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令和7年度職員トップセミナー

講師
今井 むつみ 氏
(一般社団法人今井むつみ教育研究所代表理事 慶應義塾大学名誉教授)
演題
意思決定と判断における思考過程と認知メカニズム
~「善い」意思決定は「合理的」な意思決定から生まれるのか
令和7年10月22日(水)開催

認知心理学で分かってきたこと
1.認知心理学は「そもそも」を問う学問
 ご紹介いただきました今井でございます。
私の専門は認知科学で、もう少し狭く言うと認知心理学です。特に発達科学と言語心理学を専門としています。発達科学では、乳幼児を対象に研究しており、言葉を話せない赤ちゃんがどのように言葉を理解していくのかを、実験を通して明らかにすることに取り組んできました。
 認知心理学は、非常に幅広い分野であり、「そもそも人はどういう生き物なのか」を、生物学的な視点というよりは、認知の観点から理解しようとするものです。
 例えば、「人はどのように世界を視(見)ているのか」「視覚や聴覚、その他の様々な感覚を通してどのように見て認識しているのか」「そもそも人はどのように世界の情報に注目し、それを処理して理解しているのか」「そもそも人はどのように処理した情報を記憶しているのか」「そもそも人が思考し、判断し、意思決定をするとはどういうことなのか」について、認識のレベルと脳のレベルでどういうことが起こっているのかを明らかにしようとする学問です。
 今日は思考と意思決定を中心にお話をさせていただきます。

2.そもそも人は「同じ世界」を見ているのか?
 私たちは「自分が見ている世界と隣の人が見ている世界とは、視覚という意味では同じだ」という前提で世界と向き合っています。だから多くの人は「自分は客観的に世界を見ている、みんなも客観的に同じ世界を見ている」と思いがちです。
 例えば、この縞模様のドレスですが、「白と金」のボーダーに見えるか、「青と黒」のボーダーに見えるか、皆様には何色に見えますか?
 ここにいる皆様、ほとんどの方が「青と黒」に見えるんですね。一般には「青と黒」が6対4で、ちょっと多いぐらいですし、海外の研究だと半々ぐらいです。
これは照明を「太陽光や自然光」と仮定しているか、「蛍光灯」と仮定しているかによって色の見え方の違いが引き起こされるのではないかと言われております。太陽光と仮定する人は「白と金」に、蛍光灯と仮定する人は「青と黒」に見えるそうです。
 そして、太陽光と仮定する人は、昼間活動して仕事をする人に多く、蛍光灯と仮定する人は、建物の中で夜遅くまで仕事をする人に多い、という相関関係があることも分かってきております。皆様のほとんどが「青と黒」に見えるというのは非常に興味深いなと思います。
 このように、私たちはものが何であるかを認識するだけでも様々な想定をしています。どういう照明であるかをまず想定し、その照明の下で影がどのように映るのかということも仮定してものを見ています。私たちの脳は知らないうちにそういう計算をしているのです。「普段どういう仕事をしていて、どういう生活をしているか」ということが、照明を仮定する際にまで入り込んでくるわけです。
 このような無意識下での認知よりも、もっと複雑な判断と意思決定のような高次認知の場合には、これまでの知識、例えばある職業に就くことで得た知識というものだけではなく、生まれてからずっと経験してきた暗黙の知識の枠組みや文化、そういうものが影響を与えるということも、認知心理学での研究で分かっています。

