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路線価でひもとく街の歴史

第65回 特別編 知的に楽しむ街歩き
地域経済で読みとく街の起承転結

 5月23日の金曜日、京都駅前にある学芸出版社の3階で、連載「路線価でひもとく街の歴史」をテーマとする対談イベントに登壇した。大阪ガスネットワーク株式会社エネルギー・文化研究所の山納洋さんをホストに、ゲストと対談するトークイベント「がくげいラボ×Talkin’ About」の第40回だ。基調講演は、山納さんの近著「歩いて読みとく地域経済」(学芸出版社)に合わせて「路線価でひもとく街の歴史、…から読みとく地域経済」とした。念頭に置いたのは、本書のオビにある問い、すなわち「地域の営み」から見える街の成り立ち、「仕事」が街の風景をつくる仕組み等々に対する「路線価でひもとく街の歴史」流の回答だ。さらに、「歩いて読みとく」楽しみを深めるべく、地域経済を軸に「街の起承転結」を読みとく方法を紹介した。

地域経済、社会関係と都市デザイン
 連載「路線価でひもとく街の歴史」は、仮に「歩いて読みとく地域経済」というタイトルだったとしても齟齬はない。都市デザインの土台に地域経済があるからだ。これを示すと図1 社会関係は地域経済を反映し、都市のデザインは社会関係を反映するのようになる。この都市デザインはその時々の社会関係を反映し、社会関係はその時々の地域経済を反映している。地域経済を土台とすれば、社会関係や都市デザインはその上部構造といえる。
 ここで地域経済とは第1に主要交通手段、第2に商業施設、第3にその街、その時代に特有の都市工業である。産業分類でいえば、運輸業、商業、工業で、金融業も登場する。運輸業なら船舶、鉄道そして自動車。商業なら商店街、百貨店そして郊外巨艦店。工業なら内職、工房から工場という具合に、その時代に特有の設備様式がある。これら設備様式のあり方が、働き方や組織形態を規定する。産業革命すなわち工場制の登場は街はずれに工場が進出することが前提となるし、商業なら郊外巨艦店は車社会を前提としている。都市デザインも車社会に合わせたものになる。
 工業、商業も関係するが、都市デザインに表れる地域経済の業種で最も影響が大きいのは運輸業だ。その時代の主要交通手段は街の中心をも動かす。舟運から鉄道、自動車への主要交通手段の変遷は、戦前の最高地価、戦後の最高路線価地点の変遷に連動する。2022年8月号の「街の発展史から将来の街づくりを考えること」で書いた「街の交通史観」である。
 ここで主要交通手段の変遷についてふりかえる。図2 貨物・旅客輸送の分担率は貨物・旅客輸送の分担率だが、明治5年(1872)、新橋・横浜間に最初の鉄道が開通して以降、明治時代にかけて鉄道網が全国に広まった。旅客輸送は早々に主力が鉄道に移ったが、貨物輸送は内航海運も低コストの輸送手段として存在感を残していた。街の中心が駅に向かう兆候はあったが、後述する戦後に比べれば動きは緩慢で、河岸や港が交通拠点であり続けた。
 さて金融業である。現代に生きる私たちが明治の街の中心を探すのに金融業の理解が役に立つ。当地を代表する銀行の初代本店の所在地が当時の街の中心だったからだ。河岸や港が物流と流通の拠点だった時代、その後背地に卸市場ができ倉庫が集まった。卸市場といえば魚市場や青果市場である。市場の門前に仲卸業者が軒を連ね、倉庫の近くに銀行が集まる。これはなぜか。まずは移出業者が倉庫に荷物を預け、倉荷証券(預かり証)を受け取る。業者は為替手形を発行し、倉荷証券を付けて銀行に提出し、資金化する用事があった。要するに荷為替手形の割引という貿易事務を、内航海運の時代には国内でやっていたからだ。

