フィナンシャル・レビュー「労働市場の現状と課題」の見所
責任編集者 宮本弘曉先生に聞く
財務総合政策研究所 総務研究部 主任研究官 片野 幹
財務総合政策研究所 総務研究部 研究員 岸本 翔太
[プロフィール]
宮本 弘曉
財務総合政策研究所 総務研究部
総括主任研究官
慶應義塾大学経済学部卒業後、ウィスコンシン大学マディソン校にて博士号(経済学)を取得。国際大学大学院、東京大学公共政策大学院で教鞭をとったのち、国際通貨基金(IMF)のエコノミストを務める。帰国後は東京都立大学経済経営学部教授、一橋大学経済研究所教授を経て、2024年より現職。主な研究分野はマクロ経済学、労働経済学、日本経済論。
1.宮本先生の経歴と、本特集号を企画・編集するにあたっての動機や問題意識
本特集号では、宮本先生の御専門である労働経済学の観点から、御自身の研究も含め、様々な課題についての論文を掲載していただきました。宮本先生は、大学のみならず、国際機関や政府系機関などでも活躍されていますが、まずは、労働経済学を専門として研究者の道に進まれた経緯についてお伺いしてもよろしいでしょうか。
まず、このような貴重な機会をいただき、誠にありがとうございます。
私が労働経済学を専門にしようと思ったのは、恩師の影響です。私は慶應義塾大学経済学部の出身で、学生時代から今も変わらず御指導をいただいている恩師の島田晴雄先生が労働経済学を専門にされていました。その先生に憧れ、経済学者を志すようになったことが出発点です。
労働経済学を学んでみて感じたのは、この分野が非常に幅広い領域にまたがっているということです。
島田先生は「すべての道はローマに通ず」にならって、「すべての道は労働に通ず」とおっしゃっていました。たとえば、金融政策や財政政策は労働経済学の分野ではないと思われがちですが、米国の連邦準備制度(FRB)の目的は「物価の安定」と「雇用の最大化」という二本柱です。つまり、金融政策を論じるうえでも雇用は不可欠な要素と位置づけられています。
財政政策についても同様で、ケインズが景気刺激策を提唱した背景には「失業をなくしたい」という思いがありました。金融・財政いずれの政策をとってみても、その根底には「人が働く」という営みが存在するのです。そうした意味で、労働経済学は経済全体を貫く基盤的な学問だと思います。
もうひとつ、労働経済学の魅力は、データの背後に常に「人々の生活」があることです。私がこの分野を学び始めた頃、日本の失業率は約5%、失業者数が350万人を超えていました。これは当時の横浜市(日本で一番人口が多い市区町村)の人口に匹敵する数です。失業というのは、単なる統計上の変数ではなく、一人ひとりの尊厳や家庭の生活、精神的な安定にも関わる問題です。仕事とは、まさに人生の土台であり、社会とのつながりでもあります。そうした「人間の営み」を経済データの背後から見つめられるのが、労働経済学の面白さだと感じています。この視点はIMFに勤務していた際にも強く意識しました。赴任初日のガイダンスで「私たちが扱う数字の裏には人の人生がある。それを預かるつもりで経済政策を設計しなければならない」と言われたのです。その言葉は今も心に残っていますし、自分が労働経済学を専門としてきた理由と深く通じるものがあると感じています。
学部時代から博士時代にかけて、興味分野が変わっていくことは少なくないかと思いますが、やはり一貫して労働経済学に御関心がおありでしたのでしょうか。また、博士課程に在籍されていた当時、アメリカの経済学者から見て、日本の労働市場は研究対象として魅力的でしたのでしょうか。
軸としては、これまで一貫して労働や雇用に関心を持ってきました。ただ、研究のアプローチ自体は常にオープンで、特定の枠にとらわれないよう心がけてきました。例えば、途中から財政政策の研究にも取り組みましたが、実はそれも根底ではつながっていると思います。留学中や研究生活を送るなかでも、あまり自分で枠を決めずに、オープンに物事を見るようにしていました。
日本の労働市場は、欧米とは異なる制度や慣行を持つ、非常にユニークな構造をしています。だからこそ、その仕組みを分析し、理論やデータに基づいて理解することは、日本経済の課題を考えるうえで極めて重要であると思います。国際比較の観点からも、日本の事例を取り入れることで、労働市場制度の多様性をより立体的に理解することができます。
私自身の専門は「マクロ労働経済学」です。労働経済学には大きく分けて、個人や企業行動を扱うミクロ的な分析と、景気循環上の雇用や失業の動きなど、経済全体の動きを扱うマクロ的な分析の2つがあります。日本ではどちらかというとミクロ労働経済学の研究が盛んで、現在でも非常に重要な分野として発展しています。一方、アメリカではマクロとミクロの両方が重視され、特に雇用や失業といったテーマは労働経済学というよりマクロ経済学の中心的課題として位置づけられています。マクロ労働経済学は政策との距離が近く、実際の経済運営に直結する分野でもあります。私が博士課程でこの分野に進んだ当時、日本ではまだ研究者が少なかったのですが、アメリカではすでに確立されたメジャーなフィールドでした。そのため、アメリカでの研究生活では自然に自分の関心が受け入れられる環境にありました。最近では、日本でもマクロ労働経済学を専門とする研究者が増えてきており、この流れは喜ばしいと思っています。
これまでどのようなフィールドで、先生の専門性を活かしてこられたのでしょうか。
最近の例で言えば、財務総合政策研究所(財務総研)に在籍している御縁もあり、昨年、G7の財務大臣会合への報告書を作成するためのハイレベル専門家パネル*1に参加させていただきました。このパネルは生成AIの登場を受けて、AIが生産活動、雇用、さらには社会全体に与える影響を検証するために設置され、2024年12月に報告書を提出しました。パネルのメンバーには、2025年にノーベル経済学賞を受賞した仏コレージュ・ド・フランスのフィリップ・アギヨン教授もいます。
会合では、AIの技術的な側面だけでなく、経済・労働市場への影響を専門家チームで分析し、報告書としてとりまとめました。こうした新しい政策課題に関して議論する場に携われること、そしてその成果が政策運営に生かされることは、労働経済学の専門性を活かす大きな機会であると感じています。
また、エビデンスに基づく政策立案の専門家会合*2にも参加しています。必ずしも自分の専門分野そのものを扱うわけではありませんが、これまでのデータ分析に携わってきた経験や経済学的な思考が、実際の政策形成に貢献できる場面が多くあります。こうしたかたちで専門的な知見を社会に還元できるのは、非常にありがたいことです。
さらに、IMFに勤務していた際には、最初に携わったプロジェクトがジェンダーに関わるものでした。当時、IMFでは、気候変動やジェンダーなど、これまで十分に扱ってこなかった新たなテーマにも積極的に取り組み始めており、私は財政政策とジェンダー平等の関係を分析するプロジェクトに参加しました。
ジェンダーの問題は、雇用や労働参加と密接に関わっており、労働経済学の知見を応用する格好のテーマでした。これまで培ってきた分析手法や視点を国際機関の政策研究に活かすことができたことは、非常に貴重な経験であったと思います。
先生は国際機関や研究機関、大学といった多様な現場を行き来されていますが、これは意識的にそうされているのか、それとも、偶然の御縁の積み重ねによるものなのでしょうか。
研究者としてのキャリアをスタートさせ、博士号を取得して日本に帰国した後、最初に勤めたのは国際大学でした。そこに在籍していた学生の多くは、一般的な大学院生ではなく、アジアやアフリカの行政官で、財務省や中央銀行などの若手職員でした。彼らに経済学を教えるうちに、「現場の実情を知らずに理論を語ることに、どれほど説得力があるのだろうか」、また、「理論と現実をどう架橋するか」と考えるようになりました。
その後、東京大学公共政策大学院に移りました。その際、私を誘ってくださった伊藤隆敏先生から、「経済政策を本気で考えるなら、国際機関や政策の現場を経験すべきだ」と強く勧められました。「行政官の方々がどのような環境で働き、どのような思いで政策をつくっているのかを知らずに、政策論を語ることはできない」という伊藤先生の言葉は、私にとって大きな転機になりました。こうした経緯から、IMFで働くことは自分にとって自然な流れでした。現場を経験したいという思いが強まっていた時期に、ちょうどその機会を得ることができたのです。ありがたい話です。
