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昭和100年―百年前の新聞や日記から―その4

元国際交流基金 吾郷 俊樹

 これまで三回にわたり、「新聞集成 昭和史の証言」など当時の新聞や日記などを手がかりに昭和元年、二年を紐解いてきたが、最終回は「5 社会一般」の続きから。

(5)男と女
 「源氏物語」が千年読み継がれてきたように、いつの時代も男と女の話には人々の興味は尽きない。永井荷風の死の前日までの41年間の日記「断腸亭日乗」にも関わりのあった女性たちが続々登場。昭和元年(1926)、から2年(1927)だけでも、小説「かし間の女」のモデルとなるお富につき、1926年「正月初二。…桜川町の女を訪ふ。」、「正月十二日…この女の事はいかに放蕩無頼なるわが身にもさすがに省みて心恥ずかしきわけ多ければ、今までは筆にすることを躊躇ひしなり。…女の名はお富といふ。…娘お富は未の年にて今年三十二になれど二十七八に見ゆ。…瘦立の背はすらりとして柳の如く、目はパッチリして鈴張しやうなり。鼻筋見事に通り色白の細面、何となく凄艶なるさま、余が若かりし頃巴里の巷にて折々見たりし女に似たり。…不健全なる頽唐の詩趣をよろこぶ予が眼には、ダーム、オー、カメリアもかくやとばかり思はるるなり。去年十二月はじめに初めて逢ひしその日より情交忽膠の如く、こなたより訪はぬ日は必かなたより訪ひ来りて、これと語り合うべき話もなきに、唯長き冬の夜のふやけやすきを恨むさま、宛ら二十歳前後の恋仲にも似たりと思へば、さすがに心恥しく顔のあからむ心地するなり。人間いくつになりても色欲は断ちがたきものと、つくづくわれながら呆れ果てたり。」とデュマ・フィスの「椿姫」のヒロインに譬えるほどだったのに突然、ぱったり交流が途絶える。同じ「正月八日。…新橋の妓鈴乃電話にて予が家の近鄰まで用事あればお尋申してもよろしきやと言ふ…此妓年は三十一二なるべし。…羽織の折々肩よりすべり落るほどの撫肩なれば、いまだに二十四五に見ゆるもをかし。」と記した鈴乃との馴れ初めは、大正12年正月「米国のウイスキイを飲過し、鈴乃に介抱せられて…一宿したり。」とあり「鈴乃それより予をたよりになし、素人になりたき趣逢ふごとに相談しかくる故、予も一時はいかがはせむかと思案せしかど…茶屋酒の価今は旧の如く廉ならず、予が嚢中も亦売文の銭漸く乏しき折から、新橋の妓を後堂に蓄へむとするが如きは我分に非ざるを以て、成るべく避けて逢はざるなり。」。翌昭和2年「正月三日 快晴…妓千成を招きて晩餐をなす。…函館生まれの女にて色白く目大きく睫毛濃く長し、西洋夫人に似たる顔立なり。是余の最も好む所、寒国産の女なれば閨中の秘儀巧妙濃艶なるは言ふを俟たざる所なり。新春の祝儀にとて弐拾金を与へ二更の後別れて帰る」。また、その年「九月十七日、…夜お歌と神田を歩み遂にその家に宿す、お歌年二十一になれりという、容貌十人並みとは言いがたし、…余既に老いたれば今は囲者置くべき必要もさしては無かりしかど、当人頻に藝者をやめたき旨懇願する故、前借の金もわづか五百円に満たざるほどなるを幸い返済してやりしなり、カッフエーの女給仕人と藝者を比較するに藝者の方がまだしも其心掛まじめなるものあり、如何なる理由にや同じ泥水家業なれど、両者の差別は之を譬ふれば新派の壮士役者と歌舞伎役者とのごときものなるべし、」と記し、その後も御歌との関係が続く等々。
 「近藤憲二と園田栄子 堕胎罪で引致さる 関係医師は馬島澗 女主義者の不妊の秘密が解けた」〔1.12 報知〕は「…アナ系の闘志近藤憲二、同じく女性闘志園田英子…両名は主義を同じうし再三往復する中いつしか情的関係が生じその中昨年十一月頃妊娠する処となつた…かねて面識或る前記馬場医師に依頼して胎児を堕胎し当面を湖塗していたが…栄子は厭世的となりつひに同女の口より堕胎事件の発覚を見たものである。」。「アナ系」とはアナウンサー系ではなく、たぶんアナーキスト系。
 「いよいよ府令でダンスを取締る このまま放任すると大害が起る 市内ダンサーの六割は人妻」〔2.5 大朝〕は「大阪府警察部は今流行のダンスホールに対しいよいよ取締の規則を新に制定し、その取締の完全と取扱ひの統一を期すことに方針が決し…新規則を立案し府令の下にこの艶めかしい燈火に眼を光らすことになつた 現内規の営業時間は午後十時限り、ホールで飲食物を用ふべからず、といふことになついている、…最近の調査によるとダンサーの六割までは内縁関係のある有夫者もので、正妻者には夫の承諾書を徴している」との記事。
 就職戦線。「泣きベソ男を横目に羽をはやして飛ぶ女 月給などにコセコセせずと 各女學校の豫約札」〔2.19東朝〕は「入学難よりも烈しい就職難のシーズンは来た、友達同士が血で血を洗ふやうな涙ぐましい競争で…あるが女子の求職者はこれと反対に至るところ大歓迎で寧ろ人が足りない学校さへもありのんびりと男たちの窮状を横目に見ている…目白の女子大学では本春の卒業生が…合計二百六十二人。家事や英語の先生として月給八十円で各女学校へ飛ぶやうに売れてゆくが何しろ直ぐに就職しなくては生活に困るといふ人達ではないだけに条件が悪ければやめるといつた体である、…東京女子大学は…卒業生が七十三名の予定であるが、ここはまたお金持ちの娘さん方のお集まりだけに就職なんかは眼中にない、…津田英学塾の今春の卒業生は…ほとんど全部が予約済み、月給も八十五円程度で男子の初給よりも高い、…東京女子医専は…就職難を歎じたことない結構な学校、地方に勤めると決心さへつけば月百五十円まで懐に入るといふ話…」と意外にもここでは女性優位。
 関東大震災の際にアナーキストを虐殺した甘粕大尉の結婚。「忌しい過去を捨て 甘粕大尉の内祝言 三十七歳、喜びの春に 花嫁を携えてフランスで新生活」〔4.10 国民〕は「問題の人、元憲兵大尉甘粕正彦氏が、昨年十月九日千葉刑務所を出てからただ一度…新聞記者団と会見し、つぶさに所懐を告げた限り再びその姿は見られなかつた、…突如として甘粕氏の結婚話が伝はつた、…甘粕氏とみね子嬢とは震災前既に婚約の整つた間柄であつた、それが大震災に引続いて例の事件となり、…甘粕氏はみね子嬢の前途を案じて断然、婚約を破棄する旨を申し送ったことも再三ではなかつた。然しみね子嬢の甘粕氏に対する心は変わらなかった…甘粕氏が…渡仏の際は夫妻手を携えて花のパリに赴く事になつていると。」
読売新聞昭和時代プロジェクトの「昭和時代 戦前・戦中期」によると「一九二〇年代、女学校の良妻賢母教育に『女も職業を持つことが望ましい』との論調が出始めると、都市部では、『職業婦人』の社会進出が目立つようになった」という。「オフィスガールに、デパートガール、円タクガール、バスガール、エアガール、ガソリンガール、タイピスト……。花形のカタカナ職業には『○○ガール』と呼ばれるものが多かった。」、そんな中、「マネキンガール」という「デパートや洋装店の店先で商品を身につけてポーズをとる。ファッションモデルの草分け」は、「デパートガールの日給八〇銭に対して、マネキンガールは一〇円と破格の高収入…大学卒の初任給が月七〇~八〇円の頃である。新劇の駆け出し女優も、こぞってマネキンのアルバイトにいそしんだという」。
 女性が社会進出するようになると、「モダン・ガールの背後に 醜い男性の魔の手 警視廳いよいよ手をつける 不良社員や重役連」〔5.4 東日〕は「警視庁不良少年係後藤警部が取調べに着手したモダン・ガール、不良職業婦人が問題となるや同警部のもとには各方面から種々の投書多数舞い込んで来るので同警部は前日来各方面に内偵の一歩を進めた結果二日午前には丸の内某会社の女事務員某他一名を召喚長時間取り調べたがこれによりその裏面に会社商会等の幹部連に不良のもの多く無垢の婦人を誘惑している事実を確かめたものでこれら不良高級社員重役等にも取調べの手を進める模様である、…後藤警部は語る『不良高級社員は女に小遣ひとして金を与へ時機を待つて遊山や旅行などに連れ出し欲望の犠牲にするのが常手段である、女は弱いから…欲に引かれて深みに落ち込むのが普通なので女よりももつと悪いのはこれら不良高級社員連でこれも一掃する必要がある』との記事。外人はやはりもてるのか、「不良外人掃蕩の幕開き 巨頭は英人支店長 続いて七八名を召喚 彼らの毒牙に掛かった女は五十名にのぼる」〔5.7 讀賣〕は「外人の不良行為に対する兎角の風評は久しい以前から其筋の耳にはいつていたが、外人関係だけに事が面倒なため常に引つ込みがちであつた警視庁も、今度といふ今度こそ根本的に不良外人の掃蕩に手を付けて小気味のよい位に辛辣な検挙と訊問を開始した、六日早朝外事課員は麻布本町八二に住む某商会支店長英国人イー・シー・サンドラ(二九)の寝込みを襲つてサンドラが昨夜から連れ込んでいた…・佐藤美子(二三)と共に警視庁に連行、愈々本舞台の取調べに着手した。…」 「出入りした女は二十人から 同じ女が三晩とは来ぬサンドラーの魔の巢」は「一人留守をしている六十ばかりのすてといふ婆さんがサンドラーの事に就いて語る。『…二十人位の女が出入りしたかと思ひます、旦那さんはさう悪るい人ではありません、只一寸変人です、酒も煙草ものみませんから女一点張りつていふ人でせうね…』」との記事。
