評者:政策研究大学院大学博士課程(政策プロフェッショナルプログラム)在籍 渡部 晶
與那覇 潤 著
江藤淳と加藤典洋 戦後史を歩きなおす
文藝春秋 2025年5月 定価 本体1,900円+税
株式会社新潮社が運営するオンライン学習サービス「新潮社 本の学校」で4月から開始された「文系ウェビナー」シリーズの第2回目(6月25日開催)は、評論家の與那覇潤氏による「江藤淳と加藤典洋」講座(『「推し」でも「アンチ」でもない生き方のために…文芸評論の双璧「江藤淳と加藤典洋」に学ぶ』)であった。聞き役は「飯田橋文学会」の一員であるライターの山内宏泰氏が務めた。この講座は「こんな方におすすめです」として、「名前をよく聞く江藤淳と加藤典洋、または批評とは何かに興味のある方、二極化した議論ばかりが横行する、息苦しい世の中に違和感を覚える方、もはや湧きにくい『戦後80年』の実感を、文学の力で捉え直したい方」とされた。本書本体にも通じる。
今回、與那覇氏は、文芸評論での叙述に取り組んだ。「文芸批評こそが『分断を乗り越える』方法である」という確信からである。
本書の構成は、「ベース・キャンプにて 歴史が消えてからのまえがき」、前篇にあたる書下ろしの「戦後史の峰に登る」(人間宣言―太宰治『斜陽』、社会党政権―椎名麟三『永遠なる序章』、六全協―柴田翔『されど われらが日々―』、ふたつの安保―庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』、沖縄返還―村上龍『限りなく透明に近いブルー』)、全篇と後篇をつなぐ「ヒュッテでの一夜 「満洲国」のあとで 大佛次郎から村上春樹へ」、後篇にあたる論考集「現在への坂を下る」(江藤淳小伝、轟轟たる雷鳴に死す 「喪の作業」が消えた平成、書評 平山周吉『江藤淳は甦える』、「歴史」の秩序が終ったとき 三島事件後の歴史家たち、書評 風元正『江藤淳はいかに「戦後」と闘ったのか』、瓦礫の掃き寄せ WGIP史観のあとさき、書評 赤坂真理『箱の中の天皇』、批評家の最後の闘争 ふたたびの『妻と私』、ねじれとの和解の先へ 『敗戦後論』後の加藤典洋、歴史がこれ以上続くのではないとしたら 加藤典洋の「震災後論」、最後の文芸評論家 加藤典洋さんを悼む)、「帰りの汽車のなかで 終わらない対話のあとがき」である。
與那覇氏は、「『江藤淳と加藤典洋』といっしょに歩くような気持ちで、敗戦から現在までの80年間をつなぐ道のりに、もう一度足跡をつけてみたい」という。そして、加藤に倣い、作者に寄り添いながら小説を読み解く営みを、登山に喩えた、とし、本書は、いわば同じ手法で、歴史を登る試みだとする。本書の副題は「戦後史を歩きなおす」なのだ。
文学に疎い評者にとっては、すべてが新鮮で刺激的である。「ヒュッテでの一夜」にある「満州国の夢は敗戦とともに蜃気楼と化して消えたが、戦後という時代を通じて『日本』もまた、取り戻されるよりも擦り減っていったのだ。その自覚なしに『才能あるリーダーが正しく導けば、日本にフロンティアはまだまだある』といったエリート幻想を振りまくのは、いつの時代も学者や言論人の名を騙る詐欺師にすぎない」(138~139頁)など、與那覇氏の深い考察には脱帽するしかない。
本書については、與那覇氏と対談を行うなど交流のある臨床心理士の東畑開人氏が6月22日付読売新聞読書欄に書評を寄せている。その中で、「遠かった昔々が、私とあなたの今の一部になる。そのために、昔と今のあいだを振り返るべく一緒に歩む人が必要である。それこそが歴史家の仕事であると著者は考えている」と読み解く。最近のいわゆる有識者、とりわけ歴史学者が「リトマス試験紙の思想」(最低限の、他者や異論を対等に遇する感覚すらない)(316頁)に陥っていることへの與那覇氏の批判は厳しい。キャンセルカルチャーの流行について早くから警鐘を鳴らし、日本におけるそのような動きを強く非難していたことも記憶に新しい。
評者が本欄に最初に寄稿したのは、2006年3月号であった。以来、今回で147回目になるが、著者渾身の1冊を本誌読者に紹介できたことを大変うれしく光栄に思う。
