元国際交流基金 吾郷 俊樹
昨年11月号、12月号に続き、千年にわたって読み継がれる源氏物語とその物語の世界について、まずは物語の筋とともに当時の背景などをたどる。時は移り変わり、源氏の君の死後の世界、その子、孫の世代を描く。
(43)匂宮
「光源氏がおなくなりになった後には、あの輝かしいお姿や世評の栄光を受け継がれるようなお方は、たくさんの御子孫のなかにもなかなかいらっしゃらないのでした」(瀬戸内寂聴訳)。源氏の君の晩年の息子として育てられてきた女三宮の子、「生まれつき不思議な芳香を持つ体質」で自分の出生の秘密に感づいている「陰を持つ若者」薫と、帝や明石の中宮にも特に愛される、名香を調合して身に着け、祖父源氏の君に似て、「明るく多情で色好み」な三宮、兵部卿の宮。薫と兵部卿の宮との関係は「かつての源氏と頭の中将のような関係」。何かと張り合うこの二人を中心に物語は進む。
香といえば、公益財団法人お香の会のWebsiteによると、香木は日本には産出せず、「奈良朝のそれは…仏事を荘厳にすることが目的…平安朝になって、宮中や貴族の生活の風雅として世に広まり、…室内に空焚き(からだき)にしたり、衣服に焚き染めたりして用い」たという。正倉院の御物の国宝「蘭奢待」は、「1.54メートルもある大きな伽羅香木で…織田信長がこれを切ったということが歴史上に有名」で「信長はそれを三分して、三分の一だけを自分のものにし、あとの三分の二を天下の大名小名に分けた」ほど尊重されたという。
子だくさんの源氏の息子、夕霧は、中でも美人と評判の六の君を薫か匂宮のいずれかに嫁がせたいと思い、かつて源氏の君が明石の中宮を紫の上に育てさせたように身分の高い落葉の君の養女としている。
写真 黄熟香 - 正倉院(正倉院の宝物、「黄熟香」。雅名である「蘭奢待」には、「東」「大」「寺」の三文字が隠れているという。名香として珍重され、足利義政や織田信長、明治天皇が切り取らせた部分は付箋で示されている。出典:正倉院宝物 黄熟香 - 正倉院)
(44)紅梅
かつての頭の中将の家も代替わり。その息子、紅梅が娘を入内させるか悩む。「『帝にはすでに明石の中宮がいらしゃるし、どんな人があの御威勢に肩を並べることができよう。…東宮には夕霧の右大臣の御長女が女御になられて、…かないそうにない。といってそんなふうにばかりいってもおられまい。…娘を持ちながら、宮仕えをあきらめてしまっては、何の育て甲斐があろうか」」と決心…して、一の姫君を東宮にさしあげることになさいました。」(瀬戸内寂聴訳)
東宮への入内といえば、道長は、東宮時代の三条天皇、後一条天皇に娘を入内させているほか、「王朝の貴族」によると、折り合いの悪かった三条天皇の皇子で東宮だった敦明親王に圧力をかけ、親王から「東宮辞退の決意を打ち明けられ」ると、道長の判断は早く、好条件を提示。「その場に摂政頼通を呼び寄せ、敦明親王の今後の待遇について話をまとめてしまった。…親王は…小一条院の称号を受け、太上天皇に準ずる待遇を受けることになった。…道長は、娘の寛子を小一条院と結婚させることとし」至れり尽くせりの世話をしたという。道長の日記「御堂関白記」によると、道長の四男能信から「東宮蔵人…がやって来て、云いましたことには『東宮(敦明親王)が『私は、この東宮の地位を、何とかして辞めたいものだ』と仰せられました」と伝えられ、「私(藤原道長)が云ったことには、『東宮の召しが有ったならば、早く参って事情を聞き、こちらに報告に来るように』」と記す。このような秘事が記された道長の自筆日記は、「藤原道長『御堂関白記』を読む」によると、「摂関家最高の重宝とされ、…現役の摂関でさえも容易に見ることが出来ない」ほど厳重に保存され、今も「万一の際には、これだけ手で持って運び出すため」近衛家の「陽明文庫の蔵の…『記録第一函』という一個の箱の中にまとめて納められ、扉を入った左側の一番手前の机の上に置かれてい」るといい、2013年にユネスコの『世界記憶遺産』に登録されている。一条天皇の蔵人頭で、当時、中納言だった藤原行成の日記「権記」には、「東宮…は事情を后宮(娍子)に申されました。后宮は、先に伝えられずに、たやすく外部にもらしてしまったということについて、□がありました。その時、儲宮は口を閉ざし、色を失いました。頗る悔いる様子が有りました」と記す。一方、東宮に娘延子を入内させていた左大臣源顕光邸では、夫を奪われた妃延子は「病臥しておられた。大臣も今にも絶え入りそうな有様で横になっておられると、一宮がお出でになって、『おじいちゃま、もしもし、お起きなされ。馬になってちょうだい』と言ってお起こし申し上げなさると」、左大臣が「正体もない様子で起き上がりなさり、尻を高くして這い、馬の恰好をして一の宮をお乗せ申し上げなさって、這い歩き回られると、一の宮は『普通よりもよく動かないこの馬はつまらない』と言って、扇でしとしとと御打ち上げ申しなさ」ったと左大臣一家の悲しみを『栄華物語」は記す。
娘を入内させることが身を滅ぼすこともあり、「王朝の貴族」によると、左大臣源高明が16歳の東宮候補に娘を入内させると、969年(安和二)年、「藤原氏北家嫡流の面々」は、9歳の同母弟を東宮として、左大臣源高明を失脚させ、以後、「藤原氏の他氏排斥の運動は終わりを告げ…もはや藤原氏を脅かすにたる存在は生まれ出る機会を与えられ」なくなったという。
(45)竹河「竹河のはし打ち出し一ふしに 深きこころの底は知りきや」
玉鬘の夫、髭黒の太政大臣は「あっけなく亡くなって」しまい、時勢におもねる人々は寄り付かなくなり、「お邸のうちもひっそりと寂しくしている」(瀬戸内寂聴訳)。
当時、度々疫病が猛威を振るい、多くの貴族も命を落とす。「王朝の貴族」によると、「九九三(正暦四)の秋に疱瘡が多少の流行…、翌年の春から九州に新たに流行し始め、…特に夏には京都に病者・死者があふれ、五位以上だけで七十人以上が死亡…翌九九五年(長徳元年)の春から、またまた流行し始め…この年はことに四位・五位や公卿などの死亡が目立ち、中納言以上八人が軒並み死んで道長が躍進した」という。「大鏡」も、「大臣・公卿七八人、二三月のなかに掻き払ひたまふ事、希有なりしわざなり」、「お亡くなり遊ばした殿さまたちが…長生きなさったとしたならば、とてもこんな風にまで道長公が御出世遊ばしたかどうか」と記す。
玉鬘は髭黒の太政大臣が入内を望んでいた二人の娘たちをどこに御縁づけるかに悩む。貴公子に人気の上の娘(大君)には、冷泉院と帝から入内をうながされる。大君には夕霧の息子蔵人の少将が玉鬘邸に通い詰め、堅物と言われる薫も心惹かれる。玉鬘邸での宴の翌日、薫は「催馬楽の竹河の一端を謡ってほのめかしたその中に、私の深い心の底を汲み取ってくださつたでせうか」(谷崎潤一郎訳)と歌を贈り、大君へ思いを伝える。
あれこれ悩んだ玉鬘は、結局、「後見もない宮仕えは、宮中ではとても不都合」だと大君を冷泉院に入内させる。左大臣が亡くなり、夕霧が左大臣、薫は中納言に昇進するなど源氏の子孫が栄える中、玉鬘は、髭黒の太政大臣を失った息子たちの「昇進が人より遅れている」(瀬戸内寂聴訳)と嘆く。
権力者の子も後ろ盾を失うと運命は変わる。道長と権力を争った甥の伊周が失脚。「大鏡」によると、その息子、藤原道雅は25歳で従三位に昇進した後、62歳で亡くなるまで、「非参議、従三位のまま、少しも昇進しないで世を終えている」という。
写真 (玉鬘の娘、大君と中の君が庭の桜の木を巡って碁で三番勝負する。藤原隆能 著 ほか『源氏物語絵巻』,徳川美術館,昭11. 源氏物語絵巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
(46)橋姫「はし姫の心をくみて高瀬さす 棹のしづくに袖ぞ濡れぬる」
その頃、宇治に源氏の君の弟、八宮が世間からわすれられたように暮らしている。「一時は東宮にお立ちになりそうな噂などもありました。それだけに時の権力に冷たく扱われるような事件にかかわった後は、かえって昔の威勢もあとかたもなくなりました。御後見の人々も…この宮に見切りをつけて去ってしまいました」(瀬戸内寂聴訳)。宮は阿闍梨について修行をしながら二人の娘を育てている。阿闍梨が冷泉院に八宮の様子を話すと、冷泉院に可愛がられている薫は、教えを請いたいと宇治に八宮を訪れるようになる。そこで、八宮が不在のおりに娘たちが弾く琴の音を聞き、心惹かれる。「宇治川を高瀬舟が棹さしていくのを眺めても、寂しく暮らしていらつしゃる姫君たちの心をお察しして、舟人が棹の雫に袖を濡らすやうに涙で袖を濡らしました」(谷崎潤一郎訳)と歌を贈る。宇治で薫は八宮に仕える老女から自分の出生の秘密をほのめかされる。「橋姫」以下の「宇治十帖」と呼ばれる部分はスケールが小さくなり、登場人物も絞られるが、瀬戸内寂聴は「少女の頃、与謝野晶子訳の源氏物語を読んだ時、宇治十帖を本編の光源氏の物語より分かり易く面白いと思った」という。
権力を失うと途端に人が寄り付かなくなるもので、「大鏡」は、道長の娘彰子が皇子を続けて産むと、伊周は「人生に希望を失って」、病気になるが、病が重くなったので、病気平癒を祈ってもらおうと祈祷僧を召しても、「道長に睨まれては大変と、どこの祈祷僧も、伊周邸には参ろうとしない」と記す。「宿敵道長に頭を下げるのは業腹だが、こうなってはやむを得ないというので」、長男を使いに出して、道長に事情を話して、祈祷僧を「あなたのお力で寄越して下さい。」と頼むと、道長は、「不都合なことですな、ちっとも存じませんでした。どのような御容態ですか。僧侶としては怠慢千万」と言って、「某の阿闍梨をこと献らせたまひしか」と記す。
写真 (八の宮の留守に宇治の山荘を訪れた薫は、合奏する大君と中の君を垣間見る。藤原隆能 著 ほか『源氏物語絵巻』,徳川美術館,昭11源氏物語絵巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
(47)椎本「立ち寄らん蔭と頼みし椎がもと むなしき床となりにけるかな」
匂宮は薫から聞いた宇治の姫君に関心を持ち、八宮の山荘近くの夕霧の別荘に滞在し、文をしたため、薫に託す。それを機に姫君に手紙が来るようになる。やがて、八宮は勤行三昧に入るため。娘たちには、「決して軽はずみな考えから、姫君の身分を汚すような、つまらぬ縁談の取りもちなどしないでほしいのだ」(瀬戸内寂聴訳)といい残し、山に入るが、間もなく具合が悪くなり亡くなる。
皇族女性の婚姻について。「天皇と摂政・関白」によると、「律令制では内親王をはじめとする皇族女性の婚姻について厳しい規制があり、…臣下との婚姻は許されていなかった」が、やがて緩和され、藤原良房は嵯峨天皇の娘と婚姻するなど「外戚家に連なる人々」との婚姻が認められていったという。
娘を残して亡くなるときにはその行く末を心配するのが親。「大鏡」によると、道長との権力闘争に敗れて失意のうちに亡くなった伊周は、后候補として育てた二人の娘たちが、自分が死んだら「どのような身の振り方、どのような暮らしをなさるのだろうかと思うとそれが悲しく、世間のいい物笑いにきっとなるだろうね」と泣いて、「見苦しい暮らしなどなさるなら、草葉の陰からでもきっと恨み言を申す覚悟だからね」と「母君である令夫人にも涙ながらに遺言」したと伝わる。
年末に喪に服している姫君を訪れた薫は匂宮が中の君に執心であることと、自らの思いを大君に伝えるが、「大君はそ知らぬ顔ばかりして相手にされません」(瀬戸内寂聴訳)。薫は「自分が出家したならば佛道の師と仰がうと頼みに存じ上げていた宮がおかくれ遊ばして、もとのお居間にはお座席さへもなくなつてしまったことよ」(谷崎潤一郎訳)と詠む。
(48)総角「総角にながき契りをむすびこめおなじ所によりもあわなん」
薫は「名香の糸…の総角結びの中に、あなたと私との行末長く変わらぬ契りをも結び込めて、糸が幾度も同じところに出逢ふやうに、私たちも始終逢ひたいものです」(谷崎潤一郎訳)と詠むが大君はつれない。女房達は姫君を薫と結び付けて京都に戻りたいと思っていて、薫を姫君の寝所に案内するが、大君は異変に気付いて、中の君を残して寝所をすり抜ける。中の君と匂宮を結び付ければ大君が自分のものになると思った薫は、匂宮の手引きをすると、匂宮は中の君に夢中になる。匂宮を東宮にもと考えている帝や明石の中宮は、匂宮の気ままな行動を許さず、宇治に通えない日々が続く中、匂宮と夕霧の六の君との結婚の噂を聞いた大君は、ショックで病となり、食事もとらずに衰弱して亡くなる。
執心だった男が通ってこなくなった時の気持ちについて。「蜻蛉日記」は道長の父兼家が内裏への通り道にある家の前を、咳ばらいをして通っていくのを「聞かじと思へども、うちとけたる寝もねられず、夜長うして眠ることなければ、さらなりときくここちは、なにかは似たる。…ものしうのみおぼゆれば、日暮れはわびしうのみおぼゆ」と男に素通りされるやりきれない気持ちを記す。
いずれ匂宮を東宮にと考えている明石の中宮は、「宇治の中の君のことをお耳になさって、『どうやら宇治の姫君たちは、男君たちにとって、並々の女と思えないほどの魅力がおありなのだろう』とお察しになられ、思い詰めている匂宮を不憫がられて、『…その姫君を引き取っておあげになって、時々でもおかよいになるようになされば」(瀬戸内寂聴訳)と匂宮に話す。
(49)早蕨「此の春は誰にか見せんなき人のかたみにつめる峰のさわらび」
春になり、父と姉に先立たれた中の君は心が晴れない。山の阿闍梨が父八の宮の生前のしきたりとおりに、蕨や土筆を届ける。中の君は「亡き父君の形見と思つて積んで下すつた山の蕨も、姉君までもなくなりなされた今年の春は、誰に見ていただいたらよいのでせうか」(谷崎潤一郎訳)と返事。大君を失った薫は、中の君を匂宮のものとしてしまったことを後悔する。
ところで、宇治十帖の舞台、宇治といえば、今日世界文化遺産の構成資産である平等院は道長の時代にはまだないが、道長の山荘があった。道長から摂政の職を譲られた頼通は当時二六歳。「天皇と摂政・関白」によれば、「人事面では、…道長の存在は圧倒的で、叙位任官の希望者は頼通ではなくもっぱら道長のもとに馳せ参じ…寛仁元年八月に行われた京官除目では、道長はこれに関わらないことを示すため、宇治の山荘(後の平等院の地)に出かけたが、頼通は使者を宇治に派遣して様々な指示を仰いだ」という。道長の「御堂関白記」には「宇治の別業から帰った際、…(藤原)惟任が来向した。これは摂政の使いとして来たものであった。…除目についての問い合わせであった。」と記されていて「円融、花山、一条の三代の天皇の蔵人頭」だった藤原実資の『小右記』にも、このような状況は『かえって摂政のために鳥滸(愚か)なことになってしまう』と人々は言い合ったと記されるという。藤原行成の日記「権記」にも、行成が摂政頼通に中納言に任ずるべき人を問うと「大殿には別にご意向が有るようである。まったく理非を申してはならないのである。自ら思うところは、このようなものである。」と摂政でも父道長には何も言えないと語ったと伝わる。なお、「藤原道長『御堂関白記』を読む」によると、藤原行成は「一条天皇の後宮に入内…させた長女の彰子を中宮に立てようとしていた」道長が「一条生母の東三条院詮子に一条を説得させるよう」依頼した道長の側近。その日記「権記」は、「王権をめぐる宮廷人の政治的思惑・秘事が読み取れる。藤原道長の傍らに生き、同日に薨じた権大納言の膨大な記録は、平安の社会史・生活史・宗教史にもからむ重要な史料」だという。
写真 (匂宮の邸に迎えられ、宇治から京都に移る中の君は宇治に残る女房と別れを惜しむ。藤原隆能 著 ほか『源氏物語絵巻』,徳川美術館,昭11. 源氏物語絵巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
(50) 宿木「やどりきと思ひいでずば木の下の旅寝もいかに淋しからまし」
帝といえど、子を思う親の気持ちは同じ。帝は後見のいない女二の宮を気にかけて、「ともかく御自分の御在位の間に、女二の宮の結婚のお相手を決めてしまおうとお考えになります。さて、そうなりますと、女三の宮と源氏の君の例をそのままに、薫の君よりほかに、婿君としてふさわしい人はいないのでした。」、薫は、「心の中で、これがまだしも明石の中宮腹のお方なら話は別なのだがなどと」(瀬戸内寂聴訳)と考える。
