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昭和100年―百年前の新聞や日記から―その2

元国際交流基金 吾郷 俊樹

 前号に続き、「新聞集成昭和史の証言」など当時の新聞や日記などを手がかりに、昭和の初めの日本を紐解く。
4 経済・産業
 昭和2年と言えば金融恐慌の年。新聞各紙にはその関連の記事が多く、大蔵省の登場多数。平成の前半に見たような既視感。
(1)金融恐慌
 新年早々、「銀行合同状況 昨年における」〔1.7 東日〕は、「大蔵省発表―昨年中における銀行合同状況は次の通りで合併または買収により設立又は存続せる銀行は九十一行その資本金四億八千九百一万四千五百円、合併又は買収により消滅せる銀行及び他業会社数は百廿三、その資本金九千百七万六千三百五十円…」と報じる。
 金融監督当局では、「銀行検査徹底のため検査官増員予算計上 銀行局検査課新設」〔2.17國民〕「大蔵省では我国の銀行破綻続出に伴ふ弊害に鑑み愈々年来の県案たる銀行検査の充実を図るべく…銀行局では現在六名の検査官を更に十二名増員して十八名となし、又現在十八名の属は更に五十四名に雇員もまた五十四名に増員される、而も検査官は全部高等官でありその中一名は勅任となるから銀行局の組織は非常に広大なものとなる訳である」との記事。
 金融界では、「徳島銀行の取附 向ふ2週間休業発表 徳島県経済界火の消えたよう」〔2.24 山陽〕は、「株式会社徳島銀行、(資本金百三十万)は…二十二日は本店所在地の徳島市内で取り付けられ七十万円の取付を見た、これがため同夜重役会議を開き徹宵協議の結果二十三日から向こふ二週間行務整理のため休業を発表し重役一同は二十三日朝五時大野知事を訪問しその旨を申しでた。同行は徳島県並びに徳島市の金庫事務を取扱ひ又県下百三十七ケ村の公金を取り扱って居るため県下の経済界は全く火の消えたごとくである」との報道。
 「震災手形所持銀行 主なるものと其金額」〔3.4 國民〕は「震災処理法案の審議に際し在野党が疑問の焦点となし、終始政府に向かってその内示を要求するにかかわらず当局の断固之を拒絶しつつある手形所持銀行の主なるもの、及びその所有額の大要は左の通りである。総額二億七百余万円 台湾銀行一億二千万円 十五銀行八百五十万円…」。「今十五日より東京渡邊銀行休業 震手案でも救はれぬ 休業は当然の成行」〔3.15 時事〕、「金融界の不安拡大し 中井銀行遂に休業 渡邊銀行破綻の餘波を受けて」〔3.19 時事〕、「村井銀行も休業 関西方面にも影響の怖れ」〔3.23 時事夕刊〕と銀行休業の報道が続く。
 「新聞集成昭和史の証言」によると、「昭和金融恐慌の最大の震源となったもう一つの原因は台湾銀行と鈴木商店の癒着からともいえる」という。この点、「大蔵当局の鈴木商店整理方針 別に救済方法取らぬ 関係会社は個々に存続させる」〔4.2 中外商業〕は「鈴木と台銀とは今は殆ど切り離すことのできない立場にあり、しかも台銀の整理を徹底的整理を行ふ必要があり、これが為には鈴木商店の関係事業会社にしてここに生きる途があるにおいては一鈴木商店そのものの存続如何は寧ろ問題とするところがないわけであり、事実単なる鈴木商店の存続如何といふことは…たいした問題ではないとさへいわれている。」、「台銀は絶対安全 一般財界にも影響ない 片岡蔵相談」では、「今日鈴木が倒れたからといつて一般金融市場に影響することは無論なかるべく、況んやそれがために台湾銀行に影響するやうなことは絶対にない」との報道。しかし、その後、「内地及び海外における台湾銀行支店全部休業 けふから向けふ三週間」〔4.19 時事/夕刊〕との記事。文豪、永井荷風の38歳から死の前日までの日記「断腸亭日乗」も「四月十八日 …此夕号外売台湾銀行閉店の事を報ず、三月以来銀行の破産する者甚多し」と記す。
 「銀行休業の教訓」〔4.6 時事〕は、「最近の京浜地方銀行休業騒ぎは、渡邊銀行他六行の休業に依つて一段落を告げたのであるが、是等銀行の大部分は、依然として整理の芽は夏數、当初預金者に約束したる二週間の休業期間後に開業すること、いずれも不可能にして、更に夫々延期したのである。」という。
 「新聞集成昭和史の証言」によると、「鈴木商店は大正時代に大番頭金子直吉の手腕によって一時は三井、三菱と比肩するほどの大財閥を築いた。…この“鈴木王国”発展のバックになって金融面を支えたのは台湾銀行であつた。…しかし、第一次大戦が終結後の不況で受註は減る一方、放漫経営が災いして…借金は雪だるま式にふえた。…金子は『鈴木商店がつぶれるときは、日本財界がつぶれるときだ。政府は決して鈴木をつぶさない』と、強気で台湾銀行から借りまくった。…」というが、「鈴木商店の全社員 1千名愈よ整理か」〔4.19 国民〕は「神戸鈴木商店の破綻は遂に台湾銀行の休業となり経済界にも政界にも大波瀾を巻起こしたがここに立至っては鈴木商店としても最早成り行きに任せるほかなく、…一先づ全社員を解雇し、必要の社員だけを改めて採用するとの取沙汰さへ伝えられ、社員は不安の念にかられている。」との報道。
 田中義一内閣が発足する中、「十五銀行遂に休業 総預金三億余万円 総計八十数箇所」〔4.21 時事〕は、「十五銀行は今回の金融不安に際して近江銀行休業の余波を受け大坂方面京都方面に取付を受けた一方各銀行から交換尻の取付を受け日々窮状を訴へ…二一日の支払い準備が出来ず遂に二一日より向ふ三週間休業の矢向かいに至り今暁二時半重役会にて決定是を発表した。」
 十五銀行の休業につき、大正7年創業のパナソニックグループ創業者 松下幸之助は日本経済新聞の「私の履歴書」で「昭和二年の銀行パニックには松下電器もご多分にもれず被害を受けた…当時の取引銀行は十五銀行が中心で、…同年四月銀行の取付騒ぎが始まったが、私は五大銀行の一つである十五銀行がまさかと思って預金を引き出す気持ちになれずにいた。ところが二十一日朝『十五銀行支払い停止』の新聞見出し。『アッ』と思い『やはりダメやったか』とがっかりした。…ところが幸いなことにこの二か月ほど前に住友銀行の支店との間に取引の契約ができていた。この契約のいきさつは一生忘れることのできないものである。…さて取付け騒ぎ、支払い停止などが起こってみると、自分はいかに住友といえども先の約束はムリだろうと思い、念のためたずねてみたら『約束を変えねばならない状態ではありませんから、いつでもご利用ください。』ときた。これにはうれしいと同時に約束履行を疑った私が恥かしくてたまらなかった。このように運が強いというか、あの困難な時に一方に流通の道が開かれたのであった。」と語る。パナソニックのWebsiteによると、松下幸之助がその昭和2年4月に売り出した新商品、角形ランプを「ナショナルランプ」として、新聞広告を打つと、「予想をはるかに超えるほどの大ヒット商品となった」という。
 「全国各銀行一せいに本日より休業に決定」〔4.22 東朝〕は、「全国各銀行は二十二日より二十三日まで二日間臨時休業することに組合銀行の総会において決定…」との記事。アイザワ証券創業者で、後の東証理事長藍澤彌八は日経新聞の「私の履歴書」で「…震災手形の再割引は最初大正十四年九月末という期限があったが、整理が予定通りに進まず、…その打ち切りに際して1億円ではとうてい足りそうもないことがわかったので、時の若槻内閣は新しい震災手形法案を準備したが、これが議会で問題となった。このため震災手形に対する不信が、震災手形を抱えている銀行に対する不安となって、まず渡辺銀行の休業となり、これをきっかけに各地に取付け騒ぎが起こり、銀行がばたばたとつぶれていくのである。これに拍車をかけたのが、例の鈴木商店の倒産事件で、各取引所とも大暴落で、ついには休会となってしまった。…」と回顧。
 「取付け騒ぎから新に世間へ二百円札と五十円札 けふと明日から発行される臨時の物だと当局で語る」〔4.25 時事〕は「取付騒ぎに各銀行は何れも力のある限り日本銀行からお札を借り出した…日銀も目下の重大な時局に対しては此際非常に決心を要すとし、従来の百円や二十円札などでは製造に甚しい手間がかかり急場間に合わぬといけないと、…新たに二百円と五十円札を発行することとし、二十四日官報号外で、告示し何時でもこいと気構えを見せた。」の記事。