 女性の結婚相手の希望について。「地主家主大嫌ひの当世娘さん氣質 初婚婦人のやはり好くのは銀行會社員と官吏」〔5.18 讀賣〕は「現代婦人はどんな職業の男を夫に持ちたがり、求婚するか。次は某結婚紹介所が初婚婦人六百七十七名について年齢とその職業を調べたもの―…現代の若い婦人に一番持てるのは会社銀行員で次が官公吏、それから医師実業実の順となり一番嫌はれてるのは音楽家、記者、美術家、地主、家主、芸術家の順序で殊に面白いのは地主の評判の悪い事です。…」の記事。
 「旦那さま大恐慌 不しだらをした夫には 慰謝料や損害の要求が出来る 大審院の新判例」〔5.19 東日〕は「十八日横田大審院長は…『妻の権利を侵害したる夫に対する民法上の制裁』を判例に示した、それは一言にしていへば『夫にも貞操の義務がある、従つて妻の権利を侵害した夫はその妻に対し慰謝料の支払い若しくは損害賠償をなすべきである』といふのである、…」、「妻子を捨てて 女に走った男 その妻から頼まれて恐喝した男は無罪」は「…熊夫は婿養子であるが妻すみとの間に三人の子供がいるのを振り棄てて家出し近所の金持後家渡邊りょう方の下男に…住み込みやがて関係してしまつて帰ってこない、すみは生活に窮し…佐藤鶴喜なる者に頼んで熊夫に掛け合ひ『女房ある男が他の女と関係すれば姦通だ金を出さなければ告訴する』と脅かして手切れ金として百円をせしめ且熊夫とりようの両名から子供の養育費として毎月九円づつ五ケ年出金させる契約をした事が恐喝罪に問われ一二審とも鶴喜は懲役刑をいひ渡され不服で上告したものである、…」、「ザラにある事実 ドシドシ要求ができる… 横田大審院長曰く」は「右につき横田院長は語る『…この事件も当然請求すれば取れるものを取つたのだからたとひ恐喝であつても詐術を用いたとしてもそれは構はぬということにした、こんな事実は世上に沢山ある、しかしそれが示談で済んで現れて来なかつただけだ、これからのこの判例によつて細君がドシドシ訴訟を起こすことが出来る』」。
 結婚相手としては芸術家は不人気だったが、詩人はモテたのだろうか。「柳虹氏戀を食ひ 少女、倫楽の淵へ 父は漢學者で元宮内省の出仕 娘は戀の破局からモーダン嬢 泥に落ちた貞操一個」〔6.6 讀賣〕は「府下中野町一七三一漢学者吉本東吾氏の長女ユウ子(一七)…は三丁と離れぬ近くに有名な詩人が住んでいることに興味を引かれ詩を送つて以来互いに文通していたが、…足繫く柳虹氏の家へ出入りする様になつたもののユウ子は未だ十五の少女だつた。…夜中に帰宅することが普通となり病父や兄…から罵倒されつつ自暴自棄に陥い飛石を渡る様にカフェーからカフェーへ、男から男へ、そして倫落のどん底へと彷徨ひ出た…。」と一般人の住所まで記事に。
 「ゆふべ銀座街で モダンボーイ征伐 カフェーや酒場を襲って 百五十名の大検舉」〔8.3東朝〕は「銀座界わいの風紀問題は最近漸く喧しくなつて先頃は銀座研究会と称するものまで出来て帝都の中心街を改良せんとする企てさへあつたが、殊に夏の夜の銀座はモダンガール、モダンボーイの横行くわつ歩の中心となり、これがため良家の子弟令嬢などの被害が非常に多く、ただ名門の名を恥て表面には出さないが内々警視庁その他所管署などには投書が頻々とあり折角の夜の散歩も見合わせるものが出来たり、…事態は全く打ち棄て難い状態となつたので警視庁では突然一日夜から警視庁不良少年係り飯島警部を指揮官に…大検挙を行つた。…タイガー、不二家、資生堂、アザミ等を始めモダン連の出入りするカフエ―を軒並に襲ひ、…検挙したものはその数実に百五十余名におよび…早朝から係員続出で取調を行つている。」。連日カフェー通いの荷風の日記をみると、大正15年「十月廿一日。…両三日前の時事新報及び昨日の中央新聞、倶に予の酒館太訝に流連する事につき中傷の記事を掲げたる由。女給の語るところなり。」、昭和2年「十月十六日 空猶晴れず… 正午邦枝君来りて此程より警視庁保安課にて銀座通りのカツフエーに出入りする客を検挙すべき模様なりとの事なれば、当分避けらるるが宜しかるべしと言ふ」とある。
 カフェというと、青山あたりにある今風のお洒落なお店を想像するかもしれないが、荷風の「断腸亭日乗」によると大正15年「十一月二十日…抑現今市中に流行するカツフエーなるものの状況を見るに、巴里のカツフエーに似て其の実は決して然らざる処、恰吾社会百般の事西洋文明を模倣せんとして到底よくすること能わざるものと相似たり。カツフエーの婢は日々通勤すれども、給料を受けず、客の纏頭にて衣食の道を絶つ。されば窃に売色を以て業となすは言ふを俟たざる所なれども、世の風評新聞記者の脅迫を恐れて、容易に酔客の誘ひに応せざるが如き態度をなす。帰途手を携えて自動車に乗ることを諾するが如きは、蓋し無二の好遇にして、酔客の窃に喜びとなす所なりと云ふ。」いうようなところ。大正15年の中央職業紹介事務局の「職業婦人調査」によると「女給という職業は数年来カフエーの非常な増加繁栄に伴い、急速な発展を示し、経済界不況のどん底に沈む時と雖も益々増加の傾向にある」という。荷風の日記に連日登場するタイガーにつき、同日、「目下太訝には婢およそ三十人あり。十人ツツを一組とす。紅組紫組青組あり。各白き前垂に七宝焼の徽章を掲げて之を辨別す。楼上に在って客を迎るもの二組、階下に陣して応接する者一隊なり。各隊日に従って循環し、互いに上下す。…カッフェ太訝は…社長浅野総一郎の資金を投じて経営する所。…太訝は震災の翌年春頃より開店し、尾張町の獅子閣と相対して今やその繁栄遥に之に勝ると云ふ。…」。この店は『新版大東京案内』でも、『現在のカフエ代表』とされ、『数十の女給が色とりどりに妍を競い美を誇って目下の繁昌ぶり、当分は衰へそうもない、誰しも一度は見学の要あり』と紹介されているという。「不景気知らずのカフエー商売』と言えば、金融恐慌の当時。荷風が昭和2年「四月廿一日…此日十五銀行閉店すと云ふ」と記した約一か月後、「黒猫」が開店、 「五月廿四日、銀座一丁目東側に黒猫といふカツフエー本日開店す。巴里のChat noirと云ふカツフエーの名を取りたるものなるべし、太牙の婢操信の二女を伴ひて赴き見たり、以前太牙に働きいたる女二人雇はれいたり。建築の様式は新橋演舞場に似たるものなり、料理は言ふに足らず、」と記し、ライバル店、タイガーの女給を連れて行ったり、タイガーと黒猫を梯子したり。「タイガー」の女給お久とは、大正15年「十月廿四日。…太訝の婢お久来る。年は二十五六なり。もと薬研堀辺りに住みし商家の娘にて、十七八の頃株屋に嫁ぎしが不縁となり、其後は処処のカツフエーを渡り歩き、老母を養へる由。当人の述懐なり」と日記に出て以来、すぐに「十月丗一日。…帰途太訝の婢お久に逢ふ。」、「十一月初三。…お久来たりて一宿す。」となどとしばしば会ううち、カフェーをやめたお久から金を無心され、昭和2年「十月八日、…正午女給お久また来りて是非とも金五百円入用なりと居ずはりて去らず、…さまざま言い聴かせしかど暴言を吐きふてくされたる様子、突然切られお富の如し、已むことを得ざる故警察署へ願出づ可しといふに及び漸く気勢挫けて立去りたり、今まで心づかざりしかど実に恐る可き毒婦なり、世人カツフエーの女給を恐るる者多きは誠に宣なりと謂ふ可し、…慎む可し、慎むべし、」、「十月十一日、曇る、…表入口の方に人の足音聞ゆ、おそるおそる窺見るに女給お久なり、…熟議の上市兵衛町曲角派出所に訴へ出づ、巡査来り遂に女給を鳥居坂警察署に引致し去りぬ、」、翌「十月十二日、午前七時巡査門を叩き警察署に同行さられたしと云ふ…警官まづ余を説諭して曰く、こんなくだらぬ事で警察へ厄介を賭けるのは馬鹿の骨頂なり、…女郎が買はうがそれはお前の随意なり、その後始末を警察署へ持ち出す奴があるかと…、警官の物言ふさま恰も腐った大福餅を一口嚙んでは嘔き出すと云ふやうな調子なり」と警官に叱られ、「十一月九日…太訝に憩ふ、婢等のはなしを聞くにかのお久といへる女当月一日より黒猫といふカツフエーに働き居る由、其の情夫は横内某とよべる浅草公園の無頼漢にて、此れまでも度々お久を玉につかひて金銭をゆすり歩きしことありしと云ふ、宛然黙阿弥劇の白浪物を見るが如し」と記す。昔習った「カフェー丸玉女給事件」を思い出す。
