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路線価でひもとく街の歴史

第60回 鳥取県米子市
大山を借景に町家が映える山陰の商都

 米子市は県都鳥取市に次ぐ2番手都市だ。もっとも鳥取県西部地域の中心都市としての独立性は高い。鳥取藩の藩庁、今は県庁所在地の鳥取市が因幡国の中心であるのに対し、米子は伯耆国の中心である。県都の政治都市に対する経済都市の意味合いから「商都」と呼ばれる。大阪に陸路で向かうとすると、鉄道なら伯備線で岡山駅に行き新幹線に乗り換える。自動車なら米子自動車道から岡山県の落合JCTで中国自動車道に乗る。いずれにせよ県都鳥取市を通らない。
 鳥取、島根両県を合わせた山陰地方としてまとめられることもあり、その場合、米子は隣接する松江と並び山陰の中心と位置づけられる。実際、廃藩置県直後の再編期、明治9年(1876)から明治14年(1881)まで、現在の島根県と鳥取県を合わせた地域が「島根県」だった。米子市、米子市に3方を囲まれた日吉津村、弓ヶ浜半島の端にある境港市、島根県松江市、安来市そして出雲市を合わせて「中海(なかうみ)・宍道湖(しんじこ)圏」の人口は60万人で、山陰120万人の約半分が集中している。
 米子は、中海に面した港町でもある。“海”といっても、淡水と海水が混ざり合った「汽水(きすい)」の湖、汽水湖である。元々は日本海に開いた湾だったが、砂州でふさがれてできた。東側は境水道を通過して日本海へ、西は大橋川を通って宍道湖に抜ける。中海に面した米子湊に流れるのが加茂川である。米子湊から市街地に引き込まれた運河でもあり、米子城の外堀も兼ねている。北前船の寄港地でもあり、廻船問屋の屋敷や蔵もあった。そのシンボルが国指定重要文化財の後藤家住宅である(図1 京橋、後藤家住宅と大山の景観)。明治期に養子となった11代当主、後藤快五郎(かいごろう)は米子の鉄道整備に尽力し、その功績から郊外に後藤の名前を付けたJR境線後藤駅と後藤総合車両所(車両基地・工場)がある。
 米子城は鳥取藩の2番目の城である。徳川幕府が発した一国一城令の例外として破却を免れた。藩主池田家の家老の荒尾氏が代々城を管理し、米子城下町を受託統治していた。これを「自分手政治」といった。

立町で開店した米子初の銀行
 米子湊に多数の舟が出入りしていた海運の時代、米子の商業中心地は加茂川に架かる京橋近辺だった。橋のたもとには城下町の高札場もあった。
 米子初の銀行は明治15年(1882)、鳥取市に本店を置く第八十二国立銀行の米子出張所である(長野市本店の八十二銀行とは別)。当初は岩倉町にあったが、支店昇格後、明治18年(1885)に立町一丁目に移転した。業績不振となり、明治30年(1897)、安田銀行系列の第三銀行に吸収される。以降、第三銀行の米子支店となった。明治42年(1909)に四日市町に移転。大正12年(1923)に再編され安田銀行になる。戦後は富士銀行となった。昭和47年(1972)、鳥取銀行に譲渡された。昭和33年(1958)築の建物は現存している。
 米子に本店を構える銀行で最も早いものは明治27年(1894)2月に東倉吉町(ひがしくらよしまち)で開店した米子銀行である。現在は米子信用金庫本町支店がある場所だ。大正9年(1920)に同じ町内で20m東に移る。昭和16年(1941)には松江銀行と合併して山陰合同銀行になった。米子銀行を立ち上げたのは坂口平兵衛(初代)である。坂口家は元々木綿仲買業を営んでいたが、明治に入り製糸業に転身。産業資本家として、米子汽船、米子倉庫、米子製鋼所、山陰電気等の起業に関わった。病院や学校の設立にも貢献し、米子を代表する大地主でもあった。坂口平兵衛は明治に立ち上げた名跡でその後も継承され、現在は4代目だ。代々米子商工会議所の会頭を務めている。

