医療保険の自己負担の動学的効果:年齢DIDアプローチ
財務総合政策研究所 総務研究部 研究員 西田 安紗
財務総合政策研究所(以下、「財務総研」)では、職員が、大学等の研究者の方々と共同で研究を行い、その成果を論文として発表しています。
今月のPRI Open Campusでは、筆者が早稲田大学政治経済学術院の別所俊一郎教授と共同で実施した研究について、どのような学術的背景があるのか、どのような問題意識に基づく研究なのか、どのような貢献があるのか、といったことを、分かりやすくご紹介します。
なお、本稿の内容は全て筆者の個人的見解であり、財務省および財務総合政策研究所の公式見解を示すものではありません。
1.はじめに
1.1 公的医療保険制度の概要
日本では、1961年に導入された国民皆保険制度により、ほぼ全ての国民が公的医療保険に加入している。この公的医療保険は入院・外来・調剤を包括的にカバーしており、患者が窓口で支払う負担が低く抑えられているため、コストを抑制するインセンティブが生じにくい構造となっている。このため、医療技術の進歩や高齢化の進展により、医療費は年々増加しており、制度全体の財政の持続可能性が危ぶまれているところである。
公的医療保険制度の設計において、「どの世代に、どれだけの負担を求めるべきか」という議論は常に重要であり、こうした議論を行う上では、自己負担の効果、具体的には、自己負担割合の引き上げが医療費に与える影響を分析することが不可欠である。一見すると、単純に自己負担割合が異なるグループを比較すれば、その影響が分かりそうに思える。例えば50歳のグループと80歳のグループの医療費を比べたとき、80歳のグループの方が、医療費が多いことが分かったとしよう。確かに、両グループの自己負担割合は前者が3割、後者が1割と異なっている。しかし、年齢が違えば健康状態や就業状態も異なり、医療費には、こうした差異が強く影響していると考えられるため、単に「自己負担割合が低いから医療機関に多く行っている(医療費が多い)」とは言い切れない。自己負担割合の引き上げが与える影響を明らかにするには、自己負担割合「のみ」が異なり、それ以外の条件が同一のグループを比較する必要がある。そこで、筆者らが着目した2014年の制度変更を紹介したい。
1.2 2014年の制度変更の内容
医療費の高騰を背景に、近年、高齢者の自己負担の引き上げが進められている。その改革のうちの1つが、2014年4月から実施された70~74歳の高齢者の自己負担割合の引き上げである。
2014年3月以前は、70歳以上の高齢者の自己負担割合は原則として1割であったが、2014年4月以降に70歳に達した者、つまり1944年4月以降に生まれた者については、70~74歳の自己負担割合が2割に引き上げられた*1。一方で、不利益変更を避けるため、2014年4月の時点で70~74歳に達している者であっても、1944年3月以前に生まれた者については、1割負担に据え置かれた。また、75歳以降は、生年月に関わらず、原則として1割負担とされた*2(表1 医療費の自己負担割合(一般所得者))。つまり、1944年4月を基準として、その直前と直後に生まれたグループは、年齢や健康状態、就業状態が平均的にはほぼ同一であり、自己負担割合「のみ」が異なると考えられる。また、生年月は外生的(自身がどちらのグループに含まれるかを恣意的に選択することが困難)であり、ランダムに近いグループ分けになっていると想定できる。そこで、本研究では、この制度改正に着目し、自己負担割合の引き上げに対する人々の動学的な反応を実証的に分析することとした。
2.研究内容
2.1 使用データ
本研究に用いるデータは慶應義塾大学パネルデータ設計・解析センター「日本家計パネル調査(JHPS)」(以下、慶應パネル)の個票データである。本データからは、調査対象の各個人について、1年間の自己負担の総額しか分からないため、この金額を自己負担割合で除して、(自己負担と保険給付を足し合わせた10割分の)医療費を推計する作業を行った。また、現役並み所得者(70歳以上であっても3割負担が適用される)、高額療養費制度の利用者(月間の自己負担額が上限に達しており、それ以上負担額が増えない)、生活保護受給者(自己負担がゼロ)といった、標準的な自己負担割合が適用されない者については、注意深く除外した上で分析を行っており、先行研究よりも精緻な標本になっている。
2.2 識別戦略