日本に戻ってからしばらくして、財務総研の方々とのお付き合いの機会もあり、現在のポストで働いております。政策の現場で日々働く方々と接していると、どこに問題意識があるのか、どのような論点をアカデミアに期待しているのかがよく見えてきます。一方で、アカデミアがそうした現場の問いに十分に応えられていない部分も少なくありません。であるからこそ、研究者にとっても現場を知ることは非常に有意義であると思います。特に若い研究者の方々には、是非、政策の現場を経験して欲しいと思います。
本特集号では、労働市場の流動化が雇用・賃金・生産性に与える影響の分析に始まり、日本の労働市場を多角的に分析されていました。編纂にあたっての問題意識や、多様な論点をまとめる上で意識したポイントがあればお聞かせください。
1つは、先ほども申し上げたように、「雇用は常に経済問題の中心にある」という意識です。日本の雇用や働き方、あるいは雇い方、そして労働市場全体が、いままさに、大きな転換期を迎えていると感じています。
経済学では、「雇用は生産の派生需要である」という考え方があります。これは、生産があって初めて雇用が生まれる、という考え方です。一般的には、「人が働くからモノが生まれる」と思われがちですが、経済学ではその逆で、生産活動がまずあり、その需要に応じて雇用が決まる、という順序になります。景気が悪くなれば残業時間が減り、景気が良くなればパートを増やす─こうした変化も、生産の動きに応じて雇用が調整されていることの表れです。
私は、まさにこの生産構造の変化が日本経済の根幹で起きていると考えています。人口減少や高齢化、外国人労働者の増加といった人口構造の変化、生成AIの登場やデジタル化といった技術革新の進展、さらには気候変動対策としてのグリーン化など、様々な要因が複合的に作用して、経済社会構造そのものが変わりつつあります。それに伴い、当然ながら、雇用のあり方もまた変化を迫られており、変わらざるを得ない局面に来ていると言えるでしょう。
そうした大きなトレンドを踏まえたとき、日本の労働市場で何が起こっているのか、そして今後どうすべきかを検討するには、多角的な視点からの議論が必要になります。今回の特集号では、まさにそのような視点から、各分野の第一線で活躍されている研究者の方々に御執筆をお願いしました。
また、この特集をフィナンシャル・レビューという財務総研の機関誌で企画できたことにも大きな意義を感じています。フィナンシャル・レビューはこれまで、財政政策や税制などを中心に重要なテーマを扱ってきました。しかし、労働の問題は本質的に財政政策やマクロ経済運営と深く結びついており、切り離して論じることはできません。そうした観点から、労働市場を特集する今回の試みは大きな意味を持つと感じています。
2.「労働市場の流動性」について
本特集号の中で、特に工藤・宮本論文では、労働市場の流動性に着目し、解雇制限を組み込んだマクロモデルを用いて労働市場を分析している点が印象的でした。マクロ経済学の観点から、解雇制限のあり方が労働生産性や経済成長に与える影響についてはどのように分析されたのでしょうか。
日本政府は、現在「活発な労働移動の促進」を重要な政策課題として掲げています*3。私自身、この方向性には賛成です。労働移動を促す、つまり労働市場の流動性を高めることには、個別の企業が雇用調整をどのように行うのかというミクロの視点だけではなく、それを超えて、経済全体がどのような姿になるのかというマクロの視点から大きな意味があります。そこをもう少し理論的に掘り下げてみたいということが、本研究のモチベーションです。
また、足もとの日本経済では、物価が上昇しているにもかかわらず、賃金がそれに追いついていない状況が続いています。政府が掲げる「持続的な賃上げ」を実現するためには、経済学的に言えば、賃金の基礎となる生産性の向上が欠かせません。したがって、持続的な賃上げを実現するには、生産性の向上、ひいては経済成長の実現が必要です。
その観点からみても、労働市場の流動性が高まることは、極めて重要です。経済全体を見れば、衰退していく産業や企業がある一方で、新たに成長する産業や企業も必ず現れます。重要なのは、こうした経済の新陳代謝がどれだけ円滑に働くかという点です。つまり、ヒト・モノ・カネといった経済資源が、衰退部門から成長部門へどれだけスムーズに移動できるかが鍵となります。労働市場の流動性が高ければ、人材の再配置が進み、結果としてマクロ全体の生産性向上につながります。生産性が上がれば、持続的な賃上げも可能になる。こうした好循環を生み出す鍵が、まさに労働市場の流動性なのです。
ただし、こうしたメカニズムを理論的かつ数量的に分析した研究は、これまで多くはありませんでした。そこで、我々はマクロ労働経済学で標準的に用いられている「サーチ・マッチングモデル(Search-Matching Model)」をベースに、解雇制限を明示的に組み込んだモデルを構築しました。従来のサーチモデルでは、雇用の創出やマッチングのプロセスは描けても、解雇制限を十分に反映できていませんでした。そこで、工藤先生と協働し、理論的にその部分を組み入れた新しい枠組みをつくった、ということが今回の論文の特徴です。
解雇制限については、アメリカや欧州ではどのような議論があり、どのような研究が行われているのでしょうか。
国ごとに事情は異なります。アメリカでは解雇規制があまり強くなく、一方でヨーロッパは一般に解雇規制が強い国が多く、その影響を分析する研究は以前から存在します。マクロ経済の観点で注目されるのは、解雇規制を強めると労働者の保護にはつながる一方で、新規雇用が抑制される側面があるという点です。解雇が難しくなると企業は将来の不確実性を踏まえて採用に慎重になります。ビジネスの先行きは常に不確実で、今は好調でも将来はどうなるか分からない。景気が悪化したら人手を減らさざるを得ないかもしれない、という状況の下では、採用時に「将来、必要に応じて解雇できるかどうか」が企業の意思決定に大きく影響します。理論的には、解雇規制が強いほど新規雇用が減少するという結論が導かれます。
日本の文脈でみると、この問題は非正規雇用の拡大と関連している可能性があります。正社員は一度雇うと解雇しにくい─そのため企業は正社員採用を控え、解雇が相対的に容易な非正規雇用を増やす選択をする。もちろん、非正規雇用の拡大には他にもさまざまな要因が指摘されていますが、解雇に関するルールのあり方が一因であることは否定できません。日本で問題なのは、解雇に関するルールが明確でないことだと思います。いつ、どのような場合に解雇が許されるのかが不透明であることが、企業の採用行動に大きく影響している─そこが最も重要なポイントではないかと感じています。
解雇がしにくいことは、低い失業率の実現に役立つ側面を持つ一方、新卒一括採用などの雇用慣行と相まって、労働市場のミスマッチの解消を妨げている側面もあるのでしょうか。
私が申し上げている「労働市場の流動化」とは、決して解雇をしやすくするという意味ではなく、むしろ、労働者が別の会社に移りたいと思ったとき、あるいは企業が別の人材を採用したいと考えたときに、それがスムーズにできる自由度を高めましょう、という趣旨です。
たまたま新卒で入った会社との相性が良く、本人もその仕事が好きで、会社もそれを正当に評価してくれるなら、そのまま働き続けるのは幸せなことです。ただ、実際には、企業に入ってみたら想像と違ったというケースもあります。それは労働者だけでなく、企業側にも起こり得ます。たとえば、優秀だと思って採用したものの、実際には仕事とマッチしていなかったということもあるでしょう。
そのようなときに、双方にとって不利益にならずに関係を見直せる仕組み─つまりミスマッチを解消できる余地を用意しておくことが大切です。「労働市場の流動化」とは、まさにそのための環境を整えることであり、単に解雇をしやすくすることを目的とするものでありません。むしろ、企業と労働者の双方にとって柔軟で、健全に人材が循環する労働市場を実現することが重要なのです。