中心は法勝寺町へ
 最高地価の初出は明治43年(1910)の鳥取県統計書である。この時点では米子の最高地価は「米子町大字法勝寺町(ほっしょうじまち)」だった。明治後期にかけて、京橋界隈から境港往還に沿って米子の中心が内陸に移ってきたことがうかがえる。法勝寺町は、出雲街道、山陰街道、境港往還が交差する場所にあった。米子は、姫路を起点に津山を経由し出雲大社を目指す出雲街道の街でもある。法勝寺町には、後に米子銀行と合併し山陰合同銀行となる松江銀行の米子支店もあった。大正7年(1918)の進出時は紺屋町にあったが、昭和6年(1931)に移転してきた。道府県の最高地価が掲載されている大蔵省主税局統計年報書を調べると、明治43年は県内の最高地価が鳥取市から米子に移った年でもある。以降、戦前で最も新しい昭和9年(1934)まで米子だった。
 戦後、昭和32年(1957)の路線価図をみると、米子の最高路線価は法勝寺町と同じ通りの隣町、四日市町(よっかいちまち)、紺屋町(こんやまち)になっていた。戦災を受けなかったため、戦前戦後を経た街の変化は小さい。今も城下町以来の区画をよく残しており、当時の小径も多い。

鉄道の町・米子と駅前の時代
 最高路線価の地点名の初出は昭和48年(1973)で、「明治町日本交通バス待合所前通り」だった。この時点で一等地は駅前に移っていた。京橋界隈から法勝寺町へ、米子の街の中心が湊から内陸に移る引力となったのも駅である。米子に初めて鉄道が開業したのは明治35年(1902)11月。明治5年(1872)10月、新橋-横浜間にわが国で初めて鉄道が開業してから30年目だった。山陰地方でも初めての鉄道であることから、米子は国鉄が公式に認定する12の「鉄道の町」の1つに選ばれており、これを顕彰した「山陰鉄道発祥の地」の碑が米子駅前にある。資材輸送の都合で境港駅(当初は「境駅」)から線路が延び、米子駅でスイッチバックして20km東の山陰本線御来(みくり)屋(や)駅までが第1期開業となった。後に米子から安来、松江方面に山陰本線が延伸されてから、米子駅-境港駅の間は支線となった。現在の境線である。明治45年(1912)に京都駅から出雲今市駅(現・出雲市駅)まで全通する。日本の東西幹線と連絡したことから、大正以降、海運から鉄道へ交通手段の交代が進んだ。

角盤町にできた大型店街
 国勢調査から米子市の人口の推移をみると、平成17年(2005)のピークでも15万人弱である。それでも百貨店が2店あり、現在まで営業を続けていることから、米子の拠点性の高さと商圏人口の広さがうかがえる。
 米子の戦後商業史をまとめると、まずは昭和34年(1959)、紺屋町から法勝寺町にかけて、そして山陰・出雲街道に沿って駅前までL字形の道筋に、山陰地方で初めてのアーケード商店街ができた。昭和38年(1963)12月、駅前の日ノ丸自動車のバスターミナルを包み込む形で「米子ストア」が開店した。米子ストアは鳥取市に本店を構える百貨店「鳥取大丸」の子会社で、鳥取大丸の持分を日ノ丸自動車や百貨店大手の大丸が保有していた。
 昭和39年(1964)4月、角盤町(かくばんちょう)に5階建の米子高島屋が開店した。最上階に大食堂を備えた都市型百貨店だった。昭和45年(1970)9月、前面を走る国道9号線の拡幅に伴い、立ち退いた商店と地元スーパーの丸合が協同組合を設立し、高島屋向かいに寄合百貨店「やよいデパート」を開店した。翌年12月、米子ストアは百貨店に業態転換し、看板も米子大丸に変えた。昭和56年(1981)11月、高島屋とやよいデパートに挟まれた角盤町商店街にアーケードが架かった。「える・もーる1番街」である。
 昭和58年(1983)、最高路線価地点がえる・もーる1番街の「角盤町一丁目ニュー落合時計店」となる。角盤町は元々桑畑が広がる郊外だった。図2 市街図を見ると角盤町から境線までの一帯が碁盤の目状の区画であることがわかる。明治末期、鉄道開通の頃に区画整理されたエリアで、山陰本線全通記念の全国特産品博覧会の会場や、角盤高等小学校、啓成小学校が配置された。戦後、角盤高等小学校が米子市公会堂に、啓成小学校は米子高島屋になった。