本研究では、Komura and Bessho(2025)にならい、70歳・75歳での負担割合の変化を利用した差の差推定(age difference-in-difference(年齢DID))を行った。
差の差推定とは、「時間を通じた変化(差)が、政策導入の有無によって異なる(差がある)かを見ることで、政策の効果を調べる方法」である*3。本研究における差の差推定のイメージを図1 差の差推定のイメージに示している。70~74歳の自己負担割合のみが異なる2つのグループ(対照群と処置群)において、70歳になると自己負担割合が3割からそれぞれ2割・1割に下がるため、医療費の変化(差)が見られる。さらにその差が、2割と1割のグループでどれだけ異なるかを見ることで、政策導入の効果だけを取り出して分析することができる。
実際に、慶應パネルを使用して、各年齢での医療受診の有無と医療費の平均値を、1944年3月以前生まれ(対照群)と4月以降生まれ(処置群)のそれぞれについてプロットしたものを図2 標本統計:平均値の推移(医療受診の有無)、図3 標本統計:平均値の推移(医療費(千円))に示す。
図2の医療受診の有無とは、「あなたは、昨年1年間に、病気やけがの治療のために費用をかけましたか( ≓医療機関を受診しましたか)」という質問に対して「あり」と答えた者を1、「なし」と答えた者を0として、年齢ごとに平均値を取ったものである。図2を見ると、医療受診の有無は全体として右肩上がりに推移している。自己負担割合は対照群では70歳、処置群では70歳と75歳で低下しているが、それぞれの年齢でのトレンドの変化等は見られない。
図3の医療費も全体として右肩上がりであり、対照群の医療費は自己負担割合が1割に下がった70歳以降大幅に増加し、72歳でピークを迎えたのち安定して推移している一方、処置群の医療費は、自己負担割合が2割に下がった70歳から71歳にかけて増加しているが、その増加幅は対照群ほどではない。また、処置群について、自己負担割合が1割に低下した75歳では大きな変化は見られないが、76歳で大きなジャンプが見られる。これらの結果は、自己負担割合の引き上げが医療費を抑制することを示唆するものと言える。
2.3 研究結果
2.3.1 医療費への影響
それでは、研究結果について見ていく。図4 医療費(対数)の回帰分析結果(医療費支出がない者も含む)は、処置群の医療費(対数)が対照群のそれに比べてどれほど異なるか(縦軸)を、65~77歳の年齢(横軸)ごとにプロットしたものである。点(点推定値)と上下に伸びた棒(信頼区間)がゼロよりも下に位置していると、処置群(70~74歳の自己負担割合が2割)は、対照群(70~74歳の自己負担割合が1割)に比べて、医療費を抑制しているということを示している。図4を見ると、70~74歳の区間において点はゼロ付近を推移しており、2つのグループに、医療費の差はないことを意味している。これは先行研究の結果とは非整合的な結果である。
一方、「あなたは、昨年1年間に、病気やけがの治療のために費用をかけましたか」という質問に対して「あり」と答えた者、つまり実際に医療機関に行った者だけに限定して同様の分析を行った結果が図5 医療費(対数)の回帰分析結果(医療費支出がある者のみ)である。69歳まではゼロ付近を推移し、70歳からマイナスの値に転じ、71~75歳の間は統計的に有意にマイナスの値となり(信頼区間がゼロを跨いでいない)、76歳以降はまたゼロ付近に戻っている。このことは、医療機関を受診した者に限定すると、71~75歳の期間に、自己負担割合が2割の処置群は、1割の対照群に比べて医療費が抑制されていることを示している。これら2つの結果を踏まえると、自己負担割合の引き上げは、医療機関に行くか行かないか(extensive margin)には影響しないが、医療機関に行った際の医療費(intensive margin)には、一定の影響があるものと解釈できる。
また、本研究の特徴として、医療費への影響を、自己負担割合に変化がある70~74歳を中心に、その前後も含め合計13年間にわたって長期的に追跡している点がある。自己負担割合の変化の影響を分析したShigeoka(2014)やFukushima et al(2016)等の先行研究は、70歳時点で自己負担割合が3割から1割に非連続的に下がることに着目した回帰不連続デザイン(RDD)を用いて、70歳になるちょうどそのタイミングでの変化を分析しているが、この手法では制度変更の長期的な影響を分析できない。
