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昭和100年―百年前の新聞や日記から―その3

元国際交流基金 吾郷 俊樹

 前号、前々号に続き、「新聞集成 昭和史の証言」など当時の新聞や日記などを手がかりに、昭和元年、二年の様子を紐解く。「文化」の続きから。
  永井荷風は自身の全集が売れて大正15年の日記「断腸亭日乗」に「正月初五。。…予が著書今日猶人の之を購読するが如く思はるるは、誠に意想外の幸福なり。春陽堂大正六七年の頃始めて予が全集刊行のことを問合せ来たりし時にも…其折獲たりし印税金額…合算さば参四千円を下らざる可し…重印を終る時は更に同額の金を得るわけなり。」と書きつつ、「遊戯の文字より生する収益此の如く僅少ならざるは、蓋し世を挙げて浮華淫卑に走りし証拠なり。誠に今の世は芝居、活動写真、遊藝、小説等、全盛を極る時代なり。是亡国の兆に非らずして何ぞや。」と記す。
 2025年「日経MJヒット商品番付」で西の横綱に「国宝」、東の小結に「劇場版『鬼滅の刃』無限城編 第一章 猗窩座再来」がランクインするなど、2025年の映画界は大盛況。百年前は「全世界の映画館の數 四万六千四百五十九館 日本はこのうち千五十館」〔11.22 報知〕は「米国映画制作家配給者組合の秘書カール・マイルストン氏の発表するところによると、全世界本年初旬の映画館総数は四万六千四百五十九館である、米国二万五千、欧州一万九千七百三、極東三千六百九十二、ラテンメスメリカ千九百三十二、アフリカ四百九十、近東六十九である。◇右の中極東における日本の常設館は千五十館あると報じている。◇これを人口及び入場者数と比較すると、世界で一番人口の割に常設館の少ないのはオーストラリアであるといふ、…」。
 「圓本の洪水 本屋も文士も金ザクザク 原稿料の取り頭は菊池寛氏 三年間圓本だけで廿五萬圓と云ふ」〔11.27 國民〕は「『日本文学全集』の出現をキツカケに後から後からと出版された『円本』は警視庁管下だけで十六種…出版界は正に円本の黄金時代を現出した、…何れにもせよ宣伝に投下資本の大半を注ぎ込みながら各出版社が大部分破格の利益を挙げてほくそえんで居ると同時に文士連も印税をふんだんに頂戴に及んで、不景気風は何処の国に吹くんだと云つた態である。これに目を付けた東京税務監督局では各方面からの調査を進めた結果、…現代日本文学全集は第一、第二回を通じて三十二万、世界文学三十七万、大衆文学九万、世界大思想七万、近代劇三万五千、世界戯曲三万、明治大正文学二十二万、小学生十六万、児童文庫十二万と申込人員を推定した、之によって十種の全集の総定価を五千八百八十九万五千円として文士の懐ろに入る印税は定価の一割乃至七分であるから…四百七十八万八千九百五十円と云ふ素晴らしい額だ、…一人当たり九千七百余円、約一万円近くの印税(原稿料)が文士連のふところに転がり込んで来る、…殊に菊池寛氏の如きは三ケ年に得る印税原稿料二十五万円、文士連切つての最高収入者と税務署では見込んでいる、この推定によつて所得税を査定される訳だが、なんと円本の黄金時代は又文士万歳の時代ではなからうか。」。この頃の文士達につき、永井荷風は日記に大正15年「正月八日。…新橋の地は元来世に時めく者の豪遊する処なれば、…ここに遊ぶは、予の好まざりし所。況や近時は文士山本菊池里見の徒の豪興を恣にするを聞くに於いてをや。」、昭和元年「十二月二十八日…近年博奕文士の間に流行す。久米正雄、谷崎淳、里見淳、菊池寛の輩最之を善くすと云ふ」と記す。当時の一円本の新聞広告は、二面ぶち抜きで「世界文学全集 全三十八巻 二萬頁 上製五百頁 一冊壱圓 日本一の廉価版」〔1.29 東朝〕、「世界文学全集」新潮社の一面ぶち抜き広告「これだけ揃へば一生、退屈せず、一日一時間本全集との接触は生活を根本から新鮮にする」「上製 四六判 五百頁 一圓」〔2.10 東朝〕、更に、一面ぶち抜きで「見よ!これが世界の顔だ、人類の心臓だ。世界文学に親しむべきは、朝に汽車電車を利用し、夕に活動ラジオを享楽する者の義務だ。屋根にアンテナを張って 書斎に全集を見へないのは恥辱だ…」〔2.15 東朝〕、「…申込は日毎に二萬三萬と凄じい勢いを以て増加し行く 印刷所は日時尚ほ分時の休息だも許されない状態都に第一流の洋紙が書籍用紙として空前の大発注を受けたというので祝盃を挙げた事実を見よ。」〔2.24 東朝〕、「本日〆切 世界文学全集 世界的新記録」〔3.1 東朝〕。平凡社も1面ぶち抜きで「現代大衆文学全集 四六判 ○紙上等 一千頁一円」〔東朝3.5〕、「突破、突破、百萬 全集初まっての最高レコード」〔東朝3.29〕など派手な広告。読売新聞昭和時代プロジェクトの「昭和時代 戦前・戦中期」によると、そんな超売れっ子作家の菊池寛は、翌1928(昭和3)年の第一回普通選挙に「東京一区で社会民衆党から出馬」し、「風刺漫画家・岡本一平作の斬新なポスターで注目を集めたが、あえなく落選」したという。
 年末も押し迫り、「光に蘇る 新春の帝都 …劇界、映画界の素晴らしい前景氣… 賑やかな狂言ぞろひで 書入れの五大劇場 なつかしい市村座の舞台に復歸かなった菊五郎」〔12.26東朝〕は「今年の正月はさびしい一年であつた、…来るべき新年はそれとはうつてかはる、まず ◇帝劇は第二番目の『神札矢口渡』で幸四郎が頓兵衛を演じ…元旦初日◇歌舞伎座も一番目に近松原作…『十二時会稽曽我』三幕をすえて、…二日初日、◇本郷座は例によって吉右衛門とその一党、華々しく春木町の明けゆく新春を歌ふわけだ…◇市村座は松竹の経営に移って、首尾よく幕が明く、恐らくは来年中ぶっ通すらしく、その間に市村座は山のやうな借金を返してゆくつもりとある…◇新橋演舞場は曽我廻家五郎一座が外遊帰朝以来、初の江戸上り…」、「大いに笑わせる映画小屋の策戦 久しぶりの井上正夫」は「諒闇明けて映画界もめっきり景気づいてきた、…松竹キネマでは坂妻の『鼠小僧』と久しぶりでカメラの前に立つた井上正夫と…蒲田のオールスター・カストで『天国の人』とか、春の人気はまづさらつてしまひいそう、…」。市村座の菊五郎といえば、十二歳で宝塚少女歌劇に入り、宝塚歌劇団理事となった天津乙女は、日本経済新聞の「私の履歴書」で「大正十三年二月、市村座の六代目菊五郎一座がそっくり宝塚へ来て、中劇場で公演した。これは震災で焼けたための地方興行と違い、市村座の田村さんが当時抱えていた負債を小林一三さんに肩代りしてもらうのが理由だった。…六代目の舞台は初めてではなかったが、はっきりと私が踊りのとりこになったのはこの中劇場公演の時だった。…この機会がなかったら、いままで踊りはやっていなかったと思う。…翌十四年も四回ほど宝塚にいらっしゃったが、六代目と舞台と客席の差こそあれ、接する機会があったことは私の人生に大きなプラスだった。」と語る。
 「昭和二年の映画界回顧 印象に残つた映画の数々 大作を凌ぐ幾多の逸品」〔12.27 報知〕は「…フアンと共に我々の印象に残つた作品を思ひ起こしてみよう。…春以来いはゆる大物と称せられるものは随分と制作された、評判になつた大作は『大久保彦左衛門』『尊王攘夷』『彼をめぐる五人の女』『人形の家』…等である、蒲田映画の持つ一種異様なセンチメンタリズムと、ロマンチシズムは、我等をたんのうさせ、大将軍現代劇の持つ清新なるユーモアとモダニズムは若人の血をわかせた、更に復興したる東亜チャンバラの一点の明るさはまた慶賀すべき現象であつた…しかし二年度において最も我等に深い感銘を与へ、かがやかしい未来を思はせたのは、いはゆる普通のプログラム・ピクチユアの中に、大作をしのぐ逸品を見出した事である。…五所栄之助が春以来発表したいろいろな作品、たとへば『さびしき乱暴者』 恥かしき夢』…等は確かに推賞するに足る、……」。日本経済新聞の「私の履歴書」によると、国民栄誉賞を受賞した俳優の長谷川一夫は、「昭和二年の一年間だけで十五本の作品を撮影したわけです。その間、私の身の回りをずっと母がみてくれましたが、松竹はじめって以来のたくさんのファンレターを整理するだけでも大変だったと思います。」と語り、女優、田中絹代は「そのころ…長谷川一夫さんが、昭和二年のデビュー作『稚児の拳法』以来、めきめき売り出していました。…そのころの長谷川さんといえば、それはもう牛若丸のような、すてきな美少年でした。それで、長谷川さんが蒲田へおいでになると聞いたとき、私は、まるで女学生かなんかのようにははしゃいで、会社にしかられたものでした。」と語る。
