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路線価でひもとく街の歴史

第66回 埼玉県川越市  明治・大正・昭和の歴史の地層が映える街

 小江戸川越は、戦前の記録で最も新しい昭和9年(1934)まで埼玉県の最高地価があった。繁栄の源は寛永15年(1638)、喜多院再建の資材運搬のために始まった新河岸川(しんがしがわ)の舟運である。喜多院は慈眼大師(じげんだいし)こと天海大僧正が住職を務める重要施設だ。藩政期を通じて、新河岸川は川越と江戸を結ぶ物流幹線の役割を果たしていた。川越の拠点は上新河岸、下新河岸、扇河岸、寺尾河岸、牛子(うしこ)河岸の5つあり、周辺農村から物資が集積し、江戸行きの荷舟に積み換えられた。
 明治4年(1871)の廃藩置県で川越藩は川越県となる。その後、入間県、熊谷県を経て現在の埼玉県境が定まるが、入間県の時代の約1年半は川越に県庁が置かれた。現在の県庁所在地の浦和より12年早く、県内で初めて市制施行されたのも川越である。戦後は大宮市や浦和市にその座を譲るが、少なくとも戦前は埼玉県下の中心都市だった。背景には主要交通手段の変遷がある。明治後半から大正にかけて鉄道網が拡大。新河岸川舟運は物流の主役を奪われ昭和6年(1931)に終了する。

明治の街・南町(川越一番街)
 埼玉県統計書によれば、記録に残る最も古い明治18年(1885)の最高地価は高澤町(たかざわまち)だった。新河岸川は川越市街を囲むような流路で、高澤町の西端に高澤橋が架かる。川越城の西大手門から続く東西のメインストリートで、川越児玉往還へ続く西の玄関口でもある。南北のメインストリートとの交差点に高札場があり、札の辻と呼ばれた。現在の高澤町は「菓子屋横丁」が観光名所になっている。明治以来の駄菓子屋街で、約20店舗が軒を連ねる。昭和初期には70軒以上の店があった。明治22年(1889)の町村制で川越町が成立。翌年以降の最高地価の表記は川越町字川越となる。
 札の辻から南の両側町が南町で蔵造りの町なみで知られる。現在は川越一番街と呼ばれる通りの両側に、黒漆喰の重厚な蔵造りの建物が並ぶ。江戸時代の町家形式を継承した耐火建築である。「小江戸」を象徴する景観だが、実際は明治時代の景観だ。明治26年(1893)の川越大火で当時の中心街のほとんどが焼失してしまった。ただ、寛政4年(1792)に建てられた呉服太物店、大沢家住宅は焼け残った。町衆はこれを教訓に耐火性の高い蔵造りの店舗を再建した。一説によれば、当時の日本橋の町なみをモデルにしたとされる。
 南町には川越、いや埼玉県で初めての銀行もあった。藩政期以来の商業者が立ち上げた第八十五国立銀行である。開店は明治11年(1878)12月だった。営業期間の満期を迎えた明治31年(1898)に第八十五銀行と改称した。現在残る建物は、大正7年(1918)に新築されたものである(図1 旧・八十五銀行本店(りそなコエドテラス))。三菱地所の前身・三菱合資会社の技師長だった保岡勝也(やすおかかつや)の独立後の作品だ。令和2年(2020)6月まで埼玉りそな銀行川越支店として営業していたが移転し、建物は観光スポット兼シェアオフィスの「りそなコエドテラス」に改装された。同行の「産業創出」、「まちの賑わい創出」の戦略拠点だ。
 第八十五銀行は戦時中の昭和18年(1943)、忍商業銀行、飯能銀行そして浦和に本店を構えていた武州銀行と合併して埼玉銀行となった。平成の金融再編を経て平成15年(2003)に埼玉りそな銀行となった。
界隈では、明治29年(1896)7月、鐘楼「時の鐘」がシンボルの多賀町で川越商業銀行が開業している。大正10年(1921)、武州銀行に買収されて同行川越支店となった。札の辻には昭和20年(1945)11月、三和銀行が開店している。