3.そもそも「善い判断」とは何か
 では、判断や意思決定と言うけれど、そもそも善い判断とはどういうものなのでしょうか?
多くの社会人に聞いてみると、「善い判断とは論理的な判断だ」とおっしゃる方が多く、経済界の方などは「善い判断とは合理的な判断だ」という方が多いようです。
(1)人は「論理的」な思考が得意か?
 私は慶応義塾大学の教員をしておりましたので、時に学生からいろいろクレームを受ける立場におりました。「単位を取得するためには最低80%の出席が必要」という条件に対して、学生から「80%以上出席したのに不合格にされた」とのクレームが来ます。これは必要条件と十分条件の区別ができないことを意味します。非常に頭が良い学生であっても必要条件と十分条件の区別ができずに文句を言ってくることはたくさんありました。
 「ウェイソンの4枚カード問題」という、有名な論理の問題があります。「カードの表が母音ならその裏は偶数でなければならない」という規則があるとして、この規則が守られているかを見るために、4枚あるカード「E」「K」「4」「7」のうち、どれを裏返したらよいか、という問題です。
 正解は「E」と「7」の2枚カードですが、国内外の有名大学でやってもだいたい正答率は25%です。ものすごく優秀な人たちがものすごく間違えるのです。
トップエリートとされている人も含めて、人は論理的に考えることが得意ではないのです。
(2)人は「合理的」な思考が得意か?
 では合理的な思考が得意なのでしょうか?
 合理的な判断と一般的に言われているのは、確率法則に則って考えるということです。
 これは豊富なデータを統計的に分析し、データのパターンを読み取って未来を予測する考え方です。過去の履歴の特定の成功事例や感情に影響を受けることは、合理的な判断ではないということになります。
 では人間は総じて確率の推論が得意なのでしょうか?これも認知心理学の中で長きにわたって研究されてきたテーマです。この研究を先導してきたのが、ノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンです。
 カーネマンが数々の実験で明らかにしたのは「人は確率的に考えることができない」、つまり「合理的に考えられない」ということです。
 人が損得を考えるときには、期待値を計算して期待値が一番高くなる選択肢を選ぶ、というのが合理的な判断であると言われております。では「人は期待値に沿って判断をしているか」というと、多くの場合そうではありません。
 例えば「20%の確率で45ドルもらえるくじ(期待値9)」と「25%の確率で30ドルもらえるくじ(期待値7.5)」のどちらを選びますか?という場合には、人は期待値が高い方を選ぶことができます。
 でも「80%の確率で45ドルもらえるくじ(期待値36)」と「100%の確率で30ドルもらえるくじ(期待値30)」となると、ほとんどの人は期待値が低い「100%の確率で30ドル」の方を選んでしまいます。
 結局、人は合理的な判断をせず、利得を得る局面では、「確実に得られる方」を選びがちです。逆に損を被る局面ではちょっとでも損を回避しようとして、リスクを取る傾向があり、大きな賭けに出てしまいます。そういう感情的な心の働きが人を支配していることがわかったのです。これが、カーネマンの提唱した「プロスペクト理論」です。
 次もすごく単純な実験です。ある伝染病の対策が検討されており、この病気では600人の犠牲者が見込まれている、という状況において、2つの被験者のグループにそれぞれ対策が提示されました。
 第一グループには「対策Aが適用された場合、600人のうちの200人が救われる」「対策Bが適用された場合、1/3の確率で600人救われるが、2/3の確率で誰も救われない」と伝えます。対策Aを選択した人が70%という結果となりました。
 第二グループには「対策Cが適用された場合、400人が死ぬ」「対策Dが適用された場合、1/3の確率で誰も死なないのに対して、2/3の確率で600人が死ぬ」と伝えます。第二グループでは対策Dを選んだ人が80%という結果となりました。
 対策AとC、BとDはどちらも同じことを言っているのに、第一グループではAが、第二グループではDが多く選ばれたのです。書き方をちょっと変えて、「救われる」のか、「死ぬ」のかという記述の違いだけで選択がガラッと変わってしまう。それが人だということです。
 また、統計の数字を解釈する時には「サンプルがどうなっているか」は最も大事なところですが、「サンプルと分布を考慮しない」というのも人の性質です。
 例えば、エンジニアが70%、弁護士が30%の割合で構成されているサンプルと、それぞれその割合が逆転して、エンジニア30%、弁護士70%で構成されるサンプルが与えられたとします。そこで、「ジャック」という人物のプロフィールとして、「彼は保守的で注意深く、野心的で、政治や社会問題に興味を持たない。趣味は日曜大工、ヨット、数学パズル」というような特徴を持っていると提示します。このとき、人はサンプルの背景情報を無視して、どちらのサンプルの場合にも「ジャックはエンジニアだ」と判断してしまうのです。仮にエンジニアの割合が5%であったとしても、プロフィールの印象だけで判断してしまう傾向があります。
 これは「スモールサンプル・バイアス」と呼ばれるものです。人はある種の“プロトタイプ”を頭の中に持っていて、それに合致する情報があると、統計的な根拠を無視してしまいます。つまり、人は非常に強いバイアスを持っている生き物だということです。