 「特別融資も糠喜び……休銀改行殆ど絶望 差当り復活の見込みあるのは十五、中井、廣部位か」〔5.12 時事〕は「日本銀行特別融通補償法案が議会で通過した時には休業銀行は全部復活開業し得るものの如く考えられたやうであるが事実は…営業継続の見込みなきものは…復活覚束ないと云ふことが明らかになつた然らば三月十五日以来の都下休業銀行中果たして幾何が開業し得るかといふに、精々二三行で他は全部可能性のないものと見られる、…」。
 「借金黨の口実が消えてなくなる日 五億圓の大注射が利いて 財界はまるで無風状態けふのモラトリアム明け」〔5.14 大朝〕は「モラトリアム明けの近畿以西の金融界のバロメーター日銀大阪支店の内外の空気は、モラ実施前日の四月二十一日の未曽有の財界大地震の日と思ひくらべるとまさに隔世の感がある、…二人の守衛が退屈さうの数党がかりの窓際を行きつ戻りつ…」と平静さを取り戻したことを報道。
 「大分縣下の両銀 合併愈よ決定」〔8.1 福岡日日〕は「大分県下の二大銀行たる大分二十三両銀行の合併に関する臨時株主総会は…両銀行の合併は芽出たく正式決定を見た。」との記事。
 金融恐慌の金融界に与えた影響について、「金融恐慌が齋らした 五大銀行預金増加 全國で約五億圓の激増 増加率では三菱が第一位」〔9.4 時事〕は「今春の金融恐慌で東西銀行の預金が著しく移動した…とくに大銀行へ預金集中の傾向は本年上半期決算面において如実に之を証明してをる、…昭和元年下半期末における三井、三菱、第一、安田、住友の東西五大銀行の預金総額は二十二億三千三百万円であつたのが昭和二年上半期には概算二十七億一千六七百万円に上り半期間の預金増加額は実に五億円に垂んとしている…」と報ずる。荷風も住友銀行や三菱銀行を利用していて、「断腸亭日乗」を見ると全集の契約手附金壱萬五千円につき、出版社から昭和2年「六月廿一日…住友銀行小切手を持参せり、…六月廿二日 正午三菱銀行に赴き、…小切手を示せしに支払証明書を要すべき趣に付、直ちに住友銀行芝口支店に赴き、証明書を受け取り、再び三菱銀行に立ち戻り、ここに初めて預入をなし得たり、」と記す。
 「地方銀行の合同状況 決定五件(廿七行)交渉中のもの九件(四十九行)」〔9.19 都〕は「大蔵省では過般来関場検査課長以下各検査官を府県に派遣して地方銀行の検査に着手するとともにこれを機として地方銀行の合同を慫慂しつつあることは既報の如くであるが、今日までに合同談の成立せるもの並びに合同交渉の進捗しつつあるものは左の如くである。…」と伝える。
 「十五は幾曲折の後 結局は合併整理 単独整理不可能言明」〔11.24 中外商事〕は「十五銀行の単独整理案に対しては、別項の如く金融機関監督の任にある大蔵当局と日銀当局とがこれを承認しないといふことになれば、到底成立の見込みはないから、…若し合併整理となれば重役の私財提供も余計せねばならぬ外に未払株に対しても、原則として全額徴収といふことになり、重役や株主側から見れば、非常な苦痛であるから、…今後なほ相当の時日を要するであらうと見られている。」。
 「華族會舘の積立金で既に 貧窮華族の救済に着手す 給與と貸付けの二方法に依りて 十五の未拂込金拂払込後の救済は別途に考慮」〔12.11 国民〕は「今春十五銀行休業以来、株主たり預金者たる華族中には窮乏の極に達せる者少しとせず、更に単独開業有望となるや株主華族中には未払込み金払込問題に悩殺せらるる者亦少なからずこれが救済策如何は頗る世の注目するところとなつているが、華族会館においては既に今夏、中元前後より同館積立金を運用して、一部華族のために給与若しくは貸付けの二方法を継続し来つていることが判明した。…」。
写真 (「経営の神様」と呼ばれた松下幸之助(左)と昭和2年に大ヒットした「ナショナルランプ」の看板(右) 提供:パナソニックホールディングス株式会社 1927年(昭和2年) - 社史 - パナソニック ホールディングス)
写真 (東証理事長となったアイザワ証券の「創業者藍澤彌八」(左) 提供:アイザワ証券グループ株式会社、アイザワ証券100年の歩みと1927年(昭和2年)竣工の東京株式取引所市場館(右) 提供:(株)日本取引所グループ 株式取引所開設140周年 | 沿革(日本取引所グループ) | 日本取引所グループ)
写真 (金融恐慌により預金の「増加率では第一位」の三菱銀行。大正11年竣工の本店。出典:建築学会 編『明治大正建築写真聚覧』,建築学会,昭11. 国立国会図書館デジタルコレクション 明治大正建築写真聚覧 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
写真 (華族会館「華族会館の内部也元々鹿鳴館と称したりしが、後今の名に改む、華族諸公の倶楽部なり」 出典:『東京風景』,小川一真出版部,明44.4. 国立国会図書館デジタルコレクション 東京風景 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
(2)交通
 読売新聞昭和時代プロジェクトの「昭和時代 戦前・戦中期」によると、「大正末期には、近代的なビジネス街の基礎がほぼできあがっていた丸の内だが、二十三年の関東大震災を境に、企業の一極集中が進んだ。…大企業の多くがここに本店を構え、丸の内は世界有数のビジネスセンターへと発展」、「…通勤するサラリーマンの数も一気に増え…一九二三(大正一二)年度の東京駅の年間乗降客は、二五五〇万人で、上野駅を抜いて一位。一九年には中央線が乗り入れ、二五年には山手線が全面開通。朝夕の通勤時の混雑は『ラッシュアワー』と呼ばれるように」なり、「大震災で打撃を受けた路面電車に代わって、市営バスが急速に定着…。」したという。
 定期航空便が始まったばかりの昭和元年大晦日、「本年度の定期航空終る 航程實に十五萬余キロ 我國最初の記録」〔12.31 東朝〕は「本社東西定期航空本年度の飛行は…四月より本年納めの飛行実施成績は、…合計十五万五千百七十四キロメートルとなり…日本航空界定期航空最初の記録である」との記事。
 自動車の普及が進んでいたこの頃、「米國の自慢 世界自動車数」〔1.12 東朝〕は、「米国商務省の調査による昨年九月三十日現在の世界自動車数は二千四百五十八万九千二百四十九台で七十一人に対する一台の割合であると◇その内米国は二〇〇五万千二百七十六第で米国全人口に割当て六人に一台、米国以外は四百五十三万七千九百七十三台米国以外の全世界の人口に対し三百六十一人に一台の割◇英国は八十一万九百五十七台で五十五人に一台、フランス七十三万五千台で五十人に一台、カナダは七十一万五千九百六十台で十三人に一台◇日本はカナダにも遠く及ばず三万二千六百九十八台で千八百九人に一台、支那は一万三千六百八十一台で三万千八百七十一人に一台◇商務省ではこの統計に付加して「一国の富力は自動車の利用が標準となる」と…」と米国の圧倒的な国力を報じる。当時の新聞広告では「Ford自動車業界に第1位を占むるフォード 他社は供はん、当社は導く」〔東朝3.30〕、「LINCOLN リンコン リンコン自動車新陳列室へ御招待 …リンコン號は金に飽かして最上のものを御買い求めになる、社交界及び財界著名の御方々の為に制作せられています フォード自動車會社の分身 リンコン自動車會社…」〔東朝4.3〕と今だと嫌味に聞こえる宣伝文句。「自動車請求者は先づ他社製同価格級車とオークランド號六気筒車とを比較せられよ…日本ゼネラル・モーターズ株式会社」〔東朝4.16〕とライバルは性能を売りにする。
 自動車の時代らしく、「市電の赤えり嬢 今月限りで姿を消す 全部自動車部の方へ轉勤 それに不服で電気局へ嘆願」〔1.23 東朝〕は「電車部の方では人員が余り、自動車部の方は不足の状態なので、…女車掌三十名いづれも自動車部に転じさせ…いはゆる赤えりの女車掌は市内電車から全く姿を消すこととなつた、ところで赤えり嬢は収まらず二十日に至り…『私達はとうてい自動車に乗務するには体質が許さない』といふ事に一決、…」。
