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路線価でひもとく街の歴史

第25回 「岐阜県大垣市」

水都の風景に蘇る舟運遺産の街
大垣といえば、東京駅を深夜出発し翌朝大垣駅に到着する快速列車「大垣夜行」を筆者は思い出す。その後臨時列車「ムーンライトながら」となったが昨年廃止された。終点といえば松尾芭蕉「おくのほそ道」の終着地も大垣である。昔から終点に縁があるようだ。
舟運の時代の船町港の繁栄
戸田氏11代の藩都大垣は街道筋の宿場町でもある。もっとも大垣駅は東海道線だが大垣宿は東海道五十三次でなく、中山道は大垣の北側を迂回している。大垣宿は美濃路の宿場町である。美濃路は東海道の宮宿(熱田)と中山道の垂井宿を斜めにつなぐ脇街道だった。東海道から分岐する宮宿から7番目、垂井宿の1つ前が大垣宿である。
交通路としてなお重要なのが濃尾平野を縦断する水路だった。市街を流れる水門(すいもん)川は揖斐(いび)川に合流し桑名に至る。桑名は東海道の宿駅で、隣の宮宿と海路で結ばれていた。今は伊勢湾岸自動車道に重なる渡し船の航路を「七里の渡し」といった。
鉄道の開通も比較的早く、大垣駅は明治17年(1884)に開業している。優先されたのは、敦賀から長浜駅を経由し大垣駅まで鉄路を延ばせば、大垣で水路に積み替え桑名に向かうことができたからだ。鉄道開通の前年には蒸気船が就航し、鉄路と水路の組み合わせで日本海と太平洋を結んだ。その後、線路は岐阜に延び大垣駅は途中駅となったが、峠越えの難所の関ヶ原の手前ということもあって鉄道の拠点であり続けた。
舟運の発着点は城下町南端の船町にあった。船町港といい、元禄時代の住吉燈台が今も残る。松尾芭蕉も次の目的地の伊勢に向けここから乗船。「蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ」の句が残る。“ふたみ”とは伊勢の二見浦のことである。
舟運の時代、市街地の重心は川湊の後背地にあった。鉄道開通の1年前、明治16年(1883)の岐阜県統計書によれば宅地の売買価格の最高地点は美濃路の本陣があった竹島町だった。竹島町と船町の間の俵町も商業中心地として賑わい、明治11年(1878)に発足した第百二十九国立銀行が本店を構えていた。旧大垣藩士の金禄公債を元手に設立された銀行で、幕末の藩主、戸田氏共(うじたか)の異母兄の戸田氏寛(うじひろ)が頭取だった。明治29年(1896)、国立銀行制度の終了とともに発展解消し、今の地域一番行である大垣共立銀行に引き継がれた。岐阜市の十六銀行のように番号を踏襲する銀行が多い中、当行は番号以外の行名にした。それまでの士族中心の銀行から脱却し、士族と平民が一体となって地域振興を目指す意図が「共立」に込められている。初代頭取は藩の城代家老だった戸田鋭之助が就任した。
船町港には共営銀行が本店を構えていた。当時の物流ルートを反映し、揖斐川流域から中山道に沿って地盤を築いていた。大垣共立銀行が大正15年(1926)に買収し、現在の船町出張所が営業を引き継いでいる。買収は大垣共立銀行にとって桑名や滋賀県長浜への進出の足掛かりとなった。