 「山色新 昭和最初の歌會始 勅題仰せ出ださる」〔12.28 東日〕は「昭和三年歌会初めの勅題は廿七日宮内省告示第三七号をもつて『山色新」と仰せ出された、この度は諒闇明けかつ昭和の御代初めての宮中歌会始めとて天皇陛下の御製、皇后陛下の御歌をはじめ各皇族方も御詠遊ばされ一月下旬宮中鳳凰の間にて晴れ晴れしく御挙行のもとに内定された、…」の記事。
写真 (「全国映画常設館巡り(浅草)」出典:国際映画通信社 編『日本映画事業総覧』昭和5年版,国際映画通信社,昭和5. 国立国会図書館デジタルコレクション 日本映画事業総覧 昭和5年版 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
写真 (新潮社の「世界文学全集」の新聞広告(左)出典:日本電報通信社 編『日本新聞広告史』,日本電報通信社,1940. 国立国会図書館デジタルコレクション 日本新聞広告史 - 国立国会図書館デジタルコレクションと「原稿料の取り頭」菊池寛(右)。荷風は大正15年「七月廿二日。…文士菊池寛、これも洋装断髪の女を伴ひて来れり。小山内氏予に向ひて、菊池に引き合わせ申さむと頻りに勧められしが、予は辞して顔をそむけいたり」と日記に記す。菊池寛|近代日本人の肖像 | 国立国会図書館)
写真 (「天津乙女・雲野かよ子、池邉鶴子」(左)、『忠臣蔵いろは帖』を演ずる「天津乙女、美也子、泉岳寺詣で」(右) 出典:いずれも『宝塚グラフ』,宝塚少女歌劇団出版部,昭和13. 国立国会図書館デジタルコレクション 宝塚グラフ - 国立国会図書館デジタルコレクション 宝塚グラフ - 国立国会図書館デジタルコレクション)
写真 (当時の若手スター、長谷川一夫と田中絹代。「鶴八鶴次郎 長谷川一夫、山田五十鈴のコンビ、成瀬己喜男監督…」(左)、「人の世の姿(昭和四年封切)五所平之助の水郷物 井上正夫・田中絹代主演」(右)(出典:いずれも筈見恒夫 著『映画五十年史』,鱒書房,昭和22. 国立国会図書館デジタルコレクション 映画五十年史 新版 - 国立国会図書館デジタルコレクション、映画五十年史 新版 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
(2)スポーツ
 スポーツというと、相撲、野球、庭球、柔道、陸上が話題、囲碁の記事も。
 「東西の角力協會 いよいよ合同す 名も改めて『日本大角力協會』 威勢よく春場所を」〔1.1 國民〕は「東京大角力教会では…この春場所から大阪角力協会との合同を認め両協会大同団結して…新しく日本大角力協会と銘打つて出ることに決定した…」と2025年は日本相撲協会の設立100周年。「100年後も200年後も大相撲を今と同じ形で残していくことが私の思いだ」と日本相撲協会の八角理事長は読売新聞のインタビューで語る。相撲見物を「六十年間にわたってみて来た」横綱審議委員会委員長も務めた劇作家、舟橋聖一は大正三年夏場所九日目、横綱太刀川が関脇に昇進した朝潮との一番で物言いがつき、「そのころは大物言いというと三時間もかかるのがあった。その時は一時間半位であったと思うが、結局、協会で協議の上、丸預かりとなったのである。…最も印象に残った三番は、この時の預かりと、双葉山が初めて玉錦を寄り倒した一番、それに六十九戦勝した双葉が、安芸の海に外掛けで敗れた一番の三番を挙げておきたい」と日本経済新聞の「私の履歴書」で語る。
 「本年度の庭球 ランキング決定」〔1.7 中外商業〕は「日本庭球協会は本年度ランキングを左の如く決定発表した。△シングルス 1 太田(満鉄)、2 三木(安宅)、3 相澤(早大)、4 安部(早大)、5 松浦(南海)…△ダブルス1 安部 河尻(早大)2 相澤 麻生(早大)3 佐藤 秋元(関学) 4 松浦 井上(南海) 5 野村 牧野(商大)…」。この苗字しかないランキング、1位の満鉄の選手はどこに住んでいたのだろう?
 「新番附発表 大阪方の割込幕内六名 力士不足を感ずる西方」〔1.8 都〕は「…勿論東西合同といふも大阪方が東京方へ加入したといつた方が適当で大阪幕内力士十二名中の中横綱宮城山が東方の張出横綱となり荒熊錦城山の両大関は東方幕内中軸に名を連ね…」との記事。
 今年1月22、23日に第一局が「29年ぶりの海外対局」でアメリカ・ハワイの「プリンス ワイキキ」で第50期棋聖戦挑戦手合七番勝負「一力遼棋聖vs.芝野虎丸十段」行われるという囲碁。
 「鈴木七段の挑戦に野澤新七段快諾す 棋檀の両本山が面目に係はる大棋戦」(2.24 読売)は〔2.24 読売〕は「…一回の手合わせもせずして七段に昇進した棋正社の野澤竹朝氏に対して…日本棋院の副将軍鈴木為次郎七段が、敢然として本社を通じて挑戦した事は、端なくも昭和棋壇を彩る大争棋として斯界に大衝撃を与へ…野澤七段の回答如何を鶴首しつつある時、…野澤七段は本社を訪れ鈴木七段の挑戦を喜び、…自らも望む所となし快諾の旨を答へた。…野澤竹朝七段は語る『今度私が七段に昇進したに就いて、鈴木七段から後進の模範として十番試合の申し込みを受けた事は私として誠に欣快に堪へない事であります。…』」。日本棋院のWebsiteによると701年(大宝元年)の大宝律令には「僧尼令にスゴロクやバクチは禁止するが『碁琴』は禁止しないという法律が決められ」たといい、「東大寺…正倉院には…碁盤が3面、碁石は2組保存」されていて、その中の「木画紫檀棊局」は国宝。源氏物語でも「宿木」の帖で帝が源氏の息子薫と囲碁をしながら娘、女二宮との縁談をほのめかすなど、帝や貴族が囲碁を楽しんでいた場面がたびたび登場。「江戸時代に入ると、徳川家康が家元制を作り、そのうえに碁所を置き、…江戸幕府の保護政策により囲碁は国技となっていき…1626年(寛永3年)には家康の命令により「御城碁」がはじま」る。これは、年に一度、江戸城の中でおこなわれる公式試合で、「御城碁は徳川幕府が崩壊するまで、およそ200年以上も続」き、「幕末になると、囲碁界は黄金期をむかえ」たという。「江戸幕府の崩壊とともに、…幕府という大きな後ろ盾を失った囲碁界は低迷期に入」るが、「1878年(明治11年)、「郵便報知」という新聞に初めて碁譜が掲載され、…その後、いろいろな新聞に囲碁欄が設けられ…1924年(大正13年)、大倉喜七郎男爵の呼びかけによりプロ棋士が集まり、日本棋院が創立」されたという。
 「立浪部屋に二人の怪物 出羽、男女の川を凌ぐ、大八州に双葉山」〔5.10 御知〕は「出羽ケ岳、男女の川の向ふをはる怪物が二人もそろつて今度立浪部屋に弟子入りした、怪物の一人は大八州と名を頂戴。…郷里富山では米俵の十俵位は楽々とかついだといふ、一度は京都の松竹にはいつたがあまり大き過ぎて厄介者にされて出て来たといふ男。今一人の双葉山は…大阪通ひの帆船の船夫を勤め力があるので重宝がられたが何しろ体が大きいので大飯を食ひわづかな給料ではとても親がやりきれず持てあましてたのを双川大分県警察部長から立浪に紹介したものである。双葉山の名は双川氏の双の一字をとつたものだが先月大坂の本場所に初土俵を踏ませたのだが忽ち勝ち放し好成績で序ノ口に出世してしまつたといふ大変な男。…」。後に時津風相撲協会理事長となった双葉山は日本経済新聞の「私の履歴書」に大八州について「出羽嶽につぐ大きさで、太刀山の再来として新聞などに騒がれ、将来を期待されたものだ。私などは…大八州に比べれば付録的存在で、新聞に出ても、その扱いは小さなものだった。…けいこしたくてしょうがない二人だったから、早起きする以外に方法はない。…しまいに二人が競争で起き、六時頃起きるのがそのころの習慣だったのに、まだ暗い四時ごろから起き出した。…私は大八州を友としてけいこに励んでいたが、十番のうち六番は大八州が勝っていた。」と回顧。
 その大八州より大きい出羽嶽、「天丼を十杯も平らげる 怪物出羽ケ嶽は こんな半面を持っている 通稱文ちやんで通る人氣者」〔5.21 二六新報〕は「目下、国技館で開催中の大日本相撲協会の夏場所で数多の力士の人気を一人で背負ふている、出羽ケ嶽文次郎君は怪物と言われるだけにその巨大な体躯は日本一と云はれています。…日本一の愛嬌者とも言へませう。…横綱が二人までも出羽ケ嶽と遂に顔を合せずに休場して仕舞つたので口さがない者達は出羽ケ嶽を恐れた結果であると云つています。…此の出羽ケ嶽に対する力士といつたら今売り出し中の東の巨人男女の川位のものでせう、行くゆくはこの出羽ケ嶽と男女の川とが相撲協会の米櫃と云われてます…勝つた時はお酒を一升位は飲む事がありますが、…天丼なぞは十個位はペロリと平らげて仕舞ひます。…」