 関門トンネル。「日本最初の海底隧道 関門に廿日から工事始め」〔3.4 時事〕は「…日本鉄道史に特筆す可き此工事は愈々来る二十日から施行される事に決定した。」
 飛行機。「我航空界の新時代 國際航空路を作る 東京、大阪、福岡三ケ所に飛行場 東京は洲崎に實現」〔3.5 國民〕は「…今議会で…計上した六十三万円の予算が通過すれば直ちに東京、大阪、福岡の三ケ所に水陸両用の国際飛行場を設置する筈で、用地購入その他の準備を進めることになつた…」という。
 鉄道。「満鉄創業二十周年を祝す」〔4.1満州日日〕は「日露戦役が終り、…明治三十九年の秋、故児玉伯並びに故寺内伯等に依つて創立されたる南満州鉄道株式会社は、開業以来ここに二十年、本日を以てその創業二十周年記念日に相当し、本社並びに沿線各地において、記念祝賀式挙行せらる。…農業に工業に商業に、満鉄会社の経営に属するものは、殆ど満蒙に於ける大系の整つた又内容の充実した事業の全部に亘つて居る。…」
 国内でも鉄道が開通。「小田原急行の全通 湘南の春動く四月一日」(4.2 鉄道時報)は「資本金三千万円をもって大正十二年五月其の創立を見た小田原急行鉄道株式会社にては新宿駅を起点とし一路東海道小田原に至る延長五十一哩四分…の電気鉄道を計画し、…着々その建設を急いでいたが、…幹部諸氏の努力により予期の如く四月一日を卜して全線の開通を見、運輸営業を開始…(中略)…運賃は対哩制とし…最低を五銭とし、全線一円三六銭…」。
 当時も花見を楽しむ人は多いのか、「鉄道乗客の新記録 東鉄管内だけでの切符売上げ 百一万五千六百」〔4.12 報知〕は「花に浮かれ春に誘はれて乗出したきのふの人の波は今春第一のものであつた。東京鉄道局管内のきのふだけの切符売上総額は驚くなかれ百一万五千六百人余人、収入は四十万二千百六十四円といふ数に上っている…東鉄始まって以来の新記録である。…一番多かつたのが上野駅で乗降客合わせて約二十一万人、次が新宿で十二万であるが桜より海岸に行った者も多く…」との記事。
 「東京と大阪間に高速度電鐡の計画 発起人は東西財界の有力者たち 複線として 總資本二億五千萬圓」〔5.7 時事〕は「東京大阪間に高速度電気鉄道を敷設し現在の商船特急列車より尚ほ短時間に両市との旅客輸送を図らんとする東西財界有力者の計画は六日開会された大阪市会で八項の条件を附し乗り入れを認められた。」との記事。
 ライト兄弟の飛行機の発明からまだ四半世紀。飛行機の性能はまだまだ。そんな中、「大西洋横断飛行機 無事パリーに着く ニューヨークから無着陸で リンドバーグ大尉の大成功」〔5.23 讀賣〕は「アメリカの巴里紐育無着陸飛行を決行したリンドバーグ大尉は本日午後十時三十分巴里に無事到着した。」、「十万の群衆なだれ多数の負傷者出づ」は「リンドバーグ大尉の飛来を待つて…着陸場に集まつた十万に余る群集の破れん計りの拍手歓呼裡に大西洋横断期は無事着陸し大尉は殆ど引き摺り下ろされる様に地上の人となつたフランス官憲は即刻大尉を役所に連れ行フランス人医師をして診察の上強壮剤の注射を行はしめた後睡眠休息の為更に大尉を自動車でこつそり秘密室に運び去つた此の間群集は此の空の勇者の姿を見んものと押し合へし合ひした結果遂に柵を滅茶滅茶に破壊し多数の男女及び子供は負傷するに至つた」とその熱狂を伝える。
 交通事故も急増。「自動車の殺傷 月に四千人 丗七萬五千圓に上る科料のお金 交通網に見る變つた世相の動き」〔9.9〕は「大正十年四千九十七台であった自動車が昨年末には一万三千百六十三台に殖え、自転車は二十一万四千百五十三両から一躍四十二万六千八百六十二両へ、オートバイが八百二十二台から千八百六十七台に殖えたのに反して、一万七千六百九十五台あった人力車は約九百両減って八千七百七十六両に手挽荷車が十四万七千八百八十二台から十二万四千三百五十二台に、八十四両あった乗用馬車は愈々激減したわずか十一両の影をとどめているあはれさ。…東京市民を脅威する交通事故を調べてみると殖える一方で、最近は毎日五十数件を数へている、最も多いのは自動車で毎月七百三十件以上、次が自転車で五百六十六件平均、次が電車で百三十件平均といふ順だが、昨年の事故件数一万五千九百五十五件の中、自動車が、六千三百六十八件で八十名の命を奪ひ、三千四百二十二名を傷つけ自転車が五千三百五十五件で二十六名の死者と三千五百五十六名の負傷者を出している。」の記事。
 リンドバーグの成功の後も様々な挑戦が続いたのだろうが成功の影には多くの失敗。「問題となった大洋横断飛行 既に六機不明で 犠牲者實に十九名 カナダでは禁止法案 米國政府も禁厭態度」〔9.11 大朝〕は「さきにアメリカ本土、ハワイ間太平洋横断無着陸飛行参加機が三機とも行方不明となり、その後、イギリスからカナダに向け大西洋横断飛行の途に上つたセント・ラファエル号をはじめとし…いまだ消息不明となついている有様なので、これがため一般の人心は飛行機の大洋横断について極度に恐怖の念を抱くにいたつた。」という。
 自動車が増えても物流はまだ馬が頼り。「物価の引き下げは 先づ荷馬車改善に 全國大都市に模範きう舎を設け 六億圓の運賃半減」〔11.18 東朝夕刊〕は「…概ね都市のきう舎は市外に…置かれているが、…品物を積む汐留とか秋葉原に来るまでに三四時間を費し、いよいよ仕事にかかる時には人馬ともにつかれ真夏などには朝かげや夕方の涼しい間がきう舎からの往復に使用され、暑い真最中に働くという奇現象を呈している。…そこで市内の駅付近に共同模範きう舎を作れば衛生的にもよくまづ二倍の運送能率をあげ得、新しい品物が安く購入されるといふ事になるのである。…」という。
写真 ((左)「三十五年前初めて製造した古自動車を眺むるヘンリー・フォードとその息、後方にあるは工場創始以来千五百萬台目といふ縁起の車」、(右)「デトロイトのゼネラル・モータース・ビルディング」 出典:いずれも大阪朝日新聞経済部 編『国際経済画報』第1輯,朝日新聞社,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション 国際経済画報 第1輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション、国際経済画報 第1輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
写真 (「三十三時間半の後美事仏蘭西巴里のル・ブルージュ飛行場に安着のリンドバーグ號 円内はリンディと誤られた見物の一米人」 出典:ジヨーヂ・ブキヤナン・フアイフ 著 ほか『リンドバーグ物語:孤独の荒鷲』,日本飛行学校出版部,昭和4. 国立国会図書館デジタルコレクション リンドバーグ物語:孤独の荒鷲 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
(3)その他
 貿易。「本年の貿易概算 輸出二十億千五百六十九萬九千圓輸入廿三億四千本百五十四萬五千」〔12.28 読売〕は「(大蔵省発表〕去る廿五日締切った十二月中の対外貿易は…前年に比較すれば輸出は二億八千九百八十九萬一千円輸入は二億二千八百十一萬三千円の各減少…」と報ずる。当時の新聞広告〔東朝4.6〕を見ると、「味覚を通じて全世界に日本を紹介する味の素 味の素の輸出激増は廣く世界に眞の日本を知らしむる一助となつてをります。…世界的調味料 味の素 味の素本舗 株式會社 鈴木商店…」。
 国債。「昨年末の國債総額五十一億六千萬圓 前年末より一億三千萬圓増加 大蔵省發表」〔1.14中外商業〕は、単位千円で、「内国債 五分利公債六四四、〇五八…計三、六八四、三八八 外国債 第一回四分利月英貨公債 九一、三五二…計 一、四七七、八六八 合計 五、二六二、二五七」の報道。
 エネルギー問題。「筑豊石炭の命脈が尽きた後の善後措置が肝心」〔1.15 九州日報〕は「欧乱時代の全盛期に濫掘せられた結果其寿命も著しく短縮せられたので或る専門家は三〇年を出ないであらおうと観測し又一部識者間では十四五年の命脈を保つことはあるまいとみるものもありいずれにしてもその寿命は永い事ではないと観測するが至当であるので、今から終末後の善後方策を考究して置く事は燃料問題の解決は勿論筑豊方面二十数万の炭鉱現業院生活上の社会問題解決の上にも極めて重大な問題である…」との記事。