 庶民は荷風のように連日外食しないのだろうが、「昭和時代 戦前・戦中期」は、「当時はグルメ本の出版ラッシュで、買い物と同時庶民の外食志向も高まった」といい、これより少し先の話、「当時銀座で流行の発信源となった場所の一つが、資生堂化粧品部だ。二八(昭和三)年震災で焼け出された銀座七丁目の店舗跡に装いも新たに開店…入り口を入って右手が売り場左手が高級飲料部の客席。店頭では化粧品だけではなく、西洋モードの靴や帽子、パラソルもそろえた。女優の初代水谷八重子は、一人分の銀製ポットで出すコーヒーがお気に入り。『落ち着いた雰囲気が大変好ましくなって毎日のように通った』…化粧品部の完成から二か月後…パーラーが開店する。客席の中央は吹き抜けで、天井から大きなシャンデリアが吊り下げられ、二階にはオーケストラボックスがあって生演奏が聴けた。当時のメニューをみると、ソーダ水やアイスクリーム二五銭、オムレツ四〇銭、チキンライス六〇銭、キャビアやフォアグラらをはさんだサンドイッチ一円五〇銭など。アイスキャンデー一本一銭の時代で、庶民には高嶺の花だった。…主な顧客は、山の手に住む奥様族、郊外の文化住宅に住む新しもの好きなモガたち、新橋の芸者衆だった。ファッションリーダーである彼女たちの行動自体が憧れの的になっていた。」という。
新橋の芸者といえば、東京大学の学生時代には既に文壇にデビューし、結婚して子供も生まれていた劇作家、舟橋聖一は、これより後、「日本海軍が真珠湾を奇襲したその日」に熱海の旅館にいて戦果のラジオを聞き、自宅へ電話をかけて「両親や妻子が無事なのを聞き届けてから」軍需成金の旦那がいる「新橋の幾松という芸者のところ掛け直し…『今、熱海の玉久に居る。すぐ来ないか」…その晩も、例の軍需成金が彼女を呼んでいる…押問答の末、幾松は熱海へ来ることになった。…いつなん時、空襲警報下に置かれるかもしれない。…今のうちに相談を固めておきたい。まず、身請けするにはいくら位かかるか。そして、一軒家を借り、都心を離れた所謂郊外に住むか、それとも熱海へでも疎開するか…』と、私は言った。戦後、私に浴びせられた『戦禍をよそに女と寝る』の批難は、この辺の事情を責め立てたものである。」と日経新聞の「私の履歴書」で告白するのは、さすが、戦後、歌舞伎座での「源氏物語」の舞台化で大好評を博した劇作家。
 当時、世界を股にかけて活躍していた女性魔術師、「天勝の魔術も夫の死は活せず 發狂した野呂君を天國へ送り 後家となった松旭齋」〔8.19 二六新報〕は「奇術と言へば天勝を…女だてらに世界を股にかけ時々故国日本に帰っては、奇想天外なところを見せる、その松旭斎天勝の御亭主野呂君が死んだ、享年五十一、名は辰之助…さしも変通自在な天勝の魔術も夫野呂君の死を活かすネタはなかつたものと見えて急に淋しい後家さんとは成つた。」
 芸能人の離婚ネタは時代や洋の東西を問わないのか、「百廿五萬圓で 妻君とお別れ チャプリンの離婚訴訟 やつと示談が成立つ」〔8.24 時事〕は「米国の活動演劇俳優チヤーリー・チヤプリンの妻女リタ・グレイの良人に対する離婚訴訟は、長い間世界中を騒がしていたが、ゲーリン判事の尽力で、今回愈々示談となつた。最初リタは離婚と同時にチヤプリンの財産六百万弗の半分を請求したが、結局六十二万五千弗で納得し、男児二人をも引き取つて養育することに話が纏り本日の高等法院法廷で其旨離婚の仮判決が与へられた、今回の公判は一時間に亘り頗るセンセーシヨナルの劇的光景を呈し、リタは判官の前にチヤプリンの自分に対する冷遇の数々を並べ立てた、…」との記事。
 満州事変の頃「男装の麗人」として活躍したという川嶋芳子も登場。「廿歳のからだを毛皮の外套に包み フラッパーに振舞ひながら 元の女になった川嶋芳子嬢」〔11.11 満州日報〕は「…川島芳子嬢は…『支那王族のお姫様』としての教育を受けつつあつたが突如十一日入港の天潮丸で兄君憲立氏に伴はれ数名の侍女ボーイを随へ美しい二十歳の身体をリスの毛皮の外套につつんで来連した。…『私今迄間違った道を踏んでました、お父うさんにもお母さんにも申訳のない御迷惑をかけた罪はおそろしい程です、この次お目に係る時には屹度立派な女となつてお会ひ致しませう』と記者に語つて居たが一種の変態心理の持主である嬢は其舌の根の乾かぬ船中から各方面へ度肝をぬかせるやうな通信を寄せていた。…今度来連の船中ではさすがに『僕』といふ男性の言葉は遣わなかつたけれども…出鱈目を平気で話しサロンをフラツパーに駆け廻り可成りに同船者をして手古摺らせたらしかつた、…一行は…旅順の十四郎君などに迎へられ直に旅順王家別邸に向かつた。」
 「想ひ叶って 結婚する芳子嬢 パブチャップ將軍の遺児と」〔11.24 東日〕は「…川島芳子さんこと今は金東珍嬢は一年足らずの北京の蕭親王家の生活で元通りの支那美人になりすまし、先日台連に来りその急変振りに世人の度肝を抜いたがこんどはいよいよ年来の思ひが叶い廿六日結婚式を挙げることとなつた…三国一の婿君に選ばれた人は誰であらうそれは本社後援日蒙三千マイル騎馬旅行に花形騎士として参加する筈の蒙古独立の勇将…の遺児カンヂユール・チヤツプ君その人である、氏は本年日本士官学校を卒業した立派な紳士で嬢とは長い間相愛の中であつた芳子嬢が先日台連に来た際は結婚のことは秘密にして私は蒙古に行くんだと済ましていたが事実は結婚のために旅順蕭親王家に滞在中の愛人を訪ねて来たもの…」
 「男性への注文 妻を呼ぶのに『お前』とは何です? 男を餘り偉がらすな 山脇高女校長 山脇房子女史」〔12.6 読売〕は「けふは山脇房子夫人をお訪ねする。女子教育家の『男性への注文』はさてどんなものか…『まづ云ひたいことは男の不作法なことですね。…次には女自身があまり自分を卑下して男をえらいものにしないことです。…夫が妻に向かってお前が―とは何事です。妻はまた夫のことを主人などと呼ぶからいけないのです。私の学校を出てお嫁にいつた生徒が主人がかういひました―などといふと、私はいつも―あなたはどこに奉公しているのですか―といつてやります』…」。とはいえ、「俸給日の翌晩、新婚サラリーマンの里見は、妻の徳子と小遣いについて、…〈『一二円でよろしゅうございましょう?』、『婆やより二円安いのかい?俺は』『主人の小遣いってものは月給の一割が原則よ』と徳子さんは女学校で習った家計管理術で応酬する。」と「(昭和三)年から雑誌『キング』に連載された佐々木邦の小説『新家庭双六』」では「家庭の主導権を妻が握っている様子がユーモアたっぷりに描かれて」いて一九「二〇年代、…夫は外で稼ぐ月給取りに、妻は家事・育児に専念して家計を預かる専業主婦にと言う役割分担が進んだ。」と「昭和時代 戦前・戦中期」はいう。この頃の新聞広告には「主婦之友 三月號…夫婦生活の秘密號…本日發行」〔2.15 東朝〕、「夫婦和合の秘訣號 お待兼ねの主婦の友五月號 いよいよ来る十五日発行 女学校でも家庭でも得られぬ夫婦和合の鍵は五月號の『主婦之友』で」〔東朝4.13〕、「良人操縦と細君操縦號 これです今から大評判の『主婦の友』八月號は。お待ちください十六日まで」の新聞広告〔東朝7.15〕。
写真 (永井荷風 明治「36(1903)年から5年間アメリカやフランスに遊学し、その体験をもとに『あめりか物語』(1908)、『ふらんす物語』(1909)等を執筆、文壇に新風を吹き込む。43(1910)年に慶応義塾大学教授となり、雑誌『三田文学』を創刊。大正5(1916)年自由な隠遁生活に入り江戸趣味に傾倒し、6(1917)年には日記『断腸亭日乗』を起筆」。いずれも永井荷風|近代日本人の肖像 | 国立国会図書館)
写真 (「鹿鳴館から五十年、盛んになったダンスホール」「黨時は紳士淑女でなければ出来相にもなかったダンスが1930年には猫も杓子もダンスだ。ダンス一つもできなければモダンボーイグループの風下にも置かれぬという世の中になつてしまった。」 出典:『大東京寫眞帖』,[出版者不明],[1930]. 国立国会図書館デジタルコレクション 大東京寫眞帖 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
写真 (「婦人の新職業マネキンガール」「…今でこそ左程珍しがられもしないが、マネキンガールも一寸変わった商売として出来た黨時は随分人目を引いたものである。…生きた女に衣裳を着せて人目を引こうといふ考案。欧米の百貨店では随分前から用いられていたと云ふ。」 出典:『大東京寫眞帖』,[出版者不明],[1930]. 国立国会図書館デジタルコレクション 大東京寫眞帖 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
写真 (「不景気知らずのカフエー商売」「東京を語るものはカフエーを知らねばならぬ。況や1930年の新東京を語らんとするものに於いてをや…であらう。…(右円内)は銀座カフェータイガーの内部。(左)は同じくクロネコの二階。お寺の真似をしたような猟奇趣味に御注意。」 出典:『大東京寫眞帖』,[出版者不明],[1930]. 国立国会図書館デジタルコレクション 大東京寫眞帖 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