 野球。まだ長嶋さんもいないし、プロ野球もない。「全國中等學校野球大會 榮ある大優勝旗を 授與された高松商業」〔8.21 大朝〕は「…本社主催第十三回全国中学校勇将野球大会の最終日の二十日午後、広陵軍の猛襲に開始された優勝戦は大二回高松軍まづ本城を陥れるあり果然猛烈な肉薄戦を演じつつ進展して行つたが、互ひに堅塁固く長打鋭く一進一退容易に鋭鋒をぬるめず死守突撃して最後まで力闘を続け、優勝戦にふさはしい、緊張した試合を見せた、…全国幾百万のここ甲子園一点にそそがれた耳目のうちに試合は刻々に核心に進んだ、第三回、第四回そして第五回に高松はここに一挙三点を入れた、ああこの三点!大勢はかくて遂に決した、広陵最後も遂に空しく敗退して長き恨みを呑み勇将の栄誉は確乎として高松商業の手中に握られた、…」と夏の甲子園大会を当時の名調子で伝える。新聞広告〔東朝7.19〕を見ると、「運動全般雑誌 野球界 博文館 定価七十銭」と野球の雑誌も発行されていた。
 柔道。「三船七段の警視廳入りから講道館に紛擾勃發 元老派の頭梁山下八段の策動を憤り 實力派の猛者結束す」〔8.31 讀賣〕は「日本柔道界の大本山たる講道館では古くから高段者中に勢力争ひの絶え間なく、常に嘉納師範を中心に元老派と実力派との睨み合ひを続けて居たが、今度実力派の頭梁たる三船久蔵七段の警視庁入りが動機となつて、…多年の暗闘は遂に白日の下に曝されて…、由来警視庁及び其の管下の各警察の柔道は講道館の元老たる八段山下義昭氏と五段河野幸太郎とを師範としてその一統を以て教師および助手に任命して居た所去る六月中河野五段が死去した為め、予てから警官の武道振興を念とする宮田警視総監は河野氏の後釜として講道館中に実力派の大将を以て目される三船久蔵七段を師範に任命した。これが為め警視庁柔道は必然的に山下八段派と三船七段派の対立を見るに至った…」。後に三船久蔵十段は日本経済新聞の「私の履歴書」で、早稲田大学の予科に入学した時、「…花の東京といえば、学校よりも何よりも柔道の本山講道館が頭にあったのである。早速、講道館にかけつけて入門したことはいうまでもない。…私は館内を見回して、…実力第一の横山作次郎先生の指導を受けたいと希望した。…五段から六段に進むのに八年近くかかった。…若い時分に荒れたものだから嘉納先生ににらまれたのであった。」、「私が六段のころだったと思うが、アラン・スミスという貿易会社に勤めていた英国人が、三年契約で欧州に行かぬかという話を持ち込んできた。契約は月五千ドル、三年間で合計一八万ドルの巨額に上る。…一八万ドルは魅力で、結局『行きましょう』という約束をした。…嘉納先生は『いや、三船は自分の子供ではないのだから、行くなということはいえない。だが行くことに賛成はできない…。そういわれては私も行くわけにはいかない。そこでキッパリあきらめて、スミス氏に断ったところ、もうすっかり手はずを整えていた彼は『それはひどい』といって泣きつらをしたが、結局、代わり人を出すことで承知してもらった。私は自分の仕込んだ、わざもなかなか達者な羽生三段を推薦した。羽生の場合、月二〇〇ドルしか出さないということだったが、それでも結局、五年近く英国にいたが、向こうでは陸軍の将官待遇だったとかで、兵隊を二人もつけてくれたという。」と述懐。スポーツ選手の海外での活躍の先駆けか。
 1927年はアムステルダムオリンピックの前年。「陸上競技 本年の總決算 多數新記録の収穫 かくて來年の國際大会へ」〔11.29 東朝〕は「トラツク成績順位 ◇百メートル 1 一0秒七(新記録)相澤 巌(京大)、2 一0秒八 高木正征(山形高)…◇二百メートル 1 二一秒九(新記録)高木正征(山形高)、2 二十一秒九 相澤 巌(京大)、3 二二秒 西 巌(市岡中) 4 二二秒五 南部忠平(早大)…◇一五百メートル、四分七秒(新記録)土屋甲子雄(医師)…◇マラソン(二六マイル四分一)1二時間三八分四四秒 高橋誠二(会社員)…フイルド成績順位 ◇走高飛1 一M九二(新記録)織田幹雄(早大)…◇走幅飛 1 七M三七七(新記録)織田幹雄(早大)…◇三段飛 1 一五M三五五(新記録) 織田幹雄(早大)2 一四M六三 大島鎌吉(金沢商) 3 一四M三七五 南部忠平(早大)」を見ると、百メートル、二百メートル、千五百メートルの上位に京大生や医師が入り、走高飛、走幅飛、三段飛の一位は、翌1928年のアムステルダムオリンピック三段飛でアジア人初の金メダリスト織田幹雄氏、二百メートルの四位、三段飛の三位は1932年ロスアンゼルスオリンピック三段飛金メダリスト、走幅飛銅メダリストの南部忠平氏。
 「野球界回顧 波亂重疊の昭和二年」〔12.9 東日〕は「昭和二年春の野球界は、早大の渡米で淋しかったが、珍客黒人軍フレスノ同胞野球団などの来襲があつて幾分沈滞の空気を打ち破つてくれた。… 選抜野球大会 大毎主催の第四回選抜中等学校野球大会は四月廿九日阪神甲子園で開かれ連日盛況裡に戦ひを続けた結果和中、広陵の決勝となり、八対三で前者の勝に帰した。…甲子園の大会 大朝主催全国中等学校野球大会の第十三回は、八月十三日から大阪市外甲子園で開かれた。高松商業が優勝くるまで八日間、炎天下に雌雄を決する若人の意気は、真に天を衝くものがあつた。ファンの来集頗る多く、人数においては遥かにレコードを破り、この大会の前途益々有望なるを思はせた。」
 野球にも六代目菊五郎が登場。渋沢栄一を父に持つ随筆家、渋沢秀雄は、「田園都市會社の社員には早大の名ショート…久保田禎君がいた。…試合でもすれば…相当強いチームができた。そこで私は田園調布に球場を造った。…借り手の希望があれば、久保田元早大選手を主軸とする田園都市チームがお相手した。するととある日、野球にこっていた六代目尾上菊五郎が一座のチームを率いて試合しに来た。…菊五郎チームの過半数は大学での運動選手だったが、田園チームの方が一、二点勝っていた。すると七回ごろだったろうか、ベンチにいる私の処へ久保田キャプテンが来て小声でこういった。『今向こうのキャプテンが来て、菊五郎チームが負けたままで帰ると、あとで旦那(菊五郎のこと)の御機嫌が悪くてヤリ切れないから、適当に勝たしてくれというんですが、どうしましょうか?』私は…こっちは商売だからほど良く負けてくれたまえと久保田キャプテンにいった。そして六代目はきげんよく帰っていった。」と日本経済新聞の「私の履歴書」で語る。
写真 (碁を打つ帝と薫。源氏物語絵巻「宿木」の帖の場面より。出典:藤原隆能 著 ほか『源氏物語絵巻』,徳川美術館,昭11. 国立国会図書館デジタルコレクション 源氏物語絵巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
写真 (「天覧相撲に双葉山晴れの土俵入り」 出典:『新聞聯合写真ニュース』1937年5月,新聞聯合社,1937-05. 国立国会図書館デジタルコレクション 新聞聯合写真ニュース 1937年5月 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
写真 (「競技の檜舞台・神宮競技場」 出典:『大東京寫眞帖』,[出版者不明],[1930]. 国立国会図書館デジタルコレクション大東京寫眞帖 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
写真 (野球人気。左は「昭和四年の秋神宮野球技場で忝くも天覧の栄に浴した早慶野球の実況」右下は「…先を争ふて入場券を買うファン。前の晩から徹夜して入り口に詰め掛けているといふ」 出典:『大東京寫眞帖』,[出版者不明],[1930]. 国立国会図書館デジタルコレクション 大東京寫眞帖 - 国立国会図書館デジタルコレクション)

5 社会一般
 当時の世の中を知るには、やはり社会面が面白い。
(1)江戸の名残
 「井伊掃部頭のお姫様逝く」(出典不詳〕は、「旧讃岐高松藩主松平頼寿伯母道千代子刀自は…六日遂に逝去した、行年八十三、刀自は井伊掃部頭の次女に生れ和歌並に書を能くした葬儀は十四日午前十時自邸において挙行のはず。」。桜田門外の変で倒れた井伊掃部頭直弼のお姫様が亡くなったとの報道。1926年は1860年3月の桜田門外の変から66年目。江戸時代はそんなに遠くない。
 「横浜の高台に憩ひの地を得て 浮び上がる四百五十の霊 薩南に三百年の夢を破った英軍犠牲者の記念塔建つ 念願届いたモリソン翁」〔2.12 報知〕は「薩南の健児が鹿児島湾頭に砲火を交へた文久二年の『薩英戦争』こそ徳川三百年の迷夢を破つた警鎖として日本開国史上忘れる事のできない一戦であるが、その際の英軍の戦死者四百五十名の英霊はその勇士の名さへ定かならぬ骨片となつて四百五十人分の遺骨は英人モリソン翁の手にさみしくまもられている。…横浜市長も日本人間を説いて寄付金をつのり、英本国では陸海軍両省はもとより、…在留英国人知名の人々も賛してこの記念塔を生むこととなつた。山の手フランス山の急坂を上り詰めた地点に建設される二丈一尺のきらびやかな記念塔は工程を急いで、陽春の候には、其の記念塔の下に作られる骨ツボの中に、四百五十の遺骨は久遠の安住地を得るはずである。」と薩英戦争で英国も相当の損害を被ったと知られる。