しかし、年齢DIDを用いたKomura and Bessho(2025)や本研究ではそれが可能である。そこで、自己負担割合引き上げの長期的な影響を見ると、負担割合が変化する70歳では、医療費の大きな減少は見られず、徐々に減少して72歳時点で最も大きく減少し、その後は負担割合に差がなくなった後の75歳まで大きく変動していない。この結果は、高齢者が自己負担割合の変化に対して、直ちに認識して行動を変化させるのではなく、時間の経過とともに行動を変える可能性を示唆している。さらに、自己負担割合に差がない75歳時点でも、処置群と対照群に医療費の差があるという結果は、Komura and Bessho(2025)とも整合的である。
2.3.2 健康への影響
では、この医療費の抑制は、健康にどういった影響をもたらすのだろうか。医療費の抑制が、過剰な医療サービスの利用を止めた結果であれば望ましい変化と言えるが、必要なサービスまで仕方なく減らした結果として、医療費が抑制されたのであれば、それは問題である。慶應パネルには、主観的な健康状態*4や喫煙・飲酒・運動の状況を尋ねる項目があるため、それらへの影響を分析した。その結果、自己負担割合の変化と健康状態や健康行動にはほぼ相関がないことが分かり、医療費の抑制は、必要性の高い医療サービスの利用まで抑制したものではないことが示唆された。
2.3.3 社会経済的状況による異質性
次に、社会経済的状況による異質性を検証する。例えば、経済的にゆとりのある人は、自己負担割合が上がっても気にせず受診する一方で、ゆとりのない人は、負担割合の増加に敏感に反応し、受診を控える可能性がある。こうした異質性を検証するために、慶應パネルの調査対象者を社会経済的状況が良いグループと悪いグループに分け、それぞれのグループごとに、先程と同様の推定を行った。
まず、過去1年間の医療費支出がない者も含めて推定を行ったところ、グループ間で明確な違いは見られなかった。次に、過去1年間の医療費支出が「あり」と回答した者に限定して推定した結果を、図6 社会経済的状況による異質性:医療費(対数、医療費支出がある者のみ)に示している。これを見ると、社会経済的状況が悪いグループの方が良いグループよりもやや強く医療費を抑える傾向がうかがえる。その差は、統計的に有意であるとまでは言えないものの、社会経済的状況が悪いグループほど、自己負担割合の引き上げに反応しやすい可能性があることには、留意が必要である。
3.おわりに
本研究では、自己負担割合の引き上げが医療費や健康状態等に与える影響を長期的に観察し、その異質性について分析を行った。具体的には、2014年4月に実施された制度変更によって、70~74歳の高齢者の自己負担割合が1割から2割に引き上げられたことを利用して、個人レベルのパネルデータを用いた差の差推定(年齢DID)を行った。
本研究の結果は以下のようにまとめられる。第1に、自己負担割合の引き上げは、医療費を抑制する効果を持つ。第2に、この効果は受診の有無よりも、医療機関を受診した者に限った場合の医療費の減少に現れる。第3に、この効果は負担割合の変化直後には顕現しない。第4に、自己負担割合の引き上げは、健康状態や健康行動には、有意な影響を与えない。第5に、医療費への影響は、社会経済的状況には大きくは依存しない。
もちろん、本研究には今後の課題も残されている。例えば、本研究では、健康状態の指標として主観的健康状態を用いたが、客観的な健康指標は考慮していない。主観的指標に加え、BMI、血糖値、死亡率等の客観的指標を用いた分析を行うことで、自己負担割合の引き上げが健康に与える影響をより正確に評価することができるだろう。また、本研究では高額療養費制度の利用者を分析対象から除外しているが、同制度の利用者は、本研究の分析対象よりも、医療ニーズの高い人々であると考えられる。こうした人々では、自己負担割合の引き上げに対する反応も異なり得ることから、本研究の分析結果を単純に敷衍することはできない点には、留意が必要であろう。
参考文献
古村典洋・杉本陽・出水友貴・別所俊一郎(2020)「患者負担が医療サービスの利用及び健康状態に中期的に及ぼす影響--生年月に基づく回帰不連続デザインによるエビデンス--」,KIER Discussion Paper Series,No.1902.
