第64回 宮崎県宮崎市
近代宮崎の「独立」運動史
掛けまくも畏(かしこ)き伊邪那岐(イザナキ)大神(のおおかみ)が黄泉の国で汚れた身を清めたのが、「筑紫の日向の橘の小戸(おど)の阿波岐原(あわきはら)」(祓詞(はらえことば))である。筑紫島(九州)の日向国(宮崎県)の小戸(宮崎市街地)の阿波岐原にある江田神社のみそぎ池で禊をしたと伝わる。イザナギから天照大御神が生まれ、その孫の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が宮崎県の高千穂に天下る。その曽孫が神武天皇こと神日本磐余彦(かむやまといわれひこ)尊(のみこと)だ。宮崎神宮の地で発起して東征を始め、奈良の橿原神宮で初代天皇に即位した。宮崎は日本神話の舞台である。
5月16日に封切られた映画「かくかくしかじか」は同名のマンガが原作だ。作者で映画の脚本も手掛けた東村アキコ氏の美大受験からマンガ家デビュー期まで約9年間の自叙伝 である。主人公の恩師、日高先生のモデルは画家の(故)日岡兼三氏だ。日岡絵画教室はみそぎ池から徒歩圏内で、原作、映画ともに近辺の風景が登場する。遠くにヤシの並木が見える、青空と照りつける日差しの下の畑の風景だ。
独立運動でできた県
日向国には延岡藩、高鍋藩、飫肥(おび)藩、薩摩藩、佐土原(さどわら)藩など多くの小藩が割拠しており、特に現在の宮崎市域はモザイク状に各藩の飛び地が入り組んでいる状況だった。それぞれ独立心が強く、転じてオール日向国の意識が薄かった。廃藩置県に伴う明治4年11月の再編では宮崎県域に都城県と美々津県が置かれた。都城県は大淀川より南側の地域と鹿児島の大隅半島を合わせた県で、美々津県は大淀川から北側の県だった。明治6年(1873)1月の再編で、美々津県と都城県のうち日向国に属する部分が合併し、宮崎県となった。県庁は両県の境界だった大淀川の北岸に置かれた。住所は宮崎郡上別府村(かみべっぷむら)で、元は延岡藩の飛び地だった。大淀川は舟運で栄えていたが、海運への連絡拠点となっていた赤江港は川の南岸、約1km下流の河口にあった。港の手前にあった商人町を城ケ崎といい、港とともに飫肥藩領だった。今でこそ約40万人を擁する県都だが、当時は寒村に過ぎなかった。同じ時代、鄙びた場所に人為的に作られた街といえば横浜を思い出す。宮崎も人工的に作られた「首都」である。もっとも初代宮崎県の人口は40万人を下回るほどで1つの県としては小さかった。そこで、明治9年(1876)8月の第2次府県統合で鹿児島県に編入されてしまう。
編入翌年には戦争に巻き込まれる。明治10年(1877)の2月、西郷南洲が卒兵上京の意思を固め鹿児島を発つ。熊本で行く手を阻まれた西郷軍は熊本城を包囲したものの攻めあぐね、田原坂の敗戦以降は増強された政府軍に対する防戦に転じた。熊本から撤退し、5月末から約2カ月の間、宮崎市街に本営が置かれた。その後、8月16日に延岡で解隊布告が出されるまで、主戦場は鹿児島県に編入されていた宮崎エリアだった。
戦後、荒廃した県土の復興が進まないこと、道路や学校の整備などの予算配分が旧薩摩に比べて少ないことなどから、宮崎県の分離独立運動が起きた。後世「宮崎の父」と呼ばれる川越進の尽力で、明治16年(1883)5月9日に再び宮崎県が成立した。この日は言わば独立記念日で、毎年5月になると県庁前庭の川越進の胸像前で献花式が行われる。宮崎市の前身となる宮崎町は明治22年(1889)5月、町村制施行で上別府村とその他5町が合併して発足した。
大淀川沿岸が街の中心だった時代
