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路線価でひもとく街の歴史

第71回 大阪市キタ 水の都の再生物語

地元産品の水揚げ地としての船場
 大阪の繁華街にはキタとミナミの2つある。時代によってその中心や範囲は異なるが、いずれにせよ基点は船場・島之内である。中心街の区画は碁盤の目状で、東西の道を「通(とおり)」、南北の道を「筋(すじ)」という。船場・島之内は上から見ると、漢字の「日」のような形をしている。北辺を土佐堀川、南辺を道頓堀川、東辺を東横堀川に囲まれ、西辺には、埋め立てられて現存しないが西横堀川が流れていた。このエリアを東西に貫いていた長堀川を境に、北側が「船場」、南側が「島之内」となる。諸説あるが、四方から舟を着けたことが「船場」の由来で、四方を水で囲まれた形状から「島之内」と呼ばれた。「水の都」と称される通り、大阪は水運で栄えた商業都市だった。
 全国に及ぶ水運ネットワークにおいて、大阪はその結節点として位置づけられていた。瀬戸内沿岸から九州、そして西廻り航路で日本海沿岸につながり、淀川を遡上して京都、さらに琵琶湖を介して北方につながっていた。津々浦々の産物は大阪に「水揚げ」され、特に参勤交代で江戸に滞在しなければならない大名家にとっては、旅費や滞在費に充てるため年貢米を換金する意味があった。米を保管する蔵屋敷は中之島に集積していた。荷受問屋の「蔵元」が市場で米を売り出し、仲卸業者が落札する。収納業務を担う金融機関が「掛屋」だった。掛屋は落札者から銀貨を受け入れ、米の引き換え券である「米切手」を交付した。こうした制度インフラが後の大阪金融市場の下地になった。

両替商から銀行へ
 明治7年(1874)、わが国2番目の路線として神戸駅-大阪駅間の鉄道が開通した。大阪駅は曽根崎村の梅田にあった。低湿地を埋め立てた「埋田」が転じて「梅田」と呼ばれたという説があるほど辺鄙な土地だった。
 鉄道の開通は早かったが、市街内の物流は水運も使われた。駅構内から開削された堂島入堀を介して中之島北面の堂島川と連結された。昭和になると駅北側に広大な北ヤードも整備され、鉄道と水運の一体運用の下、大阪駅は全国有数の貨物ターミナルとなった。
 さて、最高地価の初出は明治15年(1882)の大阪府統計書である。これによれば、当時の最高地価の場所は南区心斎橋筋一丁目だった。その後、明治30年(1897)、天満橋の北詰から続く天神橋筋一丁目が大阪市の最高地価となった。南岸の八軒家(はちけんや)浜は淀川舟運のターミナルで、京都方面へ向かう「三十石船」の発着場だった。明治に入ると蒸気船の就航で発展し、明治期後半にピークを迎えていた。ピークアウトの直接の要因は、明治43年(1910)の京阪電気鉄道の開通である。八軒家浜があった天満橋駅から流路に並行し、京都側の発着場である伏見、さらに京都市街に至る路線だった。
 他方、陸路の主軸は徳川政権下で五十三次から五十七次に増えた東海道だ。江戸日本橋から始まる大動脈の終点は八軒家浜から1km弱先の高麗橋だった。高麗橋に通じる高麗橋通が船場の東西軸とすれば、南北軸は堺筋である。堺を経由し和歌山に至る幹線道路だ。
 大阪の商業中心地は船場だが、中でも金融機能は中之島対岸の北浜通から高麗橋通、次いで堺筋にあった。現在のメガバンクには大阪の両替商に由来するものもある。まず、大阪で最初の銀行は第一国立銀行の大阪支店で明治6年(1873)7月、高麗橋通に開設された。国立銀行制度の満了に伴い明治29年(1896)に第一銀行、のちに第一勧業銀行等を経て現みずほ銀行となる。明治6年は9月に第五国立銀行も設立されている。明治9年(1876)7月には三井銀行の大阪分店が発足した。もっとも前身の三井大阪両替店は元禄期からあった。明治10年(1877)5月、第十三国立銀行が今橋二丁目で開業する。創業者は10代目鴻池善右衛門だが、両替店としては明暦期の開業だ。制度満了後は鴻池銀行となった。明治11年(1878)4月、木綿問屋の岡橋治助らの発起で第三十四国立銀行が高麗橋で開業した。こちらは制度満了に伴い三十四銀行と改称している。
 明治12年(1879)4月、布屋両替店の3代目山口吉郎兵衛が第百四十八国立銀行を開業した。制度満了後は山口銀行となった。当初は唐物町(図2 市街図枠外)に本店があったが、大正12年(1923)に堺筋に移転した。この3行、すなわち鴻池、三十四、山口各行が昭和8年(1933)12月に合併して三和銀行となった。三菱UFJ銀行の前身行のひとである。本店は大正14年(1925)に今橋通に新築した鴻池銀行の行舎を引き継いだ。
 この他、明治11年(1878)2月に両替商千草屋によって第三十二国立銀行が設立されている。制度満了に伴い浪速銀行となった。明治31年(1898)9月に第五銀行を合併するが、大正9年(1920)に十五銀行に合併され、戦後は三井銀行に統合された。
 大阪は住友グループの発祥地である。銀行の起源を辿ると寛文期に住友平兵衛友貞が始めた泉屋両替店に至る。明治7年(1874)、物品担保融資と担保物品の販売業を兼ねた並合業として再開。明治28年(1895)11月、住友本店の銀行部として住友銀行が中之島五丁目で開業した。その後今橋四丁目を経て、明治41年(1908)に北浜五丁目に移転した。明治32年(1899)に分離したが開業時は倉庫業を兼営していた。分離した倉庫業が現在の住友倉庫に至る。
 現在の2大証券会社も銀行がルーツで大阪発祥である。大和証券の歴史は、明治28年(1895)設立の藤本銀行に遡る。明治35年(1902)の藤本ビルブローカーの開業をもって創業とするが、同社は明治40年(1907)3月に藤本ビルブローカー銀行に商号変更。昭和8年(1933)に銀行業を廃止して藤本ビルブローカー証券となり、昭和18年(1943)12月に藤本証券、日本信託銀行と合併して大和證券(現大和証券)となる。このとき本社を東京に移した。野村證券のルーツも大阪の銀行だ。大正7年(1918)、2代目野村徳七が堺筋で大阪野村銀行を設立。昭和2年(1927)に野村銀行と改称した。同社の証券部門が大正14年(1925)に独立したのが野村證券だ。銀行は戦後に大和銀行と改称。大阪3大都銀の一角を占めた。再編を経て、平成15年(2003)にりそな銀行となった。

