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路線価でひもとく街の歴史

第62回 埼玉県行田市
街なみに残る足袋の産業革命史

忍の浮き城
 行田市は旧称を忍町(おしまち)という。明治22年(1889)に施行された町村制に伴い行田町、成田町、佐間村が合併して旧藩名から「忍町」が発足し、3町は忍町の大字になった。行田町は旧忍藩の商人町、成田町は武家地である。旧藩名の忍より行田が有名になり昭和24年(1949)の市制施行で市名にした。
 忍城といえば映画にもなった和田竜の小説『のぼうの城』(小学館)が有名だ。ときは天正18年(1590)6月の梅雨時。豊臣秀吉が小田原城を包囲しているとき、成田家当主の氏長は、北条氏政・氏直親子とともに小田原城に詰めていた。代わりに忍城を守っていたのは叔父の泰(やす)季(すえ)だが急死してしまう。思わぬ事態にその嫡男の長(なが)親(ちか)、でくのぼうから通称「のぼう様」が石田三成の2万の軍勢と対峙するはめになった。
 石田勢は現在のさきたま古墳公園にある古墳の1つ、丸(まる)墓(はか)山(やま)古墳に本陣を置く。古墳群の隣に前(さき)玉(たま)神社があり、これが武蔵国埼玉郡、ひいては埼玉県の命名由来となった。ある意味、埼玉の歴史は行田に始まる。
 三成は忍城の下手に、後世「石田堤」と呼ばれる堤防を築き、梅雨で増水した利根川、荒川を決壊させた。周辺一帯が水没し、水面から櫓が突き出た様子から「忍の浮き城」と呼ばれた。成田勢は徹底抗戦を貫き籠城戦を持ちこたえたが、同盟領袖の北条家が降服したため傘下の忍城も明け渡すこととなった。
 以降、徳川家の親藩・譜代が治める地となった。埼玉銘菓「十万石まんじゅう」は忍藩10万石にちなむ。製造元の十万石ふくさやは行田が発祥である。呉服商、旧山田清兵衛商店の店蔵だった土蔵造2階建を改装して本店とした。明治16年(1883)築の国登録有形文化財である。現在、本丸跡には市の郷土博物館と御(ご)三(さん)階(がい)櫓(やぐら)がある。観光ガイドに登場する忍城のシンボルだが、昭和63年(1988)、「明治6年調整忍城図」を参考に再建されたものだ。場所も本丸ではなく外堀に面した城郭の南東端にあった。江戸時代の櫓なので石田三成が目にしたものではない。

本町で旗上げされた地元銀行
 城下町時代から戦後にかけて、街の中心は本町界隈にあった。武蔵野銀行行田支店の交差点付近だが、昭和45年(1970)までは丁字路だった。藩政期には丁の横棒部分に高札場や本陣があった(図1 旧忍貯金銀行(武蔵野銀行行田支店))。
 埼玉県統計書によれば、明治18年(1885)、北埼玉郡行田町の宅地地価は川越町高澤町、熊谷宿本町一丁目に次ぐ3位だった(いずれも当時の場所名)。その行田町の中心の本町は明治以降の町名で、城下町時代は上町と呼ばれた。日光脇往還が行田の街を貫いていた。中山道の吹上宿から分かれ北上する日光脇往還は、現在の水(すい)城(じょう)公園の南辺に沿って城下町に入る。そして新町を北上し本町の丁字路(現在は十字路)で東に折れ、本町、下町を通って新忍川(見沼代用水)の船着き場に至る。日光脇往還に沿った新町、本町(上町)、下町に八幡町を合わせて行田四町と呼ばれた。
 本町丁字路には忍町最初の銀行、中井銀行の忍支店があった。明治16年(1883)の開店で、本店は東京の日本橋。千住、草加、越ケ谷、粕壁(春日部)、杉戸の日光街道沿いに支店を展開し、忍の他に川口、岩槻、浦和支店があった。昭和元年(1926)末時点の12の支店のうち8つが埼玉県東・中央部である。大正期に新町に移転。昭和の金融恐慌のあおりで破たんし、昭和3年(1928)、昭和銀行に引き継がれる。昭和銀行は、金融恐慌に伴い破たんした銀行の債権債務を引き継ぐために設立された受け皿銀行だった。昭和銀行も後に安田銀行に吸収されるが、忍支店はその前に閉店したようだ。
 いわば広域地銀ではない地元密着の銀行が待望される中、明治29年(1896)5月に設立されたのが忍商業銀行だ。発起人にして初代頭取の松岡三(さん)五(ご)郎(ろう)は、大地主の家に生まれ、旧制浦和中学(現浦和高校)から慶應義塾、東京専門学校(現早大)、英吉利法律学校(現中央大)を出た30歳前後の青年だった。忍商業銀行は現在の埼玉りそな銀行の源流行の1つである。本町が創業地で、現在の埼玉りそな銀行の並びの東側だった。埼玉県の大手行に成長し、昭和18年(1943)、戦前の一県一行主義の一環で、川越の第八十五銀行、浦和の武州銀行、飯能銀行と合併して埼玉銀行となる。
 明治31年(1898)1月、忍商業銀行の系列行として忍貯金銀行が開店した。松岡三五郎が頭取を兼務し、開業当初は忍商業銀行内で営業していた。昭和9年(1934)6月に新築した鉄筋コンクリート造2階建の店舗は国の登録有形文化財である(図1)。忍貯金銀行は昭和19年(1944)に埼玉銀行に合流。行舎は足袋会館を経て昭和44年(1969)に武蔵野銀行の行田支店となり現在に至る。