田中隆一(2015)『計量経済学の第一歩 実証分析のススメ』,有斐閣.
Fukushima, Kazuya, Sou Mizuoka, Shunsuke Yamamoto, and Toshiaki Iizuka(2016)“Patient Cost Sharing and Medical Expenditures for the Elderly,” Journal of Health Economics, Vol.45, pp.115-130.
Komura, Norihiro and Shun-ichiro Bessho(2022)“The Longer-Term Impact of Coinsurance for the Elderly:Evidence from High-Access Case,” KIER Discussion Paper Series, No.1074.
Komura, Norihiro and Shun-ichiro Bessho(2025)“Dynamics of Consumer Responses to Medical Price Changes,” American Economic Review:Insights, forthcoming.
Shigeoka, Hitoshi. (2014)“The Effect of Patient Cost Sharing on Utilization, Health, and Risk Protection,” American Economic Review, Vol.104(7), pp.2152-2184.
【コラム】論研論文から共著論文へ
今回の研究を始めるに当たり、1つの大きなご縁がありました。早稲田大学政治経済学術院の別所俊一郎教授との出会いです。元々は、筆者の財政経済理論研修(以下、論研。研修の詳細は『ファイナンス』令和5年1月号の「PRI Open Campus」をご覧ください。)における指導教官を引き受けていただいたのが始まりで、論研では、別所先生の論文(Komura and Bessho, 2022)を先行研究と位置付けた研究を行い、経済学の初歩的な質問から、研究の方向性に関する相談まで、大変親身にご指導いただきました。そして、論研の終了後には、論研で執筆した論文を発展させ、共著論文として執筆を進める機会をいただき、現在に至っています。
別所先生は2003~2006年に研究官、2017~2019年に総括主任研究官として財務総研に在籍されていたこともあり、研究の合間には在籍当時の思い出等もお聞かせいただきました。また、先生のゼミ生向けに、私の出向元の会社説明会を開かせていただく機会もあり、研究以外の場面でも多くのご配慮をいただきました。
本研究については、別所先生のご紹介により、一橋大学で行われた「共同利用・共同研究拠点プロジェクト 大規模ミクロデータを用いた健康・医療政策評価に関する研究集会」や、広島大学で行われた「官学連携セミナー」(広島大学と財務総研の共催セミナー)でも発表の機会をいただき、多くの先生方から有益なコメントをいただいたことで、研究内容がより一層深まったと実感しています。
現在は、この研究成果を英語論文としてまとめ、学術雑誌への投稿に向けた準備を進めているところで、今年9月の日本経済学会秋季大会(弘前大学)でも報告を予定しています。
【プロフィール】
早稲田大学政治経済学術院教授/財務総合政策研究所特別研究官
別所 俊一郎(写真右)
専門は財政論。博士(経済学、東京大学)。株式会社日本総合研究所、一橋大学、慶應義塾大学、財務省、東京大学を経て現職。
財務総合政策研究所総務研究部研究員
西田 安紗(写真左)
2021年に明治安田生命保険相互会社へ入社。山口支社や明治安田総合研究所での業務を経て、2023年より現職。
財務総合政策研究所
POLICY RESEARCH INSTITUTE, Ministry Of Finance, JAPAN
過去の「PRI Open Campus」については、
財務総合政策研究所ホームページに掲載しています。
https://www.mof.go.jp/pri/research/special_report/index.html
*1) 70~74歳の高齢者の自己負担割合については、2006年の法改正により、2008年4月から2割に引き上げられることとされていたところ、特例措置により2008年以降も1割で据え置かれていたが、2014年4月から特例措置が解除された。
*2) なお、2022年10月より、75歳以上の高齢者で一定の所得がある者については、2割負担となった。