人間はどのように思考しているのか?
1.飲酒許可文脈での4枚カード問題
 これまで見てきた認知心理学の研究を踏まえて考えると、人間はすごくダメな生き物のように思えてしまいます。トップエリートも例外ではなく、論理的な判断は苦手だし、確率の計算はできるにしても、自分の思い込みに引きずられて、背景情報やサンプル情報を無視してしまうのです。
 先ほどのウェイソンの4枚カード問題ですけれど、国内外の有名大学でも25%ぐらいの学生しか正答できないことをご紹介いたしました。
 でも、ある文脈をつけることで、この4枚カード問題の正解率は62.5%に向上するのです。構造はウェイソンの場合と全く同じです。あなたは警官で、ビールを飲んでいる人を取り締まらなければならないとします。その時にカードの表には年齢が書いてあり、裏には何を飲んでいるかが書いてあります。「ビールを飲んでいる」「コーラを飲んでいる」「22歳」「16歳」の4枚のカードがある場合、取り締まるためにどのカードを裏返さないといけないのか、という問題です。この場合は、正解のカードをきちんと裏返すことができるのです。
 急に論理的になってしまうのか?というと、実はそうではなくて、ほとんどの人はこれを論理の問題として捉えていないのです。

2.スキーマとは何か
 結局、人は「実用スキーマ」というものを用いているということになります。
 「スキーマ」とは何かというと、経験を自分で一般化・抽象化して作ったある種の暗黙の知識の塊です。多くの場合は自分がそういう知識を持っていることも意識していません。
 先ほど、人は物体を認識するときに照明を仮定して、影がどういうふうになるのかを自分では全然気が付かないうちに脳が計算している、と申し上げました。しかし、こういう論理判断や意思判断のようなところでも無意識に働いている、そういう暗黙の知識の枠組みが「スキーマ」なのです。
 スキーマというのは、これをだれかに教わって一生懸命覚えたから知っているというのではなく、知らないうちに経験から作り上げた、そういう知識の枠組みです。
 例えば私たちは電車に乗るとき、どう振る舞ったらいいかみんな知っています。正式に学校で教わることはなかったけれども、経験しながら暗黙の知識を作っていったのです。レストランに行ったときにどう振る舞うか、お店でどうやって商品を選び、どう支払うか、こうした一連の行動も、スキーマがなければ成り立ちません。
 もしスキーマがなければ、お店の商品を「あ、これもらうね」と言ってそのまま店を出てしまう、というようなことも起こり得ます。文化によっては、そうした行動が許容される場合もあるかもしれませんが、私たちはそれぞれの文化の中で「何をしなければならないのか」という暗黙の知識を、経験を通して抽象化し、自然と身につけているのです。
 このスキーマが、実はものすごく大事で、私たちはこのスキーマを使っていることに気づかずに、外界の情報を選択し、理解し、記憶する、ということをしているのです。
 一般的に私たちは、たくさん情報を集めれば集めるほどよいと思いがちです。でも、私たちの情報処理の仕組み、脳の仕組みを考えると、たくさんの情報は処理しきれないわけです。
 大事なことは、自分の処理能力の範囲の情報だけに注目して、それを処理することです。処理能力を超えた情報に注目してしまうと、その情報の海に溺れてしまいます。それをコントロールする非常に重要な役割を果たしているのが、このスキーマなのです。

3.スキーマに頼ったアブダクション推論
 人間の情報処理能力や記憶には制限があります。だからAIと同じことは絶対にできません。そうすると、生物として持っている情報処理能力、記憶力の制約が、進化の過程で人間を独特の思考スタイルに導いたと言えるのではないかと思うのです。その独特の思考スタイルが、スキーマに頼った思い込みです。スキーマというのはある種の思い込みなのです。その思い込みに頼って、アブダクション推論をするのです。

アブダクション推論
1.アブダクション推論とは
 アブダクション推論とは、正解が一義的に決まらない、論理の跳躍を伴う非論理推論のことです。
 AIの時代に、私たちが注目するべきなのは、人間独自のこのアブダクション推論というものなのではないかと思います。
 アブダクション推論によって、人は間違いをします。1回遅刻しただけなのに、「だらしない人だ」と決めつけたり、数人の外国人が強盗で逮捕されると、「外国人は皆犯罪者だ」と言ったり、偏見をたくさん持っています。これが人間の持つバイアスです。
 スキーマというのはとてもやっかいなものです。先ほどご説明した「ドレスの色が白と金に見えるのか、青と黒に見えるのか」という話と同じように、私たちはつい「隣の人も自分と同じスキーマを持って、同じように認識し、同じように思考している」と考えてしまいがちです。でも、スキーマというのは実は十人十色です。というのも、スキーマは個人が自分の経験から抽象化して作るものなので、経験が違えば当然作られるスキーマも違ってくるわけです。文化によってもスキーマが全く違うということがあります。
 私たちは感情なしに物事を経験することはあまりありません。何かを経験すると、少なくともそれをポジティブに捉えるか、あるいはネガティブに捉えるかという感情が伴います。この「好き・嫌い」のようなものが、ほとんどの場合にスキーマに張り付いてくるのです。スキーマは、感情や価値観、好き嫌いと深く結びついていて、それらを切り離すことが非常に難しいものなのです。
 こういうスキーマのフィルターを通して外界で起こっていることを観察し、その情報に注目し、スキーマのフィルターを通して自分の中に入れ判断をする、こういうことをしているわけです。