行田の産業革命史
 行田の街の歴史は足袋の産業革命史と一体である。源流は江戸中期に始まった武家の内職で、幕末に近い天保年間(1830~1844)には絵図に27軒の足袋屋があり、産地として成立していたことがうかがえる。
 明治に入り、呉服商が内職を発注して産地問屋に転化したケースもあったようだが、行田産地の場合、足袋工房が販売も手掛ける製造卸に発展し、出荷量が増えるに従って工程別に下請け発注するケースが主だった。問屋制家内工業でいう問屋の役を製造卸が担っていた。製造卸が産地問屋を通さず消費地問屋や呉服店に販売したので利益率が高かった。
 明治19年(1886)、足袋製造卸の荒物屋こと橋本喜助が、酒蔵を改装して足袋工場を立ち上げた(橋本喜助商店)。就業規則による管理の下、賃労働者を作業場に集めて分業システムを構築した点で工場制手工業のエポックといえる。同工場では明治23年(1890)頃にミシンが導入され、それから行田にミシンが広まっていく。以降生産高が加速度的に増え、明治18年(1885)に年間生産高50万足だったものが、工場やミシンの登場によって、忍商業銀行の開業前年までの10年で約4倍となっていた。
 橋本喜助は忍商業銀行の発起人の1人かつ最大出資者でもあった。足袋は晩秋に売上ピークがある季節商品である。通年で製造するので、例年3月頃から材料仕入資金の借入が始まり、12月から翌年1月にかけて返済する資金繰りだった。有価証券や不動産を担保とした当座貸越が多かった。地元銀行に対する待望の背景には、加速度的に増える売上に伴う運転資金需要があった。なお、生産と出荷時期のズレは在庫期間でもある。こうした事情を反映しているのがいわゆる「足袋蔵」の存在だ。街なかには現在、約80棟の足袋蔵が残っている。
 行田の産業革命史の次のエポックは明治43年(1910)の行田電灯の登場である。明治中頃から使われてきたミシンが電動になり、工場制大工業の時代の幕開けとなった。大正に入ると足袋の年間生産高が1,000万足となった。その後も増え続け、昭和13年(1938)に年間8,400万足のピークを迎える。大工業の時代に特徴的なのがノコギリ屋根の足袋工場だ。現存するものにイサミコーポレーションのスクール工場がある。大正6年(1917)に建てられたものだ。現在は学生服を製造しているが、元々はイサミ足袋本舗の工場だった。池井戸潤原作の同名小説を映像化した平成29年秋期TBS日曜劇場「陸王」の「こはぜ屋」の外観はこの工場である。
 次に登場したのは輸送手段としての鉄道である。大正10年(1921)4月、現在の行田市駅が開業。昭和41年(1966)、国鉄高崎線の行田駅が開業するまではこちらが行田駅だった。開業時は北武鉄道といい、東武伊勢崎線に連絡する羽生駅までの路線だった。翌年8月に熊谷駅まで延伸し、9月に秩父鉄道に吸収される。元々東武鉄道の支援で立ち上げられた路線だが、施工にあたって秩父鉄道の増資引受があったようだ。
 それまで行田の鉄道の玄関口の役割を担っていたのは行田の中心地から4.5km程南の高崎線吹上駅だった。明治18年(1885)の開業で、行田の足袋はここから東京や東北に出荷された。行田の中心部から吹上駅まで馬車鉄道が敷かれた時期もあったが貨物輸送にはあまり使われなかったようだ。下町の東端、忍川の船着き場から本町、新町を通り、日光脇往還に沿って吹上駅に至る、当時のメインストリートを辿っていた。明治34年(1901)に開通したが、秩父鉄道の開通で衰退し、大正12年(1923)に廃止された。