 「庄内藩の國家老 名門に生れた奥方 糊さへもすすれぬ昨今 祖父は二千石の禄を食み、薩長の心膽を寒からしめた勇将 夫は贋金造りとなり獄舎につながれ 娘は浪花節語りと流浪の旅」〔3.1 山形新聞〕は「徳川家の四天王と謳はれた酒井左右衛門尉の国家老としてありし昔は食禄二千石をはみ槍一筋の名門で旧庄内藩中権威並ぶものなき松平甚三郎の後裔こそこの寒空に糊口に窮していると云ふ聞くも涙の哀話がある。…其の嫡子三郎は悪戯にたけ贋造紙幣の巨頭となり…世間は松平家を相手にせぬ程零落し、…残された友栄は…現在は…ささやかな二階に一定の収入もなく二三の同情者の助けで喰はれずに暮らしているが、世が世ならば国家老の奥方、余りに変わり果てた零落と云わねばならぬ…」と武家の名門の末路を報ずる。
 「大西郷の金時計を掏った老賊が法廷で得意の物語 明治四年の春銀座街頭に犬を連れブラブラやって来た大西郷に突當る 八十四歳の老人十八ケ所を荒した公判」〔3.10 時事〕は「大西郷の金時計を掏つたのを半生の誇りとして、牢獄を住家にしている老賊の公判が…開かれた、…案外軽い求刑に被告の金太は大喜びで検事に叩頭百拝、其後で渡辺検事が『お前は西郷さんの金時計を掏摸たさうだがどんな工合にして取つたか』と訊ねると爺さんは急に得意に反り返つて、『…明治四年の春でした仲間の銀公と銀座を物色して居ると向こふから西郷さんが犬を連れてブラブラ歩いてくるのに出会ひました、見ると西郷さんの兵児帯の前に、長い鎖の先に金時計がぶら下がつていました、私達の仲間では西郷さんの時計が掏摸るか掏摸ないかで、大変な争ひになつている時でしたから銀公と相談して、銀公は後ろから行って西郷さんに突き当たり私は前から突き当たつた機みに時計は首尾よく私の手のうちにありましたが、後からついて来た書生さんに見附けられ、結局西郷さんの拳固を三つばかり頂戴して勘弁して貰つたのです。それから西郷さんの金時計を取つたと言って仲間では評判になりました』と手振身振りで掏摸の一条を聴かせたのはとんだ景物であつた。」とこれが自慢話になるのも西郷さんの人気ゆえか。
 「四十年間もみ抜いた 板舟権の因縁ばなし 河岸は千二百万円といひ 市は九十万円出すといふ 家康以来のいはく付」〔5.18 報知〕は「話は三百年の昔にかへる、江戸開府の時家康は摂津ツクダ村から丗三人の漁師を連れて来た、さうして東京湾の魚漁を命じ、本丸と大名屋敷へのおさめ残りの魚は幅一尺、長さ六寸の平板に並べて日本橋のたもとで町民に売り捌いた、これが板舟権の芽生えである、さうして伝統的に特殊の権利となり、明治以後財産権としての判決例も生まれた、ところが明治二十二年市区改正事業として魚市場移転問題が起こつた、以来この問題は板舟権にからまつて多年の懸案となつていた。しかし大震災は最後の断案を下した、市は強制的に魚市場を築地に移した、千三百軒の魚屋はいづれもここに収容され、売場所権を市から借りて営業を続けることになつた、震災直前板舟の権利は場所によつては一尺につき二千円もした所があつた、この権利を無償で市に取り上げられたのである、それ故市場側は板舟の尺数は九千百尺、その価格を千二百万円と見積もつて補償を市に迫り、永田、中村両市長も若干の補償を約し今日に持越され、西久保市長は補償額を九十万円として市会に提案したものである。」と家康以来の営業権のお話。
 「南洲翁五十年祭 薩南照國神社々頭で執行さる」〔10.25 福岡日日〕は「蓋世の英雄西郷隆盛翁の英霊を迎へて南洲神社五十年祭の盛典は春風秋雨当に五十年前大南洲翁が薩摩隼人と共に秋風に屍を埋めて思出の故山城山の風光に包まれた鹿児島市照国神社々頭の式場でその終焉を偲ぶにふさわしき秋晴の二十四日午前十時よりいと厳かに執行された。…この日薩南の碧空隅なく晴れて城山の秋色酣なる時翁の令孫吉之助候を始めに県内外亘る奉讃会員官民有志一万五千余名列席。…」とここでも西郷さんは大人気。
写真 (「櫻田門外の變圖蓮田市五郎筆…浪士の一人なる蓮田市五郎の筆であつて細川家に幽囚中に描」かれたもの。出典:東洋文化協会編『幕末・明治・大正回顧八十年史』第2輯,東洋文化協会,昭和10年. 国立国会図書館デジタルコレクション幕末・明治・大正回顧八十年史 第2輯 -国立国会図書館デジタルコレクション 幕末・明治・大正回顧八十年史 第2輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
写真 (「西郷隆盛閣下」(左)出典:『近世名士写真』其1,近世名士写真頒布会,昭10. 国立国会図書館デジタルコレクション 近世名士写真 其1 - 国立国会図書館デジタルコレクション と上野公園の銅像(左)出典:『大東京寫眞帖』,[出版者不明],[1930]. 国立国会図書館デジタルコレクション 大東京寫眞帖 - 国立国会図書館デジタルコレクション 西郷隆盛作詞の詩吟はここから。詩吟:城山 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
(2)金融恐慌
 金融恐慌は、政治、経済・産業だけでなく、社会にも大きな影響。特に華族社会に大きなインパクト。その関連記事は多い。「世襲華族結束し宮相に救済を迫らん 世襲財産の解除許されず けふ評議員会で決定」〔4.23 東朝〕は「華族銀行の称ある十五銀行の破綻は果然華族社会に一大脅威を与へた即ち一千余名の華族は従来宮内省の内命によつて十五銀行に預金していた、然るに今回の破綻で家族の多数は直に生活を脅威されたので華族會舘理事より一木宮相および杉内蔵頭に向かつてこの際応急処置として華族世襲財産の解除を許されたいと交渉する所あつたが世襲財産は法律によつて不融通物であるから如何とも致し方ないとの事であつた。…」。
 「宮内省を圍んで 殿様方の怨み言 十五銀行の破綻に影響を受けて 各方面にお家の悲劇」〔7.17 東日〕は「二千七百万円の融通があるばかりに川崎造船と運命の道連れを余儀なくされている華族金庫―十五銀行のころぶか起つかの岐路には今まで悲しいといふものは甘いものかからいものか知らなかつた麿やおヒー様の嗚咽の声が渦を巻いている、…最近には一条公が四百株、徳川義親候が三千五百廿株、細川候が二千株…等十五銀行株の世襲財産廃止方を宮内庁に申請して許可されている。」。
 「萬策遂に盡きて 川崎重役が私財提供 萬斛の涙で一部解雇の諒解を求む 松方社長は五十萬圓相当の財物 川崎男は現金二十萬圓と三十萬圓の不動産 顛末發表の悲痛な集合」〔7.24 神戸又新〕は「松方社長は…川崎本社地下室に所員、工場長、伍長等約九百名を召集し…『…此の非常の失態については誠に申訳のない次第であります。私としては其罪の一端を償い会社に御詫びをするために時の猶予を乞ひ無理算段して五十万円或いは夫に相当する財物を提供し又…重役も又だ其金額は決定せぬが若干の私財提供を申し出たのであります。殊に川崎男爵は現在及将来の退職従業員のために現金二十万円並に価格約三十万円の不動産を提供され…』」。国立西洋美術館のWebsiteによると、「明治の元勲で総理大臣も務めた松方正義の三男」だった松方幸次郎社長は「自分の手で日本に美術館をつくり、若い画家たちに本物の西洋美術を見せてやろうという明治人らしい気概をもって、作品の収集にあた」り、「購入した作品を持ち帰り、美術館を建てて公開する準備をしてい」たという。彼が収集した美術品のうち、「パリに残された約400点の作品は、…第二次大戦の末期に敵国人財産としてフランス政府の管理下に置かれ、1951(昭和26)年、サンフランシスコ平和条約によってフランスの国有財産」となるが「フランス政府は日仏友好のためにその大部分を『松方コレクション』として日本に寄贈返還」。現在、国立西洋美術館でクロード・モネ《睡蓮》などを見ることができるという。
 「松方巌公、きのふ 辭爵を申し出ず ……自身宮内省に出頭 米櫃の資も擲つ決心」〔11.30 東日〕は、「年の瀬を前に十五銀行の整理問題は…片付づかず二億円の預金者を始め株主の迷惑一方ならず、殊には成行き次第で華族の間に悲惨な到産者を續出しかねぬ模様となつたが、この情勢を前に、最も責任重き松方家の棟梁公爵巌氏は人格者の聞こえ高き仁だけに責を感ずる事一段と深く、早くも先代正義公以来思ひ出厚き三田の本邸はいふまでもなく那須野農場の大部分も同行の整理資金に充つべく申し出で、自身は目黒のわびしき隠宅に謹慎ひたすら整理の完了を待つていたが、爾後の経過捗々しからず、世間に一層の迷惑をかくるに鑑み、この上はと今後の静養所としてわずかに残して置いた那須野農場の残部と富岡、熱海の別荘等所有地全部並びに所蔵の書画骨董に至るまで提供するの決心を固め、その旨廿八日同行関係者に表明した。…」。松方巌は川崎造船の松方幸次郎社長の兄で松方正義の長男。