片桐論文では結びとして、「マクロモデルから得られる分析結果は、それだけで政策変更を行う際の指針となるものではなく、他の様々な要素と併せて考えるべき判断材料の一つである。」と述べられていました。解雇規制のあり方を考える上で、マクロ経済学的な視点以外に考慮されたいポイントがあればお聞かせください。
片桐先生の御指摘はごもっともであると思います。理論的に正しい方向性が示されていても、実際に制度を変えるとなれば、必ず摩擦や調整コストが生じます。そのため、制度設計にあたっては、現実の経済状況や雇用の実態を踏まえることが不可欠です。
日本の解雇規制を考える場合、法制度だけでなく、年功序列型賃金や終身雇用といった長年の雇用慣行の影響も見逃せません。
これらの慣行は、かつての日本経済においては、企業と労働者の双方にとって合理的な仕組みとして機能してきました。終身雇用によって企業は熟練した人材を長期的に育成でき、年功的な賃金体系によって従業員の忠誠心やモチベーションを維持することができた。この安定的な雇用関係が、高度成長期の日本経済を支えたのです。しかし、社会や産業構造の変化とともに、その役割が変わりつつあります。かつて成長を支えた制度が、いまや企業の柔軟な人員配置や新陳代謝を妨げる要因になりかねない、そうした構造変化が起きているのです。長年の雇用慣行がどのように企業行動や労働者の期待形成に影響しているのかを理解したうえで、現実的な制度設計を考える必要があります。
また、解雇規制は法律と密接に関連するため、法学的な視点も欠かせません。経済学者と法学者では解釈や着眼点が異なることも多く、両者の対話を通じて現実に即した制度設計を検討する必要があります。
こうした意味で、解雇規制のあり方を考える際には、マクロ経済学的視点だけでなく、現場での実態、社会的慣行、法制度といった複数の視点を総合的に考慮することが重要であると思います。
3.財政と労働市場の関係性
FR通巻120号(2014年9月)に宮本先生が寄稿された『財政政策が労働市場に与える影響について』という論文では、労働市場と財政政策との関係性についても論じられていました。その後、コロナ禍を契機として、雇用調整助成金などの労働市場に直接関わる財政出動といった歳出圧力が強まると同時に、少子高齢化の進展により社会保障制度の支え手が減少しています。このような観点から、今後、我が国の労働市場を支えるために望ましい財政政策はどのようなものになるとお考えでしょうか。
基本的には、制度や政策は働き方に中立的であるべきだと思います。これは、先ほどお話しした労働市場の流動性を高めることにもつながります。
例えば、これまでの日本では終身雇用や年功序列型賃金といった慣行を支えるため、長期継続勤務の場合の退職金の優遇税制など、企業に長く勤めることを促す制度が存在してきました。しかし、働き方が多様化する今の時代では、こうした制度が逆に労働移動の妨げになる場合があります。同じ企業に長くいると税制優遇を受けられる一方で、転職すると損をするとなれば、人々は転職をためらうかもしれません。こうした制度については、人々がどのような働き方を選んでも公平になるように見直す必要があります。
また、雇用調整助成金のような政策については、コロナ禍などで一定の役割を果たしましたが、今後の労働市場を考えると、環境が変化する中で、企業に従来の雇用を厳格に守ることを促すかたちの給付金は必ずしも必要ではないと考えます。重要なことは、仮に企業がなくなったとしても労働者が次の職に移れるようなセーフティネットを十分に整えることです。いわば、労働市場の中で労働者を守る仕組みを作ることが重要で、企業に依存する仕組みはうまく機能しなくなるでしょう。
こうした観点から、財政政策も、雇用者が労働者を保護するかたちから労働者支援型にシフトし、働き方の多様化や労働市場の流動性を促進する方向で設計されることが望ましいと考えます。
逆に、環境が変化する中で、望ましい労働市場のあり方はどのようなものになるとお考えでしょうか。
高齢者の方々に労働市場で活躍いただくことが重要ではないかと思います。日本で財政赤字が拡大してきた背景には、働く人と支えられる人のバランスが崩れてきたという構造的な問題があります。そのため、意欲あるシニア─あえて高齢者とは呼びません─が適職を選び、就業しやすくなるような制度・環境・条件を整え、就業を促進することが重要です。私はこれを「長寿雇用戦略」、英語で「Senior Employment Creation(SEC)」と呼んでいます。シニアがさまざまな形で社会活動に参加し、生産的に貢献できる社会へと再設計すれば、依存人口と稼得人口のバランスは大きく変わります。シニアを「支えられる側」から「支える側」へと転換することは、社会保障の持続可能性にも大きく寄与すると考えられます。
私がIMF時代に行った研究では、高齢化が進むと財政政策の有効性(財政乗数)が低下する傾向が明らかになりました。ただし、問題は高齢者が増えること自体ではなく、働く人が減ることです。高齢者が働き続ければ、財政政策の効果も維持されます。つまり、高齢化社会でも、高齢者の労働参加を促すことが財政を支えることにつながります。
さらに、日本の高齢者は働く意欲が高く、内閣府の調査では、70歳以上でも働きたい方が8割、健康であればいつまでも働きたいと思っている方が4割もいます*4。こうした方々の経験や人的ネットワークは若い世代とは異なる価値があり、社会や経済にとって大きな資源となります。こうした、高齢者世代─改め「ヴィンテージ世代」の力をいかに活用するかが、今後の日本経済と財政を支える鍵になると考えています。
高齢者の労働参画という観点では、地域での紐帯が薄くなってきている現代において、社会と関わる場を持ち続けることにもつながるかもしれません。
そのとおりだと思います。その点では、年配の方々のみならず、女性やその他多様な人々が多様な働き方ができるような労働市場を作ることが重要ですし、それがひいては財政を支えることにもつながると思います。
4.今後注目していきたい研究テーマやトピック
本特集号では、玄田論文において高齢者雇用の実態把握の重要性について指摘されるなど、我が国の労働市場を分析するための新しい視座が提供されていると感じました。これらの研究も踏まえ、日本の労働市場に関する研究について、今後注目していきたいトピックは何でしょうか。
玄田先生に高齢者雇用の実態について御執筆いただいたことは、今回の特集の大きなハイライトであったと思います。日本では人口構造が大きく変化し、寿命も延びています。そうした中で、高齢者の方々がどのように働いているのか、特に70歳以上の層については、これまで十分にデータ分析が行われてきませんでした。その実態に実証的な光を当てたことは、学術的にも政策的にも非常に意義深いものです。今後も高齢者の働き方や就業実態の把握は、重要な研究テーマの1つになるでしょう。
AIの影響も重要なテーマです。AIやロボットの進歩が雇用や働き方にどう影響するのかは、まだ十分に解明されていません。海外では研究が進みつつありますが、日本ではまだ途上です。たとえば東京大学の研究チームがタクシー運転手向けの需要予測AI(「お客様探索ナビ」等)を用いた実証を行ったり、森川正之先生が日本の職場でAIがどの程度広がり、日本経済に影響を及ぼしているのかを独自に調査されたり*5、深尾京司先生らが、各職業がどの程度AIやロボットに置き換えられやすいかを分析されたり*6していますが、今後さらに日本の文脈で検討を深める必要があります。AIの経済的インパクトは、制度設計やルール次第で大きく変わりうるため、社会としてAIをどのように活用していくかというグランドデザインを描くことが求められます。
最後に、人口減少に伴う労働供給制約下の経済も重要な論点です。高齢者や女性の就労促進、秩序だった外国人労働者の受け入れなど、労働力減少を補う取組は進んでいますが、構造的な人手不足は避けがたい状況です。そうした制約のもとで、どのような経済政策や財政政策が効果を持ち得るのか、まだ十分に理解されていない部分が多いと思います。今後の研究がこうした分野を掘り下げていくことを期待しています。