駅前再開発と大型店の進出
 戦後、沼と低湿地の街は大きく変貌する。多くの沼に阻まれ難攻不落の忍城下だが、一方で赤痢等の水系伝染病が度々流行していたことが市政の課題だった。こうした事情から、昭和25年(1950)末以降に推進されたのが下水道事業である。本丸前の大きな沼は戦前までに概ね埋められていたが、網目のような水路の形で残っていた。そうした水路も下水道整備に伴ってほぼ埋め立てられた。南端の沼を残して都市公園に仕立てられたものが昭和39年(1964)開設の水城(すいじょう)公園である。園内の「しのぶ池」が外堀由来の沼だ。
 最高路線価地点は本町の丁字路だったが、鉄道利用者の増加とともに街の重心は少しずつ駅前に移動していく。昭和38年(1963)に駅前再開発が始まった。昭和45年(1970)には駅正面から本町に向けて伸びる幅18mの「中央通り」が開通。本町の丁字路が十字路になった。昭和50年(1975)11月、中央通りに、全国チェーンの総合スーパー「ニチイ」の行田店が開店した。当地で初めての大型店と駅を引力に、中央通りがストローとなって本町から人流を引き寄せた。そして昭和57年(1982)には最高路線価地点が「ナショナルの田島駅前通り」となった。地点名は駅前通りとあるが現在の中央通りだ。
 時期を同じくして車社会化も始まった。国道17号線の熊谷バイパスが昭和48年(1973)5月、市街地の北側を迂回する国道125号線の行田バイパスも昭和58年(1983)にそれぞれ一部開通し、年が下るごとに区間を延ばしていった。ロードサイド店も増えてきた。スーパーの忠実屋が平成元年(1989)10月に開店、その後ダイエーに転じる。平成5年(1993)には最高路線価地点がJR行田駅前に移った。駅前とはいえ周辺は元々田園地帯だった地域を昭和40~50年代に開発した郊外都市である。平成6年(1994)、熊谷バイパスが全線4車線化。翌年の平成7年、行田市駅前のニチイが撤退を余儀なくされた。その12年後の平成19年(2007)、行田バイパス沿いにイオンモール羽生がオープンする。商業施設面積88,208m2の巨艦店だ。

日本遺産の認定
 平成29年度(2017)、行田市に「日本遺産」が付与された。日本遺産とは、わが国の文化・伝統を語るストーリーとともに有形無形の文化財の群を文化庁が認定する地域ブランドである。平成27年度(2015)の創設で、令和2年6月まで104件が認定され、今年2月、5年ぶりに1つ増えて105件となった。行田市が認定されたのは全国41番目で埼玉県では唯一である。「和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち行田」というストーリーの下、現在45の構成文化財が認定されている。忍城跡をはじめ十万石ふくさや本店、旧忍貯金銀行、旧イサミ足袋本舗工場の他、街なかに点在する足袋蔵も構成文化財である。日本遺産が認定された年の秋にTBS日曜劇場「陸王」が始まった。ナイロン靴下の普及で衰退した足袋文化だが、戦前から衣服製造業等への多角化が進められ現在に至る。「陸王」は老舗足袋メーカーが開発するマラソン足袋の名前だ。
 リニューアルが進む水城公園に目を引く萌葱(もえぎ)色の洋館がある。下見板コロニアル様式と呼ばれる、大正11年(1922)8月築の旧忍町信用組合本店である。忍町信用組合は埼玉縣信用金庫(埼信)の源流の1つである。大正7年(1918)、地元足袋店主の出資の下、後に2代目組合長となる村上義(よし)之(の)助(すけ)が中心となって設立された。昭和23年(1948)、県下8つの信組と統合して埼玉縣信用組合(制度発足後に信金)となる。統合に尽力した村上義之助が埼信の初代理事長になった。旧本店は埼信の行田支店となったが後に八幡町に移転。建物は洋食店の老舗だった朝日亭に買収され、その後賃貸ビルになっていた。平成28年(2016)12月に市指定有形文化財となったことを契機に市が受贈し、水城公園に移築保存することになった。これも日本遺産の構成文化財の1つだ。

プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。主著に「公民連携パークマネジメント:人を集め都市の価値を高める仕組み」(学芸出版社)

図2 市街図
図3 戦前における行田の足袋の生産高
図4 広域図
図5 旧忍町信用組合(ヴェールカフェ)