写真 (デパートの食堂 「口腹の東京 震災後東京人は高速度に喰い意地が張って来たかどうかは知らぬが、食堂の激増は素晴らしく、殊にデパートメントの食堂は断然東京人の食慾を満たしている。」(左) 出典:『大東京寫眞帖』,[出版者不明],[1930]. 国立国会図書館デジタルコレクション 大東京寫眞帖 - 国立国会図書館デジタルコレクション1928年当時の資生堂アイスクリームパーラー …木造2階建ての本建築(建築面積360m2)の建物は、1階正面に、飲料カウンターをおき、左右入口そばに階段があり、踊り場で1つになって、2階に上がっていた。入口内脇には、花売場があり、寄席中央は、吹き抜けで天井からシャンデリアを下げ、2階正面には、オーケストラボックスが設けてあった。」(右) 提供:資生堂パーラー 資生堂パーラー公式サイト内|資生堂パーラーの歴史)
写真 (新橋の芸者 「新橋藝者をどり…胡蝶花に舞ふの観あり、此等の前には閻魔も笑ひ、仏陀も笑ふべし…」 出典:『東京風景』,小川一真出版部,明44.4. 国立国会図書館デジタルコレクション 東京風景 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
写真 (チャップリン 「キッド(大正十年封切)」「チャップリンは、独立して…作品を発売し…大正…十年の『キッド』に、第一級映画藝術家としての鋭角を現はしてきた。」(左)、「黄金狂時代…チャップリン喜劇の最高峰に達した」(右) 出典:いずれも筈見恒夫 著『映画五十年史』,鱒書房,昭和22. 国立国会図書館デジタルコレクション 映画五十年史 新版 - 国立国会図書館デジタルコレクション 映画五十年史 新版 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
写真 (「御使いを賜りし男装の麗人川嶋芳子嬢記者団と會見」出典:軍事教育研究会 編『満洲国皇帝陛下御来訪記念写真帖』,聚文館,昭和10. 国立国会図書館デジタルコレクション 満洲国皇帝陛下御来訪記念写真帖 - 国立国会図書館デジタルコレクション)

(6)生と死
 スペイン風邪が1918-1920に猛威を振るった記憶も生々しい当時、「歐州を悩ます流行性感冒 往年の二の舞ひを 患者數十萬に上る」〔1.6 東朝〕は「西ヨーロツパにおけるインフルエンザの流行は案外に激しく、ヨーロツパ大陸及びイギリスで既に何十万人といふ患者を出したイギリス実業界の中心人物も多数病臥中…スペインではマドリツドだけで九十四名の死亡者をだし、諸工場でも流感のため倒れるもの多く、休業を余儀なくされるものも多い、フランスの前首相にして現文相たるエリオ氏もリヨンで引きこもり中である。」
 日本でも、「恐るべし東京の感冒患者百萬人 先月の死者千七百人」〔3.6 東朝〕は「昨今の気候は暖寒の変化が甚だしいため感冒に罹るものが非常に多く、警視庁防疫課の概算によると目下東京府下だけで百万人近くの感冒患者がある見込みで、…うち感冒で死亡した者は千六百八十二人に達して居る。」との記事。
 当時、結核で命を落とした人は多い。「年に十五萬人 世界一の結核國 東京だけでも七千人」〔3.27 讀賣〕は「吾国民が結核予防に目醒めてから約廿年、大正八年までは結核予防法が出来、現在日本結核予防協会を始め全国に九十七の予防団体あつてそれぞれ予防撲滅に努めているが欧米と反対に結核は増える一方で今や世界随一の結核国といはれ国家の大きな悩みで之が予防の実際はまだ徹底せぬ為で人道上看過しがたい大問題となつて国際聯盟保健部では非公式に吾代表者に向かって警告をすべく目下協議中との事である…」。大正15年の後藤・安田都市問題研究所の「都市問題」によると世界の都市と比較しても「…巴里及ウィエナを除き何れも結核死亡率は二十以下である。然るに日本の都市では何れも三〇以上で、帝都の四三.六…は何にしても文明都市としての一大汚点と言わねばならぬ…」という。
 当時の新聞広告には薬や衛生用品も多い。例えば、「一家に一本の体温計無きは舵無き舟の如し…仁丹の体温計 平型二圓三十銭 棒状二圓五十銭 各一本に左の景品漏れなく贈呈」〔2.27 東朝〕と仁丹の広告(当時は懐中薬や検温計も販売。)、「花開く一家うちつれて楽しき春の行楽も 主婦たるものの健康より 健康を望まば 中将湯 =殊に此の季節にあり勝ちな婦人諸病の豫防と治療…本舗津村順天堂…」〔東朝4.13〕、「一頭地を抜く 乳酸菌製剤の應用が整腸と消化並びに健康の保全に最も合理的であり進歩せる處方なることは醫会の確認するところであります。…整腸消化劑 ビオフェルミン 製造元 株式會社 神戸衛生實驗所…」〔東朝4.16〕、石鹸も衛生面を強調するような広告。「春 段々暖かくなるに伴れて皮膚の作用も旺盛になり化粧に衛生に益々注意が肝要でございます朝夕の御用には是非純良石鹸をお使い遊ばして自然の春にも勝る美しいお肌をお養ひ下さい。 品質本位 花王石鹸」〔東朝4.9〕、「正確なる知識は最良の選擇者である 花王石鹸 永年御採用各位芳名一班(次第不同)陸軍省殿 海軍省殿 鐡道省殿 東京帝国大学医学部殿…眞に良き品は永久無限に愛用せらる…」〔東朝4.21〕と有名顧客をアピール。「目ニ見エテ ズントキク シマズ イタマヌ 井上博士ノ ロート目薬…本舗山田安民薬房〔東朝2.27〕、「氣の利いた中元暑中御贈答品 品位に富み、 保有に堪へ 贈るに便利 受けて重寶 品質本意 花王石鹸」〔東朝6.29〕、「今日発売の小粒仁丹は貴重サフランを倍加、特にご婦人に適す 大景品付近日〆切… 仁丹の体温計」(東朝7.13〕〔2面ぶち抜き〕等々。
 「模範村大庭村の大堕胎事件發かる 明治初年以来公然と行はれた一味二十六名檢舉さる」〔6.5 松陽〕は「昭和の御代に恐るべき堕胎の村―誰かその獣的行為がしかも明治の初年から数十年この方あたかも公然の秘密の如く伝統的に行はれていたかを知るならば残虐きはまる彼らのかくれた半面を推して驚嘆かついひ知れぬ戦慄をおぼえないではをれないであらう。」。
 人気作家の自殺。「芥川龍之介氏 劇藥自殺を遂ぐ 昨暁、瀧野川の自宅で 遺書四通を殘す」〔7.25 東朝〕は「文壇の鬼才芥川龍之介市は二十四日午前七時市外瀧野川町田端四三五の自邸寝室で劇薬『ペロナール』…等を多少に服用して苦悶をはじめたのをふみ子夫人が認め直にかかりつけの下島医師を呼び迎へ応急手当を加えたがその効なくそのまま絶命した、行年三十六、枕元にはふみ子夫人、画家小穴隆一氏、親友菊池寛氏、叔父竹内氏にあてた四通の遺書および『ある旧友へ送る手記』と題した原稿が残されてあつた…自殺の原因は多年肺結核を病み最近強烈なる神経衰弱に悩まされつづけ更に家庭的な憂苦もあつて結果厭世自殺を図つたものと見られて居る。」、「二年前から冷静に心に決していた『死』神經衰弱と家庭的憂苦とが いたましい原因に」は「…夕食の卓ではふみ子夫人や三児とも楽しく談笑したる後、またも書斎にひきこもつたのであつた。…熟睡していたふみ子夫人は、ふと目をさまして声をかけると氏は『いつもの睡眠薬を飲んだ』と低い声で答へ床の上に横たはつて尚も聖書を読んでいたが、やがて聖書を開きたるままばたりと枕頭に仄して眠りについた、これが芥川龍之介氏の従容たる終えんであつた。…」、「夫人への遺書『活かす工夫は無用』と」、「目覚ましい文壇生活 芥川氏の家庭と經歴 殘された幼い三児」、「ある女人とは夫人のこと その死は人生観から安全と語る久米正雄氏」、「生さぬ仲の親で人知れぬ苦勞 驚いて神戸から上京する谷崎潤一郎氏の談」、「手も聲も震へる久米氏 『手記』を発表」と記事は続く。
 「一緒に死なうとしたある女人があった 芥川氏の遺書の中「ある舊友へ送る手記」の全文」〔7.25 東朝〕は「たれもまだ自殺者自身の心理をありのまま書いたものはないそれは自殺者の自尊心や、あるいは彼自身に対する心理的興味の不足によるものであらう、僕は君に送る最後の手紙の中にハツキリこの心理を伝へたいと思つて居る、…何うかこの手紙は僕の死後にも何年かは公表せずに置いてくれ給へ、僕はあるひは病死の様に自殺しないとも限らないのである。…」
 「『ある女人』と名乗る 狂へる不思議の女 芥川龍之介の死を口走りつつ、果敢なき身をけふ松澤病院へ 誰の存在、その名は伊藤綾子」〔8.23 國民〕は「自ら芥川氏遺書中に現れている『或る女人』と名乗るなぞの女が本社を訪れたことは既報した、…その後取り調べの末、かの女は芥川、菊池両氏と相当深い交渉も持ち、半生の数奇の跡を残して今は発狂の身となり、哀れ唯一人引き取り手のない淋しい身を大塚署の保護室に二日二晩横はり二十二日の午後松澤病院に送られるに至つた気の毒な女性である。…女が菊池氏とどれほどの交渉を持つていたのか、又果たして芥川氏の遺書中にある『ある女人』に相当する程の深い交渉をもつていたかどうか、それは芥川氏とそして彼の女自身でなければ分からない世界の事である。」と菊池寛はここにも登場。