帝の子でもその母が誰であるかは重要。「王朝の貴族」によれば、三条天皇の東宮時代の配偶者の一人は道長の二女妍子、もう一人は十六年前に亡くなった故大納言藤原済時の娘娍子。「道長を背景に持つ妍子と、…済時を父とする娍子とでは、その勢力は比較になら」ず、長和元年(1012)、「十八、九歳で子もなかった」妍子は中宮に立つ。妍子立后のすぐのち「六人の皇子王女があった」娍子の「立后の日は四月二十七日と定まったが、道長のほうでも、いったん東三条邸に下がっていた中宮妍子の参内の日取りを、同じく二十七日に決定…。…これは明らかに道長が故意にやった妨害…。同じ日に娍子の立后と妍子の参内がかち合えば、公卿以下はこぞって妍子の行事の方に集まってしまうことは、分かり切っているからである」という。当時、大納言だった実資の「小右記」にも「上達部は障りを申し、皇后の柵命に参らなかった。急に或いは穢に触れ、或いは病悩となった。」とあり、立后に参加したのは、病をおして参加し内弁を勤めた実資を含めて4人だけで、「現代語訳 小右記」によると、道長の娘「妍子は多くの公卿や殿上人を従えて、東三条第から内裏の飛香舎に参入した」という。なお、「『小右記』と王朝時代」によると、この「小右記」は、『政務に精通し、その博学と見識は道長にも一目置かれ…治安元年(1021)、右大臣に上り、「賢人右府」と称され…頼通にもあつく信頼された」という藤原実資の日記で「21歳の貞元二年(977)から八四歳の長久元年(1040)までの六三年間に及ぶ記録で、…古代史の最重要史料」だといい、「かつて、多くの大学の日本史学(国史学)専攻の大学院では、古代史のゼミは『小右記』をテキストとした演習が行われていた」という。その4月27日の道長の日記「御堂関白記」には「指名しておいたのに参らなかった人は、右大将(藤原実資)〈「内裏に参っていた。三条天皇の召しによる」ということだ。〉・藤原隆家中納言〈今日、新皇后(藤原娍子)の皇后宮大夫に任じられた。〉・右衛門督(藤原懐平)〈長年、私と相親しんでいる人であるのに、今日は来なかった。不審に思ったことは少なくなかった。思うところがあるのであろうか〉。」としっかりチェックしていたといい、「藤原道長、『御堂関白記』を読む」によると、「元来が自己の主催する儀式への出席を非常に気にする道長であったが、欠席した人に対する考えを記すというのは、極めて異例のこと」というが、「さすが道長、翌四月二十八日には多数の公卿を中宮妍子の御在所に集めて、饗撰を設けた。…前日、娍子立后の儀に参入した四人の公卿のうち三人が馳せ参じている」という。
しかし、薫は、結局、帝の次女と婚約。ライバル匂宮は源氏の息子、夕霧に望まれ、気乗りしないまま、「確かにこの右大臣に睨まれてしまったら、不都合なことになるだろう」(瀬戸内寂聴訳))と断り切れず、六の君と婚約し中の君の所にはなかなか来なくなる。
中の君は薫に宇治へ帰りたいと訴えるが、薫はそれを断りつつ、中の君を口説くが、身重の中の君に拒まれる。匂宮は夕霧の六の君と六条の院で盛大に結婚。薫は中の君から亡き大君に似た異母妹がいることを聞き、薫の出生の秘密を知る出家した女房に会いたいと伝えてほしいと言って、「昔ここに泊まつたということがあると云ふ思ひ出がなかつたなら、此の山荘の木陰の宿に旅寝をするのも、どんなに寂しいことであらう」(谷崎潤一郎訳)と詠む。中の君は皇子を出産。薫は帝の女二の宮と結婚するが、宇治で大君の異母妹、浮舟を覗き見て心惹かれる。
写真 (匂宮は明石の中宮の勧めもあり、気の進まないまま夕霧の六の君と結婚するが、その美しさに魅せられていく。藤原隆能 著 ほか『源氏物語絵巻』,徳川美術館,昭11源氏物語絵巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
(51)東屋「さしとむる葎やしげき東屋のあまり程ふる雨そそぎかな」
その浮舟の母は娘を認知してもらえず、常陸守の受領の妻となり、多くの子がいる。浮舟に良い婿をとろうとして、縁組が決まるが、浮舟が継子と知って、受領の財力を当てにしていた男は怒り、仲人の提案で「なあに、構うものか、相手を乗りかえよう」と言い、「受領は『少将殿が真心から愛してやって下さるなら、大臣の位を望まれて、その運動費に、世にまたとない財宝を使い果たそうともならる時にも、当方ではすべてのものを御用立ていたしましょう』(瀬戸内寂聴訳)と答え、相手を代えて受領の実子と結婚。
受領の財力について。「王朝の貴族」によると、「できるだけのものを集め、中央に出すものは極力口実を設けてごまかし、一方では直接権門に取り入って心証を良くし、将来の栄達を図るというのが、当時の受領全般の風潮…。なかでも道長に対する受領のサービスはたいへんなもので、道長の御堂関白記にも、諸国司からいろいろの物、ことに馬を贈られた記事が数多く見えている。…莫大な品々を道長邸に運び入れ、人々は道路に群集してこれを見物した」という。また、「天皇と摂政・関白」によると、「明らかに道長主導で任命された受領」は6人程いて、「いずれも道長の家司(家政職員)であり、彼らが任国からもたらす富を道長家の家政にとりこむための人事である。このうち近江守となった…人物は、その後、大宰大弐となり」、「小右記」には、彼が任を終えて帰京したときには、「九国二島(九州全体…)の物、底を掃ひて奪い取る」と評されている」という。
怒った母は中の君の邸に浮舟を連れてきて、匂宮を垣間見て「その美しさに驚嘆する」とともに宮の前では貧相な男を婿に選んだことを恥じる。薫も宮に劣らぬ美しさなのに驚く。中の君の屋敷にいる浮舟を匂宮が見つけて口説く乳母がガード。事情を聞いた母が別の家に移すと、薫はそこを訪れる。突然の訪問で待たされる間、「葎がおひ茂つて門を鎖しているせいであらうか、あまり長い間雨だれの落ちる中で待たせることよ」(谷崎潤一郎訳)と詠む。亡くなった大君によく似た浮舟と一夜を共にし、満足して宇治に連れて行く。
写真 (秋の冷たい雨が降る中、薫は浮舟の隠れ家を突然訪ね、待つ間に歌を詠む。藤原隆能 著 ほか『源氏物語絵巻』,徳川美術館,昭11. 源氏物語絵巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
(52)浮舟「たちばなの小島はいろも変わらじをこの浮舟ぞゆくへ知られぬ」
中の君の邸にいた女(浮舟)を忘れられない匂宮の目の前で、浮舟から中の君への手紙が届く。探りを入れると、薫が浮舟を宇治に住まわせていることがわかり、宮はこっそり宇治へ行き、覗き見る。薫と勘違いした女房が匂宮を中に入れてしまい、匂宮は浮舟を手に入れてしまう。雪の中、再び宇治を訪れた匂宮。浮舟は情熱的な訪れに心を奪われ、月の輝く宇治川を小舟で渡る途中、浮舟は「橘の小島の緑の色は千年も変わらないでございませうが、波に浮いている此の舟は何處へただようてまいりますのやら、行く方もわかりませぬ」(谷崎潤一郎訳)と詠み、対岸の家来の家で二日を過ごす。やがて、二人の関係を薫は知り、二人は浮舟を京都に呼んでいつでも逢えるように準備をする。二人の貴公子の間で身の置き所のなくなった浮舟は宇治川に身を投げる。
皇族と臣下の女性を巡る争いといえば、「王朝の貴族」によると、道長と権力を争った甥の藤原伊周が通う女性に「花山院が通い始めた。…弟の隆家に相談を持ちかけ…隆家は…法皇が帰る所をおどかしてもうこりごりとさせるのがねらいだったのだろう、従者に矢をいかけさせ…矢は見事に法皇の袖を射抜いた」という。これが伊周失脚の原因となるが、花山院が通っていたのは伊周の思い人の妹だったという。そんな藤原隆家だが、道長は意外と気に入っていたようだ。「大鏡」にも「天下のやんちゃ坊主」と言われていたというが、「殊の外、肚ができている」と世人に思われていたという。伊周の騒動に連座して、出雲権守になったが、伊周が許されて京都に戻ったおりに、中納言に再任され、道長の賀茂神社参拝のおりに「後方に隆家卿がいらっしゃるのが気の毒で」道長「殿の御車に乗せ奉らせたまひて、御物語こまやかなるついでに『一年の事は、己れが申し行ふとぞ、世の中に言い侍りける。そこにも然ぞおぼしけむ。されど、さもなかりし事なり。宣旨ならぬ事、一言にても加へて侍らましかば、この御社に斯くて参りなましや。天道も見たまふらむ。いと恐ろしき事』」と伊周や隆家の流謫は自分の意向ではない旨、真剣に仰せられたという。また、道長の土御門殿にて御遊びがあるときに、『かようの事に、権中納言のなきこそ、猶さうざうしけれ』(こういう催しの折に、隆家卿が不在なのはやはりものたりないなあ)と「格別にお迎えの便りをさし上げ…、いみじうぞ持て囃しきこえさせ」(たいそう持て囃し歓待なさった)たと記す。藤原行成の「権記」にも長保五年(1003)五月に道長が宇治に遊覧した際に御供の中に、「権中納言(藤原隆家)」もいて「…天殿上人及び諸大夫で作文・和歌・管弦に堪能な者以外の者はいなかった」とある。
(53)蜻蛉「ありと見て手には取られず見ればまた行へも知らず消えしかげろふ」
浮舟がいなくなって大騒ぎとなるが見つからないまま、母は急いで葬儀をする。薫はあとから聞いて、どうして急いで簡略に葬儀をしたのか咎め、匂宮はショックで病となり貴族たちが見舞いに訪れる。浮舟を隠しているのではと思っていた薫も見舞いに行き、匂宮の様子をみてそうでないと思う。やがて四十九日が過ぎると二人は他の女たちのことに気が移っていく。たそがれどき、「いつも情けない結末におわった恋の一つを思い出しながら」薫は「故大姫君や中姫君は目の前にあるのが見えながら手に入れることが出来ずにしまひ、たまたま手に入ったと見えた浮舟君もまた行くへも知れず消えてしまつた。ほんたうに皆蜻蛉のやうに果敢ない人達ではある」(谷崎潤一郎訳)と独り言。
浮舟の死に触れた穢れを避ける人々が出て来るが、「天皇と摂政・関白」によると、「平安時代の社会の特徴として、穢れを忌避する観念が非常に強」く、「穢れに触れた者は、一定期間身…自宅に籠って外出を避け」なければならなかったが、「単なる迷信というわけでもなく、「穢れを忌避する観念は、平安京という空間と密接に関係している。…当時の日本‥-では最も人口の密集した空間で…疫病が入ってくれば、…、深刻な結果を生じることになるという面もあったようである」という。一条天皇の蔵人頭、藤原行成の日記「権記」を見ても、「穢」は度々出て来て、例えば、長徳4年(998)8月30日、一条天皇の母「東三条院に触穢がありました」、9月1日には一条天皇が「東三条院(藤原詮子)の穢は、連日、絶えない。聞くにつけ、怪しむことは少なくない」とおっしゃったと伝わる。また「藤原道長『御堂関白記』を読む」によると、折り合いの悪かった三条天皇が苦しんでいた「眼病平癒の最後の切り札と考えた」伊勢神宮への勅使派遣について、道長は「発遣の直前に関係者の周囲に『穢』を発生させ、発遣を延引させるという陰湿」な手段で妨害し、「結局、七回」延期されたという。
(54)手習
そのころ、横川に尊い僧都が住んでいて、母尼と妹尼とともに初瀬参りに行く途中、宇治で中宿り。そのとき女が倒れているのを見つける。妹は自分の亡くなった娘の代わりに初瀬の観音が授けてくれた人だと喜ぶ。その女、浮舟は何も覚えていないが、僧都の祈祷で回復。妹尼の亡くなった娘の婿に言い寄られた浮舟は出家を望み、僧都は妹尼の留守中に剃髪。浮舟は日々勤行しながら「心に浮かぶことを筆に託して思いつくままに歌を作ったりする」手習いをして日々を過ごす。明石の中宮に女一の宮の祈祷を頼まれた僧都は祈祷で女一の宮を回復させるが、中宮に浮舟の事を話す。それを聞いていた薫の情人は薫に話すと、薫は僧都に確かめようとする。
横川の尊い僧都というと、「往生要集を著した源信のことを、人々は『横川の僧都』といって尊崇していた」(瀬戸内寂聴)というから、実在の人物を想起させて物語にリアリティを与えたものだと寂聴はいう。なお、当時、書の三蹟の一人でもあった藤原行成の「権記」には寛弘二年(1005)九月一七日、道長に「道長に『往生要集』を返し奉った。新写した私の自筆を召された。そこで奉った。原本の『要集』を賜った。」とあり、道長が持っていた『往生要集』を行成が自ら書写するほど重視されていたこと、原本よりも行成の書を道長が欲したことが窺える。
中宮とも話ができる僧都といえば、「天皇と摂政・関白」によると、「僧官のなかでも最高位に位置する僧正・僧都・律師は僧綱と総称され、朝廷における公卿にも比すべき地位だった。…天皇との個人的な関係を示す肩書も存在し…その一つが護持僧」、「常に天皇のそばに仕え、天皇個人の身体を様々な危険から防ぐための祈祷を行う、護持僧と呼ばれる僧侶が出現…護持僧を経て僧綱へ昇進するというルート」があったという。
(55)夢浮橋
瀬戸内寂聴も「この大長編小説は、…唐突に終わっている」という、この壮大な物語にしては意外なエンディング。帖のタイトルも登場する和歌とも関係のない不思議な付け方。
4 物語の様々な分野への影響
「王朝の貴族」によると「その構想の大きさ、文章の巧妙さ、正確な写実の中にも夢を含ませた味わいの深さ、そして何よりも心理描写のゆきとどいていることなど、あらゆる面でそれまでの物語は圧倒されてしまう。いらい日本の文学の類は物語は言うに及ばず、和歌・連歌・謡曲・俳諧から近世の草双紙に至るまで、源氏物語の影響を受けない分野はなく、国文学史上最高の地位を千年間にわたって確保している」という。以下、『源氏物語講座 第八巻 諸本・源泉・影響・研究史』、「源氏物語の本文と受容 源氏物語講座8」等により、この物語がその後、どのように享受されてきたかを辿ると、この物語の影響の大きさが伺い知れる。
(1)文学
物語の写本は「限りなく多」く、「平安時代の末から鎌倉時代にかけて、既に六本の著名な存在」が知られ、更に鎌倉時代の二本、京極中納言定家本(別名、青表紙本)「定家卿本」と、「河内本」(北条実時書写の本)があるという。「足利将軍家、更に豊臣秀吉に伝来し、大阪落城と共に、徳川家康の手を経て、尾張徳川家の有に帰した」河内本は、徳川美術館の徳川家康旧蔵書。
「紫式部日記」でも、寛弘五年(1008)11月1日、道長の娘中宮彰子の第一皇子誕生五十日の祝いの折に、藤原公任が『あなかしここのわたりにわかむらさきはさぶらふ』と式部にたわむれたとあるから、貴族男子も読み、「更科日記」の作者は『源氏物語』五十余巻を伯母に貰った時、「引き出つつ…見るここち、后の位も何にかはせむ。」と貴族の女性を夢中にさせた。鎌倉時代以降は武士、江戸時代には活字本により町人にも広がる。延宝元年(1637)には、その後300年間、明治・大正になっても出版され続けた『湖月抄』」が出版。契沖の『源註拾遺』、賀茂真淵の『源氏物語新釈』、本居宣長の『源氏物語玉の小櫛』」などの注釈も出る。
井原西鶴の「好色一代男」は、「『源氏物語』の翻案あるいは模倣」と言われ、主人公世之介は「好色にかかわることのみに関してはいかに『さとうかしこくおはす』(源氏・桐壺)かが次々と具体化される。これが万事に聡明な光源氏を描く『桐壺』の一節を契機に、その道に関してのみ聡明な」主人公を「可笑しく描きあげ」ているという。本居宣長は「今のよにあまねく用ふるは湖月抄なり」と『源氏物語玉の小櫛』」に記したが、『「好色一代男』には、ある太夫(最上級の遊女)に源氏物語を借りに人を遣わしたら、写本ではなく、版本の湖月抄をおくられて、「此の里の太夫もすえになるかな。…『源氏物語』は版本ではなくしかるべき写本で読むものだというような意識があり、遊女の太夫の品格が落ちたことをそれによって象徴させた」場面があるという。
松尾芭蕉も「源氏物語」の影響を強く受けたと言われ「奥の細道」にも「…たそがれの路たどたどし。…いずれの年にか、江戸に来りて…。市中密かに引入れて、あやしの小家に、夕顔・へちまのはえかかりて…さては此のうちにこそと門を叩かば、侘しげなる女の出て…」というくだりが「『藤浦葉』…、『桐壺』…『夕顔』の光源氏が夕顔を訪れる場面を踏まえている」部分だという。
「草双紙」と呼ばれるジャンル。柳亭種彦作・歌川国定画「偐紫田舎源氏」は、足利義政の時代に「光源氏のなぞらえた足利光氏が山名宗全の陰謀を挫くという筋」に翻案。「父の自分への偏愛を憂え義兄の義直(朱雀院)の義理から義母藤の方(藤壺)と不義を見せかけ父に疎まれようとする」光氏(光源氏)は、家督を「義正長男義直に譲らせようと好色にふけるあたり義理、人情と読者の興をそそり、共感をもたせる」ストーリーで、「熱狂的に受け入れられたため、…天保改革の風俗矯正の一環として絶版処分を受けるが、…浮世絵に源氏絵と呼ばれるジャンルを生み出したことでも知られるように、大きな影響力を持っていた」という。
現代語訳も多く、最近でも円地文子、田辺聖子、瀬戸内寂聴、角田光代など女性の訳が多いが、歌人与謝野晶子も現代語訳。明治45年に晶子の「新訳源氏物語」の序に「源氏物語の訳をするのは現世において与謝野晶子女史をおいて他にない」と寄せたのは文豪森鴎外。その中巻を校了した与謝野晶子が欧州旅行に出発したと明治45年5月4日の読売新聞は報じる。「「紫式部は私の十一二歳からの恩師である」と語り、「十一人の子の第一子に光、末子を藤子とそれぞれ命名」した晶子は、この「新訳源氏物語」について「粗雑な解と訳文をした罪を二十数年恥じ…いつかは…完全なものに書き替えたいと願って」いたが、28年後に「新新訳源氏物語」を出す。
谷崎潤一郎は、生涯に3回源氏物語を訳したという。昭和16年夏に完成した最初の訳全26巻の谷崎潤一郎本は、巻23までの物語に加え、巻24、巻25は源氏物語和歌講義上・下として和歌の解説、巻26にある登場人物の系図だけで90頁程。本稿でも物語の各帖のタイトルに引く歌は谷崎の26巻の「源氏物語梗概概要」により、その訳は巻24、巻25の「源氏物語和歌講義上・下」によった。巻26のあとがきには「近頃預約出版法の取締りが厳しく、此の出版の完結を急ぐようにとの其の筋からの督促があった」と太平洋戦争開戦直前の当時の状況を物語る。
谷崎の最初の訳は「時あたかも日華事変の最中で軍部の忌避に触れぬよう、この現代語訳では光源氏との藤壺との密通事件を歪曲、省略せざるを得なかったが、戦後、これを不満とし、訳文にも全面的に手を入れ『潤一郎新訳源氏物語』を刊行…さらに『新新訳』ではそれを新かなづかいに改定」したという。