明治32年(1899)の宮崎県統計書で最高地価の場所だったのは「大淀」、当時の大淀町だった。橘橋を渡った大淀川の南岸で、河口に向かって城ケ崎、赤江港がある。大正13年の市制施行時に合併するまで川を挟んで別の町だった。遡れば別の藩だった事情もあり藩政期には両岸に橋がなく、架橋されたのは明治13年(1880)である。初代橘橋は医師の福島邦成が拠出した資金で架けられ、有料橋だった。一説には橘橋は祓詞の「橘」に由来する。宮崎市街を南北に貫くメインストリート、橘通は橘橋に続く道であることが命名由来だ。明治33年(1900)、日向汽船が設立され神戸、大阪、鹿児島、多度津行きの汽船が赤江港に就航した。大淀町が宮崎の玄関口だった。
主税局統計年報をみると、明治43年(1910)の最高地価地点が宮崎町大字上別府とある。大正15年(1926)、大蔵省の土地賃貸価格調査事業報告書では、最高賃貸価格地点が橘通一丁目だった。その後、最高賃貸価格は昭和6年(1931)から同11年(1936)まで同じく橘通一丁目だった。大正以降、昭和初期は橘橋の北詰、県庁の南側に街の中心があった。中心が大淀川を渡った背景が、大正2年(1913)12月の宮崎駅の開業だ。大正5年(1916)10月、鹿児島本線の吉松駅から分岐する宮崎線の開通で宮崎駅が博多駅や小倉駅とつながった。汽船から鉄道の時代となり、宮崎の玄関口が赤江港から宮崎駅となった。大正12年(1923)には県土を縦断する日豊本線が完成。経済の一体化が進むとともに、オール宮崎の意識も高まった。翌年4月には宮崎町改め宮崎市となる。県庁所在地では最も遅い市制施行だった。
金融の独立運動
図2 市街図を見るとわかるように、橘通一丁目の近辺には銀行が集まっていた。前月の都城も宮崎県なので金融史の基本は重なるが、今月は宮崎県の独立運動に重ねて記述してみたい。明治9年(1876)8月の国立銀行条例の改正を契機に国立銀行の創業ブームが起き、明治12年(1879)12月開業の第百五十三国立銀行で終了する。宮崎県が他県と異なるのは、国立銀行の創業ブーム期に宮崎県が存在しなかったことだ。県都と呼べるレベルの都市集積もなかった。
小規模ながら旧城下町には国立銀行ができた。明治12年(1879)に創業した飫肥の第百四十四国立銀行、延岡の第百四十五国立銀行だ。編入された宮崎エリアを含む鹿児島県域で展開したのが県都鹿児島に本店を構えた第百四十七国立銀行である。明治14年(1881)11月、宮崎で初めて開業した銀行も同行だった。上町に出張所ができ、その後1年余で支店昇格したとき川原町に新築移転した。明治43年(1910)に上別府(後の橘通一丁目)に再び新築移転する。鹿児島には第百四十七国立銀行の他に第五国立銀行があった。第五国立銀行は本店こそ東京だったが鹿児島県を地盤とした銀行で、対して第百四十七国立銀行は宮崎県域、特に公金収納に強みを持っていた。
新生宮崎県の金融面の課題も鹿児島からの独立である。まず、地元資本で初めて開業した銀行は明治30年(1897)10月の日向商業銀行である。翌年2月、宮崎農工銀行が本町で開業した。地元行とはいえ前者は小規模で、後者は特殊銀行である。そうした中、県が道路事業にかかる起債を第百四十七国立銀行の後身の第百四十七銀行に申請したところ断られてしまう。地元有力行の必要が痛感されたエピソードを受け、当時の県知事の提唱で設立されたのが日州銀行だった。明治34年(1901)2月に川原町で開業した。県は現在の指定金融機関に当たる県本金庫の地位を第百四十七銀行から日州銀行に交代した。県の独立の18年後、金融の独立を果たしたことになる。
次の課題は小規模割拠の解消である。旧藩単位で散在していた県内6行を合併させようとしたが、佐土原、延岡、日向銀行(本店高鍋)が脱落。日向商業銀行と第百四十四国立銀行の後身の飫肥銀行が残り日州銀行と合流。明治40年(1907)8月、新しい日州銀行が発足した。昭和3年(1928)、日州銀行は佐土原、日向銀行を含む7行と合併して日向中央銀行となった。