 芥川の自殺については、荷風は「断腸亭日乗」に昭和2年「「七月廿四日 細雨… 帰途電車の中にてたまたま鄰席の乗客東京日々新聞の夕刊紙を携へ読めるを窺ひ見るに、小説家芥川龍之介自殺の記事あり、神経衰弱症に罹り毒薬を服せしと云ふ、行年三十六歳なりと云ふ、余芥川氏とは交無し、會て震災前新富座の桟敷にて偶然席を同じくせしことあるのみ、さればその為人は言ふに及ばず自殺の因縁も知ること能はざるなり、余は唯心ひそかに余が三十六七歳の比のことを追想しよくも今日まで無事に生きのびしものよと不可思議なる心地せざるを得ざるなり、」と記す。

 「模範村大庭村の稀有の大堕胎と嬰児殺し 約八箇月にわたる取り調べ終わり 有罪と決し公判へ」〔10.11 松陽〕は「時代を超越した稀有の大堕胎および嬰児殺事件として…、残忍飽くなき人面鬼の行為に人々を驚倒せしめた模範村八束郡大庭村大字大庭産婆…をはじめとしてその一味…九名は…約八カ月にやうやく終結いづれも有罪と決定し…憎みても余りある彼等一味の悪鬼にも勝る醜行為は実に驚くに堪えたものがある。」
 「死亡增加して 出生減少 自然增加五十一万餘 本年上半期…下條内閣統計局長談」〔10.13 都〕は「近年我国に於ける人口増加は著るしく世の注目を惹くに至つたので…本年上半期の概数を示せば出生 百十二万四千六百三十九人…死亡 六十万九千二百七十九人…自然増加 即ち出生と死亡との差増は五十一万五千三百六十人…」、出生減少しても自然増加五十一万人とは羨ましい時代。
 「太政官令の一項 初めて役に立つ 奔馬を止めて死んだ 男の家へ毎年扶助料」〔10.29 時事〕は「明治十五年制定された太政官令が今度初めて警視庁で役に立つた。…市外下渋谷広尾一前山勘次(三二)が…荷馬車馬が道路の真中を狂奔してくるのを認め、大手を拡げて取り押さへんとしたが力及ばず、車輪の下敷となつて即死した事件に対し早川三田署長は家族救済方を警視庁に申告した、…警視庁当局も…調べた結果、見出したのが太政官令―一般人民にして巡査同様の働きをなし死傷したる者には左の規定により救済扶助料祭祀料を支給す―と立派な条文が記されてあつた。そこで左の規定に基づき勘次の遺族に対し祭祀料三十円、遺族扶助料七十円合計百円を毎年支給することに決定した。」。一般人の被害者の住所まで記事になる時代。著名人宅には知らない人も押しかけて来る。「『週刊朝日』の昭和史」によると芥川龍之介の女中は「ここのお宅には、日に大てい十五、六人くらいのお客様が来る。約半分は、お金貰いだ。そして来るたびに、あまり嫌な顔もなさらずお出しになる奥様を感心した。…ある一人は『松本ですが、電車賃を頂きに上がりました』といって来た人があった。奥様は、『あなたはさきほど、別な性で来た人じゃありませんか』『え、来ましたよ、名前は幾つも持っていますからね』とうそぶきながら…動こうともしない。そして幾らか握らせられて、立ち去った彼の後ろ姿を見て、私は憎らしく思った。『ああいう人はしょっちゅうですよ』と奥様は何も気にとめていないらしくおっしゃった。」と語る。荷風も日記に昭和2年「十二月廿一日 …夕刻配達の郵便物の中に浅草区浅草町に住する山田某なる者の封書あり、開き見るに、僕は一介の労働者だが、原稿の添削をしてもらひたいからから日雇の仕事を一日休んで往訪する、家にいて面会せられたい、と言ふが如き事を認めたる言行一致体の書状なり、…近頃斯く如き書面送り来りて面会を強要するもの年と共に増しゆくなり」と記す。著名人の住所について。読売新聞の読者投稿に「…昔、子供向け雑誌に…著名人の自宅住所が掲載されていました、…長嶋茂雄さんの住所もあり、当時中学一年で大の巨人ファンだった私は『サインだけでもください』と書いて往復はがきを投かんしました。すると2週間後、サインが書かれた返信用はがきが届き、優しいお人柄に感激しました。宝物を手にした思いで、…友人に自慢してうらやましがられたものです。…すっかり色あせたそのはがきを今も大切にしています。」との記事。
写真 (「昭和初期のビオフェルミン」 提供:大正製薬 新ビオフェルミンSの歴史|新ビオフェルミンS|ビオフェルミン|公式ブランドサイト|大正製薬)
写真 (「発売開始と同時に、積極的な宣伝・販売活動が行われ」たという「花王石鹸」の新聞広告 1927(昭和2)年2月23日 国民新聞掲載(左)と1927(昭和2)年8月17日 国民新聞掲載(右) いずれも花王ミュージアム所蔵 提供:花王(株))
写真 (芥川龍之介。「小学校時代」(左)、「昭和2年 新潟高等学校にて」(右)芥川龍之介 芥川龍之介|近代日本人の肖像 | 国立国会図書館)

(7)その他
 昭和2年の正月「それでも年賀状が二百八十萬通 東京市内へ配達された数 發送の分は廣告が多い」〔1.4 東明〕は「諒闇の春を迎へてもつとも影響の甚だしかつたのは年賀状である。…昨年三千五百九十五万二千二百四十六通であつたに、昭和第一の新春元旦に配達された数は 二百八十二万六百三十八通であつて、前年に比べると八割六厘強の激減…」。

 米は不作。「未だかつてなかった紫波地方旱害惨状 飢に泣き寒さに漂ふ同胞」〔1.9 岩手日報〕は「紫波地方昨夏旱魃は古老の言にもいまだ聞かざる程度のものであつた水田は全く変じて荒野と化した農村の人たちはただ天を仰いで長大息するのみであつた、したがつて秋の収穫は、一物もなかつた、なんといふ悲惨時であらう、飢えに泣き寒さに慄へる幼き子供らを思ふとき我ら言ふ言葉がない、…」。不作なのに 「台所に吹く春風 お米は下がる一方 不作といふに珍安値 農村の深刻な不景氣から」〔1.12 東日〕は「昨年の米作は政府の予想でゆくととにかく不作で…従つて米の値段も前年から見ると勿論石二三円は上値にいなければならぬのだが…反対に下げ前年の安値を下廻る一方となり、…いずれも二三年来の新安値に暴落した、しかしてこの不作米が反対に釣瓶落としの棒下げを演ずる原因は第一が農村の不景気による余儀のない地方の売放しであつて農家は…生産費以下の値で売放つて来るので十一月深川市場では若松米、千葉米、越中米などの下物は驚くなかれ早くも廿円台といふ数年に見ない珍安値を現し…」
 女性の活躍。「二つの博士号を貰つて日本一の才えん帰る 津田英学塾出身の滝沢松代嬢 女の細腕一つに集め得た母校への土産 五十万円と愛人を懐ろに」〔1.20 報知〕は「津田女史英学塾出身滝沢松代さん(三〇)が日本婦人としては珍しいマスター・オブ・アーツ及びドクトル・オブ・フイロソフイの二つの博士号を得てこの程十年ぶりに帰朝した、…英学塾を首席で押し通し大正七年渡米、ウエズレーの女子大学では最優等生を表徴した『ファイベター』の特賞をうけて一年たたぬ間にマスター・オブアーツをうけた程の秀才である、進んでコロンビヤ大学に入つては経済学、社会学を専攻して哲学博士となつた …故国の母校英学塾が地震のためにまる焼けとなつた悲しい報を聞いた母校のハツソン老教授が米国に帰つて行つたとき、女子は教授とともに母校救済運動を起した、…総じて五十万円ばかりの寄付金を得て母校の復興資金として送ってやつた…最高学位をおみやげに帰つてきた松代女史はまたいみじくき愛人を得た喜びに両親や知己、学友を驚かしている…」の記事。
 宝探し。「金塊引揚王片岡弓八氏 こんどは銚子沖で 幕艦三香保丸と共に沈んだ 四十八万円を引揚げ」〔1.21 報知〕は「昨夏地中海に沈んでいた八坂丸の金塊数百万金を引き揚げて夢の様なボロイ話に世界の拝金者をアツといはせた片岡弓八氏が、今度はまた銚子沖の海底から金塊四十八万円を引き揚げる、…」、「幕府の御用金 榎本武揚が函館へのがれる途中の出來事」は「銚子沖に沈んでいたなぞの金塊四十八万円、さてこれはどう解いてよいか―調べによれば幕末当時の御用金であるらしい、…」と夢のある話。
 関東大震災の影響。「外へ外へ猛烈な勢でふくれる東京の人口」〔1.25 東朝〕は「市内人口のもつとも多かったのは大正十一年の二百四十七万八千人であつたが、大正十二年の震災でがったりと激減して翌十三年末には百九十二万六千人となり…恐らく市内人口が元の二百四十七万といふ数字に達するには今後十年を要するであらうといはれている、…これに反し近郊町村の人口増加は著るしく…」との報道。
 米。「昨年米の収穫高 第二回豫想より百二十萬石減 昨年實収高より四百十萬減」〔1.25 読売〕は「…米収穫高は、…前年収穫高に比すれば四百十一万二千四百九十四石を減少した」、「需給関係から見て 外米四百萬石を輸入せねばならぬ」〔1.25東日〕は「端境期の危機を脱するには何うしても外米四百万石の輸入にまたなければならぬのであるが果たして政府は如何なる食糧政策をもつてこの難局に諸さんとするか興味ある問題である…」と不作を石単位で報じる。なお、翌年は大豊作。
