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令和7年度職員トップセミナー

講師
渋沢  田鶴子 氏
(公益財団法人 渋沢栄一記念財団 業務執行理事)
演題
渋沢栄一と日米関係
令和7年6月13日(金)開催

はじめに
 本日は財務省の職員トップセミナーにお招きいただき、誠にありがとうございます。
 渋沢栄一は1869年から1873年まで旧大蔵省に奉職しておりました。また、私の祖父である渋沢敬三も大蔵大臣をしばらく務めさせていただいたご縁があります。このように深いご縁のある財務省において、栄一についてお話しする機会をいただきましたことを、大変光栄に存じます。
 私自身も、2021年8月21日に行われた新一万円札の印刷開始を記念する式典に、父・渋沢雅英とともにご招待いただきました。津田梅子先生や北里柴三郎先生のご遺族の方々と共に、新札のコンテ画を拝受するという貴重な経験をさせていただいたことは、今も心に深く残っております。
 本日は、実業家、また社会事業家として、栄一がどのようにアメリカとの関係構築に貢献したのか、その歩みをお話させていただきます。さらに、その精神が現代の国際社会にどのように示唆を与えているのかという視点についても触れたいと考えております。
 お話に入る前に、私が役員を務めております公益財団法人渋沢栄一記念財団について、簡単にご紹介させていただきます。
 当財団は、東京都北区西ケ原にあり、栄一と共に暮らしていた書生たちの勉強会「竜門社」(1886年結成)を起源として設立されました。栄一の人間性や思想、そして事績を探求し、それらを現代に活かすとともに、栄一が目指した公益の追求と、平和で道義のある社会の実現を目指して活動を続けております。
 財団は「渋沢史料館」、「情報資源センター」、「研究センター」の三つの機能を有しています。
 「渋沢史料館」では、1998年に増設された「本館」で栄一に関する展示物をご覧いただけるほか、栄一の喜寿を祝って清水建設株式会社から贈られた「晩香廬」、そして今年で築100年を迎える「青淵文庫」も現存し、一般公開されております。
 「情報資源センター」では、栄一に関する各種資料や社史、企業史などをデジタル化して、特に「渋沢栄一伝記資料」については、日常生活の記録、講演書簡などをすべて検索・閲覧できるよう整備しております。
 私は栄一の玄孫(孫の孫)にあたりますが、長らく、栄一について体系的に学ぶ機会はありませんでした。
 私は長年アメリカで暮らし、またソーシャルワーカーとして、資本主義社会の中で取り残された、さまざまな形で差別されてきた人たちと向き合うことをライフワークとしてまいりました。そのような背景もあり、「資本主義の父」というイメージの強い栄一に、距離をおいてきた面もございます。
 しかし、5年ほど前より渋沢栄一記念財団の仕事に関わるようになり、社会事業家としての栄一に目を向けるようになりました。生活困窮者のための施設である養育院の院長を務め、医療、教育など多様な社会事業に深く関与していたこと、そして社会事業を自らの天命としていたことを知り、大きな衝撃を受けました。さらに栄一が民間外交に取り組んだ背景には、まさに社会事業家としての視点や姿勢が深く根付いたのだと、理解するようになりました。
 本日は実業家としての側面に加え、社会事業家としての視座から、栄一がどのような思いを抱きながらアメリカと関わったかを紐解きつつ、お話を進めてまいります。

渋沢栄一の生涯と思想の概要
 栄一は1840年に現在の埼玉県深谷市血洗島に生まれました。家業は藍玉と桑の生産・販売で、栄一は父から商売の基本を学びながら育ちました。
 若いころは多くの同年代の青年たちと同じように、外国人への強い反感を抱いており、1863年には高崎城を乗っ取り、横浜の外国人居留地を焼き打ちする計画すら立てていました。しかし、「成功の見込みはない」との忠告を受け、従兄弟の渋沢喜作とともに京都に逃げます。
