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路線価でひもとく街の歴史

第72回 ふりかえり編 旧市街のランドマークと銀行建築

明治期の中心地と銀行街
 今回は、戦前の中心地(=旧市街)と銀行街の重なりを手がかりに、銀行建築が現代の旧市街再生に果たし得る役割を考えてみたい。
 本連載の着眼点の1つは、どの時代も街の中心に当地を代表する銀行が本店を構えていることだ。明治時代、街の玄関口は海運の荷揚げ港、舟運の河岸で、これら港や河岸と接続する旧街道沿いに当時の中心街がある。城下町であればその街道と、城の大手門に続く「大手通り」が交差するところに銀行が本店を構えている。それも単独ではなく、複数の銀行が集まって銀行街を形成していることが特徴だ。
 そこで、これまでの連載で取り上げた都市といくつかの県庁所在地について、戦前の中心地と当時の主要銀行をまとめてみた(表1 戦前の中心地と界隈の主要銀行)。本連載でいう「中心地」とはその都市で地価が最も高い場所のことである。現在の固定資産税の前身、「地租」の算定基礎となった市街宅地の評価額で最高額と表記されたものだ。最高地価が47道府県の一覧表形式で掲載されたのが明治37年(1904)以降である*1。これをベースに、昭和6年(1931)の大蔵省土地賃貸価格調査や各県統計書の内容を加味して戦前の中心地とした。
 現在、最高路線価地点は多くの都市で駅前に移り、戦前の中心地にかつてほどの賑わいはない。表で示した場所は、その都市の「古都」あるいは「旧市街」と言える。古都や旧市街には単に時系列的な前後関係という意味だけでなく、古くから存在する歴史的な街なみという意味もある。視点を変えれば、歩いて楽しく、居心地のよい街としてのポテンシャルが高い。
 次に、一部の例外*2はあるが、戦前の中心地と銀行街は重なっている。表に中心地と関わりの深い銀行を掲載した。当時の中心地に本店を構えていること、古くから営業していること、現在の地域一番行の系譜に連なることなどから、地域における影響力を見込んだものだ*3。源流をたどると、ナンバーバンク、すなわち行名に番号が付いた銀行が多くなる。特に地方都市において、創業期の主な業務は、租税が物納(年貢米)から金納に代わったことを背景とした公金収納だった。米や地場産品などの移出にかかる荷為替取引も主要業務だった。このように、業務内容が物流や倉庫業と近接していたため、当時の交通拠点に銀行が集まった。

土蔵造の時代
 戦前の中心地に残る銀行行舎について考える。筆者の分類だが、銀行建築のスタイルは大きく3期に分けられる。土蔵造の時代、赤レンガ銀行の時代、そして新古典主義の時代だ。街のランドマークとなったのは赤レンガ銀行の時代以降である。
 銀行の黎明期は明治6年(1873)7月の第一国立銀行の開業に求められる。地方に広まったのは国立銀行条例が改正された明治9年(1876)8月からだ。明治10年(1877)の西南戦争をはさみ、最後の国立銀行である第百五十三国立銀行が開業した明治12年(1879)12月にかけての数年間に国立銀行は全国に波及した。その後、明治23年(1890)8月に公布された銀行条例を背景に銀行は急増し、明治34年(1901)に2,385行のピークに達した(大蔵省「銀行総覧」)。
 第一国立銀行や為替バンク三井組(三井銀行)など最初期の銀行行舎こそ楼閣風の擬洋風建築だったが、この時代に建てられた行舎は土蔵造が基本だった。明治以前の両替商のスタイルを引き継いでいる。金庫や債権書類の書庫を持ち、担保品を保管する銀行にとって大敵なのは火災である。行舎の裏手に土蔵造の担保倉庫を構えた銀行も多かった。先月号に登場した住友銀行を含め、倉庫業を兼営するケースもあった。
 当時の銀行は支店が少なかった。銀行数ピークの明治34年末、後に「5大銀行」と称される三井銀行の支店網でも19店舗、以下三菱4、住友13、安田13、第一15という具合だ。地方では1つの県に多数の銀行本店が存在した。同年末に存在した2,385の本店に対し、出張所を含む支店等は2,082と本店の数を下回っていた。本店単独で営業する銀行が多かった。例えば長野県には247店舗あったが、そのうち134が本店だ。当時の大手行と言える信濃銀行が支店等を14、六十三銀行が9、信濃商業銀行が6持っていたが、95行は本店単独だった。各行の営業エリアは狭く、本店を擁する市町は86あった。時代も業態も異なり単純な比較は難しいが、規模と店舗網の上で信金・信組に近かったのではないか。地域別に信金・信組の本店があった時代、昭和50年度末(1975)は両者で960の本店があった。