 災害。「激震關西地方を襲ふ 震源附近の三丹地方始め 各地に死傷者、倒壊家屋多し 大阪では電燈消えて全市暗黑」〔3.8 大朝〕は「七日午後六時二十八分突如関西地方一帯に大地震あり、震動激甚を極め多数の電信電話は不通となり、電燈は消え人々は色を失つて大騒ぎを始め各所に大混乱を来した、殊に大阪地方では過般の関東大震災以上の震動あり、電燈滅して全市暗黒と化したためその騒ぎは更に拡大し市民は不安に包まれ…」、「奥丹後大震災の總損害は一億圓 最大打撃は縮緬業者 川崎内務次官の視察報告」〔3.15大朝〕は「三日間にわたつて奥丹後の震災地方を視察した川崎内務次官は十四日帰京したが、その報告によれば…死傷者計一万〇八人…経済方面からみると縮緬の産地である被害地は京都府下の生産の約八割を占めているから縮緬業者の損失だけでもその額五千六百万円に達する…」。
 徳川の財宝の売り出し。「総売上が百六十万円 さすがに御三家の威勢示した紀州候」〔4.5 国民〕は「徳川三家のうちでも家康公譲りの各品が多い所から下見の客約三万に達した紀州徳川侯の家宝売立会は四日午後芝の東京美術倶楽部で入開札の蓋をあけた、階上一七〇畳敷の大広間には三都と名古屋金沢及び旧藩地和歌山から集まつた骨董家五百余名が 七列に並んで膝を接し開札場には厳重な竹圍ひを設けて物々しく骨董入札始まつて以来の大景況を呈し…夕暮れの頃場内は益々熱して大評判の黄金の鍋が一万千三百円と触れ出され 続いて問題の天正大判元禄大判など七種で一万三千八百円と読み上げられたが一枚四十匁見当の目方で二千円平均は満堂を呆然たらしめた、夜に入ってからは人気いよいよ天井知らずとなり…名物あさ地茶杓茶杓の一万四千百円等…竹片一本の茶杓にして前例のない高値を出したのが破天荒であると驚くうち牧渓の江天暮雪は十一万円…などが現出したのは全く御三家相場といふ感があつた…」との報道。
 「世界的になった マザース・デー 片田舎の教会から起つて今は各国で行はれる アレキサンザー夫人談」〔5.7 報知〕は「我国でも近年このマザース・デーは年々盛んになつて…各教会等ではいろいろな催し物が行われ意義あるマザース・デーを祝福することとなつています。」、「特にアメリカでは国家的祝祭日 母に敬意を表する日」は「…本家アメリカでは一九一四年の議会で五月第二の日曜日を花の日と定め当日は官公の建物には国旗をかかげ、一般の人にもこの日をもつて母に対し敬意を表示するように奨励されています。」と「母の日」の広がりが伺えるが、生憎、父の日の記事は見当たらず。
 「貧乏な市の懐から日本一の恩給取り 清浦山本伯より多い水道局長 近く改制案が出る」〔5.21讀賣〕は「日本一の恩給取は官吏で清浦圭吾子、軍人で山本権兵衛伯の二人、どちらも年額六千円づつ、だが今東京市の小川水道局長が辞めると其の上を越す日本一の恩給取りが出来る。それは東京市の恩給は官吏よりも割が良く小川局長は三十年も東京市に居て現在局長四級の年俸八千円を取つているが辞める時には一級進んで一万円になるのでその八掛けの恩給八千円つまり現在の年俸と同じ金額を支給されるのである。」の記事。
 「けふ海軍記念日に 引こもる東郷元帥 記念祭にも参列むづかしそう 大海戰勝利の新說」〔5.27 東朝〕は「日本海の大海戦以来満二十二年の星霜は移り変わつた、例年ならばその記念日にあたるけふ二十七日には築地の水交社で盛大な祝賀会が催され各宮殿下の台臨を仰ぐのであるが本年は諒闇中の事とて祝賀会は抜きにし、ただ午前九時半から水交神社で祭典を行ひ東郷井上両元帥岡田海相を始め海軍の将星相会して往年の追憶談にふける事になつている、又三笠保存会でもこの日午後七時から青山会館で記念講演会を開き日比谷音楽堂では海軍軍楽隊の演奏あり東京中央放送局では記念講演の放送がある外廿七八両日東京高師を始め全国中等学校百数十校では記念講演会を催すことになついている、ところが大立者の東郷元帥は数日来微ようのため引きこもり中で廿七日の水交社の集まりに参列できないかもしれないとの事であるのは惜しい。」

 「市と浅草寺との四十年の爭ひ解決 観音の境内付近一万四千坪はようやく寺有となる」〔7.23 報知〕は「『浅草公園一帯の盛り場を寺に返へせ』『怪しからぬ事を云ふな』と東京市と浅草寺が明治十八年以来約四十年の長い間大もめをし、つひに行政訴訟まで起こした六万五千坪の土地争ひも二十二日内務省で開かれた特別都市計画委員会で無事浅草寺に返還と決定し、近く内務大臣の告示をもつて公表する事になり、さしもの大物言ひも解決した。…」、「境内の名園 市民に解放 大喜びの浅草寺」は「浅草寺では寝ても忘れぬ四十年間の問題が解決したわけで一寺の僧は大喜びで語る『これから上る地代年六万七千円ばかりは全部財団法人に引直ほして社会事業に当る事にしました…」。
 「明治大帝の御盛徳と御偉業を無窮に傳ふべく 七千萬國民を挙げて ことほぎ奉る初の明治節」〔11.3 東日〕は「菊薫る今三日こそ明治大帝の御盛徳をしのび奉り且明治昭和代を永遠に記念さるる厚き思召から制定された意義深き最初の明治節である、…折柄国民の願望は両院の決議となり、…この佳日に当り宮中では大帝御在世当時の天長節の成儀をさながらに祭典、賜餐…を催さる、旨仰出されたが本年はあだかも諒闇中とて表向きの御儀は一切見合せられ単に九条掌典長、本多次長等の手により宮中三殿においておごそかな小祭が行われるのみである。」、今日、明治節(11月3日)は文化の日。この日の町の様子について、荷風の日記にも昭和2年「十一月初三 今年より十一月三日を以て新に明治節と称し祭日となす由なり、朝まだきより飛行機の音空中に鳴りひびき門外には児童の呌ぶ声かしましき限りなり、」との記事。
 「七五三 洋服七分に和服が三分 流行と値段調べ」〔11.5 東朝〕は「可愛いお子さん達の七五三のお祝ひが近づきました、親御さんの喜びもいふまでもありませんが、それと同時に苦労の種になるのは晴れ着の心配です一体今年はどんなものが流行するかまた値段はどんな具合か、百貨店二三軒について調べたところを参考に申して見ませう。…今年はこの不景気にもかかはらず既に各店共昨年より注文の多いところを見ると流石子を思ふ親心はまた格別と見えます、それに最近もつとも著しい傾向は和服に比較して洋服が非常に多くなつたことで、和服三割に対して洋服七割といふ有様、殊に男子の方はほとんど洋服といつていい位です。これは単なる流行といふ以上に高価な和服に対して洋服の方がずつと経済的である上に、和服の方は祝着として着ればそれかぎりなのに洋服の方はいつでも着られるといふ一挙両得のためであることはいふまでもありません。」、当時でも和服は高価で子供が着る機会は少なかったと知れる。
 満鐡近く四千人淘汰 旣に五百名を馘首し 社内漸く不穩」〔11.9 東日〕は「山本満鉄社長は赴任当初社員の馘首はやらぬと声明していたが、この程…既に五百名余りを馘首した、更に四万の従業者中一割約四千人を馘首する意向あり…」との記事。四千人のインパクトが大きいからか、「新聞集成昭和史の証言」はこの記事を「経済・産業」ではなく「社会一般」扱い。

 「善人になった仕立屋銀二 懺悔話の中にスリ季節の戒め 八字ヒゲの堂々たる紳士も …スリから見れば隙だらけ 指先二本の離れ業」〔11.26 東日〕は「火の用心は無論の事だがスリの用心はしろうとには一寸わかりにくい、最近出獄したスリの親分仕立屋銀二は廿五日朝、こんな話をした。私はスリの親分でこそあれ自分で手を下した事は一度もない、スリの方法は一ト通り心得ているから新米には教へたものだ、要するに指先二本のわざです、どんな大仕事でも人差し指と中指二本があれば足りる、昔はカバンや袂を切るに三寸位のかみそりを使つたものだが、今ぢゃナイフだ、仲間でこれを『オイソレ』と呼んでいる。◇ ナイフだと検挙された時罪が軽いとかいつてね、スラれるのは油断があるからです、…どんな肩書があり権勢がある人間もスキが多くちやスリから見ると間ぬけにみえますよ、…スキのある人間は要するに大臣大将も甘ちやんでさア、…わつちも悪党でしたが警察の旦那のためにもなつた、…賭場の手入れやサワ師(詐欺常習)検挙等にはわつちはじめ乾児が腕貸ししたもんです、またスリの被害でも『銀次あの品だけは是非出してくれ』とたのまれるときには郵便で警察に返送した、明治四十年の博覧会時分にも蔭ながら御用を勤めたものです。」と語る。
 大正12年に陪審法が制定され、昭和3年10月から施行。「陪審員一年生に 大將、前首相 京橋から市川八百藏 所長が一年訓練する」〔12.1 時事〕は「東京府下全部に行はれた陪審員候補者の抽選は十一月中に完了して三十日書類が東京地方裁判所の手元に出揃つた、全部で二千四百四十八名で総ゆる階級の者が当選している、…東京市中の分だけでも意外な顔ぶれがある。…赤坂区からは前総理大臣高橋是清氏、調布区は安田銀行の結城豊太郎氏を始め大久保忠行子爵、…京橋区からは俳優の市川八百蔵…、日本橋区は実業家の堤清六氏、…今度当選した候補者は極く少数を除いて大部分は陪審法がどんなものか国民裁判と云ふことに一度も注意を払つたこともない連中なので、陪審法実施までの一年間、田中所長は自ら巷に立つて…説明会得せしめる筈であるが、…高橋前首相なども陪審法の一年生の訓練を受ける訳である。」。
