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路線価でひもとく街の歴史

第67回 足立区千住
千住宿開宿400年 地価上昇全国5位のワケあり区

千住開宿400年
 2025年は、江戸幕府が日光街道の宿場として千住宿を開設した寛永2年(1625)からちょうど400年の節目の年にあたる。荒川を挟み、北千住、南千住を合わせて約3kmの長い宿場町だが、開宿時は今の駅前通りの裏通りにあった本陣を中心に、南は現在の足立成和信用金庫の本店の角までが千住宿だった。ここに街道を横切る形で荒川の堤防の熊谷(くまがや)堤があった。なお、ここで荒川とは現在の隅田川をいう(図1 広域図参照)。正確にいえば、開宿当時は入間川の下流だった。寛永6年(1629)の瀬替え工事で荒川の下流になった。先月号で、川越の街が新河岸川舟運で栄えた話を書いたが、その航路の終点が浅草花川戸(はなかわど)河岸で、1つ前が千住の橋戸(はしど)河岸である。川越の船頭が「押せよ押せ押せ・二挺櫓で押せよ・押せば千住が近くなる」と歌ったのが千住節(川越舟歌)だ。
 寛永15年(1638)に始まった新河岸川の舟運で千住はさらに賑わった。そして、万治元年(1658)、本宿の南に掃部宿、河原町、橋戸町が新たに開設される。徳川入府に伴う財政基盤拡大の一環で千住やその周辺に新田が開発されたが、その1つの掃部(かもん)新田の一部を宿場町に改修したものだ。名前は開発に貢献した石出掃部介吉胤(いしでかもんのすけよしたね)にちなむ。熊谷堤の南に築かれた2本目の堤防は掃部堤(かもんつつみ)という。現在の墨堤通りである。掃部宿の2年後には荒川南岸にも宿場町が設定される。中村町と小塚原(こづかっぱら)町である。街道筋の南、現在の南千住駅の南口の場所には小塚原刑場があった。

橋戸河岸と河原町問屋街
 千住の橋戸河岸といえば奥の細道の起点でもある。元禄2年(1689)5月に松尾芭蕉が、大和総研の本社もある深川から舟で隅田川を遡上。橋戸河岸で下船して詠んだのが「行く春や鳥啼(な)き魚の目は涙」だ。水運の利を活かして生まれたのが、江戸の三大市場とも呼ばれた青物市場、通称「やっちゃ場」だ。掃部堤を川側に越えた、文字通り「河原」町にあった。千住やその周辺の農村で生産された米や野菜の集散地でもあり、荒川の舟運で持ち込まれた物資を陸揚げして換金する場所でもあった。現在の東京都中央卸売市場・足立市場の源流だが、中世から近代にかけての市場は、個々の問屋が道沿いに集まった問屋街で、それぞれの店舗がセットバックし、奥行きが深い土間に大八車が乗り入れ、商品を並べてせり売りをしていた。
 明治22年(1889)の町村制で千住宿は荒川を境に「南足立郡千住町」と「北豊島郡南千住町」に分かれた。町制施行後の最高地価の表示は単に千住町となるが、町制以前の表示は一段絞り込まれ「千住宿中組」となっている。明治に入り、開宿時の本宿を北組、万治元年に加宿された掃部宿、河原町、橋戸町を中組、荒川から南を南組とした。これが現在の北千住、南千住という呼称の由来となった。かつては中千住と中千住駅もあったのだ。昭和7年(1932)東京市の区となると最高地価地点はさらに絞り込まれ千住河原町となる。戦前は河原町の問屋街が街の中心だったのだ。
 河原町の北側の掃部宿には当地初の銀行となる千住銀行があった。明治30年(1897)の設立。千住町の町金庫業務を任されていたが、大正13年(1924)に古河銀行に買収され消滅した。本連載の行田市編に登場した中井銀行もあった。本店は日本橋で千住の他、草加、越ケ谷、粕壁(春日部)、杉戸の日光街道沿いに支店網を展開していた。千住支店は大正9年(1920)3月に開店した。昭和3年(1928)3月に営業譲渡され昭和銀行になった。熊谷堤の北側、現在の足立成和信用金庫の場所には大正2年(1913)3月に深田銀行千住支店が開設された。昭和3年2月に愛知銀行に買収され、昭和16年(1941)6月に東海銀行となった。三菱UFJ銀行の前身行の1つである。
 やや北の千住四丁目には明治33年(1900)に足立銀行が開店している。興国銀行、日本共済銀行を経て宮崎県に移転し、佐土原貯蓄銀行となった。現在の宮崎銀行の源流行の1つである。跡地には安田貯蓄銀行の支店が大正11年(1922)11月に出店した。戦後協和銀行を経てりそな銀行に至る。