まもなく日向中央銀行が経営破たんの危機に陥ったため、昭和7年(1932)7月、宮崎県が資本金の8割弱を出資して日向興業銀行を設立。日向中央銀行および宮崎銀行(現在の宮崎銀行とは異なる)の資産負債を引き継いだ。これが現在の宮崎銀行の直接の起源となる。現名称は昭和37年(1962)に改称したものだ。
宮崎農工銀行は建物が現存する。昭和元年(1926)の建築で、日本勧業銀行、第一勧業銀行の支店を経て、昭和61年(1986)から県の所有となった。令和2年(2020)に曳家及び復原工事により移築され、現在に至る。鉄筋コンクリート造2階建、内部の柱頭にイオニア式の装飾が施された銀行建築だ。
百貨店の独立事情
宮崎市で初めての百貨店は昭和11年(1936)12月に開店した山形屋である。銀行と同じく、鹿児島に本店を置く百貨店の支店だった。当時の中心地である橘通一丁目にあった。
戦後、昭和30年(1955)の最高路線価地点は橘通三丁目だった。宮崎で初めてのアーケード商店街である大成銀天街や、青空ショッピングセンター(SC)があった場所である。青空SCは戦後の闇市を起源とする長屋状の商店街で、老朽化が著しく、台風被害で倒壊の恐れがあったため今年(令和7年)、宮崎市の代執行で解体・撤去されたところだ。
百貨店も鹿児島資本だった中、地元資本の百貨店の設立が当地の悲願となっていた。日向興業銀行の頭取の提案の下、地元財界が出資して百貨店を立ち上げた。宮崎の枕詞の「橘」を冠した橘百貨店である。昭和27年(1952)10月、橘通五丁目に開店した。橘通五丁目は街の南北軸の橘通と東西軸の高千穂通が交差するところにある。戦後復興の区画整理で道路が拡幅され、新しい街区が造成されていた。昭和31年(1956)、山形屋も橘五丁目、橘百貨店と通りを挟んだ向かい側に移転してきた。街の再構築が進むにつれ、2大百貨店に牽引されるように街の中心が橘通を北上してきた。最高路線価地点は昭和32年(1957)に橘通四丁目、そして昭和36年(1961)には橘通五丁目となる。
高度成長末期には大型店の進出が相次いだ。昭和48年(1973)10月に寿屋が百貨店業態で高千穂通に開店する。同年11月、南宮崎駅に宮崎交通がバスターミナルを併設する宮交シティを開店。核テナントはダイエーの宮崎ショッパーズプラザだった。昭和49年(1974)4月にユニードが橘通に開店した。橘百貨店も積極展開を図ったが裏目に出た。昭和48年(1973)10月、都城駅前に高級路線の百貨店を出店した。都城は地元勢の守りが固く駅前商業が振るわなかった地である。開店後2年で撤退を余儀なくされた。橘百貨店は昭和50年(1975)8月に倒産、12月には会社更生法が適用された。再建支援に乗り出したのは全国展開を進めていたジャスコだった。翌年、ジャスコ全額出資の「橘ジャスコ」が設立され、昭和52年(1977)1月に百貨店をいったん閉店した上、同年4月に量販店「橘ジャスコ」として再開した。ただ、昭和63年(1988)5月に店舗を新築し再び百貨店となる。当時ジャスコが展開していた百貨店業態のブランド「ボンベルタ」を冠した「ボンベルタ橘」になった。
郊外化と駅前と旧市街の再生
宮崎の場合、車社会化が進んでも中心商業への影響は他都市に比べれば小さいほうだった。それでも、平成17年(2005)にオープンしたイオン宮崎ショッピングセンター(現・イオンモール宮崎)の影響は大きかった。イオンモールは平成30年(2018)に増床して南九州最大規模となった。郊外のイオン宮崎SCの出店に対抗し、宮崎山形屋は平成18年(2006)に新館を増築した。現在、元の橘百貨店は「MEGAドン・キホーテ宮崎橘通店」(館名:宮崎ナナイロ)となっている。寿屋百貨店は商業施設「カリーノ宮崎」である。宮交シティは核店舗が「イオン南宮崎店」になった。宮崎駅前には令和2年(2020)11月にアミュプラザがオープン。駅前広場の景観が大きく変わった。
