このページの本文へ移動

路線価でひもとく街の歴史

第61回 島根県松江市
バイパス道と浄化事業で再生した水の都

山陰の中心としての松江
 松江は宍道湖(しんじこ)畔の城下町で「水の都」と呼ばれる。宍道湖は大橋川を抜けて中海(なかうみ)とつながり、鳥取県の境港から日本海に通じる。城下町は大橋川をまたぎ、松江大橋(大橋)を境に北側が橋北(きょうほく)、南側は橋南(きょうなん)と呼ばれる。橋北の松江城は江戸時代以前に建てられた天守が現存する12城の1つだ。版籍奉還時の城主は松平氏で、7代当主の不昧(ふまい)こと治郷(はるさと)は茶道不昧流を起こした茶人として知られる。
 伝統的に、湖上水運を介した経済・生活圏の一体性が認識されてきた。呼び方の1つが「中海(なかうみ)・宍道湖(しんじこ)圏」だ。松江市、出雲市、安来市、鳥取県米子市、境港市そして日吉津村の6市村から成り、山陰2県の中枢を担っている。例えば山陰2県をサービス提供エリアとする業種に銀行と放送がある。山陰合同銀行の本店は松江市、3つあるテレビ局も山陰2県を視聴範囲としており、うち2局が松江市、米子市に本社がある。
 山陰地方を180度回転した重ね地図(図1 山陰の重ね地図)を見ると、東西の長さは東京-名古屋間とほぼ同じで新潟県を細くしたような形だとわかる。人口は約122万人で、この約半分の60万人が中海・宍道湖圏に住む。集中度は新潟県における新潟市のそれを上回る。中海・宍道湖圏は東西70kmで、東京都より一回り小さい。その中で、松江は政治と金融、米子は経済と交通の中心で、群馬県における前橋と高崎の関係のように思われる。