街の起承転結
 もう一つのテーマが「起承転結」、街の発展史を起承転結のストーリーで読みとく方法だ。
 起承転結の「起」は城下町の区画を残した近代の街である。はじめに街の軸を探す。だいたいは旧街道が軸となる。もう一つの軸は街の玄関口の河岸・港と旧街道を結ぶアクセス道である。二つの軸が交差するところ、言い換えれば陸路と水路の結節点がその街の中心だ。城下町なら「高札場」が立った。国道の起点の「道路元標」も手掛かりになる。地価が最も高い場所がその時代の中心地という事実が本連載の大前提だが、多くの都市では地元を代表する銀行の初代本店がある。そこが当時の経済の中心地だったことを意味する。
 工業をみると、城下町の場合それは製販どころか職住も未分化の職人町である。桶町、鍛治町、大工町など町名にその名残をとどめる。商業はどうか、人が行き交う街の中心は商業の収益性も高い。収益性が高いところは地代が高く、ひいては地価も高くなる。銀行以外で、当時の一等地に残る店舗で多いのは、老舗の造り酒屋(酒蔵)、材木店、和菓子店そして呉服店だ。

高度成長期に頂点を迎える「承」の章
 これに続く「承」は鉄道開通で始まる新章だ。百貨店の登場、路面電車の開通に伴って街の構造が少しずつ変化していく。
 呉服店の一部は明治の終わり以降、百貨店に発展した。銀行がビジネス街の象徴なら、百貨店は商業地の象徴だ。クラシックな外観の百貨店がある場所は大正・昭和の中心地である。銀行本店が街の中心だった時代とは一世代分ほど下り、鉄道駅の登場や路面電車の開通等の影響もあって、明治時代の中心地から若干移動している。例えば、東北一の歓楽街で知られている仙台の「国分町」は戦前の銀行街でもある。藤崎百貨店や三越仙台店は国分町から1筋東の「一番町」にある。銀行と百貨店が隣り合う都市もある。東京は日本橋の三越と三井本館は道路を挟んで隣同士だ。同じ位置関係は鹿児島銀行と山形屋百貨店、山梨中央銀行と(旧)岡島百貨店にもある。
 激変するのは戦後復興期とそれに続く高度成長期である。地域経済の激変が土台にあるのは論を俟たない。城下町時代の区画に戦後の区画が上書きされた。まずは戦後復興のシンボルとして、県都を中心に幅員50mの駅前大通りが敷設された。貨物輸送が内航海運からトラック運送に置き換わったこともあり、水路が埋め立てられる。背景には急速な都市化、人口流入に伴う水質汚濁の問題もあった。
 郊外電車網が広がり、都市周辺から駅前に人が集まるようになった。以前は郊外だった駅前が発展を始める。新興商業地だった駅前の盛り上げ役を担ったのは電鉄系百貨店、県外から進出してきた百貨店、そしてダイエーやジャスコをはじめとする総合スーパー(GMS)だった。地元百貨店が店を構える伝統的な中心街と、駅前の2核構造になった。駅前の新興勢力は大衆路線と大規模店で差別化を図った。中心街と駅前の立地間競争は商業の業態間競争でもあった。2核のライバル関係が高じて、商店街や百貨店は全盛期を迎える。鉄道やバスで街に出て、駅を降りれば駅前大通り。百貨店を核に商店街が人であふれる昭和の都会の風景だ。ふりかえればGMSの影響は大きかった。「スーパー」とはいえ地方店は上階に大食堂を備えた多層階の大店舗である。競合上地元百貨店は大衆路線に舵を切り、GMSとの区別が曖昧になる。両者まとめて「デパート」と呼ばれるようになった。

車社会とシャッター街という「転」
 「転」は自動車の時代である。従来の街を迂回するようにバイパス・高速道路ができ、郊外バイパス拠点に新しい街が形成された。商業施設や拠点病院、アリーナ・スタジアムが移転し、元の中心部が空洞化してしまう。中心街や駅前はシャッター街になった。
 ロードサイド集積は1980年代から見られたが、当時は日用品が中心であり、中心商店街との棲み分けがあった。変化が顕著になったのは90年代後半である。GMS勢が中心市街地に見切りをつけ、郊外バイパス拠点へ移転した。ショッピングセンター(SC)の出店が相次いだ(図3 街の起承転結)。売場面積の「相場」が数万m2クラスに「高騰」する中、既成市街地でさらなる大規模化には限界があった。団塊ジュニア世代が免許を取得し、一家に一台から一人一台へ自家用車が普及したのも90年代である。平成12年(2000)に大店法が廃止され、中心市街地の商業面積に匹敵する巨艦モールが出現した。シャッター街化が進んだのはこの頃である。「デパート」化した地元百貨店も自動車の時代の立地の不利を覆すのは難しかった。