昨年(令和6年)の最高路線価は橘通西3丁目橘通りである。住居表示で地点名は変わったが場所は以前と変わらない。旧橘通五丁目を継承している。商業面で受けた影響は大きかったが、一方で明るい兆しもある。マンション新築等が功を奏し、中心市街地の夜間人口は、イオンモールが出店した平成17年(2005)を底に微増傾向をたどっている。再生に向けた様々な取り組みの中でも興味深いのは、平成27年度(2015)に始まった「マチナカ3000プロジェクト」だ。令和6年度までの10年間で、中心市街地にICT、広告、デザインなどクリエイティブ産業の雇用を創出する取り組みだ。市街地の空き物件を解消するため、特定業種の雇用にターゲットを絞った点が画期的だ。計画は順調に推移し令和3年度で目標を達成した。
令和7年4月には「まちなか投資倍増プロジェクト」を打ち出した。建物の老朽化や都市のスポンジ化が進む中心市街地において、リノベーションにつながる民間投資の促進を目指すものだ。もって「居心地が良く歩きたくなるまちなか」(ウォーカブルシティ)の実現を図る。高千穂通の歩道には、通称「ほこみち」制度によって、オープンカフェやベンチなどを置ける空間(利便増進誘導区域)が指定された。歩道の幅が拡張されている。今年4月には高千穂通に面した場所にHAROW(ハロウ)高千穂通がオープンした。旧NTT宮崎支店北棟をリノベーションした複合商業施設である。ちなみに、冒頭紹介した東村アキコ作「かくかくしかじか」で主人公(=作者)が美大卒業後に就職したのがNTTで、作中にリノベーション前のビルが登場する。
プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。主著に「公民連携パークマネジメント:人を集め都市の価値を高める仕組み」(学芸出版社)
図1 みそぎ池
図3 旧宮崎農工銀行
図4 広域図
近代宮崎の「独立」運動史
掛けまくも畏(かしこ)き伊邪那岐(イザナキ)大神(のおおかみ)が黄泉の国で汚れた身を清めたのが、「筑紫の日向の橘の小戸(おど)の阿波岐原(あわきはら)」(祓詞(はらえことば))である。筑紫島(九州)の日向国(宮崎県)の小戸(宮崎市街地)の阿波岐原にある江田神社のみそぎ池で禊をしたと伝わる。イザナギから天照大御神が生まれ、その孫の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が宮崎県の高千穂に天下る。その曽孫が神武天皇こと神日本磐余彦(かむやまといわれひこ)尊(のみこと)だ。宮崎神宮の地で発起して東征を始め、奈良の橿原神宮で初代天皇に即位した。宮崎は日本神話の舞台である。
5月16日に封切られた映画「かくかくしかじか」は同名のマンガが原作だ。作者で映画の脚本も手掛けた東村アキコ氏の美大受験からマンガ家デビュー期まで約9年間の自叙伝 である。主人公の恩師、日高先生のモデルは画家の(故)日岡兼三氏だ。日岡絵画教室はみそぎ池から徒歩圏内で、原作、映画ともに近辺の風景が登場する。遠くにヤシの並木が見える、青空と照りつける日差しの下の畑の風景だ。
独立運動でできた県
日向国には延岡藩、高鍋藩、飫肥(おび)藩、薩摩藩、佐土原(さどわら)藩など多くの小藩が割拠しており、特に現在の宮崎市域はモザイク状に各藩の飛び地が入り組んでいる状況だった。それぞれ独立心が強く、転じてオール日向国の意識が薄かった。廃藩置県に伴う明治4年11月の再編では宮崎県域に都城県と美々津県が置かれた。都城県は大淀川より南側の地域と鹿児島の大隅半島を合わせた県で、美々津県は大淀川から北側の県だった。明治6年(1873)1月の再編で、美々津県と都城県のうち日向国に属する部分が合併し、宮崎県となった。県庁は両県の境界だった大淀川の北岸に置かれた。