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路線価でひもとく街の歴史

第63回 宮崎県都城市
集客拠点は百貨店から図書館へ

 都城は日向国に属するが、鎌倉時代から島津家の影響下にあった。源頼朝に島津荘の下司職に任命された惟宗忠久(これむねただひさ)が、任地から取って島津を名乗ったのが始まりだ。家祖忠久が荘園管理のため館を構えたことから都城は島津家発祥の地と言われる。その後、島津家は本拠を鹿児島に移し、都城は分家が治める地となった。拠点の山城「都城」が地名の由来である。山城は徳川の治世の一国一城令で廃止され、現在の市役所、明道小学校の場所に領主館が置かれた。寛文3年(1663)に都城島津家が立ち上がり、幕末まで統治した。
 明治4年(1871)11月、廃藩置県に伴う再編で、現在の宮崎県南部と鹿児島県の大隅半島を合わせた都城県が置かれた。県庁所在地は都城で旧領主館の一部が県庁となった。明治6年(1873)の再編で現在の県域とほぼ同じ宮崎県ができたが人口は40万人を下回り、明治9年(1876)8月に鹿児島県に編入された。ほどなくして勃発した西南戦争の戦中、戦後の独立運動を経て明治16年(1883)5月9日に宮崎県が再生するまで、都城は鹿児島県の街だった。

上町銀行街
 領主館とともに城下町が造成された。領主館からまっすぐ北上する道がメインストリートで、手前から広小路、本町、唐人町と区分された。明治になると本町は上町(かんまち)に、唐人町は中町(なかまち)に改称した。
 宮崎県統計書に記載がなく、明治時代の最高地価地点は判然としないが、大正15年(1926)、大蔵省土地賃貸価格調査事業報告書において都城市の最高地価は上町だったことから、近代を通して上町が中心だったと思われる。大正時代、現在の宮崎銀行、鹿児島銀行のそれぞれ前身行が上町に移転してきた。
 都城で初めての国立銀行は鹿児島銀行の前身、第百四十七国立銀行である。都城の租税出納を担う大蔵省為替方本店として明治12年(1879)9月に開業した。明治9年(1876)8月の国立銀行条例の改正を契機に国立銀行の創業ブームが起き、明治12年12月開業の第百五十三国立銀行で終了する。この間、宮崎県はなく、鹿児島県の宮崎地域だった点に留意されたい。宮崎地区にはブーム最終年の明治12年、第百四十四国立銀行が飫肥(おび)(日南市)に、第百四十五国立銀行が延岡で創業した。1つおいて第百四十七国立銀行が鹿児島にできた。都城でも国立銀行の設立の動きがあったが実現せず、私立銀行として「都城銀行」が創設されたが後に破たんした。宮崎地区を含む当時の鹿児島県は約120万人で全国6位、鹿児島は九州で最も人口が多い都市だった。県都鹿児島は既に第五国立銀行が地盤を築いており、第百四十七国立銀行は宮崎地域に活路を見出す。都城には明治28年(1895)に出張所を開設、後に支店となった。大正元年(1912)末時点でも鹿児島県内には本店のみで、東京、大阪、宮崎、都城、沖縄に支店を展開していた。なお都城支店は大正3年(1914)6月、上町に新築移転する。
 次は現在の地域一番行の宮崎銀行をふりかえる。県都に本店を構える宮崎県のメインバンクとしての源流は明治33年(1900)設立の日州銀行にさかのぼる。それまで今でいう指定金融機関、当時の県金庫を担っていたのは第百四十七国立銀行の後身、第百四十七銀行だった。県が道路事業にかかる資金調達を第百四十七銀行に打診したところ不調に終わる。これがきっかけとなり当時の県知事の提唱で設立されたのが日州銀行だ。県本金庫は同行が担うことになった。都城には支店が置かれ、同じく県支金庫を担うことになった。
 次の課題は県内の小規模行の統合による規模拡大だった。明治40年(1907)8月、第百四十四国立銀行の後身の飫肥銀行と、宮崎町に本店を構えていた日向商業銀行と統合して(新)日州銀行となった。
 大正時代の都城に目を転じると、大正6年(1917)、日州銀行の都城支店が上町に新築移転。大正8年(1919)には地元本店の都城銀行(2代目)が開店した。大正10年(1921)においても都城が属する北諸県郡の期末預金シェアは第百四十七銀行がトップだった。
 昭和3年(1928)、日州銀行は都城銀行を含む県内7行と合併して日向中央銀行となった。ところが日向中央銀行も窮地に陥る。そこで、破たん処理の一環として昭和7年(1932)7月、宮崎県が資本金の8割弱を出資して日向興業銀行を設立。日本勧業銀行の長野支店長だった伊東祐夫(すけお)を頭取に迎えた。その後、日向中央銀行および宮崎銀行(現在の宮崎銀行とは異なる)の資産負債を引き継いだ。これまで2度の大合同に参加しなかった第百四十五国立銀行の後身、延岡銀行も3度目にして参加した。日向興業銀行は昭和37年(1962)に宮崎銀行に改称する。