 その後、縁あって一橋家に使え、当主・徳川慶喜が将軍に就任すると、栄一の人生は思いがけず幕臣としての道を歩むことになります。慶喜公の弟である昭武は将軍名代としてパリ万博博覧会に派遣されますが、栄一はその随員として1867年に渡欧することになりました。かつて憎しみに近い感情をいだいていた欧州へ、自ら赴くことになったのです。
 わずか一年間の滞在でしたが、栄一は大きな変化を遂げます。ちょんまげを落とし洋装に改めるだけでなく、欧州の経済、商業、社会福祉の制度に深い関心を寄せ、熱心に学びました。とりわけ、農家の息子として非常に平等意識が強かった栄一は、官尊民卑に大変対抗しておりました、フランスに行った時に、軍人と企業人が対等に話をしているところを見て、「こんなに民主的な国があるのか」と、とても驚嘆したと伝えられています。
 また、ベルギー国王が「ベルギーの鉄は素晴らしいので日本に買ってほしい」と述べ、王室まで商業を重要視している姿を目の当たりにし、商業が軽視されていた当時の日本との違いに強い刺激を受けました。
 帰国後、伊藤博文、井上馨、大隈重信らの要請により民部省(後の大蔵省)で租税制度の整備など日本の近代化に尽力しました。しかし、1873年に大蔵省を辞して、民間人として以後は実業界に深く関わることになります。

「道徳経済合一」:『論語と算盤』の精神
 栄一の思想の根幹には、「道徳経済合一」という理念がありました。すなわち、ビジネスは道徳と一致していなければならず、すべての人の利益につながるものでなければならない、という信念です。
 この理念を説いた著書が『論語と算盤』です。論語(倫理)と算盤(経済)を両立させることが健全な資本主義社会を築く基盤であり、実業家は国家と社会のために公益を追求すべき存在であるという考えが、一貫して栄一の根底にありました。
 彼は「一人だけ富んでそれで国は富まぬ」という言葉も残しております。
 生涯に渡り、栄一は約500の企業に関与しましたが、「渋沢」の名を冠することなく、創業支援や発起人として裏方に徹しました。つまり自らの利益や家名拡大を目的としてはいなかったのです。
 一方で約600の社会事業にも関与していきます。特に力を注いだのが、「養育院」という、生活困窮者や孤児を支援する施設です。これはロシア皇太子の来日にあたり、東京の路上生活者を収容する必要から始まった施設ですが、栄一は34歳の時から関わり、39歳からは亡くなるまで院長を務めました。
 このほかにも栄一は学問としての商業を広めようと、一橋大学の設立に尽力し、また、女性の教育の重要性を強く認識し、日本女子大学、東京女学館の創立にも関与しました。

渡米と米国の社会的背景
1.4回の渡米と大統領との会見
 栄一は4回にわたりアメリカを訪れ、4人の大統領と会見を果たしました。アメリカに最初に行ったのが62歳の時であり、最後が81歳の時です。当時の62歳は今の62歳よりずっと高齢のように思いますので、これも本当に驚きです。
 最初の渡米は1902年、ルーズベルト(Theodore Roosevelt)大統領と会見します。その後、1909年には渡米実業団の団長として、タフト(William Howard Taft)大統領、1915年、75歳の時にはウィルソン(Woodrow Wilson)大統領、そして1921年、81歳の時にワシントン軍縮会議でハーディング(Warren G.Harding)大統領と会見しています。
 これらの訪米の主要な目的は、日本の実業界を代表して、アメリカの実業・産業と社会事業を視察し、日米親善、特に悪化しつつあった日米関係の緩和に尽くすためでした。
2.渡米時の米国の社会的背景
 栄一が訪れた、20世紀初頭のアメリカは、かつてない経済成長を遂げ、世界一の産業国という地位を確立していました。1892年には4,000人だった百万長者の数が、1907年には10倍の4万人へと激増し、富の偏在が深刻な社会問題になっていました。アメリカ全体の資産の4分の3を、わずか8%の家庭が所有していたとされています。