*3) 田中(2015)p.216
*4) 「ふだんのあなたの健康状態はどうですか」という質問。5つの選択肢(「よい」「まあよい」「ふつう」「あまりよくない」「よくない」)から1つを選択して回答する。 今月のPRI Open Campusでは、財務総合政策研究所の資料情報部で行っている財政史と財政金融統計月報の編纂・刊行等の業務と、財務省図書館の業務や役割について、「ファイナンス」の読者の皆様にご紹介します。
財務総合政策研究所 総務研究部 研究員 西田 安紗
財務総合政策研究所(以下、「財務総研」)では、職員が、大学等の研究者の方々と共同で研究を行い、その成果を論文として発表しています。
今月のPRI Open Campusでは、筆者が早稲田大学政治経済学術院の別所俊一郎教授と共同で実施した研究について、どのような学術的背景があるのか、どのような問題意識に基づく研究なのか、どのような貢献があるのか、といったことを、分かりやすくご紹介します。
なお、本稿の内容は全て筆者の個人的見解であり、財務省および財務総合政策研究所の公式見解を示すものではありません。
1.はじめに
1.1 公的医療保険制度の概要
日本では、1961年に導入された国民皆保険制度により、ほぼ全ての国民が公的医療保険に加入している。この公的医療保険は入院・外来・調剤を包括的にカバーしており、患者が窓口で支払う負担が低く抑えられているため、コストを抑制するインセンティブが生じにくい構造となっている。このため、医療技術の進歩や高齢化の進展により、医療費は年々増加しており、制度全体の財政の持続可能性が危ぶまれているところである。
公的医療保険制度の設計において、「どの世代に、どれだけの負担を求めるべきか」という議論は常に重要であり、こうした議論を行う上では、自己負担の効果、具体的には、自己負担割合の引き上げが医療費に与える影響を分析することが不可欠である。一見すると、単純に自己負担割合が異なるグループを比較すれば、その影響が分かりそうに思える。例えば50歳のグループと80歳のグループの医療費を比べたとき、80歳のグループの方が、医療費が多いことが分かったとしよう。確かに、両グループの自己負担割合は前者が3割、後者が1割と異なっている。しかし、年齢が違えば健康状態や就業状態も異なり、医療費には、こうした差異が強く影響していると考えられるため、単に「自己負担割合が低いから医療機関に多く行っている(医療費が多い)」とは言い切れない。自己負担割合の引き上げが与える影響を明らかにするには、自己負担割合「のみ」が異なり、それ以外の条件が同一のグループを比較する必要がある。そこで、筆者らが着目した2014年の制度変更を紹介したい。
1.2 2014年の制度変更の内容
医療費の高騰を背景に、近年、高齢者の自己負担の引き上げが進められている。その改革のうちの1つが、2014年4月から実施された70~74歳の高齢者の自己負担割合の引き上げである。
2014年3月以前は、70歳以上の高齢者の自己負担割合は原則として1割であったが、2014年4月以降に70歳に達した者、つまり1944年4月以降に生まれた者については、70~74歳の自己負担割合が2割に引き上げられた*1。一方で、不利益変更を避けるため、2014年4月の時点で70~74歳に達している者であっても、1944年3月以前に生まれた者については、1割負担に据え置かれた。また、75歳以降は、生年月に関わらず、原則として1割負担とされた*2(表1 医療費の自己負担割合(一般所得者))。つまり、1944年4月を基準として、その直前と直後に生まれたグループは、年齢や健康状態、就業状態が平均的にはほぼ同一であり、自己負担割合「のみ」が異なると考えられる。また、生年月は外生的(自身がどちらのグループに含まれるかを恣意的に選択することが困難)であり、ランダムに近いグループ分けになっていると想定できる。そこで、本研究では、この制度改正に着目し、自己負担割合の引き上げに対する人々の動学的な反応を実証的に分析することとした。
2.研究内容
2.1 使用データ
本研究に用いるデータは慶應義塾大学パネルデータ設計・解析センター「日本家計パネル調査(JHPS)」(以下、慶應パネル)の個票データである。本データからは、調査対象の各個人について、1年間の自己負担の総額しか分からないため、この金額を自己負担割合で除して、(自己負担と保険給付を足し合わせた10割分の)医療費を推計する作業を行った。また、現役並み所得者(70歳以上であっても3割負担が適用される)、高額療養費制度の利用者(月間の自己負担額が上限に達しており、それ以上負担額が増えない)、生活保護受給者(自己負担がゼロ)といった、標準的な自己負担割合が適用されない者については、注意深く除外した上で分析を行っており、先行研究よりも精緻な標本になっている。