現存する土蔵造行舎
 本店自体が小規模だった時代の土蔵造の行舎で現存するものは少ないが、佐賀にある三省銀行は明治15年(1882)の建築である。銀行は明治26年(1893)に廃業したが、土蔵造の建物が、呉服町の中心市街地からはやや離れた柳町に残っている。明治期は柳町の地価が佐賀市街で最も高かった。弘前にある「百石町展示館」は、元々は明治16年(1883)に呉服店として建てられたものだが、大正6年(1917)に青森銀行の前身行の1つの津軽銀行が買い受けた。この建物は平成10年(1998)まで青森銀行津軽支店だった。百石町は弘前の一等地の土手町に隣接する。逆に、銀行の支店として建てられ、後に呉服店に転用された事例もある。松江市の末次本町にある明治37年(1904)築の「かげやま呉服店」は元の第三銀行だ。正面の鬼瓦には第三銀行の「三」のマークが入っている。
 金沢市の尾張町には明治40年(1907)に建てられた旧金沢貯蓄銀行がある(図1 旧金沢貯蓄銀行(土蔵造))。昭和18年(1943)に北陸銀行尾張町支店となった。昭和51年(1976)8月に石川県が譲り受け、県立郷土資料館分館、町民文化館となった。現在は尾張町商店街振興組合が管理する尾張町町民文化館となっている。尾張町は明治期に金沢で最も地価が高かった場所だ。
 洋風建築の文脈で街のシンボルとなった事例がある。有名なのが長浜市にある旧百三十銀行長浜支店である(図2 旧百三十銀行(土蔵造))。竣工は明治33年(1900)で、土蔵造だが洋風の意匠が施されている。改装され現在は「黒壁ガラス館」となっている。銀行行舎を中心に旧市街が再生され、一帯は「黒壁スクエア」と呼ばれる観光スポットとなった。
 洋風の意匠を取り入れた木造建築である擬洋風建築は元々少なかったが、現存する貴重な例が、弘前市にある旧第五十九銀行本店である。明治37年(1904)の竣工で、地元の棟梁、堀江佐吉が設計施工を手掛けた。戦時中の再編で青森銀行の弘前支店となった。昭和40年(1965)、店舗新築にあたって取り壊される予定だったが、地元の要望で保存されることになった経緯がある。平成30年(2018)に弘前市に寄贈された。現在は「青森みちのく銀行記念館」である。

赤レンガの時代・古典主義の時代
 小規模行の新規開業が一服した後、経済成長とともに銀行も大規模化していく。増資や吸収合併で成長した地元有力行が、地域のシンボルとなる店舗を新築するケースが増えてきた。その代表が赤レンガの行舎で、明治後期から大正にかけて全国各地に登場する。
 赤レンガ建築の設計で有名なのは日銀本店や東京駅を手掛けた辰野金吾だ。特に赤レンガに白い石を帯状にめぐらせるデザインは「辰野式」と呼ばれた。例えば、盛岡市にある、明治44年(1911)竣工の旧盛岡銀行本店である(図3 旧盛岡銀行(レンガ造))。辰野と盛岡出身の葛西萬司の設計で、現在は「岩手銀行赤レンガ館」として一般公開されている。また、唐津市には明治45年(1912)竣工の旧唐津銀行本店がある。辰野金吾監修の下、田中実が設計した。唐津銀行は佐賀銀行の前身の1つで、平成9年(1997)に閉店した後、現在は唐津市の史料館「辰野金吾記念館」として活用されている。
 高岡市の歴史的な町なみで、文化庁「重要伝統的建造物群保存地区」にも指定されている「山町筋」には赤レンガの旧高岡共立銀行本店がある。田辺淳吉の設計で大正3年(1914)に竣工した。その後、銀行は再編で北陸銀行となったが、建物は地元の富山銀行が引き継いで本店とした。その富山銀行も令和元年(2019)に本店を高岡駅前に移した。高岡市が取得した上で保存活用計画を策定。公募型プロポーザルで選定された民間事業者の手でホテル・レストランに再生される予定だ。
 その後、大正末期から昭和にかけて、列柱が印象に残るギリシャ神殿風、鉄筋コンクリート造(RC造)・古典主義の行舎が増えてくる。大正12年(1923)9月に起きた関東大震災は石造やレンガ造からRC造への流れを加速した。この時代の行舎は装飾が控えめだ。造形としては直方体で、赤レンガ行舎の塔屋のようなアクセントもなく、質実剛健な印象である。全国各地に広まったが、その終期に作られたのが昭和13年(1938)竣工の旧日本銀行松江支店である(図6 旧日本銀行松江支店(RC造))。辰野金吾の下で日銀行舎の設計を多数手掛けた長野宇平治の設計で、現在は「カラコロ工房」に改装されている。1階がフードホールの複合施設だ。