駅前の攻勢に耐えた中町・上町
 確認できる中で最も古い路線価は昭和31年(1956)である。当時の最高路線価は中町交差点を中心に中町と上町にまたがっていた。この年の10月、戦前から営業していた大浦呉服店を母体に「都城大丸」が中町に開店した。昭和35年(1960)11月には上町に地元資本のナカムラデパートが開店した。昭和30年代末には中町、上町の通りが拡幅され「中央通り」となり、片側アーケードも完成して中心街の地位を固めた。
 地点名が登場するのは昭和48年(1973)で、「上町山万呉服店前中央通り」だった。オイルショックが始まったこの年は都城の商業史的にも後々記憶に残る年となる。まずは駅前に商業拠点ができた。郊外大型店ができた年でもある。そして10月から翌年春にかけて、都城の大型店の店舗面積が約4.5倍になった。
 同年10月、宮崎市に本店を構える橘百貨店が都城駅前に進出した。8階建で上階に回転展望レストランがあった。11月、熊本を本拠とする寿屋が中町に9階建の百貨店を出した。11月末には製紙工場跡地にダイエーが出店。推定800台の駐車場を擁し、駅前立地とはいえ郊外大型店のはしりでもあった。進出3店に地元勢も応酬し12月に都城大丸、翌年3月にナカムラデバートが増床した。
 その頃、昭和50年(1975)の完成に向け、都城駅前では土地区画整理事業が進んでいた。他の地方都市に比べて駅前の発展は遅いほうだ。都城駅の開業は大正2年(1913)10月。明治39年(1906)の鉄道国有化以降の駅である。当時、鹿児島本線は熊本県の八代駅から海沿いをたどる現在のルートではなく、八代駅から人吉を経由し鹿児島駅に至る内陸ルート、すなわち現在の肥薩線のルートをたどっていた。都城駅は、旧鹿児島本線の分岐線、吉松駅から枝分かれし、霧島山のカルデラに沿って都城に至る吉都(きっと)線の駅だった。当時は「宮崎線」といい、宮崎駅を目指して延伸されていた。昭和7年(1932)に霧島山南麓をたどり鹿児島湾岸に抜ける現・日豊本線が完成するまでは現在の吉都線が日豊本線だった。
 さて、都城の場合、昭和50年(1975)前後から駅前が発展したが、中町・上町の地位を脅かすほどではなかった。区画整理が完成に近づいても地主は建物の新築に及び腰で空き地も多かった。駅前の橘百貨店はハイクラスの商品構成とした戦略ミスもあり、開店2年で閉店。延岡に本拠を置いていた旭化成サービス(通称:旭サービス)が店舗を購入し営業を引き継いだ。ダイエーはマイカー客が多く、駅前にあっても実態的に駅前立地ではなかった。昭和53年(1978)10月9日の日経流通新聞の見出しに「中心商店街沈まず 固定客を安全弁に 広がった商圏に救われる」とあった。