 このような経済格差の背景には、産業革命による急速な都市化やスラムの拡大、移民の増加、生活困窮者の増加、南北戦争の後の南部の経済破綻、そして解放されたアフリカ系アメリカ人の北部への大量移住など、さまざまな社会変動がありました。
 また、1880年から1920年代にかけて、ヨーロッパから2,700万人もの移民がアメリカに渡りましたが、移民政策は次第に排他的な方向に傾き、1924年の移民法により、アジア系、特に日本人の新規移住は禁止されるに至ります。
 移民の玄関口であったニューヨークのロウアー・イースト・サイドでは、貧困層が老朽化した集合住宅で密集して暮らしており、当時、地球上で最も人口密度が高い地域と言われていました。劣悪な衛生環境の中、チフスやコレラが頻発し、乳幼児の5人に1人が命を落とすほどの厳しい環境がありました。
 このような社会状況に直面したアメリカでは、政治、教育、医療、労働など他分野で国家規模の改革が進められ、社会事業家たちは、「科学的フィランソロピー」という概念のもと、より効率的かつ持続可能な支援の仕組みを模索していました。
 カーネギーやロックフェラーといった巨大な富を築いた実業家たちは、ビジネスの手法を活用して財団を設立し、教育、文化、科学、公衆衛生などへの支援を通じて社会問題の解決に貢献しました。1915年にはわずか27団体だった財団が、1930年には200を超えるまでに急増したと言われています。

米国実業家との交流
1.1902年の訪問先
 1902年、栄一が初めてアメリカを訪れた際、約1か月をかけてサンフランシスコからニューヨークまで鉄道で横断し、主要都市を精力的に巡りました。この旅は、1867年に初めて近代化の進むヨーロッパ諸国を訪れた時と同じように、栄一にとっては大きな刺激と学びの機会となりました。
 到着したサンフランシスコでは、市内にあるスートロ・ハイツ(Sutro Heights)という、巨大な公共施設を訪れました。そこには博物館、自然公園、クリフハウス(Cliff House)というレストランがあり、さらに1万人を収容できる大規模なプールなどが市民の娯楽と健康のために設けられていました。これらが、アドルフ・スートロ(Adolfo Sutro)という一人の資産家による寄付で設けられたと知り、栄一は大いに驚いたと書いています。
 また、カリフォルニア州の知事であり、大陸横断鉄道を建設したセントラル・パシフィック鉄道の創立者でもあるリーランド・スタンフォード(Leland Stanford)が、私財 8,000万ドルを投じてサンフランシスコの郊外にスタンフォード大学を設立したことにも深く感銘を受けました。
 フィラデルフィアでは、スティーブン・ジラード(Stephen Girard)の遺産による750万ドルの寄付によって設立された、孤児のための教育機関「ジラードカレッジ(Girard College)」を訪問しました。養育院の院長として孤児と接していた栄一にとって、ここで児童に語りかけることは自然な営みであったのでしょう。
 また、同日にブリンマー(Bryn Mawr)という女子大学を視察し、ロックフェラー家が25万ドルを寄付して新築した校舎を見学しました。生涯にわたって27の女子教育機関に関わった栄一は、東京女学館の設立に際し、伊藤博文に説得されて女子教育奨励会を立ち上げ、日本女子大学創立の時にも財務を担当するなど、尽力しておりました。アメリカの富の規模と、その富が惜しみなく教育に投資されている姿を目の当たりにし、深い感銘を受けたことは想像に難くありません。
 栄一は帰国報告の中で、「訪れた先々で、アメリカ人が巨額の資産を惜しまず公共のために寄付する素晴らしい姿を見ることができた」と述べています。また、「アメリカには仁の心を持つ事業家が多い」とも語っています。実業家が社会事業家として公益のために尽力している姿に触れたことは、栄一自身の理想とも重なり、アメリカという国に対して大きな信頼と親近感を抱くに至ったと思われます。