また、ミクロの視点からも、新しい労働市場環境のもとで、企業が人材をどのようにマネジメントしていくかという課題は極めて重要です。この点については、今年度実施している「人材マネジメントと組織開発に関するワークショップ」で、さらに議論を深めていきたいと考えています。
高齢者雇用の実態というトピックに関しては、日本は高齢化社会のフロントランナーであるため、今後日本の高齢者がどのような働き方をしていくのかは世界的にも注目され、この分野の研究の重要性はますます高まると思われます。こうした高齢者雇用の研究を、より多くの若手研究者にも広げていくためには、どのような工夫や取組が必要であるとお考えでしょうか。
そうした問題意識もあって、今回フィナンシャル・レビューでこのテーマを取り上げようと思いました。もともと玄田先生がこの分野の研究を進めておられると伺っていましたが、私自身も以前からSECという構想をいろいろな場で話してきました。SECという名前自体は最近付けたものですが、高齢者雇用の重要性についてはずっと意識を持っていました。
さらに、日本語で発信できるということには大きな意味があると思っています。御指摘のとおり、日本は高齢化の最前線にあり、いまや世界が日本の動向を注視しています。だからこそ、日本の経済学者が率先して高齢者雇用を研究することが大切です。一方で、海外学術雑誌には掲載されにくいテーマだからといって敬遠されがちな面もあります。しかし、しっかり取り組めばいずれ必ず評価される分野ですし、まずは日本語媒体を通じて多くの人にこのテーマの重要性を知ってもらうことが大事であると思います。そうした発信を通じて、若い研究者が新たな視点からこの領域に参入してくれたらと期待しています。今回の特集が、そのような流れを生み出す1つのきっかけになればと考えています。
AIの進展にも着目をされているということで、海外ではAI導入による労働生産性向上の研究も進んでいますが、現時点でAIの効果や活用の実態について、どのような知見が得られているのでしょうか。
いくつか代表的な研究がありますが、例えば、コールセンターでAIを導入したケース*7では、興味深い結果が得られています。顧客からの問い合わせに対して、AIが過去のやり取りを学習し、「こう回答すると良い」という提案をオペレーターに提示する仕組みです。
この実験では、特に経験の浅い、いわゆるUnskilled Worker(非熟練労働者)の生産性が大きく向上しました。AIの助言を活用することで、対応の質とスピードが上がるためです。一方で、Skilled Worker(熟練労働者)のオペレーターはAIの提案に依存しがちになり、自身の判断力やスキルの向上が抑えられる傾向も見られました。
つまりAIの導入によって、全体の平均的な生産性は向上する一方、個々のスキル差が縮まるという現象が確認されています。現時点のエビデンスとしては、AIは特に経験の浅い労働者の生産性を大きく引き上げる一方で、熟練労働者にとっての効果は限定的である、ということが主要な知見です。
5.今後に向けて
今回の特集号の内容とも深く関わると思いますので、先程おっしゃっていた、「人材マネジメントと組織開発に関するワークショップ」ではどのような取組をされるかについてお聞かせください。
財務総研では、2025年10月から「人材育成と組織開発」をテーマにした新しいワークショップを始めました。
その背景には、先にも述べましたが、人口構造の変化、技術進歩、グリーン化という、いわゆる「メガトレンド」の変化があります。少子高齢化で働き手が減り、AIや自動化が職場のあり方を変え、脱炭素の流れが産業構造を塗り替えている。こうした大きな変化の中で、私たちは今、「人の力をどう生かすか」という根本的な問いに直面しています。
働き方も組織のあり方も、もはや従来の常識が通用しません。だからこそ、企業も行政も、働く人が能力を最大限に発揮できる仕組みを新たに描く必要があります。
このワークショップでは、私が座長を務め、5名の有識者委員とともに、産業界・行政・学界などから多様な実務家をお招きしています。先進企業の事例や現場の課題、制度や政策の論点を幅広く議論し、単なる講義ではなく「次の時代の働くとは何か」を考える対話の場としています。
AI時代の人材戦略、次世代リーダーの育成、女性や高齢者の活躍といったテーマを中心に、財務省の職員の方も参加し、実際の組織運営や人事の課題を踏まえて議論しています。
私たちが目指すのは、人事制度の改革にとどまりません。人々が長い視野で成長し、能力を発揮できる「新しい社会」を築くことです。このワークショップが、将来の労働市場の方向性を考える契機となり、行政と民間、学界が垣根を越えて協働する流れを生み出す、そのような場にしていきたいと思っています。
最後になりますが、これからの日本の労働市場の発展に対して期待したいことをお聞かせください。
まず、研究者としては、それぞれの専門分野で一生懸命に研究を深め、エビデンスを積み上げていくことが大切だと考えています。労働や経済の問題は複雑で多面的ですから、学術的な知見を社会に還元し続けることが私たち研究者の責務でもあります。
働き方というのは、人々の生活の根幹にあるものであり、今まさに大きな転換期を迎えています。経済・社会環境の変化の中で、働き方をうまく変えていくことができれば、日本経済全体にとっても大きなプラスになるはずです。ただし、労働の分野は変化への抵抗が強い領域の一つでもあります。だからこそ、ここでは強い政治的リーダーシップが求められると思います。
今後10年、20年で人口減少と高齢化はさらに進みます。その変化を所与として、日本をどのような国にしていくのか、人々が安心して、将来に希望をもって暮らせるためには、どんな働き方、労働市場が必要なのか、という大きなビジョン、いわばビッグピクチャーを描くことが重要です。
AIの進展もこの議論と密接に関わります。もし技術が仕事を置き換えていくなら、社会保障や所得再分配の仕組みも見直す必要があるでしょう。変化を恐れるのではなく、次の世代が力を発揮できる社会をどう設計していくか。その方向性を明確に示していくことこそ、これからの日本に求められていることだと思います。
[聞き手]
財務総合政策研究所 総務研究部
主任研究官 片野 幹(写真右)
研究員 岸本 翔太(写真左)
財務総合政策研究所
POLICY RESEARCH INSTITUTE, Ministry Of Finance, JAPAN
過去の「PRI Open Campus」については、
財務総合政策研究所ホームページに掲載しています。
https://www.mof.go.jp/pri/research/special_report/index.html
*1) G7 High-Level Panel of Experts on Artificial Intelligence and Economic and Financial Policymaking(https://www.dt.mef.gov.it/en/news/2024/rapporto_G7.html)
*2) 政府税制調査会『税制のEBPMに関する専門家会合』
*3) 「経済財政運営と改革の基本方針2025」(令和7年6月13日閣議決定)
*4) 内閣府「令和6年版高齢社会白書」
*5) 森川 正之(2025)「人工知能・ロボットと生産性・労働市場 ―産業間比較を中心に―」JSPMI Paper, 2025-1(機械振興協会 経済研究所).
*6) 深尾 京司/池内 健太/長谷 佳明/Cristiano Perugini/Fabrizio Pompei(2025)『AIおよびロボット技術の進展と日本の雇用・賃金(改訂版)』RIETI Policy Discussion Paper Series 25-P-008(2025年4月;改訂版6月).
*7) Brynjolfsson, E., Li, D., & Raymond, L. (2025). Generative AI at work. The Quarterly Journal of Economics, 140(2), 889–942.