 電力。「恵まるる水電國よ 中部地方の総發電力 実に八十萬キロ突破」〔2.17新愛知〕は、「中部地方愛知、三重、長野、富山、石川六県下の昨年来の総発電力は事業用と自家用とを併せて七十五万五百十キロワツトであつたが目下工事中のもの拡張工事中のもの併せて約十万キロワットが竣工するから本年末の総発電量は八十五万キロを突破するはずである…」との記事。
 「海外の売思惑から圓為替大暴落を来す 対米四十六弗壺に落つ」〔5.20 時事〕は「既報の通り為替相場は連日軟化を続けていたが一九日の市場に於いて甚だしい暴落を演ずるに至り予想外の混乱状態に陥つた当日午前中既に四十七弗を割り買手の追求に刻々軟化し遂に四十六弗十六分の九の出会ひさへ出現し引き際は売り手は四十六弗半を唱え、…問題は斯くの如き円貨激落が何に因るかにある直接の動機は…紐育上海両市場における円買思惑の進展にある」。マーケットの思惑で為替が動くのは当時も同じ。大正15年に京都大学を卒業した奥村綱雄野村證券会長は、後の金解禁の際のおり、「識者の多くは、金解禁はしょせん失敗におわり、遠からず再禁止になるだろうと予言した。もしそうなれば、円の暴落は必至である。…円の暴落が避けられないとしたら、イギリスなり…の外国で発行している社債や国債に投資する以外にない。これは一種のドル買いだが、若いわれわれの宣伝が功を奏して、一般投資家は外貨債の買い出しに殺到した。」と日本経済新聞の「私の履歴書」で語る。その野村證券は今年創業100年目。同社のWebsiteによると創業者野村徳七は、1906年に野村徳七商店に調査部を設置、1918年に大阪野村銀行を設立し、1925年にその証券部が野村證券として独立、1年3か月後の1927年にはニューヨーク出張所を設置したという。
 「日露戦争以来の公債額の大増加 總額五十六億余圓」〔6.19 中央夕刊〕は「大蔵用理財局の調査によれば昭和二年三月末(前年度末)現在の国債の総額は五十一億七千百七十六万六千円であつてこの利払額として年々国民の負担に帰すべき額は、二億五千四百六万円の巨額に達したが、…昭和二年度の公債額は…五十六億五千余万円と云ふ空前の巨額に達すべく…種々の事情によるものとは云へ国債が斯くの如く急激な増加を見る例は日露戦争当時の特別公債発行委細の異常なる財政状態と云ふべきである。」の記事。
 米。前年の四一〇萬石減の不作から一転。昭和2年、「第一回米収穫豫想 六千百四十九万石 前年比一割六厘増収 平年比六分五厘増収」〔10.2 中外商業〕は「…九月二十日現在における予想収穫高は六千百四十九万二千八百五十石にして、これを前年収穫高に比すれば五百九十一万二百十八石(一割六厘)を…増加せり…」。結果、「お米は下がる一方 五年来の新安値 山地が投売りをやめぬ限り 市場はまるで窒息 一日一萬四千俵・新米の大洪水」〔10.5 東日〕。「さあさあ買った買ったと押寄せた米の洪水 きのふ政府買い上げの初日に深川のすごい光景」〔11.18 東朝〕は「今年の秋は豊かに実つて政府の増収予想を突破すること六十万石の大豊年、それに持ち越しの残存米もそれ以上の大量が国立倉庫にギッシリ詰まつているといふので米価の崩落を心配した山本農相は新米五十万石の政府買い上げを先頃発表したが、…東京では十六日の深夜から深川濱園町の米穀事務所に多数の応募者が白熱的に殺到し申し込み数宇は百十六口十三万九千石に達しさながらここへお米の洪水が押し寄せた様即日応募超過になつたかの感があり大正七年の米騒動の際の払ひ下げや大正十年の米穀法開始当時以上全く未曽有のすさまじい光景を呈した。」
 「美唄鉱山の瓦斯爆発 折柄入坑中の者約七十名」〔11.13 北海タイムス〕は「十二日午前四時半頃空知郡美唄炭鉱常磐竪坑第二中段で瓦斯突然爆発し折柄入坑中の坑夫並びに技術員等約七十名の死傷者を出したが…罹災家族等押しかけ惨憺たる中に嗚咽の声にて悲惨を極めている」。当時の炭鉱には事故が多く、明治42年に三菱合資会社の石炭部に入った池田亀三郎三菱油化社長は日本経済新聞の「私の履歴書」で、「当時の新入は毎日のような坑内火災で…火消しの仕事ばかりをやらされ、そのうえ意識を失って病院にかつぎこまれることしばしばとあってはやりきれない。」と語り、大夕張炭鉱長時代、「本格的開発については私としても、それほどはっきりした自信はなかった。そこで大正十五年、海外炭鉱視察の旅に出た。まずアメリカに行ったが、炭鉱の条件がよすぎて参考にならない。つぎにイギリスに渡ったら、ちょうど炭鉱の大ストライキのまっ最中…それからドイツの炭鉱を視察したが、…これをみて私はあるヒントを得、大夕張の経営に自信をつけた。」と語る。
 お米は豊作でも世の中は不況。「八幡製鐡所で突如 七百名減員を發表 一萬七千の従業員俄に驚愕 これも財界不況の影響」〔12.1 福岡日日〕は「八幡製鉄所は独立会計実施に伴ひ部下配合人員淘汰等専ら所内の整理中であつたが三十日附突如職工七百名を十二月十四日限り事業の都合に依り解職することを発表し一万七千余りの従業員を驚愕せしめて居る。」。
 不況でも稼ぐ人は稼ぐ、「所得額から見た 大金持ち番附 五萬圓以上が京濱間に七百人 百万圓以上が九人 個人で最高は岩崎久彌男」〔12.5 東日〕は「日本一の大金モチは誰か―昭和二年をのぞいて見ると岩崎久彌男の所得が四百二十一万円で第一位、次は三井八郎右衛門男の三百二十九万円、ところが此の両家はマルで競争のかたち大正十五年(昭和元年)には三井は岩崎を凌ぎ、その前の十四年は岩崎にマケているといふ状態、とにかく日本での両大関であることに間違ひない…」、「細川護立候が殿様の筆頭」は「最近大蔵省が調査した所得額によつて前記の人々のほか著名な人々を拾ひあげてみると先づ殿様金満家筆頭が細川護立候の五十七万八千八百円…」、「社長さんでは服部時計王」は「社長さんでは服部金太郎氏が九十三万五千円、大川合名の大川平三郎氏が八十八万四千円、物産の三井守之助氏が六十九万一千円…」。
写真 (「味の素本舗事務所(左)、発売当時の「味の素®」(右) 提供:味の素株式会社 味の素グループ年表 | 社史・沿革 | 味の素グループ)
写真 (野村証券「設立当時の本店」 提供:野村ホールディングス株式会社野村100年 挑戦の物語|野村グループ|100周年記念サイト)
写真 (三菱財閥3代目で昭和2年の所得「個人で最高額」の「男爵岩崎久彌邸」。右が「茅町邸」、左が「深川邸」。設計者は「岩崎家の信望深くして同家の重要なる建築には殆ど関係せざるものなし」という鹿鳴館の設計者、ジョサイア・コンドル博士。出典:コンドル博士記念表彰会 編『コンドル博士遺作集』,コンドル博士記念表彰会,昭和7. 国立国会図書館デジタルコレクション コンドル博士遺作集 - 国立国会図書館デジタルコレクション)

5 文化

(1)学術、芸術、芸能、出版等
 「女優の實収入と生活 課題提出者 呉市旭町 矢野君江 最高八百圓、タダもある 生活は見栄一点張り だから蔵は立たぬ」〔1.3 読売〕は「日本映画会社の双璧松竹キネマと日活にそツと当つて見ると、松竹キネマの筆頭川田芳子が月給八百円也。そして此の額は、日活の筆頭酒井米子のそれとピタリ合います八百円!少々多過ぎる―などと慌て給ふなかれ、この八百円からトリツクを引くと六百円の間をぶらつくこととなり…◇五百円見当 =岡田嘉子、梅村蓉子(日)、粟島すみ子(松)、◇四百円見当=夏川静江(日)…一級下がった大部屋の筆頭乃至売出盛の佐々木清野、田中絹代…辺になると、先づ百円から百五十円がらみ…其他の連中になると好くて四五十円、タダといふさっぱりしたのも随分居る…」、「小遣い持ち出しでも映画女優たることはをんな冥利であり」は「…処で彼らの生活状態―は元より千差万別だが、只頗る派手派手しい点は一致します。…」。