最高路線価地点は10年前から歓楽街
 中町・上町の最高路線価は平成4年(1992)にピークを迎える。両町は昭和31年以来同価格だったが、この年、僅かに中町が上町を上回った。いずれにせよ、両方とも翌年以降20年以上にわたって下落傾向をたどる。昭和56年(1981)に宮崎自動車道が開通し都城ICができた。都城ICと中心部をつなぐ国道10号線に沿ってロードサイド店が増えてきた。
 図3 路線価の推移の通り、中町・上町が下落に転じても、沖水橋近辺のロードサイド拠点の地価は90年代を通じて上昇を続けていた。この間をふりかえると、平成7年(1995)、ナカムラデバートは閉店しホテルに転換。駅前の旭化成サービスは閉店した。平成14年(2002)、寿屋が閉店。現在はオフィスビルになっている。
 さらに平成15年(2003)4月、イオン都城ショッピングセンター(SC)が開店した。平成20年(2008)12月、ダイエーが「イオンモール都城駅前」に転換した。市街地の南北の郊外大型店がイオン系となった。
 最後まで残った都城大丸だが、平成23年(2011)に閉店を余儀なくされた。旧ダイエーを除き、昭和48年当時に席巻した大型店はすべてなくなった。図3右側は都城大丸の閉店以降の路線価の動きを示している。中心市街地を中町、上町、牟田町(むたちょう)の3つに分けた。沖水橋近辺は2010年代早々に下げ止まり、下落が止まらない中町を平成27年(2015)に追い越すこととなった。次に下げ止まったのは牟田町で、平成26年(2014)に中町と交代して以来11年連続で最高路線価地点である。宮崎市の西橘通りに次ぐ歓楽街で、宮崎市の通称ニシタチに対し、ムタマチと呼ばれる。
 昨年1月は牟田町が1m2当たり61千円、沖水橋が同57千円。中町が同53千円、駅前は同51千円だった。

集客拠点は百貨店から図書館・広場へ
 他方、中心市街地の巻き返し策として中央東部区画整理事業が進められていた(図1 市街図)。商業拠点として6階建の共同ビルを整備し、核店舗として都城大丸が入るプランがあった。しかしこのプランは断念され、代わりに都城大丸単独で低層モールを建てることになった。平成16年(2004)、百貨店の裏手にオープンした「都城大丸センターモール」だが、7年後に百貨店の破たんに伴って閉店してしまう。
 都城大丸の閉店の翌年、池田宜永(たかひさ)氏が都城市長に就任した。地元出身で平成6年大蔵省入省、平成24年(2012)6月に財務省を退職後、11月に市長となった。その後、様々な活性化施策が打ち出されていく。中心市街地の再生についても逆転の発想があった。郊外大型店に対抗せず、商業拠点以外の集客拠点を配置する戦略である。論点は空きビルとなった都城大丸センターモールの活用策だ。平成25年(2013)当初は商工会議所主導で百貨店を核店舗としたテナントに再生する方向だったが、アンケート結果を受けて市との連携を模索。再検討の結果、老朽化していた図書館を移転することになり、10月末に計画案が公表された。現在、大屋根で覆われた「まちなか広場」を囲むように複合施設「Mallmall(まるまる)」がある。道路を挟んで広場の東側が平成30年(2018)4月に開館した都城市立図書館である(図4 Mallmall(まちなか広場から図書館を臨む)の奥)。人が集まるオープンスペースという点で広場と連続している。広場の西側は公共施設棟で、市の保健センター等が入っている。中央通りに面しており、1階はバスステーションになっている。広場の南側にはフードコート、パティオ型商店街「C-PLAZA」、映画館などがある。広場の北側には、ホテルなどが入る複合施設のTERRASTA(テラスタ)がある(図4左側)。令和4年4月の開業で1階はスーパーマーケットになっている。休日ともなれば広場で様々なイベントが催され図書館側の道路にはキッチンカーが店を出す。都城市立図書館は開館3週間で来館者10万人を突破、6年5か月後の令和6年9月14日には累計来館者が1,000万人に達した。計画段階で想定していた年間27万人を大きく上回る成果となった。
 都城市はふるさと納税の取り組みでも注目されている。寄附金額は平成26(2014)年度には全国9位となり、翌年には日本一となった。躍進の要因は、都城のブランド力向上を狙い、返礼品を「肉と焼酎」に特化した点にある。以来令和5年度まで10年連続でトップ10入りし、同年度を含め日本一は通算5回に及ぶ。こうして得た自主財源をもとに、子育て支援や移住促進策が展開されている。令和5年度に始まった目玉施策が「3つの完全無料化」、すなわち第1子からの保育料、中学生までの子ども医療費、妊産婦検診費用の無料化だ。移住応援給付金も始まった。
 こうした施策が奏功し、都城市への移住が増えている。令和5年度の移住相談件数ランキングで全国1位、実際に移住した人は3,710人と急増。その結果、13年ぶりの人口増加となった。

プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。主著に「公民連携パークマネジメント:人を集め都市の価値を高める仕組み」(学芸出版社)

図2 広域図