 「十五銀行の救済に浅野公私財を投ず 二十七萬圓の瀧野川別邸と公債十萬圓 養嗣子長之助氏の名により提供」〔12.4 国民〕は「十五銀行の整理のため先には松方巌公爵がその責任を感じ全私財を提供すると共に栄爵の拝辞をも願出て世間の同情を引きつつある折柄、養嗣子浅野長之氏が、取締役として十五銀行に関係を有する所から、浅野長之候は、同行整理の基金として広壮なる瀧野川中里別邸三千坪の土地と檜造りの建物時価二十七万円及び公債十万円を提供する旨三日口頭を以て西野頭取まで申し出た。」、「私財はすべて投出し 生活費は岳父から仕送り」は「私財を投じた候の嗣子長之氏は十五銀行が去る四月廿一日休業するや間もなく私財として持っていた同行の株券千二百三十二株、預金十万円…全部を提供し丸裸となつて生活費は岳父侯爵から受けていたが、整理の見込みが立たず預金者中には悲惨な状態に陥つているものがあるので、長勲侯も前記の財産を長之氏の名で提供するに至つた次第である。」、「浅野候家と十五銀行の關係」は「浅野家は人も知る如く芸州廣島四十八万石の…大々名中にても聞こえた富豪…」という。
 「島津公の大邸宅 築地本願寺の手に 百八十萬圓で明春早々受け渡し 十五銀行整理の犠牲 時なればこそ七十萬圓の差損」〔12.8 東朝〕は「十五銀行が単独整理に邁進しつつある裏面に松方公をはじめ各重役の私財提供等思ひもうけぬ悲惨事が醸されてこれに伴ひ株主間の恐慌一方ならず同行整理案による株式未払込の金額を徴収さるる場合は倒産者続出すべくこの中最も打撃の大なる者は島津忠重公爵家である、一体島津両家は十五銀行株主中揃つて五指の中に入る大株主で…いよいよ新株全額払込となれば忠重公爵家は実に百四十九万九千九百円を要し忠承公爵家もまた六十六万三千七百五十の多額に達する、一方多額の預金は動かなくなつた上、新たにこの莫大な払込をせねばならぬといふことはさすがの大大名島津家に取つてなかなかの負担で…これを機会にこの夏以来噂のあつた府下大崎の広大なる宅地を売ることに決し略築地の西本願寺との間に契約決まり約百八十万円で明春早々譲渡の手続を取るとの事、実は島津家としては二百五十万円以下では手放さぬ意向であつたのだが時が時遂に如上の百八十万円で折合がついだのだといふ。」。
 「株金拂込に悩む 十五銀行の殿様達 四百八十萬圓調達せねばならぬ川崎男 徳川家一門は五軒で總額百廿八萬圓 小華族が破産の憂目」〔12.19 読売〕は「去る四月二十一日休業以来七ケ月の長い間暗々として曙光の見えなかつた十五銀行も数日前大株主の承諾を得て新株の払込金を徴集することになつて単独開業の運びがつきそうになつた、今日が今日までどうなることかと、不安に沈みきつていた預金者もこれでどうやら年の瀬も越せるといふもの、どころがこれと反対に華族の中にはこれがためいよいよ一層の窮境に陥つて来た人が沢山ある。それは新株一株につき七十五円を払ひ込ませねばならぬ始末である同銀行の華族株主は三百五十名で吾国の華族の三分の一に当り…これを払ひ込むと千七百、八百万円に上るのである、新株払込の大株主を見渡すと川崎男の四百八十三万七千五百余円、島津忠重公、百四十六万円…徳川家一門では、頼貞候五十七万円、家達公 三十三万円…こうした千株以上の大名華族は払込に当たつても財産があるからたいして苦しみはないとしても他の小華族さん連中は今日まで十五銀行の株を唯一の財産として来た関係上、払込み得ず現金を持つた人は殆どなく、今は全く破産に瀕しているのである。…お正月の雑煮も咽喉を通るまいとはあまりに痛々きいことである。」。
(3)労働
 「昭和時代 戦前・戦中期」によると、この頃、「サラリーマンの勤務時間は、午前九時ごろから夕方まで。月給は『夫婦、子供三人、女中一人がいる世帯の課長クラスで一八〇円。夫婦と女中一人の三人暮らしの会社員で一二〇円』…ボーナス、退職金、女性事務員の制服など、会社制度の原型はほぼ出来上がっていた。土曜日は半日勤務の『半ドン』、日曜と旗日は休み。昼食は丸ビル内の食堂などで食べる人もいたが、多くは自宅から弁当を持参していたようだ。…サラリーマンという新しい社会階層が、モダンな生活文化を支える役割を担い、丸の内も銀座も相互に影響しあって斬新な都市空間を生んでいった。」という。
 そんな一方で、当時の労働環境は厳しく、女工や幼年工の厳しい生活環境、人身売買などの記事多数。
 「勞働組合の會議半ばへ 飛込んだ娼妓千代駒 例の胞輩春駒を見ならうて 死ぬ覺悟の廓脱走」〔1.14東朝〕は「日本労働組合本部で委員が重要会議の最中、列席している紡織労働組合主事岩内善作氏を訪ねて来た妙齢の女があつた…物腰など普通の家庭の女ではない『これは』とびつくりする岩内氏の足もとへ、女はくず折れるように座つて泣きながら『どうぞお助け下さい、わたしは今廓を脱れてきました』と訴へた、…この女は吉原江戸町の長金花楼の抱娼妓千代駒こと坂本千代子(二二)といひ城壁の如き警戒の網を勝気にも単身脱走してきたものであつた…」との記事。
 「女工を志願して縣外に出る娘達 ◇ 一村から二十人三十人と纏めて 十二三から廿歳位の妙齢の子女」〔1.15 山形新聞〕は「目下県内には関東、関西方面から…労役者募集人が入り込んで…農村の娘達を女工に勧誘中だがこの頃に至つて大分応募者が増えた模様だ、…其筋では打ちつづく不況を蒙つた農村困窮の現れであると見ている…」。
 百貨店でもスト。「大阪の大丸 一千名怠業 待遇改善問題で」〔1.25 報知〕は「大阪市目抜き通り心斎橋通に七階建ての大店舗を有する大丸百貨店の仕入部及び販売部員約千名は数日前から代表者を選び、六ケ条の待遇改善問題をひつさげて店主側に交渉を続けてきたが容れられないので、廿三日から怠業状態となり、廿四日月曜日を利用して各所に集合協議を続けている、工場の争議と異なり商業学校出のこの種大商店の争議は大坂でも珍しいので、その成行き如何では大商業都市たる大阪市内の各大商店にも至大の影響を与へるもの多いので、その筋では多大の注意を払つてこれが推移を監視している。」との記事。百貨店といえば、「昭和時代 戦前・戦中期」によると、「消費生活への関心の広がりとともに、銀座へデパートの進出が相次ぐのも、この時期だ。銀座通りに、一九二四(大正十三)年に松坂屋、翌二五年に松屋、三〇(昭和五)年に三越が出店する。各デパートは、入り口で下足預かり制度を廃止。誰もが気軽に立ち寄れる店として土足入場を解禁した。商品の陳列ケースを導入し、豪華な吹き抜けや明るいショーウィンドーなどを設けて近代的店舗に大改装。それまではぜいたくさを売り物にしてきたが、食品や薬品、夜具類など日用品も扱うようになった。ファッションショーの開催、屋上ゴルフ練習場の設置、無料送迎バスサービスの開始、昇降機(エレベーター)ガールの案内など、あの手この手の商戦が本格化、デパートは、一気に近代化、大衆化が進み、買い物が娯楽ととらえられるようになった。」という。当時の新聞広告を見ると、改装中だった三越呉服店は「三越の修築完成 来る四月七日開館 修築中の三越は今般工事完了、七日を以て開館いたします。総面積九千坪、七階の大厦、其の壮麗、其の雄大、到底昔日の比ではありません。…三越呉服店」は一面ぶち抜きの新聞広告〔東朝4.5〕。「銀座松坂屋 呉服雑貨大廉売」、白木屋も「夏の洋服持越し品大廉売」〔東朝6.20〕とバーゲンセールの後、お中元には「銀座松坂屋 七月一日より中元用品均一市場特設」[東朝6.30]、「中元売出 東京銀座松屋呉服店」〔東朝7.1〕、「七月一日よりご贈答用の御恰好品を沢山に取り揃へ中元ご贈答用品売出 三越呉服店」〔東朝7.1〕の各社の新聞広告。御歳暮には、「十二月一日より本店及び新宿分店にて歳暮御贈答用品大賣し…三越呉服店」〔東朝11.30〕、「十二月一日の歳暮大賣出し…呉服、綿布、雑貨、他界も保井もドッサリ揃へた大賣出し 伊勢丹〔東朝12.1〕、「御贈答好適品、歳暮大特賣 一日より十日迄 東京日本橋白木屋」〔東朝12・1〕は一面ぶち抜き、「松屋の歳暮大賣出し 十二月一日より 松屋の歳の市 お正月用… 松屋呉服店」〔東朝12.2日)、やがて年末の特売セールが始まり、「十二月十日より呉服雑貨一年中のおつとめ品を集中して歳暮御年賀大賣出し 銀座松坂屋}、「雑貨大特賣 十日ヨリ 松坂屋」「三越の特賣靴雑貨 三越呉服店」いずれも〔東朝12.10〕、「三越大歳の市 灯火より二十九日まで…」〔東朝12・11〕、クリスマスセールもあって、「松屋のXマスセール…松屋呉服店」〔東朝12.11〕、「十五日より歳暮大安賣 高島屋」〔東朝12.15〕の新聞広告。