鉄道の時代-常磐線と隅田川駅
 明治29年(1896)12月、千住宿の北と南に北千住駅、南千住駅が開業した。現在の東北本線および高崎線を基幹路線としていた日本鉄道の土浦線の駅である。現在の常磐線だが、当時の起点は田端駅だった。上野駅に向かう途中の田端駅から分岐し、隅田川の手前に隅田川駅を置いた。現在のJR貨物隅田川駅である。ターミナルの上野駅がキャパオーバーとなったため秋葉原駅、次いで隅田川駅に貨物線を延ばし貨物取扱を分散させる算段だった。隅田川駅の構内に運河が引き込まれ、舟運に連絡していた。土浦線は隅田川駅の手前でカーブして南千住駅、北千住駅に至る。水戸街道沿いに路線を延ばし、明治30年(1897)2月には福島県浜通りの平駅(現・いわき駅)に到達した。
 明治32年(1899)8月、東武鉄道の北千住駅が開業。日光街道と並行し当初は久喜駅までの路線だった。
 土浦線は、常磐炭田からの石炭の受け入れを目的としていた。明治36年(1903)4月、田端駅から池袋駅に至る短絡線を敷設した。これで常磐炭を田端駅経由で品川駅へ、さらに東海道線に乗り換え横浜方面に運搬できるようになった。なお短絡線は明治34年(1901)の路線名の整理に際して山手(やまのて)線とされた。このとき田端駅に発する現在の常磐線ルートは海岸線となった。要するに海岸線あっての山手線である。
 田端駅の手前でUターンし日暮里駅で合流する現ルートになったのは明治38年(1905)からだ。元々の路線は貨物専用線となり現在に至る。

バイパス道と東京市電の時代
 鉄道の次に街のデザインを変えるきっかけとなったのは路面電車である。大正13年(1924)10月、大正期を通じて工事が進められていた荒川放水路の通水が始まる。大正15年(1926)には国道4号線が完成した。当初は日光街道を拡幅する構想だったが、沿道の商店街の衰退が懸念され、市街地を迂回するルートになった。アスファルト舗装、幅員22mは現在の感覚では立派なバイパス道だった。昭和2年(1927)には千住大橋が架け替えられ国道4号と一体化する。国道4号の路面には東京市電が敷設され、昭和3年(1928)7月に千住四丁目まで開業した。
 国道4号の整備に伴い千住の主要施設が集まってきた。荒川放水路の整備で不要になった水路は道路になった。そのひとつが中居堀通で、沿道に昭和4年(1929)5月、「千住郵便局電話事務室」が新築された。現在のNTT東日本千住ビルである(図4 NTT東日本千住ビル)。設計は逓信省の山田守技師で、日本武道館や京都タワーの設計で知られる。昭和6年(1931)12月に京成電鉄の千住大橋駅が国道4号沿いに開業。千住町が南足立郡ごと東京市に編入され足立区になったのはその翌年10月だ。
 銀行も日光街道から国道4号沿いに移転してきた。昭和13年(1938)、昭和銀行が行舎を新築し移転。昭和19年(1944)8月に安田銀行になった。後に三井銀行と合流する十五銀行は、駅前通りとの交差点に昭和17年(1942)に出店している。安田貯蓄銀行も千住四丁目停留所に移ってきた。