中心街は郭町へ
俯瞰すれば、大垣市街の北のターミナルが大垣駅、南のターミナルが船町港、南北をつなぐ市内交通が水門川と美濃路である。煙を吐く汽車の駅は城下町の外に整備された。鉄道が開通したからといって水運優位の交通体系が急に変わることはなく、明治を通じて船町港の背後の俵町・竹島町界隈が中心街だった。
とはいえ世代交代の時間軸で交通の比重は少しずつ鉄道に移っていく。街の中心も駅に向かって移動していった。遅くとも大正期には中心街が竹島町の北側に移っている。大正2年(1913)発行の「安八郡紀要」によれば、当時最も売買価格が高かった地点は郭(くるわ)町になっていた。
現在、郭町には大垣共立銀行の本店がある。明治42年(1909)に安田銀行の系列となった当行は合併・買収を通じて業容を拡大。大正12年(1923)には愛知県進出を果たした。その翌年、俵町の本店は土蔵造で手狭だったため、現在地に近世ルネサンス式の本店を新築した。郭町は名前の通り城郭内の屋敷町だった。街道沿いの町人地に比べ区画が大きく、幕藩体制の瓦解後は比較的閑散としていた。そうした事情もあって役所や郵便局など新しく発足した公共施設は郭町に多い。
大垣共立銀行の本店の向かい側に昭和2年(1927)築の鉄筋コンクリート造3階建の建物がある。新築時は大垣貯蓄銀行の本店と、「大ビル百貨店」が入っていた。大ビル百貨店は当地初の百貨店で、貯蓄銀行は昭和18年(1943)に大垣共立銀行に吸収されたが百貨店は残り、戦後は丸物百貨店、名鉄マルイ百貨店が入っていた。現在は大垣市守屋多々志美術館として使われている。
昭和18年(1943)発刊の「土地宝典」では地価水準が等級形式で個々の区画別に示されている。本書によれば、郭町の大垣共立銀行の本店の区画が66等で最も高かった。これに次ぐのが街道筋の本町通りで、60等台が多く充てられていた。昭和10年(1935)の大垣商工会議所の調査によれば本町通りは従業員数、売り場面積ともに俵町を上回る、当時最も繁盛した商店街だった。戦争前にすべて無くなったが銀行もいくつかあった。
戦後も郭町が街の中心だった。特に、大ビル百貨店の場所から水門川にかかる新大橋までの郭町商店街エリアが発展した。西側に道路が拡幅し、2階以上が住居の集合店舗が次々建てられた。昭和37年(1962)にはグランドタマコシ大垣店が開店。名鉄マルイに続く大型店も繁盛し、報道ベースで最も古い昭和47年(1972)の最高路線価地点は「郭町1丁目青竹堂前通り」だった。青竹堂は洋品雑貨店で郭町商店街の南北の中間点にあった。

駅前エリアから郊外へ
他方、新大橋の駅側は比較的閑散としていた。ここにヤナゲン百貨店が進出したのは昭和36年(1961)である。当初は総合衣料品店で昭和41年(1966)には百貨店法上の百貨店となった。源流は明治43年(1910)創業の柳源呉服店で元々本町にあった。ヤナゲン百貨店の進出以来、新大橋を挟んで郭町と駅前が客足を競っていたが、次第に駅前が優勢となり、昭和63年(1988)には最高路線価地点が「高屋町1丁目すし半前駅前通り」に転じた。すし半は高屋町交差点と新大橋の中間点、ヤナゲン百貨店の隣にある。この2年前には駅ビルも開業していた。
80年代は郭町と駅前がしのぎを削る一方でロードサイド店が出てきた年代である。昭和55年(1980)、広い駐車場を備えたグランドタマコシ鶴見店、その翌年にジャスコ大垣店が開店。90年代の自家用車の普及で郊外優位が進み、郭町、駅前関係なく中心市街地そのものの低迷期に入る。大垣市によれば休日通行量は平成6年(1994)の23,417人から平成13年(2001)年には14,422人になった。
その後郊外型ショッピングモールは一段と大型化する。平成19年(2007)にアクアウォーク大垣とイオンモール大垣が開店。2店合わせると店舗面積は約6万m2となり、平成16年(2004)時点で5万m2弱だった中心市街地の店舗面積を上回る規模だった。あおりで平成18年(2006)にグランドタマコシ大垣店が閉店。中心市街地の休日通行量はさらに減り平成21年(2009)に9,400人となった。店舗を縮小するなどして再起を模索してきたヤナゲン百貨店だったが、新型コロナ禍もあって令和元年に閉店。同じ年、最高路線価地点はさらに駅に近づき駅前のロータリーとなった。
かつての舟運拠点は水都のシンボルに
大垣共立銀行の本店が郭町に移って約100年。創業地の俵町、そして舟運で栄えた船町界隈は今どうなっているか。図3 四季の広場と美登鯉橋(平成29年11月22日筆者撮影)は観光スポットのひとつ「四季の広場」の写真だが、古い地図と比べると、水辺の対岸左手に旧本店があったと推測される。右手の建物は市の総合福祉会館で、昭和半ばまで卸売市場があった。眼下の水辺は水門川で、総合福祉会館の角を右に曲がった先に船町港の跡がある。流路に沿って一帯は公園化され、GWには水門川に「たらい舟」が就航する。
大垣市は、週刊少年マガジン(講談社)で連載された大今良時「聲(こえ)の形」の舞台でもある。作品は平成28年(2016)に映画化され話題を集めた。作者いわく「人と人が互いに気持ちを伝えることの難しさ」がテーマで、主人公の石田将也と聴覚障害を持つ西宮硝子を軸に、高校3年生のせつなくぎこちないやりとりが描かれている。実は写真は映画「聲の形」のメインビジュアルの場所である。総合福祉会館は硝子が所属する手話教室の会場で、将也と硝子が5年ぶりに再会を果たす。手前の橋を美登鯉(みどり)橋といい本作で繰り返し登場するシンボル的な場所である。ファンが作品の名場面を訪ねる「聖地巡礼」が今も絶えない。
登場人物はシネコンで映画を見たり、フードコートで食事をしたりする。ここに出てくる場所がアクアウォークやイオンタウンだ(正確にはそれぞれの施設をモデルとした架空の場所。以下同じ)。硝子は駅前のマンションに住み、郭町商店街で贈り物を買い、新大橋で将也を呼びとめ告白する。他にも実在の場所が多々登場し、聖地巡礼スポットになっている。将也が大けがをして搬送された大垣市民病院、自主製作映画の審査会場となった文化会館。大垣駅、大垣公園の遊具や石垣もファンには知られたスポットだ。美しく描かれた街なかの風景も本作の魅力のひとつである。
気がつくのは、本作で描かれる日常がすべて徒歩、せいぜい自転車の行動範囲であることだ。市街地が郊外分散したとはいえ、映画館、ショッピングモールから総合病院までこの範囲に揃っている。
大垣市は、郭町の半径1kmにショッピングモール2店、拠点病院、文化会館があるコンパクトな街だ。令和3年7月号(第17回)の大牟田市と似た状況が大垣市にある。郊外型のショッピングモールとはいえ、戦前に進出した繊維工場の跡地を転用したものなので市街地からそれほど離れていない。鉄道も開通当初は「郊外」だったが、それと同じ程度の郊外だ。アクアウォークは大正2年(1913)に進出した摂津(せっつ)紡績大垣工場の跡地で、その後、大日本紡績を経てオーミケンシの工場となった。シネコンを擁するイオンタウンは元々は大洋レーヨン、その後帝国繊維の工場だった。