 当時まだ「売出盛」だった女優、田中絹代は後に日本経済新聞の『私の履歴書』で「…大正十五(昭和元年)には十数本の作品に出演し、満十六歳で準幹部になりました。…昭和二年四月に公開された五所平之助監督の『恥しい夢』という作品の成功が、私に本格的な主演女優の地位を約束してくれました。…人気が出ると、それからが大変です。…次から次へと、切れ目なしに作品に出ていなくてはなりません。…映画が、戦前の最盛期に差しかかった時代でもあり、撮影所の中も、昼夜兼行、不夜城のような活気を呈していました。…監督の名字をとった組の名をつけて、各チームの競作でした。スタジオも遊ばせている暇はなく、使用時間をびっしり割り振って、朝の組、昼の組、夜の組、それにオールナイトの組までありました。一日のうちに、二つも三つもの組をかけもちしたこともあり、…」と語る。
 ラジオの時代。「百萬突破の夢空しく ラジオに凋落の風 わが國に於ける放送事業に…根本的の錯誤發見さる」〔1.22 東日〕は「…東京、大阪、名古屋の三放送局ではがては百万の加入者を得る事もやすやす足るものと予想され、その意味で収入予算も形成せられていたがこの予想は甚だしき錯誤に過ぎないもので…現在の東京廿三万余、大阪七万余、名古屋四万余、計丗右五万の加入者も現在の極限を示すもの…」の記事。
 今年、キネマ旬報Webで「…父を亡くした喜久雄は、上方歌舞伎の名門・花井半二郎に引き取られる。そこで、将来を約束された半二郎の実子・俊介と出会い、互いにライバルとして芸に青春を捧げていく。血筋と才能…人生をもがき苦しみながら歩んだ男が掴んだものとは……」と紹介された歌舞伎を描く映画「国宝」が大ヒット。「断腸亭日乗」でも、昭和2年「七月朔。…太牙に至り食事をなし急ぎ歌舞伎座に赴く、是日初日なり、夜十一時二十分ハネとなる。」などとしばしば歌舞伎を楽しんだ荷風も日記に大正15年「八月廿四日。…俳優の家に生まれざる者の軽々しく身を梨園に投ずることの非なるを知れり」と記すが、歌舞伎の女形から役者になった長谷川一夫は「…女形の修行をこれからも一心に続けて一人前の女形として出世したい気持ちと、家柄のない私がどうあがいてみても、しょせん看板にはなれないじゃないかというあきらめにも似た気持ち、半面どうせやるんなら若いうちにやらなければ……、そして新しい発展期にある映画への大きな魅力、これらの思いが錯綜していました」と日本経済新聞の「私の履歴書」で語る。その歌舞伎。「パリの大劇場に出演を所望される菊五郎 日本の舞踊劇を紹介する絶好の機會と佛國大使館から非公式のすすめ 経費の点が一問題」〔1.31 国民〕は「パリの国立オデオン座で昨年、成立した『国際演劇協会』の第一回公演は、いよいよこの陽春四月蓋あけされることになついているが…各国代表者も是非日本固有の歌舞伎劇をその番組中に加へたい熱望を持ち、フランスの我が大使館でも日本紹介の為に絶好の時期であり、特に日本の舞台劇を紹介したならば外国人を驚倒させる事が出来ると云ふ考へから、尾上菊五郎の芸術をこの晴れの世界演劇競演の舞台にのぼせたい意向で、この程非公式に菊五郎に渡欧の事を観説した所、…喜んですべてのものを犠牲にしても出掛けると大乗り気であるが、約十万円以上の経費を要することでもあり、またこれが実現には種々難問もあるので…」の記事。
 人間国宝、尾上多賀之丞によると「昭和のはじめごろまでは全国に劇場がたくさんあって、…こんなにたくさんあっては役者の数が足りず、一人で三座掛け持ちという頃がよくあ」ったといい、菊五郎「師匠、六代目のことについて、…なんといっても芸にかけては名人中の名人といえます。たとえば、その他の方が『魚屋宗五郎』なり『髪結新三』をおやりになると、だれだれの宗五郎、だれだれの新三という感じがいたしますが、師匠にかぎっては、宗五郎なら宗五郎、新三なら新三そのものになりきっているという感じなのです。…」と日本経済新聞の「私の履歴書」で語る。大老井伊直弼の生涯を描いた大河ドラマの第一作「花の生涯」の原作者、劇作家で横綱審議委員会委員長も務めた舟橋聖一も六代目と縁が深く、幼いころ、祖母のお供で観た歌舞伎で「六代目が扮して、よろめきながら雪を踏んで出て来る花道がよかった。いい顔だった。私は目に焼き付けられ、息をのんだ。」、その「祖母ひろ子が七十七の祝いをした…私は塩瀬の帯に七十七人の知人の一人一人に「㐂」の字を書いてもらって祖母にプレゼントした。その中に十五世羽座衛門、井上正夫、双葉山定次、六代目菊五郎などが入っている。」、戦後昭和「二十六年三月歌舞伎座での『源氏物語』上演によってどうにか人並みの評価がえられるようになった。観客動員にも成功した。…これははじめ六代目菊五郎のために注文されたものであったが、私が脱稿する前に音羽屋が死亡したので、配役が海老蔵に廻ったのである。」とも日経新聞の『私の履歴書』で語る。
 芸能人のスキャンダルは鉄板ネタか。「若様俳優と岡田喜子『椿姫』撮影の半ばに雲隠れ 箱根方面のロケーションから帰って」〔3.29 大朝〕は「日活撮影所新劇部では花形女優岡田嘉子を主役とし最近ドイツから帰朝して竹内良一の芸名で入社した外松男爵の長男従五位外松良一を相手役として…「椿姫」を映画化することになり、…ロケーションを行い、…セットで撮影を継続することとなり、撮影所内にダンスホールや大がかりのセットを造り上げたが、肝心の岡田嘉子も其の相手役の武井内良一も集合時間に姿を現さい…岡田嘉子は…神戸へ行くと云つてで出たきり帰宅せず、竹内良一も…外出したままで帰つて来ない…その後の行方は皆目わからない、両人はやはり恋愛関係に落ちていたもので…嘉子は世間周知の如く山田隆彌の内縁の妻で、貞淑の評判高く、映画女優中でも素養と理性に富んだ女性であつたので『あの女に限つて』と信じられていたものだ、…」との記事。
 学術。今年、1973年にノーベル賞を受賞した江崎玲於奈博士は100歳でご健在、坂口志文博士(医学・生理学賞)、北川進博士(化学賞)の二人の日本人がノーベル賞受賞。百年前は「日本、最初の女博士 保井この子女子に決まる 当代植物學教室藤井博士の下に研鑽十年」〔3.31 國民〕は「…東大理学部では我国で最初の婦人理学博士を学会に送り出すことになつた、此の学会最高の名誉を荷ふ婦人は東大植物遺伝学講座藤井健次郎博士の忠実な助手であり、投稿女子高等師範学校植物学教授である保井この子女史である…」の記事。
 「一円本の流行から印刷と製本の飢饉 あまりの大量生産に東京では間に合はず 一部は大阪へ注文」〔3.31 報知〕は「『全集!全集』いま出版界はいはゆる一円物の全集が洪水のやうに後から後から刊行されている…『本が安くなつたー』こんな言葉がカフエ―のテーブル、電車の中そして湯屋の洗ひ場でさへ聞くやうになつた、大正三年以来、ウナギ上りに上つた書籍が一円本の影響を受けて、日に日に下がつている…いま募集を締切つたものに日本文学、世界文学、科学講座あり、大童で宣伝中のものに、世界大思想、大衆文学、日本随筆、世界戯曲(九十銭)近代劇(未定)等あるが、続いて子供の読み物にまで手を広げて小学生、日本児童文庫等続々刊行されている、今に婦人物も必ず出るであらう…世界文学は四十万を突破、日本は二十五万の予定を超えて増刷の景気、大衆は既に丗五万を突破しているが、五十万はたしかだとどちらを向いても金のウナるような話。処がこまつた事にはあまりの大量生産で…到底東京ではその印刷能力も製本能力も足りないといふので、既に大衆では一部分文を大阪で印刷するとのことである…」。荷風は「断腸亭日乗」に「三月三十日 当代小説叢書刊行のことを談ず、近年予約叢書の刊行流行を極む。此頃電車内の広告にも大衆文藝全集一冊千頁価一円、紙質は善良などいへるを見るなり」とあり、「六月廿一日 晴天…偶然改造社々長山本氏に逢ひたりとて全集本のことにつきて語るところあり、山本は余に契約手付金として壱万五千円を支払い、周旋礼金として金五百円を邦枝子に与ふべき旨云い居れば、枉げて承諾ありたしと云ふ、余邦枝子のいふ所に従ふべき旨返答す、…」と記す。「作家の原稿料」によると、新聞小説の原稿料は昭和2年の「1月、…世情の噂では、『東京日日』や『朝日』は徳田秋声、里見淳、菊池寛、谷崎潤一郎に一回70円という。」。
