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路線価でひもとく街の歴史

第73回 特別編 日銀代理店でみるご当地メインバンク・東日本編

 前月号では、地域を代表する銀行の本店の場所がその時代の街の中心を示していることを確認した。地域代表を考えるにあたっては、現在の「地域一番行」を起点に、資本や本店の継承関係を遡ったが、今回は「国庫金の出納業務を担った銀行」の観点からアプローチしてみたい。手掛かりは、日本銀行がまとめた『国庫金出納所一覧表』だ。これは明治21年(1888)の資料で、当時の国庫金取扱代理店の所在地が記されている。
 日銀は明治15年(1882)に設立され、国庫金の収納業務を担うこととなった。当初は本店と大阪支店の2店体制であったため、実際の収納業務は各地の有力行が受託した。国庫金を扱う窓口の名称は「国庫金取扱所」、「国庫金出納所」、「金庫」と変遷したが、業務受託した銀行のことを本稿では便宜上「日銀代理店」に揃えることとする。制度発足時の明治16年(1883)8月で28か所だったが、5年後の明治21年には576か所にまで急増した。
 まず、銀行別に整理した表から、当初の28か所の顔ぶれを見てみよう。一覧すると受託数が多いのが、三井銀行(9か所)と第一国立銀行(5か所)だ。それぞれ私立銀行と国立銀行の元祖であり、三井銀行は近代銀行制度が発足する以前から政府の公金出納を扱ってきた実績があった。第一国立銀行は後の第一銀行であり、現在のみずほ銀行につながる。
 地域的には東北地方に拠点が手厚い。三井銀行が受託した青森は青函航路の拠点だ。第一国立銀行が受託した岩手県の盛岡、一ノ関、宮城県の石巻は北上川の水運で結ばれ、特に石巻は米の重要な積出港であった。当時の地方都市における銀行の主要業務は公金(税金)の取り扱いであったため、こうした米の集散地はまさに銀行ビジネスの黎明地といえる。民間預金が緒に就いたばかりの時代、地租改正による金納化を背景に、農民が米を換金して納めた税金が資金調達の要だった。米や地場産品を移出する際の荷為替取引も主要な収益源であった。
 安田銀行は栃木県、川崎銀行は千葉県の拠点を受託している。これらは銀行設立以前から同地域の公金業務を受託していた私立銀行の雄だ。徳島を受託した第三十四国立銀行は大阪で設立されており、後の三和銀行の源流の一つである。高松を受託した第百十四国立銀行は、初期28か所を受託した銀行の中では唯一、現在まで地方銀行(百十四銀行)として地盤と名前を継承している。

地域に根を張っていた都市銀行
 図表2 日銀代理店の受託銀行の変遷(東日本)に、明治21年(1888)、明治39年(1906)、大正10年(1921)、昭和10年(1935)の4つの時点における日銀代理店(受託銀行)の変遷をまとめた。各代理店の所在地(町名)は明治21年時点である。東西2回に分けた上で、今月は東日本について解説する。
 地域を代表する銀行の所在地が当時の街の中心、少なくともビジネス中心地であったことが、本連載のテーマである。これを検証するため、都市間距離を測る基準として置かれた「里程元標」と、明治20年前後の「最高地価」の場所を筆者が調べた範囲で併記した。里程元標は、明治9年(1876)と明治14年(1881)に設定されている。
 俯瞰すると、現在のメガバンクの源流となった大手行が地方展開していたことがわかる。地元発祥の銀行が大都市の銀行に統合されたケースも散見される。百十四銀行のように、現在の地方銀行が明治初期から一番行だったケースは多くない。昭和初期の「一県一行主義」で銀行再編が進んだことで、地域一番行の座が地元行に入れ替わったケースが複数の地域で見られる。