堺筋と大大阪(だいおおさか)の時代
 水運のピークアウトとともに堺筋の中心性が高まっていく。明治45年(1912)5月には拡幅された堺筋に市電が開通する。堺筋の人通りが増え、百貨店の開店が相次いだ。大正6年(1917)10月、大阪三越の7階建の新館が開店。大正10年(1921)10月に8階建の白木屋百貨店の大阪支店が開店する。
 大正14年(1925)4月、大阪市は周辺町村を合併し、面積、人口ともにわが国最大の都市となった。同年の国勢調査では東京市(当時)の199.6万人に対し、大阪市は約211.5万人となった。Greater(大) London(ロンドン)に重ねた「大大阪」という当時のキャッチコピーには、広域圏、大規模そして偉大のニュアンスが混じっている。大正15年(1926)の大蔵省土地賃貸価格調査事業報告書では北浜二丁目が賃貸価格の最高地点だった。堺筋の北端で土佐堀川通と交差するところだ。この場所が全国最高となったのは昭和7年(1932)である。
 「水の都」から「煙の都」へ。発展の土台に工業化があった。明治初期の造幣寮から派生した化学工業、同じく砲兵工廠から派生した鉄鋼・機械工業。そして元々綿作が盛んな地の利から紡績業が発展した。その端緒が、明治15年(1882)に渋沢栄一らによって設立された大阪紡績である。大正3年(1914)、三重紡績と合併して東洋紡績となった。大阪は、産業革命の舞台となった英国の都市になぞらえ「東洋のマンチェスター」とも呼ばれた。綿花の輸入や綿製品の輸出を担ったのが「関西五綿」と呼ばれた繊維商社だ。伊藤忠、丸紅、日本綿花(現双日)、東洋棉花(現豊田通商)、江商(現兼松)を指し、後に総合商社となった。

