして払い戻す。
リラが史上最安値を記録した2021年12月20日、大統領は為替下落による損失を財政補填するリラ建て預金保護制度を発表した。対象は3、6、9、12か月満期のリラ建て定期預金で、リラのドルに対する下落率が預金金利を上回れば、満期時に政府が銀行を通じて差額を上乗せして払い戻す。