與那覇 潤 著
江藤淳と加藤典洋 戦後史を歩きなおす
文藝春秋 2025年5月 定価 本体1,900円+税
株式会社新潮社が運営するオンライン学習サービス「新潮社 本の学校」で4月から開始された「文系ウェビナー」シリーズの第2回目(6月25日開催)は、評論家の與那覇潤氏による「江藤淳と加藤典洋」講座(『「推し」でも「アンチ」でもない生き方のために…文芸評論の双璧「江藤淳と加藤典洋」に学ぶ』)であった。聞き役は「飯田橋文学会」の一員であるライターの山内宏泰氏が務めた。この講座は「こんな方におすすめです」として、「名前をよく聞く江藤淳と加藤典洋、または批評とは何かに興味のある方、二極化した議論ばかりが横行する、息苦しい世の中に違和感を覚える方、もはや湧きにくい『戦後80年』の実感を、文学の力で捉え直したい方」とされた。本書本体にも通じる。
今回、與那覇氏は、文芸評論での叙述に取り組んだ。「文芸批評こそが『分断を乗り越える』方法である」という確信からである。
本書の構成は、「ベース・キャンプにて 歴史が消えてからのまえがき」、前篇にあたる書下ろしの「戦後史の峰に登る」(人間宣言―太宰治『斜陽』、社会党政権―椎名麟三『永遠なる序章』、六全協―柴田翔『されど われらが日々―』、ふたつの安保―庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』、沖縄返還―村上龍『限りなく透明に近いブルー』)、全篇と後篇をつなぐ「ヒュッテでの一夜 「満洲国」のあとで 大佛次郎から村上春樹へ」、後篇にあたる論考集「現在への坂を下る」(江藤淳小伝、轟轟たる雷鳴に死す 「喪の作業」が消えた平成、書評 平山周吉『江藤淳は甦える』、「歴史」の秩序が終ったとき 三島事件後の歴史家たち、書評 風元正『江藤淳はいかに「戦後」と闘ったのか』、瓦礫の掃き寄せ WGIP史観のあとさき、書評 赤坂真理『箱の中の天皇』、批評家の最後の闘争 ふたたびの『妻と私』、ねじれとの和解の先へ 『敗戦後論』後の加藤典洋、歴史がこれ以上続くのではないとしたら 加藤典洋の「震災後論」、最後の文芸評論家 加藤典洋さんを悼む)、「帰りの汽車のなかで 終わらない対話のあとがき」である。
與那覇氏は、「『江藤淳と加藤典洋』といっしょに歩くような気持ちで、敗戦から現在までの80年間をつなぐ道のりに、もう一度足跡をつけてみたい」という。そして、加藤に倣い、作者に寄り添いながら小説を読み解く営みを、登山に喩えた、とし、本書は、いわば同じ手法で、歴史を登る試みだとする。本書の副題は「戦後史を歩きなおす」なのだ。
文学に疎い評者にとっては、すべてが新鮮で刺激的である。「ヒュッテでの一夜」にある「満州国の夢は敗戦とともに蜃気楼と化して消えたが、戦後という時代を通じて『日本』もまた、取り戻されるよりも擦り減っていったのだ。その自覚なしに『才能あるリーダーが正しく導けば、日本にフロンティアはまだまだある』といったエリート幻想を振りまくのは、いつの時代も学者や言論人の名を騙る詐欺師にすぎない」(138~139頁)など、與那覇氏の深い考察には脱帽するしかない。
本書については、與那覇氏と対談を行うなど交流のある臨床心理士の東畑開人氏が6月22日付読売新聞読書欄に書評を寄せている。その中で、「遠かった昔々が、私とあなたの今の一部になる。そのために、昔と今のあいだを振り返るべく一緒に歩む人が必要である。それこそが歴史家の仕事であると著者は考えている」と読み解く。最近のいわゆる有識者、とりわけ歴史学者が「リトマス試験紙の思想」(最低限の、他者や異論を対等に遇する感覚すらない)(316頁)に陥っていることへの與那覇氏の批判は厳しい。キャンセルカルチャーの流行について早くから警鐘を鳴らし、日本におけるそのような動きを強く非難していたことも記憶に新しい。
評者が本欄に最初に寄稿したのは、2006年3月号であった。以来、今回で147回目になるが、著者渾身の1冊を本誌読者に紹介できたことを大変うれしく光栄に思う。