本社の存在が地方創生のカギ
30年前の人口を維持している点も興味深い。令和2年3月号(第1回)の宮城県石巻市は大垣市と同じく県庁に次ぐ2番手都市で規模も似通っているが人口減少が著しい。この違いはどこからくるのか、就業構造を基に考えてみる。図4 人口の増減要因から石巻の場合、農林漁業や工場労働、建設作業等の就業者が減っていることがわかる。あわせて非就業者も減少している。働き手が減れば子どもなど扶養家族も減るからだ。
他方、大垣市をみると元から製造業中心だったので農林漁業の減少はない。工場労働・建設作業等については石巻市と同じように減少しているが、専門・技術職がカバーしている。就業者数が保たれているので非就業者もそれほど減っていない。そもそも製造拠点の海外移転などによる労務職の減少は全国的な傾向だ。この流れに対し、専門・技術職中心の就業構造にシフトすることが人口水準を維持するポイントになる。
そのカギは本社の存在にある。誘致工場の場合、当初の進出目的である生産機能から撤退するとなれば工場も廃止され、雇用も無くなってしまう。その点、工場とともに本社があれば簡単に撤退できない。会社の歴史ひいてはアイデンティティにかかわるからだ。企業である以上、利益や成長を重視するのは言うまでもないが、地元本社はそれと同じくらい地元の雇用を重視する。生産機能が空洞化しても、事業環境の高度化に適応した新しいビジネスを捻り出す。この点、地元に本社を構える中堅企業や大企業が多い大垣は強い。目を見張ることに、16万人規模の都市にもかかわらずイビデン、西濃運輸(セイノーホールディングス)、太平洋工業、大垣共立銀行と東証1部上場企業が4つもある。進学で大都市圏に若者が流出しても、魅力ある就職先があれば戻ってくる。そして本社を構える地元企業が地元と歴史を重視するといっても頑固なわけではない。イビデンも創業時は「揖斐川電力」といい大垣の水資源を活かした水力発電が発祥だ。そこから電気化学、ボード、プリント基板という具合に主力事業を変えてきた。この柔軟さが強靭さの元だ。
地方創生は「まち・ひと・しごと創生総合戦略」だが、実際はしごと、ひと、まちの順番で波及する。はじめに事業があって、人が集まり、街ができる。大垣の経済史をひもとくと、揖斐川電力のエネルギーが摂津紡績はじめ繊維工場の躍進のきっかけになったことがわかる。創業、誘致の立役者は大垣共立銀行の初代頭取の戸田鋭之助だった。まち、ひと、しごとの3面で大垣に学ぶところ少なくない。

プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。専門は地域経済・金融。昨年12月に「自治体の財政診断入門」(学芸出版社)出版

図表.図1 市街図
図表.図2 広域図