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路線価でひもとく街の歴史

第70回 京都市伏見区 京の港が遺した酒蔵と水辺と郷土愛

江戸の原型としての伏見
 伏見の町割の原型は豊臣政権期に整えられた。街を歩くと、桃山町正宗や桃山最上町といった伊達政宗・最上義光などの大名屋敷に由来する町名が目に入る。全国の諸大名を集住させ、本城周辺に大名屋敷を配置する都市構造といえば江戸城下町だが、伏見城下町も同様の構造をとっていた。見方を変えれば、江戸城下町の原型が伏見にあった。京阪電車・伏見桃山駅前の南北の通り沿いの町名が「銀座町」なのは、徳川家康が銀貨鋳造所「銀座」をこの地に置いたことに由来する。「安土桃山時代」という歴史区分が示すように、桃山(伏見)は当時、実質的な日本の首都だった。
 その後、木幡山に築かれた伏見城は廃城となり、代わりに桃の木が植えられ、城山が「桃山」となった。桃山という別称が生まれたのはこれ以降だ。なお、現存する「伏見桃山城」は平成15年(2003)に閉園した「伏見桃山城キャッスルランド」の模擬天守である。
 廃城後、伏見は政治都市としての役割を失ったが、京の港としての機能はむしろ高まった。その契機となったのが、ベトナム貿易商で財を成した角倉了以が自己資金を投じて整備した運河「高瀬川」である。慶長19年(1614)の開通で、完成後は施設の維持管理・運営を担い、「高瀬舟」の通行料でその経費を賄った。現代のPFIと言える。運河は木屋町通の北端の二条を起点とし、木屋町通に沿って南下して南郊を縦断し、伏見港に至った。現在、伏見港は京都府が所管する地方港湾であり、宇治川に加え、京橋、蓬莱橋が架かる市街地の河川も港湾区域に含まれる。豊臣期の整備を基礎とし、江戸時代には伏見港と大坂・八軒家浜を結ぶ伏見航路の拠点となった。航路には公認定期船の「過書船」が行き交っていた。
 伏見は宿場町の側面も持つ。朝廷との接触を避けるため、西国大名は京への立ち入りを制限され、参勤交代では迂回を余儀なくされた。大坂から守口、枚方、淀、伏見を経て大津に抜ける東海道五十七次である。

京の港の油掛町(あぶらかけちょう)
 次に伏見が政治史の表舞台に登場するのは幕末である。将軍上洛以来、京の都が政局の中心となり、朝廷の叡慮を巡り政治闘争が繰り広げられた。薩摩藩過激派の鎮圧として知られる「寺田屋事件」の舞台となった寺田屋は南浜町にあった宿で、その前面の河岸一帯が当時の船着場であった(図1 寺田屋界隈)。大政奉還の翌年1月3日、再上洛を目指す旧幕府軍が伏見奉行所を拠点とし、これを阻止する薩長軍が御香宮神社を拠点として衝突し、市街戦となった。
 伏見で初めて開設された銀行は第一銀行である。西京支店伏見出張所が明治15年(1882)12月、過書町に開設された。その後廃止されたが、同じ場所に明治21年(1888)2月、地元を本拠とする初の銀行である伏見銀行が設立された。過書町の名は過書舟の役所(過書座)があったことに由来し、銀行創設期の立地が物流拠点と重なっていたことを示している。
 明治21年(1888)の「京都府統計書」では、宅地地価で最も高かったのは中油掛町(なかあぶらかけちょう)である。中油掛町は京街道沿いに位置し、西は阿波橋に通じ、南には蓬莱橋が架かる。南浜町の川湊と街道が交差する、伏見の街の中心だった。この中油掛町には、明治26年(1893)に京都市内に本店を置く第百十一国立銀行が伏見支店を開設した。同行は日清戦争後の反動恐慌で破綻し、第一銀行に救済される。そのため、明治31年(1898)9月に第一銀行伏見出張所となった。
 明治27年(1894)9月、琵琶湖疏水が伏見まで到達した。琵琶湖に端を発する疏水は鴨川で南折し鴨川運河となって伏見に向かう。伏見市街地の濠川が走るエリアは一段低い土地になっているため、その手前で、舟を台車に載せて運ぶ「インクライン」を設けて濠川に接続した。これにより京都市街と伏見を結ぶ水路は2本となったが、高瀬川は伏見に揚がる薪炭・日用品の京都市中輸送、琵琶湖疏水は日本海側の物資を琵琶湖経由で大阪方面に輸送する機能分担があった。
 明治28年(1895)2月1日、琵琶湖疏水の水力発電を原動力とする電気鉄道が開業した。京都駅の南から下油掛町(したあぶらかけまち)まで約6kmの路線で、京都電気鉄道が経営した。停車場は老舗和菓子店・伏見駿河屋の敷地西側を譲り受けて整備された(図3 伏見駿河屋)。現在、「電気鉄道事業発祥の地」の碑が立っている。この路線が開業したのは、第4回内国勧業博覧会が開催される2カ月前である。開会日の4月1日には京都駅北側から発着する路線が博覧会場まで開通した。現在は岡崎公園、平安神宮になっている場所である。
 同年11月、奈良鉄道の桃山駅(現・JR桃山駅)が開業した。京都駅を起点に、桃山駅の手前までは現在の近鉄京都線のルートを、そこから南は現在のJR奈良線を通っていた。その後、関西鉄道の時代を経て国有化される。明治36年(1903)、最高地価は路面電車の停車場により近い下油掛町へ移動した。交通利便性が地価に影響を及ぼしたことがうかがえる。