舟運から鉄道へ
 舟運から鉄道に交通の主役が移るにつれて、川越の中心は駅に向かってゆっくりと南下していく。
 川越に初めて乗り入れた鉄道は明治28年(1895)の川越鉄道である。起点の川越駅、現在の西武鉄道本川越駅は3月21日の開業で、今年130周年を迎えた。JR中央線の前身、甲武鉄道の支線として運用され、南下して国分寺駅に接続していた。東村山駅までは西武新宿線、東村山駅から国分寺駅までは西武国分寺線に重なる。現在の西武鉄道の路線網で最も古い。国分寺駅から甲武鉄道に乗り入れ、当時のターミナル駅だった飯田町駅に行くことができた。飯田町駅とは後の飯田町貨物駅で、廃駅後に再開発されて現在はアイガーデンエアとなっている。
 新河岸川の舟運で栄えていた川越にとって、鉄道は自らの拠点機能の低下につながる。鉄道以前、川越の集荷圏は狭山、飯能から青梅に及んでいた。川越鉄道の開通によって、これら地域は川越を経由する必要性が低くなった。川越から所沢まで“く”の字の路線形状である。開通して数年後、頂部の入間川駅(現在の狭山市駅)から飯能や青梅まで馬車鉄道が敷設され、連絡できるようになった。川越鉄道の出資者に川越の人たちはいなかったが、背景には、舟運との競合関係があったと考えられる。
 明治39年(1906)、川越と大宮を結ぶ川越電気鉄道が開通した。鉄道と電力会社が未分化だった時代である。経営母体は東京電力の前身の1つにあたり、旧川越久保町駅に隣接する発電所の跡地は現在東京電力パワーグリッド川越支社となっている。後の電力再編において、武蔵水電の時代に川越鉄道を合併したが、帝国電灯の時代に鉄道部門が分離され、川越鉄道とともに(旧)西武鉄道の経営となった(西武鉄道大宮線)。しかし、西武鉄道大宮線は昭和16年(1941)に廃止。
 舟運の凋落が決定的になったのが、大正3年(1914)5月、池袋と川越を直線的に結ぶ東上鉄道の開通である。東武東上線の前身で、現在の川越市駅は川越町駅といった。その翌年4月には、池袋と飯能を結ぶ武蔵野鉄道が開通した。こちらは西武池袋線の前身である。古来川越を中継点にしていた所沢、入間、飯能が東京と直結し、川越の拠点機能が低下した点で重大だった。
 現在の西武鉄道の祖は武蔵野鉄道とされる。武蔵野鉄道が(旧)西武鉄道を吸収合併し、吸収先の社名に改称した。(旧)西武鉄道は川越鉄道の後身だが、かつて乗り入れていた甲武鉄道が国鉄になったので東京に直結していなかった。そこで、昭和2年(1927)4月、東村山駅から分岐し高田馬場駅に至る村山線が開設された。現在の西武新宿線である。

大正の街・猪鼻町(大正浪漫夢通り)
 大蔵省主税局統計年報による川越市の最高地価は大正13年(1924)から志義町となった。ここは川越一番街の南端に接する東西の通りだ。志義町の南側の南北の旧道が猪鼻町(いのはなまち)である。猪鼻町は戦後の川越銀座商店街で、昭和36年(1961)に県内初のアーケードが架けられた。アーケードは平成7年(1995)に撤去され、現在は「大正浪漫夢通り」と呼ばれている。大正ロマンをコンセプトに、石畳の道にカフェや雑貨店が店を構えるエリアとなった。
 この通りのシンボルが、志義町との角にある川越商工会議所だ。昭和2年(1927)12月、武州銀行川越支店として建造された近代建築である。埼玉銀行発足後は川越南支店となった。商工会議所が譲り受けたのは昭和45年(1970)で、平成10年(1998)に国の有形文化財となった。高島屋日本橋店も手掛けた前田健二郎の設計だ。ルネッサンス・リバイバル様式で、ドリス式の列柱が特徴である。界隈には、大正8年(1919)3月に八王子が本店の第三十六銀行が川越支店を開店している。猪鼻町にあった日比谷銀行の営業を譲り受け、昭和18年(1943)4月に合併されて安田銀行になった。戦後は富士銀行と改称し、昭和34年(1959)に連雀町交差点の角に移転した。