 「新映画漫表 『父帰る』を見る」〔4.1 読売〕は「松竹…の映画『父帰る』十巻を見る、原作は今更説明する必要もない程菊池寛氏の出世作として有名なもので舞台では幾度も上演されて定評のあるもの…先づ大体においてはいい映画だと云ふことは出来る、…やはりいい原作に従へばいい物が出来ることは確だと云ふことである…」の記事。
 「日活の岡田嘉子が夫の隆彌へ別れの手紙 自分は相手俳優の竹内良一と九州へ恋の道行き」〔4.2 大毎〕は「美貌と芸の巧さとで日活ではなくてはならぬ岡田嘉子が、これも同社の新進俳優で男爵の若様竹内良一とともに同社の特作映画『椿姫』の撮影半ばの去る二七日、いづくともなく姿を消したことはフアン仲間に大きな興味を投げ『果たして恋愛関係かまたは宣伝か』などいろいろ取りざたされていたが、堅い堅いで通つて来た嘉子は…夫山田隆爾を打ち捨て竹内良一と手に手を取つて九州へ恋の道行きをしたことが分かった…愛人であり夫である山田隆彌のもとへ、二八日づけで嘉子から最後の手紙が来た、その手紙には ◇どうぞ許してください、許してくださいと書くのさへ気がとがめて仕方がありませぬ…今かうした手紙を書くわたしをあなたはどんなにお怒りになつているでせう、許して下さい。…」。
 新派。新派女優の水谷八重子は、大正12年9月1日の関東大震災の後「十月十七日から一週間、震災後初めての演劇公演を牛込会館で開けるところまでこぎつけた。…初日を待ちかねて集まってきた観衆は、中腹から坂上の毘沙門天様を越し、肴町の電車通り近くまで列を作った。…生活がさくばくとしてくると、民衆は心の慰楽をもとめたくなるのだろう。そこに演劇の使命がある。…俳優とは観衆への精神的な糧づくりをしているかもしれないと思ったとたん、グーンと感動が迫って、熱涙一滴、私のほおをつたわったのであった。」と日本経済新聞の「私の履歴書」で語るが、「新劇の危機」〔4.5 読売〕は「震災後台頭した新劇運動の目覚ましい機運は、私の見るところ、あまり順調な進み方をしていないやうに思はれる、それは『続いてはいるが進んではいない』といふことである。…」の記事。
 新聞小説原稿料トップランクの徳田秋声につき、荷風は日記に大正15年「十一月六日。…徳田秋声新妻門生等を携へて来るを見る。秋声子の新夫人はもと画工竹久夢二の妻にて淫蕩の噂かくれなき美人なり」と記したが、その秋聲氏と恋を絶ち 山田順子左様なら 『他の枝が出来たか逗子へ別居 軈て之も小説の材料』〔4.12〕 は「文壇の長老徳田秋聲氏が『元の枝』以下の数編の作品で示した通りに、可愛い子鳥である山田順子さんとの二人の生活は昨年来よそ目にもうらやましいほどの仲の良さ、老い木にさえずる小鳥のふぜいは文壇の岡焼連をさわがせていた、それが…二度小鳥は『他の枝へ』飛んで行きさうである…順子さんは…『…先生とは愛人の関係を絶ちましたが師匠と弟子の関係はこれまで通りにしてもらう事になつて居ます』」。その山田順子の小説「婦人世界 呼物揃ひの三月号 果然!問題の戀愛小説現る 『審判の彼方へ』山田順子」との新聞広告〔東朝2.18〕。
 「映画スターを夢みる 活俳志願者の數 日を逐ふて増すばかり 警察や方面委員等が持餘す 若い男女が毎月百名」〔5.6 京都日出〕は「…活動写真が全国に烈しい勢ひで拡がつてゆく、そして全国津々浦々まで映画スターの名が宣伝され『われもわれも』と飛んだ謀反を起こした連中がワイショワイショと東洋のハリウッド京都へ憧れて来るこの活俳志願者はいつになつても減る事なく、…毎月百人以上の若い男女が入洛する、…」。長谷川一夫は、当時の撮影につき、「あまりの撮影の強行軍でさすがに私の母もビックリしまして、『こんなに撮影が激しくては身体がたまらないから考え直さなければあかん。いっそ芝居に戻った方がええのやないか』と撮影を見に来ると言い出しました。」、また、「…私が京都の芝居に出たときに、一緒にいた市川百々之助さんがチャンバラ映画のスターとして騒がれてきましたのもそのころでした。…尊敬と同時にたいへんうらやましいと思うようになりました。私だけでなく、大部屋(下級俳優のいる部屋)で恵まれずにくすぶっている人たちも、ほとんど全員が同じ思いだったと言えます」と日本経済新聞の「私の履歴書」で語る。
 「映画界片々」〔5.17 読売〕は「…◇松竹キネマ蒲田では…『悲願千人切り』を吉野二郎監督オールスターキヤストで映画化することとなつた…◇目下東亜キネマ等持院に俳優研究生として入社している廣田清は名古屋税務監督局へ一五年間も精勤し高等官の待遇、恩給年額五百円を受けている人、将来大いに活躍するさうな。…」と税務職員も映画界入り。
 「大仏次郎プロや菊池寛プロ 文壇の人気作家が自己作品の映画化に乗出す」〔5.17 報知〕は「最近日本映画の驚くべき発達は頑迷な資本家にも投資をさせるようになり国産事業としての機運も大いに熟してきたが、…文壇の大御所菊池寛氏もいよいよ映画界に乗り出す事になり…近く正式に第一回作品を発表するはずである、また大衆文壇の人気作家大仏次郎氏も『鞍馬天狗』『照る日曇る日』等の自己作品の映画化だけでは飽き足らず、…大仏プロダクションをつくり、第一回作品として同氏の大作『天狗騒動記』を映画化する事になつた…」。
 「アルス社主 興文社を訴ふ 遂に沙汰になった児童文庫の争ひ」〔5.21 東朝〕は「『日本児童文庫』発行所たる…アルス社主北原鐡雄氏は…『小学生全集』発行者たる興文社専務取締役…『文藝春秋』代表者菊池寛氏の両氏を相手取り、信用棄損業務妨害の告訴を…東京地方裁判所検事局へ提起した…最初アルスが『日本児童文庫』を発行するに際しその広告を博報堂に依頼したところたまたま同所で興文社側がこれをきき、…『小学生全集』の計画を突然発表して、…訴人をだし抜き…甚だしきは三土文部大臣の小学生全集推薦文書を偽造してこれを新聞に広告し…」の記事。「前からの計画 すべてアルスの宣伝です 興文社の弁明」は「右につき興文社側…は語る。『…要するに、これは新聞種を作って宣伝に利用銭が為の策略でせう…」」
 離れたり、くっついたり、男女の仲はわからない。「順子さんが秋聲婦人に 今秋吉日を選んで 晴れて結ぶ『愛の家』」〔8.4 東日〕は「…文壇にこれはまたおめでたい結婚の話―問題の徳田秋声氏と山田順子さんが愈々今秋十月の吉日を卜して正式に結婚式を挙げ堂々たる夫婦関係を結ぶことに定つた。…断じて結婚せぬを宣言した事のある二人が突然結婚するやうになつた動機は、順子が恩師徳田氏に全身的愛を傾倒しようと決心したことが第一であるが…徳田氏は『順子と私とは年齢が丗もちがふので私としてはこの結婚に非常に躊躇したが、周囲の事情から決行することにした、…」。
 歌劇。荷風の「断腸亭日乗」には、「三月廿七日 …太牙に立ち寄り日の暮るるを待ちて倶に帝国劇場に歌劇ジョコンダを聴く」、「四月廿六日…午後三菱銀行に赴き太牙に憩ふ。夕餉を食して帝国劇場に赴く、露西亜オペラ此宵より十日間興行する由なり、」と当時、帝国劇場で海外のオペラが上演されていたと知れるが、「アンナ・スナブイ嬢松山で藝妓出願 喰い詰めたその歌劇團一行に 身売りして前借金を」〔9.8 山陽〕は「愛媛県警部保安課に金髪美人が『芸者になりたいから許可してください』と届出で来た、…その美人は…各地を巡業していた露国歌劇団のアンナ・スラブイナ歌劇団一行の女優キツチ・スブライナ(二四)で…各地を巡業して松山に来たのは去る二月末…興行したところ…容易に景気が出ず一行七名は売り喰ひの末身動きもならぬことになつたのでスラブイナ嬢は一四の時から習ひ覚えた日本舞踊と三味線を頼りにして芸妓になり前借金を一向六名に提供し帰国せしめやうとして願ひ出たのだと言ふ話であつた。…」。
 オペラといえば、「昭和時代 戦前・戦中期」によると阪急電鉄の創業者、小林一三は一九「一三(大正二)年、「宝塚唄歌隊』(現・宝塚歌劇団)を発足…東京でみたオペラに感銘を受けた小林は、踊りや芝居と西洋音楽を融合させた舞台を目指し、『宝塚少女歌劇団』と改名。翌年、『桃太郎』を題材にした民話劇『ドンブラコ』や日舞などを初公演し、連日大入り」、「一九年には『清く正しく美しく』を校訓とする『宝塚音楽歌劇学校』を設立し、自ら校長に就任…それまで男性の遊興地だった温泉場をファミリーが安心して楽しめる場所に造り替えた…二四年、四〇〇〇人を収容する宝塚大劇場を建設」。