和歌。源氏物語には749首の和歌があり、建久4年(1193)に藤原良経主催の12名の作者による『六百番歌合』で判者藤原俊成が述べた判詞の中に「源氏見ざる歌詠みは遺恨の事なり」という言葉に和歌の世界でのこの物語の影響がうかがえる。「和歌創作の際に古典作品に沈潜しながら、その世界を受容し新たな世界を形成」したという新古今和歌集や百人一首の選者、藤原定家。「その基盤となる重要な古典作品の一つに源氏物語がある」といい、例えば、定家の「かたみとぞたのみしことのかひもなく中の緒のたえやはてなん」の歌は、「明石の巻」で都への出立のために別れの場面で「『琴はまた掻き合わすまでの形見に』」と源氏の君が言い、「逢ふまでの形見に契る中の緒のそらべはことに変わらざらなむ」と詠んだ歌を踏まえたものという。南北朝期から室町末期には「新興の連歌において、…源氏による句が多く見え」るといい、連歌師は物語の「大部の内容に精通していることが求められた」という。足利「将軍を輔け、織豊二氏に仕え」、「文武の諸道に達し」、「朝廷より帝王の師範となり神道歌道の尊師と称せら」れたという戦国武将細川幽斎(ガラシャ夫人の夫である細川忠興の父)は「この物語を繰り返し百篇、こまかに読みたらむには、それやがて歌学成就なりとといはれぬ」と語る。与謝野晶子の歌にも「「美しく物を思へる牡丹かな浮舟という姫ぎみのごと」にように「明らかに源氏物語を下敷きとして「~のごと」と比喩表現をした作品がある」といい、晶子の『新新訳源氏物語」の各帖の扉には、晶子自身の各帖にちなんだ自筆の歌が載せられている。
写真 (近松の「好色一代男」にも登場する、1637年から300年間も出版され続けたという「源氏物語湖月抄」の「桐壺」の部分 湖月抄 [1] - 国立国会図書館デジタルコレクション)
写真 (足利将軍家のお家騒動に擬した「偐紫田舎源氏」。左頁に「種彦作 国定画」とある。この38編で絶版処分に。偐紫田舎源氏 第37-38編 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
写真 (開戦直前に出版された谷崎潤一郎の美しい装丁の「源氏物語愛蔵本」巻24、25は「源氏物語和歌講義上・下」源氏物語 卷二十四 愛蔵本 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
(2)海外への広がり
源氏物語は、日本文化が世界に知られるきっかけの一つともなった。1925年、イギリスのアーサー・「ウエーリの訳による『源氏物語』の第一巻が出たとき、欧米の批評家たちはその規模が雄大なのと、そこに伺われる彼らがそれまで想像もしなかった世界に圧倒された」と日本文学者ドナルド・キーンは言う。1940年、コロンビア大学の学生だったキーンは「当時の私は大学生で、お金がない。…タイムズスクエアの近くに行く毎にこの本屋に立ち寄っては、売れ残った本や掘り出し物を探していました。そんなある日、箱に入った二冊の本を見つけました。それは『源氏物語』のアーサー・ウェイリーによる英訳本で、値段は四十九セント。その安さに驚きながら、家に持ち帰って読んでみると、そこには全く未知の世界が開けていたのです。…『源氏物語』の何にそれほど感動したか。まず、そこには戦争がまったくないことでした。さらに、登場人物がまるで美だけのために生きているように思えたことです。私はこの素晴らしい本の舞台となった時代や著者についてもっと知りたいと思うようになりました。…『源氏物語』は世界の文学の中で最も美しい作品でしょう。…一九四〇年、ヨーロッパでの戦争が拡大し、ドイツ軍がノルウェー、デンマーク、オランダ、ベルギー、フランスを占領し、秋にはロンドンの空爆が始まりました。…そんな頃、まったくの偶然に『源氏物語』を発見したことで救われたのです。戦争のない美しい文学に広がる世界に、心を癒され、これが私を生涯の仕事へと導くのです。…『源氏物語』は日本から世界への最高の賜物でしょう」。第二次世界大戦中、海軍日本語学校を総代で卒業した彼は、1944年にはハワイ駐留中にハワイ大学で日本文学の講義を受け「源氏物語」などを原文で読み、1953年には京都にも留学して、谷崎潤一郎や三島由紀夫ら文豪とも交流。能・狂言も学び、その後長く日本文学を広く海外に知らしめることとなる。そのキーンによるとウェイリーの翻訳は「一節を完全に理解ができるまで読む。それで次には、原文に戻ることなく、頭の中にある内容を自分の英語で書いてしまう…。…そして翻訳された文章の内容と原文と合っていれば、原文にない言葉が少々付け加わっていようが、あるいはいくつか落ちていようがそれでよしとする」という。先ほどの藤原定家の歌にもあった、「明石」の帖で、都に戻る源氏の君が明石の君に琴を弾いてほしいと頼む場面で、与謝野晶子の「新訳源氏物語」だと「私も弾くから。あなたも聞かせてください。さうして其れを思ひ出にしませう。」という場面が、ウェリー訳だと「ささやかな曲を一曲演奏し てくれないだろうか、君を思い出すために。それを頭の中に入れて運び去れるように」というのは、源氏の君の気持が一層滲むような気もする。
今日、多くの国の言葉に訳されているこの物語は、海外での日本文化を紹介するイベントではしばしば重要なテーマ。2019年には東京オリンピックの前に日本文化を広めるニューヨークでのイベントの一つとして、『源氏物語』展 in NEW YORK~紫式部、千年の時めき~」を開催。
(3)絵画・工芸
まずは国宝「源氏物語絵巻」。本稿でもお借りしたこの絵巻は五島美術館のWebsiteによると「物語が成立してから約150年後の12世紀に誕生した、現存する日本の絵巻の中で最も古い作品…。『源氏物語』54帖の各帖より1~3場面を選び絵画化し、その絵に対応する物語本文を書写した「詞書」を各図の前に添え、「詞書」と「絵」を交互に繰り返す形式…は54帖全体の約4分の1…が現存」し、徳川美術館と五島美術館などで収蔵。徳川美術館のWebsiteによると「人物は引目鈎鼻、建物は吹抜舞台の手法による大和絵で、静謐な画題の中に物語の世界観や登場人物の心理を見事に表現…美麗な料紙に流麗な筆致で描かれた詞書とともに原作に近い時代の雰囲気をよく伝えて」いるという。
「紫式部日記絵巻」は五島美術館のWebisteによると「『紫式部日記』を、約二百五十年後の鎌倉時代・十三世紀前半に…絵巻にしたもの」。こちらも国宝で、「紫式部日記」の約四分の一にあたる四巻分が五島美術館などに現存。東急会長だった五島慶太翁が創立し、開館目前に亡くなったという上野毛の閑静な住宅街にある五島美術館の美術館案内によると「国宝『源氏物語絵巻』、『紫式部日記絵巻』にふさわしい寝殿造りの意匠を随所に取り入れて」いるといい、敷地約20,000m2、庭園には四季折々の花が咲き、庭の茶室も趣深い。
この他、狩野永徳の「源氏物語図屏風」は宮内庁の収蔵品。俵屋宗達の「源氏物語関屋澪標図屏風」は、三菱の岩崎家が収集した美術品を収蔵する静嘉堂文庫美術館の国宝。昭和の建物として初めて重要文化財に指定された丸の内の明治生命館に2022年にオープンしたこの美術館は、三菱第2代目社長、岩崎彌之介(創業者:岩崎彌太郎の弟)、その息子、第四代社長、小彌太の親子二代で蒐集した国宝7点などの美術品を収蔵。建物自体が美術品のような内装も壮観。丸の内の一等地にこんな美術館を作ってしまうのは、さすが三菱である。
工芸。徳川美術館のWebsiteによると、寛永16年(1639)、三代将軍家光の娘千代姫が尾張徳川家に嫁いだ時の国宝「千代姫婚礼道具」には「初音」や「胡蝶」の帖、「宇治十帖」にちなんだものが多数あるという。「初音の調度」は「『源氏物語』『初音』帖『年月を松にひかれてふる人に今日鴬の初音きかせよ』の歌意を主な意匠としているため『初音の調度』と呼ばれ…47件、『胡蝶』帖にちなむ『胡蝶の調度』10件ほか70件が現存」。「徳川美術館の1万件余りの所蔵品の中での一層、輝きを放つ、世界に誇る不朽の名品で…計70点が一括で伝わる、江戸時代を代表する蒔絵の名品」だという。
このような逸品に限らず、江戸時代になると浮世絵師が「源氏絵」を描く。「源氏絵」という、色紙形や扇面、或いは屏風に書く場面を描いたもので名場面がパターン化。源氏絵が多く描かれたのは室町時代以後で、装身具・調度品のデザインにも使われ、江戸後期になると浮世絵の世界で源氏物語に題材をとる趣向が流行したという。
源氏物語の絵や詞は、遊戯具の中にも使われ、”源氏貝”(平安時代以来おこなわれてきた貝合せを基にしたもので、両片の貝の裏に源氏物語の絵やを書き歌かるたのように取り合う遊び)、”源氏かるた”、双六、羽子板にも源氏絵があしらわれたという。浮世絵では、鈴木春信は「古典の中身を現代に見立てた絵」を描き、柳亭種彦作の「偐紫田舎源氏」の画を描いた歌川国定は「新たな浮世絵、”源氏絵”を生み出した」という。
写真 (寝殿造りの意匠を随所に取り入れているという上野毛の閑静な住宅街にある五島美術館。photo by Shigeo Ogawa 五島美術館提供)公益財団法人 五島美術館 (gotoh-museum.or.jp)
写真 (『源氏物語の場面を取り入れた「源氏発句双六」五十四帖源氏発句双六 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
(4) 能楽・文楽・歌舞伎
当然、伝統芸能の題材に。まずは能楽。「中世の能楽(謡曲)では数多く取り入れられており名曲が多い…観客が武士や公卿などの知識層だったので、作者たちも古典文芸や仏教を素材とした」からといい、流儀による違いはあるが、240程あるという能の演目のうち、「いわゆる「源氏物」は10曲(「葵上」「浮舟」「落葉」「碁」「須磨源氏」「住吉詣」「玉鬘」「野宮」「半蔀」「夕顔」)」あるという。能楽協会のWebsiteによると『葵の上』では、舞台正面手前に「病床の葵上を表す小袖が置かれ」、六条の御息所の生霊が…、「次第に激高して、後妻打(うわなりうち=室町時代から江戸時代初期、離縁された先妻が後妻の家を襲う民間習俗…、前妻が後妻をねたみ打つこと)で、葵上の小袖に向かって打ち据え」る。三島由紀夫は「簡素で、見事な構成を持っているので、私の好きな能の一つ…葵上の病臥の姿を衣一枚を舞台に横たへるだけで表現したのも、能の心にくい工夫」と評する。なお、「うわなりうち」の記録として、道長の「御堂関白記」にも、「輔親の宅に、殿の家の雑人が多く到って、濫行を行いました。…これは…女房の『うわなり打ち』です。」と、道長五男教通の乳母が、前夫大中臣輔親宅である六条院を襲撃したとの記事がある。
もともと生者ではなく、霊を演じることが多い能。物語でも生霊が登場する六条御息所だけでなく、生身の女性である浮舟、玉鬘も夕顔も能では霊として登場。
浄瑠璃・歌舞伎。「もともと庶民の中から生まれた芸能だったので、劇的内容に乏しい源氏物語は…あまり劇化されることがなかった」といい、「浄瑠璃では、六条御息所と葵上の争いを扱い最後に御息所が成仏して終わるという『あふひのうへ』や、紫式部が…、光源氏の供養をしなかったために地獄に堕ち、石山観世音の功徳で成仏するという、近松作とみられる「源氏供養」が主な作」品として残るくらいだという。
歌舞伎。「江戸期には「今源氏六十帖」(元禄八年)、『源氏六十帖』(元禄十六年)、「源氏供養(宝永二年)が…末期になると、…パロディ化することが盛行」。「偐紫田舎源氏」も「天保九年三月に市村座で…劇化されたが」、原作同様、天保の改革で差し止め。明治以降は、「いずれも六条の御息所の生霊の件だけを扱った」という明治四〇年「「葵上」が中村芝翫(五代目中村歌右衛門)のために書き下ろされ」、昭和五年に「『源氏物語葵の巻』が書かれ、尾上梅幸が演じた」という。しかし、戦争が影を落とす昭和八年(1933)、「新宿の新歌舞伎座で「源氏物語((帚木の巻から須磨の巻)」の上演が警視庁の検閲で「主要人物が上つ方の人物であること、数人の女性との連続的恋愛生活を扱っているのが現在の社会情勢の下では悪影響を及ぼす」との理由で不許可。「新劇場では脚色しなおし、今度は主要人物はある時代の貴族とし、恋愛は全部削除することを決め、…改訂脚本を…提出…一字一句も訂正の必要なしということだったので、劇団では勇躍して上演の準備に取り掛かった」という。源氏物語から「恋愛を全部削除する」と何が残るのかは疑問だが、その後、「思いがけず不許可の命が下った。…新劇場では…一同が集合し、止むなく上演を断念することを決めた。劇団では衣装やその他で一万二、三千円の損害を被ったが、…衣裳や大道具などを陳列し、識者の観覧に供して、『源氏物語葬』を行い、せめてものうっぷん晴らしとした」という。
昭和20年の終戦。「GHQ‥-は十月に…演劇界に関わる興行等取締規則の廃止・統制廃止を指令し、民主主義演劇の確立を求め…歌舞伎興行に対しても上演狂言の三分の一以上を新作脚本にすることなどを指令…。…源氏物語上演の条件はようやく調」う。「映画の中の古典芸能」によると、戦災で焼失した歌舞伎座は昭和26年に再開場。「二か月の再開場記念興行のあと、三月四日初日(二九日まで)大歌舞伎第一部に『源氏物語』が上演…。…観客動員とどう結びつくのかは未知数であったので、歌舞伎十八番『勧進帳』…を併演し…夜の部は『暫』『神霊矢口渡』『夕顔棚』『助六由縁江戸桜』・歌舞伎十八番を三つも並べた。その「源氏物語」(舟橋聖一脚色、谷崎潤一郎監修…紫式部学会・日本文芸家協会・朝日新聞社文化事業団協賛)は、前半約三分の一に当たる『桐壺』「空蝉」「夕顔」「若紫」「紅葉賀」「賢木」を六幕に構成…。猿之助(猿翁)の御門、梅幸の桐壺の更衣・藤壺女御、笑猿(岩井半四郎)の若き光君、橋蔵の葵の上、海老蔵(十一代目團十郎)の光君、…二代目松緑の頭中将、…の配役。…大して入らないと劇場側が半ばあきらめていた歌舞伎座の『源氏物語』が前売り開始と同時に殆ど売り切れて六白円の入場券に二千円のプレミヤがついたり…いつもなら八百万円どまりの仕込み費を千五百万円(そのうち源氏物語だけで千百万円近く)も気張り、赤字を覚悟でイチかバチかの冒険を試みたのだが、…前売りは飛ぶように売れるし、先月まで半分くらいしか入らなかった三階席まで学生で満員、立見席の入口なんか延々長ダの列」となり、「時間がはみ出して、第二幕全四帖と第三幕第一場をカットしてしまった。ところが観客から苦情は百出、…興行の安全弁につけた『勧進帳』をやめてもカットした部分を出せとの投書が、しきりに舞い込んだ」という。大好評を受け、「『源氏物語』は十月に改訂・増補として再び上演…、『勧進帳』併演をやめて、昼の部一本建て、『須磨源氏』を加えた」という。「『源氏物語』を原文から舞台化するのは、歌舞伎の長い歴史の中でも画期的な企画」だと言い、昭和27年、29年、32年などと「繰り返すことによって演技・人気が充実して『海老様ブーム』を起こしていった」という。
最近でも、昨年、「歌舞伎座10月公演の夜の部では、紫式部による五十四帖に及ぶ長大な全篇のうち、光源氏とその妻・葵の上、六条御息所の三者の恋愛模様を新たに描く『六条御息所の巻』を上演」(坂東玉三郎:六条御息所、市川染五郎:光源氏)。この演目を含む10月歌舞伎の夜の部は満席で席が取れず。
写真 (能楽『葵の上』の図。「葵上の病臥の姿を衣一枚を舞台に横たへるだけで表現」する。能樂圖繪 前編 上 - 国立国会図書館デジタルコレクション 音声は以下から。葵上(八)恨めしの心や - 国立国会図書館デジタルコレクション)
(5)映画、ラジオ、テレビ、漫画、宝塚
伝統芸能だけではなく、現代も舞台や映像で度々取り上げられ、当代の美男美女が演じる。「近代の享受と海外との交流」によると、歌舞伎の「舟橋源氏に二年おくれ、北条秀司の源氏物語劇が生まれた。その最初は二十八年七月明治座初演の『浮舟』」。これは昭和26年の「婦人公論」の年間読者賞の作品。「各方面から上演の希望があり、…結局中村歌右衛門が松竹大谷社長に直談判して、吉右衛門劇団が明治座で上演」、ラジオでも「NHKが…初めての長時間放送を行い、全国の聴取者を独占して成功を収めた」という。この「浮舟」の上演については、「日本商業演劇史」によるとすったもんだがあったようで、「芝居道で『揉めた芝居ほどよく当たる』という古言があるが、まさにその通りで『浮舟』は舞台営業両面に大のつく成果をあげた」という。
舞台劇「浮舟」の成功が、その後に「空蝉」(29.7)「妄執」(30・2)「末摘花」(30.11)「明石の姫」(32・2)「続明石の姫」(32.10)「落葉の宮」(34.6)「光源氏と藤壺」(36.7)「現代訳源氏物語」(53.1)等のほか、歌劇の「朧夜源氏」(36.1)舞踊鷁の「うきくさ源氏」(33.4)「若菜源氏」(42.5)など、数々の北条源氏の作を生み脚光を浴びさせた」という。
この頃、喜劇役者エノケンも登場。「映画の中の古典芸能」」によると、「『源氏ブーム』にあやかって、二七年三月一日初日で帝国劇場で谷崎潤一郎作『鴬姫』のパロディーと称する『浮かれ源氏』が登場…(エノケンの光源氏、笠置シヅ子の京極姫…)」。
三島由紀夫にも「能楽(謡曲)を現代風にアダプト」した一幕物集の「近代能楽集」があり、昭和29年1月号の『新潮』に発表された「葵上」は、若林光が入院中の妻葵を見舞うと、真夜中に六条康子の生霊が現れて葵を苦しめる話。三島は「スリラー劇みたいな要素もあり」近代能の作品の中で「一番気に入っている」という。昭和三十年(1955)に第一生命ホールで文学座により上演。