2.最も共感を抱いていた実業家:カーネギー
 栄一が最も尊敬し、深い共感を寄せていた実業家が鉄鋼王のアンドリュー・カーネギー(Andrew Carnegie)です。
 カーネギーは、一時的な富の不平等な分配に対する真の解決法は、富裕層と貧困層の間に調和をもたらすことであり、それによって社会を統治することだと述べています。
 1902年の渡米時には、カーネギーが母国スコットランドにいたため、面会は実現しませんでしたが、1921年に渡米の際には、カーネギーの未亡人を表敬訪問し、栄一自身が序文を寄せた「実業の帝国」というカーネギーの著作の翻訳版を献呈しました。
 カーネギーはその著書の中で「富裕層が寄付するべき7つの最善の分野」として、大学、図書館、病院または医学校、公園、コンサートホール、大衆浴場、教会のオルガンの7つを挙げております。カーネギーは大変熱心なクリスチャンだったので、教会のオルガンをその中に含めております。
 一方、栄一も一橋大学、日本女子大学と慈恵医科大学の設立支援に加え、済生会や聖路加病院などの医療施設、明治神宮外苑の整備、帝国劇場などの文化施設にも深く関与しており、両者の活動には多くの共通点が見られます。
3.米国の実業家とのネットワーク
 1902年、ワシントンでルーズベルト大統領と会見した後、栄一はニューヨークに向かいます。ルーズベルト大統領は栄一をニューヨーク商業会議所会頭であるモリス・ジェサップ(Morris K.Jesup)に紹介し、ジェサップを通じて多くの実業家と面会の機会を得られました。ジェサップ自身も貧困移民を支援するセツルメントハウスに関与し、国立公園の設立にも関わっていました。栄一は、こうした実業家でありながら社会事業にも深く関わる人々との対話と信頼関係こそが、日米関係の維持と発展に不可欠だと確信していました。

社会事業・フィランソロピーの理念と実践
1.渋沢栄一の社会福祉・社会事業の原点
 栄一が社会事業の理念に目覚めたのは、先ほど申し上げた、徳川昭武に随行してフランスを訪れた際でした。そこで視察した近代的な病院が一部寄付によって運営されていること、市民によるバザーなどの慈善活動が盛んに行われていることに深い感銘を受けます。この体験を通じて「福祉とは個人の善意に頼るのではなく、市民や組織の公共の責任として担われるべきものである」と強く感じるようになりました。
 こうした「民による民のための社会事業」という考え方は、当時日本に根強くあった官尊民卑の風潮を打破しようとする栄一にとって、現地で学んだ社債や株式会社の制度と並ぶほど大きな刺激と影響を与えたと言えるでしょう。
 フランスからの帰国後、栄一はさまざまな社会事業に関与するようになります。養育院の院長としての活動に加え、聖路加病院、東京慈恵会医科大学、中央慈善協会(全国社会福祉協議会の前身)などの設立・運営に関わりました。特に中央慈善協会では初代会長として、組織化を推進し、商工会議所に匹敵する中核的な団体へと発展させるべく尽力しました。
2.米国のフィランソロピーに見た「公共の精神」
 フランス訪問から35年後、栄一はアメリカに行くことになりますが、その時はすでに社会事業家としての立場を確立していました。栄一がアメリカで体験したのは、“圧倒的なスケール”による「民による民のための社会事業」でした。
 当時のアメリカには「ある限度を超えた富は社会に還元すべき」という暗黙の社会契約がありました。これはキリスト教やユダヤ教における「収入の十分の一を献金する」、すなわち所得の一部を宗教機関や公益に寄付するという伝統に根ざしています。
 カーネギーやロックフェラーといった起業家たちは、富を創造することに加え、その富を再構築し、他者を豊かにするために投資することを自らの責務と考えていました。これが、「フィランソロピー(社会貢献活動)」であり、これは富の再分配である慈善(チャリティ)につながっていきます。