2.コミュニケーションはアブダクション推論で成立
 コミュニケーションもアブダクション推論なしには成立しません。単なる文字列を文字通りに解釈できればコミュニケーションが成り立つのかというと、そうではないのです。私たちは、お互いに自分のスキーマをかぶせて、今、相手が何について考えているのか、何を想定して話しているのかを理解しようとします。そうしなければコミュニケーションは成立しないのです。コミュニケーションにおいて、人は状況を読み、その文脈の中で単語の意味を推論し、相手の心を読み、行間を埋めていきます。これはまさに、アブダクション推論以外の何物でもありません。そして、こうした推論をしなければコミュニケーションは成り立たないのです。
 アブダクション推論を一生懸命やっても、コミュニケーションの齟齬は生じます。なぜ齟齬が生じるのか。スキーマが違うからです。
 スキーマは、知識によっても、経験によっても、立場によっても違いますし、どういう願望を持っているかによっても影響されます。
 人はそれぞれ異なるスキーマのもとで、すごく不正解の多い、むしろ正解というものが存在しないと言ってもいいかもしれない、アブダクション推論をするのです。
 今ではAIが台頭してきて、もう人間はAIには全然勝てないのではないかという局面もたくさんあります。でも、人間の強みと言っていいかどうかは分かりませんが、世界は案外不完全なことが多いのです。

3.アブダクション推論で正しい結論に導く
 福井県の県立図書館の司書の方が書かれた本にでてくるエピソードです。
 あるとき利用者から「村上春樹さんの『とんでもなく、クリスタル』という本はどれですか?」と問い合わせがありました。それに対して司書さんはすぐに、「もしかして、村上龍さんの『限りなく透明に近いブルー』のことですか?それとも田中康夫さんの『なんとなく、クリスタル』のことですか?」と返事をしたそうです。
 司書さんは問い合わせを聞いて、「まあ、だいたいこうだろうな」という推論ができるのです。すごく不完全な、虫食いのピースしかない情報から、それを埋めて、「これが全体の姿ではないか」と考える、それこそがアブダクション推論です。
 「The New Yorker」という、アメリカの知識人が読む雑誌がありますが、この「The New Yorker」の校閲担当の方が書いた本があります。
 「The New Yorker」は格調高い英語を使うことで非常に有名で、文法的な間違いや言葉の使い方の誤りは絶対許されません。ですから、分厚いマニュアルがあり、校閲・編集の担当者はそれを全て覚えなければならないのです。ところが「The New Yorker」に寄稿するような一流の書き手たちは、あえてマニュアルから外れた言葉の使い方をしたり、文法的にはおかしな文を書いてきたりすることがあります。それは、ある種の意図や効果を狙って、わざとそうしているのです。それを見抜いたうえで、あえてそのままにするのか、それとも機械的に直してしまうのか、そこが作家から信頼される編集者・校閲者になれるかどうかの分かれ目なのです。この本にはそうしたことが書かれていて、非常に面白いと思いました。
 他にも例えば、司法判断においても、法律的にグレーな場合というのは人間社会にはいつでもあって、そのグレーなところをどう解釈するか、というのがアブダクションなのです。