昭和の街・中央通りから駅前へ
 昭和31年(1956)の最高路線価地点は蓮馨寺(れんけいじ)の前の中央通りだった。もっともこの年の県内最高路線価地点は大宮市で、川越市はその約3分の1だった。
 中央通りは昭和8年(1933)に整備された新しい道である。南町・鍛治町の通りの南側は行き止まりで丁字路だったが、中央通りが整備され交差点となった。片側アーケードが残る昭和レトロな通りで「昭和の街」と呼ばれる。元の猪鼻町の川越銀座商店街と合わせ、高度経済期に入る前の中心地だった。
 高度経済成長期を迎えると街の中心はさらに南下する。昭和43年(1968)の最高路線価は、「新富町2-10-7森田生花店」だった。元の新田町で、丸広百貨店の通りである。その原動力となったのはチェーン店や百貨店だった。チェーン店で最初に進出したのは昭和35年(1960)の長崎屋である。昭和37年(1962)にニチイ、昭和42年(1967)にイトーヨーカドー、昭和45年(1970)に西友が進出した。
 当地の地域一番店は丸広百貨店である。元をたどれば、昭和14年(1939)、大久保竹治が出身地の飯能で創業した丸木商店が源流である。「丸木」は大久保竹治が奉公した八王子の衣料卸問屋にあやかった。川越出店は昭和26年(1951)だが、当初は鍛治町、現在の川越一番街にあった。川越初の百貨店とされる山吉(やまきち)デパートの建物を賃借した。第八十五銀行と同じ保岡勝也が設計した昭和11年(1936)築の店舗が現存している。発展の兆候を見据え、丸広百貨店は昭和39年(1964)10月、新富町に5階建の店舗を新築して移転した。昭和43年(1968)には3倍に増床し地域一番店の地位を盤石にした。
 オイルショックを機に高度成長が一段落したが、中心地の南下は進む。昭和48年(1973)、新富町にあった丸井川越店が川越駅前の脇田町に新築移転した。昭和59年(1984)には最高路線価地点が丸井の前の「黒田書店前脇田町通り」となった。脇田町は旧町名を西町といった。東武東上線において川越を代表する駅は川越町駅(現在の川越市駅)で、現在の川越駅は開業当初は川越西町駅だった。川越駅となったのは昭和15年(1940)に同じ場所に国鉄の川越駅が開業してからだ。平成2年(1990)には、川越駅東口再開発事業で再開発ビル「atrε(アトレ)」が完成。丸広百貨店が核テナントとなった(なおJR東日本の商業施設は「atré(アトレ)」で半角英字の語尾が異なる)。翌年、西武本川越駅の駅ビルも完成し、プリンスホテルと商業施設「PePe(ペペ)」が開店。そして平成5年(1993)、最高路線価地点が川越駅前の「脇田町アトレ前通り」となった。また、この年から最高路線価の下落が始まった。

歴史の地層が温存された街
 札ノ辻から本川越駅まで徒歩20分弱、約1.3km、同じく川越駅までは約2km強、徒歩30分かかる。駅ができてから数十年単位で中心地が南下し、新しい街が旧市街の外側にできる形で広がっていった。古い街が上書きされずに残された理由には、1つは戦災を受けず、戦後復興もなかったこと、また県全体の拠点機能が大宮市や浦和市に移転したことが挙げられよう。北から南に、古い街から新しい街へまるで地層のように興味深い街となった。これまでの連載で似たようなパターンとして岐阜市があるが、こちらは戦災を経験しているため、川越のほうが良い状態で残っている。
 蔵造りの町なみについては、地元のまちづくりの情熱も忘れてはならない。昭和58年(1983)、川越一番街の若手商店主を中心に「川越蔵の会」が立ち上げられ、建築家やまちづくりの専門家、市役所職員も参加した。商店街の活性化を念頭に町なみ景観の保存や修景にかかる活動が展開された。遺構保存や観光開発だけでなく、商業活性化や住環境の質的向上とのバランスを重視するのが特長だ。昭和62年(1987)には商店街に「町並み委員会」が発足。翌年、デザインコード「町づくり規範」が示された。一帯は平成11年(1999)に「重要伝統的建造物群保存地区」に選定される。
 城下町特有の「五の字型」の区画で、交通渋滞が起きやすいのがネックだったが、現在はそれがかえって強みとなった。令和6年、市の調べによれば、川越市を訪れた観光客は735万8千人に達し、前年比2.3%の増加となった。そのうち外国人観光客は推計約70万人で、調査開始以来最多を記録した。今年の5月に試行された一番街での歩行者天国が好評を得た。
 7月に公表された令和7年の最高路線価は32年連続して川越駅前だった。地価は平成5年以降下落を続け、平成17年(2005)に底を打つ。この時点と比べると直近の路線価は44%上昇している。かつての最高路線価地点の丸広百貨店前は29%。川越一番街はそれ以上の上昇率であり、鐘つき通りやコエドテラス前、菓子屋横丁は50%を超えている。舟運拠点だった頃の街の遺産は、いまや観光地として再生し、エリアの収益力が地価水準に反映していると言える。

プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。主著に「自治体の財政診断入門」(学芸出版社)、「公民連携パークマネジメント」(同)

図2 広域図
図3 市街図
図4 旧・武州銀行川越支店(川越商工会議所)
図5 現在の南町(川越一番街)