 栄一が1902年に最初の訪米をした際、カリフォルニアから4日間かけて大自然の中を鉄道で横断し、ユタ州やコロラド州の自然資源や豊かな生活環境を目のあたりにします。そこに息づくスケールの大きな国力と富の分配のあり方に強力なインパクトを受けたことは間違いありません。
 このように、栄一がアメリカで体験した「公益のために富を使う」という実践と理念は、彼の道徳経済合一の思想を国際的な視野で再確認する大きな機会となりました。

排日感情の高まりと民間外交の試み
1.排日運動
 アメリカでの視察と交流の中で、栄一の心を深く痛めたのは、排日運動の広がりでした。1902年、サンフランシスコ滞在中に、「日本人水泳禁止」と書かれた市営プールでの標識を目にしたことは、象徴的な出来事でした。カリフォルニアを中心に日本移民への差別が、栄一のアメリカでの民間外交の中心的な課題となっていきました。
 1880年以降、多くの日本人がカリフォルニアやハワイに渡りました。経済自立や出稼ぎによる収入の確保を目的に、農村の次男・三男層が農業労働者や契約労働者としてアメリカに移住しました。その多くは、苦労の末に農業経営者としてカリフォルニアあるいは西海岸のオレゴンとワシントンで成功を収めて、大規模農場を営むものも現れました。
 しかし、こうした成功が、白人労働者との競争を生み、反日感情を呼び起こします。1882年に制定された中国人排斥法はアジア系移民に対する差別的な姿勢の始まりであり、その後の移民法では、棄民制限が本格化し、日本人もその対象となっていきました。
 排日感情も当時の新聞や雑誌のメディアによってとても煽られました。「日本人はアメリカで子供をたくさん産み、人口でアメリカを征服しようとしている」といった風刺漫画が出回るなど、露骨な偏見が社会に浸透していきます。ついには、サンフランシスコでは、日本人の子供を公立学校から隔離するという政策が打ち出されるまでに至ります。
 こうした状況を受け、1907年には「日米紳士協定」が締結され、日本政府は労働者の移民を自粛し、アメリカ政府は在留日本人とその家族の権利や教育機会を尊重することが取り決められました。
 しかし、1924年の移民法によってこの協定は無効となり、日本人の移住は完全に禁止されてしまいます。加えて、1913年には日本人による土地所有を禁じる「排日土地法」も制定されていきました。
2.排日感情への対応と民間外交の模索
 このような反日感情に対して、栄一は、理解と交流による関係改善を目指しました。1909年、渡米実業団の団長として、約50名の実業家、教育者、文化人らとともに再びアメリカを訪れ、各地で交流活動を展開しました。また、日米の友好団体の設立や、アメリカのメディアを通じた情報発信にも力を注ぎました。ニューヨークの新聞には、「日本はカリフォルニアにおける日本人への不公平さには怒りを感じる。」といった主張を寄稿し、アメリカ市民への直接的な訴えも試みています。
 さらに「日本人がアメリカ人の職を奪っている」と主張するアメリカ労働組合の指導者とも面会し、誤解の解消と対話を図りました。また、アメリカの政財界の要人を日本に招くための努力も続けました。
 当時、日本は日清戦争の勝利を経て、欧米列強から一目置かれる存在となり、同時に「東洋の脅威」として警戒もされるようになっていました。一方、アメリカは米西戦争でフィリピン、ハワイ、グアムなどを獲得し、中国進出にも積極的な姿勢を見せるなど、日本との利害対立が表面化していきます。このような状況の中で、栄一は「信義に厚い実業家同志の交流こそが、国家間の緊張を和らげる鍵になる」と考えました。民間レベルでの継続的な対話と信頼構築が、国と国の関係においても重要であるという信念を彼は生涯貫いたのです。

民間レベルの信頼構築と対話の推進
1.1909年渡米実業団
 前述したように1909年、栄一は渡米実業団の団長となって、50名ほどの実業家、教育者、文化人とともに二か月かけてシカゴ、ワシントンDC、ニューヨークなど各地を訪問し、講演や交流会を通じて、反日感情の和らげと日米理解の促進を目指しました。この訪問ではJPモルガンをはじめとする有力財界人と交流を重ね、商工会議所と連携、さらにはタフト大統領とも面会しました。