白潟本町と末次本町と大橋
 島根県統計書によれば、明治14年(1881)から同25年(1892)まで、宅地の最高地価は八軒屋町(はっけんやちょう)にあった。町名は他国問屋兼宿屋が八軒あったことにちなむ。中海・宍道湖の湖上水運の拠点だった松江において、湊があった八軒屋町が城下町の玄関口だった。明治には汽船の発着場となり、昭和に入ると浚渫され、海から隠岐航路の船が入港できるようになった。
 明治35年(1902)の最高地価地点は八軒屋町に隣接する、街道沿いの白潟本町(しらかたほんまち)となっていた。明治44年(1911)の「松江市宅地等級概況」によれば、白潟本町のうち大橋南詰が80等級で最も高く、次いで70等級後半が白潟本町と対岸の末次本町(すえつぐほんまち)に分布していた。大橋両詰の2つの本町は、松江の中心街の通称として両町(りょうちょう)とも呼ばれた。
 大橋の賑わいは小泉八雲が書いた『知られぬ日本の面影』からもうかがえる。「手を拍つ音が歇(や)んで、一日の仕事が始まり出す。からからと下駄の音が、漸次高く響いてくる。大橋の上で下駄の鳴る音は、何うしても忘れられない――速くて、陽気で音楽的で、盛んな舞踏の音のやうだ」の一節だ。京橋河岸の「カラコロ広場」をはじめ、市内のまちづくり施設につけられた「カラコロ」はこの一節に由来する。小泉八雲ことラフカディオ・ハーンは明治24年(1891)6月から5ヶ月間松江の屋敷に起居していた。今秋から始まるNHK朝ドラ「ばけばけ」は松江藩小泉家の次女、小泉セツと小泉八雲をモデルにした話だ。
 銀行は両町に集中していた。例えば、松江初の銀行は三井銀行で末次本町にあった。早々に撤退し、明治17年(1884)6月に第三国立銀行が進出。三井銀行が担っていた県の公金業務を引き継いだ。松江にも明治11年(1878)創業の第七十九国立銀行があったが、業績が振るわず明治34年(1901)に営業停止している。第三国立銀行は明治9年(1876)の開業でみずほ銀行の源流の1つである。現在のみずほ銀行小舟町支店の場所に本店を構え、大阪、横浜に次ぐ3番目の支店を松江に置いた。明治30年(1897)に鳥取県を地盤とする第八十二銀行を統合したため、鳥取、米子、倉吉、境港にも支店があった。島根県には今市(出雲市の中心部)、西郷(隠岐の島)にも支店があり、大正12年(1923)に安田銀行と合流した時点の店舗網は東京3、神奈川2、大阪6、函館、山陰7だった。明治34年(1901)まで島根県金庫の任を預かるなど山陰に根を下ろしていた。明治37年(1904)に建てられた土蔵造りの行舎が現存している(図3 旧第三国立銀行松江支店)。昭和20年(1945)4月、後継の安田銀行が天神町にあった旧山陰貯蓄銀行の行舎に移転した後、「かげやま呉服店」が店舗を引き継いで現在に至る。安田銀行は戦後に改称して富士銀行となり、昭和44年(1969)、日本勧業銀行に行舎と営業を譲渡して撤退した。安田銀行が行舎を譲り受けた山陰貯蓄銀行は明治29年(1896)4月の設立で白潟本町にあった。天神町に行舎を新築して移転したのは大正4年(1915)である。富士銀行が行舎を譲渡した日本勧業銀行は明治31年(1898)に創業した松江農工銀行が前身で殿町にあった。
 山陰合同銀行は、松江銀行と宍道湖西岸の出雲エリアを発祥とする雲陽実業銀行が統合して1県1行となり、さらに鳥取県西部を地盤とする米子銀行が統合して成立した銀行である。このうち松江銀行は明治22年(1889)8月の創業で、当初は天神町にあったが、明治36年(1903)に白潟本町に移転した。昭和28年(1953)に本店を新築。平成9年(1997)、1筋奥の現在地に14階建の新本店を新築した後、旧本店は「白潟ギャラリー」として活用されていた。その後老朽化で解体され、現在は駐車場になっている。
 雲陽実業銀行は明治30年(1897)に簸川(ひかわ)郡今市町で創業した簸川(ひかわ)銀行が発祥で、出雲地区に地盤を築いていた。県都松江に本店を移し雲陽銀行と改称、米子に本店を構えていた山陰実業銀行と合併して雲陽実業銀行となった。京橋川の河岸にある「ごうぎんカラコロ美術館」が本店だった。元々ここには明治45年(1912)開業の八束貯蓄銀行の本店があった。現存する建物は八束銀行に改称後の大正15年(1926)に新築したものだ。後に雲陽実業銀行の本店になった。山陰合同銀行に合流してから北支店となる。
 同じ並びには日本銀行の松江支店が大正7年(1918)に開設されている。長野宇平治(うへいじ)が設計した昭和13年(1938)築の2代目行舎は支店の移転後も解体されず、平成12年(2000)に改装されて「カラコロ工房」となった。内部は工房を兼ねたアンテナショップで、地元発の工芸雑貨品が並んでいる(図4 旧日銀支店と京橋川と遊覧船乗り場)。
 戦後も両町が松江の中心だったが、昭和32年(1957)の路線価図をみると、末次本町の路線価が坪5万円で白潟本町を1,000円上回っていた。昭和35年(1960)初出の地点名は、「末次本町やぐもや菓子店前末次本町通」だった。わずかな差だが、白潟本町から末次本町へ最高地価地点が移っている。背景の1つに一畑電気鉄道(一畑電鉄)の開業があったと思われる。一畑電鉄は出雲今市駅(現・出雲市駅)から一畑薬師最寄りの一畑駅まで大正4年(1915)に開通した。昭和3年(1928)に一畑駅の1つ手前の小境灘駅(現・一畑口駅)から“人”の字型に分岐して北松江駅(現・松江しんじ湖温泉駅)まで延伸した。
 松江初の百貨店は末次本町の北側、京橋の通りの殿町(とのまち)にあった。昭和33年(1958)10月に開店した5階建の一畑百貨店である。昭和59年(1984)に分社化するまでは一畑電鉄(百貨店部)の直営だった。創業に三越の支援を得ている。当時三越常務だった松田伊三雄(後の社長)が終戦時の京城支店長で、京城支店の納入業者の会の会長が松江出身者だった。一畑電鉄の山本孝吉社長が当の会長を介して松田常務との縁を得た。松田常務が復員社員の再就職先を探していた経緯もあって話が進み、三越から初代店長と7~8人の課長級人材が創業メンバーとして入社した。店員の集合研修は三越大阪支店が受け入れた。昭和46年(1971)には株式持ち合いを含む広範な提携に発展。その後も三越の関係百貨店として歩んできた。