映画。以下、「映画の中の古典芸能」によると、まずは昭和二十六年(1951)に「大映創立10周年記念作品として公開された『源氏物語』(永田正一制作、谷崎潤一郎監修、池田亀鏡校閲、吉村孝三郎監督…)が初めての映画化」で「当時の”源氏ブーム“に応えたもの」だという。キャストは光源氏(長谷川一夫)、藤壺(木暮実千代)、淡路の上(京マチ子)、紫の上(乙羽信子)でカンヌ映画祭撮影賞受賞。
続いて昭和三十二年(1957)に「『源氏物語 浮舟』…、北条秀司原作、衣川貞之助監督・脚本、八尋不二脚本)、薫(長谷川一夫)、匂宮(市川雷蔵)、浮舟(山本富士子)」。昭和三十六年(1961)には「『新源氏物語』…、川口松太郎原作、森一生監督、八尋不二脚色)、光源氏(市川雷蔵)、藤壺・桐壺(寿美花代)、朧月夜(中村玉緒)、葵の上(若尾文子)、末摘花(水谷良重=現二代目水谷八重子)…」とこの辺りになると、知っている俳優も出てくる。その後、昭和41年(1966)「『源氏物語』…、武智哲司制作・監督・脚本)、光源氏(花ノ本寿)、藤壺女御(芦川いずみ)、…紫の上(浅丘ルリ子)…明石女御(山本陽子)」。昭和62年(1987)にアニメ映画「『紫式部 源氏物語…、杉井儀サブロー監督、筒井ともみ脚本)」が上映。平成に入ると13年(2001)に「『千年の恋 光源氏物語』…、堀川とんこう監督、早坂暁脚本…)。紫式部(吉永小百合)、光源氏(天海祐希)、紫の上(常盤貴子)、藤壺中宮(高島礼子)、大后(かたせ梨乃)、朧月夜(南野陽子)、明石の君(細川ふみえ)、六条御息所(竹下景子)、揚羽の君(松田聖子)、他に源典侍(岸田今日子)、清少納言(森光子)など」、若い人でも知っていそうな豪華なキャストも登場。
テレビ。1980年にはTBSが「特別企画『源氏物語』」。TBSチャネルによると「主人公・光源氏に…沢田研二を抜擢。光源氏と恋物語を繰り広げる8人の女たちには、八千草薫、十朱幸代、いしだあゆみ、倍賞美津子、藤真利子、風吹ジュン、叶和貴子、渡辺美佐子ら華やかな女優陣…脚本家・向田邦子は、豪華絢爛な平安絵巻という以外に、愛の喜び、はかなさ、また運命の不思議さなど光源氏と彼をめぐる様々な女性の生涯を生き生きと描き出した」という。TBSは1991年には『源氏物語』を「創立40周年を記念して総制作費約12億円を投じ製作…。…光源氏を青年時代・東山紀之と壮年時代・片岡孝夫…大原麗子が光源氏の初恋の女性・藤壺女御と…紫の上の二役に扮し、…語り手は、三田佳子が作者・紫式部に扮し、藤原道長(声:石坂浩二)との掛け合いを交えて物語の進めていく。その他、若尾文子、竹下景子、長山藍子、沢口靖子、泉ピン子ら主演級の俳優・女優が続々登場!超豪華キャストが勢ぞろい」という。
勿論、漫画にもなる。1979年から93年まで連載された大和和紀の「あさきゆめみし」は「当時の貴族の最高の趣味・趣向を…見事なビジュアルとして結晶している」作品で英語版もあるといい、他にも「恵川達也の『下源氏物語』(集英社)、牧美也子の『源氏物語』(小学館)、小泉義弘の『大掴源氏物語 まろ、ん?』(幻冬舎)など」があるという。
宝塚。宝塚歌劇団のWebsiteによると「光源氏は男役にとってまさに理想の役」だという。「創立まもない1919年に早速『源氏物語』が上演され…その後も何度か企画され、1952年の白井鐵造構成・演出『源氏物語』には、白薔薇のプリンスという異名を持つ宝塚歌劇の至宝、春日野八千代が主演。まさに当たり役となり、高貴な美しさで話題をさらった」という。「白井鐵造と宝塚歌劇『レビューの王様』の人と作品」によると「まるで平安朝文学のみやびな物語絵巻から抜け出たような、優雅で、気品に満ちた光源氏を演じた」春日野は「源氏の衣装にシャネルの五番を振りかけて出てきた」、相手役には八千草薫(若紫)、有馬稲子(葵上)」らという「豪華で贅沢な舞台」だっという。後に宝塚歌劇団の理事になり、2012年に逝去した春日野八千代の遺影は若き日に演じた光源氏だったという。
「光源氏、光源氏と、世上の人々はことごとしいあだ名をつけ、浮ついた色このみの公達、ともてはやすのを、当の源氏自身は味気ないことに思っている」(眠られぬ夏の夜の空蝉の巻)で始まる田辺聖子の「新源氏物語」は、「光源氏の愛と葛藤の物語を、新鮮な感覚で〈現代〉のよみものとして描」き、54帖の物語を再構成。宝塚にマッチしたのか、1981年に月組公演「新源氏物語」を上演。宝塚歌劇団のWebsiteによると、「全盛期をむかえた、当時月組トップスター・榛名由梨が光源氏を、上原まりが藤壺の女御を演じ…1989年には月組で再演、光源氏を剣 幸、藤壺の女御をこだま愛が演じ」、2015年にも明日海りおの光源氏で再演。源氏の君の正妻葵上から兄帝の娘で晩年に妻となった女三宮と柏木の不義までを描く。
宝塚は大和和紀の漫画「あさきゆめみし」も舞台化。平成12年(2000)草野旦脚本・演出で愛華みれの光源氏が登場。同年にはテレビでも宝塚歌劇団花組による「『源氏物語 あさきゆめみし Lived in a Dream」…、三枝健起監督、唐十郎脚本)、光源氏(愛華みれ)、桐壺の更衣・藤壺の女御(大鳥れい)」も放送。平成19年(2007)に草野旦脚本・演出『源氏物語 あさきゆめみしⅡ』(春野寿美礼の光源氏)が、20年(2008)に大野拓史脚本・演出源氏物語千年紀頌『夢の浮橋』(瀬奈じゅんの匂宮、羽桜しずくの浮舟、霧矢大夢の薫、萬あきらの光源氏)が登場。なお、宝塚には現在、花・月・雪・星・宙の5組があるが、花組と月組は、大正10年(1921)、観客数の増加に対応するため第1部を「花組」、第2部を「月組」とする2組制で公演を行うようになった最も歴史ある組だという。
こうして見ると、映像や舞台の世界では物語で源氏の君に最も愛された紫の上より、葵上、六条御息所、明石の君、浮舟など薄幸な姫君たちが中心になる事が多いようだ。
写真 (左「浮舟」の中村勘三郎と中村歌右衛門 日本商業演劇史 - 国立国会図書館デジタルコレクション。右「空蝉」の舞台。水谷八重子と市川中車 日本商業演劇史 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
写真 (2015年の『新源氏物語』が上演された東京宝塚劇場の内観。日比谷の帝国ホテルの対面に21世紀の幕開けと共にリニューアルオープン。特徴的な尖塔のある建物のエントランスには赤い絨毯が敷かれ、光り輝くシャンデリアがエレガントな空間を演出。宝塚歌劇の夢の舞台を支える。東京宝塚劇場 | 宝塚歌劇公式ホームページ)
(6)香道
当時は貴族の日常生活に欠かせなかった香の文化は、香道に残り、物語にちなんだ「源氏香」という遊びは、重複しうる5種類の香木を焚いて、その異同を判じ、「源氏香図」と呼ばれる図柄で表す。「源氏物語」全54帖のうち、巻頭の「桐壺」と巻末の「夢浮橋」を除いた52の帖名が図柄となり、全52通りの組み合わせに付されているという。「2008年度 京都の美術・工芸展 源氏香の世界」によると、「簡素に幾何学的な図柄は意匠文様として好まれ、…『偐紫田舎源氏』が評判になりますと、木版刷りの錦絵にこの源氏香図がしばしば登場…源氏物のもてはやされる中、源氏香図は象徴のように多用…能楽や歌舞伎の舞台装置、蒔絵意匠、女性の小物の意匠、生活工芸品の透かし文様などさまざまなところにあしらわれ、…明治以降も…建築の壁面や釘隠し、欄間や襖の意匠などにも広がりを見せ…今も伝統的な源氏香図文様の和菓子が市販され…企業の商標や社章にも使われて」いるという。
写真 (京都、鴨川のほとり、六代目が昨年「現代の名工(和菓子製造)」を受賞した創業160年の和菓子の老舗「甘春堂」の「源氏の調べ」。源氏香図の「若紫」「紅葉賀」「須磨」「若菜下」を図案化した風雅なお干菓子。甘春堂提供「京都・京菓子の老舗 甘春堂 本店 | 会社概要」)
(7)源氏名など
辞書で「源氏」を引くと「源氏合」、「源氏絵」、「源氏絵合」、『源氏雲」、「源氏香」、「源氏国名」、「源氏酒」などと『源氏物語』にちなんだ言葉が出てくる。「源氏酒」(二組に分かれて源氏物語の巻名や人物名を応酬しつつする酒宴の遊戯)といっても源氏物語になじんでいない身にはちっとも酔えない気もするが、きっと知られているのは「源氏名」。「広辞苑」によると、「(1)源氏物語の巻名にちなんでつけられた女官の名。早蕨典侍、榊命婦など。のち武家の老女や遊女の呼び名。…(2)バーのホステスなどの、職業上用いる呼び名」だという。「夕顔」、「蛍」なら今でもありそうだし、「葵」や「若紫」だと高貴な感じもするかもしれないが、「雲隠」とか「夢浮橋」という人が出てきたらきっとたまげる。
(8)教育
「源氏物語」は、古くから学校教育でも取り上げられている。例えば、明治24年の文部省の「小学校教科用書 高等小学歴史」には、藤原氏の時代、「才媛輩出」の中で一条天皇の時代に多くの人材を輩出したが、女性の中で筆頭に出て来る紫式部は「石山寺ニ於テ、源氏物語五十四帖ヲ著ス。文辞精妙ナリ」と紹介されている。昭和18年(1943)の文部省の「初等科国語 教師用 第7」を見ると、若紫や紅葉賀の帖があり、「源氏物語の価値とその作者紫式部を紹介し、更にこの物語の極めて少部分を教材化して、すぐれた作品の一班を窺わしめようとするもの」で、「源氏物語五十四帖は、わが国の大小説であるばかりでなく、今日では世界的に批評され称賛されているのである。英國人ウェーリの翻譯以来、特に文芸批評家の注目する所となった。」という。
現在の高等学校の国語の教科書でも、例えば、三省堂のものでは「桐壺」、「若紫」の帖が取り上げられていて、大学入試でも出題。今年の大学入試共通試験の「国語」の古文で2014年の大学入試センター試験以来11年ぶりに源氏物語(若菜下の帖)が出題されたという。
写真 (昭和18年の文部省の教師用の初等科国語。紫式部を紹介し、最後のパラグラフに「源氏物語五十四帖今日では世界的に批評され称賛されている」とある。初等科国語 教師用 第7 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
写真 (紫式部が源氏物語を書いた屋敷があったという蘆山寺の節分の豆まき。)
5 おわりに
名前も生没年も知られていない紫式部。「紫式部日記」は、中宮彰子の当時の後宮の様子を知る貴重な資料だし、「現代語訳 小右記」によると、中宮彰子や実資からも信頼されていたのか、長和二年(1013)頃、「道長と彰子の確執も表面化し、実資は彰子と頻繁に接触する。その間の取次役を担ったのが、かの紫式部であった。」という。藤原定家の選んだ百人一首には、友との慌ただしい再会を惜しむ「めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に雲がくれにし 夜半(よは)の月かな」という紫式部の歌が残る。
彼女が源氏物語の着想を得たという石山寺は、「枕草子」、「蜻蛉日記」、「更級日記」にも登場する「平安文学開花の舞台」であり、源氏物語を書いたという屋敷跡は京都御所の近く、蘆山寺。節分の時には赤鬼、青鬼、黄鬼などが登場して盛大に豆まき。大河ドラマの影響もあるのか昨年の節分はさほど広くない境内は人で埋め尽くされた。
紫式部直筆の源氏物語は残っていないし、道長が「昼夜を忘れて」建立した法成寺は、40年後に焼失し。道長の時代に望月となった摂関政治もその子頼通が入内させた娘たちに皇子が生まれずに外戚関係が途切れて終焉。
それでも戦国の世を生き延びた細川幽斎は「嘗て世の中に便となる書はいかなる書に候かと問ひしに、幽斎、そは源氏物語なりと答えらる。歌学のためには何がよからむと問われて、それも源氏物語なり」と答えたと言うこの物語、武を好んだという家康も、将軍を秀忠に譲った後、大御所時代の記録「駿府記」によると大坂冬の陣の年、慶長19年(1614)7月21日、ある公卿から源氏物語講釈を聴いたという。奇しくもその日、家康は「大仏鐘銘、関東不吉の語、上棟の日、吉日にあらず。御腹立ちと云々」とあり、豊臣家に方広寺の鐘の銘文にクレームをつけて、大阪冬の陣へとつながっていく。慶長20年(1615)大阪夏の陣で豊臣を滅ぼした後も何度か源氏物語を聴いたという。
「源氏物語」は学校でも多くの生徒が習うなど今も様々な形で触れる機会があり、2024年にも静嘉堂文庫美術館で「平安文学、いとをかし ―国宝「源氏物語関屋澪標図屏風」と王朝美のあゆみ」が開催。最終日前に行ってみると1月の三連休中でもあり、見学者で大賑わい。また、2025年には、開館90周年を迎える徳川美術館では、4月12日から「初音の調度」を全点一挙公開、11月15日から「源氏物語絵巻」の全巻一挙公開を予定。千年の時を超えて読み継がれ、語り継がれてきたこの物語は、人間の本質が変わらない限り、今も、そして、きっとこれからも人の心に響くものがある。
写真 (「平安文学、いとをかし ―国宝「源氏物語関屋澪標図屏風」と王朝美のあゆみ」が開催された丸の内の静嘉堂美術館の美術品のようなロビー。実物を見ながら聴ける! ギャラリートーク - 静嘉堂文庫美術館)
(主な参考文献)
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学び|公益財団法人 お香の会
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「栄花物語全註釈」(二)、(三)、松村博司、株式会社角川書店、1976年
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「新潮日本古典集成(第八二回)大鏡」、石川徹校注、株式会社新潮社、1989年
「天皇の歴史3 天皇と摂政関白」、佐々木恵介、株式会社講談社、2018年
「新潮日本古典集成(第五四回)蜻蛉日記」、犬養廉校注、株式会社新潮社、1982年
「現代語訳 小右記5~8」、倉本一宏編、吉川弘文館、2017年
「小右記と王朝時代」、倉本和弘、加藤友康、小倉慈司編、吉川弘文館、2023年
「源氏物語講座 第八巻 諸本・源泉・影響・研究史」、山岸徳平・岡一男監修、有精堂出版株式会社、1977年
「源氏物語の本文と受容 源氏物語講座8」、(株)勉誠社、1992年
「紫式部日記・紫式部集」、山本利達校注、株式会社新潮社、2016年
「新潮日本古典集成(第三七回)更科日記」、秋山虔校注、株式会社新潮社、1980年
源氏物語湖月抄 初篇 - 国立国会図書館デジタルコレクション
「文化人の暮らし 身近に 『よみうり抄』書籍化」2025年2月18日 読売新聞朝刊
「新訳源氏物語 上巻」、与謝野晶子訳、大鐙閣、1925年
「新新訳源氏物語 第六巻」、与謝野晶子訳、金尾文淵堂、1939年
「近代の享受と海外との交流 源氏物語講座9」、(株)勉誠社、1992年
「六百番歌合 新日本古典文学大系38」、校注者久保田淳、山口明徳、株式会社岩波書店、1998年
細川幽斎 - 国立国会図書館デジタルコレクション
「ドナルド・キーン著作集 別巻・補遺:日本を訳す/書誌」、ドナルド・キーン、株式会社新潮社、2020年
「ドナルドキーン著作集 第7巻」、株式会社新潮社、2013年
「ウェイリー版 源氏物語」、紫式部、アーサーウェイリー英語訳、佐復秀樹日本語訳、平凡社、2008年
徳川美術館について - 名古屋・徳川美術館|The Tokugawa Art Museum
公益財団法人 五島美術館 (gotoh-museum.or.jp)
静嘉堂文庫美術館 - 東京・丸の内にある美術館。国宝7件、重要文化財84件を含む、およそ20万冊の古典籍(漢籍12万冊・和書8万冊)と6,500件の東洋古美術品を収蔵。
「源氏物語」円地文子、学研、1979年
曲目解説「葵上」
「決定版 三島由紀夫全集、22巻 戯曲2、28巻 論評3」、三島由紀夫、株式会社新潮社、2003年
歌舞伎座『源氏物語』特別ビジュアル公開|歌舞伎美人 (kabuki-bito.jp)
「映画の中の古典芸能」、神山昭・児玉竜一〔編〕、森話社、2010年
「特別企画「源氏物語」|ドラマ・時代劇|TBSチャンネル - TBS」
源氏物語|ドラマ・時代劇|TBSチャンネル - TBS
日本商業演劇史 - 国立国会図書館デジタルコレクション
「あさきゆめみし1」、大和和紀、講談社、2001年
『新源氏物語』の魅力 | 花組公演 『新源氏物語』『Melodia -熱く美しき旋律-』 | 宝塚歌劇公式ホームページ
「白井鐵造と宝塚歌劇『レビューの王様』の人と作品」、田畑きよ子、青弓社、2016年
遺影は光源氏…春日野さん「宝塚歌劇団葬」に1000人― スポニチ Sponichi Annex 芸能
「新源氏物語一」、田辺聖子、株式会社新潮社、2015年
「2008年度 京都の美術・工芸展 源氏香の世界」、香文化資料室 松栄堂 松栄文庫、2008年
「広辞苑 第六版」、新村出編、岩波書店、2008年
高等小学歴史 1冊 - 国立国会図書館デジタルコレクション
「戦国資料叢書6 家康史料集」、小野信二校注、人物往来社、1965年