 この訪米実業団は、日本の近代実業界を代表する初の本格的な「経済外交、外交ミッション」として位置付けられており、同時に政府の枠を超えた「民間外交」の先駆けとも言えるものでした。
2.日米有志協議会などの日米友好団体の設立
 1909年の渡米実業団を契機として、1915年には「日米関係委員会」が設立されます。さらに1920年には非公式な民間対話の場として「日米有志協議会」が東京で開催されました。この協議会にはナショナル・シティ銀行頭取を務めたフランク・ヴァンダーリップ(Frank A.Vanderlip)やイーストマン・コダック創業者のジョージ・イーストマン(George Eastman)らアメリカの有力実業家が参加し、日米の経済協力、移民問題、中国政策などをテーマに、6日間にわたり意見交換が行われました。また、この協議会にはアメリカ側代表の夫人たちも同行し、日本文化や女性教育への理解を深める機会となりました。単なるビジネス交流にとどまらず、文化・社会レベルでの相互理解が進められたのです。
 栄一は、仁義を重んじる実業家同士の信頼を土台に、国家を越えた対話によって平和的な関係を築こうと務めました。彼と交流のあったアメリカの実業家たちも、栄一と同じく、社会事業家としての側面を持ち、公益に奉仕する精神を共有していました。こうした価値観の共通性が、国境を超えた友情と共同の礎となっていったのです。
3.アメリカの実業家との交流
 ここで、栄一と交流があったアメリカの実業家たちをご紹介します。
(1)ジョージ・イーストマン(George Eastman)
 先ほども触れましたが、イーストマン・コダックの創業者であるジョージ・イートスマンとは栄一が1902年、1909年(渡米実業団)、1921年の三度にわたり会っております。
 1921年にはイーストマンの自宅に宿泊し、彼が設立した歯科診療所なども案内されています。イーストマンは、巨額な資産を教育、医療、文化分野に寄付するアメリカを代表するフィランソロピストで、特にマサチューセッツ工科大学やロチェスター大学、さらにはアフリカ系アメリカ人医学生の支援など、幅広い社会貢献を行いました。
 1920年の日米有志協議会にも参加しており、その時は三田の三井俱楽部に泊まっています。
(2)ジェイコブ・シフ(Jacob Schiff)
 シフはユダヤ系アメリカ人の実業家であり、当時ロシア帝国によるユダヤ人迫害に強く反対していました。その立場から、日露戦争では日本に対して多大な経済的支援を行い、国際的にも注目されました。栄一と彼は三度にわたり会っており、1906年にシフが来日した際には飛鳥山の渋沢邸を訪れ、養育院にも寄付を行っています。
 ユダヤ教には「正義としての慈善」という理念があり、シフもその精神に基づいて、生活困窮者や差別を受ける人々への支援に尽力しました。また、彼は排日運動にも反対の立場を取っていました。
(3)ヘンリー・ハインツ(Henry Heinz)
 栄一は1909年の渡米を機にアメリカの食品実業家のヘンリー・ハインツと出会いました。トマトケチャップで有名なハインツは、企業の利益よりも従業員の福祉や社会貢献を重視した経営者であり、熱心なキリスト教徒でもありました。宗教的信念に基づき、日曜学校や移民支援に尽力しておりました。
 日本で国際日曜学校の会議を開催するということで、栄一はその橋渡し役を担いました。両者は、公益を優先する経営や、道徳と経済の両立について語り合い、栄一は孔子の思想をハインツに説明しながら、道徳的精神についての対話を深めています。
 ハインツの死後も栄一は彼の息子たちと交流を続け、1923年の関東大震災の際にはハインツ家が即座に缶詰などの支援物資で送ってくれました。このような人間的な支えというのが、栄一の民間外交の根底にあったのではないかと思われます。
(4)ナルシッサ・ヴァンダーリップ(Narcissa Vanderlip)