責任編集者 宮本弘曉先生に聞く
財務総合政策研究所 総務研究部 主任研究官 片野 幹
財務総合政策研究所 総務研究部 研究員 岸本 翔太
[プロフィール]
宮本 弘曉
財務総合政策研究所 総務研究部
総括主任研究官
慶應義塾大学経済学部卒業後、ウィスコンシン大学マディソン校にて博士号(経済学)を取得。国際大学大学院、東京大学公共政策大学院で教鞭をとったのち、国際通貨基金(IMF)のエコノミストを務める。帰国後は東京都立大学経済経営学部教授、一橋大学経済研究所教授を経て、2024年より現職。主な研究分野はマクロ経済学、労働経済学、日本経済論。
1.宮本先生の経歴と、本特集号を企画・編集するにあたっての動機や問題意識
本特集号では、宮本先生の御専門である労働経済学の観点から、御自身の研究も含め、様々な課題についての論文を掲載していただきました。宮本先生は、大学のみならず、国際機関や政府系機関などでも活躍されていますが、まずは、労働経済学を専門として研究者の道に進まれた経緯についてお伺いしてもよろしいでしょうか。
まず、このような貴重な機会をいただき、誠にありがとうございます。
私が労働経済学を専門にしようと思ったのは、恩師の影響です。私は慶應義塾大学経済学部の出身で、学生時代から今も変わらず御指導をいただいている恩師の島田晴雄先生が労働経済学を専門にされていました。その先生に憧れ、経済学者を志すようになったことが出発点です。
労働経済学を学んでみて感じたのは、この分野が非常に幅広い領域にまたがっているということです。
島田先生は「すべての道はローマに通ず」にならって、「すべての道は労働に通ず」とおっしゃっていました。たとえば、金融政策や財政政策は労働経済学の分野ではないと思われがちですが、米国の連邦準備制度(FRB)の目的は「物価の安定」と「雇用の最大化」という二本柱です。つまり、金融政策を論じるうえでも雇用は不可欠な要素と位置づけられています。
財政政策についても同様で、ケインズが景気刺激策を提唱した背景には「失業をなくしたい」という思いがありました。金融・財政いずれの政策をとってみても、その根底には「人が働く」という営みが存在するのです。そうした意味で、労働経済学は経済全体を貫く基盤的な学問だと思います。
もうひとつ、労働経済学の魅力は、データの背後に常に「人々の生活」があることです。私がこの分野を学び始めた頃、日本の失業率は約5%、失業者数が350万人を超えていました。これは当時の横浜市(日本で一番人口が多い市区町村)の人口に匹敵する数です。失業というのは、単なる統計上の変数ではなく、一人ひとりの尊厳や家庭の生活、精神的な安定にも関わる問題です。仕事とは、まさに人生の土台であり、社会とのつながりでもあります。そうした「人間の営み」を経済データの背後から見つめられるのが、労働経済学の面白さだと感じています。この視点はIMFに勤務していた際にも強く意識しました。赴任初日のガイダンスで「私たちが扱う数字の裏には人の人生がある。それを預かるつもりで経済政策を設計しなければならない」と言われたのです。その言葉は今も心に残っていますし、自分が労働経済学を専門としてきた理由と深く通じるものがあると感じています。
学部時代から博士時代にかけて、興味分野が変わっていくことは少なくないかと思いますが、やはり一貫して労働経済学に御関心がおありでしたのでしょうか。また、博士課程に在籍されていた当時、アメリカの経済学者から見て、日本の労働市場は研究対象として魅力的でしたのでしょうか。
軸としては、これまで一貫して労働や雇用に関心を持ってきました。ただ、研究のアプローチ自体は常にオープンで、特定の枠にとらわれないよう心がけてきました。例えば、途中から財政政策の研究にも取り組みましたが、実はそれも根底ではつながっていると思います。留学中や研究生活を送るなかでも、あまり自分で枠を決めずに、オープンに物事を見るようにしていました。
日本の労働市場は、欧米とは異なる制度や慣行を持つ、非常にユニークな構造をしています。だからこそ、その仕組みを分析し、理論やデータに基づいて理解することは、日本経済の課題を考えるうえで極めて重要であると思います。国際比較の観点からも、日本の事例を取り入れることで、労働市場制度の多様性をより立体的に理解することができます。
私自身の専門は「マクロ労働経済学」です。労働経済学には大きく分けて、個人や企業行動を扱うミクロ的な分析と、景気循環上の雇用や失業の動きなど、経済全体の動きを扱うマクロ的な分析の2つがあります。日本ではどちらかというとミクロ労働経済学の研究が盛んで、現在でも非常に重要な分野として発展しています。一方、アメリカではマクロとミクロの両方が重視され、特に雇用や失業といったテーマは労働経済学というよりマクロ経済学の中心的課題として位置づけられています。マクロ労働経済学は政策との距離が近く、実際の経済運営に直結する分野でもあります。私が博士課程でこの分野に進んだ当時、日本ではまだ研究者が少なかったのですが、アメリカではすでに確立されたメジャーなフィールドでした。そのため、アメリカでの研究生活では自然に自分の関心が受け入れられる環境にありました。最近では、日本でもマクロ労働経済学を専門とする研究者が増えてきており、この流れは喜ばしいと思っています。
これまでどのようなフィールドで、先生の専門性を活かしてこられたのでしょうか。
最近の例で言えば、財務総合政策研究所(財務総研)に在籍している御縁もあり、昨年、G7の財務大臣会合への報告書を作成するためのハイレベル専門家パネル*1に参加させていただきました。このパネルは生成AIの登場を受けて、AIが生産活動、雇用、さらには社会全体に与える影響を検証するために設置され、2024年12月に報告書を提出しました。パネルのメンバーには、2025年にノーベル経済学賞を受賞した仏コレージュ・ド・フランスのフィリップ・アギヨン教授もいます。
会合では、AIの技術的な側面だけでなく、経済・労働市場への影響を専門家チームで分析し、報告書としてとりまとめました。こうした新しい政策課題に関して議論する場に携われること、そしてその成果が政策運営に生かされることは、労働経済学の専門性を活かす大きな機会であると感じています。
また、エビデンスに基づく政策立案の専門家会合*2にも参加しています。必ずしも自分の専門分野そのものを扱うわけではありませんが、これまでのデータ分析に携わってきた経験や経済学的な思考が、実際の政策形成に貢献できる場面が多くあります。こうしたかたちで専門的な知見を社会に還元できるのは、非常にありがたいことです。
さらに、IMFに勤務していた際には、最初に携わったプロジェクトがジェンダーに関わるものでした。当時、IMFでは、気候変動やジェンダーなど、これまで十分に扱ってこなかった新たなテーマにも積極的に取り組み始めており、私は財政政策とジェンダー平等の関係を分析するプロジェクトに参加しました。
ジェンダーの問題は、雇用や労働参加と密接に関わっており、労働経済学の知見を応用する格好のテーマでした。これまで培ってきた分析手法や視点を国際機関の政策研究に活かすことができたことは、非常に貴重な経験であったと思います。
先生は国際機関や研究機関、大学といった多様な現場を行き来されていますが、これは意識的にそうされているのか、それとも、偶然の御縁の積み重ねによるものなのでしょうか。
研究者としてのキャリアをスタートさせ、博士号を取得して日本に帰国した後、最初に勤めたのは国際大学でした。そこに在籍していた学生の多くは、一般的な大学院生ではなく、アジアやアフリカの行政官で、財務省や中央銀行などの若手職員でした。彼らに経済学を教えるうちに、「現場の実情を知らずに理論を語ることに、どれほど説得力があるのだろうか」、また、「理論と現実をどう架橋するか」と考えるようになりました。
その後、東京大学公共政策大学院に移りました。その際、私を誘ってくださった伊藤隆敏先生から、「経済政策を本気で考えるなら、国際機関や政策の現場を経験すべきだ」と強く勧められました。「行政官の方々がどのような環境で働き、どのような思いで政策をつくっているのかを知らずに、政策論を語ることはできない」という伊藤先生の言葉は、私にとって大きな転機になりました。こうした経緯から、IMFで働くことは自分にとって自然な流れでした。現場を経験したいという思いが強まっていた時期に、ちょうどその機会を得ることができたのです。ありがたい話です。