住所は宮崎郡上別府村(かみべっぷむら)で、元は延岡藩の飛び地だった。大淀川は舟運で栄えていたが、海運への連絡拠点となっていた赤江港は川の南岸、約1km下流の河口にあった。港の手前にあった商人町を城ケ崎といい、港とともに飫肥藩領だった。今でこそ約40万人を擁する県都だが、当時は寒村に過ぎなかった。同じ時代、鄙びた場所に人為的に作られた街といえば横浜を思い出す。宮崎も人工的に作られた「首都」である。もっとも初代宮崎県の人口は40万人を下回るほどで1つの県としては小さかった。そこで、明治9年(1876)8月の第2次府県統合で鹿児島県に編入されてしまう。
編入翌年には戦争に巻き込まれる。明治10年(1877)の2月、西郷南洲が卒兵上京の意思を固め鹿児島を発つ。熊本で行く手を阻まれた西郷軍は熊本城を包囲したものの攻めあぐね、田原坂の敗戦以降は増強された政府軍に対する防戦に転じた。熊本から撤退し、5月末から約2カ月の間、宮崎市街に本営が置かれた。その後、8月16日に延岡で解隊布告が出されるまで、主戦場は鹿児島県に編入されていた宮崎エリアだった。
戦後、荒廃した県土の復興が進まないこと、道路や学校の整備などの予算配分が旧薩摩に比べて少ないことなどから、宮崎県の分離独立運動が起きた。後世「宮崎の父」と呼ばれる川越進の尽力で、明治16年(1883)5月9日に再び宮崎県が成立した。この日は言わば独立記念日で、毎年5月になると県庁前庭の川越進の胸像前で献花式が行われる。宮崎市の前身となる宮崎町は明治22年(1889)5月、町村制施行で上別府村とその他5町が合併して発足した。
大淀川沿岸が街の中心だった時代
明治32年(1899)の宮崎県統計書で最高地価の場所だったのは「大淀」、当時の大淀町だった。橘橋を渡った大淀川の南岸で、河口に向かって城ケ崎、赤江港がある。大正13年の市制施行時に合併するまで川を挟んで別の町だった。遡れば別の藩だった事情もあり藩政期には両岸に橋がなく、架橋されたのは明治13年(1880)である。初代橘橋は医師の福島邦成が拠出した資金で架けられ、有料橋だった。一説には橘橋は祓詞の「橘」に由来する。宮崎市街を南北に貫くメインストリート、橘通は橘橋に続く道であることが命名由来だ。明治33年(1900)、日向汽船が設立され神戸、大阪、鹿児島、多度津行きの汽船が赤江港に就航した。大淀町が宮崎の玄関口だった。
主税局統計年報をみると、明治43年(1910)の最高地価地点が宮崎町大字上別府とある。大正15年(1926)、大蔵省の土地賃貸価格調査事業報告書では、最高賃貸価格地点が橘通一丁目だった。その後、最高賃貸価格は昭和6年(1931)から同11年(1936)まで同じく橘通一丁目だった。大正以降、昭和初期は橘橋の北詰、県庁の南側に街の中心があった。中心が大淀川を渡った背景が、大正2年(1913)12月の宮崎駅の開業だ。大正5年(1916)10月、鹿児島本線の吉松駅から分岐する宮崎線の開通で宮崎駅が博多駅や小倉駅とつながった。汽船から鉄道の時代となり、宮崎の玄関口が赤江港から宮崎駅となった。大正12年(1923)には県土を縦断する日豊本線が完成。経済の一体化が進むとともに、オール宮崎の意識も高まった。翌年4月には宮崎町改め宮崎市となる。県庁所在地では最も遅い市制施行だった。
金融の独立運動
図2 市街図を見るとわかるように、橘通一丁目の近辺には銀行が集まっていた。前月の都城も宮崎県なので金融史の基本は重なるが、今月は宮崎県の独立運動に重ねて記述してみたい。明治9年(1876)8月の国立銀行条例の改正を契機に国立銀行の創業ブームが起き、明治12年(1879)12月開業の第百五十三国立銀行で終了する。宮崎県が他県と異なるのは、国立銀行の創業ブーム期に宮崎県が存在しなかったことだ。県都と呼べるレベルの都市集積もなかった。