 栄一とともに日米有志協議会の開催に尽力した銀行家フランク・ヴァンダーリップの夫人であるナルシッサ・ヴァンダーリップも社会事業家で、女性参政権運動でとても活躍した人です。
 彼女は訪日の際、日本の女性の教育や福祉の現場を視察し、栄一の思想にとても強く共鳴しました。帰国後は草の根レベルで日本への理解を広げる活動に力を注ぎました。
 日米有志協議会での歓迎の挨拶において、栄一は日米の対立には言及せず、日本の伝統的な文化や精神を強調しながら、日本がいかにアメリカによって改革を進めていたか、そして日本人もまた他の国々と同様に世界平和を希求していることを語りました。ナルシッサはその言葉に感銘を受け、帰国後、自宅でいろいろなイベントを開き、反日感情に対抗するための活動に尽力しました。また、ニューヨークタイムズ紙に反日感情に反対する意見を寄稿しています。
 また、女子英学塾(現在の津田塾大学)の創設者津田梅子氏を深く尊敬し、関東大震災の後には女子英学塾の支援にも尽力しました。

現代への示唆
 栄一と日米関係について考えるとき、実業家としての功績のみならず、社会事業家としての視点から民間外交の意義に、あらためて目を向ける必要があります。
 アメリカで反日感情の高まる中でも、栄一は一貫して、相互理解と信頼の構築に務めました。実業界の重鎮であると同時に、数多くの社会事業に身を投じた栄一は、アメリカの実業家・社会事業家たちと理念を共有しながら、民間レベルでの信頼の橋を築こうとしました。
 残念ながら、その後の国際情勢の悪化により、日米関係は戦争という破局へ向かっていきます。しかし、栄一が民間外交に注いだ情熱と誠実な対話の姿勢は、今なお私たちに多くの示唆を与えてくれます。
 栄一の姿勢から、現代の私たちが学び得ることは数多くあります。
 例えば:
・信頼は時間をかけて築くもの
・経済と道徳の両立は国家間関係においても重要である
・異なる文化や価値観に敬意を持って接する姿勢
・対話と相互理解の重要視
・公益を志向するリーダーシップの重要性
・国家間の対立を超えた、市民社会や個人の果たす役割の大きさ
 そして何よりも、「違いを超えていかに共に生きるか」という問いに対して渋沢栄一は生涯をかけて向き続けた人物だったと私は考えています。

終わりに
 栄一が残した言葉や行動には、現代に生きる私たちへの数多くのヒントが詰まっています。昨年、新一万円札の発行を記念して、障害のある方々のアートを社会に発信している企業「HERALBONY」とコラボし、栄一の言葉を紹介する展示やウェブサイトを制作しました。「HERALBONY」は、障害者の想像力をアートとして商品化し、社会に届けることによって、障害者が初めて自らの納税によって社会参加できるようになることを目指す、ユニークで力強い企業です。
 その意味でも「HERALBONY」の取り組みは、まさに「道徳経済合一」の精神を現代に体現する存在であり、栄一が今の時代に生きていたなら、深い感銘を受けたであろうと感じております。
 本日の私のお話を通じて、栄一の歩みや精神、そして彼が築いた日米関係の在り方が、皆様の心に少しでも響くものであれば幸いです。
 そしてこれからも、皆様と共に公益と国際理解に基づく未来を築けることを心から願いつつ、私のお話を終わらせていただきます。
ご清聴、誠にありがとうございました。
 
講師略歴
渋沢  田鶴子(しぶさわ  たづこ)
公益財団法人渋沢栄一記念財団 業務執行理事
東京都出身。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)にて社会福祉学の修士号および博士号を取得。コロンビア大学大学院社会福祉学部(1997~2006年)、およびニューヨーク大学大学院社会福祉学部(2006~2019年)で准教授を務める。専門は臨床ソーシャルワーク、家族療法、アジア系移民のメンタルヘルスおよび高齢者福祉。日本家族研究・家族療法学会名誉会員。2020年より公益財団法人渋沢栄一記念財団業務執行理事。渋沢栄一を高祖父にもつ。