昨年11月号、12月号に続き、千年にわたって読み継がれる源氏物語とその物語の世界について、まずは物語の筋とともに当時の背景などをたどる。時は移り変わり、源氏の君の死後の世界、その子、孫の世代を描く。
(43)匂宮
「光源氏がおなくなりになった後には、あの輝かしいお姿や世評の栄光を受け継がれるようなお方は、たくさんの御子孫のなかにもなかなかいらっしゃらないのでした」(瀬戸内寂聴訳)。源氏の君の晩年の息子として育てられてきた女三宮の子、「生まれつき不思議な芳香を持つ体質」で自分の出生の秘密に感づいている「陰を持つ若者」薫と、帝や明石の中宮にも特に愛される、名香を調合して身に着け、祖父源氏の君に似て、「明るく多情で色好み」な三宮、兵部卿の宮。薫と兵部卿の宮との関係は「かつての源氏と頭の中将のような関係」。何かと張り合うこの二人を中心に物語は進む。
香といえば、公益財団法人お香の会のWebsiteによると、香木は日本には産出せず、「奈良朝のそれは…仏事を荘厳にすることが目的…平安朝になって、宮中や貴族の生活の風雅として世に広まり、…室内に空焚き(からだき)にしたり、衣服に焚き染めたりして用い」たという。正倉院の御物の国宝「蘭奢待」は、「1.54メートルもある大きな伽羅香木で…織田信長がこれを切ったということが歴史上に有名」で「信長はそれを三分して、三分の一だけを自分のものにし、あとの三分の二を天下の大名小名に分けた」ほど尊重されたという。
子だくさんの源氏の息子、夕霧は、中でも美人と評判の六の君を薫か匂宮のいずれかに嫁がせたいと思い、かつて源氏の君が明石の中宮を紫の上に育てさせたように身分の高い落葉の君の養女としている。
写真 黄熟香 - 正倉院(正倉院の宝物、「黄熟香」。雅名である「蘭奢待」には、「東」「大」「寺」の三文字が隠れているという。名香として珍重され、足利義政や織田信長、明治天皇が切り取らせた部分は付箋で示されている。出典:正倉院宝物 黄熟香 - 正倉院)
(44)紅梅
かつての頭の中将の家も代替わり。その息子、紅梅が娘を入内させるか悩む。「『帝にはすでに明石の中宮がいらしゃるし、どんな人があの御威勢に肩を並べることができよう。…東宮には夕霧の右大臣の御長女が女御になられて、…かないそうにない。といってそんなふうにばかりいってもおられまい。…娘を持ちながら、宮仕えをあきらめてしまっては、何の育て甲斐があろうか」」と決心…して、一の姫君を東宮にさしあげることになさいました。」(瀬戸内寂聴訳)
東宮への入内といえば、道長は、東宮時代の三条天皇、後一条天皇に娘を入内させているほか、「王朝の貴族」によると、折り合いの悪かった三条天皇の皇子で東宮だった敦明親王に圧力をかけ、親王から「東宮辞退の決意を打ち明けられ」ると、道長の判断は早く、好条件を提示。「その場に摂政頼通を呼び寄せ、敦明親王の今後の待遇について話をまとめてしまった。…親王は…小一条院の称号を受け、太上天皇に準ずる待遇を受けることになった。…道長は、娘の寛子を小一条院と結婚させることとし」至れり尽くせりの世話をしたという。道長の日記「御堂関白記」によると、道長の四男能信から「東宮蔵人…がやって来て、云いましたことには『東宮(敦明親王)が『私は、この東宮の地位を、何とかして辞めたいものだ』と仰せられました」と伝えられ、「私(藤原道長)が云ったことには、『東宮の召しが有ったならば、早く参って事情を聞き、こちらに報告に来るように』」と記す。このような秘事が記された道長の自筆日記は、「藤原道長『御堂関白記』を読む」によると、「摂関家最高の重宝とされ、…現役の摂関でさえも容易に見ることが出来ない」ほど厳重に保存され、今も「万一の際には、これだけ手で持って運び出すため」近衛家の「陽明文庫の蔵の…『記録第一函』という一個の箱の中にまとめて納められ、扉を入った左側の一番手前の机の上に置かれてい」るといい、2013年にユネスコの『世界記憶遺産』に登録されている。一条天皇の蔵人頭で、当時、中納言だった藤原行成の日記「権記」には、「東宮…は事情を后宮(娍子)に申されました。后宮は、先に伝えられずに、たやすく外部にもらしてしまったということについて、□がありました。その時、儲宮は口を閉ざし、色を失いました。頗る悔いる様子が有りました」と記す。一方、東宮に娘延子を入内させていた左大臣源顕光邸では、夫を奪われた妃延子は「病臥しておられた。大臣も今にも絶え入りそうな有様で横になっておられると、一宮がお出でになって、『おじいちゃま、もしもし、お起きなされ。馬になってちょうだい』と言ってお起こし申し上げなさると」、左大臣が「正体もない様子で起き上がりなさり、尻を高くして這い、馬の恰好をして一の宮をお乗せ申し上げなさって、這い歩き回られると、一の宮は『普通よりもよく動かないこの馬はつまらない』と言って、扇でしとしとと御打ち上げ申しなさ」ったと左大臣一家の悲しみを『栄華物語」は記す。
娘を入内させることが身を滅ぼすこともあり、「王朝の貴族」によると、左大臣源高明が16歳の東宮候補に娘を入内させると、969年(安和二)年、「藤原氏北家嫡流の面々」は、9歳の同母弟を東宮として、左大臣源高明を失脚させ、以後、「藤原氏の他氏排斥の運動は終わりを告げ…もはや藤原氏を脅かすにたる存在は生まれ出る機会を与えられ」なくなったという。
(45)竹河「竹河のはし打ち出し一ふしに 深きこころの底は知りきや」
玉鬘の夫、髭黒の太政大臣は「あっけなく亡くなって」しまい、時勢におもねる人々は寄り付かなくなり、「お邸のうちもひっそりと寂しくしている」(瀬戸内寂聴訳)。
当時、度々疫病が猛威を振るい、多くの貴族も命を落とす。「王朝の貴族」によると、「九九三(正暦四)の秋に疱瘡が多少の流行…、翌年の春から九州に新たに流行し始め、…特に夏には京都に病者・死者があふれ、五位以上だけで七十人以上が死亡…翌九九五年(長徳元年)の春から、またまた流行し始め…この年はことに四位・五位や公卿などの死亡が目立ち、中納言以上八人が軒並み死んで道長が躍進した」という。「大鏡」も、「大臣・公卿七八人、二三月のなかに掻き払ひたまふ事、希有なりしわざなり」、「お亡くなり遊ばした殿さまたちが…長生きなさったとしたならば、とてもこんな風にまで道長公が御出世遊ばしたかどうか」と記す。
玉鬘は髭黒の太政大臣が入内を望んでいた二人の娘たちをどこに御縁づけるかに悩む。貴公子に人気の上の娘(大君)には、冷泉院と帝から入内をうながされる。大君には夕霧の息子蔵人の少将が玉鬘邸に通い詰め、堅物と言われる薫も心惹かれる。玉鬘邸での宴の翌日、薫は「催馬楽の竹河の一端を謡ってほのめかしたその中に、私の深い心の底を汲み取ってくださつたでせうか」(谷崎潤一郎訳)と歌を贈り、大君へ思いを伝える。
あれこれ悩んだ玉鬘は、結局、「後見もない宮仕えは、宮中ではとても不都合」だと大君を冷泉院に入内させる。左大臣が亡くなり、夕霧が左大臣、薫は中納言に昇進するなど源氏の子孫が栄える中、玉鬘は、髭黒の太政大臣を失った息子たちの「昇進が人より遅れている」(瀬戸内寂聴訳)と嘆く。
権力者の子も後ろ盾を失うと運命は変わる。道長と権力を争った甥の伊周が失脚。「大鏡」によると、その息子、藤原道雅は25歳で従三位に昇進した後、62歳で亡くなるまで、「非参議、従三位のまま、少しも昇進しないで世を終えている」という。
写真 (玉鬘の娘、大君と中の君が庭の桜の木を巡って碁で三番勝負する。藤原隆能 著 ほか『源氏物語絵巻』,徳川美術館,昭11. 源氏物語絵巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
(46)橋姫「はし姫の心をくみて高瀬さす 棹のしづくに袖ぞ濡れぬる」
その頃、宇治に源氏の君の弟、八宮が世間からわすれられたように暮らしている。「一時は東宮にお立ちになりそうな噂などもありました。それだけに時の権力に冷たく扱われるような事件にかかわった後は、かえって昔の威勢もあとかたもなくなりました。御後見の人々も…この宮に見切りをつけて去ってしまいました」(瀬戸内寂聴訳)。宮は阿闍梨について修行をしながら二人の娘を育てている。阿闍梨が冷泉院に八宮の様子を話すと、冷泉院に可愛がられている薫は、教えを請いたいと宇治に八宮を訪れるようになる。そこで、八宮が不在のおりに娘たちが弾く琴の音を聞き、心惹かれる。「宇治川を高瀬舟が棹さしていくのを眺めても、寂しく暮らしていらつしゃる姫君たちの心をお察しして、舟人が棹の雫に袖を濡らすやうに涙で袖を濡らしました」(谷崎潤一郎訳)と歌を贈る。宇治で薫は八宮に仕える老女から自分の出生の秘密をほのめかされる。「橋姫」以下の「宇治十帖」と呼ばれる部分はスケールが小さくなり、登場人物も絞られるが、瀬戸内寂聴は「少女の頃、与謝野晶子訳の源氏物語を読んだ時、宇治十帖を本編の光源氏の物語より分かり易く面白いと思った」という。
権力を失うと途端に人が寄り付かなくなるもので、「大鏡」は、道長の娘彰子が皇子を続けて産むと、伊周は「人生に希望を失って」、病気になるが、病が重くなったので、病気平癒を祈ってもらおうと祈祷僧を召しても、「道長に睨まれては大変と、どこの祈祷僧も、伊周邸には参ろうとしない」と記す。「宿敵道長に頭を下げるのは業腹だが、こうなってはやむを得ないというので」、長男を使いに出して、道長に事情を話して、祈祷僧を「あなたのお力で寄越して下さい。」と頼むと、道長は、「不都合なことですな、ちっとも存じませんでした。どのような御容態ですか。僧侶としては怠慢千万」と言って、「某の阿闍梨をこと献らせたまひしか」と記す。
写真 (八の宮の留守に宇治の山荘を訪れた薫は、合奏する大君と中の君を垣間見る。藤原隆能 著 ほか『源氏物語絵巻』,徳川美術館,昭11源氏物語絵巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
(47)椎本「立ち寄らん蔭と頼みし椎がもと むなしき床となりにけるかな」
匂宮は薫から聞いた宇治の姫君に関心を持ち、八宮の山荘近くの夕霧の別荘に滞在し、文をしたため、薫に託す。それを機に姫君に手紙が来るようになる。やがて、八宮は勤行三昧に入るため。娘たちには、「決して軽はずみな考えから、姫君の身分を汚すような、つまらぬ縁談の取りもちなどしないでほしいのだ」(瀬戸内寂聴訳)といい残し、山に入るが、間もなく具合が悪くなり亡くなる。
皇族女性の婚姻について。「天皇と摂政・関白」によると、「律令制では内親王をはじめとする皇族女性の婚姻について厳しい規制があり、…臣下との婚姻は許されていなかった」が、やがて緩和され、藤原良房は嵯峨天皇の娘と婚姻するなど「外戚家に連なる人々」との婚姻が認められていったという。
娘を残して亡くなるときにはその行く末を心配するのが親。「大鏡」によると、道長との権力闘争に敗れて失意のうちに亡くなった伊周は、后候補として育てた二人の娘たちが、自分が死んだら「どのような身の振り方、どのような暮らしをなさるのだろうかと思うとそれが悲しく、世間のいい物笑いにきっとなるだろうね」と泣いて、「見苦しい暮らしなどなさるなら、草葉の陰からでもきっと恨み言を申す覚悟だからね」と「母君である令夫人にも涙ながらに遺言」したと伝わる。
年末に喪に服している姫君を訪れた薫は匂宮が中の君に執心であることと、自らの思いを大君に伝えるが、「大君はそ知らぬ顔ばかりして相手にされません」(瀬戸内寂聴訳)。薫は「自分が出家したならば佛道の師と仰がうと頼みに存じ上げていた宮がおかくれ遊ばして、もとのお居間にはお座席さへもなくなつてしまったことよ」(谷崎潤一郎訳)と詠む。
(48)総角「総角にながき契りをむすびこめおなじ所によりもあわなん」
薫は「名香の糸…の総角結びの中に、あなたと私との行末長く変わらぬ契りをも結び込めて、糸が幾度も同じところに出逢ふやうに、私たちも始終逢ひたいものです」(谷崎潤一郎訳)と詠むが大君はつれない。女房達は姫君を薫と結び付けて京都に戻りたいと思っていて、薫を姫君の寝所に案内するが、大君は異変に気付いて、中の君を残して寝所をすり抜ける。中の君と匂宮を結び付ければ大君が自分のものになると思った薫は、匂宮の手引きをすると、匂宮は中の君に夢中になる。匂宮を東宮にもと考えている帝や明石の中宮は、匂宮の気ままな行動を許さず、宇治に通えない日々が続く中、匂宮と夕霧の六の君との結婚の噂を聞いた大君は、ショックで病となり、食事もとらずに衰弱して亡くなる。
執心だった男が通ってこなくなった時の気持ちについて。「蜻蛉日記」は道長の父兼家が内裏への通り道にある家の前を、咳ばらいをして通っていくのを「聞かじと思へども、うちとけたる寝もねられず、夜長うして眠ることなければ、さらなりときくここちは、なにかは似たる。…ものしうのみおぼゆれば、日暮れはわびしうのみおぼゆ」と男に素通りされるやりきれない気持ちを記す。
いずれ匂宮を東宮にと考えている明石の中宮は、「宇治の中の君のことをお耳になさって、『どうやら宇治の姫君たちは、男君たちにとって、並々の女と思えないほどの魅力がおありなのだろう』とお察しになられ、思い詰めている匂宮を不憫がられて、『…その姫君を引き取っておあげになって、時々でもおかよいになるようになされば」(瀬戸内寂聴訳)と匂宮に話す。
(49)早蕨「此の春は誰にか見せんなき人のかたみにつめる峰のさわらび」
春になり、父と姉に先立たれた中の君は心が晴れない。山の阿闍梨が父八の宮の生前のしきたりとおりに、蕨や土筆を届ける。中の君は「亡き父君の形見と思つて積んで下すつた山の蕨も、姉君までもなくなりなされた今年の春は、誰に見ていただいたらよいのでせうか」(谷崎潤一郎訳)と返事。大君を失った薫は、中の君を匂宮のものとしてしまったことを後悔する。
ところで、宇治十帖の舞台、宇治といえば、今日世界文化遺産の構成資産である平等院は道長の時代にはまだないが、道長の山荘があった。道長から摂政の職を譲られた頼通は当時二六歳。「天皇と摂政・関白」によれば、「人事面では、…道長の存在は圧倒的で、叙位任官の希望者は頼通ではなくもっぱら道長のもとに馳せ参じ…寛仁元年八月に行われた京官除目では、道長はこれに関わらないことを示すため、宇治の山荘(後の平等院の地)に出かけたが、頼通は使者を宇治に派遣して様々な指示を仰いだ」という。道長の「御堂関白記」には「宇治の別業から帰った際、…(藤原)惟任が来向した。これは摂政の使いとして来たものであった。…除目についての問い合わせであった。」と記されていて「円融、花山、一条の三代の天皇の蔵人頭」だった藤原実資の『小右記』にも、このような状況は『かえって摂政のために鳥滸(愚か)なことになってしまう』と人々は言い合ったと記されるという。藤原行成の日記「権記」にも、行成が摂政頼通に中納言に任ずるべき人を問うと「大殿には別にご意向が有るようである。まったく理非を申してはならないのである。自ら思うところは、このようなものである。」と摂政でも父道長には何も言えないと語ったと伝わる。なお、「藤原道長『御堂関白記』を読む」によると、藤原行成は「一条天皇の後宮に入内…させた長女の彰子を中宮に立てようとしていた」道長が「一条生母の東三条院詮子に一条を説得させるよう」依頼した道長の側近。その日記「権記」は、「王権をめぐる宮廷人の政治的思惑・秘事が読み取れる。藤原道長の傍らに生き、同日に薨じた権大納言の膨大な記録は、平安の社会史・生活史・宗教史にもからむ重要な史料」だという。
写真 (匂宮の邸に迎えられ、宇治から京都に移る中の君は宇治に残る女房と別れを惜しむ。藤原隆能 著 ほか『源氏物語絵巻』,徳川美術館,昭11. 源氏物語絵巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
(50) 宿木「やどりきと思ひいでずば木の下の旅寝もいかに淋しからまし」
帝といえど、子を思う親の気持ちは同じ。帝は後見のいない女二の宮を気にかけて、「ともかく御自分の御在位の間に、女二の宮の結婚のお相手を決めてしまおうとお考えになります。さて、そうなりますと、女三の宮と源氏の君の例をそのままに、薫の君よりほかに、婿君としてふさわしい人はいないのでした。」、薫は、「心の中で、これがまだしも明石の中宮腹のお方なら話は別なのだがなどと」(瀬戸内寂聴訳)と考える。