4.アブダクションの本領と3つの働き
 すでにある知識を修正したり、新たな知識を生み出したりするところにアブダクションの本領があります。科学はまさにその営みです。ある理論で今まで説明されていたことに対して、「もしかしたらその理論に穴があるかもしれない」と考えて新しい仮説を立てる、これが科学です。そして、その仮説が実験によって実証的に検証されれば、それは科学の進歩となるわけです。
 知識の修正というのは、人間が歴史的にずっとしてきたことで、そうやって人間は文明や文化を築き、科学技術を発展させてきました。そして、それを推し進めてきたのは、演繹推論でも帰納推論でもなく、アブダクション推論なのです。
 演繹推論は、基本的に「規則に則っているかどうか」を判断するだけなので、新たな知識は生みません。
 帰納推論も、過去のパターンに則ってまだ起こっていないことを予測するだけですので、全く新たなブレイクスルーは生まれません。ブレイクスルーを起こすのはアブダクションなのです。
 このアブダクションには3つの働きがあります。
 一つ目は、時間を遡って目に見えないメカニズムを考える働きです。これは科学の一番大事なところです。
 二つ目は、「点」を「面」に広げる働きです。たくさんの事例を集めて、そこからパターンを抽出し、予測するのは帰納推論ですが、実際には人間は情報処理の制約から、すごく少ない「点(事例)」しか持てません。その少ない事例を「面」に広げないと、知識というものは生まれないのです。つまり、「点」である事例を「面」という知識に拡張するというのも、アブダクションがないとできないことです。
 三つ目は、すぐには結びつかないような離れた分野・領域の知識を結びつける働きです。AIはこうした働きが非常に苦手ですが、優れた芸術家や科学者は、こうしたことを行うことができます。本当に革命を起こすような科学の進歩や芸術の進歩は、ほとんどこの三つ目の働きから生まれているのです。

5.科学の進歩はアブダクション推論から
 アブダクションというのは、論理的には誤りです。結果から原因を推測するものなので、これは論理的に言うと、「後件肯定の誤謬」を含んでいるため、形式論理には反しているわけです。
 しかし、ニュートンは「木からリンゴが常に地面に向かって落下する」という事実から、それを汎用的に説明する「万有引力の法則」を発見しました。まさに「点」から「面」を作ってしまうような、そういう発見をしたのです。その背後には、アブダクション的な跳躍があるし、普通の人ならやらないような、遠く離れた知識をつなげるということが起こったわけです。科学革命というのは、まさにそこから起こっているのです。
 総じて考えると、アブダクションというのは論理的には良くないものにも思えるかもしれませんが、実は人間の進歩を駆動してきたものでもあるのです。
 人間の生物としての情報処理能力や記憶力の制約を考えると、実際のところ、それしかやりようがない、という面もあります。人間はどう考えても生成AIにはなれません。だからこそ、これをポジティブに捉えるのならば、アブダクションというのは、人間を進歩させるものだと言えると思います。誤りはつきものだけれども、人間の人類としての「知」を進歩させるもの、と位置付けることができるのではないでしょうか。
 子どもが言葉をどう習得するかをご紹介しましょう。例えば、親が一羽のウサギを指さして「これはウサギよ」と言ったとき、子どもはその一羽だけを見て「ウサギ」という概念を持つのは、本来は難しいはずです。でも、子どもはたった一羽、二羽のウサギを見るだけで、「ウサギってこういうものなんだ」と概念を作ります。そして、それをほとんどすべての言葉についてやってしまう。こうした論理の跳躍、思考の跳躍があるからこそ、子どもは言葉を学習できるのです。
 もちろん、その過程で間違えることもたくさんあります。例えば、ウサギに似たハムスターのような動物も「ウサギ」と思ってしまうような、勘違いも起こります。でも、子どもを見ていて「人間ってすごいな」と思うのは、そうした勘違いを、誰かに「違うよ」と言われなくても、自分で修正できるということです。そのうちに気づいて、正しい概念にたどり着くのです。
 この間違いを修正する能力もまた、アブダクション推論によって働いているのです。
 ある分野で熟達した人と初心者の違いも、アブダクション推論の精度の違いだと考えられます。
 例えば、認知科学でよく知られている例に、医師の診断があります。同じだけのデータが与えられて、こういう症状が見られるときに、熟練した医師は、虫食い状態の不完全なデータから、非常に蓋然性の高い優れた判断を導くことができます。一方で、初心者の医師は、なかなかそのような判断ができません。