小規模ながら旧城下町には国立銀行ができた。明治12年(1879)に創業した飫肥の第百四十四国立銀行、延岡の第百四十五国立銀行だ。編入された宮崎エリアを含む鹿児島県域で展開したのが県都鹿児島に本店を構えた第百四十七国立銀行である。明治14年(1881)11月、宮崎で初めて開業した銀行も同行だった。上町に出張所ができ、その後1年余で支店昇格したとき川原町に新築移転した。明治43年(1910)に上別府(後の橘通一丁目)に再び新築移転する。鹿児島には第百四十七国立銀行の他に第五国立銀行があった。第五国立銀行は本店こそ東京だったが鹿児島県を地盤とした銀行で、対して第百四十七国立銀行は宮崎県域、特に公金収納に強みを持っていた。
新生宮崎県の金融面の課題も鹿児島からの独立である。まず、地元資本で初めて開業した銀行は明治30年(1897)10月の日向商業銀行である。翌年2月、宮崎農工銀行が本町で開業した。地元行とはいえ前者は小規模で、後者は特殊銀行である。そうした中、県が道路事業にかかる起債を第百四十七国立銀行の後身の第百四十七銀行に申請したところ断られてしまう。地元有力行の必要が痛感されたエピソードを受け、当時の県知事の提唱で設立されたのが日州銀行だった。明治34年(1901)2月に川原町で開業した。県は現在の指定金融機関に当たる県本金庫の地位を第百四十七銀行から日州銀行に交代した。県の独立の18年後、金融の独立を果たしたことになる。
次の課題は小規模割拠の解消である。旧藩単位で散在していた県内6行を合併させようとしたが、佐土原、延岡、日向銀行(本店高鍋)が脱落。日向商業銀行と第百四十四国立銀行の後身の飫肥銀行が残り日州銀行と合流。明治40年(1907)8月、新しい日州銀行が発足した。昭和3年(1928)、日州銀行は佐土原、日向銀行を含む7行と合併して日向中央銀行となった。
まもなく日向中央銀行が経営破たんの危機に陥ったため、昭和7年(1932)7月、宮崎県が資本金の8割弱を出資して日向興業銀行を設立。日向中央銀行および宮崎銀行(現在の宮崎銀行とは異なる)の資産負債を引き継いだ。これが現在の宮崎銀行の直接の起源となる。現名称は昭和37年(1962)に改称したものだ。
宮崎農工銀行は建物が現存する。昭和元年(1926)の建築で、日本勧業銀行、第一勧業銀行の支店を経て、昭和61年(1986)から県の所有となった。令和2年(2020)に曳家及び復原工事により移築され、現在に至る。鉄筋コンクリート造2階建、内部の柱頭にイオニア式の装飾が施された銀行建築だ。
百貨店の独立事情
宮崎市で初めての百貨店は昭和11年(1936)12月に開店した山形屋である。銀行と同じく、鹿児島に本店を置く百貨店の支店だった。当時の中心地である橘通一丁目にあった。
戦後、昭和30年(1955)の最高路線価地点は橘通三丁目だった。宮崎で初めてのアーケード商店街である大成銀天街や、青空ショッピングセンター(SC)があった場所である。青空SCは戦後の闇市を起源とする長屋状の商店街で、老朽化が著しく、台風被害で倒壊の恐れがあったため今年(令和7年)、宮崎市の代執行で解体・撤去されたところだ。
百貨店も鹿児島資本だった中、地元資本の百貨店の設立が当地の悲願となっていた。日向興業銀行の頭取の提案の下、地元財界が出資して百貨店を立ち上げた。宮崎の枕詞の「橘」を冠した橘百貨店である。昭和27年(1952)10月、橘通五丁目に開店した。橘通五丁目は街の南北軸の橘通と東西軸の高千穂通が交差するところにある。戦後復興の区画整理で道路が拡幅され、新しい街区が造成されていた。昭和31年(1956)、山形屋も橘五丁目、橘百貨店と通りを挟んだ向かい側に移転してきた。街の再構築が進むにつれ、2大百貨店に牽引されるように街の中心が橘通を北上してきた。最高路線価地点は昭和32年(1957)に橘通四丁目、そして昭和36年(1961)には橘通五丁目となる。