 また、当時、大阪市は「土地不足から来る住宅地の過密問題などを解決するため、一九二五(大正一四)年四月、周辺四四町村を編入して市域を大幅に広げ…、面積(一八二平方キロ)、人口(二一一万人)ともに、帝都・東京市(八一平方キロ、二〇〇万人)を抜いて『日本一』に躍り出た。」といい、少し後、阪急電鉄の創業者小林一三は、「二九(昭和四)年には、日本初のターミナルでデバート『阪急百貨店』を阪急梅田駅にオープン…当時、東京や大阪の高級百貨店は、最寄り駅から客を車で送迎していた。梅田駅の一日の乗降客は十万人を上回っており、『お客はすでにいる。ここにデパートをつくればいい』と考え…最上階で洋食を食べさせる食堂も人気を博した。…」と「昭和時代 戦前・戦中期」はいう。
 その大阪といえば、昨年、1970年以来の万博開催。1970年に亡くなった三島由紀夫は昨年生誕100年。財務省の図書館には大蔵省、財務省出身者著作のコーナーがあるが、おそらく最も有名な三島由紀夫の作品は、他の図書館でも借りられるからなのか、職員が読みふけってしまい執務に支障をきたすからなのかわからないが、そこにはない。
 「『籠の鳥』の女工等に解放の曙光現はる 先ず東京モスの實施好成績に 全国的な運動起る」〔6.15 國民〕は「可憐な十三四歳からエンヂンの響や毛ぼこりに包まれて暮らす紡織や製糸女工の数は全国七十余万を算し、大部分は煤けた工場の片隅にいま尚寄宿制度のきづな固く閉ち込められているが、この人格的解放が先ず一工場で試みられ成績次第で他工場にも及ばんとしている。…」、「却って能率が擧がったのは事實 實驗した工場側で語る」は「外出を無制限に許すと云ふので一時は警察から注意を受けたこともあるが、…かれこれと干渉しない方が却て外出が少なく、…女工に自由を与へることが仕事の能率を挙げることを確信します』と。」の記事。
 「幼年工いぢめは容赦なく告發する カゴの鳥の女工さん達にも 人間らしい生活を 警視廳工場課いよいよ内偵を進む」〔6.16 東朝〕は「幼年工を虐使している工場が今日でも多数発見されたといふ事件は警視庁工場課において可なり重大視し、目下幼年工を雇用している都下の工場に対しては、…内偵を進めているが、…昨年の如きもこのいたましい虐使事件で処分された工場は二百丗七件もあり内もつとも悪らつな工場として起訴処分に付された件数は六十件もあつた。…」。更に、「岡谷女工の惨状に 社會局から救の手 爭議は爭議 これは人道問題と まず縣へ注意か」〔9.14 東朝〕は「長野県岡谷…製糸工場のストライキでは女工が工場主側から糧食を断たれ、工場寄宿舎からしめだされて生活に困る有様となつたので内務省社会局では…多くの女工を右の如く悲惨の状況に置く事は人道上一刻も捨て置き難い問題なりとし何等かの方策を講じ女工を救済せねばならぬといふ意向の下に…関係官が参集して協議をなした…」との記事。当時、ILO東京支局職員だった市川房江参議院議員は、日本経済新聞の「私の履歴書」で昭和「二年の春には、大阪、京都、岡山地方へ紡績工場での徹夜作業の視察に行き、大阪の四貫島の紡績工場では私たちも一緒に徹夜でみてまわった。秋には九州の飯塚、三池、唐津などの炭鉱の視察に行き、薄層にもはいってみた。私の目的はもちろん女子の坑内労働禁止のためだったが、それを知った婦人の坑内婦からは、感謝どころか白い目でみられ、坑外の安い賃金の選鉱場にかえられるのはいやだといっていた。」と語る。
 「僅か十年の間に 小作爭議は三十倍 本年は昨年より更に多く 地域も漸次廣汎に亘る」〔10.15 時事〕は「農村に於ける小作争議は近侍益々其の数を増加し即ち大正六年には僅かに八十五件に過ぎざりしが大正十年には千六百八十件となりさらに昨大正十五年には二千七百五十一件に激増せるを見る…」と社会問題化。この頃の新聞広告には「マスクス著…資本論 本日締め切り 次代を担ふ何十萬の熱烈な讀者を得たことは我が文化の一大展開を意味す…改造社」〔東朝11.2〕、「マルクス主義講座 明日〆切 河上肇、大山郁夫監修 上野書店」(東朝11.14 )
 不景気の影響で女中が人気に。「女学校出が近頃 女中を望む …珍しいこの現象 安月給貰ふより割がよい ただし台所仕事は嫌ふ」〔11.2 報知〕は「東京市の職業紹介所へ求職依頼に来る婦人は毎月約千名に達していますが、これ等求職婦人の希望する職業は年々変わつていく傾向はありますが近時特に目立つて変わつて来た点は女学校卒業以上の学歴をもつている者で女中を志望するものが多くなつたことです。これは一、二年前までは女学校を卒業したほどのものはほとんどが事務員又はタイピストなどを望み、女中などには振り向きもしなかつたのにくらべるとちようど変わつた現象といはわねばなりません、このやうに女中を志望し出した原因は那辺にあるかといひますと、まず第一に影響しているのは不景気がますます深刻になつつ、求職難がいよいよ甚だしくなつてきたことにもよつていますが、また一面には事務員やタイピストになつた処でわづかの月給ではようやく食べられる位が関の山で、よい着物を着たり、装身具を求めるといふやうなことは到底できませんし、…一層のこと確実な所に女中として住込んでをれば食ふことには心配が入らず月々少しづつは残つて行き、その他諸事覚えられるといふ利益があるので、このやうに女中を志願するものがふえたといへます、ただ女中を志願するものの多くが雑役する下働きの女中よりもいはゆる奥女中を望んでいる…」の記事。「昭和時代 戦前・戦中期」によると、「この時代、カタカナ職業に象徴される『職業婦人』は一握りに過ぎなかった。…尋常小学校を卒業した十代の多くの娘にとっての選択肢は、農業などの家業を手伝うか、家計を支えるために女工になるか、口減らしのために家を出て女中奉公するか、に限られていた。都会では女中の需要はそれなりにあった。…女中奉公は、良家へ嫁ぐための礼儀作法や家事を身に着ける修養の場にもなっていた。『女中訓』…という女中仕事のマニュアル本も多数出ていた。奉公先と円満な関係ができれば、生涯、家族同様の付き合いが続いた例も少なくなかった。」という。「週刊朝日』の昭和史」によると芥川龍之介家の女中は「普通の家の女中の食事は、冷や飯と、漬け物と、残り物であると思っていた私は、このお宅の食事で驚かされた。決して奥と召使は区別されていない。もし冷たいご飯でも残っていると、奥が召し上がる。決して私たち女中にばかり食べさせない。副食物もみな一様であって残り物を食べさせるようなことはない。おやつも女中に必ず奥と同じにくださる。…それにここの奥様には感心したことがある。私が『あの奥様-』と用事のときお呼びしたら、『あら厭だ、奥様だなんて…私、奥さんでたくさんですよ』とおっしゃった。」と語る。
「最上娘は賣られ行く 娼妓ばかりも百六十人 婦人賣買が一種の道徳をなす」〔12.1 山形新報〕は「女の数が男よりずつと多い本県では最上郡ばかりは女が少い、それには理由がある、伝統的に、娘を平気で他県に売り飛ばす風習があるからである。売るのは主に経済上からであらうが、ここいらが新潟県に似たところがある、で目下種々な職業に売られて他府県に居るのが五百八十名もあり其の中娼妓が百六十名あり、府県別にすると左の通りで女の本場新潟県に三十六名も割込んでいるのは最上娘もをかしな所で気を強くするに足るものがある。 △東京四九△新潟三六△京都一…」と報ずる。婦人売買といえば、「吉原へ二ケ月余り“居続け”をしたことが」あるという、歌舞伎の人間国宝、尾上多賀之丞は日本経済新聞の「私の履歴書」で、「襲名披露をする時は…費用の工面に一苦労しました。そこで考えに考えた末、ごひいき筋や高利貸からできるだけの借金をした上、…芸者に出ていた妹の奈良栄を新橋に住み変えをさせて、その住み替え料五百円を費用の一部にあてました。…現在ではそんなことをすると残酷のようですが、当時は貧乏役者の娘はみんな芸者に売られても『ハイハイ』ということを聞いて、文句をいうような者はいませんでした。」と語る。
写真 (丸ビル。「東洋最大の容積を誇ったこのビルは『18年かかるといわれたものを2年半で』実現」し「日本の建設産業の発展におけるエポックメイキングな建物」だったという。写真提供:三菱地所 第7章 丸ビルの建設|130TH ANNIVERSARY|株式会社三菱地所設計