街の中心は納屋町から大手筋へ
 明治43年(1910)4月15日、京阪電気鉄道(京阪電車)が京都の五条駅から大阪の天満橋駅まで開通した。天満橋駅が八軒家浜の最寄り駅であるように、この路線は京阪間を結ぶ舟運ルートと重なっていた。それまで最高地価であった油掛町から北へと中心が移動したことになる。油掛町の北に走る大手筋には伏見駅(現・伏見桃山駅)があった。帯刀(たてわき)という町名は当地に屋敷を構えた堀尾吉晴の官職名に由来し、市制施行後に納屋(なや)町(まち)と改称された。現在はアーケードが架かる納屋町商店街として知られる。納屋町の北隣、風呂屋町には、明治36年(1903)に伏見銀行が過書町から本店を移転している。伏見銀行は大正15年(1926)4月に買収されて川崎銀行となり、同年7月には大手筋と納屋町の交差点北西角に新築移転した。同行は川崎第百銀行を経て三菱銀行に吸収され、現在は三菱UFJ銀行伏見支店として往時と同じ場所で営業を続けている。
 京阪電車の開業後、銀行は大手筋に集まった。明治44年(1911)5月、京都銀行伏見支店が開業(現在の京都銀行とは無関係)し、大正3年(1914)、交差点の向かい側へ移転。大正12年(1923)11月に吸収されて安田銀行となった。現在のみずほ銀行である。大正5年(1916)、第一銀行も大手筋に移転した。戦後は第一勧業銀行となり、金融再編を経て閉店した。
 昭和初期には新たな鉄道路線が加わる。昭和3年(1928)11月に開業した奈良電気鉄道(現・近鉄京都線)で、京阪電車・伏見桃山駅の東側に桃山御陵前駅が設置された。なお、開業以来の東海道本線は、現在のJR奈良線のルートで伏見稲荷駅を経由し、東山を迂回していた。大正10年(1921)8月に東山をトンネルで貫く現在のルートに付け替えられる。そして、それまで東海道本線だった迂回ルートが新たな奈良線となり、それまでの奈良線は廃線となった。奈良電気鉄道は、京都駅から伏見の手前までは旧奈良線の跡地を活用し、伏見市街地から南に新線を整備した。
 ちなみに、奈良電鉄の開業の半年後、昭和4年5月に伏見町が伏見市となった。さらにその2年後の4月に京都市と合併し伏見区となった。
 戦後、昭和32年(1957)の路線価図をみると、大手筋の伏見桃山駅から納屋町の交差点までが最高路線価だった。もっとも、この時点では大手筋の東西に価格差がなかった。昭和40年代、大手筋界隈に大型店の開店が相次いだ。まずは昭和42年(1967)6月のニチイ伏見店である。その翌年10月に西友と長崎屋が開店した。昭和46年(1971)7月には大手筋のアーケードが完成した。ニチイは昭和53年(1978)に大手筋の南側に移転し、サティを経てイオン伏見店になった。
 伏見に百貨店はないが、大丸の創業地である。享保2年(1717)、下村彦右衛門正啓(しょうけい)が京町八丁目(図2 市街図の枠外)で呉服店「大文字屋」を始めた。一代で心斎橋、名古屋、江戸へ出店し、東洞院押小路下る船屋町、現在の地下鉄御池駅近くに新たな本店を構えた。