 一時、友人の宝塚歌劇団の先生の家の居候だった画家の東郷青児は日本経済新聞の「私の履歴書」で「創業時代の宝塚は文字通りの少女歌劇で、阪急宝塚線の繁栄と、温泉客を誘致する客引きのような役割を演じていた。それが時勢の波に乗って、見る見るうちに盛大になり、最初も目的を飛び越えて天下の宝塚歌劇になってしまったのである。」と語る。小林一三について、大坂の大和屋の芸者学校出身の芸者だった舞踊家の武原はんは日本経済新聞の「私の履歴書」で「大正から昭和はじめにかけてのよき時代のお座敷(宴会)が思い出深い。…『今夜は小林一三はんが来たはるのやな』『あのお方は芸にうるさいよってに、気が張るな』と話していたと語る。「宝塚百年の夢」によると小林は「演出家である岸田辰弥をヨーロッパに外遊させ、大劇場演劇にふさわしい公演のあり方を探らせ…一年後に帰国した岸田辰弥は自分の見分した経験を綴った舞台を作ろうと計画し、日本で初めてのレビュー『モン・パリ』を企画した。…登場人物延べ数百人…日本の劇場の常識を覆すもの…流れるような場面転換、手足を露出したモダンな衣装などが話題になり、『うるわしの思い出モン・パリ…』の主題歌は日本国中に流行した」という。
 十二歳で宝塚少女歌劇に入り、後に宝塚歌劇団理事となった天津乙女は、日本経済新聞の「私の履歴書」で「モン・パリ」について、「最も宝塚らしいレビューといわれ、このときからはじめて幕なしの舞台となった。…以後この形式はどの劇場でもやるようになり、岸田辰弥先生の創作が大センセーションを巻き起こしたのだった。…まず衣裳。エジプトのダンスの場面で胴だけしか衣装をつけず、あとはお白粉を塗るだけなので、楽屋関係の男性がよくのぞきに来た。ラインダンスも初めて、また下の短い衣装をつけたが、これはいままで皆恥ずかしがって着なかったものだった。…一方では肩や胸を出し、足までとなると“まるでおふろと同じだ”といやがる人も多かった。…新温泉地の他の職場は全部カラッポになったほど。…」と語る。当時の新聞広告〔東朝4.4〕を見ると、「宝塚の生徒が挙って愛用する 純無鉛白粉の権威 御園白粉…宝塚少女歌劇 月組生徒公演 邦楽座 数寄屋橋内…」と宝塚の公演の広告とともに白粉の広告で宝塚の生徒が愛用することが宣伝文句。
 「悦びに疼く十五年の涙 令兄に詫びて蘆花氏死す 一門を率いて伊香保に駆けつけた徳富蘇峰翁の遣る瀬なき嘆き」〔9.19 時事〕は「伊香保温泉仁川亭で愛子夫人の看病を受け専心療養中であつた蘆花徳富富次郎翁(六〇)は一八日午後十時五十分遂に死去した。… 実兄徳富蘇峰氏に『逢いたひ直お出でを乞ふ』と急電を発したので蘇峰氏は長女…三女…六女…末子…等を引き伴れて伊香保に急行、…兄弟反目して以来十五年ぶりに蘆花氏の手を取つて互に感激の涙に咽んだのであつたが、病み疲れながらも兄を迎えた悦びに元気づいた蘆花氏は『之まで私が悪かつた今日日本一の兄を持っている私は直死んでも安心です』と語り頻りに熱海への転地を希望するので蘇峰氏も…その望みをかなえてやると喜んでいた程であつた。…」。
 「岡田嘉子主役…『炎の空』好評 ステージへの再生に 心も軽やかな彼女」〔9.21 東日〕は「あの事件以来、影を潜めていた岡田嘉子が舞台に立つた、しかもフツトライトを浴びるのはまさに三年ぶりとある、廿日からの浅草は公園劇場、『岡田嘉子一座』」の大看板で…殆ど出詰めで活躍しているが『炎の空』の舞台化に新しい興味をつないで公演の人気を一身に集めている感がある。…嘉子さんは語る…急にあの事件に話題が飛ぶと美しい眉を曇らせて『え、え今度芝居に出ることになつてもあちら(山田氏)からは何ともいつて参りませんし、私の方からも何とももう申しやりません、何か私共の舞台に立つことを喜んでいないといふことも聞くには聞いていますがすべては父がすつかり中に入って解決をつけて呉たことですからそれ以上のことは…』と赤い唇を閉じた…」の記事。
 「菊五郎が 六役の奮闘 時代新物世話所作事を 揃えた演舞場」〔9.23 都〕は「新橋演舞場の十月興行は菊五郎、男女蔵、多賀之丞三十郎、彦三郎等一座に福助が加はり一日初日と決定し…時代物、所作事新作、世話物と狂言四種を通じ菊五郎は都合六役出演するといふ。」。大正十年に「ぜひ市村座へ来い」とスカウトされた後の人間国宝、尾上多賀之丞は「芝の六代目さんのお屋敷にあいさつに伺いました。伺ってまず驚いたのはお宅が立派だったことで、…持ち物を拝見すると、それこそ目のくらむような豪華な芸術品ですっかり驚かされました。…六代目さんとお芝居をして感じたことは、いかにもスッキリした純江戸前で、芸に言うに言われぬ品格が感じられたことです。私はこういう立派なお方のためなら、どんな苦労でもしようと心に決めました。」、「…六代目の女房役者だったということを生涯の誇りと思っています。」と日本経済新聞の「私の履歴書」で語る。六代目は、芸の教え方も抜群で、歌舞伎俳優の尾上松緑は「昭和二年の末に六代目(菊五郎)おじさんに預けられ、歌舞伎俳優としての私に一大転機が訪れる」と語る。「…六代目おじさんに徹底的にしごかれたのが第一の思い出となる。…寒中に開口一番『裸になれ』といわれてびっくりした。そうこうするうちにおじさん自身もパンツ一枚になる。まず私の骨組みを見て、舞踊の基礎からはじめようというわけだ。…そこでまず腰のすえ方、筋肉の使い方から訓練してくれたわけだ。…『通らんせ』で両手を広げてうしろへそり返るところへ来ると、おじさんは突如私の腰に膝を当て、背骨の後ろから両方に手をかけて力まかせに引っぱる。私の肩の骨がベキベキベキと音を立てる。そして『そのままにしていろ』というのだ。…このオーバーなところを教えておいて、その痛さをおぼえ込ませておけば、今度自分一人で踊ったときにその痛さのところで止めればちょうどいい形になるわけだ。…七転八倒してけいこを終わり、トイレへ行っていってもしゃがむことさえできず、出るものは油汗ばかりだった。…何回もこのスパルタ方式をやっているうちに、…今までの倍も動くようになって力も入り、いわば究極の形ができるようになるのだ。…これが何カ月も立つと大分手足が動くようになってくる。私は少しばかり自信ができてきた。…次に七曜座でまた『絵島生島』という舞踊をやることになった。…さんざんやり直しをさせておいて疑問を感じさせたところでピシャリ解答を与えてくれるのだ。だから的確に覚えることができる。…私はおじさんの卓抜した教え方にただぼう然としてしまった。…数えあげればキリがないが、とにかくおじさん(六代目菊五郎)の教え方のうまさはまず古今無類といえる。」と日本経済新聞の「私の履歴書」で回顧。
 「『リヤ王』の講義を名残に 坪内老博士が引退 惜しまるる 早稲田の教壇から」〔10.9 東日〕「學生も教授も 別れを惜しむ 余生を演劇博物館に 全力を挙げる決心」は「早稲田大学では…同大学創立以来又歴史ある同大学文学部にとって汲んでも尽きぬ懐かしい思ひ出を持つ坪内逍遥博士が来る十二月第二学期松に沙翁劇『リヤ王』の講義が終了するのを機会に永久に早稲田学園の教壇から姿を消すこととなつた、…学校当局では極力引き留め運動をしたが辞意堅きため遂に教授会で博士の辞任を許可するのやむなきに至つたもの…」、「学生も教授も別れを惜しむ 餘生を演劇博物館に 全力を捧げる決心」は「同大学文学部教授金子馬治博士は語る『…今後永久にあの有名な沙翁劇の講義、博士独特の舞台の台詞そのままの名調子講義振りを聴くことのできないのは残念で堪りません』」。
 絵画。「最高の誉れ 美術院賞 第一部(日本画)『築地明石町』鏑木清方 第二部(洋画)『裸體』田邉 至 第三部(彫刻)『大乗』横江嘉純」〔10.20 東日〕は「本年度の美術界最高名誉賞たる美術院賞を決定すべき技術院会議は…各部とも本年度特製中には何分印象としていささか物足らぬところがあるので遂に今年度よりむしろ帝展委員の出品中より詮較するのもよかろうとて遂に第一、第二の両部は審査委員第三部は特選中の最高点を選び第四部は印象に値する作品が見出さず午後二時総会に移り審議に付しいづれも異義なく決定…」。鏑木清方については、声がわりで役がつかない時期に「おやじから『休んでいても、ただぶらぶたしていてはいけねえ。その間にけいこごとや学問に身を入れろ』といわれ」た歌舞伎の人間国宝、尾上多賀之丞は「絵の鏑木清方先生は二十五、六の青年時代で、まだ有名でなく、…主に美人画を習い」、襲名披露の際には「お配りの扇子は鏑木清方先生に絵をかいていただき、手ぬぐいとともに二千本ほど注文」したと日本経済新聞の「私の履歴書」で語る。