写真 (「銀座の二大デパート、松屋と松坂屋」(左) 出典:『大東京寫眞帖』,[出版者不明],[1930]. 国立国会図書館デジタルコレクション大東京寫眞帖 - 国立国会図書館デジタルコレクションと阪急百貨店をオープンした小林一三(右)出典:小林一三 著『私の行き方』,斗南書院,昭和11. 国立国会図書館デジタルコレクション私の行き方 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
写真 (女中の心得を説く女中訓 出典:羽仁もと子 著『女中訓』,婦人之友社,大正1. 国立国会図書館デジタルコレクション 女中訓 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
写真 (明治時代の吉原。「新吉原遊郭(浅草區)」(左)と「新吉原遊郭(浅草區)出典:『[東京名所写真帖]』,[ ],[明治--].国立国会図書館デジタルコレクション [東京名所写真帖]- 国立国会図書館デジタルコレクション [東京名所写真帖] - 国立国会図書館デジタルコレクション)
(4)教育
 学校生活、官学偏重の是正、試験制度改革など教育関連の話題も多い。
 一般社団法人全国学校給食推進連合会のWebsiteによると「大正12年…文部次官通牒『小学校児童の衛生に関する件』において、児童の栄養改善のための方法としての学校給食が奨励され」ていたというが、「辨当を持たぬ小学生のいぢらしい姿 校長は毎日泣かされて居る とても正視はできない」〔1.9 岩手日報〕は「…村民の食物は小学児童の昼食弁当で大体を察知することが出来るが同村校長は『…三年以上五百五十人中八十九十人はべん当を持たずに来て昼の休み時間は他人の弁当を食べているのを見かねて屋外であそんで居る姿は実際可愛想です。べん当を持つてきても夫々他人に見られるのがいやで新聞紙の中に顔を埋づめる様にして時々周囲の眼を見渡しながらマルデ盗んだものでもたべてる風にして居り会食の教員も涙なくして見られぬといつて居ります…」、また「先生も泣かされる兒童のカラのお辨当 吹きまくる寒風…不景氣風 霜枯月に泣く細民のこの頃」〔2.1 東朝〕は「又二ツ八の霜枯れ月がやつてきた世は諒闇のさびしさでどこもかしこも八方ふさがり、身を刺すような不景気風が街頭に打ちふるへる失業者の飢饉を面悪くも吹きまくる、…大抵小学児童など満足な下駄をはいているものがなく、大概片ちんばのものをはき、この寒空に単衣を重ね、お楽しみの弁当箱も体裁だけで空のが多くこんなことにはよくなれている先生達が思はず泣かされる様なことも一再ではないとのことである…」。
 学校についても弁当の記事が目立つが、「食」と言えば、財団法人 味の素食の文化センターの「講座食の文化 日本の食事文化」による昭和2年2月号の「婦人之友」2月号の「昭和2年の1日の献立」では「朝 ご飯…みそ汁…ひじき煮…あちゃら漬…京菜漬…昼 ご飯…高野豆腐・ゆば…しいたけ煮物…ねぎとあさり…味噌煮 夕 ハムライス…大根切干煮…すまし汁…佃煮 梅干し 間 みかん ヌガー」とあり、「…これが当時の―おそらく手の届きそうな―理想的な献立であって、同誌の読者の半分もこれを食卓にのぼらせることはできないだろう。」という。新聞広告を見ると、「硝子聖食卓容器詰 味の素新発売(五萬打限り)一面ぶち抜き〔東朝1.3、2.12〕、「全國著名なる菓子店に於て 景品付売出開始 明治チヨコレート 品質宣伝発売披露のため 十銭○一個御買上の方に 明治五色カルミン一個贈呈」〔東朝4.5〕、「滋味!清鮮 日魯の冷凍生鮭 塩鮭は 今が最もおいしく頂ける季節で御座います。 …日魯漁業株式会社…」〔東朝4.17〕、「エビス サッポロ アサヒビール 清涼飲料 リボン式 シトロン ラズベリー タンサン 新製品 ナポリン 大日本麦酒株式會社」(一面ぶち抜き)〔東朝4.17〕、「四季好適の滋強飲料 カルピス 春が来た カスピスよ 野に行け 山に行け 佳き人の舌に踊れ」〔東朝4.20〕、中元には「中元暑中御贈答用 絶対に防腐剤を含まず特製 月桂冠瓶詰…発売元 株式会社明治屋」〔東朝7.2〕、「森永の中元御贈答品…森永製菓」〔東朝7.6]、『お中元に天下一品 キッコーマン醤油」〔東朝7.6〕、「中元暑中御贈答最適品一打入半打入 化粧函。…キリンビール」〔東朝7.8〕。更に御歳暮には「歳末年始、御贈答用好適品 ヒゲタ醤油 宮内庁御用達 銚子醤油株式會社」(東朝12.6〕、「御贈答用 明治ソフトビスケット…明治製菓株式会社」(東朝12.10〕、「年末年始のご進物に味の素大もての贈答品 化粧函入 味の素」〔東朝12.11}、「エビスビール 年末年始御贈答品 清涼飲料リボンシトロン…」〔東朝12.16〕と今でもお馴染みの食品が結構ある。
 「三菱王國が率先 學校出の差別撤廃 試験地獄の眞因を見きはめ 官學に對する迷信を打破すべく 岩崎小彌太男の發意」〔5.31 東日〕は「高等学校入学試験問題漏洩事件は近来にない学会の不詳事として世人の耳目を衝動した…そもそもその大きな原因の一つは、世間が専門学校出より大学出、同じ大学出でも私立より官立出を高く買ふにある、お役所をはじめ三井、三菱その他諸会社でも学校卒業生採用には帝大幾人、慶、早大幾人、その他は幾人と画然区別を立てて調子をおとしてゆく、従つて年若き受験生は官学へ官学へと志す、当然の結果として入学難が起こる、自殺、厭世、試験問題買収といふが如き不祥事が相次いで起る。この時に当たり毎年多数の学校出を採用している、三菱王国の御大岩崎小彌太男は『これは世間が悪い』との見解からまづ自ら率先して三菱王国の学校閥的弊風を一掃する事にした。」、「官私を問はず俸給を均等 家屋敷まで賣つてに入学させるは無駄 堤三菱人事課長談」は「…丸の内三菱合資会社人事課長堤長述氏は語る『…第一弾として従来帝大八十円、慶大、早大七十円、その他の大学専門学校六十円であつたのを昨年は帝慶早は七十五円その他は六十五円としました、…明年から各大学専門学校を通じて初給七十円とする事にしました。…来年からは帝大出でも見習ひ期間一年たつて成績が悪ければ給料はグツと下げますし専門出でも、よければ一度に八十円でも九十円にでも上げます。…世間の人達も是非変わつてほしい、さうしないと本当の立派な人間は出来ません、幾ら大学を出ても就職難の今日です、家屋敷まで売つて子供を大学に入れるなどと云ふやうな無駄な考へも自然なくなるでせう』」の記事。
なりたい職業。「『先生』の希望が圧倒的 東京の子供の職業調査」〔6.23 中央〕は「十一二歳になると大概な小供は、乃木大将だの天皇陛下だのと無茶なことは言はないで相当理窟の合つた身分相応な希望を語るものだ、まして女の子になると男の子より大変マセてる故か、可なり生意気な欲望をのべるのが普通だ、東京市の社会局が市内十五区小学校の四,五,六年の女生徒一万千百八十一名について綿密に調べ上げた数字を見ると、流石に女は女らしい色合がありありと見える。 偉人 七、九四五 先生 一、九一九 商人四四九、裁縫士二八二、人妻二八一、学者二五七…」の記事。「偉人」、「人妻」とはどういう職業かなどと思う。
 「試験地獄から浮かび上がる學生連 試驗制度改正草案 きのふ文部省議で決定」〔9.8 時事〕は「中学校、高等学校及専門学校の入学試験制度改正に関する文部省々議は前日に引き続き七日午後一時より文相官邸にて開かれ、水野文相、山崎政務次官項粟屋次官、安藤参与官…等出席し協議決定して午後五時半散会したが文部省原案としての大綱は左の如くである。改正の目的及び趣旨 …過酷なる受験準備より生ずる弊害を除去するため入学試験制度の改正は最も主要である。中学校試験改正 イ、原則として入学試験を施行せざること、…高校試験改正 イ、現行二班制度を廃止し試験期日は全国同一日とすること…」。当時の新聞広告には、「新学期四月十二日 午前、午後、夜間高等受験科 駿台高等豫備學校」〔東朝4.3〕、「受験界 昭和弐年入学試験全問題解釈集…博文館」〔東朝4.17〕と受験関係の広告。
 教育内容。「算術はメートル法に 新味溢れる教科書 殊に歴史は男女青年團を目安 改訂の方針決まる」〔10.17 國民〕は「大正天皇の崩御今上天皇践祚、長慶天皇御歴代御加列など歴史上特筆する事項があつたところから小学国定教科書中の歴史教科書は尋常、高等の全部に亙つて来年度より改訂せられる事となり、文部省図書局ではこの改訂方法を審議計画中であつたが、いよいよ改訂方針が立つたのでこの際前記歴史以外修身、地理理科、算術、国語の各部に亙つて一部改訂或いは挿入が行はれることになつた、それは高等小学二年用国語読本尋常一年から三年までの修身書高等一年及び尋常六年用の算術書、高等二年用の理科並びに地理教科書等で算術書はメートル法に改めたこと、…」。