日本に戻ってからしばらくして、財務総研の方々とのお付き合いの機会もあり、現在のポストで働いております。政策の現場で日々働く方々と接していると、どこに問題意識があるのか、どのような論点をアカデミアに期待しているのかがよく見えてきます。一方で、アカデミアがそうした現場の問いに十分に応えられていない部分も少なくありません。であるからこそ、研究者にとっても現場を知ることは非常に有意義であると思います。特に若い研究者の方々には、是非、政策の現場を経験して欲しいと思います。
本特集号では、労働市場の流動化が雇用・賃金・生産性に与える影響の分析に始まり、日本の労働市場を多角的に分析されていました。編纂にあたっての問題意識や、多様な論点をまとめる上で意識したポイントがあればお聞かせください。
1つは、先ほども申し上げたように、「雇用は常に経済問題の中心にある」という意識です。日本の雇用や働き方、あるいは雇い方、そして労働市場全体が、いままさに、大きな転換期を迎えていると感じています。
経済学では、「雇用は生産の派生需要である」という考え方があります。これは、生産があって初めて雇用が生まれる、という考え方です。一般的には、「人が働くからモノが生まれる」と思われがちですが、経済学ではその逆で、生産活動がまずあり、その需要に応じて雇用が決まる、という順序になります。景気が悪くなれば残業時間が減り、景気が良くなればパートを増やす─こうした変化も、生産の動きに応じて雇用が調整されていることの表れです。
私は、まさにこの生産構造の変化が日本経済の根幹で起きていると考えています。人口減少や高齢化、外国人労働者の増加といった人口構造の変化、生成AIの登場やデジタル化といった技術革新の進展、さらには気候変動対策としてのグリーン化など、様々な要因が複合的に作用して、経済社会構造そのものが変わりつつあります。それに伴い、当然ながら、雇用のあり方もまた変化を迫られており、変わらざるを得ない局面に来ていると言えるでしょう。
そうした大きなトレンドを踏まえたとき、日本の労働市場で何が起こっているのか、そして今後どうすべきかを検討するには、多角的な視点からの議論が必要になります。今回の特集号では、まさにそのような視点から、各分野の第一線で活躍されている研究者の方々に御執筆をお願いしました。
また、この特集をフィナンシャル・レビューという財務総研の機関誌で企画できたことにも大きな意義を感じています。フィナンシャル・レビューはこれまで、財政政策や税制などを中心に重要なテーマを扱ってきました。しかし、労働の問題は本質的に財政政策やマクロ経済運営と深く結びついており、切り離して論じることはできません。そうした観点から、労働市場を特集する今回の試みは大きな意味を持つと感じています。
2.「労働市場の流動性」について
本特集号の中で、特に工藤・宮本論文では、労働市場の流動性に着目し、解雇制限を組み込んだマクロモデルを用いて労働市場を分析している点が印象的でした。マクロ経済学の観点から、解雇制限のあり方が労働生産性や経済成長に与える影響についてはどのように分析されたのでしょうか。
日本政府は、現在「活発な労働移動の促進」を重要な政策課題として掲げています*3。私自身、この方向性には賛成です。労働移動を促す、つまり労働市場の流動性を高めることには、個別の企業が雇用調整をどのように行うのかというミクロの視点だけではなく、それを超えて、経済全体がどのような姿になるのかというマクロの視点から大きな意味があります。そこをもう少し理論的に掘り下げてみたいということが、本研究のモチベーションです。
また、足もとの日本経済では、物価が上昇しているにもかかわらず、賃金がそれに追いついていない状況が続いています。政府が掲げる「持続的な賃上げ」を実現するためには、経済学的に言えば、賃金の基礎となる生産性の向上が欠かせません。したがって、持続的な賃上げを実現するには、生産性の向上、ひいては経済成長の実現が必要です。
その観点からみても、労働市場の流動性が高まることは、極めて重要です。経済全体を見れば、衰退していく産業や企業がある一方で、新たに成長する産業や企業も必ず現れます。重要なのは、こうした経済の新陳代謝がどれだけ円滑に働くかという点です。つまり、ヒト・モノ・カネといった経済資源が、衰退部門から成長部門へどれだけスムーズに移動できるかが鍵となります。労働市場の流動性が高ければ、人材の再配置が進み、結果としてマクロ全体の生産性向上につながります。生産性が上がれば、持続的な賃上げも可能になる。こうした好循環を生み出す鍵が、まさに労働市場の流動性なのです。
ただし、こうしたメカニズムを理論的かつ数量的に分析した研究は、これまで多くはありませんでした。そこで、我々はマクロ労働経済学で標準的に用いられている「サーチ・マッチングモデル(Search-Matching Model)」をベースに、解雇制限を明示的に組み込んだモデルを構築しました。従来のサーチモデルでは、雇用の創出やマッチングのプロセスは描けても、解雇制限を十分に反映できていませんでした。そこで、工藤先生と協働し、理論的にその部分を組み入れた新しい枠組みをつくった、ということが今回の論文の特徴です。
解雇制限については、アメリカや欧州ではどのような議論があり、どのような研究が行われているのでしょうか。
国ごとに事情は異なります。アメリカでは解雇規制があまり強くなく、一方でヨーロッパは一般に解雇規制が強い国が多く、その影響を分析する研究は以前から存在します。マクロ経済の観点で注目されるのは、解雇規制を強めると労働者の保護にはつながる一方で、新規雇用が抑制される側面があるという点です。解雇が難しくなると企業は将来の不確実性を踏まえて採用に慎重になります。ビジネスの先行きは常に不確実で、今は好調でも将来はどうなるか分からない。景気が悪化したら人手を減らさざるを得ないかもしれない、という状況の下では、採用時に「将来、必要に応じて解雇できるかどうか」が企業の意思決定に大きく影響します。理論的には、解雇規制が強いほど新規雇用が減少するという結論が導かれます。
日本の文脈でみると、この問題は非正規雇用の拡大と関連している可能性があります。正社員は一度雇うと解雇しにくい─そのため企業は正社員採用を控え、解雇が相対的に容易な非正規雇用を増やす選択をする。もちろん、非正規雇用の拡大には他にもさまざまな要因が指摘されていますが、解雇に関するルールのあり方が一因であることは否定できません。日本で問題なのは、解雇に関するルールが明確でないことだと思います。いつ、どのような場合に解雇が許されるのかが不透明であることが、企業の採用行動に大きく影響している─そこが最も重要なポイントではないかと感じています。
解雇がしにくいことは、低い失業率の実現に役立つ側面を持つ一方、新卒一括採用などの雇用慣行と相まって、労働市場のミスマッチの解消を妨げている側面もあるのでしょうか。
私が申し上げている「労働市場の流動化」とは、決して解雇をしやすくするという意味ではなく、むしろ、労働者が別の会社に移りたいと思ったとき、あるいは企業が別の人材を採用したいと考えたときに、それがスムーズにできる自由度を高めましょう、という趣旨です。
たまたま新卒で入った会社との相性が良く、本人もその仕事が好きで、会社もそれを正当に評価してくれるなら、そのまま働き続けるのは幸せなことです。ただ、実際には、企業に入ってみたら想像と違ったというケースもあります。それは労働者だけでなく、企業側にも起こり得ます。たとえば、優秀だと思って採用したものの、実際には仕事とマッチしていなかったということもあるでしょう。
そのようなときに、双方にとって不利益にならずに関係を見直せる仕組み─つまりミスマッチを解消できる余地を用意しておくことが大切です。「労働市場の流動化」とは、まさにそのための環境を整えることであり、単に解雇をしやすくすることを目的とするものでありません。むしろ、企業と労働者の双方にとって柔軟で、健全に人材が循環する労働市場を実現することが重要なのです。