北海道・東北
 地域別に見ていこう。はじめに北海道である。札幌の「北海道銀行」は、現在の同名行とは別の銀行である。本店は小樽市色内町に置かれ、「北のウォール街」と呼ばれた同地の中心的存在であった。同行は、函館で創業し本店を構えていた百十三銀行を昭和3年(1928)に合併し、北海道拓殖銀行(拓銀)に次ぐ規模を有していたが、昭和19年(1944)にはその拓銀に合併されている。また、釧路をはじめ根室、帯広は安田銀行が日銀代理店を受託していた。明治31年(1898)に設立した関係銀行の根室銀行を拠点に道東に基盤を築いていた。なお、明治21年の釧路代理店所在地である真砂町は釧路駅の南側、幣舞(ぬさまい)橋で釧路川を渡った対岸に位置しており、現在は南大通と呼ばれている。
 続いて東北地方である。青森は三井銀行が米町に拠点を構えていた。青函連絡船が発着する港の後背地で、里程元標が置かれた場所でもある。三井の撤退後は、弘前に本店を構える第五十九銀行(後の青森銀行)が日銀代理店を務めた。次に盛岡銀行は、先月も紹介した岩手銀行赤レンガ館の元のオーナーだ。盛岡銀行が破たんした後、岩手殖産銀行(現・岩手銀行)が譲り受けて本店とした。
 山形では、第八十一国立銀行、次いでその後身の両羽銀行が代理店を務めた。現在の山形銀行で、国立銀行時代から七日町に本店を構えている。鶴岡の第六十七国立銀行は現在の荘内銀行だ。(会津)若松の第六十国立銀行は東京が本店。営業満期とともに廃業し、日銀代理店は安田銀行が引き継いだ。興味深いのは郡山を受託した久次米銀行である。現在の阿波銀行のルーツで徳島に本店があった。徳島の藍・材木商の久次米兵次郎が立ち上げた銀行で、当時は資本金で三井銀行に次ぐ規模を誇っていた。福島県の地場産業は製糸業で、川俣織など絹織物の産地もある。徳島の特産である「藍」が染料として使われていた関係が推測される。

関東:川崎銀行の存在/絹の道の展開
 水戸では、泉町に川崎銀行の支店があり日銀代理店を務めていた。創業者の川崎八右衛門は水戸藩の郷士で、茨城県や千葉県の公金を取り扱うようになった。本店は東京にあったが、両県に支店網を拡げ、常陽銀行の前身である常磐銀行や足利銀行、千葉銀行の前身である千葉合同銀行などを傘下に収めていた。合併を経て川崎第百銀行となり、最終に三菱銀行に吸収された。一方、土浦では地元の第五十国立銀行が日銀代理店だった。同行は水戸六十二銀行の後身である常磐銀行と合併し、現在の常陽銀行となった。常陽銀行の初代頭取は川崎銀行の出身である。
 栃木県だが、明治17年(1884)までは県庁が栃木町(現・栃木市)にあった。日銀代理店の萬町は、現在の栃木市役所がある場所である。安田銀行にとっては最初の地方支店だった。また、巴波川(うずまがわ)の舟運で栄えた「蔵の街」栃木町には、第四十一国立銀行もあった。同行は群馬県館林を発祥とする第四十銀行と合併し、両者の数字を足した「八十一銀行」となった。元々は足利銀行よりも大規模だったが、第一次世界大戦の戦後恐慌を契機とする業況悪化に伴い、足利銀行の後塵を拝するようになった。
 群馬県では、横浜に本店を構える第二国立銀行(後の第二銀行)が日銀代理店を担っていた。前橋の場合、代理店があった本町は生糸の集散地であり、文久元年(1861)には上質の証である「前橋ブランド」を付すための藩営の生糸改所が設立された。前橋の産地問屋(荷主)が集荷した生糸は、鉄道以前は舟運、開通後は鉄路で横浜港へと運ばれた。出荷先は茂木惣兵衛ら横浜の輸出商社(売込商)である。横浜を終点とする日本の「シルクロード」と呼ばれる流通路はいくつかあるが、前橋はその始点の1つである。このような経緯で横浜とのつながりが深く、第二国立銀行に限らず、生糸改所のある本町通りで開業する銀行が多かった。前橋の産地問屋が荷為替で前貸金融を受けるためだ。前橋と横浜の間ではモノとカネが貿易と同じ仕組みで流れていた。第二国立銀行は明治2年(1869)に設立された横浜為替会社を前身とし、明治7年(1874)銀行に改組。明治9年(1876)に前橋支店を開設した。前橋にとっては初めて開業した銀行である。そもそも第二国立銀行自体が茂木惣兵衛や原善三郎などの売込商が設立した銀行であり、生糸貿易の支援という明確な背景があった。その後、営業満期とともに第二銀行となり、昭和3年(1928)に横浜銀行の前身である横浜興信銀行へ営業譲渡された。
 絹の道の1つの八王子では「八王子第七十八銀行」が代理店を務めた。第七十八国立銀行は元々大分県中津が発祥だが、八王子の豪商が買収して本店を八王子の八日町に移し、元の本店を中津支店としたという珍しい経歴を持つ。八日町は8のつく日に開かれる市場に由来する。その後、厚木にも支店を置いたが明治42年(1909)に解散した。日銀代理店は第三十六銀行が引き継いだ。同行は八王子で創業し、戦中に日本昼夜銀行に買収。戦後は富士銀行八王子支店となった。