ロードサイド店の席巻
 昭和43年(1968)、外浜産業道路が開通。拡幅された国道9号線とともに郊外のバイパス道路となった。その後、自動車の普及につれて、バイパス沿いにロードサイド店が出店するようになった。郊外大型店で最も早いのは、法勝寺町にあった衣料品店「菊屋」の子会社による「米子ホープタウン」である。最高路線価が角盤町となる前年の昭和57年(1982)7月の開店だった。全国で総合スーパー(GMS)を展開していたニチイ(後のマイカル)との提携、米子サティへの名称変更等を経て令和4年1月末に閉店。店舗は改装され、MEGAドン・キホーテとして昨年再開店した。
 他方、米子大丸は苦戦を強いられていた。大丸グループから離脱し、岡山に本店を構える百貨店の天満屋が経営を引き継ぐことになった。持分譲渡されたのは昭和61年(1986)4月だが、「米子大丸」のまま営業が継続されていた。平成2年(1990)、国道9号線・外浜産業道路と皆生街道が交差する場所に、郊外型百貨店を開店し、「米子しんまち天満屋」として移転することになった。地元商店街の2代目が中心となって立ち上げたショッピングセンター(SC)「米子しんまち」の核テナントで、当時は山陰最大とうたわれた。
 米子駅前には平成2年(1990)、「米子サティ」が開店した。第三セクターの米子市開発公社が駅前活性化を目途に再開発ビルを建て、マイカルグループ(元のニチイ)のサティが入居した。相次ぐ大型店の出店で、平成3年(1991)には米子市の吸引力が山陰トップになっている。その後、米子サティは同じマイカルグループのホープタウンと棲み分けを図り、平成8年(1996)に「米子ビブレ」に業態転換。後に再びサティに戻したが、親会社がイオングループとなったことから現在はイオン米子駅前店となっている。
 平成7年(1995)、最高路線価地点が「明治町日本交通米子営業所」と再び駅前になった。郊外大型店に対する角盤町の退潮は否めなかった。

遠心する商業拠点と求心する街の兆し
 その後、商業拠点はさらに遠心する。平成4年(1992)に米子自動車道が米子ICまで、その翌年には国道431号線が開通する。そして平成11年(1999)3月、日吉津村に「イオンモール日吉津」(当時はジャスコ日吉津)がオープンした。米子ICから続く、国道431号に面した場所にある。売場面積は36,589m2で、開店当時は山陰最大とうたわれていた。
 旧街道沿いのアーケード商店街はシャッターを閉じたままの店が目立つようになり、角盤町の大型店も影響を受けた。平成28年(2016)1月、やよいデパートが閉店する。そして高島屋も撤退することとなった。令和2年3月、米子高島屋の持分は地元でTSUTAYAやコナミスポーツクラブ等を運営するジョイアーバンに譲渡された。当社は、米子市が平成29年(2017)に譲り受けた高島屋旧東舘の改装・運営を受託した実績があった。屋号は「JU米子高島屋」(JU=JOY URBAN)となった。資本関係は無くなったが、高島屋は引き続き商標使用を認め、商品供給等の支援を継続している。チラシも髙島屋時代のままだ。
 米子の街の歴史を俯瞰すると、法勝寺町を旧街道由来の街として、角盤町から外浜産業道路、さらに国道431号線に商業拠点が遠心していることがわかる。他方、旧街道に沿った旧市街も、商業に代わる「歩く街」として再生の兆しがうかがえる。「米子の町屋・町並み保存再生プロジェクト」が平成26年(2014)までに調査したところ、米子の城下町周辺にある2,754軒の家屋のうち、約4分の1の718軒が町家であることがわかった。商店街に特有の、正面をファザードで覆った「看板建築」もまだ多く、本格的な修景がこれからであることを考えれば、将来にわたる大きなポテンシャルを秘めている。
 図1で示したように、米子湊から加茂川を遡上すると左手に京橋、右手に後藤家住宅が収まるアングルになる。建物や電柱に遮られうまく撮れないが、頂に白雪を抱いた大山が背景となる。運河の設計者はこの景観を米子の第一印象とするため、あえて流路にカーブを付けたのではあるまいか。図5 旧市役所(市立山陰歴史館)と米子城址(天守閣筆者加筆)は米子城址を背景とした旧市役所の写真である。四層五重の天守閣が復元されればさぞ「インスタ映え」することだろう。
 法勝寺町を中心とするL字経路の商店街のアーケードは撤去され、歩いて楽しい遊歩道に生まれ変わった。境港往還に由来する商店街の先は加茂川と町家のエリアとなり、15分ほど歩くと米子湊に抜ける。地元で愛される百貨店の賑わいもありながら、コンパクトで静かな街へ変わりつつある。

プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。主著に「公民連携パークマネジメント:人を集め都市の価値を高める仕組み」(学芸出版社)

図3 広域図
図4 加茂川と土蔵