人間とAIの決定的な違い
1.AIは人間より「合理的判断」が得意だが・・
 先ほど、「人間は確率判断がすごく苦手だ、合理判断がすごく苦手だ」と申し上げましたが、結局のところ、私たちが判断をする時にどんな人でも逃れられない要因があります。それは習慣だったり、伝統、他人の行動、宗教、あるいは「こういうケースで成功した人がいる」という事例だったり、感情だったりするのです。この感情はものすごく大きいです。
 だから、「合理的な判断が善い判断だ」と決めた場合には、感情を持たないAIは人間よりもずっと合理的な判断ができるということになります。
 確率に基づいた予測というのは、AIが最も得意とするものです。一方で、人間が確率判断をするためには、非常に多くの情報を長期記憶の中に保存しておく必要があります。それだけではなく、判断の瞬間には、作業記憶に情報を保持し、そこで計算を行う必要があります。この作業記憶の容量は、人間の場合、非常に限られています。つまり、長期記憶に保持できる情報の量も、作業記憶の中で操作できる情報の量も、人間には大きな制約があるのです。
 一方、生成AIが使うようなコンピューターは、ほとんど限界がないほどの膨大な情報を扱うことができます。そうなると、「判断はAIに任せた方がいいのではないか」という極論が生まれてくるのも、無理のない話かもしれません。
 確かにAIは人間よりも合理的な判断は得意ですが、AIが一番やらないのはアブダクション推論なのです。AIは帰納推論のマシンであり、アブダクション推論はしない。つまり予測はするけれども、予測の背後にあるメカニズムは考えない。確率計算はできるけれども、ある相関関係が見られた時に、それが因果的な関係なのか、それとも偶然一緒に起こっただけの疑似相関なのか、その見極めはしないのです。だから、基本的には新しい知識の創造はしないのです。

2.アーティストがAIをどう使うか
 最近、ある著名なアーティストが非常に面白い意欲的なお仕事をされていることが新聞に紹介されていました。その方は、若い頃の歌声と現在の歌声をAIで合成し、新たな歌声を使って新しいアルバムを制作されたのです。
 その際、作詞作曲は従来どおり自分で手掛けたそうですが、試しに生成AIに作詞させてみたところ、全く興味の持てない、新鮮味のないものになってしまった、とのことでした。また、「人の心を動かすものは、人にしかできないと確信を得た」とも述べられていました。
 生成AIはビッグデータを学習するので、結局そこから出てくるのは「平均的なもの」なのです。だから特別なものは出てこないのです。
 今、職人さんが減っていることもあって、熟達者の技術をAIに学習させようという試みが進められています。ただ、そこで気をつけなければならないのは、職人さん一人ひとりが熟達者であり、トップの職人にはその人なりの「味」があるからこそ、トップなのだということです。
 芸術家でも、その人ならではの演奏や作風があります。もしそれがなかったら、例えばショパンとベートーヴェンとモーツァルトを足し合わせて、耳触りの良い音楽を作ることはできるかもしれませんが、それによって心が動かされることはないのです。AIにベートーヴェンの曲を大量に学習させれば、ベートーヴェンらしい新しい曲を作ることはできるかもしれませんが、芸術でブレイクスルーを起こすような新しいスタイルを生み出すことはできないと思います。
 それは科学でも技術でも同じです。偶然によって何か新しいものが生まれることはあるかもしれませんが、「これが面白い」「これは価値がある」と見極めるのは人間の熟達者です。その見極めがなければ、AIには判断できないのです。
 先述のアーティストは「自分がAIに飲み込まれずに、自分自身をしっかり持つことが、AIと共生できるということだと思います」とも語っており、さすがだな、と思いました。実際、各分野の第一戦で活躍されている方々も様々なインタビューなどで同じようなことを多く語っておられます。

「費用対効果」という判断基準について
1.教育政策における費用対効果
 合理的な判断の基準として「費用対効果」があります。皆様も「費用対効果」という言葉にはとても敏感なのではないかと思います。
 もちろん、費用対効果は大事です。ただ、費用対効果だけが判断の基準になったとき、それが「善い判断」と言えるのか。合理的な判断、論理的な判断が果たして善いものなのか。「善い判断」というのは、費用対効果も含めた合理的判断、論理的判断を超えたところにあるのではないか、と私は考えています。
 医療経済が専門のある先生は、「必要な薬かどうかを判断する際に、お金と効き目のバランスを見る費用対効果が注目されているが、有効性や安全性と同様に、費用対効果の数値には非常に大きなあいまいさがある」とおっしゃっていました。私も「その通りだな」と思います。
 教育政策における「費用対効果」という言葉は、財務省でも、文部科学省でも、あるいは自治体でも、一番よく出てくる言葉です。
 でも、「費用対効果だけで教育政策予算を決めることは善い判断なのか」と問うた時に、そもそも費用対効果の「エビデンス」とは何なのかを、しっかり考えていただきたいと思うのです。
 学力向上や教育効果を測る場合、その指標として何を用いるべきなのか、そもそも「学力」とは何か、エビデンスは正しい調査方法で収集されたデータなのか、エビデンスが正しく解釈されているのか、すぐ観察可能で数値化できるものだけが教育効果としてみなされるべきなのか、こうしたところまで踏まえて考えなければ「善い判断」はできないのではないか、と私は考えています。
 私も文科省などで専門委員として、いろいろな議論を拝聴することがあるのですが、行政の方から出る「エビデンス」という言葉に、心理学者としてかなり違和感のある形で使っておられると思うことがあります。