帝の子でもその母が誰であるかは重要。「王朝の貴族」によれば、三条天皇の東宮時代の配偶者の一人は道長の二女妍子、もう一人は十六年前に亡くなった故大納言藤原済時の娘娍子。「道長を背景に持つ妍子と、…済時を父とする娍子とでは、その勢力は比較になら」ず、長和元年(1012)、「十八、九歳で子もなかった」妍子は中宮に立つ。妍子立后のすぐのち「六人の皇子王女があった」娍子の「立后の日は四月二十七日と定まったが、道長のほうでも、いったん東三条邸に下がっていた中宮妍子の参内の日取りを、同じく二十七日に決定…。…これは明らかに道長が故意にやった妨害…。同じ日に娍子の立后と妍子の参内がかち合えば、公卿以下はこぞって妍子の行事の方に集まってしまうことは、分かり切っているからである」という。当時、大納言だった実資の「小右記」にも「上達部は障りを申し、皇后の柵命に参らなかった。急に或いは穢に触れ、或いは病悩となった。」とあり、立后に参加したのは、病をおして参加し内弁を勤めた実資を含めて4人だけで、「現代語訳 小右記」によると、道長の娘「妍子は多くの公卿や殿上人を従えて、東三条第から内裏の飛香舎に参入した」という。なお、「『小右記』と王朝時代」によると、この「小右記」は、『政務に精通し、その博学と見識は道長にも一目置かれ…治安元年(1021)、右大臣に上り、「賢人右府」と称され…頼通にもあつく信頼された」という藤原実資の日記で「21歳の貞元二年(977)から八四歳の長久元年(1040)までの六三年間に及ぶ記録で、…古代史の最重要史料」だといい、「かつて、多くの大学の日本史学(国史学)専攻の大学院では、古代史のゼミは『小右記』をテキストとした演習が行われていた」という。その4月27日の道長の日記「御堂関白記」には「指名しておいたのに参らなかった人は、右大将(藤原実資)〈「内裏に参っていた。三条天皇の召しによる」ということだ。〉・藤原隆家中納言〈今日、新皇后(藤原娍子)の皇后宮大夫に任じられた。〉・右衛門督(藤原懐平)〈長年、私と相親しんでいる人であるのに、今日は来なかった。不審に思ったことは少なくなかった。思うところがあるのであろうか〉。」としっかりチェックしていたといい、「藤原道長、『御堂関白記』を読む」によると、「元来が自己の主催する儀式への出席を非常に気にする道長であったが、欠席した人に対する考えを記すというのは、極めて異例のこと」というが、「さすが道長、翌四月二十八日には多数の公卿を中宮妍子の御在所に集めて、饗撰を設けた。…前日、娍子立后の儀に参入した四人の公卿のうち三人が馳せ参じている」という。
しかし、薫は、結局、帝の次女と婚約。ライバル匂宮は源氏の息子、夕霧に望まれ、気乗りしないまま、「確かにこの右大臣に睨まれてしまったら、不都合なことになるだろう」(瀬戸内寂聴訳))と断り切れず、六の君と婚約し中の君の所にはなかなか来なくなる。
中の君は薫に宇治へ帰りたいと訴えるが、薫はそれを断りつつ、中の君を口説くが、身重の中の君に拒まれる。匂宮は夕霧の六の君と六条の院で盛大に結婚。薫は中の君から亡き大君に似た異母妹がいることを聞き、薫の出生の秘密を知る出家した女房に会いたいと伝えてほしいと言って、「昔ここに泊まつたということがあると云ふ思ひ出がなかつたなら、此の山荘の木陰の宿に旅寝をするのも、どんなに寂しいことであらう」(谷崎潤一郎訳)と詠む。中の君は皇子を出産。薫は帝の女二の宮と結婚するが、宇治で大君の異母妹、浮舟を覗き見て心惹かれる。
写真 (匂宮は明石の中宮の勧めもあり、気の進まないまま夕霧の六の君と結婚するが、その美しさに魅せられていく。藤原隆能 著 ほか『源氏物語絵巻』,徳川美術館,昭11源氏物語絵巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
(51)東屋「さしとむる葎やしげき東屋のあまり程ふる雨そそぎかな」
その浮舟の母は娘を認知してもらえず、常陸守の受領の妻となり、多くの子がいる。浮舟に良い婿をとろうとして、縁組が決まるが、浮舟が継子と知って、受領の財力を当てにしていた男は怒り、仲人の提案で「なあに、構うものか、相手を乗りかえよう」と言い、「受領は『少将殿が真心から愛してやって下さるなら、大臣の位を望まれて、その運動費に、世にまたとない財宝を使い果たそうともならる時にも、当方ではすべてのものを御用立ていたしましょう』(瀬戸内寂聴訳)と答え、相手を代えて受領の実子と結婚。
受領の財力について。「王朝の貴族」によると、「できるだけのものを集め、中央に出すものは極力口実を設けてごまかし、一方では直接権門に取り入って心証を良くし、将来の栄達を図るというのが、当時の受領全般の風潮…。なかでも道長に対する受領のサービスはたいへんなもので、道長の御堂関白記にも、諸国司からいろいろの物、ことに馬を贈られた記事が数多く見えている。…莫大な品々を道長邸に運び入れ、人々は道路に群集してこれを見物した」という。また、「天皇と摂政・関白」によると、「明らかに道長主導で任命された受領」は6人程いて、「いずれも道長の家司(家政職員)であり、彼らが任国からもたらす富を道長家の家政にとりこむための人事である。このうち近江守となった…人物は、その後、大宰大弐となり」、「小右記」には、彼が任を終えて帰京したときには、「九国二島(九州全体…)の物、底を掃ひて奪い取る」と評されている」という。
怒った母は中の君の邸に浮舟を連れてきて、匂宮を垣間見て「その美しさに驚嘆する」とともに宮の前では貧相な男を婿に選んだことを恥じる。薫も宮に劣らぬ美しさなのに驚く。中の君の屋敷にいる浮舟を匂宮が見つけて口説く乳母がガード。事情を聞いた母が別の家に移すと、薫はそこを訪れる。突然の訪問で待たされる間、「葎がおひ茂つて門を鎖しているせいであらうか、あまり長い間雨だれの落ちる中で待たせることよ」(谷崎潤一郎訳)と詠む。亡くなった大君によく似た浮舟と一夜を共にし、満足して宇治に連れて行く。
写真 (秋の冷たい雨が降る中、薫は浮舟の隠れ家を突然訪ね、待つ間に歌を詠む。藤原隆能 著 ほか『源氏物語絵巻』,徳川美術館,昭11. 源氏物語絵巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
(52)浮舟「たちばなの小島はいろも変わらじをこの浮舟ぞゆくへ知られぬ」
中の君の邸にいた女(浮舟)を忘れられない匂宮の目の前で、浮舟から中の君への手紙が届く。探りを入れると、薫が浮舟を宇治に住まわせていることがわかり、宮はこっそり宇治へ行き、覗き見る。薫と勘違いした女房が匂宮を中に入れてしまい、匂宮は浮舟を手に入れてしまう。雪の中、再び宇治を訪れた匂宮。浮舟は情熱的な訪れに心を奪われ、月の輝く宇治川を小舟で渡る途中、浮舟は「橘の小島の緑の色は千年も変わらないでございませうが、波に浮いている此の舟は何處へただようてまいりますのやら、行く方もわかりませぬ」(谷崎潤一郎訳)と詠み、対岸の家来の家で二日を過ごす。やがて、二人の関係を薫は知り、二人は浮舟を京都に呼んでいつでも逢えるように準備をする。二人の貴公子の間で身の置き所のなくなった浮舟は宇治川に身を投げる。
皇族と臣下の女性を巡る争いといえば、「王朝の貴族」によると、道長と権力を争った甥の藤原伊周が通う女性に「花山院が通い始めた。…弟の隆家に相談を持ちかけ…隆家は…法皇が帰る所をおどかしてもうこりごりとさせるのがねらいだったのだろう、従者に矢をいかけさせ…矢は見事に法皇の袖を射抜いた」という。これが伊周失脚の原因となるが、花山院が通っていたのは伊周の思い人の妹だったという。そんな藤原隆家だが、道長は意外と気に入っていたようだ。「大鏡」にも「天下のやんちゃ坊主」と言われていたというが、「殊の外、肚ができている」と世人に思われていたという。伊周の騒動に連座して、出雲権守になったが、伊周が許されて京都に戻ったおりに、中納言に再任され、道長の賀茂神社参拝のおりに「後方に隆家卿がいらっしゃるのが気の毒で」道長「殿の御車に乗せ奉らせたまひて、御物語こまやかなるついでに『一年の事は、己れが申し行ふとぞ、世の中に言い侍りける。そこにも然ぞおぼしけむ。されど、さもなかりし事なり。宣旨ならぬ事、一言にても加へて侍らましかば、この御社に斯くて参りなましや。天道も見たまふらむ。いと恐ろしき事』」と伊周や隆家の流謫は自分の意向ではない旨、真剣に仰せられたという。また、道長の土御門殿にて御遊びがあるときに、『かようの事に、権中納言のなきこそ、猶さうざうしけれ』(こういう催しの折に、隆家卿が不在なのはやはりものたりないなあ)と「格別にお迎えの便りをさし上げ…、いみじうぞ持て囃しきこえさせ」(たいそう持て囃し歓待なさった)たと記す。藤原行成の「権記」にも長保五年(1003)五月に道長が宇治に遊覧した際に御供の中に、「権中納言(藤原隆家)」もいて「…天殿上人及び諸大夫で作文・和歌・管弦に堪能な者以外の者はいなかった」とある。
(53)蜻蛉「ありと見て手には取られず見ればまた行へも知らず消えしかげろふ」
浮舟がいなくなって大騒ぎとなるが見つからないまま、母は急いで葬儀をする。薫はあとから聞いて、どうして急いで簡略に葬儀をしたのか咎め、匂宮はショックで病となり貴族たちが見舞いに訪れる。浮舟を隠しているのではと思っていた薫も見舞いに行き、匂宮の様子をみてそうでないと思う。やがて四十九日が過ぎると二人は他の女たちのことに気が移っていく。たそがれどき、「いつも情けない結末におわった恋の一つを思い出しながら」薫は「故大姫君や中姫君は目の前にあるのが見えながら手に入れることが出来ずにしまひ、たまたま手に入ったと見えた浮舟君もまた行くへも知れず消えてしまつた。ほんたうに皆蜻蛉のやうに果敢ない人達ではある」(谷崎潤一郎訳)と独り言。
浮舟の死に触れた穢れを避ける人々が出て来るが、「天皇と摂政・関白」によると、「平安時代の社会の特徴として、穢れを忌避する観念が非常に強」く、「穢れに触れた者は、一定期間身…自宅に籠って外出を避け」なければならなかったが、「単なる迷信というわけでもなく、「穢れを忌避する観念は、平安京という空間と密接に関係している。…当時の日本‥-では最も人口の密集した空間で…疫病が入ってくれば、…、深刻な結果を生じることになるという面もあったようである」という。一条天皇の蔵人頭、藤原行成の日記「権記」を見ても、「穢」は度々出て来て、例えば、長徳4年(998)8月30日、一条天皇の母「東三条院に触穢がありました」、9月1日には一条天皇が「東三条院(藤原詮子)の穢は、連日、絶えない。聞くにつけ、怪しむことは少なくない」とおっしゃったと伝わる。また「藤原道長『御堂関白記』を読む」によると、折り合いの悪かった三条天皇が苦しんでいた「眼病平癒の最後の切り札と考えた」伊勢神宮への勅使派遣について、道長は「発遣の直前に関係者の周囲に『穢』を発生させ、発遣を延引させるという陰湿」な手段で妨害し、「結局、七回」延期されたという。
(54)手習
そのころ、横川に尊い僧都が住んでいて、母尼と妹尼とともに初瀬参りに行く途中、宇治で中宿り。そのとき女が倒れているのを見つける。妹は自分の亡くなった娘の代わりに初瀬の観音が授けてくれた人だと喜ぶ。その女、浮舟は何も覚えていないが、僧都の祈祷で回復。妹尼の亡くなった娘の婿に言い寄られた浮舟は出家を望み、僧都は妹尼の留守中に剃髪。浮舟は日々勤行しながら「心に浮かぶことを筆に託して思いつくままに歌を作ったりする」手習いをして日々を過ごす。明石の中宮に女一の宮の祈祷を頼まれた僧都は祈祷で女一の宮を回復させるが、中宮に浮舟の事を話す。それを聞いていた薫の情人は薫に話すと、薫は僧都に確かめようとする。
横川の尊い僧都というと、「往生要集を著した源信のことを、人々は『横川の僧都』といって尊崇していた」(瀬戸内寂聴)というから、実在の人物を想起させて物語にリアリティを与えたものだと寂聴はいう。なお、当時、書の三蹟の一人でもあった藤原行成の「権記」には寛弘二年(1005)九月一七日、道長に「道長に『往生要集』を返し奉った。新写した私の自筆を召された。そこで奉った。原本の『要集』を賜った。」とあり、道長が持っていた『往生要集』を行成が自ら書写するほど重視されていたこと、原本よりも行成の書を道長が欲したことが窺える。
中宮とも話ができる僧都といえば、「天皇と摂政・関白」によると、「僧官のなかでも最高位に位置する僧正・僧都・律師は僧綱と総称され、朝廷における公卿にも比すべき地位だった。…天皇との個人的な関係を示す肩書も存在し…その一つが護持僧」、「常に天皇のそばに仕え、天皇個人の身体を様々な危険から防ぐための祈祷を行う、護持僧と呼ばれる僧侶が出現…護持僧を経て僧綱へ昇進するというルート」があったという。
(55)夢浮橋
瀬戸内寂聴も「この大長編小説は、…唐突に終わっている」という、この壮大な物語にしては意外なエンディング。帖のタイトルも登場する和歌とも関係のない不思議な付け方。
4 物語の様々な分野への影響
「王朝の貴族」によると「その構想の大きさ、文章の巧妙さ、正確な写実の中にも夢を含ませた味わいの深さ、そして何よりも心理描写のゆきとどいていることなど、あらゆる面でそれまでの物語は圧倒されてしまう。いらい日本の文学の類は物語は言うに及ばず、和歌・連歌・謡曲・俳諧から近世の草双紙に至るまで、源氏物語の影響を受けない分野はなく、国文学史上最高の地位を千年間にわたって確保している」という。以下、『源氏物語講座 第八巻 諸本・源泉・影響・研究史』、「源氏物語の本文と受容 源氏物語講座8」等により、この物語がその後、どのように享受されてきたかを辿ると、この物語の影響の大きさが伺い知れる。
(1)文学
物語の写本は「限りなく多」く、「平安時代の末から鎌倉時代にかけて、既に六本の著名な存在」が知られ、更に鎌倉時代の二本、京極中納言定家本(別名、青表紙本)「定家卿本」と、「河内本」(北条実時書写の本)があるという。「足利将軍家、更に豊臣秀吉に伝来し、大阪落城と共に、徳川家康の手を経て、尾張徳川家の有に帰した」河内本は、徳川美術館の徳川家康旧蔵書。
「紫式部日記」でも、寛弘五年(1008)11月1日、道長の娘中宮彰子の第一皇子誕生五十日の祝いの折に、藤原公任が『あなかしここのわたりにわかむらさきはさぶらふ』と式部にたわむれたとあるから、貴族男子も読み、「更科日記」の作者は『源氏物語』五十余巻を伯母に貰った時、「引き出つつ…見るここち、后の位も何にかはせむ。」と貴族の女性を夢中にさせた。鎌倉時代以降は武士、江戸時代には活字本により町人にも広がる。延宝元年(1637)には、その後300年間、明治・大正になっても出版され続けた『湖月抄』」が出版。契沖の『源註拾遺』、賀茂真淵の『源氏物語新釈』、本居宣長の『源氏物語玉の小櫛』」などの注釈も出る。
井原西鶴の「好色一代男」は、「『源氏物語』の翻案あるいは模倣」と言われ、主人公世之介は「好色にかかわることのみに関してはいかに『さとうかしこくおはす』(源氏・桐壺)かが次々と具体化される。これが万事に聡明な光源氏を描く『桐壺』の一節を契機に、その道に関してのみ聡明な」主人公を「可笑しく描きあげ」ているという。本居宣長は「今のよにあまねく用ふるは湖月抄なり」と『源氏物語玉の小櫛』」に記したが、『「好色一代男』には、ある太夫(最上級の遊女)に源氏物語を借りに人を遣わしたら、写本ではなく、版本の湖月抄をおくられて、「此の里の太夫もすえになるかな。…『源氏物語』は版本ではなくしかるべき写本で読むものだというような意識があり、遊女の太夫の品格が落ちたことをそれによって象徴させた」場面があるという。
松尾芭蕉も「源氏物語」の影響を強く受けたと言われ「奥の細道」にも「…たそがれの路たどたどし。…いずれの年にか、江戸に来りて…。市中密かに引入れて、あやしの小家に、夕顔・へちまのはえかかりて…さては此のうちにこそと門を叩かば、侘しげなる女の出て…」というくだりが「『藤浦葉』…、『桐壺』…『夕顔』の光源氏が夕顔を訪れる場面を踏まえている」部分だという。
「草双紙」と呼ばれるジャンル。柳亭種彦作・歌川国定画「偐紫田舎源氏」は、足利義政の時代に「光源氏のなぞらえた足利光氏が山名宗全の陰謀を挫くという筋」に翻案。「父の自分への偏愛を憂え義兄の義直(朱雀院)の義理から義母藤の方(藤壺)と不義を見せかけ父に疎まれようとする」光氏(光源氏)は、家督を「義正長男義直に譲らせようと好色にふけるあたり義理、人情と読者の興をそそり、共感をもたせる」ストーリーで、「熱狂的に受け入れられたため、…天保改革の風俗矯正の一環として絶版処分を受けるが、…浮世絵に源氏絵と呼ばれるジャンルを生み出したことでも知られるように、大きな影響力を持っていた」という。
現代語訳も多く、最近でも円地文子、田辺聖子、瀬戸内寂聴、角田光代など女性の訳が多いが、歌人与謝野晶子も現代語訳。明治45年に晶子の「新訳源氏物語」の序に「源氏物語の訳をするのは現世において与謝野晶子女史をおいて他にない」と寄せたのは文豪森鴎外。その中巻を校了した与謝野晶子が欧州旅行に出発したと明治45年5月4日の読売新聞は報じる。「「紫式部は私の十一二歳からの恩師である」と語り、「十一人の子の第一子に光、末子を藤子とそれぞれ命名」した晶子は、この「新訳源氏物語」について「粗雑な解と訳文をした罪を二十数年恥じ…いつかは…完全なものに書き替えたいと願って」いたが、28年後に「新新訳源氏物語」を出す。
谷崎潤一郎は、生涯に3回源氏物語を訳したという。昭和16年夏に完成した最初の訳全26巻の谷崎潤一郎本は、巻23までの物語に加え、巻24、巻25は源氏物語和歌講義上・下として和歌の解説、巻26にある登場人物の系図だけで90頁程。本稿でも物語の各帖のタイトルに引く歌は谷崎の26巻の「源氏物語梗概概要」により、その訳は巻24、巻25の「源氏物語和歌講義上・下」によった。巻26のあとがきには「近頃預約出版法の取締りが厳しく、此の出版の完結を急ぐようにとの其の筋からの督促があった」と太平洋戦争開戦直前の当時の状況を物語る。
谷崎の最初の訳は「時あたかも日華事変の最中で軍部の忌避に触れぬよう、この現代語訳では光源氏との藤壺との密通事件を歪曲、省略せざるを得なかったが、戦後、これを不満とし、訳文にも全面的に手を入れ『潤一郎新訳源氏物語』を刊行…さらに『新新訳』ではそれを新かなづかいに改定」したという。