北陸:北海道への「川下展開」
 新潟県では、東堀前通にあった第四国立銀行が日銀代理店を担っていた。営業満期後は「新潟銀行」となったが、大正6年(1917)に第四銀行に戻す。創業期から現在に至るまで、場所も銀行自体も一等地にあり続けた。東堀前通は新潟市街のメインストリート、東堀通の南側である。そのさらに南隣が本町で道路元標がある。長岡は第六十九国立銀行が代理店業務を受託していた。戦後に北越銀行へ改称。令和3年(2021)、第四銀行と北越銀行は統合して第四北越銀行となる。
 現在の北陸銀行の前身である十二銀行は富山に本店を置き、富山と金沢の両方で日銀代理店を務めていた。元をたどれば加賀前田家と豪商が出資して金沢で創業した第十二国立銀行である。富山には第百二十三国立銀行の本店があった。明治17年(1884)に合併したとき、行名は第十二国立銀行、本店所在地は富山を継承した。その本店は袋町にあった。北陸街道沿いに西から西町、中町、袋町、東四十物(ひがしあいもの)町と続き、里程元標は西町、本店は袋町、最高地価は東四十物町だったが、いずれも連続した中心商業地を形成していた。
 第十二国立銀行が高岡の守山町に出店したのは明治16年(1883)である。守山町は最高地価の小馬出町(こんまだしまち)と土蔵造の街なみ「山町筋」を構成する。また、十二銀行は明治32年(1899)に小樽支店を出店して以来、北海道にも支店網を拡げてきた。北陸から北海道への移住者が多く、伏木港を起点として米が北海道向けに移出されていたことから、北海道を仕向先とする荷為替取引も多かった。十二銀行の北海道進出は、こうした荷為替の回収・決済地点に近づくという意味で、金融取引の流れに即した「川下展開」であった。
 福井県で最も古い国立銀行は、小浜に設立された第二十五国立銀行である。敦賀に進出したのは明治12年(1879)だ。営業満期後に二十五銀行となり、昭和3年(1928)に敦賀銀行と合併して敦賀二十五銀行となった。敦賀の拠点は蓬莱町に置かれていた。ここは里程元標のある笙ノ橋が架かる笙の川から1本下流側にある今橋に通じる港町で、元は西浜町と呼ばれた問屋街で、のちの大和田銀行もあった場所である。福井県内で当時の大手行と言えば、福井藩士の秩禄公債を元手にした第九十二国立銀行だった。生糸や羽二重商に対する貸出を積極的に行ったが、明治末期に破綻してしまった。その後、福井での日銀代理店は前述の大和田銀行が担っている。福井には同じく福井藩士を源流とする第九十一国立銀行もあったが、こちらは十二銀行と合併している。現在の地域一番行の福井銀行は国立銀行を源流としていない点で珍しい。明治32年(1899)12月、織物業を主力とする地元産業の育成を目的に、地主の出資によって新たに設立された銀行である。

長野・山梨・岐阜・静岡
 続いて長野県である。黎明期は東京に本店を構える田中銀行が国庫金を扱っていたが、その後は明治22年(1889)に設立された信濃銀行が担った。最高地価地点で里程元標があった大門町は善光寺門前にある。信濃銀行の本店は大門町の隣の西町にあった。明治末期に経営難に陥って安田銀行に救済を求め、大正12年(1923)に合併される。一方、上田の国庫金は第十九国立銀行が一貫して担っていた。戦後の八十二銀行は第十九銀行と、長野市に拠点があった六十三銀行が合併して誕生した。両行の数字(十九と六十三)を足して「八十二」である。山梨県は常磐町の第十国立銀行が日銀代理店を担っていた。現在の山梨中央銀行である。里程元標がある錦町と同じ通りで隣接している。
 岐阜県では、三井銀行の撤退後に第十六国立銀行が日銀代理店を引き継いだ。現在の十六銀行である。三井銀行が担っていた時代には下鉄屋町に拠点があり、ここは里程元標が置かれた白木町と同じ通りに位置していた。また、大垣における三井銀行の出張所は竹島町にあった。ここは美濃路の本陣があった場所であり、明治初期の一等地である。三井銀行の撤退後、大垣の国庫金は大垣共立銀行が取り扱うこととなった。
 静岡県の二大都市の国庫金は各々当地の国立銀行が担っていた。静岡は呉服町の第三十五、浜松は伝馬町の第二十八国立銀行である。第二十八国立銀行は明治22年(1889)に第三十五国立銀行と合併し、のちの再編を経て現在の静岡銀行へとつながっている。県東部には韮山生産会社を源流とする伊豆銀行が三島にあった。当地の国庫金を担っていたが、こちらも昭和18年(1943)に静岡銀行に合併されている。

プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。主著に「自治体の財政診断入門」(学芸出版社)、「公民連携パークマネジメント」(同)

図表1 明治16年時点の銀行と国庫金取扱所の受託関係