駅前の隆盛から百貨店の閉店まで
 昭和57年(1982)、最高路線価地点が「松江市朝日町明治生命館前駅前通り」となった。第37回国民体育大会、通称「くにびき国体」が開催された年である。
 松江に鉄道が開通したのは明治41年(1908)11月だ。山陰本線が起点の京都駅につながったのは明治45年(1912)で、下関まで全通したのは昭和8年(1933)だった。昭和4年(1929)、駅の東南に松江片倉製糸が開業してから少しずつ人通りが増えてきた。
 駅前地区に初めてできた大型店は、昭和48年(1973)4月の協同組合やよいデパートだった。一畑百貨店を上回る大型店の登場で人の流れが駅前に移っていく。昭和50年(1975)4月には地元スーパーとの合弁で立ち上がった山陰ジャスコの松江店が開店した。
 そして、昭和56年(1981)、駅前再開発事業に伴って6階建の再開発ビル「ピノ」が完成。6月、ジャスコを核テナントに協同組合松江駅前ショッピングデパートが入居した。駅前再開発は国体開催に向けた都市改造の一環で、同じ年に大橋川を渡る4本目の橋、「くにびき大橋」が、国体が開催された昭和57年には高架化された松江駅をくぐり、市街地の東縁を南北に貫く「くにびき道路」が暫定的に開通している。
 要するに、松江の場合、駅前に街の中心が移る決め手となった都市改造は、同時に郊外化の端緒にもなった。くにびき道路の整備に伴う区画整理事業で北東郊外に新たな街が造成され、平成以降、「学園通り」に沿ってロードサイド商業拠点が発展した。郊外大型店のはしりは、ピノと同じ昭和56年に開店した。協同組合松江ショッピングプラザの「アピア」である。
 昭和57年(1982)、一畑百貨店は駅前に対抗して本店向かいに新館を増築。ツインタウンと称した。12年後の平成6年(1994)、JR松江駅の南東、松江片倉製糸の跡地に「松江サティ」(現・イオン松江SC)がオープンした。当時のスーパー大手のニチイ系列、マイカルグループのGMSだ。駅前で競合したやよいデパート、次いでピノ・ジャスコが撤退。平成10年(1998)4月、空ビルに一畑百貨店が移転した。一方で移転元の殿町、末続本町の衰退が進む。
 もっとも、一畑百貨店の売上は平成13年度をピークに減少に転じる。百貨店業態の商圏と見込まれる中海・宍道湖圏を俯瞰すると、2000年前後から出雲、米子エリアに巨艦モールが出店している。まずは平成11年(1999)、米子エリアに圏域最大の店舗面積47,000m2を擁するイオンモール日吉津。出雲エリアには平成20年(2008)、平成28年(2016)に30,000m2クラスのゆめタウン出雲、イオンモール出雲が出店した。ネット通販の普及にコロナ禍が追い打ちをかける形で令和6年1月14日、一畑百貨店が閉店した。島根県は山形、徳島に続き百貨店がない県となった。

バイパス道と浄化事業で甦った水の都
 街なかを縦横に巡る堀川の景観も松江が「水の都」と呼ばれる所以である。京橋川、松江城の外堀を約50分かけて一周する松江堀川遊覧船「ぐるっと松江堀川めぐり」は平成9年(1997)7月に始まった。約15分間隔の運航で、特に予約なしで乗ることができる。
 新潟をはじめ、かつて縦横に堀川を巡らされた街は多い。もっとも都市化に伴う車道の拡幅のため、生活排水の流入による水質汚濁のために埋め立てられる例が多かった。松江市でも京橋川の埋立が度々提起され、昭和38年(1963)に決定された経緯もある。にもかかわらず、水の都の景観が残っている理由の1つが、埋立が提起される度に保存すべきという議論があったことだ。そして、昭和47年(1972)に宍道湖湖水の堀川への導水、底泥の浚渫、下水道整備を3本柱とする浄化事業が始まる。昭和55年(1980)には青年会議所による「よみがえる堀川の会」が発足した。浄化事業に前後して旧市街を迂回する道路の整備も始まる。市街の西縁に宍道湖大橋、東縁には前述のくにびき大橋が完成。橋に通じるバイパス道の整備が進むにつれ、京橋川を埋めて広幅道路を通す必要性も低くなった。平成に入ると市街地のさらに外縁を迂回する道路の整備が進む。1つが東西軸の山陰自動車道、もう1つが南北軸の松江だんだん道路である。
 一畑百貨店が駅前に移転し、旧城下町から買い物客の賑わいはなくなったが、それがかえって閑静な水の都としての魅力を高めている。商業都心としては弱みだった城下町の区画が残る狭い道も、住まう街として、まち歩きを楽しむ観光都市としては強みとなった。

プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。主著に「公民連携パークマネジメント:人を集め都市の価値を高める仕組み」(学芸出版社)

図2 市街図
図5 広域図