 昭和2年も師走になると、「愈々確定した御大禮諸儀式の御日取 京都行幸十一月六日 即位式十日=大嘗祭十四日」〔12.16 東日〕は「十五日の五大礼準備委員総会において審議の結果決定した御大礼諸儀式御日取りは左の如くである…」と昭和三年十一月六日の京都行幸の儀、十日の即位礼などの日程を伝える。昭和が始まり1年になると、「諒闇のとばり明けて 初めて輝く昭和の御代 日毎に濃くなる御大禮氣分 けふ宮中に御みそぎの儀」〔12.26 東朝〕は「国民ひとしく大喪に服した諒闇はきのふの御一年祭を最後に明けて、二十六日からは昭和の御代輝かしくここに始まるの思ひがある、わけて今日は第五十四議会の開院に辺り聖上陛下には午前十時二十分赤坂離宮御出門、晴れの御正装にて第二公式御行列による金色美々しき御馬車に召されて開院式に御臨幸親しく御勅語を賜はる事となつているが、さながら国民的れい明の光を仰ぐにも久しい盛儀である、又けふからは左腕の喪章が除かれ今まで遠慮がちであつた歌舞音曲も復活し、宮中におかせられても御儀式や御祭礼が元とおり行はれる事となる…」と報ずる。
 「いよいよ明日から運轉する地下鐡道 萬事新しづくめで上野浅草の間を十銭均一」〔12.24東朝〕は「上野、浅草間の地下鉄はこの二十五日開通の予定で目下昼夜兼行完行を急いでいる上野、浅草両停車場及び中間の稲荷町、田原町両停留所には二十日いづれも乗降口の設備にかかり忽ちマツチ箱型の小さな建物が路面にぽつかり出来上がつた、…」
 「地下鐡の大繁盛 十銭投げ込んで押寄せた きのふの店開き」〔12.31 東朝〕は「上野・浅草間の地下鉄道は三十日午前六時から賑やかに営業をはじめた、何がさて珍しもの好きの東京人、朝から雪崩を打つて各駅に押寄せ午前中だけで上野が二万、浅草が一万、その他の駅を合計するとザツと乗客四万人に上り、フランス陸軍服から型をとつた服装の車掌五十名を始め社員五六十名テンテコ舞であつた、入口で十銭銀貨さへ放り込めば切符を買ふ面倒もない…車内ギツシリ詰め込んで二百余人乗れる六台の車両は三分おきに発車している。…営業時間は午前六時から夜半十二時までになつている。」。
 この頃、鉄道の整備が進む。東急のWebsiteによると「渋谷線は1927(昭和2)年8月28日に開業の運びとなり、渋谷~神奈川間の全通を果たした。これに伴い路線名称も東横線に統一した」という。五島慶太東京急行会長は「そのころ郷…男爵が、のちの東横電鉄の前身である武蔵電気鉄道の経営に奔走しておられた。…建設のためにどうしても専門の常務が欲しいというので、石丸鉄道次官のところへ頼みに行った…ちょうど私も役人生活にいや気がさしていたときでもあり、渡りに舟と、武蔵電鉄の常務取締役に就任した。たまたまそのころ渋沢栄一翁が欧米視察から帰朝後、健康的な田園都市住宅を作ろうと、田園調布と洗足に四十五万坪の土地を買って、そこに鉄道を敷こうということになり、目黒から多摩川のふちまでの間に鉄道敷設の免許を得て荏原電気鉄道を創立されたが、素人ばかりでさっぱりうまくいかない。…そこで渋沢翁は大株主である第一生命の矢野恒太氏に相談したところ、…第一生命の和田豊治氏が『小林一三がよいだろう』と言い出し、…小林氏は…私を推薦し、その一両日後小林氏の紹介で…矢野さんに面会し、荏原電鉄の専務に就任した。このとき小林氏は『君は今郷さんと武蔵電鉄をやろうとしているが、これはなかなか小さな金ではできないぞ。それよりも荏原電鉄を先に建設し、田園都市計画を実施して四十五万坪の土地を売ってしまえばみんな金になるのだから、まずこれを先にやれ。そして成功したら、その金で武蔵電鉄をやればよいではないか』というので、私もなるほどと思い、決心したのである。そして名前を目黒蒲田電鉄と改めて建設に着手した。…この目蒲電鉄は大正十二年十一月に目黒、蒲田間全線を開通したが、時たまたま関東大震災で都心を焼け出された人が続々と沿線に移住してきたため、たちまちにして業績は挙がり、その金で私は武蔵電鉄の株式過半数を買収して傘下に収めると共に、名称を東京横浜電鉄と改めて建設に着手し、昭和七年三月ついに渋谷、桜木町間を開通せしめたのである。しかしこの間、昭和初頭の財界不況に遭遇し、私はしばしば自殺を考えるに至るほどの苦しさを経験した。」と日本経済新聞の「私の履歴書」で語る。当時、「黄鹿の都熱をさけ涼しき丸子玉川へ‼…『七月六日開通 大井町―大岡山間 目黒蒲田電鐡株式會社』の新聞広告〔東朝7.6〕。

 西武鉄道のWebsiteによると、西武鉄道も「1927(昭和2)年に東村山~高田馬場間が開業。同時に東村山~川越(現本川越)間の電化が開始され、これが現在の新宿線の始まりとなった。」という。西武鉄道は軽井沢や箱根の開発もしていて、創業者、堤康次郎衆議院議長は日本経済新聞の「私の履歴書」で「…思い悩んだすえ、考え付いたのがもうけよう、もうけようと考えたのがいけない。自分はもうけなくてもよいから、この世の中のために少しでもできるだけのことをしようという奉仕の心だった。最初に考えたのが不毛地の開発事業であった。そしてまず箱根と軽井沢の開発にとりかかり、初めて私は自分の人生に曙光を見出したのである。…私の土地開発事業の第一歩は大正七年、軽井沢千ケ滝からはじまった。ついで大正八年には箱根の強羅に十万坪の土地を買い、翌九年に箱根土地株式会社を創立して、土地開発事業に全力を挙げることになった。土地の開発と関連して重要なのは交通機関である。だから箱根に有料道路を設けたり、飛行機を利用することを考えたり、いろいろ頭をしぼった。…軽井沢へも飛行機を飛ばそうというので、軽井沢に飛行場をこしらえた。その飛行場は今もあって大いに役立っている。なにしろ飛行機の珍しいころである。初飛行の日には無慮三万の人が集まった。なかには越中、越後あたりから汽車で来る人もあるという騒ぎだった。…私はこれを定期便にするつもりだったのだが、実際問題として到底引き合うものではなかったので自然中止ということになってしまった。…・なにしろいつも三十年ばかり時代より早いことをやっていたもので、思い付きは良いのだが成功はしなかった。」と語る。
 その軽井沢に関しては、荷風は「断腸亭日乗」で、昭和2年「八月十一日、前夜風月堂にて久しく口にせざりし珈琲を飲みたるが故にや、熟睡すること能はざりしを機とし、味爽に起き出で旅装をととのふ、山形ほてるより辨当のサンドイツチを取寄せ、十時四十分の汽車にて上野を発し軽井沢に向ふ、」と記す。あいにく風月堂の珈琲で熟睡できなかったときにホテルのサンドイッチを持って軽井沢に行く習慣はまだないが、当時、既に避暑地として知られていたという軽井沢。荷風の日記には続いて「…乗客幸にして輻湊せず、是日空薄く曇りて溽暑甚し、…軽井沢ほてるに入り旅装を解く、…食事の鐘聞えたれば衣服を改めて食堂に赴く、旅客の食卓に坐するものを見るに大抵は西洋人にして帝国劇場歌劇興行の際常に見受くる者四五人もあり、食事将に華りし…商舗は皆洋人を顧客となすものにして骨董仏器錦絵を陳列するもの七八軒あり、箱根宮下辺の光景と異なる処なし、」、と記し、軽井沢や箱根の外国人への人気ぶりも示す。「憲政の神様」、尾崎行雄(号は咢堂)も「早くから軽井沢を好み、大正三年には別荘を建設していた」といい、荷風はその軽井沢滞在中の日記に「八月十八日、…食後自働車を買ひ臼井峠に登る、…橋を渡れば…尾崎咢堂が荘園の門前を過ぐ、荘園の広さ六千坪なりと自働車運転手の語る所なり、」とも記す。
写真 (尋常小学校1年生用の「年賀状のかき方についての指導…1 別に年賀状の型を示さないで自由に―おめでたい心持が出せればそれでいいのですから…」 出典:田上新吉 著『綴り方指導体系』尋常科第1学年,目黒書店,昭和2.国立国会図書館デジタルコレクション 綴り方指導体系 尋常科第1学年 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
写真 (関東大震災により東京の人口は激減。「我東京市ニ於ケル大正十二年十一月十五現在…其人口…計百五十二萬七千四百九十二人ニシテ國勢調査(大正九年)ニ較ブレバ…人口六十四萬五千七百十一人ヲ減ジタリ」という(左)。出典:東京市統計課 編『震災直後の市勢統計』第1巻,東京市,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション 震災直後の市勢統計 第1巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション)(東京の「全市人口1,995,587人 平均密度829人」で人口密度最大は「浅草區1606.1人」、最少は「麹町區208.6人」。(右)出典:『東京市市勢統計原表』,東京市,1927. 国立国会図書館デジタルコレクション 東京市市勢統計原表 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