発展史の「結」としての城下町2.0
 興味深いのは、鉄道の時代も自動車の時代も、鉄道や自動車の登場が都市デザインに波及するまで世代単位のタイムラグがあったことである。タイムラグに着眼するのは、自動車の時代の次をネット通販の時代としているからだ。インターネットが登場して約30年経ち、まさに足下でネット通販に対応した都市デザインの変化が起きている。ネット通販は交通手段ではないが、移動の概念を変え、人流への影響が大きいことから、交通史観上の交通手段に含めた。インターネットが普及し始めたのは90年代後半だが、大衆化したのはスマートフォンが普及した2010年代だ。そしてコロナ禍を機にネット通販が全世代に広がった。戦災や震災は街の歴史を早送りする。コロナ禍も同様だ。
 地域経済の変化を産業別にみると情報通信業、職種別にいえば専門職・技術職のウェイトが高まった。これに伴う社会関係の変化は働き方に表れる。身近なところでは在宅・テレワークが普及した。仕事の専門性が高まったことで、個人で仕事を請け負い分業するスタイルも増えた。ネット通販は商業形態の変化でもある。日用品、買い回り品ともに目的が決まっているものはネット通販で買うことができる。自動車で郊外大型店を訪れまとめ買いをするスタイルは一段落する。
 こうした地域経済、社会関係の変化はどのように都市デザインに反映するだろうか。一言でいえば「ウォーカブルシティ」、歩行者中心の街である。ネット通販の時代の主要交通手段は「徒歩」だ。歴史をふりかえれば城下町にその原型を見出せる。都市デザインは徒歩と舟運の時代に回帰する。シャッター街という幕間を経て、街は再生フェーズを迎えた。その先にあるネット通販の時代の街を本稿では「城下町2.0」と呼ぶ。
 城下町2.0とは、徒歩圏で働き・学び・楽しむ、景観と水辺を活かしたコンパクトな街である。かつて水路を埋め立てた背景には、貨物輸送路としての水路が不要になったこと、来るべき車社会への対策、そして水質汚濁があった。いまや、水路を埋め立て、道路を拡幅する積極的な理由はない。下水道の普及で水質は改善し、バイパス・高速道路の普及で街なかの通過交通は減少したからである。実際、駅前大通りの歩道を広げ、オープンテラスなどで活用する動きが全国各地で見られる。同じような動きは水路にもあり、水辺空間を憩いの場として活用する例が増えている。
 「住まう街」でもある。城下町は元々職住一体である。商業も工業も未分化で、今風にいえばハンドメイド製品を工房兼店舗で販売していた。住まう街の街づくりは景観が重視される。富士山をはじめ地域のシンボルとなる山が大通りの先に見えるようにするなど、庭園のような設計思想があった。
 商業拠点に代わりアリーナ・スタジアム、図書館などが城下町2.0の中心施設となる。商業は体験型店舗が中心だ。ネット通販の時代の到来でリアル店舗の意味も変わる。ネット通販では難しい試着、試し読み、ライブなど体験型店舗のニーズが増える。徒歩圏内で働き、学び、楽しむのがコンセプトだ。
 そして城下町2.0はコンパクトである。もっとも、地方都市はほどにコンパクトだ。郊外を含めても山手線の範囲に収まる。路面電車やバスが向く。バスは経路検索やキャッシュレスが進み、いずれ自動運転となろう。電動アシスト自転車でも十分に行き来できる。
 これまで全国の約60の街について、街の構造がどう変化してきたか、足下でどのような取り組みがされているかを説明してきた。ふりかえると、どの街にも起承転結のストーリーがあることがわかる。都市デザインの土台に地域経済の変化があるからだ。城下町時代から明治、大正、昭和に至る街の歴史が地層のように、同一平面上に観察できるのが街歩きの魅力でもある。それを起承転結の脈絡で読みとくことができれば、街歩きも小説を一冊読むほどの楽しみになる。

プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。主著に「自治体の財政診断入門」(学芸出版社)、「公民連携パークマネジメント」(同)

図4 乗用車、インターネットの浸透状況