2.「学力」とは何か
 ここで、私が作成したテストをご紹介します。これは子どもの「学力」そのものではなく、学力の基盤、つまり学校で単元を学ぶ準備ができているのかを調べるためのものです。
 その結果は衝撃的でした。例えば「1/2と1/3、どちらが大きいですか」という問いに対して、小学五年生で正答できた子どもは半分しかいませんでした。このテストは公立の学校の生徒を対象としています。公立の学校に通っている子どもたちで、五年生の半分が「1/3の方が大きい」と答えたという事実は非常に深刻です。
 また、ゼロから1までの数直線を見せて、「1/2の場所を書いてください」という問題も出したのですが、書けた子はやはり半分でした。
 一方で、今年の全国学力調査で、「1/2+1/3」のような通分を必要とする分数の計算問題の正答率は80%を超えていました。つまり、計算問題はできても数直線で「1/2」がどこにあるかは分からない、意味が分からない、そういう状況の子どもたちが半分いるということです。
 私は中学生向けにもテストを作成しました。例えば「千円の2割引はどれですか?」と出題したところ、成績中位層でも半分しか正答できない、そういう結果でした。
 こういう状況で「学力」をどう考えるのか。文科省だけではなくて、財務省の方々にも一緒に考えていただきたいと私は願っています。

3.子どもの教育についての2つの選択肢
 子どもに教育ついて考えるとき、次の二つの選択肢があると思います。
 一つは「公教育は大いに問題がある。だから公教育の予算は縮小させるべき。教育の質は保護者の自助努力によって、自分で良い教育機関を探しなさい」というものです。こういう極論もありえなくはないと思います。
 もう一つは「国の将来は国民の質の高い学力と思考力にかかっている。現在の教育のあり方では、子どもは十分な知識をつけることができない。だから、親の経済力に関わらず、すべての子どもたちがよい教育を享受できるよう、教育予算を増加させるべき」というものです。
 私の調査による小学生・中学生の学力の状況を見ると、二つ目の選択肢の方を願わざるを得ません。
 私のところには、高校や専門学校の先生、あるいは大学の先生方が、「自分のところでもこのテストをやってみたい」と要望がよせられています。それは、自分の生徒たちの学力の基盤にとても不安を抱えているからです。
 そういう危惧を抱いておられる先生方が多くいらっしゃる中で、日本の将来の国力や国際的なプレゼンスを考えたとき、私たちは何を大事にしなくてはならないのか。十年、二十年先を見越して、今から何をすべきかを、ぜひ皆様に考えていただきたいと思います。

終わりに
 優れた判断というものは、画一的なものではなく、必ずあるところで臨機応変な逸脱があるものです。
 ただし、この臨機応変な逸脱というのは、ものすごく深い思考力とものすごく深い知識、そして、熟達・熟練がなければ、暴走してしまうわけです。
 ですから、国にとって本当に大事なお仕事をされている財務省の皆様には、ぜひ臨機応変な逸脱を許す優れたアブダクションを駆使して、この国を導いていただきたいと心から願っております。
 ご清聴ありがとうございました。

講師略歴
今井 むつみ(いまい むつみ)
一般社団法人今井むつみ教育研究所 代表理事
慶應義塾大学 名誉教授
日本認知科学会フェロー。Cognitive Science Society Fellow(アジア初)
専門分野は、認知科学、特に認知言語発達科学、言語心理学。
著書に「ことばと思考」「学びとは何か―〈探究人〉になるために」「親子で育てることば力と思考力」「学力喪失―認知科学による回復への道筋」「言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか」(秋田喜美氏との共著)、「算数文章題が解けない子どもたち」、「人生の大問題と正しく向き合うための認知心理学」ほか多数。