 「藤田画伯の作品ルーブルに入る 自刻の銅版画一枚 画家として無上の光栄」〔11.18 東朝〕は「近着の『パリ週報』はパリ滞在中の藤田嗣詞治氏の自刻銅版画の一枚がルーブル美術館に入ったといふ愉快なことを報じ左の如き同氏の談話を載せている。『実は去る二十三日(九月)突然ルーブル美術館長の招きを受け会議の結果僕の自刻銅版画を永久にルーブルに収蔵することになったと申し渡されたので非常に驚いていたのです、僕がかうしてパリに止まつて働いているのは死後一枚でもいいから自分の作品をルーブルにいれたいとの希望であつたのに図らずも生存中にその難関を突破したのは非常に喜ばしい』同館は人も知る如く世界に冠たる美術館であつてここに陳列される作品はまずリュクサンブール美術館に陳列され作家の死後十年にして初めて収蔵されることになついているのでかく作家の存生中しかもリュクサンブールを経ずしてこのルーブル入りは異数の事と云はねばなるまい…」。既に1925年にはフランスからレジオン・ドヌール勲章、ベルギーからレオポルド勲章を贈られていた藤田嗣治について、三越の包装紙のデザインで知られる画家、猪熊源一郎は、第二次世界大戦が激しくなり、パリから避難して、「フランスの片田舎レゼジーで藤田さん夫妻と寝食を共にしたのはほぼ四十日ぐらいだったろうか、…藤田さんの絵はだれにもよく知られている独特の乳白色のなめらから地塗りを作ったカンバスの上に面相筆などを使って日本画のようにデリかな線描をされ、藤田さんのものを作り上げた。あの独創的なテクニックは他の追随を許すことなく彼の名を世界的に大きなものにすることになった。レゼジー滞在中、私は藤田さんがどのようにして下地を作るのか、見届けてやろうと思った。しかし、とうとう藤田さんは私に下塗りのテクニックを見せなかった。藤田さんは私たちが寝静まっている間に下塗りを済ませてしまうのだ。朝起きでみるとすでに十枚くらいの小さなカンバスに下塗りが立派に出来上がっている。つるつるしたセラミックのような、また卵の肌のような美しい表面であった。あのテクニックは謎のままになった。」と日本経済新聞の「私の履歴書」で語る。
 次回は、文化の続きから。

写真 (「『なすな恋』の栗島すみ子 大正12年封切 野村芳亭監督」(左)、「東京行進曲 菊池寛の社会小説、溝口健二監督・夏川静江・棉花久子主演―昭和三年公開」(右)出典:いずれも筈見恒夫 著『映画五十年史』,鱒書房,昭和22. 国立国会図書館デジタルコレクション 映画五十年史 新版 - 国立国会図書館デジタルコレクション 映画五十年史 新版 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
写真 (六代目尾上菊五郎 右は「尾上菊五郎の花川戸助六」安部豊 編『舞臺のおもかげ尾上菊五郎』,京文社,1922.7.出典はいずれも安部豊 編『舞臺のおもかげ尾上菊五郎』,京文社,1922.7. 国立国会図書館デジタルコレクション 舞臺のおもかげ尾上菊五郎 増補4版 - 国立国会図書館デジタルコレクション 舞臺のおもかげ尾上菊五郎 増補4版 - 国立国会図書館デジタルコレクション 菊五郎一座の「義経千本桜」の音声はこちらから。義経千本桜(鮓屋の場)(一) - 国立国会図書館デジタルコレクション
写真 (新派女優、水谷八重子。「婦系図…のお蔦(水谷八重子)(左)と「三島由紀夫作『『鹿鳴館』, 八重子の朝子夫人」(右) 出典:いずれも河竹繁俊 著『概説日本演劇史』,岩波書店,1966. 国立国会図書館デジタルコレクション 概説日本演劇史 - 国立国会図書館デジタルコレクション 概説日本演劇史 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
写真 (日本における最初のレビュー「モン・パリ」出典:宝塚少女歌劇団 編『宝塚少女歌劇廿年史』,宝塚少女歌劇団,昭和8. 国立国会図書館デジタルコレクション 宝塚少女歌劇廿年史 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
写真 (鈴木善太郎原作『人間』のお千代役の岡田嘉子 出典:鈴木善太郎 原作『人間』,朝日新聞社,大正15. 国立国会図書館デジタルコレクション 人間 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
写真 (「誰でも此処へ来ると快活な学生らしい明るい気分になれる』という「正門からみた」早稲田大学 出典:『大東京寫眞帖』,[出版者不明],[1930]. 国立国会図書館デジタルコレクショ 大東京寫眞帖 - 国立国会図書館デジタルコレクション 坪内逍遥の「ハムレット」の朗読はここから。朗読:ハムレット(生死疑問独白の場)(一) - 国立国会図書館デジタルコレクション)
(主な参考文献)
「新聞集成 昭和史の証言1」、編集委員入江徳郎、古谷剛正、山崎英佑、故高木健夫、本邦書籍株式会社、1983年
「断腸亭日乗(二)大正十五‐昭和三年〔全9冊〕」、永井荷風、校注中島国彦、多田蔵人、株式会社岩波書店、2024年
『私の履歴書 第一集』、日本経済新聞社、1964年
1927年(昭和2年) - 社史 - パナソニック ホールディングス
「私の履歴書 第十集」、日本経済新聞社編、1969年
アイザワ証券100年の歩み
株式取引所開設140周年 | 沿革(日本取引所グループ) | 日本取引所グループ
明治大正建築 写真聚覧 - 国立国会図書館デジタルコレクション
東京風景 - 国立国会図書館デジタルコレクション
「昭和時代 戦前・戦中期」、読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論社、2014年
「朝日新聞〈復刻版〉大正編174 大正15(昭和元)年12月」~「昭和2年12月」、高野義男、日本図書センター、2008年
国際経済画報 第1輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション
リンドバーグ物語:孤独の荒鷲 - 国立国会図書館デジタルコレクション
味の素グループ年表 | 社史・沿革 | 味の素グループ
「私の履歴書 第十二集」、日本経済新聞社、1964年
野村100年 挑戦の物語|野村グループ|100周年記念サイト
コンドル博士遺作集 - 国立国会図書館デジタルコレクション
岩崎久弥|近代日本人の肖像 | 国立国会図書館
服部金太郎物語 第六話 晩年 | 創業者 服部金太郎について | THE SEIKO MUSEUM GINZA セイコーミュージアム 銀座
映画五十年史 新版 - 国立国会図書館デジタルコレクション
「私の履歴書 文化人13」、日本経済新聞社編、1984年
「私の履歴書 文化人12」、日本経済新聞社編、1984年
国宝 - 作品情報・映画レビュー -
「私の履歴書 第十二集」、日本経済新聞社編、1964年
舞臺のおもかげ尾上菊五郎 増補4版 - 国立国会図書館デジタルコレクション
「私の履歴書 第三十八集」、日本経済新聞編、1969年
「作家の原稿料」、作家の原稿料刊行委員会著、株式会社八木書店、2015年
概説日本演劇史 - 国立国会図書館デジタルコレクション
「宝塚百年の夢」、植田紳爾、株式会社文芸春秋、2002年
宝塚少女歌劇廿年史 - 国立国会図書館デジタルコレクション
人間 - 国立国会図書館デジタルコレクション
「私の履歴書 文化人8」、日本経済新聞社編、1984年
大東京寫眞帖 - 国立国会図書館デジタルコレクション