御堂筋と昭和モダンの時代
 他方、近郊電車の発展とともに大阪駅の求心力も高まっていた。明治38年(1905)4月、阪神電気鉄道が神戸の三宮駅から大阪の出入橋駅までの間で開業。東に200m程移転した国鉄大阪駅を追いかける形で延伸し、開業翌年の12月には現在地に梅田駅を開設した。明治41年(1908)8月、大阪市電の1号線の南北線が開通する。大阪駅から市街地に接続する道路として整備された梅田道、今の四つ橋筋に沿って走る南北幹線だった。要するに戦前の駅前道路は四つ橋筋だった。沿線には大阪発祥の朝日新聞、毎日新聞が本社を構えていた。梅田道に対する梅田新(・)道が後の御堂筋である。
 明治43年(1910)3月、阪急電鉄の前身、箕面有馬電気軌道が梅田駅から宝塚駅の区間で開業した。沿線に目立った都市はなく、乗客は新たに開拓しなければならなかった。その一環で宝塚駅前に開設したのが宝塚新温泉だ。室内プールを改装して誂えた舞台の余興が宝塚歌劇のルーツとなる。もう1つのターミナルである梅田駅には百貨店を併設した。当初は5階建の駅ビルで大阪進出をうかがう白木屋が小型店を営業していた。昭和4年(1929)4月に8階建の阪急百貨店の開店に至る。当時は「どこよりも良い品を、どこよりも安く売る」方針だった。一等地の呉服系百貨店に対する差別化戦略とするならば、当時は現在の郊外巨艦店のように捉えられていたのではないか。
 昭和8年(1933)3月、御堂筋に大阪ガスビルディング、通称ガスビルが竣工した。平野町に面した南半分が当時の建物である。最上階のガスビル食堂は本格的な欧州料理を提供することで耳目を集めた。料理教室もあり、ガスを使う近代的なライフスタイルをビル全体で提案する施設だった。その2か月後、地下鉄御堂筋線が梅田駅から心斎橋駅まで開通。昭和12年(1937)5月には地下鉄工事と一体で進められていた道路拡幅工事が終わり、幅44mの御堂筋が完成。大阪の新たなメインストリートとなった。

水辺と街路と公園のまちづくり
 戦後における最高路線価の初出は昭和31年(1956)で、その地点は御堂筋の北端、阪急百貨店前だった。駅前の区画整理が進み、オフィスビルの建設も始まっていた。船場オフィス街の重心も戦前の堺筋から御堂筋へと移行しつつあった。三和銀行は昭和30年(1955)11月に御堂筋沿いに本店を新築・移転。第百三十国立銀行を祖とする富士銀行大阪支店も昭和35年(1960)10月に移った。北浜二丁目周辺は証券街の色合いを強め、大和証券や野村證券も大阪証券取引所周辺に店舗を移していた。ただし、大和証券に続き野村證券も昭和21年(1946)に本店を東京に移転している。商業拠点は堺筋から阪急百貨店を一番店とする駅前エリアに移り、現在の「キタ」が形成されていった。白木屋は昭和7年(1932)に撤退していたが、三越は平成17年(2005)まで堺筋に残り、唯一の存在感を示していた。
 物流の主力が水運から自動車運送に移行し、運河は高速道路へと姿を変えた。排水路としての側面もあったが、都市化に伴う水質悪化が指摘され、下水道の普及とともにその多くが埋め立てられた。一方、近年に至り自動車の時代も潮目を迎え、街なかの水路に新たな価値が見出されつつある。例えば、かつて水運の拠点であった八軒家浜には階段状の雁木や灯籠が再現され、「川の駅はちけんや」が整備された。中之島公園にはカフェやレストランが公園施設として整備され、水辺特有の居心地が演出されている。御堂筋は開通100周年となる令和19年(2037)のフルモール化(歩道化)を目指し車線減少と歩道拡幅が進められている。また、かつて国内最大級を誇った梅田貨物駅の跡地再開発も平成以来着々と進んでいる。目下の関心は駅北西、「うめきた2期」エリアだ。令和6年(2024)9月に街開きした「グラングリーン大阪」は公園を中心に据えたこれまでにない発想の街だ。芝生広場と「うめきたの森」等からなる公園面積は敷地の約半分に及ぶ。

プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。主著に「自治体の財政診断入門」(学芸出版社)、「公民連携パークマネジメント」(同)

図1 広域図
図3 大阪ガスビルディング
図4 川の駅はちけんや
図5 グラングリーン大阪