高度成長末期には大型店の進出が相次いだ。昭和48年(1973)10月に寿屋が百貨店業態で高千穂通に開店する。同年11月、南宮崎駅に宮崎交通がバスターミナルを併設する宮交シティを開店。核テナントはダイエーの宮崎ショッパーズプラザだった。昭和49年(1974)4月にユニードが橘通に開店した。橘百貨店も積極展開を図ったが裏目に出た。昭和48年(1973)10月、都城駅前に高級路線の百貨店を出店した。都城は地元勢の守りが固く駅前商業が振るわなかった地である。開店後2年で撤退を余儀なくされた。橘百貨店は昭和50年(1975)8月に倒産、12月には会社更生法が適用された。再建支援に乗り出したのは全国展開を進めていたジャスコだった。翌年、ジャスコ全額出資の「橘ジャスコ」が設立され、昭和52年(1977)1月に百貨店をいったん閉店した上、同年4月に量販店「橘ジャスコ」として再開した。ただ、昭和63年(1988)5月に店舗を新築し再び百貨店となる。当時ジャスコが展開していた百貨店業態のブランド「ボンベルタ」を冠した「ボンベルタ橘」になった。
郊外化と駅前と旧市街の再生
宮崎の場合、車社会化が進んでも中心商業への影響は他都市に比べれば小さいほうだった。それでも、平成17年(2005)にオープンしたイオン宮崎ショッピングセンター(現・イオンモール宮崎)の影響は大きかった。イオンモールは平成30年(2018)に増床して南九州最大規模となった。郊外のイオン宮崎SCの出店に対抗し、宮崎山形屋は平成18年(2006)に新館を増築した。現在、元の橘百貨店は「MEGAドン・キホーテ宮崎橘通店」(館名:宮崎ナナイロ)となっている。寿屋百貨店は商業施設「カリーノ宮崎」である。宮交シティは核店舗が「イオン南宮崎店」になった。宮崎駅前には令和2年(2020)11月にアミュプラザがオープン。駅前広場の景観が大きく変わった。
昨年(令和6年)の最高路線価は橘通西3丁目橘通りである。住居表示で地点名は変わったが場所は以前と変わらない。旧橘通五丁目を継承している。商業面で受けた影響は大きかったが、一方で明るい兆しもある。マンション新築等が功を奏し、中心市街地の夜間人口は、イオンモールが出店した平成17年(2005)を底に微増傾向をたどっている。再生に向けた様々な取り組みの中でも興味深いのは、平成27年度(2015)に始まった「マチナカ3000プロジェクト」だ。令和6年度までの10年間で、中心市街地にICT、広告、デザインなどクリエイティブ産業の雇用を創出する取り組みだ。市街地の空き物件を解消するため、特定業種の雇用にターゲットを絞った点が画期的だ。計画は順調に推移し令和3年度で目標を達成した。
令和7年4月には「まちなか投資倍増プロジェクト」を打ち出した。建物の老朽化や都市のスポンジ化が進む中心市街地において、リノベーションにつながる民間投資の促進を目指すものだ。もって「居心地が良く歩きたくなるまちなか」(ウォーカブルシティ)の実現を図る。高千穂通の歩道には、通称「ほこみち」制度によって、オープンカフェやベンチなどを置ける空間(利便増進誘導区域)が指定された。歩道の幅が拡張されている。今年4月には高千穂通に面した場所にHAROW(ハロウ)高千穂通がオープンした。旧NTT宮崎支店北棟をリノベーションした複合商業施設である。ちなみに、冒頭紹介した東村アキコ作「かくかくしかじか」で主人公(=作者)が美大卒業後に就職したのがNTTで、作中にリノベーション前のビルが登場する。
プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。主著に「公民連携パークマネジメント:人を集め都市の価値を高める仕組み」(学芸出版社)
図1 みそぎ池
図3 旧宮崎農工銀行
図4 広域図