旧市街のアクセントとしての銀行建築
 街の中心移動に伴って建築様式の変化が1つの街なかで見られるケースがある。金沢市の場合、大正に入ると一等地が下近江町に移っている。観光スポットでもある近江町市場がある場所だ。角地の北國銀行武蔵ヶ辻支店は村野藤吾設計の初期モダニズム建築で、昭和7年(1932)に加能合同銀行本店として建てられた。合併を経て北國銀行になってからも昭和33年(1958)まで本店だった。
 佐賀市柳町、土蔵造の旧三省銀行の並びに、明治39年(1906)に建てられた旧古賀銀行が現存する。周辺一帯は市が指定した「長崎街道・柳町景観形成地区」で、景観保存や古民家再生が進められている。旧三省銀行と旧古賀銀行、その他5館で佐賀市歴史民俗館を構成している。大正以降、佐賀の一等地は呉服町に移った。平成後期にシャッター街となったが、足元では面的再生が進んでいる。ここでもアクセントになるのは昭和9年(1934)築のRC造、古典主義の重厚な銀行建築だ。竣工時は旧唐津銀行佐賀支店で、平成11年(1999)まで佐賀銀行呉服町支店だった。
 旧盛岡銀行本店の場合、同じ通りに旧第九十銀行と旧盛岡貯蓄銀行がある。ロマネスク風の旧第九十銀行は明治43年(1910)の竣工で旧盛岡銀行と同世代である(図4 旧第九十銀行(レンガ造))。現在は「もりおか啄木・賢治青春館」となっている。もう1つの旧盛岡貯蓄銀行は昭和2年(1927)築、葛西萬司の設計で、三井本館と同じ新古典主義の影響を受けており、ギリシャ神殿の風味が強い(図5 旧盛岡貯蓄銀行(RC造))。現在は盛岡信用金庫が本店としている。
 現代、戦前の一等地だった旧市街は歴史的街なみとして新たな価値を持つ。函館、小樽、横浜など貿易港は銀行街が観光資源になっている。盛岡も銀行が並ぶ景観が観光スポットとなった。山町筋や柳町のように銀行行舎をアクセントにした面的再生の取り組みも目立つ。敦賀市の旧市街にある敦賀市立博物館は、福井銀行の前身の1つ、昭和2年(1927)築の大和田銀行の旧行舎を活用したものだ。一帯は「博物館通り」のコンセプトの下、古い町なみの再生が実施されている。
 銀行自ら旧行舎を活かして街と経済再生に取り組んでいる例としては、川越市のりそなコエドテラスが挙げられる。埼玉りそな銀行の発祥の1つ、旧第八十五銀行本店で、大正7年(1918)に保岡勝也の設計で建てられた。赤レンガ行舎の時代に特徴的な優美な意匠である。サラセン風のドームが印象的なルネサンス様式の洋風建築だ。令和2年(2020)まで支店営業していたが、銀行の移転後、銀行業高度化等会社「地域デザインラボさいたま」の活動拠点となった。コワーキングスペースやチャレンジショップ等を設置し、起業家の育成ひいては産業創出に貢献している。

プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。主著に「自治体の財政診断入門」(学芸出版社)、「公民連携パークマネジメント」(同)

*1) 都制が施行されたのは昭和18年(1943)7月であり、それ以前は東京“府”だった。
*2) 例えば京都の先斗町、大阪の道頓堀のように、歓楽街が最高地価になるケースがあった。
*3) 国立銀行から現在の地域一番行に至る系譜において、地域、特に街の歴史への影響に着眼して列挙している点に留意のこと。