2.2 識別戦略
本研究では、Komura and Bessho(2025)にならい、70歳・75歳での負担割合の変化を利用した差の差推定(age difference-in-difference(年齢DID))を行った。
差の差推定とは、「時間を通じた変化(差)が、政策導入の有無によって異なる(差がある)かを見ることで、政策の効果を調べる方法」である*3。本研究における差の差推定のイメージを図1 差の差推定のイメージに示している。70~74歳の自己負担割合のみが異なる2つのグループ(対照群と処置群)において、70歳になると自己負担割合が3割からそれぞれ2割・1割に下がるため、医療費の変化(差)が見られる。さらにその差が、2割と1割のグループでどれだけ異なるかを見ることで、政策導入の効果だけを取り出して分析することができる。
実際に、慶應パネルを使用して、各年齢での医療受診の有無と医療費の平均値を、1944年3月以前生まれ(対照群)と4月以降生まれ(処置群)のそれぞれについてプロットしたものを図2 標本統計:平均値の推移(医療受診の有無)、図3 標本統計:平均値の推移(医療費(千円))に示す。
図2の医療受診の有無とは、「あなたは、昨年1年間に、病気やけがの治療のために費用をかけましたか( ≓医療機関を受診しましたか)」という質問に対して「あり」と答えた者を1、「なし」と答えた者を0として、年齢ごとに平均値を取ったものである。図2を見ると、医療受診の有無は全体として右肩上がりに推移している。自己負担割合は対照群では70歳、処置群では70歳と75歳で低下しているが、それぞれの年齢でのトレンドの変化等は見られない。
図3の医療費も全体として右肩上がりであり、対照群の医療費は自己負担割合が1割に下がった70歳以降大幅に増加し、72歳でピークを迎えたのち安定して推移している一方、処置群の医療費は、自己負担割合が2割に下がった70歳から71歳にかけて増加しているが、その増加幅は対照群ほどではない。また、処置群について、自己負担割合が1割に低下した75歳では大きな変化は見られないが、76歳で大きなジャンプが見られる。これらの結果は、自己負担割合の引き上げが医療費を抑制することを示唆するものと言える。
2.3 研究結果
2.3.1 医療費への影響
それでは、研究結果について見ていく。図4 医療費(対数)の回帰分析結果(医療費支出がない者も含む)は、処置群の医療費(対数)が対照群のそれに比べてどれほど異なるか(縦軸)を、65~77歳の年齢(横軸)ごとにプロットしたものである。点(点推定値)と上下に伸びた棒(信頼区間)がゼロよりも下に位置していると、処置群(70~74歳の自己負担割合が2割)は、対照群(70~74歳の自己負担割合が1割)に比べて、医療費を抑制しているということを示している。図4を見ると、70~74歳の区間において点はゼロ付近を推移しており、2つのグループに、医療費の差はないことを意味している。これは先行研究の結果とは非整合的な結果である。
一方、「あなたは、昨年1年間に、病気やけがの治療のために費用をかけましたか」という質問に対して「あり」と答えた者、つまり実際に医療機関に行った者だけに限定して同様の分析を行った結果が図5 医療費(対数)の回帰分析結果(医療費支出がある者のみ)である。69歳まではゼロ付近を推移し、70歳からマイナスの値に転じ、71~75歳の間は統計的に有意にマイナスの値となり(信頼区間がゼロを跨いでいない)、76歳以降はまたゼロ付近に戻っている。このことは、医療機関を受診した者に限定すると、71~75歳の期間に、自己負担割合が2割の処置群は、1割の対照群に比べて医療費が抑制されていることを示している。これら2つの結果を踏まえると、自己負担割合の引き上げは、医療機関に行くか行かないか(extensive margin)には影響しないが、医療機関に行った際の医療費(intensive margin)には、一定の影響があるものと解釈できる。
また、本研究の特徴として、医療費への影響を、自己負担割合に変化がある70~74歳を中心に、その前後も含め合計13年間にわたって長期的に追跡している点がある。自己負担割合の変化の影響を分析したShigeoka(2014)やFukushima et al(2016)等の先行研究は、70歳時点で自己負担割合が3割から1割に非連続的に下がることに着目した回帰不連続デザイン(RDD)を用いて、70歳になるちょうどそのタイミングでの変化を分析しているが、この手法では制度変更の長期的な影響を分析できない。