片桐論文では結びとして、「マクロモデルから得られる分析結果は、それだけで政策変更を行う際の指針となるものではなく、他の様々な要素と併せて考えるべき判断材料の一つである。」と述べられていました。解雇規制のあり方を考える上で、マクロ経済学的な視点以外に考慮されたいポイントがあればお聞かせください。
片桐先生の御指摘はごもっともであると思います。理論的に正しい方向性が示されていても、実際に制度を変えるとなれば、必ず摩擦や調整コストが生じます。そのため、制度設計にあたっては、現実の経済状況や雇用の実態を踏まえることが不可欠です。
日本の解雇規制を考える場合、法制度だけでなく、年功序列型賃金や終身雇用といった長年の雇用慣行の影響も見逃せません。
これらの慣行は、かつての日本経済においては、企業と労働者の双方にとって合理的な仕組みとして機能してきました。終身雇用によって企業は熟練した人材を長期的に育成でき、年功的な賃金体系によって従業員の忠誠心やモチベーションを維持することができた。この安定的な雇用関係が、高度成長期の日本経済を支えたのです。しかし、社会や産業構造の変化とともに、その役割が変わりつつあります。かつて成長を支えた制度が、いまや企業の柔軟な人員配置や新陳代謝を妨げる要因になりかねない、そうした構造変化が起きているのです。長年の雇用慣行がどのように企業行動や労働者の期待形成に影響しているのかを理解したうえで、現実的な制度設計を考える必要があります。
また、解雇規制は法律と密接に関連するため、法学的な視点も欠かせません。経済学者と法学者では解釈や着眼点が異なることも多く、両者の対話を通じて現実に即した制度設計を検討する必要があります。
こうした意味で、解雇規制のあり方を考える際には、マクロ経済学的視点だけでなく、現場での実態、社会的慣行、法制度といった複数の視点を総合的に考慮することが重要であると思います。
3.財政と労働市場の関係性
FR通巻120号(2014年9月)に宮本先生が寄稿された『財政政策が労働市場に与える影響について』という論文では、労働市場と財政政策との関係性についても論じられていました。その後、コロナ禍を契機として、雇用調整助成金などの労働市場に直接関わる財政出動といった歳出圧力が強まると同時に、少子高齢化の進展により社会保障制度の支え手が減少しています。このような観点から、今後、我が国の労働市場を支えるために望ましい財政政策はどのようなものになるとお考えでしょうか。
基本的には、制度や政策は働き方に中立的であるべきだと思います。これは、先ほどお話しした労働市場の流動性を高めることにもつながります。
例えば、これまでの日本では終身雇用や年功序列型賃金といった慣行を支えるため、長期継続勤務の場合の退職金の優遇税制など、企業に長く勤めることを促す制度が存在してきました。しかし、働き方が多様化する今の時代では、こうした制度が逆に労働移動の妨げになる場合があります。同じ企業に長くいると税制優遇を受けられる一方で、転職すると損をするとなれば、人々は転職をためらうかもしれません。こうした制度については、人々がどのような働き方を選んでも公平になるように見直す必要があります。
また、雇用調整助成金のような政策については、コロナ禍などで一定の役割を果たしましたが、今後の労働市場を考えると、環境が変化する中で、企業に従来の雇用を厳格に守ることを促すかたちの給付金は必ずしも必要ではないと考えます。重要なことは、仮に企業がなくなったとしても労働者が次の職に移れるようなセーフティネットを十分に整えることです。いわば、労働市場の中で労働者を守る仕組みを作ることが重要で、企業に依存する仕組みはうまく機能しなくなるでしょう。
こうした観点から、財政政策も、雇用者が労働者を保護するかたちから労働者支援型にシフトし、働き方の多様化や労働市場の流動性を促進する方向で設計されることが望ましいと考えます。
逆に、環境が変化する中で、望ましい労働市場のあり方はどのようなものになるとお考えでしょうか。
高齢者の方々に労働市場で活躍いただくことが重要ではないかと思います。日本で財政赤字が拡大してきた背景には、働く人と支えられる人のバランスが崩れてきたという構造的な問題があります。そのため、意欲あるシニア─あえて高齢者とは呼びません─が適職を選び、就業しやすくなるような制度・環境・条件を整え、就業を促進することが重要です。私はこれを「長寿雇用戦略」、英語で「Senior Employment Creation(SEC)」と呼んでいます。シニアがさまざまな形で社会活動に参加し、生産的に貢献できる社会へと再設計すれば、依存人口と稼得人口のバランスは大きく変わります。シニアを「支えられる側」から「支える側」へと転換することは、社会保障の持続可能性にも大きく寄与すると考えられます。
私がIMF時代に行った研究では、高齢化が進むと財政政策の有効性(財政乗数)が低下する傾向が明らかになりました。ただし、問題は高齢者が増えること自体ではなく、働く人が減ることです。高齢者が働き続ければ、財政政策の効果も維持されます。つまり、高齢化社会でも、高齢者の労働参加を促すことが財政を支えることにつながります。
さらに、日本の高齢者は働く意欲が高く、内閣府の調査では、70歳以上でも働きたい方が8割、健康であればいつまでも働きたいと思っている方が4割もいます*4。こうした方々の経験や人的ネットワークは若い世代とは異なる価値があり、社会や経済にとって大きな資源となります。こうした、高齢者世代─改め「ヴィンテージ世代」の力をいかに活用するかが、今後の日本経済と財政を支える鍵になると考えています。
高齢者の労働参画という観点では、地域での紐帯が薄くなってきている現代において、社会と関わる場を持ち続けることにもつながるかもしれません。
そのとおりだと思います。その点では、年配の方々のみならず、女性やその他多様な人々が多様な働き方ができるような労働市場を作ることが重要ですし、それがひいては財政を支えることにもつながると思います。
4.今後注目していきたい研究テーマやトピック
本特集号では、玄田論文において高齢者雇用の実態把握の重要性について指摘されるなど、我が国の労働市場を分析するための新しい視座が提供されていると感じました。これらの研究も踏まえ、日本の労働市場に関する研究について、今後注目していきたいトピックは何でしょうか。
玄田先生に高齢者雇用の実態について御執筆いただいたことは、今回の特集の大きなハイライトであったと思います。日本では人口構造が大きく変化し、寿命も延びています。そうした中で、高齢者の方々がどのように働いているのか、特に70歳以上の層については、これまで十分にデータ分析が行われてきませんでした。その実態に実証的な光を当てたことは、学術的にも政策的にも非常に意義深いものです。今後も高齢者の働き方や就業実態の把握は、重要な研究テーマの1つになるでしょう。
AIの影響も重要なテーマです。AIやロボットの進歩が雇用や働き方にどう影響するのかは、まだ十分に解明されていません。海外では研究が進みつつありますが、日本ではまだ途上です。たとえば東京大学の研究チームがタクシー運転手向けの需要予測AI(「お客様探索ナビ」等)を用いた実証を行ったり、森川正之先生が日本の職場でAIがどの程度広がり、日本経済に影響を及ぼしているのかを独自に調査されたり*5、深尾京司先生らが、各職業がどの程度AIやロボットに置き換えられやすいかを分析されたり*6していますが、今後さらに日本の文脈で検討を深める必要があります。AIの経済的インパクトは、制度設計やルール次第で大きく変わりうるため、社会としてAIをどのように活用していくかというグランドデザインを描くことが求められます。
最後に、人口減少に伴う労働供給制約下の経済も重要な論点です。高齢者や女性の就労促進、秩序だった外国人労働者の受け入れなど、労働力減少を補う取組は進んでいますが、構造的な人手不足は避けがたい状況です。そうした制約のもとで、どのような経済政策や財政政策が効果を持ち得るのか、まだ十分に理解されていない部分が多いと思います。今後の研究がこうした分野を掘り下げていくことを期待しています。