 ところで、「昭和時代 戦前・戦中期」によると昭和初期、映画は「娯楽の王様」だったといい、俳優の長谷川一夫は「映画の台頭期で、作品がふえますにつれ、スターが不足し、そのスターを歌舞伎の若手の中から発掘しようとしていたのです。」と日本経済新聞の「私の履歴書」で語る。映画スターの人気ぶりについては、荷風の日記をみても、昭和2年「十二月廿三日 朝来微雨…夕餉の後壺中庵を訪ひお歌のすすむるがままに愛宕下の年の市を歩む、押絵羽子板に男女活動写真の役者似絵を細工したるもの少なからず、見物の人気は歌舞伎役者の似顔よりも却って此方盛なるが如し、当今の世はカツフエーの女給藝妓と嬌名を競ふ有様なれば、活動写真の似顔羽子板歌舞伎役者を圧倒するも敢て怪しむに及ばざるなり…」と記す。そんな映画だが、「少年少女の映畫見物 近く法律で禁止か 『見せぬが好い』との意見全國的と見て 力み出した文部省」〔10.28 國民〕は「活動写真が教育上に及ぼす影響は極めて甚大であるにも拘わらず、今までこの事に関しては当局者も積極的の態度に出づる事なく幾分放任の気味であつが、今度文部省では愈々根本的に対策を講ずる事となり…『児童生徒(主として中学諸学校)に対しては普通興行映画中教育上適当と認められるものの外は鑑賞せしめざること』といふに決定した、全く断乎たる態度に出たものであるが…しかし何しろ現在活動写真の見物人の大多数が少年少女である関係上右諮問案が実施されることは当業者にとつては大問題で相当波紋を描くものと見られるが…」との記事。
 三菱に続き官庁も出身大学による差別廃止。「私學出もお役人に 門戸を開く内務省 官界多年の情弊を排して 明春から募集する」〔11.16 國民〕は「従来官界は官学出身者に依つて独占され、官学万能の非難を聞くことが久しかつた処が今回内務省が明年度大学新卒業生を採用するに当り私学にも始めて官学と同様の取り扱いを為すことになり、私学出身者に一大福音をもたらされることになつた、即ち内務省は毎年五十名宛の新卒業生を採用するが、その採用者は何れも帝大出身者で私学出身は特別の紹介ある者以外は全然採用せぬ方針であつたが、今回はこの方針を一変して成績優秀にして思想堅固なる者は学校の官私を問はず人物本位で詮衡するに決し…なほこれは内務省が他省に率先して多年の情弊たる官学尊重を打破し機会均等門戸開放の原則を確立したもので近来の一大英断とせられている。」。
 文部省の試験改正案を受けた学校側の対応。「中等學校へ進む 關門はただ口頭試問 小學校長會小委員會での成案」〔12.7 東日〕は、「水野文相一代の試験地獄救済策が発表され…それが果たしてどこまで効目を持つかはまだ文部省当局をはじめと各方面の関係者の間にも大きな疑問となつている、東京府市の…『小学校長会』も…文部省案の発表以来一にその根本方針に待つ事となつて各種の準備的会合を開き…小学校側の立場から見た運用策について大体の成案を得来る八日に…最後の決定を見ることになつている。…一、東京府立各中等学校の入学考査は中学校当局者の總合考査にする事、一、口頭試験のみを採用する事、一、小学校長の内申は中等学校長の希望があれば各小学校における入学希望者全部の成績を表にして内申すること 右のような決定を見たのも高等学校の入学選抜試験においての制度改革と比較すると中等学校入学試験制度が疑義も多く殊に内申といふややもすれば弊害が伴ひやすい制度に改革されたためである。…日比谷小学校長の中澤留氏は語る ただ問題になるのは内申をどういふ風にするかといふことです、…内申について故意に一番の成績の者を五人も六人も作るといふ様な情実関係の出来ないように一小学校における中等学校入学希望者全部の成績表を中等学校からの要求があれば提出すといふことも一つの良法かと思つています…」。
 近頃、女学校で流行るもの。「女學生のブロマイド病 モダン俳優の寫真を教科書に秘めて 密かに眺める彼女たち 取締まれぬ女學生の映画畫通ひ」〔12.10 大朝〕は「女学生のブロマイド熱…映画俳優のブロマイドを熱愛する最近女学生間の変態的流行は恐ろしい勢ひで…都会の学校から田舎の学校へと伝播し今ではほどんど全国的の流行となり心ある老教師たちを戦慄せしめている、中学校においては全然常設館ゆきを禁止し…女学校では父兄同伴ならまづ差し支へないことになつているが、いづれにしても映画時代といふ時勢の流れのままに変態的プロマイド病にまで進むといふことは修学中の女学生にとつて映画に対する範囲を一歩乗越したものであることで教育者たちは頗る狼狽している、…」。
 次回は、社会一般の続きから。
写真 (1926年発売され、1927年にパッケージがリニューアルされた明治ミルクチョコレート 提供:株式会社 明治 99周年 時をかけるチョコレート。)
写真 (「1919年 7月 酸乳をベースにしたわが国初めての乳酸菌飲料「カルピス」を発売」(左)「1922年 4月「初恋の味」のキャッチフレーズを初めて新聞広告に使用」(右) 提供:アサヒ飲料(株)「カルピス」の歴史 | 「カルピス」を知る | カラダにピース 「カルピス」)
写真 (「我が國の最高学府・帝国大学」 出典:『大東京寫眞帖』,[出版者不明],[1930]. 国立国会図書館デジタルコレクション 大東京寫眞帖 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
写真 (当時のブロマイド。出典:『世界映画俳優ブロマイドカタログ』,キネマ同好会,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション 世界映画俳優ブロマイドカタログ - 国立国会図書館デジタルコレクション)

(主な参考文献)
「断腸亭日乗(二)大正十五‐昭和三年〔全9冊〕」、永井荷風、校注中島国彦、多田蔵人、株式会社岩波書店、2024年
「『国宝』級の熱狂、消費脈打つ 25年ヒット商品番付」日本経済新聞 12月10日朝刊、2面
「新聞集成 昭和史の証言Ⅰ」、編集委員入江徳郎、古谷綱正、山崎英佑、故高木健夫、本邦書籍株式会社、1983年
日本映画事業総覧 昭和5年版 - 国立国会図書館デジタルコレクション
「朝日新聞〈復刻版〉大正編174 大正15(昭和元)年12月」~「昭和2年12月」、高野義男、日本図書センター、2008年
「昭和時代 戦前・戦中期」、読売新聞昭和時代プロジェクト、中央
公論社、2014年
日本新聞広告史 - 国立国会図書館デジタルコレクション
菊池寛|近代日本人の肖像 | 国立国会図書館
「私の履歴書 文化人13」、日本経済新聞社、1984年
宝塚グラフ - 国立国会図書館デジタルコレクション
「私の履歴書 文化人12」、日本経済新聞社、1984年
映画五十年史 新版 - 国立国会図書館デジタルコレクション
協会からのお知らせ - 日本相撲協会公式サイト
「所作・装束 すべて文化 相撲協会100年」、2026年12月28日 讀賣新聞朝刊17面
「私の履歴書 第38集」、日本経済新聞社、1969年
囲碁の歴史 | 囲碁学習・普及活動 | 囲碁の日本棋院
源氏物語絵巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション
「私の履歴書 第11集」、日本経済新聞社編、1969年
新聞聯合写真ニュース 1937年5月 - 国立国会図書館デジタルコレクション
「私の履歴書 第5集」、日本経済新聞社編、1969年
大東京寫眞帖 - 国立国会図書館デジタルコレクション
「私の履歴書 文化人3」、日本経済新聞社、1984年
幕末・明治・大正回顧八十年史 第2輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション
近世名士写真 其1 - 国立国会図書館デジタルコレクション
松方コレクション|国立西洋美術館
第7章 丸ビルの建設|130TH ANNIVERSARY|株式会社三菱地所設計
私の行き方 - 国立国会図書館デジタルコレクション
阪急百貨店会社設立まで│阪急阪神百貨店のあゆみ│株式会社阪急阪神百貨店
「私の履歴書 第13集」、日本経済新聞社、1964年
「昭和初年~10年代 『週刊朝日』の昭和史 事件人物世相 第一巻」、出版局プロジェクト室編、朝日新聞社、1990年
女中訓 - 国立国会図書館デジタルコレクション
[東京名所写真帖] - 国立国会図書館デジタルコレクション
学校給食の歴史|学校給食について|全国学校給食推進連合会
「講座食の文化 日本の食事文化」、監修石毛直道、責任編集 熊倉功夫、財団法人 味の素食の文化センター、1999年
ミルクチョコレート/板チョコトリオ
「カルピス」の歴史 | 「カルピス」を知る | カラダにピース 「カルピス」
世界映画俳優ブロマイドカタログ - 国立国会図書館デジタルコレクション