京の港の歴史を受け継ぐまちづくり
 高瀬川舟運は大正9年(1920)に終了。さらに昭和3年(1928)、宇治川北岸に堤防が築かれたことで水位が低下し、琵琶湖疏水との間の船の乗り入れが不可能になった。落差を克服するため三栖閘門が整備され、いっとき持ち直したが、昭和18年(1943)には琵琶湖疏水の伏見インクラインが休止。昭和37年(1962)には淀川の貨物船輸送も終了した。昭和45年(1970)3月には京都電気鉄道の後身である京都市電伏見線が廃止される。
 舟運の痕跡が薄れる中、大手筋の東西で価格差が生じた。昭和52年(1977)、南部町と交差する地点を境に西がm2当たり270千円、駅に近い東側が300千円となった。令和7年は納屋町交差点で460千円、駅前でm2当たり510千円と、東西比率に大きな違いはないものの、駅に近づくほど高くなるようになった。駅前に新しい街の重心ができた。
 一方、舟運を地域資源として再生させようとする動きも始まった。端緒は半ばドブ川と化していた濠川の清掃である。平成7年(1995)5月には十石舟の運航が始まり(図5 濠川と十石舟)、観光振興と郷土愛の醸成が期待された。効果は河川への不法投棄の減少に現れた。平成13年(2001)9月、「水でつながる文化とくらし-酒と歴史が薫るまち伏見」を将来像に掲げた「京都市(伏見地区)中心市街地活性化基本計画」が策定される。翌年2月にはこれを受けてまちづくり運営機関(TMO)「伏見夢工房」が発足。観光協会を中心に、酒造組合や商店街が連携してまちづくりが進められた。平成15年(2003)9月には、情報発信拠点「伏見夢百衆」がオープンした。ここは大正8年(1919)に月桂冠本社として建てられた町家建築で、伏見の蔵元16社・約80銘柄を揃える販売コーナーが目玉だ。
 地場産業との連携も伏見のまちづくりの特長だ。伏見の地場産業といえば酒造業であり、かつて「伏水(ふしみ)」と表記されたほど良質な伏流水に恵まれた酒どころだ。主な銘柄に月桂冠、黄桜、玉乃光、松竹梅(宝酒造)などがある。中でも月桂冠は寛永14年(1637)の創業で、伏見に現存する最古の酒蔵だ。初代・大倉治右衛門による酒蔵「笠置屋」から始まり、銘柄「月桂冠」を確立したのは中興の祖・11代大倉恒吉(つねきち)である。創業地には文政11年(1828)築の大倉家本宅が残る。周囲には町家や酒蔵が並び、脇を流れる濠川とあわせて独特の景観を形づくっている。その1つの「月桂冠大倉記念館」は、明治42年(1909)築の酒蔵を活用した博物館で昭和57年(1982)に開設、創業350年目に当たる昭和62年(1987)に一般公開された。
 近年は、水辺空間の活用がさらに広がっている。令和3年(2021)4月、伏見港が国土交通省の「みなとオアシス」に登録され、それを受けて翌令和4年(2022)9月には『伏見の「みなと」を中心としたまちづくりビジョン』が策定・公表された。サブタイトルは「水と歴史を活かした『みなと暮らし』を楽しめるまちづくり」。京阪中書島駅南側の伏見港公園(都市公園)、両岸に広がる伏見みなと公園広場(港湾緑地)、三栖閘門資料館のある伏見みなと広場(国所管河川緑地)を「ふしみなーと」として一体的に整備する計画である。
 令和6年(2024)10月13日には、「淀川クルーズFESTIVAL」が開催された。大阪・八軒家浜と伏見の船着場を結ぶ淀川の「伏見航路」が62年ぶりに復活するという、観光船就航イベントである。
 伏見の酒蔵と水辺の景観は、京の港が刻んだ時間と人々の営みに裏打ちされた遺産である。ここから育まれる郷土愛も、また歴史の一部と言えるだろう。


(先月号「宮城県石巻市」に関する追記)
先月号で七十七銀行石巻支店の発祥地を調べるにあたり「石巻千石船の会」の本間英一会長が所蔵する古地図が決め手となった。その後、同行の「銭箱」が現存するとのことで写真を拝見したところ、上下左右いずれから読んでも「七十七」となる旧行章が刻印されていた。「鶴亀マーク」と呼ばれる現行章の成り立ちが窺える貴重な史料である。本間会長のご厚意によりここに紹介する。

プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。主著に「自治体の財政診断入門」(学芸出版社)、「公民連携パークマネジメント」(同)

図4 広域図
図6 七十七銀行の銭箱