和歌。源氏物語には749首の和歌があり、建久4年(1193)に藤原良経主催の12名の作者による『六百番歌合』で判者藤原俊成が述べた判詞の中に「源氏見ざる歌詠みは遺恨の事なり」という言葉に和歌の世界でのこの物語の影響がうかがえる。「和歌創作の際に古典作品に沈潜しながら、その世界を受容し新たな世界を形成」したという新古今和歌集や百人一首の選者、藤原定家。「その基盤となる重要な古典作品の一つに源氏物語がある」といい、例えば、定家の「かたみとぞたのみしことのかひもなく中の緒のたえやはてなん」の歌は、「明石の巻」で都への出立のために別れの場面で「『琴はまた掻き合わすまでの形見に』」と源氏の君が言い、「逢ふまでの形見に契る中の緒のそらべはことに変わらざらなむ」と詠んだ歌を踏まえたものという。南北朝期から室町末期には「新興の連歌において、…源氏による句が多く見え」るといい、連歌師は物語の「大部の内容に精通していることが求められた」という。足利「将軍を輔け、織豊二氏に仕え」、「文武の諸道に達し」、「朝廷より帝王の師範となり神道歌道の尊師と称せら」れたという戦国武将細川幽斎(ガラシャ夫人の夫である細川忠興の父)は「この物語を繰り返し百篇、こまかに読みたらむには、それやがて歌学成就なりとといはれぬ」と語る。与謝野晶子の歌にも「「美しく物を思へる牡丹かな浮舟という姫ぎみのごと」にように「明らかに源氏物語を下敷きとして「~のごと」と比喩表現をした作品がある」といい、晶子の『新新訳源氏物語」の各帖の扉には、晶子自身の各帖にちなんだ自筆の歌が載せられている。
写真 (近松の「好色一代男」にも登場する、1637年から300年間も出版され続けたという「源氏物語湖月抄」の「桐壺」の部分 湖月抄 [1] - 国立国会図書館デジタルコレクション)
写真 (足利将軍家のお家騒動に擬した「偐紫田舎源氏」。左頁に「種彦作 国定画」とある。この38編で絶版処分に。偐紫田舎源氏 第37-38編 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
写真 (開戦直前に出版された谷崎潤一郎の美しい装丁の「源氏物語愛蔵本」巻24、25は「源氏物語和歌講義上・下」源氏物語 卷二十四 愛蔵本 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
(2)海外への広がり
源氏物語は、日本文化が世界に知られるきっかけの一つともなった。1925年、イギリスのアーサー・「ウエーリの訳による『源氏物語』の第一巻が出たとき、欧米の批評家たちはその規模が雄大なのと、そこに伺われる彼らがそれまで想像もしなかった世界に圧倒された」と日本文学者ドナルド・キーンは言う。1940年、コロンビア大学の学生だったキーンは「当時の私は大学生で、お金がない。…タイムズスクエアの近くに行く毎にこの本屋に立ち寄っては、売れ残った本や掘り出し物を探していました。そんなある日、箱に入った二冊の本を見つけました。それは『源氏物語』のアーサー・ウェイリーによる英訳本で、値段は四十九セント。その安さに驚きながら、家に持ち帰って読んでみると、そこには全く未知の世界が開けていたのです。…『源氏物語』の何にそれほど感動したか。まず、そこには戦争がまったくないことでした。さらに、登場人物がまるで美だけのために生きているように思えたことです。私はこの素晴らしい本の舞台となった時代や著者についてもっと知りたいと思うようになりました。…『源氏物語』は世界の文学の中で最も美しい作品でしょう。…一九四〇年、ヨーロッパでの戦争が拡大し、ドイツ軍がノルウェー、デンマーク、オランダ、ベルギー、フランスを占領し、秋にはロンドンの空爆が始まりました。…そんな頃、まったくの偶然に『源氏物語』を発見したことで救われたのです。戦争のない美しい文学に広がる世界に、心を癒され、これが私を生涯の仕事へと導くのです。…『源氏物語』は日本から世界への最高の賜物でしょう」。第二次世界大戦中、海軍日本語学校を総代で卒業した彼は、1944年にはハワイ駐留中にハワイ大学で日本文学の講義を受け「源氏物語」などを原文で読み、1953年には京都にも留学して、谷崎潤一郎や三島由紀夫ら文豪とも交流。能・狂言も学び、その後長く日本文学を広く海外に知らしめることとなる。そのキーンによるとウェイリーの翻訳は「一節を完全に理解ができるまで読む。それで次には、原文に戻ることなく、頭の中にある内容を自分の英語で書いてしまう…。…そして翻訳された文章の内容と原文と合っていれば、原文にない言葉が少々付け加わっていようが、あるいはいくつか落ちていようがそれでよしとする」という。先ほどの藤原定家の歌にもあった、「明石」の帖で、都に戻る源氏の君が明石の君に琴を弾いてほしいと頼む場面で、与謝野晶子の「新訳源氏物語」だと「私も弾くから。あなたも聞かせてください。さうして其れを思ひ出にしませう。」という場面が、ウェリー訳だと「ささやかな曲を一曲演奏し てくれないだろうか、君を思い出すために。それを頭の中に入れて運び去れるように」というのは、源氏の君の気持が一層滲むような気もする。
今日、多くの国の言葉に訳されているこの物語は、海外での日本文化を紹介するイベントではしばしば重要なテーマ。2019年には東京オリンピックの前に日本文化を広めるニューヨークでのイベントの一つとして、『源氏物語』展 in NEW YORK~紫式部、千年の時めき~」を開催。
(3)絵画・工芸
まずは国宝「源氏物語絵巻」。本稿でもお借りしたこの絵巻は五島美術館のWebsiteによると「物語が成立してから約150年後の12世紀に誕生した、現存する日本の絵巻の中で最も古い作品…。『源氏物語』54帖の各帖より1~3場面を選び絵画化し、その絵に対応する物語本文を書写した「詞書」を各図の前に添え、「詞書」と「絵」を交互に繰り返す形式…は54帖全体の約4分の1…が現存」し、徳川美術館と五島美術館などで収蔵。徳川美術館のWebsiteによると「人物は引目鈎鼻、建物は吹抜舞台の手法による大和絵で、静謐な画題の中に物語の世界観や登場人物の心理を見事に表現…美麗な料紙に流麗な筆致で描かれた詞書とともに原作に近い時代の雰囲気をよく伝えて」いるという。
「紫式部日記絵巻」は五島美術館のWebisteによると「『紫式部日記』を、約二百五十年後の鎌倉時代・十三世紀前半に…絵巻にしたもの」。こちらも国宝で、「紫式部日記」の約四分の一にあたる四巻分が五島美術館などに現存。東急会長だった五島慶太翁が創立し、開館目前に亡くなったという上野毛の閑静な住宅街にある五島美術館の美術館案内によると「国宝『源氏物語絵巻』、『紫式部日記絵巻』にふさわしい寝殿造りの意匠を随所に取り入れて」いるといい、敷地約20,000m2、庭園には四季折々の花が咲き、庭の茶室も趣深い。
この他、狩野永徳の「源氏物語図屏風」は宮内庁の収蔵品。俵屋宗達の「源氏物語関屋澪標図屏風」は、三菱の岩崎家が収集した美術品を収蔵する静嘉堂文庫美術館の国宝。昭和の建物として初めて重要文化財に指定された丸の内の明治生命館に2022年にオープンしたこの美術館は、三菱第2代目社長、岩崎彌之介(創業者:岩崎彌太郎の弟)、その息子、第四代社長、小彌太の親子二代で蒐集した国宝7点などの美術品を収蔵。建物自体が美術品のような内装も壮観。丸の内の一等地にこんな美術館を作ってしまうのは、さすが三菱である。
工芸。徳川美術館のWebsiteによると、寛永16年(1639)、三代将軍家光の娘千代姫が尾張徳川家に嫁いだ時の国宝「千代姫婚礼道具」には「初音」や「胡蝶」の帖、「宇治十帖」にちなんだものが多数あるという。「初音の調度」は「『源氏物語』『初音』帖『年月を松にひかれてふる人に今日鴬の初音きかせよ』の歌意を主な意匠としているため『初音の調度』と呼ばれ…47件、『胡蝶』帖にちなむ『胡蝶の調度』10件ほか70件が現存」。「徳川美術館の1万件余りの所蔵品の中での一層、輝きを放つ、世界に誇る不朽の名品で…計70点が一括で伝わる、江戸時代を代表する蒔絵の名品」だという。
このような逸品に限らず、江戸時代になると浮世絵師が「源氏絵」を描く。「源氏絵」という、色紙形や扇面、或いは屏風に書く場面を描いたもので名場面がパターン化。源氏絵が多く描かれたのは室町時代以後で、装身具・調度品のデザインにも使われ、江戸後期になると浮世絵の世界で源氏物語に題材をとる趣向が流行したという。
源氏物語の絵や詞は、遊戯具の中にも使われ、”源氏貝”(平安時代以来おこなわれてきた貝合せを基にしたもので、両片の貝の裏に源氏物語の絵やを書き歌かるたのように取り合う遊び)、”源氏かるた”、双六、羽子板にも源氏絵があしらわれたという。浮世絵では、鈴木春信は「古典の中身を現代に見立てた絵」を描き、柳亭種彦作の「偐紫田舎源氏」の画を描いた歌川国定は「新たな浮世絵、”源氏絵”を生み出した」という。
写真 (寝殿造りの意匠を随所に取り入れているという上野毛の閑静な住宅街にある五島美術館。photo by Shigeo Ogawa 五島美術館提供)公益財団法人 五島美術館 (gotoh-museum.or.jp)
写真 (『源氏物語の場面を取り入れた「源氏発句双六」五十四帖源氏発句双六 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
(4) 能楽・文楽・歌舞伎
当然、伝統芸能の題材に。まずは能楽。「中世の能楽(謡曲)では数多く取り入れられており名曲が多い…観客が武士や公卿などの知識層だったので、作者たちも古典文芸や仏教を素材とした」からといい、流儀による違いはあるが、240程あるという能の演目のうち、「いわゆる「源氏物」は10曲(「葵上」「浮舟」「落葉」「碁」「須磨源氏」「住吉詣」「玉鬘」「野宮」「半蔀」「夕顔」)」あるという。能楽協会のWebsiteによると『葵の上』では、舞台正面手前に「病床の葵上を表す小袖が置かれ」、六条の御息所の生霊が…、「次第に激高して、後妻打(うわなりうち=室町時代から江戸時代初期、離縁された先妻が後妻の家を襲う民間習俗…、前妻が後妻をねたみ打つこと)で、葵上の小袖に向かって打ち据え」る。三島由紀夫は「簡素で、見事な構成を持っているので、私の好きな能の一つ…葵上の病臥の姿を衣一枚を舞台に横たへるだけで表現したのも、能の心にくい工夫」と評する。なお、「うわなりうち」の記録として、道長の「御堂関白記」にも、「輔親の宅に、殿の家の雑人が多く到って、濫行を行いました。…これは…女房の『うわなり打ち』です。」と、道長五男教通の乳母が、前夫大中臣輔親宅である六条院を襲撃したとの記事がある。
もともと生者ではなく、霊を演じることが多い能。物語でも生霊が登場する六条御息所だけでなく、生身の女性である浮舟、玉鬘も夕顔も能では霊として登場。
浄瑠璃・歌舞伎。「もともと庶民の中から生まれた芸能だったので、劇的内容に乏しい源氏物語は…あまり劇化されることがなかった」といい、「浄瑠璃では、六条御息所と葵上の争いを扱い最後に御息所が成仏して終わるという『あふひのうへ』や、紫式部が…、光源氏の供養をしなかったために地獄に堕ち、石山観世音の功徳で成仏するという、近松作とみられる「源氏供養」が主な作」品として残るくらいだという。
歌舞伎。「江戸期には「今源氏六十帖」(元禄八年)、『源氏六十帖』(元禄十六年)、「源氏供養(宝永二年)が…末期になると、…パロディ化することが盛行」。「偐紫田舎源氏」も「天保九年三月に市村座で…劇化されたが」、原作同様、天保の改革で差し止め。明治以降は、「いずれも六条の御息所の生霊の件だけを扱った」という明治四〇年「「葵上」が中村芝翫(五代目中村歌右衛門)のために書き下ろされ」、昭和五年に「『源氏物語葵の巻』が書かれ、尾上梅幸が演じた」という。しかし、戦争が影を落とす昭和八年(1933)、「新宿の新歌舞伎座で「源氏物語((帚木の巻から須磨の巻)」の上演が警視庁の検閲で「主要人物が上つ方の人物であること、数人の女性との連続的恋愛生活を扱っているのが現在の社会情勢の下では悪影響を及ぼす」との理由で不許可。「新劇場では脚色しなおし、今度は主要人物はある時代の貴族とし、恋愛は全部削除することを決め、…改訂脚本を…提出…一字一句も訂正の必要なしということだったので、劇団では勇躍して上演の準備に取り掛かった」という。源氏物語から「恋愛を全部削除する」と何が残るのかは疑問だが、その後、「思いがけず不許可の命が下った。…新劇場では…一同が集合し、止むなく上演を断念することを決めた。劇団では衣装やその他で一万二、三千円の損害を被ったが、…衣裳や大道具などを陳列し、識者の観覧に供して、『源氏物語葬』を行い、せめてものうっぷん晴らしとした」という。
昭和20年の終戦。「GHQ‥-は十月に…演劇界に関わる興行等取締規則の廃止・統制廃止を指令し、民主主義演劇の確立を求め…歌舞伎興行に対しても上演狂言の三分の一以上を新作脚本にすることなどを指令…。…源氏物語上演の条件はようやく調」う。「映画の中の古典芸能」によると、戦災で焼失した歌舞伎座は昭和26年に再開場。「二か月の再開場記念興行のあと、三月四日初日(二九日まで)大歌舞伎第一部に『源氏物語』が上演…。…観客動員とどう結びつくのかは未知数であったので、歌舞伎十八番『勧進帳』…を併演し…夜の部は『暫』『神霊矢口渡』『夕顔棚』『助六由縁江戸桜』・歌舞伎十八番を三つも並べた。その「源氏物語」(舟橋聖一脚色、谷崎潤一郎監修…紫式部学会・日本文芸家協会・朝日新聞社文化事業団協賛)は、前半約三分の一に当たる『桐壺』「空蝉」「夕顔」「若紫」「紅葉賀」「賢木」を六幕に構成…。猿之助(猿翁)の御門、梅幸の桐壺の更衣・藤壺女御、笑猿(岩井半四郎)の若き光君、橋蔵の葵の上、海老蔵(十一代目團十郎)の光君、…二代目松緑の頭中将、…の配役。…大して入らないと劇場側が半ばあきらめていた歌舞伎座の『源氏物語』が前売り開始と同時に殆ど売り切れて六白円の入場券に二千円のプレミヤがついたり…いつもなら八百万円どまりの仕込み費を千五百万円(そのうち源氏物語だけで千百万円近く)も気張り、赤字を覚悟でイチかバチかの冒険を試みたのだが、…前売りは飛ぶように売れるし、先月まで半分くらいしか入らなかった三階席まで学生で満員、立見席の入口なんか延々長ダの列」となり、「時間がはみ出して、第二幕全四帖と第三幕第一場をカットしてしまった。ところが観客から苦情は百出、…興行の安全弁につけた『勧進帳』をやめてもカットした部分を出せとの投書が、しきりに舞い込んだ」という。大好評を受け、「『源氏物語』は十月に改訂・増補として再び上演…、『勧進帳』併演をやめて、昼の部一本建て、『須磨源氏』を加えた」という。「『源氏物語』を原文から舞台化するのは、歌舞伎の長い歴史の中でも画期的な企画」だと言い、昭和27年、29年、32年などと「繰り返すことによって演技・人気が充実して『海老様ブーム』を起こしていった」という。
最近でも、昨年、「歌舞伎座10月公演の夜の部では、紫式部による五十四帖に及ぶ長大な全篇のうち、光源氏とその妻・葵の上、六条御息所の三者の恋愛模様を新たに描く『六条御息所の巻』を上演」(坂東玉三郎:六条御息所、市川染五郎:光源氏)。この演目を含む10月歌舞伎の夜の部は満席で席が取れず。
写真 (能楽『葵の上』の図。「葵上の病臥の姿を衣一枚を舞台に横たへるだけで表現」する。能樂圖繪 前編 上 - 国立国会図書館デジタルコレクション 音声は以下から。葵上(八)恨めしの心や - 国立国会図書館デジタルコレクション)
(5)映画、ラジオ、テレビ、漫画、宝塚
伝統芸能だけではなく、現代も舞台や映像で度々取り上げられ、当代の美男美女が演じる。「近代の享受と海外との交流」によると、歌舞伎の「舟橋源氏に二年おくれ、北条秀司の源氏物語劇が生まれた。その最初は二十八年七月明治座初演の『浮舟』」。これは昭和26年の「婦人公論」の年間読者賞の作品。「各方面から上演の希望があり、…結局中村歌右衛門が松竹大谷社長に直談判して、吉右衛門劇団が明治座で上演」、ラジオでも「NHKが…初めての長時間放送を行い、全国の聴取者を独占して成功を収めた」という。この「浮舟」の上演については、「日本商業演劇史」によるとすったもんだがあったようで、「芝居道で『揉めた芝居ほどよく当たる』という古言があるが、まさにその通りで『浮舟』は舞台営業両面に大のつく成果をあげた」という。
舞台劇「浮舟」の成功が、その後に「空蝉」(29.7)「妄執」(30・2)「末摘花」(30.11)「明石の姫」(32・2)「続明石の姫」(32.10)「落葉の宮」(34.6)「光源氏と藤壺」(36.7)「現代訳源氏物語」(53.1)等のほか、歌劇の「朧夜源氏」(36.1)舞踊鷁の「うきくさ源氏」(33.4)「若菜源氏」(42.5)など、数々の北条源氏の作を生み脚光を浴びさせた」という。
この頃、喜劇役者エノケンも登場。「映画の中の古典芸能」」によると、「『源氏ブーム』にあやかって、二七年三月一日初日で帝国劇場で谷崎潤一郎作『鴬姫』のパロディーと称する『浮かれ源氏』が登場…(エノケンの光源氏、笠置シヅ子の京極姫…)」。
三島由紀夫にも「能楽(謡曲)を現代風にアダプト」した一幕物集の「近代能楽集」があり、昭和29年1月号の『新潮』に発表された「葵上」は、若林光が入院中の妻葵を見舞うと、真夜中に六条康子の生霊が現れて葵を苦しめる話。三島は「スリラー劇みたいな要素もあり」近代能の作品の中で「一番気に入っている」という。昭和三十年(1955)に第一生命ホールで文学座により上演。