しかし、年齢DIDを用いたKomura and Bessho(2025)や本研究ではそれが可能である。そこで、自己負担割合引き上げの長期的な影響を見ると、負担割合が変化する70歳では、医療費の大きな減少は見られず、徐々に減少して72歳時点で最も大きく減少し、その後は負担割合に差がなくなった後の75歳まで大きく変動していない。この結果は、高齢者が自己負担割合の変化に対して、直ちに認識して行動を変化させるのではなく、時間の経過とともに行動を変える可能性を示唆している。さらに、自己負担割合に差がない75歳時点でも、処置群と対照群に医療費の差があるという結果は、Komura and Bessho(2025)とも整合的である。
2.3.2 健康への影響
では、この医療費の抑制は、健康にどういった影響をもたらすのだろうか。医療費の抑制が、過剰な医療サービスの利用を止めた結果であれば望ましい変化と言えるが、必要なサービスまで仕方なく減らした結果として、医療費が抑制されたのであれば、それは問題である。慶應パネルには、主観的な健康状態*4や喫煙・飲酒・運動の状況を尋ねる項目があるため、それらへの影響を分析した。その結果、自己負担割合の変化と健康状態や健康行動にはほぼ相関がないことが分かり、医療費の抑制は、必要性の高い医療サービスの利用まで抑制したものではないことが示唆された。
2.3.3 社会経済的状況による異質性
次に、社会経済的状況による異質性を検証する。例えば、経済的にゆとりのある人は、自己負担割合が上がっても気にせず受診する一方で、ゆとりのない人は、負担割合の増加に敏感に反応し、受診を控える可能性がある。こうした異質性を検証するために、慶應パネルの調査対象者を社会経済的状況が良いグループと悪いグループに分け、それぞれのグループごとに、先程と同様の推定を行った。
まず、過去1年間の医療費支出がない者も含めて推定を行ったところ、グループ間で明確な違いは見られなかった。次に、過去1年間の医療費支出が「あり」と回答した者に限定して推定した結果を、図6 社会経済的状況による異質性:医療費(対数、医療費支出がある者のみ)に示している。これを見ると、社会経済的状況が悪いグループの方が良いグループよりもやや強く医療費を抑える傾向がうかがえる。その差は、統計的に有意であるとまでは言えないものの、社会経済的状況が悪いグループほど、自己負担割合の引き上げに反応しやすい可能性があることには、留意が必要である。
3.おわりに
本研究では、自己負担割合の引き上げが医療費や健康状態等に与える影響を長期的に観察し、その異質性について分析を行った。具体的には、2014年4月に実施された制度変更によって、70~74歳の高齢者の自己負担割合が1割から2割に引き上げられたことを利用して、個人レベルのパネルデータを用いた差の差推定(年齢DID)を行った。
本研究の結果は以下のようにまとめられる。第1に、自己負担割合の引き上げは、医療費を抑制する効果を持つ。第2に、この効果は受診の有無よりも、医療機関を受診した者に限った場合の医療費の減少に現れる。第3に、この効果は負担割合の変化直後には顕現しない。第4に、自己負担割合の引き上げは、健康状態や健康行動には、有意な影響を与えない。第5に、医療費への影響は、社会経済的状況には大きくは依存しない。
もちろん、本研究には今後の課題も残されている。例えば、本研究では、健康状態の指標として主観的健康状態を用いたが、客観的な健康指標は考慮していない。主観的指標に加え、BMI、血糖値、死亡率等の客観的指標を用いた分析を行うことで、自己負担割合の引き上げが健康に与える影響をより正確に評価することができるだろう。また、本研究では高額療養費制度の利用者を分析対象から除外しているが、同制度の利用者は、本研究の分析対象よりも、医療ニーズの高い人々であると考えられる。こうした人々では、自己負担割合の引き上げに対する反応も異なり得ることから、本研究の分析結果を単純に敷衍することはできない点には、留意が必要であろう。
参考文献
古村典洋・杉本陽・出水友貴・別所俊一郎(2020)「患者負担が医療サービスの利用及び健康状態に中期的に及ぼす影響--生年月に基づく回帰不連続デザインによるエビデンス--」,KIER Discussion Paper Series,No.1902.