また、ミクロの視点からも、新しい労働市場環境のもとで、企業が人材をどのようにマネジメントしていくかという課題は極めて重要です。この点については、今年度実施している「人材マネジメントと組織開発に関するワークショップ」で、さらに議論を深めていきたいと考えています。
高齢者雇用の実態というトピックに関しては、日本は高齢化社会のフロントランナーであるため、今後日本の高齢者がどのような働き方をしていくのかは世界的にも注目され、この分野の研究の重要性はますます高まると思われます。こうした高齢者雇用の研究を、より多くの若手研究者にも広げていくためには、どのような工夫や取組が必要であるとお考えでしょうか。
そうした問題意識もあって、今回フィナンシャル・レビューでこのテーマを取り上げようと思いました。もともと玄田先生がこの分野の研究を進めておられると伺っていましたが、私自身も以前からSECという構想をいろいろな場で話してきました。SECという名前自体は最近付けたものですが、高齢者雇用の重要性についてはずっと意識を持っていました。
さらに、日本語で発信できるということには大きな意味があると思っています。御指摘のとおり、日本は高齢化の最前線にあり、いまや世界が日本の動向を注視しています。だからこそ、日本の経済学者が率先して高齢者雇用を研究することが大切です。一方で、海外学術雑誌には掲載されにくいテーマだからといって敬遠されがちな面もあります。しかし、しっかり取り組めばいずれ必ず評価される分野ですし、まずは日本語媒体を通じて多くの人にこのテーマの重要性を知ってもらうことが大事であると思います。そうした発信を通じて、若い研究者が新たな視点からこの領域に参入してくれたらと期待しています。今回の特集が、そのような流れを生み出す1つのきっかけになればと考えています。
AIの進展にも着目をされているということで、海外ではAI導入による労働生産性向上の研究も進んでいますが、現時点でAIの効果や活用の実態について、どのような知見が得られているのでしょうか。
いくつか代表的な研究がありますが、例えば、コールセンターでAIを導入したケース*7では、興味深い結果が得られています。顧客からの問い合わせに対して、AIが過去のやり取りを学習し、「こう回答すると良い」という提案をオペレーターに提示する仕組みです。
この実験では、特に経験の浅い、いわゆるUnskilled Worker(非熟練労働者)の生産性が大きく向上しました。AIの助言を活用することで、対応の質とスピードが上がるためです。一方で、Skilled Worker(熟練労働者)のオペレーターはAIの提案に依存しがちになり、自身の判断力やスキルの向上が抑えられる傾向も見られました。
つまりAIの導入によって、全体の平均的な生産性は向上する一方、個々のスキル差が縮まるという現象が確認されています。現時点のエビデンスとしては、AIは特に経験の浅い労働者の生産性を大きく引き上げる一方で、熟練労働者にとっての効果は限定的である、ということが主要な知見です。
5.今後に向けて
今回の特集号の内容とも深く関わると思いますので、先程おっしゃっていた、「人材マネジメントと組織開発に関するワークショップ」ではどのような取組をされるかについてお聞かせください。
財務総研では、2025年10月から「人材育成と組織開発」をテーマにした新しいワークショップを始めました。
その背景には、先にも述べましたが、人口構造の変化、技術進歩、グリーン化という、いわゆる「メガトレンド」の変化があります。少子高齢化で働き手が減り、AIや自動化が職場のあり方を変え、脱炭素の流れが産業構造を塗り替えている。こうした大きな変化の中で、私たちは今、「人の力をどう生かすか」という根本的な問いに直面しています。
働き方も組織のあり方も、もはや従来の常識が通用しません。だからこそ、企業も行政も、働く人が能力を最大限に発揮できる仕組みを新たに描く必要があります。
このワークショップでは、私が座長を務め、5名の有識者委員とともに、産業界・行政・学界などから多様な実務家をお招きしています。先進企業の事例や現場の課題、制度や政策の論点を幅広く議論し、単なる講義ではなく「次の時代の働くとは何か」を考える対話の場としています。
AI時代の人材戦略、次世代リーダーの育成、女性や高齢者の活躍といったテーマを中心に、財務省の職員の方も参加し、実際の組織運営や人事の課題を踏まえて議論しています。
私たちが目指すのは、人事制度の改革にとどまりません。人々が長い視野で成長し、能力を発揮できる「新しい社会」を築くことです。このワークショップが、将来の労働市場の方向性を考える契機となり、行政と民間、学界が垣根を越えて協働する流れを生み出す、そのような場にしていきたいと思っています。
最後になりますが、これからの日本の労働市場の発展に対して期待したいことをお聞かせください。
まず、研究者としては、それぞれの専門分野で一生懸命に研究を深め、エビデンスを積み上げていくことが大切だと考えています。労働や経済の問題は複雑で多面的ですから、学術的な知見を社会に還元し続けることが私たち研究者の責務でもあります。
働き方というのは、人々の生活の根幹にあるものであり、今まさに大きな転換期を迎えています。経済・社会環境の変化の中で、働き方をうまく変えていくことができれば、日本経済全体にとっても大きなプラスになるはずです。ただし、労働の分野は変化への抵抗が強い領域の一つでもあります。だからこそ、ここでは強い政治的リーダーシップが求められると思います。
今後10年、20年で人口減少と高齢化はさらに進みます。その変化を所与として、日本をどのような国にしていくのか、人々が安心して、将来に希望をもって暮らせるためには、どんな働き方、労働市場が必要なのか、という大きなビジョン、いわばビッグピクチャーを描くことが重要です。
AIの進展もこの議論と密接に関わります。もし技術が仕事を置き換えていくなら、社会保障や所得再分配の仕組みも見直す必要があるでしょう。変化を恐れるのではなく、次の世代が力を発揮できる社会をどう設計していくか。その方向性を明確に示していくことこそ、これからの日本に求められていることだと思います。
[聞き手]
財務総合政策研究所 総務研究部
主任研究官 片野 幹(写真右)
研究員 岸本 翔太(写真左)
財務総合政策研究所
POLICY RESEARCH INSTITUTE, Ministry Of Finance, JAPAN
過去の「PRI Open Campus」については、
財務総合政策研究所ホームページに掲載しています。
https://www.mof.go.jp/pri/research/special_report/index.html
*1) G7 High-Level Panel of Experts on Artificial Intelligence and Economic and Financial Policymaking(https://www.dt.mef.gov.it/en/news/2024/rapporto_G7.html)
*2) 政府税制調査会『税制のEBPMに関する専門家会合』
*3) 「経済財政運営と改革の基本方針2025」(令和7年6月13日閣議決定)
*4) 内閣府「令和6年版高齢社会白書」
*5) 森川 正之(2025)「人工知能・ロボットと生産性・労働市場 ―産業間比較を中心に―」JSPMI Paper, 2025-1(機械振興協会 経済研究所).
*6) 深尾 京司/池内 健太/長谷 佳明/Cristiano Perugini/Fabrizio Pompei(2025)『AIおよびロボット技術の進展と日本の雇用・賃金(改訂版)』RIETI Policy Discussion Paper Series 25-P-008(2025年4月;改訂版6月).
*7) Brynjolfsson, E., Li, D., & Raymond, L. (2025). Generative AI at work. The Quarterly Journal of Economics, 140(2), 889–942.