人流は駅前へ・物流は高速道路へ
 戦後、昭和32年(1957)の最高路線価地点は国道4号に接する駅前通りにあった。ここにはイトーヨーカドーの本店があった。発祥をたどれば大正9年(1920)4月、創業者伊藤雅敏の叔父の吉川敏雄が浅草の山谷で旗上げした足袋店「めうがや」となる。洋品店に商売替えし昭和3年(1928)頃「羊華堂(ようかどう)」となる。その後、異父兄の伊藤譲が継承するが戦災で焼けてしまう。戦後、昭和21年(1946)1月に千住で再開。その後3回移転し昭和23年(1948)現在地に落ち着く。
 本店向かいには緑屋が昭和37年(1962)7月に開店。昭和43年(1968)9月、国道沿いに丸愛ができた。この年まで最高路線価地点は国道4号の交差点の「うめばち洋品店前」だったが、翌年と翌々年にかけて駅前に移る。1年目が日光街道の駅側の「千住2丁目つるや洋品店前」、2年目が駅前の「矢島薬局前」だ。この間、日光街道沿いにダイエー(昭和44年10月)と長崎屋(昭和45年9月)が開店している。
 他方、物流は鉄道から自動車の時代に移りつつあった。高速道路の開通で物流拠点が高速道路沿いに集まった。昭和52年(1977)4月、足立トラックターミナルの供用開始。千住新橋ランプから首都高速を荒川に沿って北上し、江北JCTから川口に至る途中の足立入谷ランプが最寄となる。川口JCTは東北自動車道の起点である。当時は埼玉県岩槻ICから宮城県古川ICまで開通していた。昭和54年(1979)9月、足立市場の青果部がトラックターミナルの隣に移転した。千住宿以来のやっちゃ場が郊外に移ったことになる。昭和62年(1987)9月、首都高速川口線と東北自動車道が全通した。国道4号のさらに外縁を迂回した現代の日光街道・奥州街道と言える。

大学誘致でブランド急上昇
 北千住駅前は、2000年以降の再開発を機に変貌しつつある。平成11年(1999)から進められていた北千住駅西口地区再開発が平成16年(2004)2月に完成。駅前広場やペデストリアンデッキが整備され、再開発ビル「千住ミルディス」が竣工した。ミルディス(mildix)はフランス語で千十(1010)(≓千住)を意味する。2棟のうち広場正面に面するほうには丸井最大の店舗となる北千住マルイが入った。北千住駅は平成15年(2003)3月に始まる相互直通運転で半蔵門線の表参道や渋谷と直結。平成17年(2005)8月にはつくばエクスプレスが開通し、5路線が乗り入れるターミナル駅となった。
 平成17年から最高路線価地点は「千住3丁目北千住駅西口駅前広場通り」である。ほどなくして上昇率で都内上位の常連となった。今年7月1日に公表された最高路線価は前年比26%で、上昇率は都内で浅草雷門前に次いで2位、全国でも5位である。ふりかえると価格は10年で約3倍、20年で6倍となった。
 大学誘致も奏功した。きっかけは平成17年(2005)2月の「文化産業・芸術新都心構想」だった。廃校跡地の活用を念頭に、文化や芸術、産業の誘致に力を入れる方針を掲げた。翌年4月、移転した区役所跡地が22階建の東京芸術センターとなる。9月には東京藝術大学が旧千寿小学校を改装してキャンパスを構えた。続いて東京未来大学と帝京科学大学も廃校跡に開学。平成24年(2012)には東京電機大学が北千住駅東口にキャンパスを構えた。区内の大学が20年で5校増えた。
 治安の改善も「地ぐらい」の向上をもたらしている。区の刑法犯認知件数はピーク時の平成13年(2001)、1万6,843件から、令和3年には戦後最少の3,212件となった。令和6年は4,442件だが、人口比でみれば少ない順で23区中14位である。「割れ窓理論」に着想を得、警察と連携して平成20年(2008)に始めた「ビューティフル・ウィンドウズ運動」も貢献した。
 一連の取り組みの背景には足立区の危機感があった。治安が悪いというイメージが先行し、バラエティ番組ではいじられる、愛着はあっても誇りを持てない状況を受けとめ、区は対策に乗り出した。平成22年(2010)にシティプロモーション課を新設。「イメージアップ」を目標に、治安・学力・健康・貧困の連鎖の4つの課題解決に取り組んだ。昨年からは「ワケあり区、足立区。」と銘打ち、以前のイメージとは大きく異なるポジティブな現実を伝えていくプロモーションを始めた。区外の人々の認識のアップデートを目指す。
 こうして足立区千住は歴史と利便性が魅力の住まう街になった。地価にブランド向上が反映している。ちなみに、イトーヨーカドーの1号店は平成28年(2016)に閉店。平成31年(2019)3月、跡地にできたマンションの1・2階にイトーヨーカドー食品館として復活した。現在はヨークフーズとなっている。
 
プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。主著に「自治体の財政診断入門」(学芸出版社)、「公民連携パークマネジメント」(同)
 
図2 昭和5年の問屋配置図
図3 市街図
図5 足立区の最高路線価の23区内順位