写真 (東郷平八郎元帥。「海軍大将 東郷平八郎君」(左)と「日本海々における三笠艦橋」(右) 出典:『日露戦役旅順口要塞戦写真帖』,光村写真部,明38.8. 国立国会図書館デジタルコレクション 日露戦役旅順口要塞戦写真帖 - 国立国会図書館デジタルコレクション 小笠原長生 編『東郷平八郎全集』第2巻,平凡社,昭和5. 国立国会図書館デジタルコレクション 東郷平八郎全集 第2巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション 東郷平八郎閣下の日本海海戦の報告の音声はこちらから。日本海海戦第一報告と信号 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
写真 (「満鐡本社(左)出典:『満蒙と満鉄』,南満洲鉄道調査課,1926. 国立国会図書館デジタルコレクション 満蒙と満鉄 - 国立国会図書館デジタルコレクション)と「超特急『アジア』」(右)出典:松岡洋右 著『満鉄を語る』,第一出版社,昭12. 国立国会図書館デジタルコレクション 満鉄を語る - 国立国会図書館デジタルコレクション)
写真 (「東京名物・地下鐡道」「地下鉄、昭和二年暮日本に初めての地下鐡道が出来たときは随分と珍しがられたものだ。…乗車賃十銭也。切符売りの手を要せず金十銭也を改札口の處に投げ込めば自然にギーとプラツトホームに入れて呉れる。東京は地盤が弱いから今後さうたいした発展を仕様ともは思はれないが、科学的、實用的の玩具としてお上りさん等にとつては興味ある珍しい存在だ。」出典:『大東京寫眞帖』,[出版者不明],[1930]. 国立国会図書館デジタルコレクション 大東京寫眞帖 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
写真 (渋沢栄一(左)出典:『近世名士写真』其2,近世名士写真頒布会,昭10. 国立国会図書館デジタルコレクション 近世名士写真 其2 - 国立国会図書館デジタルコレクションと五島慶太東京急行会長(右)提供:東急(株)東急100年史 1章 1918ー1945 |東急株式会社
写真 (荷風が軽井沢ほてるで「旅客の食卓に坐するものを見るに大抵は西洋人にして帝国劇場歌劇興行の際常に見受くる者四五人もあり」と日記に記した帝国劇場の「外観」(左)と「内観の一端」(右)。出典:『東京風景』,小川一真出版部,明44.4. 国立国会図書館デジタルコレクション 東京風景 - 国立国会図書館デジタルコレクション)

(8)終わりに
 「回顧と希望」〔12.29 国民〕は「顧みれば本年は多事であつた。…本年は諒闇に始まつたので世態何となく、沈暗の気分漂うていたので事の激発するもの甚しからざるを一応は予想せしめたのであつた。併し事実は国の内外に亙って稀に観る現象の続発するあつて民心をして安からざらしめた事も一再ならずであつた。
 ×本春帝国議会は暗礁に乗り揚げつつも辛うじて事態を切抜け得たのであつたが、偶々南京事件が持ち上がつて国論やや急を帯びようとし、時を同うして金融恐慌が足下から飛び立ち、人心騒然として帰すうする所に迷はざるを得なかつた。為めに内閣更迭。対支外交と休銀解決の使命を以て出現した田中内閣は一方五月上旬臨時議会の召集を乞い国庫損失を当に休銀消防に力め、他方五六月の交邦人保護の目的の為めに山東に出兵した。…休銀の善後策容易に確立せず、延び延びて昨今漸く…やや目鼻が付いたところである。…休銀事件は不幸な事ではあつたが考へ様によつては我財界に対する試練であり警告であり且つは一部の癌腫を除去せるものとも観得るべく、吾々は我国実業家階級が自ら体験せるこの尊き教訓より多くを学ばるべき事を希望する…対支問題については…未だ国論の一定せざるあり為に一進一退、無益に乗ぜられる隙の甚だ多きを遺憾とする。…対支問題こそ年毎に新味と重要味を加ふるものだからである。
 ×国際的会議が各方面に亙って頻々と催されたことは著しく本年の歴史を特色付けている。中にも海軍軍備制限会議が英米争覇のために失敗に終わつたことは遺憾であつたが、夢視る者に現実を示しただけでも意味なしとしまい。…思ふに交通通信機関の加速的の発達は善きにつけ、悪しきにつけて国際関係を宛も府県間、いな、町村間の関係の如く近接せしめて来た。… 文部が学校の試験制度を撤廃していはゆる試験苦の一角を緩和したが如きも注意しなければなるまい。更に眼を社会一般に転じて云へば幾多の家庭や世上の悲劇が年毎に増している事実も看過すべきでなく、なほ小作争議や労働争議がその深刻性を加えて来たことも特に注意すべき事であらう。…併しながらいかなる難局に遭遇しても、我国史は常に光明と希望とを我国民の前に高く捧げている。希望こそは運命を打開する鍵だ。吾々は潔く昭和二年を葬り、希望の鍵を以て昭和第三年を迎へよう。」と回顧。
 当時の新聞や日記などを手掛かりに百年前を振り返ると、今ならとても許されないことが当然の如く許されていたり、逆に今なら記事にもならないことが大問題になっていたり、今だと簡単にできることができなかったりするし、「不適切にも程がある」という表現もしばしば登場するなどして驚くことも多いが、案外、人間の営みの本質は変わらないのではと思うこともある。
 1973年にノーベル物理学賞を受賞し、昨年100歳を迎えた江崎玲於奈博士は、「非常にオプティミスティック(楽観的)かもしれませんけれど、私が100年間を見て来た限りでは、人類は全般的に賢く、幸福になったと思っていますよ…AIが創造力を持った時、素晴らしいことが起きるのか、あるいは困ったことが起きるのか、アンプレディクタブル、世界の誰にも予測できない…」と朝日新聞のインタビューで語る。
 これから百年で何が起こるのか、百年後に今のような新聞があるのかどうかは誰にも分からないが、今後、世界はどのように変化するのだろうか、そして、百年後の未来人はこれからの百年をどのように振り返るのだろうか。

(主な参考文献)
「断腸亭日乗(二)大正十五‐昭和三年〔全9冊〕」、永井荷風、校注中島国彦、多田蔵人、株式会社岩波書店、2024年
永井荷風|近代日本人の肖像 | 国立国会図書館
「新聞集成 昭和史の証言1」、編集委員入江徳郎、古谷綱正、山崎英佑、故高木健夫、本邦書籍株式会社、1983年
大東京寫眞帖 - 国立国会図書館デジタルコレクション
「昭和時代 戦前・戦中期」、読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論者、2014年
職業婦人調査 女給 - 国立国会図書館デジタルコレクション
銀座秘録 - 国立国会図書館デジタルコレクション
資生堂パーラーの歴史│資生堂パーラー
「私の履歴書 第三十八集』、日本経済新聞社、1964年
東京風景 - 国立国会図書館デジタルコレクション
映画五十年史 新版 - 国立国会図書館デジタルコレクション
満洲国皇帝陛下御来訪記念写真帖 - 国立国会図書館デジタルコレクション
「朝日新聞〈復刻版〉大正編174 大正15(昭和元)年12月」~「昭和2年12月」、高野義男、日本図書センター、2008年
「都市問題」、後藤・安田都市問題研究所、1926年
新ビオフェルミンSの歴史|新ビオフェルミンS|ビオフェルミン|公式ブランドサイト|大正製薬
花王株式会社| 花王 ホワイト | 花王石鹸の歩み 1890(明治23)年~
芥川龍之介|近代日本人の肖像 | 国立国会図書館
「昭和初年~10年代 『週刊朝日』の昭和史 事件人物世相 第一巻」、出版局プロジェクト室編、朝日新聞社、1990年
「読売新聞」、2025年6月6日朝刊11面
綴り方指導体系 尋常科第1学年 - 国立国会図書館デジタルコレクション
震災直後の市勢統計 第1巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション
東京市市勢統計原表 - 国立国会図書館デジタルコレクション
日露戦役旅順口要塞戦写真帖 - 国立国会図書館デジタルコレクション
東郷平八郎全集 第2巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション
満蒙と満鉄 - 国立国会図書館デジタルコレクション
満鉄を語る - 国立国会図書館デジタルコレクション
「法律学全集34 裁判法〔新版〕」、有斐閣、1986年
東急100年史 1章 1918ー1945 |東急株式会社
近世名士写真 其2 - 国立国会図書館デジタルコレクション
「私の履歴書 第一集」、日本経済新聞社、1964年
歴史・沿革:西武鉄道Webサイト
「この100年 人類は賢く、幸福になった」、朝日新聞、2025年12月28日朝刊13面