田中隆一(2015)『計量経済学の第一歩 実証分析のススメ』,有斐閣.
Fukushima, Kazuya, Sou Mizuoka, Shunsuke Yamamoto, and Toshiaki Iizuka(2016)“Patient Cost Sharing and Medical Expenditures for the Elderly,” Journal of Health Economics, Vol.45, pp.115-130.
Komura, Norihiro and Shun-ichiro Bessho(2022)“The Longer-Term Impact of Coinsurance for the Elderly:Evidence from High-Access Case,” KIER Discussion Paper Series, No.1074.
Komura, Norihiro and Shun-ichiro Bessho(2025)“Dynamics of Consumer Responses to Medical Price Changes,” American Economic Review:Insights, forthcoming.
Shigeoka, Hitoshi. (2014)“The Effect of Patient Cost Sharing on Utilization, Health, and Risk Protection,” American Economic Review, Vol.104(7), pp.2152-2184.
【コラム】論研論文から共著論文へ
今回の研究を始めるに当たり、1つの大きなご縁がありました。早稲田大学政治経済学術院の別所俊一郎教授との出会いです。元々は、筆者の財政経済理論研修(以下、論研。研修の詳細は『ファイナンス』令和5年1月号の「PRI Open Campus」をご覧ください。)における指導教官を引き受けていただいたのが始まりで、論研では、別所先生の論文(Komura and Bessho, 2022)を先行研究と位置付けた研究を行い、経済学の初歩的な質問から、研究の方向性に関する相談まで、大変親身にご指導いただきました。そして、論研の終了後には、論研で執筆した論文を発展させ、共著論文として執筆を進める機会をいただき、現在に至っています。
別所先生は2003~2006年に研究官、2017~2019年に総括主任研究官として財務総研に在籍されていたこともあり、研究の合間には在籍当時の思い出等もお聞かせいただきました。また、先生のゼミ生向けに、私の出向元の会社説明会を開かせていただく機会もあり、研究以外の場面でも多くのご配慮をいただきました。
本研究については、別所先生のご紹介により、一橋大学で行われた「共同利用・共同研究拠点プロジェクト 大規模ミクロデータを用いた健康・医療政策評価に関する研究集会」や、広島大学で行われた「官学連携セミナー」(広島大学と財務総研の共催セミナー)でも発表の機会をいただき、多くの先生方から有益なコメントをいただいたことで、研究内容がより一層深まったと実感しています。
現在は、この研究成果を英語論文としてまとめ、学術雑誌への投稿に向けた準備を進めているところで、今年9月の日本経済学会秋季大会(弘前大学)でも報告を予定しています。
【プロフィール】
早稲田大学政治経済学術院教授/財務総合政策研究所特別研究官
別所 俊一郎(写真右)
専門は財政論。博士(経済学、東京大学)。株式会社日本総合研究所、一橋大学、慶應義塾大学、財務省、東京大学を経て現職。
財務総合政策研究所総務研究部研究員
西田 安紗(写真左)
2021年に明治安田生命保険相互会社へ入社。山口支社や明治安田総合研究所での業務を経て、2023年より現職。
財務総合政策研究所
POLICY RESEARCH INSTITUTE, Ministry Of Finance, JAPAN
過去の「PRI Open Campus」については、
財務総合政策研究所ホームページに掲載しています。
https://www.mof.go.jp/pri/research/special_report/index.html
*1) 70~74歳の高齢者の自己負担割合については、2006年の法改正により、2008年4月から2割に引き上げられることとされていたところ、特例措置により2008年以降も1割で据え置かれていたが、2014年4月から特例措置が解除された。
*2) なお、2022年10月より、75歳以上の高齢者で一定の所得がある者については、2割負担となった。
*3) 田中(2015)p.216
*4) 「ふだんのあなたの健康状態はどうですか」という質問。5つの選択肢(「よい」「まあよい」「ふつう」「あまりよくない」「よくない」)から1つを選択して回答する。 今月のPRI Open Campusでは、財務総合政策研究所の資料情報部で行っている財政史と財政金融統計月報の編纂・刊行等の業務と、財務省図書館の業務や役割について、「ファイナンス」の読者の皆様にご紹介します。