映画。以下、「映画の中の古典芸能」によると、まずは昭和二十六年(1951)に「大映創立10周年記念作品として公開された『源氏物語』(永田正一制作、谷崎潤一郎監修、池田亀鏡校閲、吉村孝三郎監督…)が初めての映画化」で「当時の”源氏ブーム“に応えたもの」だという。キャストは光源氏(長谷川一夫)、藤壺(木暮実千代)、淡路の上(京マチ子)、紫の上(乙羽信子)でカンヌ映画祭撮影賞受賞。
続いて昭和三十二年(1957)に「『源氏物語 浮舟』…、北条秀司原作、衣川貞之助監督・脚本、八尋不二脚本)、薫(長谷川一夫)、匂宮(市川雷蔵)、浮舟(山本富士子)」。昭和三十六年(1961)には「『新源氏物語』…、川口松太郎原作、森一生監督、八尋不二脚色)、光源氏(市川雷蔵)、藤壺・桐壺(寿美花代)、朧月夜(中村玉緒)、葵の上(若尾文子)、末摘花(水谷良重=現二代目水谷八重子)…」とこの辺りになると、知っている俳優も出てくる。その後、昭和41年(1966)「『源氏物語』…、武智哲司制作・監督・脚本)、光源氏(花ノ本寿)、藤壺女御(芦川いずみ)、…紫の上(浅丘ルリ子)…明石女御(山本陽子)」。昭和62年(1987)にアニメ映画「『紫式部 源氏物語…、杉井儀サブロー監督、筒井ともみ脚本)」が上映。平成に入ると13年(2001)に「『千年の恋 光源氏物語』…、堀川とんこう監督、早坂暁脚本…)。紫式部(吉永小百合)、光源氏(天海祐希)、紫の上(常盤貴子)、藤壺中宮(高島礼子)、大后(かたせ梨乃)、朧月夜(南野陽子)、明石の君(細川ふみえ)、六条御息所(竹下景子)、揚羽の君(松田聖子)、他に源典侍(岸田今日子)、清少納言(森光子)など」、若い人でも知っていそうな豪華なキャストも登場。
テレビ。1980年にはTBSが「特別企画『源氏物語』」。TBSチャネルによると「主人公・光源氏に…沢田研二を抜擢。光源氏と恋物語を繰り広げる8人の女たちには、八千草薫、十朱幸代、いしだあゆみ、倍賞美津子、藤真利子、風吹ジュン、叶和貴子、渡辺美佐子ら華やかな女優陣…脚本家・向田邦子は、豪華絢爛な平安絵巻という以外に、愛の喜び、はかなさ、また運命の不思議さなど光源氏と彼をめぐる様々な女性の生涯を生き生きと描き出した」という。TBSは1991年には『源氏物語』を「創立40周年を記念して総制作費約12億円を投じ製作…。…光源氏を青年時代・東山紀之と壮年時代・片岡孝夫…大原麗子が光源氏の初恋の女性・藤壺女御と…紫の上の二役に扮し、…語り手は、三田佳子が作者・紫式部に扮し、藤原道長(声:石坂浩二)との掛け合いを交えて物語の進めていく。その他、若尾文子、竹下景子、長山藍子、沢口靖子、泉ピン子ら主演級の俳優・女優が続々登場!超豪華キャストが勢ぞろい」という。
勿論、漫画にもなる。1979年から93年まで連載された大和和紀の「あさきゆめみし」は「当時の貴族の最高の趣味・趣向を…見事なビジュアルとして結晶している」作品で英語版もあるといい、他にも「恵川達也の『下源氏物語』(集英社)、牧美也子の『源氏物語』(小学館)、小泉義弘の『大掴源氏物語 まろ、ん?』(幻冬舎)など」があるという。
宝塚。宝塚歌劇団のWebsiteによると「光源氏は男役にとってまさに理想の役」だという。「創立まもない1919年に早速『源氏物語』が上演され…その後も何度か企画され、1952年の白井鐵造構成・演出『源氏物語』には、白薔薇のプリンスという異名を持つ宝塚歌劇の至宝、春日野八千代が主演。まさに当たり役となり、高貴な美しさで話題をさらった」という。「白井鐵造と宝塚歌劇『レビューの王様』の人と作品」によると「まるで平安朝文学のみやびな物語絵巻から抜け出たような、優雅で、気品に満ちた光源氏を演じた」春日野は「源氏の衣装にシャネルの五番を振りかけて出てきた」、相手役には八千草薫(若紫)、有馬稲子(葵上)」らという「豪華で贅沢な舞台」だっという。後に宝塚歌劇団の理事になり、2012年に逝去した春日野八千代の遺影は若き日に演じた光源氏だったという。
「光源氏、光源氏と、世上の人々はことごとしいあだ名をつけ、浮ついた色このみの公達、ともてはやすのを、当の源氏自身は味気ないことに思っている」(眠られぬ夏の夜の空蝉の巻)で始まる田辺聖子の「新源氏物語」は、「光源氏の愛と葛藤の物語を、新鮮な感覚で〈現代〉のよみものとして描」き、54帖の物語を再構成。宝塚にマッチしたのか、1981年に月組公演「新源氏物語」を上演。宝塚歌劇団のWebsiteによると、「全盛期をむかえた、当時月組トップスター・榛名由梨が光源氏を、上原まりが藤壺の女御を演じ…1989年には月組で再演、光源氏を剣 幸、藤壺の女御をこだま愛が演じ」、2015年にも明日海りおの光源氏で再演。源氏の君の正妻葵上から兄帝の娘で晩年に妻となった女三宮と柏木の不義までを描く。
宝塚は大和和紀の漫画「あさきゆめみし」も舞台化。平成12年(2000)草野旦脚本・演出で愛華みれの光源氏が登場。同年にはテレビでも宝塚歌劇団花組による「『源氏物語 あさきゆめみし Lived in a Dream」…、三枝健起監督、唐十郎脚本)、光源氏(愛華みれ)、桐壺の更衣・藤壺の女御(大鳥れい)」も放送。平成19年(2007)に草野旦脚本・演出『源氏物語 あさきゆめみしⅡ』(春野寿美礼の光源氏)が、20年(2008)に大野拓史脚本・演出源氏物語千年紀頌『夢の浮橋』(瀬奈じゅんの匂宮、羽桜しずくの浮舟、霧矢大夢の薫、萬あきらの光源氏)が登場。なお、宝塚には現在、花・月・雪・星・宙の5組があるが、花組と月組は、大正10年(1921)、観客数の増加に対応するため第1部を「花組」、第2部を「月組」とする2組制で公演を行うようになった最も歴史ある組だという。
こうして見ると、映像や舞台の世界では物語で源氏の君に最も愛された紫の上より、葵上、六条御息所、明石の君、浮舟など薄幸な姫君たちが中心になる事が多いようだ。
写真 (左「浮舟」の中村勘三郎と中村歌右衛門 日本商業演劇史 - 国立国会図書館デジタルコレクション。右「空蝉」の舞台。水谷八重子と市川中車 日本商業演劇史 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
写真 (2015年の『新源氏物語』が上演された東京宝塚劇場の内観。日比谷の帝国ホテルの対面に21世紀の幕開けと共にリニューアルオープン。特徴的な尖塔のある建物のエントランスには赤い絨毯が敷かれ、光り輝くシャンデリアがエレガントな空間を演出。宝塚歌劇の夢の舞台を支える。東京宝塚劇場 | 宝塚歌劇公式ホームページ)
(6)香道
当時は貴族の日常生活に欠かせなかった香の文化は、香道に残り、物語にちなんだ「源氏香」という遊びは、重複しうる5種類の香木を焚いて、その異同を判じ、「源氏香図」と呼ばれる図柄で表す。「源氏物語」全54帖のうち、巻頭の「桐壺」と巻末の「夢浮橋」を除いた52の帖名が図柄となり、全52通りの組み合わせに付されているという。「2008年度 京都の美術・工芸展 源氏香の世界」によると、「簡素に幾何学的な図柄は意匠文様として好まれ、…『偐紫田舎源氏』が評判になりますと、木版刷りの錦絵にこの源氏香図がしばしば登場…源氏物のもてはやされる中、源氏香図は象徴のように多用…能楽や歌舞伎の舞台装置、蒔絵意匠、女性の小物の意匠、生活工芸品の透かし文様などさまざまなところにあしらわれ、…明治以降も…建築の壁面や釘隠し、欄間や襖の意匠などにも広がりを見せ…今も伝統的な源氏香図文様の和菓子が市販され…企業の商標や社章にも使われて」いるという。
写真 (京都、鴨川のほとり、六代目が昨年「現代の名工(和菓子製造)」を受賞した創業160年の和菓子の老舗「甘春堂」の「源氏の調べ」。源氏香図の「若紫」「紅葉賀」「須磨」「若菜下」を図案化した風雅なお干菓子。甘春堂提供「京都・京菓子の老舗 甘春堂 本店 | 会社概要」)
(7)源氏名など
辞書で「源氏」を引くと「源氏合」、「源氏絵」、「源氏絵合」、『源氏雲」、「源氏香」、「源氏国名」、「源氏酒」などと『源氏物語』にちなんだ言葉が出てくる。「源氏酒」(二組に分かれて源氏物語の巻名や人物名を応酬しつつする酒宴の遊戯)といっても源氏物語になじんでいない身にはちっとも酔えない気もするが、きっと知られているのは「源氏名」。「広辞苑」によると、「(1)源氏物語の巻名にちなんでつけられた女官の名。早蕨典侍、榊命婦など。のち武家の老女や遊女の呼び名。…(2)バーのホステスなどの、職業上用いる呼び名」だという。「夕顔」、「蛍」なら今でもありそうだし、「葵」や「若紫」だと高貴な感じもするかもしれないが、「雲隠」とか「夢浮橋」という人が出てきたらきっとたまげる。
(8)教育
「源氏物語」は、古くから学校教育でも取り上げられている。例えば、明治24年の文部省の「小学校教科用書 高等小学歴史」には、藤原氏の時代、「才媛輩出」の中で一条天皇の時代に多くの人材を輩出したが、女性の中で筆頭に出て来る紫式部は「石山寺ニ於テ、源氏物語五十四帖ヲ著ス。文辞精妙ナリ」と紹介されている。昭和18年(1943)の文部省の「初等科国語 教師用 第7」を見ると、若紫や紅葉賀の帖があり、「源氏物語の価値とその作者紫式部を紹介し、更にこの物語の極めて少部分を教材化して、すぐれた作品の一班を窺わしめようとするもの」で、「源氏物語五十四帖は、わが国の大小説であるばかりでなく、今日では世界的に批評され称賛されているのである。英國人ウェーリの翻譯以来、特に文芸批評家の注目する所となった。」という。
現在の高等学校の国語の教科書でも、例えば、三省堂のものでは「桐壺」、「若紫」の帖が取り上げられていて、大学入試でも出題。今年の大学入試共通試験の「国語」の古文で2014年の大学入試センター試験以来11年ぶりに源氏物語(若菜下の帖)が出題されたという。
写真 (昭和18年の文部省の教師用の初等科国語。紫式部を紹介し、最後のパラグラフに「源氏物語五十四帖今日では世界的に批評され称賛されている」とある。初等科国語 教師用 第7 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
写真 (紫式部が源氏物語を書いた屋敷があったという蘆山寺の節分の豆まき。)
5 おわりに
名前も生没年も知られていない紫式部。「紫式部日記」は、中宮彰子の当時の後宮の様子を知る貴重な資料だし、「現代語訳 小右記」によると、中宮彰子や実資からも信頼されていたのか、長和二年(1013)頃、「道長と彰子の確執も表面化し、実資は彰子と頻繁に接触する。その間の取次役を担ったのが、かの紫式部であった。」という。藤原定家の選んだ百人一首には、友との慌ただしい再会を惜しむ「めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に雲がくれにし 夜半(よは)の月かな」という紫式部の歌が残る。
彼女が源氏物語の着想を得たという石山寺は、「枕草子」、「蜻蛉日記」、「更級日記」にも登場する「平安文学開花の舞台」であり、源氏物語を書いたという屋敷跡は京都御所の近く、蘆山寺。節分の時には赤鬼、青鬼、黄鬼などが登場して盛大に豆まき。大河ドラマの影響もあるのか昨年の節分はさほど広くない境内は人で埋め尽くされた。
紫式部直筆の源氏物語は残っていないし、道長が「昼夜を忘れて」建立した法成寺は、40年後に焼失し。道長の時代に望月となった摂関政治もその子頼通が入内させた娘たちに皇子が生まれずに外戚関係が途切れて終焉。
それでも戦国の世を生き延びた細川幽斎は「嘗て世の中に便となる書はいかなる書に候かと問ひしに、幽斎、そは源氏物語なりと答えらる。歌学のためには何がよからむと問われて、それも源氏物語なり」と答えたと言うこの物語、武を好んだという家康も、将軍を秀忠に譲った後、大御所時代の記録「駿府記」によると大坂冬の陣の年、慶長19年(1614)7月21日、ある公卿から源氏物語講釈を聴いたという。奇しくもその日、家康は「大仏鐘銘、関東不吉の語、上棟の日、吉日にあらず。御腹立ちと云々」とあり、豊臣家に方広寺の鐘の銘文にクレームをつけて、大阪冬の陣へとつながっていく。慶長20年(1615)大阪夏の陣で豊臣を滅ぼした後も何度か源氏物語を聴いたという。
「源氏物語」は学校でも多くの生徒が習うなど今も様々な形で触れる機会があり、2024年にも静嘉堂文庫美術館で「平安文学、いとをかし ―国宝「源氏物語関屋澪標図屏風」と王朝美のあゆみ」が開催。最終日前に行ってみると1月の三連休中でもあり、見学者で大賑わい。また、2025年には、開館90周年を迎える徳川美術館では、4月12日から「初音の調度」を全点一挙公開、11月15日から「源氏物語絵巻」の全巻一挙公開を予定。千年の時を超えて読み継がれ、語り継がれてきたこの物語は、人間の本質が変わらない限り、今も、そして、きっとこれからも人の心に響くものがある。
写真 (「平安文学、いとをかし ―国宝「源氏物語関屋澪標図屏風」と王朝美のあゆみ」が開催された丸の内の静嘉堂美術館の美術品のようなロビー。実物を見ながら聴ける! ギャラリートーク - 静嘉堂文庫美術館)
(主な参考文献)
「源氏物語 巻七~巻十」瀬戸内寂聴訳、講談社、1997年
学び|公益財団法人 お香の会
「日本の歴史5 王朝の貴族」土田直鎮、中央公論新書、1973年
「藤原道長『御堂関白』(上)、(中)、(下)全現代語訳」、倉本一宏、株式会社講談社、2009年
「藤原道長『御堂関白記』を読む」、倉本一宏、株式会社講談社、2013年
「藤原行成『権記』上、中、下、全現代語訳」倉本一宏、株式会社講談社、2011年
「栄花物語全註釈」(二)、(三)、松村博司、株式会社角川書店、1976年
「源氏物語 愛蔵本巻十六~巻二十六」谷崎潤一郎譯 山田孝雄校閲、中央公論社、1939年
「新潮日本古典集成(第八二回)大鏡」、石川徹校注、株式会社新潮社、1989年
「天皇の歴史3 天皇と摂政関白」、佐々木恵介、株式会社講談社、2018年
「新潮日本古典集成(第五四回)蜻蛉日記」、犬養廉校注、株式会社新潮社、1982年
「現代語訳 小右記5~8」、倉本一宏編、吉川弘文館、2017年
「小右記と王朝時代」、倉本和弘、加藤友康、小倉慈司編、吉川弘文館、2023年
「源氏物語講座 第八巻 諸本・源泉・影響・研究史」、山岸徳平・岡一男監修、有精堂出版株式会社、1977年
「源氏物語の本文と受容 源氏物語講座8」、(株)勉誠社、1992年
「紫式部日記・紫式部集」、山本利達校注、株式会社新潮社、2016年
「新潮日本古典集成(第三七回)更科日記」、秋山虔校注、株式会社新潮社、1980年
源氏物語湖月抄 初篇 - 国立国会図書館デジタルコレクション
「文化人の暮らし 身近に 『よみうり抄』書籍化」2025年2月18日 読売新聞朝刊
「新訳源氏物語 上巻」、与謝野晶子訳、大鐙閣、1925年
「新新訳源氏物語 第六巻」、与謝野晶子訳、金尾文淵堂、1939年
「近代の享受と海外との交流 源氏物語講座9」、(株)勉誠社、1992年
「六百番歌合 新日本古典文学大系38」、校注者久保田淳、山口明徳、株式会社岩波書店、1998年
細川幽斎 - 国立国会図書館デジタルコレクション
「ドナルド・キーン著作集 別巻・補遺:日本を訳す/書誌」、ドナルド・キーン、株式会社新潮社、2020年
「ドナルドキーン著作集 第7巻」、株式会社新潮社、2013年
「ウェイリー版 源氏物語」、紫式部、アーサーウェイリー英語訳、佐復秀樹日本語訳、平凡社、2008年
徳川美術館について - 名古屋・徳川美術館|The Tokugawa Art Museum
公益財団法人 五島美術館 (gotoh-museum.or.jp)
静嘉堂文庫美術館 - 東京・丸の内にある美術館。国宝7件、重要文化財84件を含む、およそ20万冊の古典籍(漢籍12万冊・和書8万冊)と6,500件の東洋古美術品を収蔵。
「源氏物語」円地文子、学研、1979年
曲目解説「葵上」
「決定版 三島由紀夫全集、22巻 戯曲2、28巻 論評3」、三島由紀夫、株式会社新潮社、2003年
歌舞伎座『源氏物語』特別ビジュアル公開|歌舞伎美人 (kabuki-bito.jp)
「映画の中の古典芸能」、神山昭・児玉竜一〔編〕、森話社、2010年
「特別企画「源氏物語」|ドラマ・時代劇|TBSチャンネル - TBS」
源氏物語|ドラマ・時代劇|TBSチャンネル - TBS
日本商業演劇史 - 国立国会図書館デジタルコレクション
「あさきゆめみし1」、大和和紀、講談社、2001年
『新源氏物語』の魅力 | 花組公演 『新源氏物語』『Melodia -熱く美しき旋律-』 | 宝塚歌劇公式ホームページ
「白井鐵造と宝塚歌劇『レビューの王様』の人と作品」、田畑きよ子、青弓社、2016年
遺影は光源氏…春日野さん「宝塚歌劇団葬」に1000人― スポニチ Sponichi Annex 芸能
「新源氏物語一」、田辺聖子、株式会社新潮社、2015年
「2008年度 京都の美術・工芸展 源氏香の世界」、香文化資料室 松栄堂 松栄文庫、2008年
「広辞苑 第六版」、新村出編、岩波書店、2008年
高等小学歴史 1冊 - 国立国会図書館デジタルコレクション
「戦国資料叢書6 家康史料集」、小野信二校注、人物往来社、1965年